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2003年07月30日(水) ほっとする言葉

元気?って聞かれるのと
調子はどう?って聞かれるのってかなり違うんだよね。

調子はどう?って聞かれると
「体の事気にかけてくれてるんだ」って思って
すごく安心する。

だから私も最近は「調子どう?」って聞くようにしてるんだ。


2003年07月29日(火) *これはほとんどノンフィクションです

改作版<リリーとまみちゃん>
リリーは2年前の夏、心臓に穴があいてお星様になってしまいました。




とおい とおい昔のお話です
あるところに 雲の国がありました
その雲の上にはたくさんの動物達が住んでいました
動物達を取りしきっているのは 動物の王様、ライオンでした。

雲の上からは未来が見えるのです。
地上に住む子供達の未来が。
王様はある一人の女の子を見つけて思いました。
「この子にはパートナーが必要だ」と・・・。
王様は国の中でも一番利口で、優しいリリーという犬を呼びつけて言いました。
毛並みがいい、心の優しい利口な犬でした。

「リリーよ、地上を覗いて見ろ。あそこに女の子が一人いるだろう?
 あの子はな、これから先、とても重い病気にかかるのだ。
 だからお前が一緒に手助けしてやってくれないか?
 あのこのずっとそばにいて一緒に暮らしてやってくれないか?」

リリーは迷いました。
何故って、ここの雲の上の世界が大好きだったからです。
みんなでずっとずっと一緒に遊んでいたいなあって思っていたからです。

悩んでいるリリーに王様は
「お前にしかできない事がきっとあるはずだ。よーく考えてみてくれないか。」
そう言いました。

一晩考えたりリーは、王様に報告しにいきました。

「王様、僕、あの子の手助けに行って来ます。何が出きるかわらないけど
 でも、行って来たいんです。」

 王様は言いました。


「リリー、よくぞ決心してくれた。気をつけて言ってくるがよい。
だがな、1つだけ約束があるのだ。」

「約束とはなんでしょう?」

「お前は犬だろう?犬はな、人間のまえでは喋らない生き物と決まっておる。
だから何があろうとも、絶対喋ってはならぬぞ。」

「はい、分かりました。行って来ます。約束は必ず守ります。」

リリーはお気に入りのピンクのリュックサックに
サツマイモのから揚げと、雲の国特製の高級チョコレートを
白いハンカチに大事に包んで出発する事にしました。」

ライオンの王様は雲の上から魔法をかけて人間には見えない透明な
白いハシゴを地上までたらしました。
柔らかくてゆらゆら揺れます。
とても危険な仕事です。

リリーは雲の上のみんなに行って来ますを手を振って告げてするすると
そのハシゴを下りていきました。
三日見晩、途中途中休みながらリュックの中のチョコレートや
大好物のさつまいものから揚げをたべたべ、三日目の夜中にようやく
地上に降り立ちました。

リリーはまだ生まれたての子犬でした。
ずるずるとどこからかダンボールを引きずってきて
その中に入っていました

お日様がちょうど空の真中を指したとき、
あの女の子がリリーを見つけました。
おんなのこの名前はまみちゃんといいました。
まみちゃんは、お母さんにせがんでリリーを飼ってもらえることになりました。

まみちゃんとりリーはいつも一緒でした。
田んぼでおたまじゃくしを取るときも
絵本を読むときも
蝶々を捕まえる時も
ご飯を食べる時も
寝る時も

リリーは思いました
「本当にこのこは病気になるんだろうか?
こんなに元気なんだ、きっと王様の言っていたことは勘違いだろう。」

そんなこんなしているうちにまたたくまに二年の歳月がたちました。

それでも、湖の輝きも、お花畑のいい香りも、みずみずしい草々の
緑の濃い色も、小鳥のさえずりもいつもと変わらず笑っているように
ほのぼのたたずんでいました。

ところがそれから三日後、恐れていた事がおきてしまいました。
まみちゃんは王様の言っていたとおり病気になってしまったのです。

お医者さんが、外に出てはだめだよ。と言っていたのを
リリーはしっかり聞いていました。
だからいつもベットのそばで寝ているまみちゃんのそばで
ずっとずっと笑って支えていました。
それでも心は悲しくて気持ちのやり場がありませんでした。
それでもせいいっぱいリリーは笑顔でいました。

まみちゃんはリリーがいつもそばにいたので
安心していつもベットに横になっていました。
それでも、時々苦しくてリリーに聞こえないように
お布団を頭からかぶってしくしく泣いていました。

まみちゃんがあまりにも辛そうなのでリリーは
王様と約束した「言葉」を使ってしましそうになリ、
その思いをぐっとこらえました。


それでもリリーはその事もちゃんと知っていました。
だからリリーはずっとそばにいてあげないとって思いました。
まみちゃんの病気は、三年後、ようやく治りました。
まみちゃんは嬉しくて嬉しくてリリーと一緒に湖に遊びに行きました。
湖をのぞくと、にっこり笑った小さい可愛いまみちゃんと
しっぽがふさふさの優しいりリーの姿が映りました。
まみちゃんは言いました。
「リリー、いつもそばにいてくれてありがとう。
病気が治ったのはリリーのおかげだよ。これからもずっと一緒だよね?。」

リリーも嬉しそうにしっぽを振りながら深くうなづきました。

それから何日かたって、まみちゃんによくない出来事が起こりました。
みんなみたいに元気じゃないのです。
それは病気のせいでした。病気は治ったのだけど、体がだるくって
外に遊びに行けないのです。何もやる気が起きないし、頭がガンガンします。
いいようもない不安や恐怖が襲ってくるのです。
胸がドキドキします。
胸に悪魔が住み着いたようで、息が詰まる。些細な事で傷つき、どうしていいのかわからないのです。
助けて、助けて。
私もっと頑張れるよ。ホントは頑張れるよ。
かけっこだって、お絵かきだって、勉強だってもっともっと頑張れる。
でも体が言うこときかないんだ。動かないんだ。
もう頑張ってる。だから「頑張れって言わないで」

みんなとも会えません。

まみちゃんは悲しくって悔しくって泣いてばかりいました。
泣いても泣いても涙は止まりません。
どうして私だけこんなになっちゃったんだろう。
みんなと一緒に遊びたいのに。
私なんにも悪い事してないのに。

あふれる涙をリリーは一生懸命ぺろぺろなめました。
それでもまみちゃんは悲しくって
お家の中に閉じこもるようになってしまいました。

リリーが「一緒にあそぼうよ」
と誘ってもしてもまみちゃんはそっぽを向いたままでした。

まみちゃんはリリーに聞きました。
「なんで私だけなの?なんで私だけ、みんなと違うの?
 私だってみんなと同じに元気になりたいよう。
 リリー、助けてよう。」

何度も何度もまみちゃんが繰り返し聞くので

泣きじゃくるまみちゃんに、リリーはとうとう言ってしまいました。

「大丈夫、そのままのまみちゃんが僕は好きだよ?」

何かしゃべった?リリーが?
そんな分けないよね・・・。


次の日、まみちゃんがベットから起きあがるといつも隣で寝ていた
リリーの姿が見当たりません。
びっくりしたまみちゃんはそこら中を探しました
ベットの下、窓の向こう、カーテンのかげ。
どこにもいません。

まみちゃんは体がだるいのも忘れて駆け出していました。
もしかしたら、前に遊びに行った湖にいるかもしれない。

まみちゃんはやっとのおもいで、湖のほとりにたどり着きました。
ずっと前に二人で遊びに来た場所です。
広い広い広い湖をそっとのぞき込みます。辺りはもう薄暗くなっていました。

「私の事、だまって笑ってみててくれたのリリーだけだったよね?戻ってきて欲しいの。早く帰ってきて。
 お願い。。。」


湖の上でまみちゃんは大泣きしました。
声をあげて泣きました。
帰ってきて・・・
帰ってきて・・・

涙が湖に一粒こぼれ落ちたとき、水面を描くように輪が広がりました。

するとどうでしょう、リリーの顔が、泣きじゃくるまみちゃんの隣にそっと現われたではありませんか。
それは雲の上から見ていた優しいにっこりしたリリーの顔でした。


リリーは何か言いたそう。でもなんて言ってるんだろう?しばらくたつとリリーの顔が消えてしまいました。
それから毎日まみちゃんは泣いてばかり。



「王様、ごめんなさい。僕、約束を破ってしまった。そのうえまみちゃんに何もしてあげられなかった。」
リリーはすっかり落ち込んでいました。
王様はこう答えました。
「許してくれ、リリー。私は始めからこう言う結果になると分かっていて
リリーにこの仕事を頼んだのだよ。心の優しいリリーならきっと何か話すと思っていたのじゃ。
リリーがそばにいただけで、あの子はとても幸せだったんじゃ。」

「そうでしょうか。。。?」
リリーはまだまだまみちゃんが心配なようでした






何週間かたって落ち着いた頃

もう一度まみちゃんは湖に行ってみました。



まみちゃんは得意のケーキ作って空高くかかげました。
リリーにちゃんと見えるように。



静かな静かな夜でした。
気持ちのいい夜でした。


2003年07月27日(日) うぐぅ。。

父親の方のおばあちゃんちに一人で行った。

おばあちゃんと話をしてあげると喜ぶよって言われたから
話をしたんだけど。。。

傷つく事を結構言われてしまった。
「病は気から。病気だっておもっとるもんで治らんだ。
 OOだって頑張ったもんで元気になっただ。」

躁鬱はすぐに治るものじゃなく、ちゃんとした病気。
風邪をひいたら気で直せる?
ガンになったら気で直せる?
直せないでしょう。

そもそも、脳の中セロトニン
の分泌が上手くいかなくて
こういう結果になったのだから。
脳の病気なんだよ。

そう言いたかったけど、そういう人は何言っても駄目だから黙って聞いた。

弟は学級委員に何回なった?どこの高校に行くの?
弟は剣道を頑張っていて偉いだとか。
弟の御土産は一生とっとくだとか、なんだか嫌な気分になっちゃった。
「あんたは頑張ってないよ」って言われたようで。


弟は私がそばにいるのが嫌な時期なのよ。
そんなこと聞かれてもわかんないって言っといたけど。

何でこんなことで精神ふらつくかな?って思った。
傷つきやすすぎ。最近の私。
このままじゃやばいと思ってすぐ家に帰った。

だから躁鬱の私は本を書きたいんだけど、(みんなが理解してくれるような)
そのためにはもう少し自分の病気を知らなきゃって思った。
それに、もっと落ち着かないとね。


2003年07月26日(土) 自分らしさ

最近分からなくなってきた。

今の自分は昔の心の自分じゃない。

人に好かれようって、しっかりした私を見て欲しくて

無理して背伸びしてる。

気を張り続ける毎日。

元の私に戻っても、みんなは受け入れてくれるだろうか?

私は小2の女の子みたいに気が小さくて

赤ちゃんみたいに誰かに頼りたいんだよ。

よっかかっていたいんだ。


2003年07月24日(木) 雨の日の決断。

「みんな大なり、小なり悩みを抱えて生きてるものよ?」

この言葉が一番嫌い。
そんな小言、自分が一番良く分かってる。
分かってるけど、たまには特別わがまま言ってみたり
愚痴言いまくったり
大泣きしたりしたいもんなの。

「最近改めてそう思いますよ。自分だけが辛いんじゃないって。」

相手に有無を言わず、私は自分で自分を防御した。

自分の考え押し付けたり、〜したほうがいい、〜しなさい。

生きやすい方法だと分かっている。
それは違うよと言いたくなる。
でも私はそんな大人だけにはなりたくない。

それが私の結論。



2003年07月17日(木) 郷に入れば郷に従えってか?(漢字合ってる?)

理不尽だと思う事

自分から始めなきゃ何も変わらない。



私だけは
「名前、電話番号、住所を書かかないといけない」
いつも児童館にフルネーム言い、挨拶をする。
「ボランティアに来ましたしずくです。」
私は子供と遊びたいだけなのに・・・
本を子供に読んであげる時
「読んであげてもいいですか?」
と了解を得ないといけない。

去年、私がその事を知らずに子供達に絵本を読んであげていたら
鬼のような目をした指導員がつかつかやってきて
「子供に本を読むときは、職員室に了解を得てもらえる?!!!
 自分が読むにはかまわないけ
ど。」

前はそんな事言われなかったし、何時までいても良かった
それで確認を取るために他の先生に
私は何時までここにいてもいですか?」

と尋ねたら「しずくさんがいたいとおもう時間までいていいですよ。」
と優しく答えてくれた。
一応館長さんに伝えてね。と言われたので報告しに行ったら
「ここは、4時半から職員が管理する事になっています!!」
何考えてんのあんた?て顔でこっちを見た。
「でもあちらの先生がいいっておっしゃいましたけど?」
と、少し肩をすくめる演技しながら言ったら、
今度はその優しい先生に怒鳴ってがみがみ言ってた。

その事を名古屋の子に話したらそりゃおかしい。
税金で賄われてるんだから。
それに誰でも遊んでいい施設だし
名古屋はそんな決まり無い!!
って友達に聞いた。

今日も児童館に行ってきた。
「自分で本を読むなら何もしなくていい」
と言われたので、本の部屋に行こうとしたら
「しずくさん、ちょっと挨拶は?」
と指摘された。
「個人的な事なら何もしなくていいっていいって言われました。」
と、キッと相手を睨みながら言ったら
「ここは18までの子が入っていい施設なの!だからあなたは
特別にボランティアと言う形ここにで入れるのよ?
だからいつも職員室に挨拶しに来るように!(怒)」

名古屋ではそんな決まり無いって聞きました。
「名古屋がそうだからってここはそうとは限らないのよ!?」

これ以上逆らって私の居場所が減っても意味ないな。と見限って」
私お得意の「うそスマイルをプレゼント。」

これからもう少し確実な情報を得て、市役所の教育科に意見提出しに行く!!



2003年07月15日(火) 楽しまなきゃね

頑張るってことは、苦しむことではないんだよ?

肩の力が抜けた

ありがとう。


2003年07月09日(水) とにかく読んで!!

思い出の誕生日




私が白血病だと診断されたのは1994年の12月、小学校4年生でした。退院したのはの8月。
ちょうど8ヶ月間入院していました。告知を受けたのは、小学4年生の春だったような気がします。

病名は急性リンパ性白血病。とても大変な病気だと言う事で、
「これからも頑張って治していこうね」
そう主治医に強く言われたのを覚えています。でも何故その事を先生は必死に私に伝えようとしたのか。
その理由が分かったのはつい最近の事です。
でもその頃の私はけろっとしていました。「ふーん、そうなんだ。だから?」と言う感じで。

私は市内の市民病院に入院しました。
何度何度も採血をしに来る看護士におびえている時、
女医さんが「この病気はあなどると怖いから、しっかり治そうね。」
と私に優しく話し掛けてくれたのを覚えています。
私はその言葉に少し安心し、絶対直してやると心に誓いました。

次の日車椅子を押してもらって、すぐに救急車に乗せられ豊橋の市民病院に搬送されました。
「何故歩けるのに車椅子に乗るんだろう?」そのことが疑問でなりませんでした。
しかし、車椅子に乗らないと危険なほど私の病気は進行していたようです。

私はこの病気がそんなに怖いものだと知らなかったのです。
死に至る場合もあると・・・

そして私の年齢10歳が生きるギリギリのラインであることを。
「早く退院したい。ここから抜け出したい!!!
一万人に一人と言われるこの病気が何故私に?何故私だけなの?」
隣のベットから何人もの退院していく友達を見送るたびに悲しさはこみ上げてきました。
消灯時間が過ぎて皆が寝静まった頃
私は隣で寝ている母が気づかないように、
声を殺して毛布をかぶって泣きました。

治療は、想像もつかないほど苦しく辛いものでした。24時間つけっぱなしの点滴。
抗がん剤もたくさん投与しました。抗がん剤は副作用がとても強く
、何度も何度も戻していました。
気分が優れない日が続き、気持ちが悪く、薬が飲めない時は一度薬を口にしてから戻し、その後また飲み直した
日も少なくありませんでした。ほとんど寝たきりの毎日。
赤い点滴は血管を圧迫するのか、痛くてたまらなく泣きながらしていました。それから「マルク」
と言って、腰の骨から血を抜きました。コレは腰が砕けるかと思うほどの痛さでした。

毎日と言っていいほどの採血に、4ヶ月以上のクリーンルーム。主治医、看護士、両親、先生以外は立ち入り禁止です。
狭い部屋にずっと押し込められて外の様子が全く分かりません。精神的にも肉体的にもかなり追い詰められました。



こんな私を救ってくれたのは家族の愛情のおかげだと今改めて思います。
母親は、いつも笑顔で元気付けてくれました。
病院の給食を受け付けない食欲のない私におかゆを作ってくれたり、
みかんなど、口当たりのいいものを探して、何とか私に食事をさせようとしてくれていました。
ビーズや、ぬいぐるみを一緒に作って飽きないように遊んでくれたりし、その事がとても楽しくてたまりませんでした。
父親はとは一緒に社会の宿題の県名の首都をゲーム感覚で
二人で覚えたり、パズルをしたり、採血の上手い看護婦さんランキングを作ってくれて、今日は「OOさん指名お願いします」と頼んだり・・・
祖母はたくさんの可愛いパジャマとおそろいの帽子作ってくれました。普通のパジャマだと点滴のひもが引っかかるため
両方の袖にスナップを付けてくれ、とても助かりました。
おかげでいつも私の衣装ケースはいっぱいで
看護士さんからは「桃ちゃん今日も素敵だね〜」って誉められて髪の毛がぬけてもへっちゃらだったしみんなの人気者でした。

私は11歳の誕生日を病院で向かえました。6月15日、水曜日の事でした。
その日もクリーンルームで、熱が38度近くあり、ベットに横たわっていました。
その頃、学生さんが達が私の身の回りのお世話をして下さっていました。廊下側から見えるクリーンルームの窓はとても小さく、
高い位置にあったのですが
そこから私と仲のいい学生さんが、誕生日プレゼントを廊下側から笑顔で手を振って見せてくれました。
プレゼントは小さな、「グリーンと真っ赤なペアの可愛い可愛いテディベア」でした。
「桃ちゃんの誕生日おめでとう。」とフエルトを二枚重ねにして刺繍した物がその上に添えられていました。
私は小さいながらにも胸が熱くなるのを感じました。
この誕生日は今でも私にとって忘れる事の出来ない思い出です。今まで生きてきた中で最高の誕生日です。
「どうやってあんな高い所から顔を出せたの?」と私が尋ねたら
「男の看護士Oさんがよんつばいになって、その上に私が乗ったんだよ〜」って教えてくれました。
想像するとなんだか笑っちゃうけど、本当に本当に嬉しかったのです。

退院して元気になってから私は中学で「生活部」と言う手芸中心の部に入りました。
そこでテディベアをたくさん作っていました。手芸が大好きだったのです。
彼女が結婚式の日に私は2匹の大きなテディベアを綺麗にラッピングして今度は私がプレゼントしました。
「嬉しいよ。ありがとう。」幸せいっぱいの彼女は目にうっすら涙を浮かべながらそういってくれました。

私は白血病になったけど、たくさんの優しい人々に出会えて、他の人が出来ない体験をたくさんし、
人の痛みが少しは他の人より分かる人間になれているんじゃないかって、そう思います。
辛い事、悲しい事がたくさんあった分、楽しい事、嬉しい事が他の人より
何倍にも何十倍にも楽しく感じられているんじゃないかなと思います。
「入院生活も結構楽しいな。退院したくない気もするな。」
父親からの誕生日プレゼントの日記帳の最初の一ページに私はこう結んでいました。

レポート完成。。。
これを岐阜で発表してきます。


2003年07月03日(木) 階段は一段ずつ

何で困ってるの?話してみて。
「。。。リラックスしようと思ってもリラックスできないの」

いいから話してみて?

「まず白血病体験談のレポート書かなきゃいけないでしょ。今週中に。
 それからWISHの親睦会の行き先考えて、で、6日に像列車本番だから
(合唱団の公演)
 台詞言えるようにしないと。私絶対あがっちゃうから。
 そんでそんで。。。」

今一番したいことだけしたらいいって教えてくれた。
他のことは考えなくっていいって。
だからレポートのことだけ考えるね。


2003年07月02日(水) 本音

今度岐阜で私の白血病の体験談を発表することになった。
WISH(小児ガンを守る会)で率先してレポートを書くことにした。
私の体験発表がみんなの役に立てるなら、励みになるのなら
元気な姿を見た親御さんが安心してくれるのなら。

そう思ってた。
ところがなんだか最近いいこと無い。
体調が悪い。文章を書くのが大好きな私の筆が全然進まない。
今週中に東京の本部にレポートを送らなきゃいけないのに。
電話で催促をかけられてから書かなきゃ、書かなきゃって思って
それでもなんだか微熱が何週間も続くし、だるいし、無気力だし
でも私自身が受けた依頼。

少し気分の良い夜に書き始めた。
1994年の12月28日、市内の市民病院に入院。
そこでは治療できないと言う事で
次の日救急車で大きな市民病院に入院。
クリーンルームと言う誰も入れない部屋に入れられ
お正月を過ごした。
抗がん剤治療で髪の毛が抜けた。
ふさふさの自慢の髪の毛だった。
朝起きると枕にべっとり長い髪の毛がついていた。
ロングヘアーだった。

病院が遠かったからお見舞いにきてくれる友達はいなくて淋しかった。
95年の8月に退院。髪の毛は無いに等しかった。
やはり特殊なのか
「しずくちゃん髪薄くない?」
との問いに
「そんな事無いよ」
精一杯の強がりで答えた。

母親の話だと退院して一週間で、今度は精神病にかかった。
躁鬱病だ。
眠れない、怖い、体の温度調節が効かない。
対人恐怖症。全ての体内機能低下。
苦しくて苦しくて部屋中転げまわり
溢れ出しそうな悪魔を精神で必死に抑えた。
何もしていないのに精神はいつもずたずた。

元気なときに遊園地なんかに行くと絶対鬱になった。
興奮してはいけないんだって。

「しずくちゃんの人生狂っちゃったね」
ある同級生のおばさんから言われた。

そうだよ?でもそのことを認めたくなかった。

もう白血病なんかどうでもいいじゃんって思った。
今辛いのは精神病だもん。
レポートが書けなくなった。
白血病は体は辛いけど精神はそこまで追い詰められない。

中1の時、夜中に一度手首に包丁を当てるふりをした。
死ぬつもりなんて無かったけど、楽になりたかった。
そんな事してもどうしようもないことは知ってたから
「馬鹿だな・・・・私」
そう思って台所の包丁をすぐ元に戻した。

大体私と付き合う人って私の病気に耐えられないんだよね。
自分は大丈夫。力があるって言っておきながら
ホントに辛い顔すると、「カウンセラーじゃない」
なんていって、重荷だったと後で伝える。
なら先に言ってくれればいいのに。

白血病になった人でも、その後鬱になった人、友達ではは見たこと無い。
何で1万人に一人の中に私が白血病で選ばれて
治ったと思ったら今度は精神病になるん?
ここの所半月くらい調子が悪い。

やらなきゃならないことがいっぱいなのに
体は動かなくて
健康になりたい。
元気になりたいよ〜。


2003年07月01日(火) 苦しいよう・・病気

あいつなら分かってくれると思ってた。
でも私のほんとの姿見たらやっぱ疲れたんだってさ。


昔は一人で泣いてもがいて耐えてたんだ。
だからこれからはほんとの姿は見せない。

でも今は心をどこにぶつけていいのか分からん。

この世界中に私の事責めない人はいるのだろうか?
受け入れてくれる人はいるのだろうか?


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