diary/column “mayuge の視点
INDEXpastnext

カナダワーホリ2002年参加要綱発表

 やっと出た。

 「2002年カナダ/日本ワーキングホリデー・プログラム」の参加要綱が「やっと」発表になった。

 在日本カナダ大使館のサイトをチェックし始めたのは春先のこと。そこには「夏頃または初秋に発表予定」というなんともアバウトな情報が載っていたため、8月頃からはそろそろ発表かとほぼ毎日のように確認する日が続く……。その後情報は「10月の第一週か第二週頃発表予定」に更新されたものの、またも思わせぶりな表現である。でもま、初秋っちゃあ初秋か、と一応納得、引続き放浪の旅を続ける。

 しかし、帰国後その「10月の第一週か第二週ごろ」になっても発表はなかった。今回より在日本カナダ大使館に代わり第三者の外部機関が申請書受理の手続きを代行することに変更になるとのことなので、その準備作業にでも手間取っているんだろうか。それともアメリカ同時多発テロの影響? 待たされる人はいろいろと考えてしまう。とかいって知らない間に実は更新されてて俺だけ古い情報見てるんちゃうの? 待たされる人はちょっと疑い深くもなったりする。念のためブラウザをリフレッシュしてみたりもしたが、表示される内容は変わらない。ま、焦っても何も始まらないか。ここは気持ち安らかに待つとしようぞ……、と座禅を組んでいた矢先、

 「来た!」

 今日、やっと発表になったのだ。それにしても結構じらされた感じ。結局、代行機関というのは「在日カナダ商工会議所」であり、リンクが張られたそちらのサイトを訪れてみるとそこに詳しい内容が記されていた。

 今回の参加要綱の最も大きな変更点は、「申請タイミング」。従来は前年中に応募者を募り(2001年参加者は2000年中に応募)、大使館査証部にて審査の上、定員分(2001年は5,000名)の参加者を選抜するという方法だったらしいのだが、今回(2002年分)からは参加者自らが決める「出発日」の約二ヶ月前に、それぞれのタイミングで応募するということになっている。早い話がほとんど先着順と同じというわけだ。マユゲの場合、一月早々の出発を前々から考えていたのでラッキーであったが、秋以降出発予定の人にとっては気が気ではないことだろう。ちょっと腑に落ちないシステム変更である。

 とはいえ自分の準備を始めねば。さっそくダウンロードした申請書のPDFファイルをプリントアウト、その他申請に必要なもののリストアップをする。これまで待ちぼうけだっただけに、やっと動き出した感じ。

 ある意味、今日がスタートやね。

2001年10月24日(水)

恋せぬ理由

 このところは学生時代の同期の「第二次結婚ラッシュ」だ。

 二十人近くいる男どものなかでここ一、二年内に結婚する予定がないのは、なんと五人にまで減ってしまった。気がつけば少数派、といった感じである。彼らのパーティーなどに招かれるにつけ、堅気の男は二十代で結婚するんだなぁ、俺にもいいひといないもんかねぇなんて思っていたのだが、今の僕には「プー太郎」であること以外にも、恋愛不適格者としての決定的な要因があったことを思い出した。

 僕は人生のなかで、いわゆる彼女という存在を持たない期間が長い部類の人間である。これをずばり「モテない」と言い換えられると、当たっているだけにちょっとヤな感じである。言い訳させてもらうと、幸いながら人生のその時々に恋愛以外で熱中できる何かがあったし、女友達もいないわけではなかったので別に悩むほどのことでもなかったのだが、ある時そのことの理由を見つけた思いがした時があった。

 それは三年前、ある女の子が、その女友達からの恋愛相談の電話を切ってふと漏らした言葉だった。

 「○○子っていつも『別れたい』か『彼氏欲しい』って言ってるのよね。まあ、あの娘は恋愛体質だから仕方ないか」

 恋愛体質だって? いつも誰かしら彼氏や彼女がいないと生きていけないタイプを指して、彼女はそう呼んでいたのだ。おもしろい言葉だと思った。体質か……。体質だったら仕方ないよな。恋をする機会の多い少ないは、気持ちとは裏腹に案外そんなような先天的なものに原因があるのかも。常に相手がいなくても特に不自由もなくやってこられてしまった俺は、さしずめ「非恋愛体質」といったところか。

 けどな。さすがにあと七年して三十五になって一人だったら、「体質改善策」練らないとな…。でもどうするんだよ? 走るのか? それとも泳ぐか?

 …………だめかも。

2001年10月20日(土)

ケータイが駆逐するもの

 数ヶ月間海外にいて久し振りに日本に帰ってくると、日本のちょっとした変化を感じることがある。アリナミンVの丸山家がいつの間にか共働きになっていたりとか……。それは冗談として、帰国してまず目についたのは、電車のなかで一心不乱に親指を動かす若い人たち。そう、ケータイ・メール。自分がケータイを持たなくなって早、九ヶ月余。その大半を海外で過ごしただけに、日本での「無ケータイ生活」が実はまだ新鮮だったりするわけで、余計に車内メーラーたちの鬼気迫る親指テクニックについ目がいってしまったりするのだ。

 姉ちゃん姉ちゃん。そんなに真剣な顔で何書いてんのよ?

 このケータイ・メール自体は、マユゲがまだ日本で普通に暮らしていた頃からある程度一般化してはいたものの、当時はこれほどまで見かけることはなかったと思う(当時といってもそれが一年にも満たない前なのだが)。彼らの姿を見ていると、将来親指が異常に発達(進化?)した人類がこの星を闊歩するという妄想もまんざらないことでもないと思ってしまう。

 テレビで目にしたCMでも、ケータイの通信会社やメーカーなどのものが多かった。その現象自体は相変わらずだが、カラー液晶の端末がさも当たり前かのように次々とテレビ画面に登場するのには少々驚いた。半年前は、合コン相手の顔写真をケータイで送るのは日本でまだ藤原紀香ただ一人だったのに、最近では酒井若菜が両手を上げて腰を振ったりしてるじゃない(それらのCMを見てない人には意味不明でごめんなさい)。写真付携帯メールという、「未来の通信」的イメージだったサービスが、徐々に世の中に浸透しはじめているらしい。これにはちょっとした浦島太郎的感覚をおぼえた。

 とにかく、こういった文明機器の分野での技術の進歩は本当に目覚しい。でもここでちょっと気になるのは、その移り変わりのスピード。その渦のなかに自分が身を置いているときには当たり前のこととして特に意識することもなかったのだが、そこを一歩離れ、古代人たちが生活を営んでいた遺跡などに足を踏み入れるような生活をしてみると、その「発展」の早さがちょっと異常にも見えてくる。浅野忠信が「鏑木」を読めなかったりしている一方で(またCMの話です)、この地球上には、いまだに馬車で荷物を運び、薪で火を炊き、汲み取り式のトイレで用を足しながらも、引きこもりやDomestic Violenceなどといった歪んだ人間関係とは無縁で、とても幸せそうに暮らしている人々も確かに存在した。

 もちろん世の中がどんどん便利になること自体は大歓迎だ。しかし物事には当然功罪があるわけで、それと引き換えに何かしら大切なものを知らず知らずに失ってしまっているに違いない。

 人間はそもそも不完全なものだと思う。放っておけば悪いことをしてしまうのが人間(マユゲは基本的に「性悪説」論者なのだ)。人間はそのコントロール能力を超えるものを手にしたとき、度々過ちを犯してきた。「核兵器」なんかはその象徴のようなものだろう。もっと足元に近いところの話をすれば、ケータイも本来人間が持ってはいけないものだったんじゃないか、そう思えてならない。「地域社会や家族の空洞化」や「モラル・ハザード」なんていう言葉が叫ばれて久しいけれど、特に最近の人間的コミュニケーションの欠如と公衆モラルの低下には、非常識者のマユゲだって顔をしかめたくなるときがある。少なからずケータイもその一因を担っていると感じる。

 姉ちゃん。
 そんなことで誰かとつながっているつもりなの?
 なんでそんなに急いでいるの?
 どうしてそんなにイライラしてるの?

 みんなどうしちゃったの?

 ケータイというのは「一人一台、いつでも、何処からでも」というその性質上、一見、一対一の密なコミュニケーションをもたらす素晴らしいツールのように見える。しかしそこに落とし穴があるのだ。

 身近な例で言えば、女の子への連絡の取り方。昔の中年男のような言い方になって恐縮だが、自分らの学生時代女の子に電話しようと思ったら、それはそれは大変だった。家に電話をかけると何故かこれがまた親父さんが出る。受話器を握る指に嫌な汗をかきつつ、自分が試されているような「寒い」思いのなかで、精一杯さわやかに、また堂々と自分が何者かを名乗り、やっと取り次いでもらったもの(ひどいときには「親父判断居留守」にされてしまうときもあったりする)。でも実はこの「手続き」がとても大事なことだったのだ。こういったことで、親は自分の子供たちを気に掛け、心配したり安心したりしていたんだろう。掛けるほうだって「社会」に認められようと一生懸命背伸びしたものだ。最近の親の多くが「時代の流れ」という言い訳や「みんな持っているから」というこの国でしか通用しない理由によって子供たちにケータイを買い与えることは、子供との接点を持つための大切な「手続き」を放棄しているのと同じことなんじゃないだろうか。

 他にも、電車の中なんかで大声で話してもその自分の「異常さ」に気がつくことができない「外見は人間のように見える生き物」が相も変わらず存在することにも驚かされる。また、その用途の五十パーセント以上が遅刻の連絡だったりするんじゃないかという、世の中的なケータイ使用状況……。これは自分にも身に覚えがある。

 確かに自分自身も会社員時代、「止むに止まれぬ状況」という名目のもと電車の中から電話を掛かけたり、タクシーから「申し訳ありませんが渋滞しておりまして……」なんて弁解をしたりした覚えがある。ああいったとき、何とも情けない気持ちになったものだ。俺は流されてるなあ、俺は弱いんだなあと。マユゲのような「弱い」人間とっては特に、日本に生まれ育ち、そこで生活していくということは、ある意味とても難しいことなのかもしれない。「赤信号みんなで渡れば……」的な風土の中で、ときに自分を見失いそうになるときがある。とても住みやすい国だけど、この国で少しでも「まとも」に生きたいと思ったら、自分は強くならなければならない。みんなと過ごす心地よい時間を犠牲にしても、もっといろいろな価値観を知り、自分に無力を感じつつも、そんな自分をいい方向に向かわせるための行動をしていかなければいけない。そう感じたものだ。

 もちろんこういったことは、何かを手放してみて初めて身に沁みて分かることなのだろう。そんなふうに新しい「気づき」をもたらしてくれるという意味では、今までの自分を少し変えてみるということは、実は結構必要なことなのかもしれないと感じる。

 規制がないとついつい悪いことをしてしまうのが人間だが、同時に「このままではいけない」と問題意識をもって未来に向かえるのもまた人間だからね。正論だけで生きていけないほど自分はすでに「汚れて」しまっているけれど、ちょっとはあがいてみようと思う。

 そんなことを考えさせられる母国滞在の日々……。

2001年10月14日(日)

読んだら押して↓
エンピツユニオン

My追加
▲TOPINDEXpastnext