DEAD OR BASEBALL!

oz【MAIL

Vol.84 10年の月日
2002年08月22日(木)

 智弁和歌山・北野誠之の打球が、明徳義塾の遊撃手・森岡良介の前に転がる。森岡はそのボールをすくい上げ、セカンドベースを踏みながら一塁手・山口秀人に転送した。ダブルプレー。智弁和歌山の最後の反撃の芽が摘み取られたとき、森岡の目からは涙が溢れ出していた。

 第84回全国高等学校野球選手権大会決勝戦。9回表、智弁和歌山最後の攻撃。スコアは7−2で明徳義塾がリード。二死無走者。

 桐光学園主将・船井剛が選手宣誓で誓った「熱い、熱い夏」、その最終章が迫ってきていた。

 馬場優司の止めたバットが打球を受け止め、力の無いゴロが三塁手・梅田大喜の前に転がる。梅田が落ち着いた送球を山口に送る。明徳義塾に初めての歓喜が広がる。その時、明徳ベンチの中で監督・馬淵史郎は人目もはばからず泣いていた。



 10年前の熱い夏、明徳義塾は、いや馬淵は、日本中を向こうに回した大ヒールになった。彼にとって、“信念ある呪縛”の始まりだった。

 92年8月16日、石川代表の対星陵戦。この試合の焦点は、石川はおろか全国を代表する超高校生級スラッガーの松井秀喜(現巨人)に対して、明徳がどのような対策で臨んでくるか。その1点だった。馬淵は試合前の取材に対して、『(松井対策は)分かっています』とだけ答えていた。小さな返事だったという。

 怪物級のスラッガーと呼ばれた希代の左打者に対して、馬淵ほどの人間でなくても野球を少しかじった経験のある人間なら、「敬遠」というものが作戦の一つであることぐらいは理解している。そして、場合によってはそれが最良の策であるということも。

 しかし、よもやここまで徹底した策に出ることは多くの人が予測していなかったに違いない。馬淵が背番号8を背負って先発のマウンドに上る河野和洋に指示したこと、それは全打席敬遠だった。1点もやれない、ソロホームラン1本でも松井に打たせたら流れが持っていかれる……馬淵にとって修羅の選択であったことは想像に難くない。

 高校野球で、甲子園のグラウンドに物が投げ込まれるのを見た時は、その時が最初で最後だったかも知れない。勝利の校歌は罵声とブーイングに掻き消された。宿舎には3000本を超す抗議電話がかかってきた。非難の嵐は、高校野球ファンやマスコミの論調を経て止めど無く巨大化していった。

 『選手には可哀想だったが、当時の戦力で勝つ確率を考えたら、そうするしかなかった』……馬淵は自分の指示であることを淡々と認めた上で、『勝たなアカンのです。ベスト8で初めて見えるものがあるし、ベスト4では、また違ったものが見える。子供達に、どうしてもそれを見せてやりたい』と言い続けた。馬淵は全てを受け止めているようだった。



 10年の月日が流れた。馬淵も10の歳を重ね、常に「あの馬淵」と言われる中で確かに掴んできたものがある。

 3回戦の対常総学院戦、2点ビハインドの絶体絶命の8回裏、沖田浩之が起死回生の同点2ランを放ち、続く森岡が勝ち越しの特大ソロを放った。その時馬淵は、手を突き上げて飛び跳ねていた。かつての刺々しさを漂わせた“鬼軍曹”からは想像もつかない光景だった。

 準決勝の対広陵戦、梅田がスクイズに失敗して得点機を潰しかけたが、直後に三塁打を放ってミスを取り返した。馬淵は試合後、『1年生にスクイズさせる監督がヘボなんです。最初から打たせるべきやったね』と話している。

 明かに目線が低くなっている。丸みを帯びたその物腰からは、敗戦の中で培った「敗者の心理」がどこか作用しているように思える。敗者の痛みを知ったからこそ、失敗を無闇に責めず、選手と喜びを爆発できるようになったのでは・・・そう思えて仕方無いのだ。



 ある光景を思い出す。4年前、あの日も暑い日だった。

 98年夏、明徳義塾は準決勝で松坂大輔(現西武)を擁する横浜と対戦した。6点差を終盤2イニングで引っ繰り返される大逆転負けを喫したが、その死闘には全国の高校野球ファンから称賛が寄せられ、5打席連続敬遠で作られた「明徳・馬淵=ダーティー」のイメージは薄らいだように思える。見ているこちらも、少し肩の荷が下りたように思えた。

 あの試合、9回裏に柴武志の打球がセカンドの頭上を越して芝の上にポトリと弾んだ時、明徳義塾の夏は終わった。あまりにも唐突で、劇的と言うにはあまりにも残酷な幕切れ。マウンド上の寺本四郎(現千葉ロッテ)はうずくまって立ち上がれなかった。逆転のきっかけを許しリリーフから一塁に回っていた高橋一正(現ヤクルト)は、受け入れ難い事実に呆然としていた。馬淵は努めて淡々と振り返る。『ああなったら、選手にも監督にも止められんからね。得点差じゃなくて、流れを大事にせんとあかん』 野球の怖さを思い知らされたようだった。

 サヨナラ負けのショックを振りほどけないまま、寺本は他のナインに肩を担がれて整列に加わった。顔は涙でグシャグシャだった。歓喜に沸く横浜の選手とは対照的に、痛々しいまでに残酷な光景に映った。

 その時だった。礼の後、泣きじゃくる寺本の肩を抱いて言葉を交わす横浜のユニフォーム。泣きじゃくっていた寺本は、全ての想いを吐露するように必死に応じる。たった数秒の光景だったが、たまらなく長い“会話”だった。

 松坂だった。

 横浜が勝った時、奇跡的とも思える大逆転、そして地元の高校が勝ったということで、私は興奮のあまり寺本を始めとした明徳の選手達の心情を察することができなかった。歓喜以外の感情を抱く余裕が無かったと言った方が正しいだろうか。目の前の劇的な光景に目を奪われて、歓喜と残酷のコントラストに目を配ることができなかった。その時私は甲子園にいた訳ではない。ブラウン管の前にいるというのに、である。

 前日に250球を投げた松坂は、この試合では先発のマウンドを2年の袴塚健次に譲りレフトのポジションに入っていた。袴塚とリリーフの斉藤弘樹が6点のビハインドを背負いながら、打線が8回に奮起し2点差まで食い下がる。松坂は自ら右腕のテーピングをはがし、その攻撃の傍らでキャッチボールを行った。9回にマウンドに上がった松坂はその回を3人で抑え、そして逆転劇に結び付けた。そんな松坂に喜びが無い筈が無い。それでも松坂は、この年の明徳を引っ張り、そしてサヨナラ打を打たれ、この試合の敗因とも言われかねない男の心中を察する気持ちがあった。同じ投手として感ずるところもあったのだろう。

 私は、頭をハンマーでガツンと殴られたような衝撃を受けた。自分の愚かさを恥じた。同時に、それはあまりにも気分の良い殴られ方だった。そして、寺本と松坂があまりにも愛しかった。



 気の遠くなるような長い月日と鍛錬、その道程を登り続けた選手の姿に、多くの人間が魅せられる。同情ではなく、時に私達は頂に辿り着いた勝者よりも敗者の姿に心惹かれることがある。

 私達は、度々敗者に自分達の姿を重ねて見る。それは、私達も度々不利な状況で困難に立ち向かうことを強いられ、間違いを繰り返し、本当に些細なことで喜んでホッとして、幸運に癒され、時に犯した過ちが償いきれないものになり、砂を噛むような思いをするからではないだろうか。

 甲子園だけではない。全国のグラウンドではそういったことが止めど無く繰り返され、ある者はそれに呑み込まれ、ある者はそれを踏み台にしてもがき、またある者はそれを力強く乗り越えていった。そしてあの日の甲子園、目の前に起きてしまった現実を自分で必死に飲み込み、そして気の済むまで消化しようとして泣きじゃくった男が寺本だったように思う。そこにそっと歩み寄って寺本を抱き寄せた松坂を見た時、私は完璧でありえない人間にとって最高に美しい姿を見せられたように感じた。



 長い長い旅路だった。信念を持ち続け、そしてそれを緩やかに研いでいた男が手にした、初めての歓喜。彼が選手に見せたがっていた光景、それを自らも臨んだ時、彼は人目もはばからず涙したのだと思う。対照的に、智弁和歌山主将・岡崎祥昊の表情はサバサバしていた。そこには自らを出し尽くした充実感が窺えたような気がする。

 5打席連続敬遠を受けた松井は、あの“事件”に触れられると決まって『あれで僕は有名になったんですよ』と笑う。当時は怒ったと言うが、今では笑い話にできる度量が松井にはある。そんな松井がFA権を取得した年、明徳は悲願だった真紅の大旗を手にした。

 時効だという声も出ているが、そう単純なことでもあるまい。

 松井の去就は、間違い無く今年のオフシーズン最大の関心事になるだろう。メジャーか、日本か。松井は今、誰もが立てない舞台に立ち、決断を迫られている。その傍らに、10年の呪縛から解き放たれた馬淵がいる。

 松井秀喜、28歳。

 馬淵史郎、46歳。

 10年の月日が流れたのだ。



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