diary/column “mayuge の視点
INDEXpastnext

擬態語家族

 「おい、チューチュー持ってきてくれ」

 晩酌の後、こたつに入ってゴキゲンの父がいう。これは彼の最近のお気に入りである、「水」のことなのだ。ペットボトルの飲み口が吹き出し式のようになっているミネラルウオーターを指して、「チューチュー」。還暦を迎えようという男の言葉としていかがなものかとは思うが、実はこれ、意外に簡潔かつ正確な表現なのだ。

 彼はそのとき、コップに汲んだ水を飲みたかったのではなく、冷蔵庫の中で冷やしてあるおいしい水を、乳首を吸うような要領でチューチューと飲みたい気分だったわけである。彼の意は、この短い言葉で僕に伝わった。

 朝食の席で喉の痛みを訴えた僕に対して、今度は母がのたまう。

 「あんた、シュッシュしてシューシューして寝たほうがいいんじゃないの?」

 初めて耳にした方のために翻訳すると、これは「ふとん乾燥機でふとんを暖めてから、加湿器をつけて寝たほうがいいのではないか」ということなのだ。

 これまた実に要領を得た表現。一度目こそ「?」な言葉だったが、二度目以降はこのコンパクトな表現ですぐにピンとくるようになった。

 それにしても、最近両親がひんぱんに擬態語を用いる。物忘れのせいなんだろうか。それとも彼らの目には、僕はいまだにハナタレ小僧として映っているのだろうか。

 これらの擬態語会話、僕としては少々ひっかかってしまうものがあるのだ。現在パラサイト中とはいえ、これでも僕は三十の男である。一応、かなり前からオトナなのだ。

 そこで僕は、幼稚園児言葉を使われることが不本意である旨をやんわりと抗議してみた。すると母は、僕の訴えを一言で切り捨てた。

 「あら、わかるんならいいじゃない」

 ごもっともでございます。今夜も僕はシュッシュして寝ることになりそうである。

2003年12月28日(日)

「個性」なんていらない

 先日、テレビで浜崎あゆみがしゃべっているのを耳にした。そこで感づいたのが、いつの間にか、しゃべり方が「普通」になっているということ。この人って鼻にかかった甘ったるいしゃべり方してなかったっけ? やっぱりヤツも「つくって」いたか。

 こうしたことは、たしかに昔からアイドル歌手なんかにはよくあった。明らかに不自然な「かわいこぶった」、「ちょっと変わった」しゃべり方を自ら演出する。マイナーな例で恐縮だが、森口博子しかり、山川恵里佳しかり……。そういう意味では千秋はエライ。いまのところ変わっていない。

 まあ芸能界も生き馬の目を抜くような厳しい世界だから、そのなかで這い上がろうと思えば、なんらか目立たなくてはいけないのだろう。王道の路線を進めないとなれば、「個性派」を狙うというのもわからなくはない。彼らにしてみれば周到に計算した手段なのだろう。そのやり方を決して否定はしない。ときに目立とうとする姿勢は大事だからだ。

 だがここで思うのは、個性ってそういうことじゃないんじゃないの?ということなのだ。そんなものは結果的に否応なくにじみ出るものであって、自分でむりにつくっても仕方ないじゃんと言いたいのだ。

 この「つくられたしゃべり」、気になりだすともう止まらない。民放のスポーツアナの「絶叫調」も耳障りこの上ない。そんなに不快なほどの「個性」の押し売りはやめてくれ。俺は純粋に試合を楽しみたいんだよ。

 ラジオ番組のパーソナリティーにもいる。なんだか他の人に似せたようなしゃべり方だなあ。勧誘の電話をかけてくる営業の人もそうだ。「営業口調」。あれは本人だけが自分のしゃべりに酔っているような感がある。ついでにいうと、電車の車掌さん。なんなんだその声は? あんたはいったい誰なんだ!?

 ただ自分らしくありたい。そう願う今日この頃である。

2003年12月25日(木)

『北の国から』に思う……

 『北の国から』の五夜連続放送を見た。

 このドラマが積み上げてきた時間には、改めて感じ入る。回想シーンだけで泣けるのだ。なにせ二十一年前のシーンに現れるのが、出演者自身のかつての姿。吉岡秀隆のランドセル姿が、岩城滉一の二十代の輝きが、この物語がフィクションであるということを忘れさせる。

 登場人物の純や蛍と僕は、ほぼ同年代だ。つまり視聴者である僕もまた、彼らと同じ時代を同じような目線で生きてきたわけだ。それだけに、彼らの一つの行動、一つの思いに、自らの姿を重ね合わせてしまう。純が「父さん、ごめんなさい」と泣けば、こっちも「ついでに僕もごめんなさい(涙)」なのだ。

 それにしても、親というのは、どうしてあれほどまでに激しく、あんなにも無条件に子供を愛することができるのだろうか。毎晩その凄まじいパワーに圧倒され、親不孝者の僕はそのたびに涙を誘われた。一人で見ておいてよかった。

 三十の声が聞こえるようになってからだっただろうか、僕も家族のことを考えることが多くなった気がする。それは、どんなに苦労をかけても黙々と親の務めを果たしてくれた「パワフルだった親」が、いつの間にか、しかし確実に「老人」になろうとしているのに気がついたからかもしれない。

 それもそのはずだ。現実の世界でいえば、あの長嶋さんでさえ、ひげ剃り跡が青々としたプリティな「オジさん」だったのが、気がつけば総白髪の「おじいちゃん」になっていた。「宇宙人」でも年をとるのだから、一般人は推して知るべし。人間、時の流れには抗えない。

 ドラマは、子供たちが再び新たな人生を歩み始めるところで終わる。彼らのなかには、親の戦う姿から教わったことがしっかりと息づいている。ひるがえって思う。自分もいい年だ。しっかりしなくては。

2003年12月21日(日)

プチ考

 世の中、「プチ流行り」である。

 「プチ整形」して「プチ家出」の挙句、「プチ援交」。しまいには「プチ同棲」を決め込み、「プチおやつ」をつまむ。とにかくあちこちでプチプチとうるさいのだ。

 ここで、ふと気づくことがある。これらの行動はみな、若い女性に関係することなのである。

 「プチ」。たしかに女の子ウケのよさそうな響き。そもそもこれはフランス語のpetit(e)であり、「小さい」とか「かわいい」といった意味だ。なるほど、なんでもかんでも「カワイー」の一語で片付けるギャルどもにはもってこいである。

 彼女たちのこういった行動を「プチ現象」として研究する精神科医までいるそうだ。なんでも、物理的な小ささの「ミニ」ではなくて、感覚的な「プチ」が好まれているとのこと。

 つまり、「なんとなく小さい」「そんなでもない」ということなのだ。「一生懸命」とか「精一杯」といった、やや汗臭い取り組み方が敬遠され、「プチ」の軽さが受け入れられているのだろう。みんな、どうしてそんなに疲れているの?

 このプチ流行り、もう一つの共通点は、その後に続く言葉にはどれも「罪悪感」が漂うということ。なにか後ろめたいことにプチをくっつけて、その「かわいい」語感でたちまち「なにかいいこと」に変換してしまうのだ。安易だ。安易すぎる。おじさんとしては、この「プチ」にそこはかとない危険を感じてしまうのである。

 女性ばかりを責めてもいけない。振り返って、われわれ男どもは大丈夫だろうか。「プチ痴漢」。ダメダメ、犯罪は犯罪。子供たちはどうか。「プチいじめ」。これがエスカレートするから怖い。では政治家は? 「プチ派兵」。これはなぜか許されてしまった。まずいよね。

2003年12月18日(木)

彼女たちの「実力」

 リストラの世、サラリーマンの世界では「実力」が問われるようになった。これは歌の世界でも同じ。一部の例外をのぞいては、「実力派」と呼ばれる人たちが確実に売れている。スポーツの世界でも、実力のある者は海を渡り、その力に見合った成功を手にしている。

 一方で、そんな世の流れとは反比例したような動きを見せている人たちがいる。今なぜか、グラビアアイドル全盛なのである。

 「実力」の対極にあるものを「見かけ」とするならば、彼女たちはその「見かけ」で勝負しているのだ。水着一枚、半裸のような状態でカメラの前に立ち、卑屈なまでに笑う。なかには、明らかに男の視線を意識しているとしか思えないポーズを自らすすんでとる者もいる。親でもないのに嘆かわしい。

 世の中が「実力、実力」とあくせくするのを笑い飛ばすかのように、その「美貌」をこれでもかと見せつけようとする彼女たち。そのメンタリティーにおいては、「きれいであること」が目標であり、プライドであり、偉いのだ。そして、そんな「きれいな自分」を多くの人に見て欲しいのだ。

 同じく「美貌」を商売道具とする職業には、モデルという人たちもいる。個人的にはこちらのほうが高尚に思えてしまうのはなぜだろう。単にからだを見せてカネをもらっているという安易さがないように見えるからか。

 僕がグラビアアイドルに感じる嫌悪感は、ただの古い考え方なのかもしれない。それでもやはり、グラビアアイドルが「だっちゅーのポーズ」をとっていると、「お前ら、それでいいのか」と思ってしまう。

 今日もスポーツ紙のウェブサイトには、一番目立つところにグラビアアイドルの「ごっくんボディ」写真が載っている。そして僕はどんなに憤っていても、今日もまたその写真をクリックしてしまうのである。そうか。これが彼女たちの「実力」なのか……。

2003年12月14日(日)

許せん、その無神経

 他人の無神経さに腹がたつことがある。ひとまず自分のことは棚に上げてブチまけてみたい。

 このところ僕は車を運転することが少なく、主に自転車や徒歩で街を行く。季節はもうじき冬至である。日が暮れるのが早い。そこでいつにもまして思うのが、薄暗くなっても車のライトを点灯せずに走る車が多いということだ。まるで「ライトを点けないでどこまでねばれるか」という記録に挑戦しているんじゃないかと思うほど、無灯火で無意味に頑張っている。

 だとしたら、見当違いもはなはだしい。たしかに、夜道で暗がりを照らして運転者の視界を確保するのは、ライトの主要な役目である。ただ、もう一つ忘れて欲しくないのは、自動車や自転車のライトには、まわりの車や歩行者たちに、自分がそこにいるということを伝える役割があるということだ。つまりライトとは、自分のためだけではなく周囲のために点けるものでもあるのだ。

 運転者の方、夕方バックミラーで後続車の位置を確認する場面を想像してみてほしい。そもそもバックミラーの鏡面は黒っぽくできている。さらに細かいことをいえば、後ろの車を視認するには、後部のこれまた黒味がかったガラスを通さなくてはならない。もし後続車の色がグレーだったりでもしたら、相当注意して見ないと、危うく見逃してしまうことになりかねない。

 この時点で無灯火車は、周囲に迷惑をかけている。明らかに他人にストレスを与えているのである。でもライトを点けない奴に限って、そういう意識が皆無なんだよなあ。おじさんはもう、怒り心頭なのである。

 他にも、似たような無神経さに「駅の階段における傘の先端処理問題」がある。これもまた、他人の迷惑を顧みない行為だ。あー、許せん。でも注意すると殺されるので、こうして「遠吠え」するだけなのである。反省。

2003年12月11日(木)

おもてとうら

 「裏のなかに表あり」という言葉がある。裏という字には、「表」が隠れているというのだ。なるほど、示唆に富む表現である。

 ワープロで「おもて」と打って変換すると、「表」とは別に「面」という字も出てくる。こちらは「つら」とか「かお」という意味だ。

 街中でその「おもて」を見ていて、たまらなくもったいないと思うことがある。それは女性の顔のこと。幸か不幸か僕は生まれつき女性が大好きで、電車のなかにきれいな人がいたりすると、見ていないフリをしながらも、ついつい白目の部分まで駆使してチラチラと観察してしまう。

 最近の日本人女性は、目に見えて美しい人が多くなった。これはひじょうに喜ばしい。「今どきのメーク」がさらにその美しさを引き立てているのもいい。

 だが。だがなのである。よくよく見ると、そんな美しい人のなかに、ものすごく怖い顔をしている人がいることに気づく。実はこれがけっこう多い。化粧を失敗したという意味ではなくて、目が怖いのだ。眉間にしわが寄っているのだ。つまり表情が怖いのである。

「あの上司、ホントにムカツク!」
「ああ、なんで私のまわりにはいい男がいないの?」

 きっといろいろお悩みなのだろう。一日じゅう職場で作り笑いをして、一人になったとたん顔の筋肉の緊張が緩んだのかもしれない。美しい女性たちの内面が、「裏」の部分が、無防備な「おもて」に怖いほど露出しているのだ。

 お婆さんには、鬼のような顔をした人と、仏様のように柔らかい表情の人がいる。あそこに座っているきれいな人も、「裏」の憤りが消化できないでいると、このまま積もり積もって鬼になってしまうのだろうか。もったいない。せっかくきれいな人なのに……。

 このケース、「表のなかに裏あり」である。世の美しき女性陣よ、ご用心。

2003年12月07日(日)

【企画書】それでもボクが巨人に行きたかった理由

(課題:総合週刊誌の企画)

○タイトル

巨人ブランド神話、崩壊危機の今なのに
「それでもボクが巨人に行きたかった理由」

○提案理由(企画意図)

 中継番組の視聴率低下、メジャーリーグへの人材流出、“アンチ巨人”の筆頭・阪神の快進撃、名物オーナーの独裁体質批判、球団フロント陣の失態……など、球界の盟主・巨人軍への風当たりは、以前にも増して強い昨今。それでもなお、大物選手が毎年のように流入し、「巨人以外のドラフト指名なら社会人へ」という高校生選手は後を絶たない。
 V9に心躍らせたのは遠い昔、若者の目は「大企業」から「ベンチャー」へシフトしているという世の趨勢とは裏腹に、野球選手たちの間では今なお健在な「巨人ブランド」。なぜ今、巨人なのか。巨人に固執する選手たちの心理を2003年の現状で検証する。

○企画の中身など

(巻頭の第一または第二特集で展開。場合によっては数回に分けて)

 「総巨人化現象」の理由として、「地域密着」よりも「中継ベース」の人気醸成風土とその歴史、また引退後を視野に入れた打算(外様コーチ、タレント)などいくつかの仮説がたてられる。それらを選手(または元選手)の生の声として聞き出し、明らかにしていく。

 入団に際して「巨人問題」で騒がれた人物を、生え抜き組、外様組、断念組などに分類してインタビュー。

【インタビュイー案】

●“高卒・他球団決意”組(ヤクルト高井、日本ハム須永)
●“鳴り物入り移籍”組が語る「魔性の巨人ブランド(仮)」(小久保、ローズ、落合、清原など)
●“浪人しても巨人”組「悪役覚悟(仮)」(江川、元木など)
●“いつの間にか巨人”組の見解(デーブ大久保、屋敷<元・大洋>、前田<元・中日>など)

2003年12月03日(水)

【企画書】姉専(あねせん)男の生態

○タイトル

今、若い男性の間で密かに増殖中!?
「姉専(あねせん)男の生態に迫る」

○提案理由(企画意図)

 今、マザコンならぬ「姉専(あねせん)」なる男が増えているという。年上の女性しか愛せないという彼らだが、その心理とは一体、どんなものなのだろうか。その思考、嗜好、生い立ち、恋愛遍歴、行動パターンを探り、時代背景と照らして検証する。

○企画の中身など

(中ほどの活版ページで、2ページ程度で展開)

●姉専男性へのインタビュー「ボクはこうして年上にハマった(仮)」
●姉専男性、行動・嗜好アンケート
●モー娘。メンバーと対談「妹はダメですか(仮)」
●姉専男、覆面座談会「年上オンナの魅力(仮)」
●典型的姉専男の仮想プロフィールをつくり、イラストで紹介 「姉専とはこんな男だ!(仮)」

2003年12月02日(火)

読んだら押して↓
エンピツユニオン

My追加
▲TOPINDEXpastnext