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堀井On-Line
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2014年05月31日(土)
<内向型人間の時代> スーザン・ケイン著 * 自分の「スイートスボット」をさがそう この三年間の節目時、ストレスを溜めないことを第一に、一日、一週間、一ヶ月、一年単位のスケジュールをたてて、 ひたすら気持ちが落ち込まないことを目指してきた。そのため、スイートスポット(最適な覚醒レベル)を、要所要所に 配置したスケジュールをたて、改善をしてきた。 4時過ぎに起床し、直ぐに前日書いた随想日記の添削と、ネットのアップ。この時間帯が、第一のスイートスポット。 6時過ぎに、ポタリングで信濃川の大手大橋をヒキチャリ・ウォーキングが次。 そして、午前中の読書と、ネットサーフィンの時間帯。そして、午後がスポーツセンター、そして・・・ とつづく。 森の生活(現役)から、サバンナの生活(御隠居)に移動して一番良かったのが、このスポットを自由に謳歌できること。 もちろん、数年、数十年単位のライフワークがあればこそだが・・・ ーその辺りからー 《 内向性と外向性はそれぞれ特定のレベルの刺激を好むと理解すれば、自分の性格が好むレベルに自分自身を置くように することができる。つまり、自分にとって覚醒の活性が高すぎも低すぎもしない、退屈も不安も感じない状況に。 心理学者が言うところの「最適な覚醒レベル」―私はこれを「スイートスポット」と呼んでいる―を知れば、今よりもっと エネルギッシで生き生きした人生を送れる。あなたのスイートスポットは、あなたが最適の刺激をえられるところだ。 素晴らしい本を手にして、満ち足りた気分でハンモックに横たわっている姿を想像してみよう。それがスイートスポットだ。 だが、気づくと、同じ場所を何回も読んでいることに気づく。それは覚醒が低い証拠だ。そこで、あなたは友人に電話をし、 朝昼兼用の食事に出かけ―言い換えれば、刺激レベルを一段上げて―ブルーベリーパンケーキを食べながら噂話をしたり、 笑ったりしたりすると、ありがたいことに、あなたはスイートスポットへ戻れる。 けれど、より高い刺激レベルを求める 外交型の友人に説き伏せられて、パーティに出かけると、あなたにとっての心地よい時間は終わりを告げる。・・・ 》 ▼ スイートスポットに似ているのが、至高体験である。人生観が変わるほどの最高の感激・感動体験をいう。 この体験は「求めよ!さらば与えられん!」で、自ら求める者に、求めただけ与えられる。この絶対量が多いほど、 人生が豊かさになっていく。秘異郷旅行の体験記を書いたり、写真を見たり、旅先のTV放送などを楽しむことが、 私のスイートスポットになっている。他に映画鑑賞、秘境・異郷ツアー、ネットサーフィン、ブログ の下書き、読書、 TVのスポーツドラマやスポーツ観戦などがある。 当然のように一生を通して、徹底して貫いたプロフェッショナルが、 私の連れ合い。これが蓄積されると、スイートスポットの方が、本人を呼び寄せる。至高体験も、同じ! で、三桁、四桁は経験済み? 時々、「世の人の大分の人は、あんたの現状を知ったら、怒り出すぞ!」というと、 「なんたみたいな気短と一緒なら、誰も怒らないわ!」と宣う。 その辺の固定観念の牢獄のシタリ顔の老人、 何のことか、理解すら出来ない? それも人生だが・・・ で、どうした? どうもしません! そういうこと。 ・・・・・・ 2013年05月31日(金) 4458, 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー5 『 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 』ー番場浩之著 * 2日目 "足腰を軽快に A・膝を回す体位……54 基本体位=仰向けに寝て、両手を膝を包み込んで、肘を伸ばし、膝と手が離れないようにする。 1、「静かな一息」「軽く一息」を入れた後、息を出しながら、足の甲を伸ばして、両膝を手前に引き寄せる 2、さらに、息を出しながら、肘を伸ばして、膝・股関節を開いていき、膝と股関節を充分に開く。顎を引いて うなじを伸ばし、息を出し切る。 3、同時につま先を充分に伸ばして、「つま先ー>腰椎ー>胸椎ー>頚椎」の順に「大地のアパーナ気」を引き上げる。 4、息を入れながら膝を閉じていき「基本体位」に戻す。1〜4を、計三回行った後、「軽く一息」。 5、ここから逆回転で、合計三回する。 ▼ ポイントは、全身にくまなく「気血」が流れるように行う実践。つま先はしっかり伸ばし「気」を引き上げて 背筋を活性化すること。呼吸は「入息1に対し、出息2の割合で、呼吸と身体の動きが一致するように行う。 全身の血液の三分の一が脚にあるといわれるが、この還流がうまくいっているとは限らない。相対的に血液が 脚に滞ると、浮腫みや、逆に脳などの血液が足りなくなる。そのため膝の屈伸や指の活性化が必要といわれる。 要するに「呼吸をしながら、仰向けになり両脚を曲げ抱え込んで両手で広げる」ということ。 B・膝を伸ばして、足の指を活性化する体位: 基本体位=仰向けになり、膝の裏で手を組み、足の力を抜いてお腹でゆったり呼吸をする。 1、「軽く一息」して、「深く一息」を入れながら、膝から足先まで一直線に伸ばした状態で脚を上げていく。 肘も膝裏もできるだけ伸ばす。 2、以下の足指の動作を、順々に行う。 「足指を左右に開く」−>「親指を手前(下)、他の4本の足指を向こう側(上)へー>足指を握る 最後に、「軽く一息」−>「静かな一息」ー>「各自の一息」に戻り、息を整える。 ▼ 足指も、この体位だけでなく、普段でも広げたり、反らす訓練は身体に非常によい。 毎朝の簡単ヨガを始めて気づいたが、実際に始めると考えが出てくる。週二回のヨガで、これは 初日、これは二日目と分かる。ヨガのポーズは3千から4千あり、スポーツジムでは、その中の 100種類に絞っているという。同じポーズでも、その時の体調で感じ方が違う。それにしても、生まれてこの方、 これだけ、足腰を伸ばしたり捻ったりするのは始めて。精神的にも雑念を泡として分断してくれる作用もある。 ・・・・・・ 2012年05月31日(木) 4084, 老いの見本帳ーダークサイト −6 * 孤島としての老い 「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日 武彦 (著) ≪ それにしても、独りぼっちになってしまった「おじいさん」の孤独感とは、どれほど辛いものであったのだろうか。 気まずさ、寂しさ、自己嫌悪、そのようなものに苛まれつつ彼は残りの入生を送っていかねばならなかっただろう。 どうしてそんな目に遭わねばならないのか。 基本的に、世の中は弱り目に崇り目、弱者はそのことでなお追い詰められ、 不幸は不幸を呼び寄せるーそのような意地の悪い仕組みになっているといった認識がわたしにはある。すくなくとも医師として 様々な形の不運や不幸を見てくると、今述べたような感想を抱かずにはいられない。不遇であることは、それを帳消しにするような 出来事が不意に訪れる可能性よりは、なおさら足を引っ張るような「思いも掛けない無情なエピソード」に絡め取られる危険のほうが 遥かに高い。 だからわたしは負けたり失敗したりすることが嫌なのである。たとえ些細な敗北や過ちであろうと、それが運命に 「付け入る隙」を与えることになりそうで怖いのである(おかげで人生は疲れることこの上ない)。そして老いることもまた、 悪意に満ちた運命が付け入る隙のひとつとなり得るように思われて、意気消沈してしまうのである。しょぼくれた老人であれば それに相応しい不遇が訪れるであろうし、無理に若さに執着するような老人にはそれを嘲笑するかのような不幸が駆け寄ってきそうな 気がしてならないのである。 ・・・老いを孤島になぞらえることは適切なのだろうか。いや、人間は誰もが孤島のような存在だと 主張することもできよう。だがおじいさんとおばあさんの二人暮らしなどを見ると、あたかも融合してひとつの島であるように映りつつも、 潮の干満によっていつの間にか二つの別々の島になっていたりするものである。その微妙な加減が興味深い。いつしか片方の島は水没し、 まさに絶海の孤島となってしまったとき、むしろ老女のほうが淡々としかし粘り強く生きていくようである。「ええなあ」とのんびりした 口調で羨んでみたり、妄想に生きてみたり超然としたり、とにかく生き抜いていく。老女の独り暮らしというものには、 わたしが漠然と思っている以上に精神の働きの多様性が示されているらしい。≫ ▼ 老い、弱り目になると、祟り目が嫌でも待ち構えている。それなら、一日一生の思ひで、一日を消化するしかない。 だから何ごとも一期一会ので生きるしかない。 最近特に気まずさ、自己嫌悪が強くなってきている。問題は、その毒を貯めないよう、 日ごと処理しなければならない。現在、一日三時間の運動と、TVやシネマで映画を一本はみている。それでもフラッシュのように、 色いろの後悔する記憶が次々と浮かんでくる。なる程、老化とはこういうことなのである。孤立というより、孤島にただ独りという 実感が老いの寂しさになるだろう。生まれてくるときも、死ぬときも、ただ一人。 まだ背後から死が追いかけてくるような感覚が、 あと数年もしないうちに、目の前から死がジワジワと忍び寄ってくる感覚になってくる。 それにしても暗い顔をした老人が多い。 ・・・・・・ 2011年05月31日(火) 3718, 閑話小題 △ 現時点の関東大震災と、今回の震災の比較は? 現時点で、1923年の関東大震災と、今回の大震災、どちらが日本にとって打撃が大きいのだろうか? 関東大震災は東京が、二次災害の火災で10数万人が亡くなった。死者の数は、あまりに多かったため、混乱が生じて、 確かな数値は、推定しかないようだ。首都東京が壊滅的にやられたのだから、大打撃だったはず。 更に、その数年後には世界恐慌にも巻き込まれている。 今回はまだ原発の事故が収束に至ってない。 今後どれほど日本にとって大きな影響をもたらすか、まだ未知数。 したがって関東大震災ほどでないとは、いいきれない。 首都圏に近い上に、本州壊滅の可能性も充分にある。失われた20年という長期的不況に見舞われ、その上にリーマンショックである。 日本経済は深刻な事態の上の、これである。決して、楽観視は出来ない状況である。そうこう考えると、現時点の判断は、 10年スパンで考えると、今回の方が遥かに大きい震災と考えてよいのでは。 変な民主主義が蔓延っているから、なお深刻である。 △ ジャズは、早朝のサイクリング(でiPodで聞く)によい! 二年近く冬期間をのぞき、信濃川に早朝、サイクリングに行っている。これまでサイクリングでiPodでクラシックなどを 聴いていたが、最近、ジャズを聴いている。ジャストいえば、夜の喫茶店か、スナックのイメージだが、朝の土手のジャズが意外とよい。 2ビートが、早朝の心と身体にリズムをつけてくれる。 鳥の鳴き声や海やせせらぎの波の録音などアルファー波が自然と出る 単調なリズムのものを聴いてきたが、ジャズを早朝とは・・・ ジャズといえば、ルーツは黒人の霊歌で、明るさと暗さの境目が、その背後にあるため、夜明けにあっているためである。 その上にスポーツ・ジムでもiPodでジャズを聴いている。 これも運動に2ビートがあっている。 「聴覚を人はもっと活用すべき」というが、そのとおりである。ジャズはリズムとテンポというが、運動に本来あっている。 にわかジャズファンの誕生だが、これまではクラシックファンだったが、これは中途半端。 演歌に、クラシックに、ロックに、 カントリーに、何でも好きだが、これは!というのがなかった。 そこで1200曲がiPodに入ったからジャズに絞るか? というのも、何か軽すぎる? しかし、軽くて結構。門前で拒否するより遥かによい。 特に、こういう落ち込みやすい時期には。 ・・・・・・・ 2010年05月31日(月) 3353, 何で25坪の店に6人の従業員? 一昨夜は、長岡駅中の鶏料理店「鶏陣」に行った。25坪ぐらいの店に男5人、女1人、合計6名の従業員。 首都圏など人口密度の高い好立地なら別に不思議ではないが、地方の駅中の鶏専門店で異様な多さ。 ガラスばりの向うに見える厨房が異常に大きい。 焼き鶏弁当、鶏肉の炒め、鶏ハルマキ、ビール2杯に、酒一本で、 二人で4000円なら安い。 土曜の17時半にしては客が少ない。 また隣の「朝日山」より従業員がなぜか多い。 そこでHPをみたところ30店舗ほどのチェーン店。 一晩寝て起きて、同じ駅中にあるファーストフードと惣菜販売コーナーに、 焼き鳥販売店があったことを思い出した。週に一度は隣接しているスーパーで酒の肴を買ってるから前を通っている。 ただ、高いから一度も買ったことがなかった。 そこで改めてHPをみたところ、店名は「鶏せい」と違ってはいたが、同じ系列。 思ったとおりであった。 100メートル離れている居酒屋の厨房がセントラルキッチンを兼ねているのである。 焼き鳥店の店頭で焼き鳥の販売をしている店を見かけるが、駅中の至近距離に飲食店と販売店を効率よく運営していたのである。 厨房が店のわりに大きい理由は、そこにあったのである。 (字数制限のためカット2012年5月31日) ・・・・・・・・ 2009年05月31日(日) ゆれる雇用・日本の20年間 NHKの「アーカイブス」で放送された、この20年間の〈ゆれる雇用・日本の20年間〉を幾つか放送して、金子勝などが 検証する番組である。1993年、2001年、2006年、2009年と再放送をしていたが、後半になるほど、内容が深刻度を 増していくのがわかる。 その都度、自助努力というが、その言葉が空しい。ここで再放送されていた4回分全てを 過って見ていたが、改めて時系列に連続して見せつけられると、日本衰退の姿が赤裸々に見えてくるようだ。 ーまずはNHKのHPの、この番組の紹介からー バブル経済が崩壊して以降、私たちを取り巻く雇用環境はめまぐるしく変化してきた。 終身雇用、年功序列という働き方は最早当たり前ではなく、パート・フリーター・派遣など、 必要な時に、必要な人数をかき集めるという労働力確保の方法が幅を利かせる時代になっている。 一見、合理的にも見えるこうした雇用のあり方。しかし、ひとたび不況になれば、中高年層、 非正規社員など、弱い立場の人から次々と職を失っていくのが現実である。 何が、これほどまでに雇用環境を悪化させてきたのか?NHKアーカイブスに残る各時代に苦境に立たされた 人々の姿と、経済学者・金子勝さんのお話を通して、バブル以降、揺れ続ける雇用のあり方を見つめ直す。 ーゲスト:金子勝さん(慶応大学教授)/司会:桜井洋子アナウンサー&林家三平ー ■NHKスペシャル「平成不況・中高年管理職の憂鬱」 1993年放送 バブル経済の崩壊により、いわゆる企業戦士として会社の成長を支えてきた中高年世代を早期退職という名の 合理化が襲った。 定年まで勤め上げることを前提に人生設計をしてきた中高年管理職。 その戸惑いを通して、私たちの働き方の大きな転換点となった終身雇用の崩壊を検証する。 (字数制限のためカット2012年5月31日) ・・・・・・・ 2008年05月31日(土) 2614, 東京湾 漂流死体は語る ?1 図書館で見つけた本だが、それぞれの死体が語りかけてくる刺激的な内容が初めからつづく。 深い悲しみが、その死者の追跡から浮かび上がってくる。ホテルの自殺の場合、当事者として刑事が自殺の原因とか、 家庭の事情を知ることとなる。横浜港の漂流死体の場合、原因を追究していると不幸な生き様が垣間見えてくるという。 読んでいても、行間から人間の業の深さと、その結果としての悲しみが胸に突き刺さってくる。 ここに出てくるのは世間を騒がすような猟奇的な事件ではない。しかし、一人悲しみが死体として漂流している人間の結末から 叫びとして突き刺さってくる。死ぬには死ぬなりの事情が、それぞれあるのである。娑婆には亡霊が彷徨っていても不思議ではない。 これを読んでいてつくづく思ってしまった。一つ間違えば誰にも、ありえるのである。 この本が出版されて14年にもなろうとしているが、現在も同じような仕事に従事している人がいるのである。 アメリカのTVドラマのシリーズで、「CSI・科学捜査班]という刑事ものがある。 死体から、犯人を追い詰めていく内容だが、この本は、人生を追いもとめるもの。 だから、読むものの心を引き付けるのである。 あとがきーに、この本の要約が明快に書いてあった。 ーー 豪華客船、貨物船、タンカーなど、世界各国の船が出入りし、あらゆる人種が行き交う世界最大級の海の玄関口、 横浜港……。 (字数制限のためカット2010年5月31日) ・・・・・・・ 2007年05月31日(木) 2249, 耐震偽装 ー5 (o゚▽゚)o オハョ? 以下の文を読む限り「アパ・グループ」は非常に??な集団である! 片耳の内容を一方的に信じるのは何だが、 社長が安部首相の後援会副会長で、それ故にまだ存在しているのだから、開いた口が塞がらない。 しかしネットで、この事実は全国津々浦々まで浸透し続けている。これは抑えることのできない事実である。 検察まで加担した事実を昨年暮れに藤田が外人記者クラブで披露しているビデオもネット上に公開されている。 ウヤムヤの幕引きは絶対にない! そんなバカなことがあって良いわけがない。 私が知る限り日本は、そんな非常識が通る国ではない。今年の後半は大きな嵐が国内を吹き荒れることは間違いない。 もしそうでないとしたら日本は救いようがない。{ こう書きながらでも、もう救いようがなくなっているのでは? という疑問がわく!しかし・・??} ??の孫という血筋だけで首相の座が転げ込んだ甘さが、この耐震偽装疑惑事件に 象徴的に出ている。政治は一寸先は闇である。 この男が、憲法改正をやらないで、誰がやるというのか?全く! P-408 そうした中、2月14日頃であった。会社の真志尾から「報告したいことがある」と、僕に内線があった。 手に資料を抱えながら、「新たな偽装物件が発見されました」と声を上げた。 僕はまた姉歯関係かと、と思った。しかし、その予測に反し、「姉歯ではありません。 田村水落という、アパグループの構造設計を一手に行っているところです」と。 「今のところ、三棟です」と、付け加えた。もう、大抵のことには驚かなくなっていたが、 アパグループの名前が出たときには、「ヒューザー以上の大問題になる」と思わざるを得なかった。 (以下字数の関係で中間カット09年05月31日) ーーー 信じられない内容である。非常にたちの悪い会社であり、行為そのものが犯罪的である。 この本は、もう全国にばら撒かれマスコミが底辺で動き出している。それよりネットで飛び交っているから 何時どこで発火するかだ。 恐ろしい!と時代の変化の凄さを知るのは、彼らだろう。 建設関係の人から聞いた話だと、マンションそのものに疑いを持ち始め、買い控えが始まっているというが・・ 私は元々アンチ・マンション派だが。 つづく
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2014年05月30日(金)
* 今日は父親の41周期 5月30日は父親の命日で、毎年、ここで思い出を書いてきたが、年々、似ていることを繰返し偲ぶことになる。 歳を重ねるほどに、父親に顔も性格も、ますます似てきているが、父親を知る人は、もう周囲には殆ど居ない。 人生を振返ると、父親の大きな影響の中で生きてきたことが思いやられる。その父の亡くなった年齢に、あと二年でなる。 三年前の会社整理もあって、父親を乗越えることが出来なったが、私にとって、父の視線が、常についてまわっていた。 内語で、大事な決断時に「オヤジ、どうしよう」の自問自答を繰り返していた。その内なる対話が、知恵の原泉である。 父親が42歳時の末っ子のため、溺愛に近い状態で育ってきた。この温もりが心の奥にあればこそ、多くの難関を乗り越える ことが出来たようだ。いざとなると、折れてしまう人は、両親の温もりが少ない人が多いようだ。 親の温もりが、 その人の温もりになり、それが、生きていく大きな力になる。良い時代に、良い両親に、良い人に恵まれたことが、 私の大きな財産になっている。特に、父親の愛情と恩恵は、何ものにも代えがたい。 * 内省の日々 数日前から、ー「事業人生を決心して45年」の語り直しーのテーマで書き出しているが、ここで気づいたことは、 これは内省そのものということ。それをそのまま公開するとは、自分は何だろうと疑問がわいている。 父の命日の 想いも、内省になる。いま現在、命日の朝4時、父の魂と自分が向い合っていると、背後の数メートルから、 「なんてザマだ!」と、一喝されているよう。 父親が私にもとめたのは、「人生、社会の規制にとらわれず、 事業も趣味も最大限に生きろ!」ということ。 しかし、この程度しか生きることができなかった反省と、後悔がある。 酒癖の悪さで、多くのチャンスを自ら潰し、世界を小さくしてきた自分を省みることも、内省である。 それからみて、この結果が私にとって‘ベスト’では? と・・ これは自己鎮撫になるか。 来し方を振返ると、何とも浅ましい己の姿が浮かび上がってくる。このような人生を自嘲した歌謡曲があったが・・・ 老いていくと、真面目になりざるを得ない。その視点で、過去を後悔するのは、所詮は老人性欝症のなせる業ではと、 内なる声もするが・・さて、これをアップして、父親の墓参りに行くことにするが、この随日も、私の法事になる。 ・・・・・・ 4457, 今日は父親の命日 ー40周年 2013年05月30日(木) 今日は父親の命日、亡くなって40年になる。ここで毎年のように父の思い出を書いてきたが、父も本望だろう。 私も父の亡くなった71歳に、あと3年半で到達、目先の目標に近づいてきた。私の早寝早起は、父親の生活習慣を見習ったこと。 亡くなった当時は高度成長期真っ只中に、石油ショックが起きて日本中が青くなっていた。それから日本も世界も動乱が続いた。 私にとって父の死と、半年後の千葉での創業と、結婚は、大きな分岐点で、父の死を引きずり悲しんでいる暇は無かった。 何事も直接跳ね返ってくる事業人生が始まったからである。「親の死は子供に対する最大の贈り物」という言葉のとおり、 父の庇護が無くなり、それから全ての責任が直接被さってきた。 全てが未経験で、分からないこどだらけ、そこで亡くなった 父親を心の底で呼び出し、「どうする親父?」と一緒に考えていた。 次から次への難問が押し寄せ、判断、決断が迫られる。 頼れるのは、浅い経験と知識。それと「親父なら如何する?」の仮説の自問自答。あの時からの40年の歳月は、やはり長い。 世界も日本も、そして私も変わってしまった。 情報化社会の本格的到来と、ソビエト・東欧の崩壊、中国の共産主義の放棄が、 大きく世界を変える要因になった。 心の底で父に、「ここまで激しい変化、親父も信じられないのでは?」と問いかけると、 「私の想像を遥かに超えている。しかし、羨ましい限り。世界の果ても気楽に見れるし、知識情報も簡単に入手できるし・・ 混乱期としても豊かさの範疇。少し先読みをし、変化を受け入れ自分が変われるかどうかだ」との返事。 過去の命日に、その時点の思い書いてきた。読み返えしてみると、成るほど思いは残るもの。私が書いているというより、 父本人が書いてと思える位だ。両親から生まれでて、両親の元に帰っていくイメージがあるだけで充分幸せである。 父を通して多くのことを学んだ。何があったとしても、両親の御蔭で、よい人生を過ごせたと感謝している。さて、お参りだ! そういえば、母親の命日に、このような文章を書いてない。もっと世話になったのに。時々、夢にリアルに出てくるためか? ・・・・・・ 4083, 父の命日 ー40回忌 2012年05月30日(水) 5月30日には、毎年のように供養も含めて同じようなことを書いている。39年といえばアッという感より、遥か古い昔に感じる。 父が亡くなって5ヶ月後に千葉で千城台ビルをオープン、その一ヶ月後に結婚をした。亡くなった直後は、ショックで茫然自失だったが、 数ヶ月もしないうちに激務が待っていた。そのため父の死を悲しんでいる余裕も無くなっていた。その激務の中、ただ真正面に ぶつかっていくしかない日々。そこで精神的、肉体的体力は、そのプロセスからついてくることを知った。 人間にはイザとなると、 信じられない力が潜んでいる。極限に自分を置いて真正面からぶつかれば、何とかなるものである。 私にとって生まれてこのかた、 父の存在と影響があまりに大きかった。亡くなってから気づいたが、常に父を意識して、物事を判断してきていた。だから、 その時に父が亡くなったタイミングは私にとってベストの贈り物だった。 父の死と、事業の立ち上げと、結婚と、私にとって初めて 独り立ちであった。 全ての計画、判断、実践を自分がして、結果がストレートに帰ってくるのである。 それが慣れるまでは、 「自由の不自由性」に戸惑ったが、一度慣れると、これほど面白いものはないと感じるようになった。 全てが自分一人の判断しか 頼りにならない。とはいえ決断しようにも自信がない。 そこで、自然と、「自分が父だったらどうしただろうか?」の自問自答になる。 そう考えると、幼児の頃から父は直接、間接的に多くのことを教えてくれていた。 経営学とかの理論は、実践の場で直接役に立たない。 頼れるのは場当たりの直感だけである。事業を始めてから現在まで、子供の頃からの両親の教訓が役にたったことか計り知れない。 しかし終わってしまえば、それまでだが、自分がやりたいことが創業ビジネスだったので、現在の結果は、殆んど後悔はない。 創業を幾つか楽しんだ結果、三つの経済災害で終わっただけ、と本心から思えるから有難い。失う哀しみは、いずれ味わう時期がくる。 順調に後継者に引き継いでもである。それなら綺麗さっぱり、根こそぎ洗い流されてしまえば諦めがつくというもの。 この結果は、ワーストでもなく、ベターでもなく、ベストだったのかもしれない?。 世界恐慌の直前もあり、ベスト? 父が生きていて私を批判するなら、「調子に乗りすぎて、天合を欠いたな!」。 新潟駅前で500室は過剰だったかもしれない。 それでも父は、「その結果に押しつぶされる方が大問題。撤収は、正解!」と言うはず。 世界も、日本も、この異常事態なら当然。 ・・・・・・・ 3717、閑話小題 2011年05月30日(月) * 今日は父親の38周忌 父親が亡くなって38周年。私には生前の父親の存在があまりに大きかったので、亡くなった日が、第二の自分の誕生日と思うほど。 その時が精神的自立の時だったようである。毎年のように同じようなことを書いているが、八人兄姉の末っ子で、父親は特別に私を 大事にしてくれていた。その意味で、私の人生は当たりと信じている。両親の愛情の分量が、自分という存在に対して、肯定的に なれるかどうかの境目になる。父が亡くなって38年という歳月は、長く、刺激的な日々であった。 結果として、この事態(倒産)になっても、時代背景に飲み込まれたと諦めがついている。 父から学んだことは、金銭哲学である。 『死に金を使うな、普段の生活を節制し、使うべき時は使うこと。事業を通して人生を楽しむこと。趣味は大事にすること。』 大筋は、こんなものだが、人生の何たることか、両親の生き様を通して学べたことは、本当に良かったと思っている。この事態でも、 両親の子供のころ見てきた苦労からすれば、数分の一でしかない。だから、平然?としていられる。事業を起こし、維持し、そして、 消滅させる物語は、そう甘い要素で成り立つ訳がない。その前提を知っているから、その辺の輩の批判、罵倒は無視出来る。 それにしても、自分の息子に毎年、このような追悼の文章を書いて貰える父も幸せ?である。 これが私の供養である。 * 地震保険について TVのモーニングショーを見ていると、「地震保険」について取り上げていた。東北大震災以来、保険の契約が三倍に増えたという。 意外と知らないことが、多いのが地震保険。 ーまずは、その内容から 【 ・火災保険に入ってないと、地震保険は入れない。地震の時に発生した火災では、火災保険はおりない。 ・支払い最大範囲は、火災保険の3〜4割まで。家を建て直すというより、生活保障の役割でしかない。 ・全壊が全額、半壊が半額、一部損傷が5パーが、目安という。 ・地震の場合、保険屋がパンクした場合支払いが不能になる心配は(国家が5兆円まで補償するので)ない。 ・建物の構造や、地域によって、保険金は大きく変わってくる。 ・地震保険に入っている割合は、火災保険に入っている人の4分の1 ・全壊で100パー、半壊で50パー、一部損壊で5パーが、保険でおりる目安。 】 ー以上のことは、このTVを見るまで、知らなかったこと。これに入るか否かは、それぞれの住居環境による。 ・・・・・・・ 3352, 父の命日(37周年) 2010年05月30日(日) 毎年、父の命日に思い出や人となりを書いていると、多くのことが記憶の彼方から思い出される。 思い出し、書くことが父にとっての供養と思っている。 「過去の所業と思いが魂」と仮説を立てると、「両親と子供の頃の思い出は魂の故里」になる。 これまで書いてきたが、父は典型的な明治人で、シャイな性格。 長男で実家の古美術商を引き継ぎ、 第二次世界大戦の戦時中は骨董は売れなくなったため、兵隊の戦死者が多くなり仏壇と仏具の販売で乗り切った。 終戦直後は古着の売買に転進、その後、衣料品量販店に切り替え、地方では小さいながらも名をなした。 古美術商の時代には、地元出身の山本五十六や、ツガミの津上退助、そして野本互尊などに骨董品を収め、 時代の潮流の情報や薫陶を受けたのが人生をプラスにしたベースになったようだ。 その結果、「情報の先取りと長期的視野と、転進が、人間の一生を左右する」というのが持論にあった。 それは教養によってベースが築かれることを彼らから学んだようだ。 学歴コンプレックスも大きかったが、 それがバネになっていた。 日々の生活を節制するのがベースで、贅沢、慢心、虚栄を忌み嫌い、清潔、 潔癖の明治人の特徴を、そのまま受け継いでいた。朝は5時に起き、仏壇で祈り、新聞を隅々まで読むのが日常だった。 その辺は私も同じで、これは家の文化(ハビトス)か。 また人に妥協するのが大嫌いで、親戚以外は、 株屋ぐらいしか周辺に近づけなかった。酒は年末年始に少し飲むだけで、外食は贅沢と最小限度しかとらなかった。 (当時は、それが一般だったが) 年に一度の法事と、大晦日の年越しの家族と従業員との宴会が晴れのときで、 その楽しかったことが、そのまま父の思い出となった。 恐らく自分が死ぬときのイメージは両親の手に引かれ、 光の中に消えていく光景になるだろう。 毎年、父のことを書き続けた文章を読み返すと、書き残す不思議を思い知る。 書くことは、その時点では心の記録だが、時間の経過とともに魂の記録になるのである。 人間の脳の思いなどアテにならないし、思い出もそうだ。しかし書き出し、それを重ねることで、魂に熟成していくのである。 音楽家は音楽で、仏像師は仏像で、作家は小説で、魂の記録として刻印されるのである。 それも宇宙時間からみれば微小のこと。しかし、微小のことでも、それに乗っている間は人生である。さて、恒例の墓参り! ・・・・・・・・ 2977、父親の37回忌に 2009年05月30日(土) 今日は父親の37回忌。亡くなって、もう36年になる。命日に何度か父のことを書いたが(後でコピー)、 テーマにすることが供養になると思い書いてきた。父親のことを考えると、自分とは何だろうという哲学的な問いになる。 私の場合は特に父親の影響が大きかった。誰でもファザコン、マザコンだが、父が43歳の時に産まれたこともあった。 そのために幼児から少年期の記憶に、父の所業が記憶で多く残っている。 母親は仕事の前線に立っていたので、父が何時も 私を連れて街の何処かにつれ歩いていた。その為に父が亡くなるまで、その影響は大きく、27歳で亡くなった時に初めて 精神的に独立をすることが出来た。(同時に結婚をしたこともあるが) 父が私の年齢(63歳)の時に、私が20歳だったが、 その時の父は元気溌剌だった。時代は昭和41年(1966年)、高度経済成長期真っ盛りの時期。 その時代と現在を比べると、 その段差には大きい。まだ日本中が坂の上の雲を見つめて急成長の頂上にいた。父は明治38年生まれで家を中心に常に考えていた。 父の頭の中は戦前、戦中、戦後の経験が重なっており、そのことを事あるごとに話をしていた。 特に長岡の戦災体験は生生しく残っていたようだ。 また戦後の時代の流れの激しさに焦りを感じていた。 ソ連も、昭和40年代が絶頂期で、まさか20年あまりで消滅するなど、考えられなかった。 また、アメリカもその後20年もしないうちに、壊滅的経済破綻になるとは・・父を思い出すというより、父の視線で世の中の 変化を見ている自分がいる。命日に父のことを書いた文章を読んでいると、父の影響が大きく自分に影響していることがわかる。 その枠を破壊できなかったのか、それとも、それはそれで私らしさで、そのまま結構なのか? いや、出来の悪い1・2代目でしかない。 しかし自分の心に誇れる父を持てたことは幸せである。 それに引き換え私ときたらまったく? 今さら、どうもこうもない。 以前、父の魂が自分の魂と合体したような 不思議な夢について書いたことを思い出した。 その辺のことを書いた文章をコピーしてみた。 さて墓参りである。 これだけ毎年のように書いていれば、下手な法事より供養になるだろう。 ▼ H0407霊的体験 二十年近く前になるが、父の死後四九日の終わるまで何度か不思議な体験をしてみた。 死後一週間後位か妙な夢をみた。私自身父の気持になり“死にたくない。もっと生きたい、生きたい”という“念”になった夢。 そして夢よりさめた時の妙な気持。私自身父になってしまった。いや私自身(父自身)生きている!という妙な不思議な感覚である。 夢の“念”は父そのものであるし、父と一年身近で苦しんだ為に“念”が自身実感できたのだと思う。それが夢よりさめた自分の魂が “父の魂”と一緒になったという不思議な実感。経験した人間ではないとわからないはずだ。また死後二?三日後の夢も強烈な夢(?) であった。何か強烈な恐怖感がおそってきた。その時、父のベットで寝ていたが“おやじ助けて!”と言ってしまった。 と同時に廊下の向こうにある仏間より本当に強烈な“引力”が足をひっぱった。そのひきずりこまれた瞬間ベットにしがみついたが その時隣に寝ていた母がスクッと立ちあがりトイレに行った。全身汗びっしょりであった。まだまだ不思議な事がいっぱいある…。 あれ以来最近は少なくなったが幽体離脱とか、妙な霊的体験が多くなった。 ・・・・・・・・ 2613, 閑話小題 2008年05月30日(金) ー今日は父親の命日ー 父親が亡くなって35年、36回忌である。 毎朝、仏壇で、父・母、兄・姉、義父・義母、そして10人位の因縁のある故人の顔を思い出し手を合わせている。 一番初めは父であるが、父の愛情の上で、現在の自分があると歳を重ねるほど実感する。 家庭的には恵まれていた。特に両親との相性が良かったことが私の人生にとって一番の要だった。 次には家内との相性だが、それなりに? この文章を推敲し、ネットに上げ、墓参りに行く。 ー交通事故死がピーク時の三分の一だとー 交通事故死が5744人と54年ぶりの低下とマスコミが報じていた。昭和45年度には16765人というから三分の一に減ったことになる。 車の数は数倍になっているはずだから、十分の一以下になったことになる。一昨年の福岡市の3幼児死亡事件で警察庁が 飲酒運転の強化を図ったことと、シートベルトの義務化が大きな要素になっているという。去年の交通事故死の半分近くが、 65歳以上の高齢者で占めているというから、年寄りは交通事故には特に気をつけないということになる。 10年近く前で、一万人を割ったと聞いていたが、ここまで減っているとは知らなかった。
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| 4823,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー4 |
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2014年05月29日(木)
「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著 * 万能薬としての「語り直し」 このところ、ー「事業人生の45年」の語り直しーを書き始めたが、何故か心が重い。 気持ちの中で目的のため、多くを切り捨ててきた部分を違う視点で見ることになるからだ。 しかし、一つのことを得ようとしたら、それに見合うだけを捨ててかからないと、 何も得ることができない。万能薬として「語り直し」も、劇薬にもなってしまう。 これまでの記憶のありようを現在の主観的経験で変えようとするのが、「語り直し」である。 ーその辺りから 《 その人の立ち位置によって、同じできごとでも違って解釈できる。だから、過去のどんな できごとも、必ず違ってみることができることを、肝に銘じて賜おくことが必要だ。その上で、 ある過去のできごとについて意味づけを変えるためには、そのできごとを、それまでとはちがう ことばで語り直さなければならない。世間には「時間が癒す」という言いまわしがある。 ここで、見過ごされがちなことだが、「時間が癒す」のは、単に時間が過ぎ去るからではない。 時間が過ぎ去る間に、人はそのできごとについて何度も考え、悩み、さらには新しい経験をする。 このことによって、元のできごとの意味づけ、語りかたが変わるからなのだ。 ・・(中略) 「記憶をつくり変えたり、それを遠ざけるのは無理なことである。・・(略) しかし、―つねにー私たちは、自分の苦悩、自分自身の内的経験、自分自身の精神の経過を 処理しているわけである。それは、過去とよばれる客観体ではなく、現在とよばれる主観的経験である。 変える必要があるのは、誰か他の人間ではない。最も大きく影響されているのは、私たち自身である。 記憶をぬぐい去ることはできないが、記憶の有りようを変えることは可能なことを、私たちは知っている。」・・》 ▼ 現在、連続シリーズで書き始めたのは、「語り直し」だが、それより、全く忘れていた 記憶の書き加えが多くなる。それが、書き直しということだが、太い幹の記憶から、忘れていた 細い幹と小枝と葉っぱ記憶が出てくる。その記憶が新たな気づきを喚起する役割なってくる。 若い時分は、誰も経験も知識の絶対量が足りなく、ただ漠然と日々を過ごすしかなかった。 あるのは、何とかなるのでは?という、儚い想いだけ。語り直しは内省そのものになる。 ・・・・・・ 4456, 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー4 2013年05月29日(水) * 1日目 "胸を開いて積極的に 『 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 』ー番場浩之著 A・完全な呼吸法をする体位……40 1、基本体位=仰向けに寝て、脚を少し開く。両手は臍の上に置き、親指と一さし指で三角形を作る。 「静かな一息」−>「軽く一息」で息を出し切りながら、足の甲と膝裏を十分に伸ばす。 顎も引いてウナジも伸ばす。 2、お腹と脚を緩めると自然に息が入る。さらに「深く一息」を入れながら、バンザイをするように 両腕を左右45度に開いて上げ、手指を開いて肘を伸ばす。次に、膝裏を伸ばしながら、足先を手前に 引っ張るように足裏を反らし、足指も充分に開く。この状態を保つ。 3、ゆっくり息を出しながら、手を元に戻して「基本体位」で「軽く一息」。 4、もう一回、1〜3を行い、最後に「軽く一息」−>「静かに一息」−>「各自の一息」で整える。 B・背骨をねじる体位(腕で半円を描く)……47 1、基本体位=仰向けに寝て両足を揃え、手のひらを上に向けて腕を横に伸ばす。次に右手を左の手の平に 重ね合わせて左脇を下に横向きになる。次いで右膝を曲げて床につけ、足裏を左膝上部にあてがう。 右腕を顔前の床に伸ばし、左手は右膝にあてがってしっかりつかむ。 2、「静かな一息」−>「軽く一息」の後、「深く一息」を入れながら右腕を垂直に上げ、腰を入れる。このとき、 入息に合わせて指先はきちんと揃え、肘もまっすぐ伸ばす。 3、息を出しながら足指を握り、左膝裏を伸ばして腰をしっかり入れて意識しながら、右腕を背中側に押し倒して 背筋をねじる。ここで、出息に合わせて、足先から手指先までの「大地のアパーナ気」の流れを感じながら行う。 (膝が床から浮かないように注意し、首もねじって右手先を見ながら行う) 4、戻すときは、まず息を入れながら腕を垂直に上げて腰を感じ、次に、ゆっくりと息を出しながら、 丁寧に1の姿勢に戻す。「軽く一息」したら、もう二回2〜4を繰り返す。計三回。軽く一息、 静かな一息、各自の呼吸で、息を整え手、右腕側が終了。 5、向きを変えて、反対側も、同じことを繰り返す。 ▼ 座位で呼吸する他に、仰臥の姿勢で身体を伸ばしたり、捻って呼吸することで、「大地のアパーナ気」と、 「天のアパーナ気」を取り入れる行(ポーズ)である。ヨガの実習は、前屈、反り、ねじり、直立、 完全弛緩、座法の姿勢を意識的に繰り返す実習で本来の姿に戻すことを目指すもの。 特に、一日目の、この二つは、基本中の基本である。これを身に着ければ、ダイナミックな「気」を 引き出すことが出来るはず。そういえば、学生時代の合気道に、ヨガの呼吸法に似たところがある。 合気道は相方と呼吸を合わせて気を練る。それに対しヨガはあくまで己独りの世界。 合気道の基本技には、 「前屈、反り、ねじり、直立、完全弛緩、座法の姿勢」の全てが含まれている。 ヨガの「大地のアパーナ気」と、「天のアパーナ気」を取り入れる行(ポーズ)も、20年位前の 早朝ウォーキングの途中の橋の上で、天に両手を上げて天の気を取り入れ、それを、大地の底(地球の芯)に 吸い込ませる呼吸をしていた。ところが、暫く休んでいたら、地球の芯が「ひさしぶり!」と反応してきた。 あくまでも擬人化した対自か即自だが、現在では「球芯様」と名づけて、早朝のミニ・サイクリングの 自転車上の自己対話の相手にしている。 ・・・・・・ 4082, 老いの見本帳ーダークサイト −5 2012年05月29日(火) * 老いと勘違い 「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日 武彦 (著) ここで、著者は長いページをさいて、中原文夫の「本郷壱岐坂の家」を紹介しながら、「老いと勘違い」について書いている。 その概略を紹介しながら、現在の私の心境と、老い、そのものを考えたい。 ≪ 主人公は多摩川沿いで大会社でないとしても、180人ほどの会社を持っている会長。 息子が社長で、妻も元気で、事業も順調である。 ある日、涼子という20歳の女子社員が給湯室で三人の女子社員から詰られている場面に出くわす。その時、70年前の記憶がよび戻る。 14歳の時に家に家政婦できていた、同じ年代の中山スズという娘を思い出す。別に女性として意識はしてなかったが、何故か意地悪をする。 その女性に似ていたことと罪滅ぼしの感情もあり、強引に自分の秘書にする。そして会長職もあり、仕事内容は私用が中心になる。 妻とともに、その女性を身内同様、可愛がっていた。ところが、ある日、会社で火災が発生する。息子の社長の話だと、どうも、涼子が 火を放ったらしい。 彼女の話では、その間接責任は主人公の会長にあるという。 総務部長の自宅に電話をしてきて「勤務以外の時間に 私用で拘束し、休日は自宅に呼びつけ調理をさせたり、女中代わりに使っていた」という。 すべての好意が歪曲され、悪意で色づけ されているのに呆然とする。 その彼女から電話が鳴る。罵詈雑言である。その頃、苛めた中山スズの娘から、一通の手紙を受け取る。スズは既に亡くなっていたが、 死後に、手紙を届けて欲しいと言われていた。その手紙の内容では、あまり幸せでない生涯だったが、主人公と、その父親に対する深い 感謝の言葉が並んでいた。あの二年間が人生で一番幸せだったと。 そこで思う、「俺はどういう人間なのだろう。思い当たる節もなく、 他人から慕われ、そしてまた、かくも憎まれるということは、これは立派な罪ではないか。 ・・・主人公は、これ以上ないおぞましい 感情を突き付けられ、縋るように本郷壱岐坂の家とスズのことへ、思いを寄せる。スズという過去の娘と涼子という現在の娘、それぞれ 互いに感じ考えていたことが全く違っていた皮肉を綴っている。 ・・・精神科医の立場のコメントは、涼子のような女性は世間に一定の 割合で偏在している。ある種の人格障害には、まぎれもなく彼女のように「最初は普通に見えたのに、ある時、豹変して相手に憎悪を ぶつけ、今までは耐え忍びつつ演技をしてきたと言い放つ」といった類型が存在をする。それは往々にして相手に深い精神的ダメージを 与える。それによって、もはや人間そのものを信頼できなくなってしまう。・・・ ≫ ▼ 現在の私の置かれた立場は、オセロゲームで、最後のコマが黒になり、それまでの白が一挙にクロに変わってしまったようなもの。 しかし、いざ、そこで見据えてみると、自分より、他の人たちの豹変を冷笑し面白がっている視線がある。人生など、全て勘違いと 思い込みで出来ているに過ぎない、その自明なことが漫画的に現れ出るからである。 そういえるのは、リスク管理をしていて、 目先の生活に困窮しないで済んでいることもある。事業を立ち上げることは、強力な思い込みを形にすることである。そこには、 当然、勘違いも多く付随するが、消化していくしかない。しかし、最後がクロになると、全ての出来事は、クロの要素になる。 といって、それも物語である。要は、後悔しないよう務めるしかない。人生は本来、勘違いで成立している。気づきたくないが! ・・・・・・・ 3716, ジャズについて −10 2011年05月29日(日) ー 「音楽の本」三枝成彰著 より □ 黒人アーティストからの反撃 ー「ハード・バッブ」って何 ? * ソニー・ロリンズ、セロニアス・モンク、チャールズ・ミンガスのユニークな活躍 【 五〇年代中盤以降、ニューヨーク周辺のビバップの流れをくむ黒人アーティストの間から、クール・ジャズの知的な弱々しさを 圧倒するかのような、たいへんに勢いのある力強くエモーショナルな演奏スタイルが生まれてきた。 これを白人ウエスト・コースト派に対する黒人イースト・コースト派の巻き返しととらえ、一連の傾向を「ハード・パップ」と呼ぶ。 4ビートがより鮮明になり、アフター・ピートも強調される。ハード・パップ・スタイルの特徴を一言でいえばこうなるであろうし、 「ファンキー」とか「ソウル・ジャズ」と呼ばれることもあるが、レッテル貼りはさておき、この時代に活躍したアーティストについて 見ていこう。 一九五六年に有名な三つのアルバムがリリースされた。 ソニー・ロリンズの『サキソフォン.コロッサス』、 セロニアス・モンクの『ブリリアント.コーナーズ』、チャールズ・ミンガスの『直立猿人』である。 ソニー.ロリンズ(一九二九〜)はチャーリー・パーカー亡きあと、即興演奏の可能性をさらに押し広げたテナーサックス奏者である。 『サキソフォン・コロッサス』は日本のファンが「サキコロ」などと呼ぶ定盤中の定盤。彼の演奏は、豪快でおおらかなトーンの中に 時折ユーモアのセンスも感じさせ、なによりもヒューマンな魅力に満ちあふれていた。 セロニアス・モンク(一九一七〜一九八二)は、ビバップ創始者の天才であるが、孤高の道を歩む。マイルスとのレコーディングで 大喧嘩をしたという逸話が残っているほど、彼のピアノ・スタイルはずば抜けてユニークであった。ソロ・アルバムが多いのはそのため。 彼は私生活でも時折、意味不明のことを口走るような変人といわれ、七〇年代はじめに 重病で倒れたあとは、二度と世間にその姿を 見せることはなかった。しかしモンクには好き嫌い抜きで聴ける「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」 「ストレート・ノー・チェイサー」などの有名な曲もあり、その評価は後年に高まっていくことになる。 (字数制限のためカット 2012年5月29日) ・・・・・・・ 3351, 3339, 2011年新聞・テレビ消滅 −4 2010年05月29日(土) * さあ、次はテレビの番だ! ・この本を読み、・Youtubeを本格的に見て、・高機能のHDR(ハードディスクレコーダー)を設置して半年たった。 テレビ局が消滅か大幅なダウンサイズする現実を実感するようになった。 新聞社もテレビ局も風前の灯である。 まず驚いたのが、HDRである。大容量のHDSを半年前に買ってWoWoWを中心に、番組をどんどん入れているが、まだ容量が残っている。 もちろん見たものは消しているが、それ以上に録画している。取りあえず満杯になるまではと思っていたが、満杯にはならない) 録画されているのは見たくとも見切れない面白そうな「私にとって90点以上」のものばかり。 面白そうな番組が無いときは、 それを見ることになる。 それはタイムシフトをして見ていることになる。 これまでは、面白くないが他にないから見るか〜 というのが皆無になったのである。 次に最近、急に興味を持ちだした YouTube。 面白くない時は、だいたいは居間にある パソコンを向かっているが、それが、時々YouTubeを見だしたのである。 これが面白い! キーワードを入れると面白い映像が 次から次へと出てくる。 数年前に、そのYouTubeを買収したGoogleが、ソニーと提携をして、ネットパソコンを 共同で開発するというから、TV局にとって致命傷になる。 さらに、タブレット方式のパソコンの普及がある。 これは居間と部屋で釘付けにされていた視聴パターンが変化することになる。台所や、庭、そして外で見ることになる。 そこにはネット経由の映像が流れる。 これも、さらに総合テレビ局にとってマイナスになる。だらだら流し見していた テレビの見方が変わることを意味している。その結果、スポンサーはTV局から、サイトの方に変化する。 NHKもさえも大きな岐路に追い込まれることになる。情報革命はテレビ局でさえ飲み込んでしまう。iPadの出現は更に世界を変える! ・・・・・・・・ 2976,縁は異なもの ー2 2009年05月29日(金) 「縁は異なもの」 河合隼雄 白州正子 対談集 * 能とは 能といえば高校時代に講堂で学習の一環として見せられたが、「奥行きの深い、そして面白いもの」と感動をした 記憶が鮮明に残っている。その後、TVで何度か観たが初めほどの感動は無くなっていた。生とTVの違いもあるのだろう。 ーこの本の中の、白洲正子の「能」の説明が解りやすいー 《 能はその昔、「猿楽」といって、平安時代ごろから行われた民俗芸能でしたが、室町時代になって、当時流行していた、 ほかの舞踊や流行歌を取り入れ、ひとつの芸能に集大成したという意味です。 そういうふうにして総合されたお能は、 大きく分けますと、舞と歌によって構成されています。歌の部分を舞もしくは謡曲と呼び、芝居の脚本に相当します。 (字数制限のためカット 2010年5月29日) ・・・・・・・・ 2612、 佐藤優の速読術について 2008年05月29日(木) 「国家の罠」「自壊する帝国」の外務省のノンセクション作家である佐藤優の「速読術」の方法、考え方が面白い。 ーまずは、その概要を私なりにまとめてみた。 ・速読法は、基本書を完全にマスターしているから可能であり、基本データが完全にインプットされていない分野では、 無意味である。ヒンズー語を知らないのに、その文献をいくら捲っても理解できないのとおなじことである。 受動的勉強を充分に勉強した上で能動的な速読法ならわかるが、そうでないのは無理がある。 ・読書術として、難しい本に二種類あって、*一つは理論がでたらめで難しいフリをしているもの。 *いま一つは議論の積み重ねで構成されているから時間がかかるが、読んでいけば知識が得られるもの。 何故、速読術が必要かといえば、読むに値しない本を見分けるためです。 速読法とは、自分の周辺に押し寄せる、 いい加減な情報を波打ち際でたたく方法である。 つまり一年でどれだけ熟読できるか計算をして成り立つ。 月二冊熟読するのが限度でしょう。その本を熟読するために他を速読するという逆転の発想です。 ・速読をすれば知識がつくというのは嘘です。知識は熟読によってしか得ることが出来ません。 速読は自分が持つ知識以外のものが出ているかどうかのチェックする手段に過ぎません。 速読術は熟読術にあるということです。読まなくても良いものを精査するためのものです。 ・速読術には厳密に分ければ「速読術」と「超速読術」の二種類あると思います。 速読術は鉛筆を使って判断しながら読む方法で、400〜500ページの本に2〜3時間かかります。 超速読術は、飛ばし読みで、純粋に新しい単語を拾って、大づかみで内容を把握する方法で、 10〜20分ですみます。最初と最後、そして目次を見ること。 ・「興味力」の赴くままに濫読すること。何でも興味を持つことが重要。 =「国家と人生」寛容と多元主義が世界を変える= 竹村 健一 佐藤 優より ▼ 熟読によってしか知識は得ることが出来ない、というのは良くわかる。 もう一つは「繰り返し」である。 ところで私も似たようなことをしている。 長岡と新潟の図書館に週二回行き、面白そうな本を借りる。 そして、これはと思うものは、直ぐにアマゾンで発注する。そして、本に取りあえず織り込みを入れる。 自宅の居間と会社の机の上に三十冊は並べておいて、とにかく超速読をする。そして、その中で、これはというのを、 この随想日記のネター読書日記に書く。熟読するものはトイレにも置いておく。 だから、ネタにはならない。 私の場合は、とにかく繰り返し本を開くことにしている。だから、居間にも常に本を横に置いている。 せっかく地球に旅に来ているのだから、地球上のことを知らないと。それが、動機である。 ・・・・・・・・・・ 2007年05月29日(火) 2247, 女性の品格 (*´・ω・)ノおはよー NHK/TVを見ていたら「女性の品格」の著者の坂東真理子氏のインタビューがあった。昭和女子大の副学長で「女性の品格」 という講義もおこなっていた。私自身はさておき、品性のない人間は大嫌いときている。学歴や肩書きや収入とかでなく、 その人の持っている生まれながらの品位は、どうしようもないものである。その人のもって生まれた何かである。 この本の中で、強く、優しく、美しい女性になるための「66の法則」を挙げているが、 ーその中で幾つか選んでみたー 上品な女性は、 ・礼状が書ける ・約束をきちんと守る ・型どおりの挨拶ができる ・長い人間関係を大切にする ・流行に飛びつかない ・姿勢を正しく保つ ・贅肉をつけない ・プライバシーを詮索しない ・よいことは隠れてする ・愛されるより愛する ・得意料理をもつ ・恋をすぐに打ち明けない ・人に擦り寄らない ・礼を尽くす などなど、ビジネス、装い、話し方、恋愛にいたるまで、女性としての振舞い方を具体的に示してある。 何げない日常の立居振舞いに、女性の生き方と品位はおのずと表われるもの。 自分を卑下しすぎず、もちろん、うぬぼれず、「等身大の自信」を持つことである。 「強く優しく美しく、そして賢く」と示しているが、人間として「凛とすること」である。 (字数制限のためカット 2010年5月29日) 女性の品格?装いから生き方まで PHP研究所 ・坂東 眞理子【著】 (*・ω)ノβψε★βψε
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| 4822,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー4 |
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2014年05月28日(水)
「事業人生を決心して45年」の物語 ー4
* 産能大学に編入 ⑥ ジャスコを辞めるについて、その身勝手さに非常に厳しい(精神的)リンチ? 実家に帰った時には 首はガチガチで、半病人状態。当然だろうに・・・ それをみた両親が、私を四国旅行に連れ出して くれた。親は有難いもので、後先、両親三人と旅行をしたのは、最初で最後である。 あの坂出でみた瀬戸内海の夕景は今でも心に焼きついている。その時の印象と心情をメモ帳に 書いたが、ホテルの部屋に忘れてきた。それを見た若い?女性が、感想を書き添えて送り返して くれたことが思い出されてきた。 心が傷ついていた反面、それが夕景に共鳴できる下地になっていた。 ⑦ その後、千葉の姉の家の一室から東京の自由が丘にある産能大に通うことになる。 それまでの激務と、今度は何の束縛のない自由の中で、自分で自分を律する日々。人間は独りでは 生きられないが、まず独りになって自分を律する必要がある。独りになるとは、考えるための第一歩。 それが分からないと、集団に埋もれ、何も考えないで一生を終えてしまう。 20歳前半に、その両極端な二年を経験は、私にとって大きな行蔵になっていた。 この一年間は、過っての学生時代の4年間を凝縮し、学び直すことにもなった。 計算外の危機になった精神を立て直すに、混乱した脳奥から湧き出てくる思いを紙に書き出し、 整理することが第一歩になった。50歳半ばから13年間、こ随想日記を書き続けてきたベースは、 この一年間の独りでの心の血を掬いがあればこそ。 文章に変換するしかなかったお陰である。 書かなければ、狂ってしまうから、書くしかなかったのである。フィールドワーク(現場)の現象の 中に隠れている道理を、言語化する、当時の発想法のKJ法など、情報のカード化に関する書籍を 読み、実行する日々になっていた。経済社会をフィールドワークと見倣し、現象を大きく分類し、 科学するのに、この一年間は、有効に働いた。 ⑧ しかし、千葉郊外の「千城台商業用地の売出しの広告記事」を見たことが、大きな副産物として ついてきた。 それが、二年後の千城台ビルの建設用地になる。これについて、以前にも書いた。 千葉県住宅地供給公社が、県の発展のため住宅地を開発、販売する住宅地で、家付き娘の姉 三人の一人が、そこに新築の家を建て、住んでいた。そこから30分ほどに住む姉二人も、住宅地を 購入し、貸家を建てていた。そこで暇に任せて、購入希望者に対する抽選に応募したところ、当選。 その後、父親を説得、購入させた。ここの購入条件は二年半以内に、建設すること。 ということは、二年半後に、私が、ここで何かを始めることを意味していた。 その時は、そんなことなど、一切考えず、ただ、抽選に当選すれば、半値で買える程度にしか 考えていた。 数年経って気づいたことは、予定挫折が、人生で必要ということ。 そのプロセスで、必ず副産物が付いてくるという事を肌身で感じることが出来た。 高度成長期も背景にあった良き時代の真っ只中である。 「捨石の節目時節の重要性」ということ! 決断は独りでこそ。 ・・・・・・ 4455, 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー3 2013年05月28日(火) 『 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 』ー番場浩之著 「一週間の実修メニュー」はメニューは以下のとおり。 シンプルだが、捩れ、反らし、伸ばしなどの要所をおさえてある。 * 1日目 "胸を開いて積極的に A・完全な呼吸法をする体位……40 B・背骨をねじる体位(腕で半円を描く)…… * 2日目 "足腰を軽快に A・膝を回す体位……54 B・膝を伸ばして、足の指を活性化する体位: * 3日目 "身体の前後両面と、手指を開く A・胸と背中を開き、膝裏を伸ばす体位……66 B・手の指を開く体位ー 72 * 4日目と背骨にいきいきと「気」を流す A・膝で半円を描く体位……78 B・上体を反らせて、背骨をねじる体位(一方の腕を伸ばして * 5日目"胸と脇を開き、首の血行をよくする A・胸と脇を開く体位……90 B・首を腕ではさむ体位……96 * 6日目"身体の疲れを癒す A・背骨をねじる体位(腕を大きく回す)…… B・上体を反らせる体位(両腕を伸ばして〉…… * 7日目 一週間の疲れを癒し、新しい一週間を迎えるために ▼ ヨガ教室では50分間に、以上を殆ど網羅したポーズをとる。他にも椰子の木のポーズ、 ワニのポーズとか色々あるが、50人定員のうち、一〜二人を除けば殆どがリピーターで、 回を重ねる度に難度を上げていく。この本に縛られることもないが、 まずは従うつもり。 SJでのヨガはエアロビ感覚で興味本位で参加していたが、これを自宅で実施したら少し本格的。 30分の早朝座禅は、ほぼヨガの瞑想と同じ。これに一か二つのヨガポーズを取り入れれば、 一寸したヨガの時間帯になる。 次回から、上記の具体的な内容を書きだしてみるが、実際に 夜明けに、一人、ヨガを組むのもなかなか良い。 何気ないそれぞれのポーズに、千年、二千年の 積み重ねがある。問題は続けられるかどうか。ヨガ教室で15ヶ月続けたから自宅でも、という気に なれた。続けると何事も面白くなり、力になっていく。4時起床で、早朝座禅とヨガね〜!冴え渡るが? ・・・・・・ 2012年05月28日(月) * 書斎はシェルター 私の書斎スペースは7畳ほどの仏間の一角である。一角といっても三分の二を占めている。 リタイア以降、ここにパソコンを一台置いて、一日4〜5時間は読書をするか、パソコンで随想日記の 下書きを書いているか、iPadに向かっている。腰痛持ちのためジッとしているのは一時間が限度、 一時間に5分はお茶やトイレにいったりして節目を作っている。BGMにパソコンに入力した音楽を ステレオから流している。またネット・ラジオの音楽放送も時々流す。 朝の4時半から6時、9時から11時半、夕方の1時間の合計5時間は書斎にいる。 途中、廊下をはさんだ前の寝室で寝転んでiPadで遊んだり、TVを見たり、仮眠をしたりする。 居間、書斎、寝室のバランスは丁度良い。外出は早朝のポタリング、スポーツジム、図書館、 SCが中心になる。 書斎といえば、iPadと、パソコンの中に書斎機能がある。静かに落ち着ける シェルターの役目が書斎だが、あまり居心地が良すぎると、自閉症になってしまう。 iPadを持ち歩けば何処にいても同じ。小さな生活圏内では何処にいても自分の居場所が できるのは非常に助かる。 * ギリシャを合わせ鏡にすると ギリシャは西欧哲学の発祥の地。そして現在、世界金融危機の発火点になろうとしている。 東の地からギリシャをみると、とんでもない事態に追い込まれているのが分かる。 しかしギリシャと大して変わらないほど惨憺たるのが日本。一年しか持たない首相が改革を 錦の旗にして交代するが、いざ就任、実行段階となると周囲から袋叩きにして、反対勢力が 綺麗ごとを旗に権力奪取。その繰り返しが代々続いている。 覚めた目でみれば、その一連を 分かってやっているから始末が悪い。国民がグローバル化した世界の変化を実感できないのが実態。 10年前に決断しておかなければならない国家規模のリストラが出来ないジレンマに落ちている。 その限界が、あと二年しかないというが、その行き先は、誰も分からない。 ギリシャ国民のユーロ圏に留まりたいが、耐乏生活はしたくない国民感情は日本も同じ。 右上がり経済の再来の幻想に、まだ浸っている。最後はハイパーが吹き荒れるだろうが。 ・・・・・・・ 3715, 閑話小題 2011年05月28日(土) * フレンドリーの雀はメタボ 毎朝、信濃川に冬期間を除いてサイクリングに行くようになって一年半になる。 10日ほど前に、いつものベンチのところでストレッチをしていると、一メールほどのところに雀がきて ジッとみている。外国では公園などで何度も人懐こい雀には出会っているが、日本では珍しい。 暫くすると、餌が貰えないと判断したのか飛んでいった。 ところが昨日の早朝に、同じ場所で座って休んでいると、雀が50センチもしない自転車の ハンドルに止まって、こちらを見ている。ポケットに何かと探したが、クリスクしかない。それを一粒、 地面に投げたが、パンや菓子屑でないと思ったのか、見向きもしない。 よく見ると、普通の雀の 二倍近くもありコロコロしている。もしかしたら、雀ではないのでは?と、見直したが、やはり雀である。 恐らく誰かが餌付けをしているうち、他の人からも餌を貰っているうち太ったのだろう。 親しそうに近くにきて見つめられれば、何か餌を与えたくなるのが人情。 その結果がメタボである。 恐らく、私も近々に、餌を与えることになるだろうが。雀と鳩は、世界中、いたるところで見かけられるが、 その国々によって、微妙に違う。餌によるのだろう。ところで最近、本当に雀の数が少なくなったような 気がするが・・・ 餌といえば、アイスランドに行ったときのこと。 ホテルの近くの公園を散歩を していたら、野生の大ガンの群れの一羽にクラッカーを与えたところ、数十羽の群れが、家内と 私のところに押し寄せてきた。 無我夢中で逃げたが、その時の恐怖といったら! 早朝で無人だったから、幻想的な思い出として残っている。 ・・・・・・・・ 3350, 新型インフルエンザの総括 2010年05月28日(金) 去年の4月に、メキシコで確認され日本に上陸して丁度一年が経ったが、現在では、 話題にさえのらない。WHOに入り込んだ製薬会社の連中の煽動にマスコミが異常に騒ぎすぎた。 一年経ってみれば日本だけが過剰反応。街中の人がマスクをしている姿が異様だったが、それが 世界のマスコミに報じられた。その結果、毎年の冬季に発生する季節性インフルエンザの死者数より 少ない結果になったという、変な結果になってしまった。 医学者で東京文化短期大学学長の 中原英臣が産経の「正論」で、新型インフルエンザの総括をしていた。・新型インフルエンザの想定が 鳥インフルエンザに対してしていた為に、強毒性の行動計画に大きく影響された。 それが、感染者が一人でも出た時点でも都道府県単位で学校を閉鎖をしたり、集会の中止がした。 これが過剰反応という受け止め方と、逆に、その結果、アメリカの26分の一、カナダの10分の一の 死亡率に収まった。 ・これは、日本政府がインフルエンザの症状があったら、直ぐに受診する必要性を国民に 訴えたこともきいている。 ・さらに日本人の衛生意識の高さが大きく影響している。 他人に感染させないための マスク着用も大きく影響した。「うがいと手洗い」を多くの人が積極的に行ったことも影響をした。 ▼ 以上だが、この過剰反応、近い将来必ず起きる猛毒性の鳥インフルエンザの予行練習と みれば、決して過剰ともいえなかった。その時の教訓が、この騒ぎの中に多く含まれている。 これは国家の非常事態であり、自衛隊の役割が大きく求められる。 この騒ぎのお陰で30年近く毎年行っていた海外旅行を急遽キャンセル、結局行かずじまいだった。 これで大儲けをしたのは製薬会社。 現在でも、何か?大きな疑問が残っている。当時のマスコミの 対応も異常であった。マスコミも、このことを総括したのだろうか? ・・・・・・・・・ 2975, 縁は異なもの 2009年05月28日(木) 「縁は異なもの」河合隼雄 白州正子 対談集 河合 日本の芸というのは本当に習うのが大変ですよ。 ずーとやっていて、しかも最後が どうなるかわからない。白州 研いで研いで、研ぎ抜いて。それで90歳になって精神が現われる・・・・ 現われないかもしれませんから。 連載中の本に書いたのですが、読者からありがたい手紙をいただいたのです。 「よき細工は少し鈍き刀をつかうという」『徒然草』の一節についてで、それまで私は「鈍き刀」の 意味を「あまり切れすぎる刀では美しいものは造れない」というふうに思っていたわけ。でも違ったの。 その方は「鋭い刃を何十年も研いで研いで研ぎ抜いて、刃が極端に 薄くなり、もはや用に立たなく なった頃、はじめてしの真価が発揮される」というのです。 ここでいう「鈍き刀」というのは最初から鈍き刀というんじゃないんですよ。本当に鈍い刀を 磨いでもだめ。いい刀だから磨げる。しまいにはペロンペロンに柔らかくなるんですよ。 兼好法師は「妙観が刀はいたく立たず」とも書いているけど、やっぱり「立たず」なんて言葉は 「鈍き刀」じゃダメなんですよ。それが良くわかったの。 ーー 白州正子の対談を何度か読んだことがあるが、河合隼雄もたじたじなくらい言葉の剣先が鋭い。 鈍き刀を磨いでも鋭くはならない。鋭い刀を磨いて磨いて磨きぬいて鈍くなった刀こそ・・・ よき細工に使うことが出来るという。 言葉の奥底をみないと真の意味がつかめないというが、まあ、凄いことをいう。 芸道や能力のことを言っているのだろうが。 ・・・・・・・・・ 2611, サルトルについて、考えてみる −2 2008年05月28日(水) 改めて、読んでみるとナカナカ新鮮に思えてくるところが多い。読んだ当時から40年経て、経験を多くつんだこともある。 当時はピンと来なかったことも、今では深く納得する。経験は、やはり「自分」の財産なのである。 ー以下の論が、非常に面白い。 *「意識」のあり方は、どのようなものか? サルトルは、「世界へと関わる」ということを、「否定」と「無」と結び付けて考える。人間が世界へと「「関わって」いる、 ということは、人間は世界では「ない」ということなのだ。たとえば、私は目の前のグラスでは「ない」し、窓の外の木ではない。 サルトルは、人間が「世界に関わる」というあり方をしているが、それは「世界ではない」というあり方だと、いう。言い換えれば、 人間と世界の間には「すき間」「裂け目」がある、ということだ。人間が「世界と関わる」ということは、人間が 「世界との間に裂け目を作る出す」ことだと考える。サルトルは人間と世界の間の「すき間」「さけ目」を「無」と呼ぶ。 ただしここで重要なのは、意識は、裂かれた片方の「モノ」なのではなく、「さけ目そのもの」ということだ。意識としての人間は、 いわば世界の中の裂け目、世界の中の無である。それは、意識が、関係する片方の「モノ」ではなく、「関係」そのものであり、 外部の世界への「矢印」そのものである。・・「世界に対して」裂け目をもたらす人間は、それだけでなく「自分自身に対して」も 裂け目をもたらす、とサルトルはかんがえる。 人間は、常に過去の自分から脱出して新しい自分になっていく存在である。 過去と現在を乗り越え、未来に向かって自分を投げかけていく存在、それをサルトルは「投企」と呼ぶ。 ▼ 解)人間の意識が、世界と関わると、その世界との間に裂け目をつくりだす。それも人間の意識は、片割れの一方ではなく、 裂け目、世界の無である、という。過去を振り返ると、実感として接してきた世界の片割れとしての自分というより、 色いろ経験してきた世界の接触の中での私の意識は、それぞれが「無」だった。その時の己は、片割れの「モノ」ではなくて、 「関係」そのものであった。それは「矢印」であった。世界中を観光してきて、そして事業を幾つか立ち上げてきて、 その通りである。世界との間に裂け目を作り、世界の中に裂け目をもたらす、「意識としての人間」をサルトルは 「対自存在」と呼ぶ。異郷・秘境の地で我を忘れて見入っているとき、自分は、そこに居ない。自分は、後で振り返ったとき、 見入っている自分を対自として見ている内なる我が見ているとき、初めて顔を顕す。対象に魂を奪われているとき、 そこは一方の割れた「私」ではなく、裂け目そのものが私である。別に難しいことではないのである。 *サルトルの人間観 (字数の関係でカット 09年05月28日) ・・・・・・・・ 2007年05月28日(月) 2246, 愚痴 ゜・。*ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ!! 愚痴とは、「言ってもしかたがないことを言って嘆くこと」、仏教用語としては 「 三毒の一の癡にあたり、物事を正しく認識したり判断したりできないこと」をいう。 {参考のために、三毒とは克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩、 すなわち貪瞋癡(とんじんち)を指す。 貪ー貪欲、瞋ー怒、癡ー無知}σ(^◇^;) 人の愚痴は気づくが、自分の愚痴は気づかないから始末が悪い。 初めて就職した時に、ある転勤先に「愚痴のオジサン」というアダナの人がいた。 「初対面の人を見つけると兎にもかくにも愚痴を言うから、受け流すように」と、注意されたが、 なるほど話す大部分が愚痴なのである。;´д`)グチグチ!世の中にはこういう人がいるかと 驚いたことがあ(字数の関係でカット 11年05月28日)った。 愚痴は人前では言うものではない実例としてみたが、「情けない」というしかない。 (字数の関係でカット 12年05月28日) ・・・・・・・・・ 2006年05月28日(日) 1881, 閑話小題 ォ'`ョ━━(。・∀・)━━ゥ★ ーつれづれにー 一昨夜、会合が終わった後に新潟駅前で飲む。その後古町の[シャムネコ]という店に行く。 店の中を整理しないのが売りで、ホステスを猫がする店。コタツがおいてあったり、20年以上前のカセットビデオ、 そしてマンガ本、色紙、などが雑然と置いてある。しかし、よくみるとチリなど溜まっていない。 もう廃業したのではないかと電話をすると、第一声が「一見(一限)の客はお断りですが、貴方は誰ですか」という 愛想のない声が聞こえてきた。5年ぶりだが、三匹の猫の源氏名は社長、専務、常務で、ママが従業員という設定になっている。 (字数の関係でカット 09年05月28日) (。・∀・)バイ!
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| 4821, 「事業人生を決心して45年」の語り直し ー3 |
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2014年05月27日(火)
* ジャスコ入社と、新井石龍禅師の一喝! �ァ.献礇好害�田屋に入社。幹部候補の特訓のためだが、そこは激烈な仕事量と、 売場と店の急速配転で、疲労困憊の極地。 知らぬが仏とは、このこと。そこは 戦場の真っ只中。自分を鍛えるには絶好の場所だが、実際は、3K、4Kの世界。 悪くいえば、当時の流通業は溜めの世界。それまでのアカデミックの世界とは、 真逆の環境。 まずは、四日市のジャスコ岡田屋本店の配送センターへ。ここが激烈な仕事量。 三ヶ月後には、日用雑貨のカーペットと絨毯売り場へ、その一ヶ月後に、神戸の ジャスコフタギの垂水店へ転勤。合併のための人事交流の尖兵である。 神戸の新興住宅地の駅前店。今度は日用雑貨売場に配転され、まずやらされたのが 新兵を試す瀬戸物の叩き売り。店頭に問屋が持ち込んだ瀬戸物を自分勝手の売価で 売る。あのテキヤの瀬戸物の叩き売りである。 恥ずかしいのは一時間だけ、これがお客との駆引きが非常に面白い。 安く売れば売上高は上がらない。が、高くすれば売れない。相手が買う値で、 可能な限り売上を上げる。総売上の3割が店のマージンで問屋から入る仕組み。 「男はつらいよ」の寅さんが、露天で売っているのは、この方式。 その二ヶ月後が、これまでフタギに無かった靴売り場の責任者に。 これが面白いように売れた。嘘のような話だが、数値目標の20倍の売上。 その辺りから、目の回るような配転もあって、これで良いのか、自分が事業を 立ち上げるために、これで良いのだろうか?という疑問が湧き上がる。 そして、原点を見つめ直そうと、学生時代に卒論書きのため通っていた六日町の 禅寺「雲屯庵」に、4日間の休暇をとって坐禅のため行くことにした。 そこには一年前にも司法試験の勉強をしていた高橋さんが、そのままいた。 そして、新井石龍禅師との問答。私の『思いの他、世の中が厳しいことが 解りました!』に対し、禅師の『世の中は、いつの時代も変わらない。 厳しいと感じたのは、あんたが甘いだけの話。世の中のせいにしないこと』 の御言葉。ガッツンとやられた上に、たまたま慶應を卒業後にハーバード大の ビジネススクールに通っていた学生と、そこの修行僧と、高橋さんと私と夜半、 お茶を飲みながらの雑談に、私だけ、彼らの話についていけないのである。 何か根こそぎ、自分が全面否定されているような大きはショックで、迷いが更に 大きくなっていた。そして、今、学び直さないと、一生、後悔するのではと、 ここで退社をして、独りになりきる必要性を感じ、その4ヶ月後に退社を決意する。 しかし、考えてみれば、自分の身勝手で、勤務先など多くの迷惑をかけていたことに なる。我ながら脂汗が滲み出てくる。事業創業とは、エゴ丸出し、馬鹿丸出しの、 ドンキホーテそのもの! 漫画といえば漫画だが、何故か、後悔は少ない! ・・・・・・ 4454,一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー2 2013年05月27日(月) * まず「4つの呼吸」を理解しよう 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー番場浩之著 呼吸も座禅と同じく吸い一に対し、吐きが二。ここでは、呼吸量をコントロールを取り入れている。その道の大家が言うのを、心を開いて学ぶのが筋。スポーツジムのヨガ教室では、まだ、これは教えてない。 ーまずは、その辺りからー ≪ 「4つの呼吸」では、呼吸量をコントロールしながら、「意識して行う入息」→「自然と行われる出息」を繰り返す。普段の生活では、呼吸を意識することも、 腹式呼吸と胸式呼吸を区別して行うこともほとんどないので、まず、お腹でたっぷりと 呼吸することからはじめ、段階的に胸にも息を充たすようにしていきます。この呼吸がゆったりとなめらかであればあるほど、呼吸の波にゆらぎの波動があらわれて、 こころとからだの芯にに響くものとなります。 A・静かな呼吸 「静かな呼吸」では、丹田を意識して腹式呼吸をたっぷりと行います。ここでは、 胸の呼吸は行いません。鼻からゆっくりとおなかに入れ、2倍くらいの長さで、 鼻からゆっくりとなめらかに息を出していきます。普段の呼吸の40%位。 B・軽い呼吸 「軽い呼吸」は、「静かな呼吸」の要領でおなかにたっぷりと入れたのち、胸郭下部を左右に開くようにして、胸にも息をみたします(胸式呼吸)。胸とおなかをゆるめて、その2倍くらいの長さで鼻からゆっくりとなめらかに息を出していきます。 60%位の呼吸量。 C・深い呼吸 「深い呼吸」は、「静かな呼吸」の要領でおなかにたっぷりと入れたのち、胸郭全体を上下・左右に開くようにして、ダイナミックに胸にも息をみたし ます(胸式呼吸)。胸とおなかをゆるめて、2倍くらいの長さで、鼻からゆっくりとなめらかに息を出す。 こののち「軽い呼吸」の入息と自然な出息を行い、続いて、「静かな呼吸」の入息と自然な出息を行います。80%位。 D・各自の呼吸 最後に、「各自の呼吸」を行います。 「静かな呼吸」「軽い呼吸」「深い呼吸」がしっかりとした意識呼吸であるのに対して、「各自の呼吸」は、「静かな呼吸」→「軽い呼吸」→「深い呼吸」→「軽い呼吸」→「静かな呼吸」を行ったあとをおさめる、ゆとりの呼吸のことです。 自然とおなかに入息し、ゆっくりと鼻からなめらかに出息していく、やすらぎの呼吸です。 ≫ ▼「40、60、80、60、40%、フリーの呼吸量を繰り返す」、46864と「への字」の形の呼吸と思えばよい。 私の場合は、さざなみ、中波、大波、中波、さざなみ、引き波をイメージして呼吸量を、それにあわせる。これなら何処でも練習出来る。22歳の座禅体験から始まり暫く休んで、ここで早朝座禅、瞑想の再開。 悟りにほど遠いが、面白い。 ・・・・・・・ 4080, 老いの見本帳ーダークサイト −4 2012年05月27日(日) * 鼻白む出来事 「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日 武彦 (著) ここで紹介されていた新宿の百貨店の地下のベーカリーでの出来事が、どこにでもありそうなエピソードである。 品性卑しからずの70歳すぎの老人が、盆に乗せていた一斤のパンを落としてしまった。不思議なことに誰も、 そのことに気づいていないようだった。そこで、その老人は素知らぬ顔をして拾い、元に戻して別のパンを乗せ変えた。 著者は呆然と、それを眺めていたが不快感を持ったという。正直に店員に話せば普通なら店の方も心得ていて、新しいパンを取り替え、 そのパンは奥に引っ込める。それが、外見に相応しくない品のない行動に老いのイヤラシサを見せつけられてしまった。 私も雨の中、 ある駐車場から一般道に出るとき、溝の鉄板が外れてしまったことがある。 大雨が降っていなければ元に戻すところだったが、 誰も居ないことを良いことに、やり過ごしたことがある。その後の数年間、その近くを通るたびに自己嫌悪に陥った経験がある。 今回の倒産劇の中でも、そのことだけは注意をしたが、それでも幾つか悔いの残る部分はあったが、可能な限り自分の良心に従った。 もちろん、落城に付きものの手の裏を返した身内や友人が数名いた。 後味が悪い切断は、一生ついてまわる経験則が無いのだろう? 品性もあるが。最後に残るのは自分の良心との自問自答だけ。 後足で砂を蹴った思いほど嫌なものはない。しかし実は返り矢で、 自分で気づいてないのが本当のところだろう。立場変われば、薮の中で、自分の勝手の解釈を、それぞれがしているにすぎない。 老化からくる偏執は、自分の価値観の歪曲からくる決めつけの起因が多い。老化による精神の弱体の顕在化は、そのへんから見えてくる。 著者は、「老いは、それだけで、その人の在りようを、偏屈で意地悪で寂しい老人と決めつけられ、それも安っぽい、 底が浅い不良少年にまつわる物語にされてしまう」と述べている。 社会的弱者になる、ということである。 だから、早く自覚をすべきということか。静かに、温かみを持って笑い、独り読書か、音楽を聴いて、目立たない老人も悪くないが、 意地悪ばあさん、じいさんも割り切ってしまえば楽である。 最後は、やはり宗教頼み、こんな私を神様、お助けください!か。 ・・・・・・ 3714, ジャズについて −9 2011年05月27日(金) モダン・ジャズの誕生 ー� ー 「音楽の本」三枝成彰著 より * マイルス・デイヴィスが生んだ 「クール・ジャズ」とは ? 【 そのチャーリー.パーカーのクインテット(五重奏団)でトランペットを吹いていたマイルス・デイヴィス(一九二六〜一九九一)は、 四九年から五〇年にかけて伝説的なレコーディングをする。このレコードの発明(四八)からほどなくして録音されたこれらの曲を、 レコード会社は『クールの誕生』というタイトルでまとめた。これは、その名の通り「クール・ジャズ」の誕生を告げたアルバムである。 クラシックでは馴染みの楽器、チューバとフレンチホルンが加えられたこのレコード。 ここでのプレイでは、ビバップにはまだ 残されていたドライブ感のあるビートやホットな音色はきれいに消え去り、かわりにビブラートのない繊細な音色、明瞭で軽快な スウィング調のビートが生かされた。黒人音楽の伝統であるブルース的な表現も極力抑えられており、その意味では、クール・ジャズは ビバップから‘黒っぼさ’を抜いた音楽、ともいえる。 事実、その後のクール・ジャズは、白人中心の展開を見せる。 マイルス自身も白人のアレンジャーであるギル・エヴァンスや白人ピアニストのビル・エヴァンスなどとともに「マイルス・アヘッド」 「マイルストーン」「カインド・オブ・ブルー」など、歴史に残る名盤を発表している。 また、マイルスはそのキャリアを通じて、モダン・ジャズの歴史に大きな足跡を残すとともに、つねに新しいアイデアを提供し続けた アーティストであった。 ヘロイン中毒から立ち直った一九五六年には、クインテットを結成してパートナーにジョン・コルトレーンを 迎えている。この頃のアルバムに「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」がある。 六〇年代後半には、テナーサックスのウェイン・ショーターやピアノのハービー・バンコックらの新進とジャズの枠を飛び出す新しい 方向を模索し、その成果は六九年の「ビッチェズ・ブリュー」で開花することになる。 エレクトリック・サウンドの導入による、 ロックとジャズの融合という果敢な試みを成功させたこのアルバムは、伝統的なジャズファンの間では賛否両論を巻き起こしたが、 マイルスの名声をさらに高めることになる。 七六年には一時引退し、再びドラッグに手を染めたが、八一年に復活。 彼の音楽はよりポピュラリティを増したものになり、ディスコでもかかるようになった。日本のCMにも登場するなど、 ジャズブァン以外にも広く名前を知られる栄光のうちに、九一年、六十五歳の生涯を閉じた。 なお、四〇年代後半にニューヨークにおいてマイルスによって起こったクール・ジャズは、朝鮮戦争で軍需景気に沸くロサンジェルス など西海岸にも飛び火し、ウエスト・コーストジャズなどと呼ばれるようにもなった。こちらも、中心は白人ジャズメンであった。 】 ▼クール・ジャズを要約すると、「ビバップから‘黒っぼさ’を抜いた音楽」で、白人中心の展開を見せはじめた。ビバップには まだ残されていたドライブ感のあるビートやホットな音色は消え、かわりにビブラートのない繊細な音色、明瞭で軽快なスウィング調の ビートが生かされた。黒人音楽の伝統であるブルース的な表現も極力抑えられた。この辺になると、ジャズマニアの嗜好の範疇になる。 この辺を意識して、貰った千数百のジャズの曲を改めて聴くと、それぞれのジャンルを想定しながら聴くと、また違って聞こえてくる。 ・・・・・・・ 3349, 3339, 2011年新聞・テレビ消滅 −3 2010年05月27日(木) 「2011年新聞・テレビ消滅 」佐々木 俊尚 (著) * 新聞の敗戦 ー第二章 新聞の敗戦ー の内容は強烈。 著者によるマスコミの死亡予告である。 その一部分を抜粋してみる ≪ 結論として、こういうことだ。何をしたって助からないものは助からない。コンピューターの時代がやってくれば 紙のマスメディアが成り立たなくなることは、実はアメリカでは何十年も前から議論されていたが、これまで 「こうすれば何とか生き延びることができる!」という話は聞いたことがない。もう紙メディアは「さようなら」である。≫ ここまで書いて良いものかと一瞬思ったが、著者の言うとおりである。 さらにいう、 ≪ 新聞は再販制度に守られてぬるま湯に浸り続け、あげくに「押し紙」などという発行部数の水増しを行って弱小新聞販売店を いじめてきた流通寡占と広告減少が密接にかかわっている(中略)寡占が進むと供給者と需要者の間の情報を取り持つ広告の 機能がなくなってくる(中略)メーカーなどの供給者は、マスコミを通じて直接需要者に宣伝するよりも、強力な流通業者に、 セールスプロモーションと称するカネを払って、自分の商品を売ってもらうほうが効率的という考え方になる新聞、テレビが来年、 消滅するというより、壊滅するのは間違いないようだ。地方の新聞社にとって三行広告というのが隠れた収入源だったのが、 アメリカでは、これがネットによって崩壊過程にある。「売ります」「買います」「仲間募集」といった個人広告がそうだ。≫ ▼ 何度も書いているが、アップルのタブレット式のiPadが明日発売されるが、これが新聞の息の根をとめる役割になる。 日刊紙だけでなく、週刊誌も、月刊誌もだが。3〜5年もしないうちに、全国紙が倒産か、大同合併をするしかない。 総部数も半分か三分の一になる、といっても実感が湧かないが。新聞記者より、端末を持って現場にいる人の方が、 情報を先取りし、共有してしまう。さらにミニブログのツイッターが爆発的に普及しているが、これも影響してくる。 電子化の波は、新聞、そしてTV局を破壊する大津波である。 次は、テレビ、いやテレビ局の崩壊について、である。 ・・・・・・・ 2974,超円高社会 ー2 2009年05月27日(水) 「超円高社会」 水澤潤著 ー読書日記 * 資源小国・日本に眠る天然ガス 思わず見入ってしまったが、実際のところはどうなのか? ー大まかに概要をまとめてみるとー (字数の関係でカット2013年05月27日) ・・・・・・・・ 2003年05月27日(火) 783, 新婚さんいらっしゃい ! テレビ朝日系で毎週日曜日の13時に放映している。 桂三枝と山瀬まみ、が司会をしているトーク番組で、 2組の新婚の夫婦をゲストとして招き、新婚秘話や、なれそめの話や、のろけ話しを三枝、山瀬 両司会が引き出していく。 (字数の関係でカット 12年05月27日) ・・・・・・・・・ 2002年05月27日(月) 419,「金融腐敗列島」 昨夜、BSー6チャンネルの「金融腐敗列島]を見ていると、現在進行中の何処かのある地方銀行の姿そのもの。 (字数の関係でカット 12年05月27日) ・・・・・・・・ 2001年05月27日(日) [33] デフレ実感 家内が初めてマックの半額のチーズバーガー2個とマックシェイク1個を買って300円でお釣りがきたという。 (字数の関係でカット2013年05月27日)
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2014年05月26日(月)
* 22年ぶりの車選び 日常生活の中で、TV、パソコン、車の位置づけは大きい。この年齢になれば、便利で、面白そうで、実利的で あることが第一になる。 年金生活者ということがあるが、これが最後の車の買物?となると、大いに迷いが出る。 しかし、選定のための中古車センターまわりは、なかなか面白い。 22年間、乗っていたソアラの車検の見積で、修理費など30万といわれていた経費がマフラーの交換が加わり、 50万以上の見積になった結果、急遽、買替えを決め、先週、連日、市内と見附と三条の中古車センターをまわった結果、 メーカー直の販売所に比較的良い車があることを知る。 まず、ソアラ・クラスの三ナンバーの大型車か、普通車の セダンか、スポーツタイプか、と判断に迷った。 まわって思い知ったのは、22年も乗っていた車より、どの車も、 遥かに良い!ということ。「このソアラは当たり!」という思い込みが、過剰に縛られることになっていた。 日産とトヨタというと、先代のソアラと、その前のコロナを加えると、35年以上もトヨタ車を乗ってきたため、 トヨタ系を選びたくなる。 また、車は家内名義になるため、どうしても最安の選定に引っ張られる。こういう時に、 偉そうなことをいっても、森の生活とサバンナの年金生活の差が出てくる。歳からして、あと?年しか乗れないから、 可能な限り良いものか、逆に安いものか、大きな迷いになったが・・ 何の制約もなければ、年齢を考えても、 トヨタのスポーツ車にするが、中古でも結構な値がする。今更、遠出も、スピードも出さないため、考えた末に止めた。 で、決めたのが、トヨタの「マークXジオ」、走行距離57千キロの格安のワゴンタイプ。 一応スタイルも気に入った上に、実用的が判断基準。オーナーは、もちろん家内。で、ますます頭が上がらない。 産業廃棄物とは、よく言ったもの。で、車選定も一歩手前の己と似たのを探し出す! ・・・・・・ 4453, 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー1 2013年05月26日(日) スポーツジムのヨガに週二回参加して15ヶ月になるが、家ではやることはない。 ジム内のフリースペースで常に数人がヨガやストレッチをしている。半年前にストレッチマットを買って 始めようかと考えていたが、何もしなかった。その丁度良いタイミングに、図書館でこの本を見つけた。100回以上のヨガの中で、ここで取り上げているポーズの殆ど経験している。その中で、自宅用として 要約して、「どうですか!」と提示されたよう。 独り部屋でヨガをしている姿も奇妙といえば奇妙。 ー著者からの内容紹介ー 動かすだけで、体に自然と力がみなぎり、元気になる!! 1日5分、1週間でマスターできるように、「息の出し入れ」「体の動き」「気の流れ」の3大要素を、徹底図解。 読んでいくだけでも、ヨーガの効果が体得できてくる!私の師匠が長年提唱し続けてきたヨーガは、インドの伝統に のっとったうえで、体位法などの形のみに偏らない、呼吸を大切にして「気の流れ」のあるヨーガでした。 しかもそのエッセンス的ヨーガの中に、伝統的に重要な行法をすべて濃縮した、極めて濃度の濃いものなのです。 本書で説くヨーガも、難解な体位などの実修は含まれていません。「ヨーガ独得の呼吸法の解説」と、それを通して得られる 「生命エネルギー、気の獲得」そしてなによりも、こうした要素を簡単に「1日5分、2種類の実修から」始められることが、 大きな特徴となっています。 ●4つの呼吸 ●1日目 胸を開いて ●2日目 足腰を軽快に ●3日目 身体の前後両面と手指 ●4日目 背骨にいきいきと ●5日目 胸と脇を開き ●6日目 上体を反らせる ●7日目 1週間の疲れを癒し ●オーダーメイド・ヨーガ ●症状別のヨーガ 次回には、4つの呼吸法を紹介するが、なかなか良い。 −− 瞑想は釈迦も取り入れて悟りに至ったが、ヨガとして確立したのは、後のようだ。「まえがき」の冒頭で〜 ≪ ヨーガは、もともとインドの哲学や宗教のすべてに共通する宗教的な実践法でした。仏教も例外ではなく、心を集中し 統一するための実践という意味で、ヨーガ(瑠雌)ということばが使われています。` とくにインドの宗教史のうえでは、 グプタ王朝(4〜6世紀頃)の時代に『ヨーガ・スートラ』を根本聖典とするヨーガ学派が成立し、ごれにもとついてさまざまな ヨーガの流派が出現しました。そのなかでも、12〜13世紀以後に発達した「ハタ・ヨーガ」と呼ばれるものがもっとも重要で、 現在行われているヨーガに直接的に影響を与えています。「ハタ・ヨーガ」とは、肉体的な修練や呼吸の制御などによって、 心の集中、統一に適する身体と精神力を築き上げる方法です。ヨーガは主として健康法として人々に受け入れられていますが、 本来は真の意味での心の安泰、あるいは真実の自分の発見という宗教的な目的をもった行法であり、瞑想と深いつながりがある。≫ ▼ 「心を集中し統一するための実践法」で、心の安泰と、真実の自己発見が目的がヨガの目指すところ。ヨガの先生が 言うには、「私の日常の行為の殆どがヨガに繋がっている。歩いても座っても寝ても、靴を履く行為さえも」 流石である。 ・・・・・・ 4079, 老いの見本帳ーダークサイト −3 2012年05月26日(土) * 第一章 孤独な人 「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日 武彦 (著) 孤独は、老人に一番、似合っている。老いれば老いるほど、人間は頑固になると同時に、愛想がなくなり殻に篭るようになりがちになる。 この章で紹介している老人は、比較的強い人たちで孤独の世界にドップリとつかっている。 私も長く生きるほどに、この中の誰かに 似た人になっていくのだろう。いや、既にそうか?「長生きはしたいが、歳はとりたくない」という絶対矛盾が誰の心にもあるのだろう。 理想的老人は、孤独でなくてはならないようだ。社会的にも、経済的にも弱者に追いやられ、孤立せざるをえないのが老人。 ≪ 菊蔵は、他人の不幸が嬉しいのではない。まだ自分と無関係にはなりきっていないがどんどん遠ざかりつつある「世間」で生じた 惨たらしい出来事が、孤身の自分の気楽さと寄る辺なさとをマゾヒスティックに際立たせてくれるから、 「また、子供が落ちて死んでいないかな」などと思わずにはいられないのである。 そこに孤独な晩年の鬱屈と醍醐味とがある。・・・ わたしとしては心の深いところで共感したくなってしまう。 わたしはこの章で、自分の憧れる、あるいは好ましく思う老人たちを 紹介してみようとしたのだった。すると、どの老人も孤独な影を携えた人ばかりではないか。 老いに伴って、心身の能力は衰えていく。 もちろん人生経験を踏まえて円熟したり豊かになっていく要素もある。 が、おしなべて衰えは我々に違和感や困惑を与えてくる。 自分自身がマイナス方向へ変貌していくという実感は、孤独感に通じるだろう。家族や友人に囲まれていてもなお、ある種の頼りなさや不安、 無力感や孤独感が、多かれ少なかれ付いて回るのではないか。 老人となることは、死に近づくことでもある。また、馴染み深い人や 大切な人がいち早く彼岸へ旅立ってしまう機会も増えてくるだろう。死とは、おそらく究極の孤独である。だからこそ恐ろしい。 だからこそ祈りが求められる。孤独であっても、淡々と、あるいは瓢々と、あるいはふてぶてしく生きていく老人たちに興味が向いてしまう 理由には、そのように死への不安が伏在しているからなのかもしれない。もちろん自身の孤独癖が大きく関与しているからでもあるのだが。≫ ▼ 友人や、連れ合いにも先立たれ、誰も見向きもしなくなった頑固一徹の老人が長生きの果てに待っている結末か。 逆に90歳半ばを超えて元気で、あと10年は生きると仲間たちと運動している老人も、何か変である。年寄の愚痴と、悪口、 噂話ほど醜いものはないが、それは、孤独を更に際立てる。 とぼしい行蔵の棚卸も孤独を増すだけ。 人生の終え方は難しい。 ・・・・・・ 3713, ジャズについて −8 2011年05月26日(木) モダン・ジャズの誕生 ー� ー 「音楽の本」三枝成彰著 より * ビバップのキーマン、 チャーリー・パーカー 【 四〇年代に出現した、ビバップ・スタイル以後に続く流れを総称して、モダン・ジャズという言い方もする。 それほど、ビバップ・スタイルの出現は革命的だったのだ。そのビパップの"スポーグスマン"的役割を担ったのが、トランペット奏者 デイジー・ガレスピー(一九一七〜一九九三年)。「クレオパトラの夢」で有名なピアニスト、バド・パウエル(一九二四〜一九六六年)も、 のちのジャズメンに多大な影響を与えた (アルバム『バド・パウエルの芸術』『アメイジング・バド・パウエル』など)。 だが、最大のキーマンといえば、その飛び抜けた才能を死後になってようやく正当に評価されたサックス奏者チャーリー・パーカー (一九二〇〜一九五五)があげられる。 ジャズという音楽において、ペルギー人が発明したとされる管楽器サックス(サキソフォン)が 果たす役割は、他の音楽に対して比較にならないほど大きい。 バリトン、テナー、アルト、ソプラノと四種類があるが、 いずれもジャズと切り離すことができない大切な楽器である。 このようにジャズにとって命ともいうべきサックスの演奏家として、 あえて代表をあげるなら、のちに触れるジョン・コルトレーンとカンザス・シティ出身のこのチャーリー・パーカーをおいてほかはない。 サックスを、それこそ自在にはね回る鳥のごとく縦横無尽に操る早業から、‘バード’名称をミュージシャン仲間につけられたパーカー。 芸術肌のミュージシャンのご多分にもれず、彼は酒と麻薬に溺れ、34歳の非業の死を遂げるが、ジャズに新し息吹を吹き込んだ 天災であったことは間違いない。 】 ▼ それぞれの楽器で、その時代のジャズを特徴づける奏者が出てきてきていた。パーカーはサックスである。 モダン・ジャズでのサックスの役割は大きい。モダン・ジャズは、更にクールジャズへと変っていく。 ・・・・・・・ 3348, 閑話小題 2010年05月26日(水) * 何か凄い夢をみた! 一昨日の夜半に、変わった夢を二つ立てつづけにみた。これ以上の不愉快がない夢をみた。これは不徳のなせること? もう一つが夜空の星雲をみている夢である。 それが壮大なスケールで美しく今だかって見たことのないイメージ。 何かの宇宙映画の映像が頭の隅にあったのだろう。 神の目線のような、夢でしか経験できない内的な経験である。 もっと近づいて見ようとするうちに夢が終わってしまった。 宇宙に浮いて立体的に星座の星をみている夢は初めてだが、 こんなリアルで壮大な夢をみたのに驚いている。「アバター」や「2012年」をシアターでみたのもあるか。 3Dの映画やTVで、これに近いか、それ以上の経験もできるのだろうが。 脳の奥行きの深さを夢で知らされた思いである。 こんな夢をみるとは、お迎えが近いのかもしれないゾッとする内的経験であった。内面は宇宙ということ? (字数の関係でカット2011年5月26日) ・・・・・・・・ 2973,超円高社会 2009年05月26日(火) 「超円高社会」 水澤潤著 ー読書日記 この本は初めから終わりまで、たとえ話のオンパレードである。 下手な分析より、たとえ話の方が解りやすいことが多い。「まえがき」の一行目の冒頭から、 《 日本は世界のATMだと言われてきた。お金が必要だと思ったら、欲しいだけ、いくらでもニッポンATMから ゼロコストで引き出しできるというのだから。そこで引き出された金は、みんな日本以外のところに流れていき、 世界中を潤してきた。21C初頭の世界的な好景気の原動力となったものこそ、実はニッポンATMがしゃぶしゃぶに 供給してきたキャッシュだったのである。アメリカ、中国、欧州、ロシア、インドが、産油国が好景気を堪能した。 (字数の関係でカット2008年5月26日) ・・・・・・・・ 2609, サルトルについて、考えてみる ー1 2008年05月26日(月) ..φ(ー ̄*)カキカキ_φ(* ̄0 ̄)ノオハ 最近は、サルトルは人気がないが、私が学生時代は最も人気のある思想・哲学者であった。サルトルといえば「存在と無」である。 その中で説かれている「対自」と「即自」と「対他」というキーワードがある。これらの言葉に出あった時の驚きを今だに 忘れることが出来ない。この言葉から「自分の裂け目」を言葉で初めて知った。 ・そのままの存在が「即自」。 犬は己を犬と思わない。 自分が何者かを問わない存在。 ・その己に語りかけるのが「対自」になる。自分が「?である」ことを意識して生きている存在。 ・そして、他人から「もの」として見られる存在という意識が「対他」。 「実存が本質より先立つ」人間はまずは生まれて「存在」となる。その後に、それぞれの本質が作られる。 実存主義だが、サルトルは、 それで、「私」という殻から抜け出て「外に出よう」と....。 この辺が学生時代の「私」の理解である。当時、これを読んでいるうちに少しオカシクなりかけた記憶がある。 先週は、面白いので手持ちの哲学書入門書の何冊かを引っ張り出して、サルトルに集中してみた。 なるほど大戦後に一世を風靡するだけのことがある。共産主義の理解者として、左派のイメージが当時あったが、 現在振り返ってみると、それほどでもない。 さて、この一週間で サルトルで思い出した知識といえば、 ・「主体性」の哲学であること。 ・デカルトは「あらゆるもの疑ってみた結果、疑っている自分、そのように考えている自分がいる、ということだけは疑うことが 出来ないのではないか」と考え、「私は考える、ゆえに私は存在する」とした。 それをサルトルは批判をした。彼は「私が、何かを見ている」「私が何か考えている。」の「私」が疑問という。 「何か考えている」は確かだが、「私」は振りかって「反省」をしていた時に生まれる対象。つまり反省している意識とは、 意識自身を対象とする意識なのである。「私とは一人の他人」なのである ・人間は自由の刑に処されている。「人は何も決められてない投げ出されて、一から自分をつくりあげていくしかない。 それが人間の「自由」である。投企とは、現在の自分を乗り越えるため未来へと 自分を投げ出していくこと。 人生を前向きに生きていくことということである。 ・アンカジュマン=自分の選択をする以上、自分の行動には責任を負わなければならない。 と同時に、社会の未来に対して責任を負うべきである。 ー 等々である。 次回は、新たに知ったことを要約してみる。 ヾ(^ω^*)
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| 4819,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー2 |
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2014年05月25日(日)
* 学生時代編 ー後編 ー欧州旅行と武澤ゼミー �� レポート提出の一年後の三期生の夏休みに、一月間の欧州旅行に参加することになる。 ゴールデンウィークの軽井沢の山荘で、アルバイト仲間数人と話している中で、渡航経験と予定のないのが私だけ。 その頃、友人に「『世界旅行研究会』というクラブが主催する世界一周のツアーに行かないか」と誘われていたことを 思い出し、自分も!と決心。そして二ヶ月後の旅行になる。 そこで欧州文化やアルプスなど大自然に圧倒され、 小さな自分の殻が粉々に打ち崩される。これが、私の人生を大きく変える一因になった。訪問先の欧州の文化と文明、 豊かさ、に圧倒されてしまった。今までの学生長屋の一室と、授業と、クラブ仲間だけの世界とは全く違う、広い、深い 世界を垣間見て、帰国後の半年間は自失呆然・・ 欧州参加で親しくなったメンバーも、これまでと全く別世界の人たち。 派手で、陽気な、優しい、都会的センスに満ちた人たち。 毎日の生活費のチマチマした家計簿をつけていた自分が嫌に なり、仕送り分の全てを使い切る! せっかくの青春、可能な限り学び、遊び、行動すると心に決める。それは現在も? �ぁ,修陵眷�の最終年に、友人の紹介で絶妙なタイミングで武澤ゼミに入る。そこも、私と格段上の知識レベルの世界。 その時、武澤ゼミが厳しいことで知られていて、希望者が少ないことなど知る由もなかった。そこで、一年かけ、 知識の絶対量が少ないこと心底、思い知ることになり、卒業時には激しい躁鬱?になりかけていた。武澤ゼミとの出会で、 この40数年間、一日2〜4時間の独学習慣をつくるきっかけになって、現在も、それが続いている。そして、この程度! �ァ)困譴討覆蕕覆い里蓮■横歓佑料換颪�ら集まった色いろな大学の共同生活である。今でいう、シェアハウスそのもの。 共同トイレ、炊事場、洗濯場で、長屋のように細く長く分割した部屋の生活である。それぞれの個性豊かな、生態が リアルに、丁度良い距離で見えてくる。それも安保騒動で騒然とした1960年代後半、人を知る上で面白くないはずがない。 学生時代で良いのは、自分の実家のことを表立てるのはタブー。一人の人間としての裸付き合いが出来ること。 �Α,海虜◆⇔�通革命の必要性を唱え、ダイエー、西友などの新興勢力の理論的背景になっていた渥美俊一の存在を知る。 当時、『販売革新』という雑誌で知ったが、流通革命を卒論のテーマにし、一連のシリーズ本を必死に読んだもの。 暗黒の大陸といわれた、流通の世界の合理化には、メーカが主導した経路の百貨店、一般小売店から、全く違った太い バイパスが必要と、セルフ方式の大型スーパーと、チェーン店の先進国アメリカの流通システムの日本導入を声高々に 唱えていた。実家が商家だったこともあり、自分が学ぶ道は、暗黒の世界の中での科学化と直感。そこで、合併前の ジャスコ岡田屋に入社を決めることになる。
・・・・・・ 4452, 早朝座禅 −3 2013年05月25日(土) * 座禅とヨガの呼吸法 「早朝座禅ー 凛とした生活のすすめ」山折哲雄著 雲頓庵で座禅を組んだのは六日町にある雲頓庵と、金沢時代の新人研修での永平寺。近くでは悠久山の曹洞宗・堅正寺で、 禅室で独り座禅を組んだこともあった。そうこう考えると、延べ30回は座禅を組んでいた。禅僧からみればド素人の野狐禅だが、 青年期の私には新鮮で面白い経験であった。今から考えると、自ら‘ひとり’の状態に追い込んで、心の整理を自然に任せ 整理をしていたことになる。 進路が定まらない20歳代、迷いと混乱の中、禅寺心をゼロにし行き先を考えていた。 雲頓庵では新井石龍禅師から直接、姿勢の正し方、呼吸の仕方、心のあり方を指導してもらったが、教えられるのはカタチだけ、 禅定に近づくには、只管、座禅を組しかない。 このところスポーツジムのヨガ教室で、瞑想のための呼吸法を教えているが。 基本は鼻から1、2、3と10秒数えて吸い、 5秒間止め、10秒かけて吐き出す。そして5秒止め・・・を繰り返す。 実際にやれば分かるが、これが息が続かない。 これに対し著者の座禅の丹田呼吸法は、2秒で吸い、4秒かけ吐き、2秒間息を止める。それを繰り返す。 ーネット検索の「座禅の呼吸法」ではー 【 息を吸うことよりも、吐くことに主眼を置いて下さい。上記の気海丹田まで、体の中の空気を全部吐きだす感じで、 吐ききってください。吐ききれば、自然に吸えます。数息観というのは、呼吸を整えていくための方法で、一から十まで数える。 ヒト〜で静かに長く深き吐き、ツで吸います。フタ〜で長く深く吐き、ツで吸います。これを、何回も繰り返すのです。 呼く息は、自分の気海丹田に吐きかけるように、そして数えるのも気海丹田で数えるという観念でやることが大切です。】 腹式呼吸で、吐きに意識を集中して長めに、そして少し息を止め、短めに吸い込み、少し息を止め、吐きを長めに、を繰り返す。 ー禅は腹式呼吸に対し、ヨガの呼吸法は腹式と胸式呼吸法のミックスー 【*腹式呼吸のやり方は、へそに意識を集中させ、鼻からゆっくり吸い込み、お腹に空気を溜めて膨らませます。そして 腹から空気を押しだすように、鼻からゆっくりと息を吐いてお腹をへこませます。息を吐いた時は、お腹がぺたんこに なるようにします。呼吸のリズムは、3秒で息を吸って、6秒かけてゆっくりと吐くイメージ。 *胸式呼吸のやり方は、胸式呼吸とは肋骨を大きく広げて息を吸う呼吸法。ラジオ体操の深呼吸などが胸式呼吸になる。】 基本的には、座禅もヨガも同じだが、ヨガでは胸式呼吸を含むところが違う。30年前からの早朝の散歩とミニサイクリングで、 深呼吸は身にはついているが、新鮮な空気は本当にうまい。新鮮な場所で、深呼吸をする習慣をすれば、その必要もないが。 ・・・・・・ 4078, 老いの見本帳ーダークサイト −2 2012年05月25日(金) * 序章 初老期と不安 ー� 「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日 武彦 (著) 人生で一番大切な時期は50歳代と思って、悔いの残らないように過ごした。今から振り返ってみて、良かったと思っている。 「残り20〜30年分を10年に凝縮して生きる」と、本気で。 60歳を過ぎて、気持ちが非常に楽になったことはいうもでもない。 「老いの不安」からウツに陥り、初老にさしかかり医者から貰ったハッピードラッグで薬中に陥った人がいる。 それは惨憺たるもの。 ー ここで「惰性から離れる不安=初老期の不安」を表している。 ≪・・ となれば、定年とは惰性の喪失、マンネリの終わりということになるだろう。もちろん新たな惰性が始まることにはなろうが、 その前に、よるべなさや心細さを痛感し、生きる意味といった類の根源的問題が脳裏をかすめることになる。そのような事態を 先取りして想像し、自分で自分を追い詰め、自壊するかのように五十代半ばにして「うつ」に陥っていくケースはかなり多い気がする。 しかも実際に定年に直面すれば、予想外の雑用や成り行きでどうにか乗り切ってしまったりすることのほうが案外普通ではないだろうか。 老いそのものよりも、想像力や予兆によって我々は老いに脅かされる。それはホラー映画の構造と相似しでいる。お酒落というよりは 「若作り」に励む中年男性が増えたような印象がわたしにはあるが、それはたんに異性にモテたいとか一目置かれたいとかの皮相的な 理由ではなく、老いという未知なるものへ対する護符にも似た魔術的効能が求められているからだろう。 老いることのネガティブな側面は、健康や金銭面で弱者になりかねないことと、世間から置き去りにされかねない不安、死への接近と いったことであろうか。必要不可欠な人物という立場から退場することへの寂しさ、敬して遠ざけられがちなことへのもどかしさ、 切実な無力感といったこともあるかもしれない。核家族化によって、老人なりの役割分担を与えられなくなってきていることも問題だろう。 そうなると老人は青年や中年の劣化バージョンということになりかねない。男性、ことにサラリーマンは定年と老いとの同義化と、 それを先取りした不安が問題となっている。若作りというどこか滑稽な振る舞いにも、シリアスな意味が込められている。≫ ▼ 初老期の人間の姿をシリアスに浮かび上がらせた内容である。「老人は青年や中年の劣化バージョン」は、言いえて妙である。 ひと足先に定年をむかえた人が先年、「暇を持て余すと思っていたが、実際は毎日やることがある」と言った意味が最近分かってきた。 人生は最大限に生きるべき、それが老いへの準備になる。年齢に従って劣化を劣化として受け入れるしかない。起承転々・・いや転倒 ・・・・・・・ 3712, ジャズについて −7 2011年05月25日(水) モダン・ジャズの誕生 ー� ー 「音楽の本」三枝成彰著 より ■ 四〇年代、ジャズの常識を打ち破った「モダン・ジャズ」の誕生! P−195 ▽ "踊る音楽"から"鑑賞する音楽"へ ーまったく新しい「ビバップ」とは? 【 時代は第二次世界大戦(一九三九〜一九四五)に突入。四一年の日米開戦によってアメリカは本格的な戦時体制に入り、 ジャズメンの中にも召集を受ける人が出てくる。あわせて、歓楽街とりわけダンズホールへの課税も強化され、スウィング・ジャズを 支えたビッグ・バンドの維時は雛しくなる。 そうした状況の中で、ひと旗上げようと全米各地からニューヨークに集まってきた ジャズメンは、ハーレムのミントン・プレイ・ハウスやモンロー・アップタウン・ハウスなどのクラブで、店が閉店したあとも、 夜な夜な ジァム・セッション(独奏者が集まって即興演奏の腕比べをすること)を繰り返して腕を磨いた。 小規模のコンボで演奏する彼らにとって、型通りのビッグ・バンド・スタイルのスゥィング・ジァズは、もはや古くさく物足りない ものであったことはいうまでもない。いかにありきたりの形式を打破し、自分なりの新鮮な要素をジャズに注入するかという実験に 彼らは腐心した。 こうして生まれたのが、「ビバップ」(もしくは単に「パップ」)と呼ばれる新しいスタイルである。 ジャズにおけるビバップ・スタイルとは、メロディー、リズム、ハーモニーすべてにわたって従来のジャズの常識を打ち破ったもの。 なによりも驚くほどテンポが速くなり、不協和音の多用による音の飛躍、リズム・アクセントの変化によるビートの細分化など、 全体の音色はより硬質化し、フレーズ(即興演奏における音の連なりの聴こえ方)の多様性はいちだんと広がった。 ジャズの醍醐味の一つは、ソロによる即興演奏にある。たとえば、同じ曲を演奏するにしても、ソロの演奏の仕方によって まったく別な印象を与える。そのソロ演奏が不可欠となったのも、この時代といっていいだろう。 もちろん、このビバップは、従来のニューオリンズ・ジャズやスウィング・ジャズの、ある意味では単純な‘ほのぼの’とした ジャズを聴き慣れた耳には、複雑で"とんがった・印象を与えた。 こうして、それまではもっぱら"踊るための音楽"だったジャズは、‘鑑賞する音楽’の色合いを強めていく。 そしてそれは、大衆的な幅広い人気という面では、従来の輝きを失っていくことにもなるのだが、一方では、 音楽としての芸術的真価を発揮し、熱心なファンを獲得することになる。 】 ▼モダン・ジャズが第二次世界大戦の最中に生まれ、ビパップのスタイルに変わっていった。「全体の音色が硬質化し、 テンポが速くなり、不協和音の多用による音の飛躍、リズム・アクセントの変化によるビートの細分化が特徴」というと、 訳も分からず聴いていたモダン・ジャズの特徴を、それまでのジャズとの区別がつくようになる。 ジャムセッションという言葉は 聞いたことがあるし、幾つかのバンドが次々と演奏を競うのもTVでみたことがある。あれがジャムセッションだったと、今回知った。 ・・・・・・・・ 3347, YouTube の視聴回数 1 日 20 億回! −2 2010年05月25日(火) (字数制限のためカット2012年5月25日) ・・・・・・・・ 2972,閑話小題 2009年05月25日(月) * 大相撲 今場所は、白鵬と朝青龍の間に、日馬富士が割り込んだ三者の争いで面白い場所であった。 この三人のモンゴル人に、次の大関候補の鶴竜もモンゴル人。若手の将来性のありそうなのは、全てがモンゴル人である。 大相撲は更にモンゴル相撲の世界の様相を示してきた。相撲に対する熱意とハングリーさが、日本人とは格段の差がある。 今さら外国人は排除できないから、当分の間は続くことになる。草原の中で自由に育った肉体も日本人とは違う。 彼らの金銭感覚からみて、関取になれば大成功の収入になるのもハングリーになる背景がある。 朝青龍は明らかにピークは過ぎた。 最盛期は歴代の横綱で私が知る限り一番強かったようだが。 日本人の大関、三人とも八勝七敗。 何時も似たような引退かどうかの塀の上。 * 自殺が10年で33万人 自殺者が、10年続けて3万2〜3千人を超えており、合計33万人が自殺をしたことになる。 自殺未遂が、その10倍はおり、一歩手前で踏みとどまっている人が、その10倍はいるというから、33万人が自殺未遂、 330万人が自殺の一歩手前で、30数軒に一軒の割ということになる。十数年前は、20万人前後というから、異常な数である。 一つ踏み外せば自殺願望者になる。世界恐慌、パンデミック、凄惨な事件が続き、周辺の環境も暗くなると、 何時の間にか鬱気味になる。その社会不安と環境が、何時の間にか鬱気分になっている。 その中で一人、鼻歌を唄いながらスキップでもするしかないが・・・。 ・・・・・・・・ 2608, 閑話小題 2008年05月25日(日) ヽ(。ゝω・)ノ☆;:*おはよう*:;☆ *西堀ローザの衰退 (字数制限のためカット2011年5月25日) ーー *五雨十風 「晴れの日ばかりではなく、5日に一度の雨、10日に一度の風が吹く。そんな繰り返しの中で自然の 豊かさがうまれる」雨や風は、その立場にとって良い場合と、悪い場合がある。 運動会の日の雨は、あいにくの雨であり、自然の環境にとって、五雨十風の天候は丁度良い。 こういう言葉が日本にあったのは、先日読んだ本で初めて知った。自然の中で住む我々は、五雨十風の恵みの中でこそ 生きられるのである。雨が降ったといって、気分がすぐれないとか、好きなことを言っているのは人間だけ。 このことは自然現象だけでなく人生でも、良い事だけでなく悪いこともアザナエル縄のごとく、 交互にやってくるという意味もある。 (σ・з・)σホナ、マタ!
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| 4818,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー1 |
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2014年05月24日(土)
自分史的物語など、都合の要素だけを切り取り、繋げあわせた絵柄でしかない。 私の場合、こういう結果だからこそ、歩んできた道筋の要所要所の現象、決断などの語り直しの絵柄も面白くなる? 実感としては、「この結果こそベスト?」と、「そう都合良く思うしかない詭弁?」 という気持ちを含め、断片的に 語ってきた物語の「語り直し」になる。 傍から見れば珍妙な己の姿を、この結果なればこそ、自覚できる。 隠れテーマは「この喜劇の創りかた」あたり。 ここで書く内容は、今まで書いてきた断片的な事象、内的体験の 再編になるが、視点が変わると新たな記憶が蘇ってくる。そのため殆ど書いてないことに気づいてきた。 語り直しは、あまり気持ちの良くないが、書き続けるうちに、新しい視点が多く出てきている。 自分とは、それぞれの記憶の総合体だが、その記憶そのものが変える作業は、極度の神経の集中が必要になる。 < 「事業人生を決心して45年」の語り直し > * 学生時代編 ー前編 ① 事業創業の人生を目指そうと決心し、準備15年、創業から30年の独り語りを始める。 漠然と自分の将来は、流通業と漠然と考えていた20歳の時、「キリスト教倫理」の夏休みに、『これからの人生設計』 のテーマのレポートが宿題に出された。そこで、あまり真剣に考えたことがなかった自分の将来について考えてみた。 その内容といえば、『父親のような創業を幾つか挑戦してみたい、過酷としても、事業創業の人生を生きたい!』と。 その時から、人生が変わっていった。そこで当時の授業カリキュラムの内容を改めて見直すと、前半二年の教養課程が、 人生の土台になる学問。後半二年が、そこから選択できる専門課程が整然と組込まれており、これから生きていくための カリキュラムが合理的に組まれていたことを知る。 哲学者エリクソンは、学生時代や、病気療養の期間を、 「心理・社会的な猶予期間」とし、より自分らしい人生を選ぶために必要な時間として前向きにとらえている。 人生を振り返ってみて、大学の4年間や、その後の放浪が、自分の生きる目標を明確にするため必要であったことは、 体験上、充分に理解出来る。 そのレポート作成で、漫然と生きてきた自分に気づくことになる。 その時、真剣の考えた分、ノンビリしている同期生より、二年早く将来設計に気づいたことになる。 卒業半年前になって、慌てている人が過半数?はいたようだ。 それから読書も、友達付き合いも全く変わっていった。 自然と、クラブの合気道と、寮生との距離が離れていった。 ② その頃から、遊び半分、アルバイト半分で、学生寮の先輩が鳩山一族の政治団体「友愛」が経営する『友愛山荘』を 任されていた軽井沢の山荘に手伝いに行くようになっていた。先輩の寮生と二人、そこの手伝いに誘われて掃除とか、 料理をしながら連休とか夏休みなどに、山荘生活と、軽井沢の世界を楽しむようになった。 そこは、鬱蒼とした森林の中の別荘地。その世界を憧れる若い女性と、金持ちが集まる別天地である。こういう世界の 住人になるには、それなりの力を持たなければと実感することになる。それにしても、早朝の朝靄の小道の散歩は格別! 世界には一部の裕福層と、その他が存在することを肌身で知ることになる。それより何が楽しいかといえば、 夕食後のミニ・パーティ。紅茶と御菓子で、フォークソングを歌い、踊る。それも御客は若い女性ばかり・・ ・・・・・・ 4451, しまった! ー1 2013年05月24日(金) ーしまった! 「失敗の心理」を科学するージョゼフ・T・ハリナン (著) 人間の認識の甘さは今さらいうまでもない。カントのコペルニクス的転換、「人の認識は対象に従うのではなく、 認識が対象を決める」。それを知識として知らないため、思い込みに縛られ、人は多くの失敗を重ねてきた。 更に失敗から学ぼうとしないから始末が悪い。その上、失敗に対して意識的にも無意識的にも話を作りかえる。 まずはー内容紹介ーより 人間はなぜ、まちがうのか」というテーマについて、面白くてネタになるトピックを「これでもか」 というぐらい集めて分析した本です。たとえば・・・・・・ ★ レントゲン技師は、画像に写っていた悪性腫瘍の9割を見落とす? ★ トップレスダンサーの収入は、彼女の月経サイクルに左右されている? ★ 黒いユニフォームのチームは、ペナルティーをとられる可能性が高くなる? ★ 人間は、誤りを犯しそうなときは、むしろ「行動を起こさない」という誤りを犯すほうを選ぶ? ★「セックスした相手の数」を、男は女の四倍も多めに答えたがる? ★ 医師の八四%は、同業者がメーカーからの贈与に影響されていると考える。 だが、自分が影響されていると考える医師はわずか一六%しかいない。 ★ 人はなんらかの形で自分が不正をしていないことを証明すると、その後の作業でもっと不正をしやすくなる。 ★ 映画を「あとで見る」人は高尚な作品を、「いま見たい」人は大衆的な作品を選ぶ。 ★ キャッシュローンを勧める通知書に女性の写真を載せるだけで、利率を五ポイント下げたのと同じ効果が期待できる。 ★ 予備選名簿の一番目に載った候補者は、得票に三ポイント上乗せできる。 ★ 投資家は、金曜日の経済記事には月曜日の記事ほど注意を向けない。 ★ 人間は、印象の操作など特定の目的のためには平気で話をつくり変える。 ★ 無意識につくり変えた話でも、二度三度と繰り返すうちに、いつしか「記憶」そのものになってしまうことがある。 ★ 一般的に、男は自分を持ち上げるために、女は他人を持ち上げるために嘘をつくことが多い。 ★ 社会的地位や学歴、収入は、全体の幸福度におけるわずか三%しか占めていない。 ★ 人を単純作業に従事させるためには、お金の力がものを言う。だが、たいていの行動では、人間は総じて 金銭的動機には左右されない。(ゆえに、行動経済学はあまり役に立たない?) などなど、興味深い話がてんこ盛り。 ▼ 人は思うほど完全な存在でないが、しかし周囲は人が完全であるかのような前提で動いている。 私が学生時代のゼミで多くのことを学んだ中の一つに「会社組織は完全な存在でなく、個人の将来まで考えてくれない。 独自で学び続けなければ知識や能力は得ることが出来ない」ということ。 キャリアは自身でつくり上げるもので、 与えられるものでない。実際のところ、成功の背後には失敗の累積がある。問題は致命的な失敗をしないこと。そして、 失敗から学び取ること。人生を振り返って、今になって真の失敗は何だったか気づくことが、あまりに多い。 ・・・・・・ 4077, 哲学で自分をつくる ー4 (ソクラテス) 2012年05月24日(木) * 魂に磨きをかける 「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」 瀧本 往人 (著) 第一章 しったかぶりはもうたくさん 〜ソクラテス ー� ≪ 死刑を宣言された際、つまり自分の死に対し、「死を恐れることは、死のことがよく分かってないのに分かった気になる」に等しいと、 ソクラテスは考えた。死について何も分かってないのに「死を恐れる」などということは愚かしい、誰も死を知っている者はいないのに、 なぜ恐れるのかと問いを発する。命がけで期待された弁明の機会もアテネ市民の将来を憂いる。そして死刑判決を受ける。 ・・・無知をハッキリさせることは「汝自身を知れ」に通じる。自分が何も知らないことを自覚し、より一層真理を追究する態度は、 単に、汝自身を「知る」ことでなく、魂の鍛錬という「実践」であり、自分がよく生きるための問いである。魂を磨くことは、ただ漠然と、 自問自答するのではなく、他者にかかわる中で、他者に問いかける中で磨かれるものである。 ソクラテスが探し出そうとしたのは 「真理」であって、ソクラテスらしさではない。探し出すには、相当の鍛錬、実践が必要とされた。自分の魂を磨くには、命をかけて 真理を追究しなくてはならない。他者が嫌がることでも、問いかけを行わなければならない。 この対話、営みは「パレーシア」 (真実を語ること)と呼ばれている。彼の対話術は、自らの主張を他者に受け入れてもらうための技術ではなく、「相手に問いかけること」 そして相手の主張を「聞くこと」に主眼があった。そもそもこの「無知の知」の重要性は、この「聞くこと」のための手法にあった。 何かを知っているから語るのではなく、何も知らないから、分かってないからこそ、相手から引き出そうとする。 パレーシアの原点は、 そこにある。それゆえ、その原点は、密接な一対一の関係が必要である。この対話は、自分が主役として振舞うのでなく、相手の話を 引き出すように行われる。それゆえ相手はソクラテスに導かれながら自分について語ることになる。重要なのは、自分が語ることができる 「ロゴス」(論法と言葉)が、自分の生き方と確固たるつながりがあることなのである。 ・・・ ≫ ▼ 「吟味されることのない人生など生きるに値しない」というソクラテスの言葉が好きである。要は、味わい尽くしてこそ人生である。 対話は他者だけでない、自分の経験に対してもおこなうべきである。 そのため老後という期間が人生に与えられている。 老後を如何に過ごすか?と問われれば、「それまで人生に対しての自己問答を通して、魂に磨きをかけること」が答えになる。 それは死を間近にした真剣勝負である。だから面白いのである。魂に磨きをかけるとは、そう甘いものではない。 ・・・・・・・ 3711, ジャズについて −6 2011年05月24日(火) ー 「音楽の本」三枝成彰著 より ー1935年、2ビートから 4ビートへ ー「スウィング」の時代 ー P・192 * 「スウィング・スタイル」の立役者ぺニー・グッドマン 【 デューク・エリントンに、「スウィングしなけりゃ意味がない」という、よく知られたタイトルの曲がある。 一九二九年の金融恐慌に始まった大不況がようやく回復の兆しを見せてきた三五年頃、ジャズの中心地となっていたニューヨークでは、 スウィング・スタイルのジャズの時代を迎える。スウイング・スタイルのジャズとは、ビッグ・バンドによる躍動感あふれるダンスの ためのジャズといってもいいだろう。ジャズのリズム的特徴の4ビートにある。従来の2ビートから4ビートに移行したのも、 このスウィング・スタイルの特徴であり、心地よい揺れるような感じ(スイング感)がこれによって生まれた。 立役者は白人のペニー・グッドマン(一九〇九〜一九八六)。彼は、一九三四年に不況のあおりで自分のバンドを解散せざるを えなかったフレッチャー・ヘンダーソンから、そのビッグ・バンド・スタイルの編曲を丸ごと"買い受け"たのである。 そしてそれに洗練を加えることによってダンス音楽としてのジャズに新たな味わいをもたらした。 そもそもジャズは、誕生当時からダンスホールやクラブで演奏されることが多かったように、ダンス音楽の側面を持っていた。 ジャズが鑑賞のための音楽になるのは、その後のことである。 グッドマンは、より速いテンポ、短いフレーズの繰り返し、軽快で歯切れのよいタッチの演奏で、それをスウィツグ・ジャズ・スタイル として確立させたのである。グッドマンのあとには、トミー・ドーシー楽団やグレン・ミラー楽団といった白人ビッグ・バンドが続いた。` やがてこのスウィング・スタイルでのコンポ(八人くらいまでの小編成楽団)も人気を集めた。彼らはニューヨークの五二番街に 集中していた小ぶりなクラブでもっぱら演奏したので、五二番街は「スウィング・ストリート」と呼ばれた。 スウィングを担ったジャズメンは白人が多かったものの、だからといって、ジャズが「黒人による不良・ぽいワイルドな音楽」から 「白人による健全でスTト書楽」へと変質したわけではない。むしろ、スウィングから次のビバツプの時代を経て、ジャズが 黒人だけの音楽から、白人を含む音楽へと広がりを持ったと認識すべきであろう。】 ▼ ここでジャズは、元もとダンス音楽の側面があり、スウィングの流行後に、ジャズ音楽鑑賞として進化したとは知らなかった。 それも、あのべニー・グッドマンがスウィング・ジャズの立役者とは。 あの恐慌の半ばで・・・ それと、学生時代に 持っていた少ないレコードの中にグレン・ミラー楽団とべニー・グッドがあったことを、この書を読んでいて思い出した。 ・・・・・・・ 3346, YouTube の視聴回数 1 日 20 億回! −1 2010年05月24日(月) YouTube の視聴回数が1 日 20 億回!には驚いた。2年前に息子から面白いとサイトを開いてK-1を見て驚いたが、 それっきりだった。 それがビデオカメラを買って、撮影し、投稿して初めて面白い投稿が多くあるのに気づいた有様・・。 まずはペットから始まり、アフリカの野生動物、そして花火と、見る度にはまってしまった。 ーこのサイトのHPによるとー ≪ 5年前の5月、YouTube の創業者たちは何カ月も深夜まで及ぶテストと作業の末、YouTube.com をオープンしました。 その使命とは「誰でも簡単に動画をアップロードし世界中と共有することができる場所を提供すること」。 今日 YouTube は、映画監督でも、政治家でも、自慢の子を持つ両親であっても、または大きな何かと繋がっていたいという人たちが、 自身をブロードキャストすることができる場となりました。YouTube は誰もが想像したよりも遥かに素晴らしいサイトに変化を遂げ、 活気に満ちたユーザーのコミュニティが創られた。多くの皆さんに使っていただいた結果、今日 YouTube の視聴回数は 1 日あたり 20 億回を超えるまでになりました。これはアメリカの主要テレビ局 3 局のゴールデンタイム中の番組視聴回数の合計の 2 倍近い数値。 自宅の寝室で撮影された動画ブログやバイラル動画のサイトとして始まったものが、HD画質や3D動画に対応し、200 カ国に放映される 1 シーズン分のスポーツの試合、より良い社会を目指したドキュメンタリー映像、更にはアメリカ合衆国大統領へのインタビュー までも配信する世界的なプラットフォームに進化しました。≫ ー以上だが、ツイッターには、すぐ反応したが、これに反応しなかった鈍い感性に驚いている。 (字数制限のためカット2011年5月24日) ・・・・・・ 2971,住まうこととさまようこと ー3 2009年05月24日(日) * さすらう者たち 「さすらい」という言葉は、深い何かを感じ取ることが出来る。それは、青年期になると、親から一歩はなれて、 自分の世界を探し求める者の姿に二重写しにもなる。産まれ、育ち、生きていく人間のありようが、さすらいかもしれない。 その言葉に、「ニヒリズム」の響きを感じるとるのは、人間の存在は死すべき存在であるかだ。さすらいといえば、船乗りと遊牧民。 彼らは、「住まうこととさすらうこと」を同時にしている。 彼等の方向性は、目的とする港であり、商業の街である。 彼らは、港や商業地で住む人たちとは本質を別とする。「男はつらいよ」の寅ちゃんではないが、自分の帰属するところがあってこそ、 さすらいが出来る。 古来、未知なるものへの憧れが、人間をさすらいへと駆り立ててきた。 欧州ではユダヤ・キリスト教の影響が顕著になると、さすらいは原罪を背負い呪われた者たちの宿命であり、彼岸という最終目的に 至るための受難の道に過ぎないと、考えられるようになった。今日でも、何らかの最終目的に到着することが、旅の目的とみなされてきた。 (字数制限のためカット2011年5月24日) ・・・・・・ 2607, 脳内会話 ー2 2008年05月24日(土) 脳内会話といえば、 哲学者の池田晶子の「帰ってきたソクラテス」「ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け」「さよならソクラテス」の三部作が、 池田晶子の脳内会話のようなものだった。宇宙の彼方から帰ってきたソークラテスが、現代のニッポンに甦り、現職議員や老人福祉係、 ニュースキャスター、ジャーナリスト、エコロジスト、フェミニスト、マルチプランナー、トレンドクリエイター、コピーライター、 サラリーマンから釈迦まで、様様な職業の人たちと、政治や老人福祉、その他諸諸のことについて、対話する。 筆者が抱いている「ソクラテス像」というフィルターを通して、しゃべりたいことを、ソクラテス(池田晶子に話をさせている。 ソクラテスなら、こういうだろうと池田が成りきっているところが面白い。これこそ脳内会話そのものだろう。 ーー 「そーさ、そりゃあたしだって、決してこんな世の中いいと思ってるわけじゃない。確かにこの頃は・目に余るところはあるわよね。 でも世の中って、そういうもんて言や、そういうもんなんじゃないの。(中略)あたしは自分の身の丈の暮らししかしたいと思わないから、 官僚が金儲けしようが女子高生が売春しようが、あきれはするけど、かまわないね。言ってわかる連中じゃないんだから。 (中略) ああいうのに腹立てて、やいやい言ってるヒマがあんなら、自分をまじめに生きてる方が、あたしはいいね、ほんとは そっちが先でないのか。みんながそれをほっぼらかして、人のことや世間のことばっか気にするから、結局世の中全体が、 そういうふうになるんでないのか。.……」 ーソクラテス 『悪妻に訊け』で読んだ「フェミニスト」とのやりとり。 「 フェミニスト 女の能力は生殖や家事に尽きるものではないと私は言ってるのです。 女の隠れた能力を存分に発揮できる場所を、社会は用意するべきだと言ってるのです。 クサンチッペ 馬鹿だねえ。女の能力って言うんなら、そりゃ男を動かすことに尽きるでないの。 社会動かしてるのが男なら、その男を動かすことこそ女の技量ってもんよ。せっかく女やってるんなら、 断然その方が面白いね。 (字数制限のためカット2011年5月24日) ・・・・・・・ 2007年05月24日(木) 2242, 閑話小題 ゜・。*ヾ(´∀`o)+。才ノヽ *滋烈亭のママ* 十数年前の話になるが、長岡や県外の人が新潟・古町界隈の「個性的な店に行きたい」というと「滋烈亭」という 創作中華料理店に連れて行った。ママも美人でキップが良かったこともあったが・・・ところが当時、改装をしたという 案内をもらったので行ったところ、カウンターを主体にした、より高級志向の店になっていた。 (字数制限のためカット2011年5月24日) ところで、この数年後に鬼籍に入られた。
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2014年05月23日(金)
朝日新聞の(耕論)「いま、一人前の条件」=規範ない、寅さんのつらさ」ノンフィクション 作家・高野秀行が面白い。私が一人前として自立できたと感じたのは27歳の時である。 父が亡くなり、最初の事業を千葉で立上げと同時に結婚。 その時、石油ショックが起きて、ただ無我夢中の日々だった。両足に鉄の下駄を履き(結婚生活)、 背中には創業という重い荷物を担ぎ、よろよろと坂道を登っているような日々だったが、これが 私の独り立ちであった。 以下の内容は、世界における「一人前の条件」だが、 やはり結婚が大きな目安のようだ。 ーその全文をコピーするー 《 早大の探検部以来、外国人が入らないような辺境も含め、世界60カ国以上を旅してきました。 その経験を踏まえて言えば、 ・先進国以外の大部分の地域では、結婚しているかどうかが「一人前」の一つの大きな基準。 20歳過ぎても独身だと、 何か特別な理由、特殊な事情があると思われます。 正確には子供が生まれて完全に一人前という感じでしょうか。 ・かって半年ほど住み込んでいたミャンマーの少数民族の村では、子供ができて初めてその人の 土地がその人の名を冠した「○○の畑」と呼ばれていました。一人前になることは、財産を含めて 地域社会から認知を受けるという意味でもあります。 ・長年、無政府状態が続いたソマリアの取材を続けていますが、ここでは「大人」という言葉に、 成人という意味に加え、「偉い人」「長老」という意味があります。長老はだいたい50歳以上、 10人の集団に2、3人の割合です。 人望や財力、教養があり、何か問題が起きた時に 「あの人に相談しないわけにはいかない」というような存在です。 氏族内のトラブルや他の氏族との争いでは、交渉の窓口になり、決定権や責任を持ちます。 前例をもとに物事が決まる社会なので、年を重ねることは知識と経験をもつ貴重なデータベースと いうことになり、尊敬されます。 私はいま47歳ですが、日本も私が子供の頃はアフリカやアジアの発展途上国のように、結婚して 家庭をもって初めて一人前扱いされるという感覚が一般的だったと思います。 ・最近は日本を含めた先進国で、年寄りの経験値の意味が薄れてきています。情報技術を駆使できる 若い世代が圧倒的に知識量が多い。従って社会的に年寄りが尊敬されることもなければ、年をとる メリットも感じられなくなります。 何歳から何をすべきだ、この世代はこうあるべきだという決めつけがなくなり、多様なライフスタイル が認められるがゆえに、単純に一人前とはこういう人といえなくなっています。 例えていうなら、今の日本は山田洋次監督の映画「男はつらいよ」シリーズで、社会の規範に とらわれず、気ままに旅を続ける「フーテンの寅さん」が急増している社会です。 寅さんが増えると少子高齢化がさらに進み、社会が回っていかない。同時に本人もつらい。 規範がない社会では自分でそれを作らなければならないからです。 特に日本人は自分で自分の価値観を作ることが苦手。でもいったん自由になると、なかなか 過去の価値観には戻れません。「一人前とはこうだ」というモデルを強要しない社会は、 「自由はつらいよ」ともいえるんじゃないでしょうか。 * 高野秀行 66年生まれ。早大探検部時代にコンゴを探検し「幻獣ムベンベを追え」 でデビュー。》 ▼ 私の人間としての一人前は、三年前の節目時。「なるほど、自立するとはこういうことか!」 という感覚。 家庭持った時点の自立は社会の中の承認だが、リタイアー後の自立は、社会の束縛? からの、自立になる。(>'A`)>ウワァ いや、超越の方が正しい。真の孤独を味わうべき時に、 自立できないでアタフタしている姿がイジマシイ :((゙゚'ω゚')): ・・・・・・ 4450, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー10 2013年05月23日(木) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著 人生の大問題は死期が迫り、もう先はないと悟った時の恐怖である。脳溢血や事故で即死なら別だが、誰もが最期の最期に 行き当たる大問題。だから著者の言葉は平易だが、どれもこれも深い。死を扱っていると同時に、如何に生きるかの問題でもある。 この年齢になると誰も明日にでも突きつけられる可能性のある。だから「死を解決する登山道」という。初めは軽い気持ちで 読んでいたが、読むほどに哲学の総論を読んでいるようになる。 ーここまで書ききれなかった印象的部分を抜粋してみるー ・切腹を辞さないほどの死の覚悟を常に持つということは、欲の超越、自我の超越、生死という二項対立の超越だ。 ・むしろ21世紀は、世界が日本化し、日本も日本思想に戻っていく時代なのではないかと思う。 もちろん、ここでいう日本思想とは、明治に回帰したいという現代保守主義ではない。 もっと前からの日本思想の原点は、無我・無私の心、静かな達人の心だ。 ・自己保存本能を超越し、何の因果かこの世に生まれてきたことに感謝し、今この一瞬に集中してこの幻想としての自己の 存在という奇跡を心から祝福する気持ち。悩みや我欲を超越し、世界を愛し、自分が世界と一体であることを喜び、 それ以外に何も要らないし、もちろん手にも入らないことを理解する境地。身体で、感性として理解する境地。 ・死本来の恐ろしさとは、無で「ある」ことでなく、なぜかいったん存在してしまったものが無に「なる」ところにある。 ・感覚ではなく心の中の何かに向けられるクオリアを、志向的クオリアという。「死が怖い」という感じもクオリアだ。 「怖さ」のぞっとした感じが心の中からわき上がってくる。 ・人間として生まれ落ちて以来身に付けているこのいきいきとしたクオリア。これを失いたくないということが、死にたくない ということと、根本的な意味では同義なように思われる。このかけがいのないクオリアは、あろうことか幻想。本当はないのだ。 脳の無意識の計算がやっていることなのだ。 ・知情意のクオリアは結びつけ問題を解くためにあるのか? 僕たちが生まれる前は、もちろん知情意のクオリアなんてなかった。 何もなかった。無だ。ところが何の因果か、僕たちは、たまたま知情意のクオリアという幻想を持った生物として生まれ落ちた。 だから、生きている感じがしている。 ・僕は「意識は体験を記憶するために作り出された機能だ」と考える。意識は、主体的に行動を作り出すためにあるのではなく、 あらかじめ作られていた演技を体感し、体感したという事実を記憶するための機能である。 僕たちが生まれる前は、もちろん知情意のクオリアなんかなかった。何もなかった。無だ。ところが、何の因果か、 僕たちは知情意のクオリアという幻想を持った生物として生まれ落ちた。だから生きている感じがしている。 しかし、ほんとうは人間もロボットと同じ自動機械なのだ。 ・そもそも、自分が、自由意志や自由な知覚を持っていると思うから、死にたくないと思うのだ。 ▼ 知情意のクオリアも、心の中の何かに向けられる志向的クオリアも、幻想でしかない。実際にそうなのだから、 「死ぬのが怖い」というのは幻想そのもの。半世紀以上以前の中学校の頃、ひとり死を考えて、底知れぬ恐怖を 覚えていた時を考えれば、その恐怖感は、幻想でしかないことが分かるはず。間近に迫った死を覚悟した時から 死ぬまでの間に、それまで生きてきた全人生を生きる、という。その時に「これは幻想でしかない」と、思えるのか。 ・・・・・・・ 4076, 老いの見本帳ーダークサイド ー1 2012年05月23日(水) 「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日 武彦 (著) 面白い本を図書館で見つけた。一日一日、老いていく日々だが、どうも心は歳を取そこねている。実感がわかないのである。 この本は老いの見本帳、それも老醜の見本帳である。わざわざ自虐的な、マゾ的な、げんなりするような事が書いてある。 <・・人生など呻き声をあげたくなるようなことの連続ではないか。まして老いたら、それはそれで独自の当惑や「釦の掛け違い」、 恥や失望や悔しさが待ち受けているに決まっている。ならばそのようなものを、まずは他人事として味わってみるのも一興ではないか。 ・・ 気負った言い方をすれば、種々様々な悲しみや煩悶や屈託を見知ってこそ我々は豊かになれる。その上で若づくりする 初老期を笑うのも結構だし、共感するのも結構ということになる。> と。 これまで両親、親戚、近所の老人を見てきた。 それが何時の間にか、その仲間入りである。しかし歳を取りそこねているようだ。知的好奇心や、やりたいことがあまりに多い。 気持ちが枯れてきた実感など、どう考えてもない。しかし鏡を見ると歳相応で、ますます怒りっぽくなっている! まずは ーアマゾンの内容紹介よりー 老いることは、むずかしい……「若さという神話」への無自覚で強迫的な執着は虚しい。 ならば、望ましい「年寄り」の適切な モデルはあるのか? 歳をうまく取れないために生じる恥、勘違い、いかがわしい振る舞い。老人の不安に向き合ってきた精神科医が、 臨床現場での知見と数多くの文学作品の読解をもとに、老人の心に迫る。 哀しくもおかしな老いの見本帳 = 序章 初老期と不安 = ≪ 人間の心を安定させ安寧を保つ装置のひとつとして、惰性というものが挙げられる。我々は基本的にマンネリに則って生きている。 退屈で変化に乏しく、うんざりする。だがこの十年一日のトーンこそが我々に安心感を与えてくる。とりあえずこのマンネリに しがみついている限りは、大きな聞違いや不幸は(たぶん)生じない。 自分の存在意義も生きている意味も現実の確実性も、 みんな惰性の中に埋め込まれている。 過去を振り返ってノスタルジックだとか懐かしいと感じられる事柄の大部分は、 リアルタイムにおいて惰性やマンネリに彩られていた事物なのである。 日々の惰性がストップしたとき、そこに出現するのは異形の現実である。精神的にショックを受けたとき、生活の根幹を揺るがせる 事態に直面したとき、世界は親しみやすさを失う。当たり前の世の中が、よそよそしく違和感に満ちたものとして迫ってくる。 我々は孤独感と不安とに襲われる。それこそ実存的な風景とでも称すべきか。おそらく死とはこのような感覚の究極としてあるのでは ないかと予感したくなるような風景に向き合うことになるだろう。我々は日々の惰性を憎みつつも、それによって安心感を得ている。 そしてときに訪れるささやかな絶望や悲しみを介して、惰性が、マンネリが失われる恐ろしさを薄々理解している。≫ ▼ 「初老期の不安は、それまでの人生の惰性を失うのではないか?」という見方は確かに心当たりがある。老いとは、一日一日、 死にむかって歩いている時期にある。そして、それまでの人生の返り矢が次々と返ってきて弱者への道を歩むことになる。 老いるのは、まず肉体からだが、それに従って確実に心も老いていく。それに気づかないのが老醜。如何に包み隠すしかない。 ・・・・・・ 3710, 自己を見つめる ー番外 2011年05月23日(月) * つれづれに、早朝に・・ あの日々から二ヶ月近く過ぎ、少し気持ちが落ち着いてきた。 しかし、いくら平気な顔をしていても、やはり一大事である。 数日前に、自宅に一本の電話がかかってきた。 家内が買い物に行っていたので私が受けた。 「日テレの番キシャの記者ですが、 震災の影響で廃業されたホテルの件の取材の電話です!」で・・・、拒否反応の感情が先に立ち、「そういうことは、 一切お断りをしています!」と、直ぐに切ってしまった。 当然といえば当然。 番組では当方は取り上げてなかったが、 「震災倒産」がタイトルで、東北から離れた地域の北海道とかの遠方でも、倒産が出始めてきたという趣旨の内容であった。 ところで、東京も含め関東甲信越以北のホテルは壊滅状態。東京の4月のホテルの平均稼働率が80パー以上だったのが、 半分以下まで落下したとの新聞報道があった。 それを見越して見切ったが、読みどおりホテルは壊滅状態。 実際のところ、前倒しを決断できる状態だったから、見切りが出来た。 が、月末の資金繰りに困るようだったら前倒しは無理。 当方は10年前の9・11ショックで、売り上げが4年かけて3割以上も激減した上、二年半前のリーマンショックで、更に半減。 三分の一まで落ちていた。 それでも、借入返済の減額や、人件費などの政府補助で何とか遣り繰りしていた矢先の、この震災。 シュミレーションをすると、半年後には丸裸。 今なら銀行債権以外は清算が可能。 それならばと見切り廃業を決断した。 結果からみて、「少し早めの見極めは打撃は半減、少し遅めは打撃が倍増?、その差は4倍」と、実感している。 兄と姉の倒産劇を身近で相談に乗っていたから、断末魔の苦しみを肌で感じてはいた。「金がないのは首がないのと同じくらい苦しい」 が生前の父の口癖であった。それは「日々の資金繰りに追われることだけは避けろ」という教え。 それだけは避けたいと思っていたが、 こういう結果で終わっても、資金枯渇の苦しみは殆ど経験しないで済んだのは救いである。 どっちにしても人生は甘いものではない。 生きてきた、そのままが、返りや矢として自分に戻ってくる。プラスにもマイナスにも。 「これが、生きるということだったのか。 それならば、もう一度」という二ーチェの言葉は、なかなか言えないが、人生全体から搾り出しても言わなければ・・ 9・11、9・15、3・11と歴史的経済震災と自然震災に続けて直撃をされると、運、不運とかいう以前の諦念の問題になる。 学生時代に合気道の経験があるが、そこで学んだ一番の教えは危機の際の「引き」である。 危機に出会うことを避けるのが真の極意だが。 来年に入ったら、謹慎期間が(私にとって)終わるので、倒産劇の悲喜こもごものミニ講演を受け付けます。 ここに書けないことが、けっこうある。 個人的には、何時でも・・・臨場感があって、面白い材料がタップリ・・・ 味付けもして? ・・・・・・・ 3345, 閑話小題 ―つれづれに 2010年05月23日(日) * トヨタのレクサス 先日、車検に出していた車を引き取りに行ったところ、30分ほど待ってくれというので隣にあるトヨタの中古車センターで車を 見ていたところ営業マンがよってきた。そこで時間つぶしの事情を話したが、ついつい「高級車か、スポーツ車で面白そうな車があるか?」 といったところと、マークとレグサスを見せてくれた。私は先代の車をいれて22年間、ソアラに乗っている。現在の車は18年も 乗っているが今でもエンジンの衰えが全くない。 で、外からはレグサスを見てはいたが、運転席に初めて座ってみた。何か違うのである。 偉くなったような選ばれし者といって気分になるのである。 自動車も18年もたてば車も格段に進化しているのである。 二年前の車で、600万が367万円。 個人として買えないことはないが、リーマンショック後の恐慌の世。 この暗い世相で無ければ、おそらく買っていただろうが。もっとも、最近は遠出は年一もないし、乗るのは市内のみ。 良く稼ぎ、良く遊ぶためにも、景気回復が待ち遠しいが、当分は無理。 TVでも買え換えるか。 * ペット大嫌いな人と、インコ 去年の10月に、メキシコ・コガネインコを飼ってから7ヶ月になる。家内がペット大嫌いで、買った当初は居間の ベランダに鳥篭があることもあり、一月ほど居間に用がある時以外は、立ち寄らなかったほどの拒否反応。 ところが現在は、休日など見ていると一日数回は、籠前に置いてある簡易イスに座ってインコと戯れている。 インコが人に時々必死に呼びかけてくるのを聞くうちに情が移ったようだ。あれだけ、嫌っていたのに。 小桜インコを5代(匹)飼っていた十数年は、全く感心を寄せなかったのに。犬と同じ位の感覚で人の気持ちを察知する。 そして、自分をかまってもらいたいのである。今まで鳥を多く飼ってきたが、自分の糞が好物というのは始めてである。 ウサギが、そうだと聞いたことがあったが・・・ ・・・・・・・・ 2970住まうこととさまようこと ー2 2009年05月23日(土) * まずは「住まうこと」とは 住まいは、外壁で外と内の世界が分けられており、昼は外が光の世界になり、夜は逆に内側が光の世界に逆転する。 外部空間の環境と、家の内部空間、その両者の布置が、部屋の雰囲気、広がりを決定する。住居は、壁で囲まれ、 垣をめぐらしている。それは自然に対する防禦でもあり、人間に対する遮断でもある。また住まいは上下の構造になっている。 ここで、「空間の詩学」という本を紹介し、その中の「家とはまさに「垂直的な存在」であるとして、次のように述べている。 「垂直方向は地下室と屋根裏という両極によって確保されている。この両極性の特徴は、大変深くおよんでいるために、 非常に異なった二つの座標軸を開いてみせる。屋根に関しては屋根裏では、人は梁全体の硬い骨組みがむき出しになっているのを、 見ることができる。そこで大工の手堅い幾何学にあずかるのだ。 そこで、地下室はどうであろうか。きっと、そこは役立つものと 考えるだろう。便利さの合理性を幾つかあげるだろう。しかし、そこは家の暗い存在、地下の威力をわけもつ存在である。」 殺人事件の映画では、刑事が犯人の家に踏みこんで調べると、そこには地下があり、殺人のための道具や、 死体があったりする。 逆にファンタジー映画の場合は、屋根裏部屋の箱の中や、見知らぬドアに、 光が満ちていて、別世界への入り口になっている。 屋根裏部屋は最も孤独で静寂な上昇の象徴でもある。 私が4?10歳まで育った商家では、戦後の数年後に建てられた4Fのビルであった。 1Fが店、2Fが事務所と倉庫、3Fが台所兼食堂、そして家族の住居、4Fが従業員の宿泊部屋、そして街全体を見渡せる屋上。 まさに垂直的な存在、そのものであった。幼児期の、そこの体験は、まさしく小説のような生々しい物語の連続であった。 住まい、商いが、混同した楽しいが、しかし戦いの連続の世界であった。 そして、ついに大事件が幾つか発生した。 それは、ここでは省くが。 住まいは、外と内があり、内の中にも垂直と、横断(機能別の空間)があった。 ・・・・・・・・・ 2606, 脳内会話 2008年05月23日(金) 昨日の新聞の広告欄にー「脳内会話」の法則ー成功も幸福も3つの言葉で手に入るー という本が紹介されていた。さっそく、検索などで、その3つの言葉を調べてみたが、何処にもない。 そこで新潟駅の本屋に行ってみたが、やっとジュンク堂に、その本を見つけた。 しかし、色いろの場面で、幾つかの3つの単語があっただけで、それほど目新しい内容でなかった。 もちろん買わなかったが、それでは私自身の脳内会話の3つの単語を幾つか考えてみることにした。 擬人法で、 ・まずは *絶対肯定君、(反対の *絶対否定君) ・次は *欲望君、 ( *真面目君) ・最後は *冷静君 ( *情念君) としてみたが、どうだろうか。 数日以内に、この6人に問いかけをして、脳内会話をしてみる。 ところで、脳内会話は、読書や、日記、そして独り言などで、誰もがしていること。 この随想日記や、バードウォッチなども、独り言そのものである。 私は、亡くなった父親と対話することが度々である。 ≪字数制限のためカット2012年5月23日≫ ・・・・・・・・・・ 2007年05月23日(水) 2241, ヤバいぜっ!デジタル日本 ー2 ≪字数制限のためカット2012年5月23日≫
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2014年05月22日(木)
◆ 深く悩み納得するのが先 ―② <映画監督・周防正行> ー朝日新聞 オピニオン〜耕論ーより 尊厳死を一律認めてない法律は改正し、ファジーの部分を持たせるのは当然である。私たちの老後に待っているのは、 男性ー介護9年、寝たきり6年の厳然たる近い将来。寝たきりの老後の心配のため、老後資金の準備も、オカシな話。 尊厳死したくても出来ない当人は、弱者の最たる者。それを解放してやるのが残された者の役割である。ー抜粋の続きー 《 法って、社会秩序を維持するためのものですが、私たちはいちいち、法律を考えて行動はしません。 「人としてどうあるべきか」という倫理によって動きます。 一方で法律ができると、要件がそろったから、と深く考えずにスパッと物事が決まってしまう恐れがある。 治療をやめる結論が簡単に得られ、議論の質も量も薄まってしまう。極めて個人的な「死」についての考えが、 法律に引っ張られる怖さもあります。だから医療に司法は介入しないほうがいいと思うようになりました。 法律ができたら争いはなくなるんですかね? これとこれを満たしているから、絶対罪に問われませんと進めても、 患者の家族から「おかしかったのでは」と問われることは、出てくると思います。逆に、この患者にとって何が ベストなのかを話し合うことができれば、法律に頼らないですむ。 尊厳死法案に障害者の団体が反対していると聞きます。「受けたい治療が受けられず、切り捨てられるんじゃないか」 といった不安の声に耳を傾け、その思いを反映させないといけない。そういう声をきちんと聞けない社会は、良い社会とは 言えないでしょう。 一方で多くの人は、死の迎え方について、深くは話し合っていないですよね。 僕も「無理な治療はやらないでいい」と妻には言ったつもりでいたんです。ある会見で「彼女はわかっていると思います」 と言うと 彼女は「えっ。聞いてない」と言い、周囲は大爆笑。 「そっか。やっぱり文書にしないとだめなんだな」と 思いましたね。でも今も、文書は書けていません。 彼女がそうなったらどうするか。追い詰められないとわからないですが、お医者さんとやりとりをして、彼女に ふさわしい治療や死の迎え方を一生懸命考えて決断する。そうするしかないですよね。(聞き手・辻外記子)》 ▼ 尊厳死については、色いろな著書の中で、取上げているが、病院にとって、一番の利益の元になるため、 変えられない事情もある。考えてみれば、当り前のことが、利益のために歪められている、それも人間の 死に対して、この有様とは、酷いもの。深く悩み納得するのが先というが、何がベストかを早そうしてやるのが ベストになる。 全く、恐ろしい限りである。 偶然だったが、その前段階の以下の「老いと鬱屈」も、である。 ・・・・・・ 4449, 老いと鬱屈 2013年05月22日(水) * 不快や苦悩は体内に蓄積される 「老いへの不安」春日武彦著 一線を退き第二の人生に入り、腰を据えて周囲をみると老人の鬱屈した姿が目につく。どうも老人の真の姿は鬱屈に あるような気さえしてくる。そして、合せ鏡で自分の鬱屈も垣間見ることになる。不快や苦しい事象は体内に蓄積した結果、 鬱屈してしまうようだ。締りが無くなるのは肉体だけでなく、精神にも出てくる。それが社会的な縛りも無くなるため、 長年蓄積された砒素などの毒素が心の奥に蓄積されて、愚痴の塊の老醜が身体全体から出てくる。 ーその辺りを精神医の著者が、明快に説いている ≪ 老いることは、人生経験を積むことによって「ちょっとやそっとでは動じない」人間になっていくこととは違う。 難儀なこと、つまり欝陶しかったり、面倒だったり、厄介だったり、気を滅入らせたり、鼻白む気分にさせたりするような ことへの免疫を獲得していく過程ではないのか。難儀なことを解決するのか、避けるのか、無視するのか、笑い飛ばすのか、 それは人によって違うだろうが、とにかく次第にうろたえなくなり頼もしくなっていくことこそが、老いの喜ばしい側面では ないかとわたしは思っていたのだった。だが、世の中にはまことに嫌な法則がある。嬉しいことや楽しいことに我々の感覚は すぐに麻痺してしまうのに、不快なことや苦しいことにはちっとも馴れが生じない、という法則である。不快なことや苦しい 事象は、砒素や重金属のように体内へ蓄積し害を及ぼすことはあっても耐性はできないものらしい。 だから老人は諺屈していく。歳を取るほど裏口や楽屋が見えてしまい、なおさら難儀なものを背負い込んでいく。 世間はどんどんグロテスクになっていき、鈍感な者のみが我が世を謳歌できるシステムとなりつつある。・・・ いずれ私たちもこの世界を置き去りにしてどこかに消え去っていく。ならば世界と一緒に置き去りにしていくグロテスクの 連中を「肯定的で寛大な心」を無条件に示してやるのもひとつの見識かもしれない。・・・ ≫ ▼ 老いへの不安に身体能力の衰えや、寝たきりや痴呆で他人の世話を受けなければならない状況、要は弱者に追い込まれる 不安がある。さらに言えば、今までは別ものと思っていた老人へ変わっていく自分への恐怖。それを受け入れまいという 屈折した気持ちが、何処かにある。そこに不快感と苦悩が蓄積されていく。それが老いるということ。老いを楽しむなど ほど遠い。だから、孤独な老人になっていく。だから早いうちに、その孤独の別室を準備しなければならないのである。 ・・・・・・ 4075, 哲学で自分をつくる ー3 (ソクラテス) 2012年05月22日(火) 「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」 瀧本 往人 (著) * 知ったかぶりするな! ばか 第一章 しったかぶりはもうたくさん 〜ソクラテス ――「無知の知と魂の鍛錬」―― ≪ 自分のことは自分が一番よく知っているというが、本当にそうだろうかと2500年前に問うた人間がいた。ソクラテスである。 彼は一切、書物を書き残さなかった。ただひたすら人々に問いかけ、納得のいく議論を仕掛けた。 自分自身を知るためである。 その自分自身を知ることは「無知の知」から始まる。何も分かってない自分を知ることである。 ソクラテスは「無知の知」 「魂の鍛錬」がキーワードになる。彼は、哲学の生みの親である。確固たる哲学の約束事のない中から哲学を作り出していった。 彼の問いかけは、多くの人々の心、魂を強く揺さぶった。しかし、当時、弟子を除けば、偏屈者としか理解してもらえなかった。 お前は無知だと他人から言われれば、不愉快に思われて当然。しかし、ことの発端が、当時のギリシャ人が奉っていた神が、 「ソクラテスがアテネで一番の知恵者である」というお告げを出したことである。そこで彼は、「こんな馬鹿がなぜ一番の知恵者か、 間違いではないか」と考える。そこで、世間で知恵者といわれている人たちに多く会ってみる。彼らは、確かに知識、技巧、才能はある。 それは凄いが、それが何であるかの理屈がない。その根拠や意味が説明できないと、ソクラテスは考えた。説明できないなら、 「知恵」がないに等しい。ソクラテスは、彼らほど何かを持っていないのに、一番の知恵者といわれるのは、自分が何も知らない ということを知っているだけ。彼らから知恵を学ぼうとしたが、彼らは何も知らないといえない。ソクラテスは彼らより風通しの よいところにいて、なぜと問うことができる。どうも、その辺が違うのではないかと考える。それまで似たような理屈をこねる人々は ソフィストと呼ばれていたが、彼らが追求していたのは「弁論術」と呼ばれていた。自分の意見で相手を説得することを目的にしていた。 どうも、それとは違う。「たえずそれが何であるかを問い続けることが大事なのである。これが「知を愛する」、つまり「哲学」と考えた。 それを公衆の面前で行ったため、結果として相手をやりこめることになった。それゆえに、相手から憎しみを増す結果となった。 ≫ ▼ 相手の無知、いい加減さをつけば、相手は不愉快になる。その相手の怒りの感情や圧力に耐えて、その先にある真実を 追求しようというする態度、これが哲学である。この歳になっても、毎日のように自分の無知に出会うことは、他人だけでない、 自分が一番、辛い。しかし、せっかく地球に人間として生まれきたからには、少しでも真実を追究するのは当然のことである。 感動し、感激すること、真実を知ること、自分とは何かを求めることは、死ぬまで求めなくてはならない。以下は偶然関連していた。 ・・・・・・・ 3709, 自己を見つめる −25 2011年05月22日(日) 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 最後の「解説 渡邊哲学の真髄 ー榊原哲也」が、全体の要約で締めくくっていて分かりやすい。 ーまずは、その部分から 【 著者の渡邊氏の長年の研究成果は、 ・「世界を見ることは自己を見ることであり、自己を見ることは世界を見ることである」という哲学上の根本洞察と、 ・「意味と無意味が力動的に交錯する世界のなかで他なるものの媒介を経ながら自己を実現していくのが人間である」という 世界観・人間観に結実したが、こうした渡邊哲学の核心が、本書ではたとえば、「内面性」という「孤独」こそ 「そこで私たちが本当の自分を取り戻し、自己自身と世界と人間のすべてを見直し、存在の真相に触れ直す瞬間だ」(「孤独」)とか、 ・「どこからも、どこへも見通せない、その投げ出された底なしの」「自分の存在の根底」をみつめつつ、 「まことに定めなく、当てにならず、油断のならない魔物である」「世間」のなかで「徐々に自らの理想を目指して努力する 漸進主義的な考え方以外に、人間の生きる道はない」(「世間」の章)といった平易かつ説得力ある表現で語られている。 ・本書でたびたび言及される「これが、生きるということだったのか。よし、それならば、もう一度」という二ーチェの言葉は、 世界観・人生観上の根本問題に対する渡邊哲学の真髄を一言で表したものといっても過言ではない。 本書は、一般の読者が人生の諸問題を自分にひきつけて哲学的に考え、「自己を見つめる」ことを可能にする好著であり、 また渡邊哲学への格好の入門書でもある。放送大学叢書の一冊に加えられることになった本書が、さらに多くの読者を 獲得することを願ってやまない。 (さかきばら・てつや/東京大学大学院准教授) 】 ▼ 人生の節目時に、偶然この本をみつけ、連日、読み解説をしてきた。一章ごとに、考えさせられる内容で満ちていた。 特に、「孤独」「愛」そして「老い」については、{老いへの節目時}ということもあり、一言一言が自分の現在に 向けられているようである。 ー特に以下の部分は現在の心境にあって、ドッキとする内容である。 【 老いは、心身の変化や不調、障害や不全、病気や悩、生計の面での困難や窮迫、人間関係における亀裂や別離、忘恩や裏切り、 さらには長年の人生遍歴における事故や災害、対立や紛争などの側面の出現といった、ありとあらゆる不幸な事態の顕在化という 姿を取って、人生の暗い側面を表す顛末の様相を帯びながら迫ってくる傾向が強い。もちろん、明るく幸せな老年というものも 存在するであろう。けれども、老いは、もともと死の予感とも結びついて、悲惨な様相の影を本質的に内在させている。 *老いは総じて、誰もがそこから眼を背けたがる暗黒の象徴を含んだ現象であることは否定することができない。】老いてこそ気づくか? ・・・・・・・ 3344, 高校生でもわかる日本経済のすごさ ー1 2010年05月22日(土) 「高校生でもわかる 日本経済のすごさ」三橋 貴明 (著) ーアマゾンの内容紹介よりー 消費税は上げなくても大丈夫! 年金は破綻しない!政府の借金は心配するな! 国民的大疑問を丁寧にわかりやすく解決。 日本経済の常識を根底から覆す。 世界の経済大国「日本」の底力を、グラフやデータをもとに世に知らしめる珠玉の一冊! ≪年金、消費税、格差、国の借金。4つのテーマから見る、日本の将来が安泰なこれだけの理由。≫ ーまず、その概要をまとめてみたー 以前からメディアは日本の借金が数百兆円だ、破綻すると騒いでおり、現在、日本の借金は1000兆円を超えようとしている。 しかし一向に国家が破綻する気配を感じない。「いつ破綻するの?」「いくらになると破綻する?」のだろうか。 父親(国家)が、子供たち(国民、企業、他)の預金を借用書(国債)で目一杯借りて、何とか急場を凌いでいるが、 それが数年で差し引きゼロの限度に達しようとしている。 とはいえ国の預金は、まだ二百数十兆円もあるから大丈夫!とか。 そして発行する国債の限度が尽きた時、自前で札を刷って、それを国債で賄えば良いだけと著者は主張する。 しかし、これは禁じ手と前から言われていること。 この辺から著者の論に疑問が出てくるが・・。 国の金融資産も、 アメリカ国債を強引に買わされ、その額が500兆というし、楽観視は出来ないはず。 ただし消費税がまだ5パーセントと、 20〜25パーセントまで余裕?がある。 (ここには書いてないが)それを資産価値に換算すると500兆円。 しかも国民の銀行預金や企業の預金などで国債借入れを賄っているので円安になった時のリスクはない。 (もし外貨建てなら90円が150円になれば、借金が900兆円から1500兆円に増えることになる。) 知人から「国債は永久債にして、返済は一切しない!で、金利だけ払う方法がある」と聞いたことがあるが、金利をしっかり払えば、 子供たちも何とか我慢してくれるか? そのため諸外国は日本の国債の異常な数字には、あまり危険視をしていないというが・・。 ところで、リーマンショックで欧米がニッチモサッチモいかなくなってしまった。アメリカは軍事力を背景に新ドルの 「アメロ」の切り替えで、デフォルトをしてくる可能性があるが、ユーロ通貨の矛盾も見ているので躊躇するだろう。 「日本経済がすごい!」稼動かは疑問だが、1400兆の預金は中途半端な金額ではない。 それと、消費税の10〜15パーの 余裕もあるか? さらに永久国債化と、日本銀行の国債買い入れ、デノミ、道路公団の株式化による売却に、 地方分権と称した切捨てに、・・ギリシャのように、気楽に生きましょうか〜 ったく! ー続くー ・・・・・・・・ 2969、住まうこととさすらうこと −1 2009年05月22日(金) 「住まうこととさすらうこと」 ウーテ・グッツォーニ著 ー読書日記 * 世界という家の中で、住まうこと と さすらうこと 図書館で何気なく手にとって、そのまま二時間以上も近くの机で読み込んでしまった。 その本の冒頭に芭蕉の『奥の細道』 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。 舟の上に生涯を浮べ、 馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。」が書かれていた。 住まうこととさすらうこと、さすらうことと住まうこと。 人生を振り返ると、この二つの間を行ったりきたりした。 そこで学生時代の寮生活を思い出してみると、住まうこととさすらうことの重なっていることが解る。 そして、その後にジャスコに勤務をし、三重、神戸に行き。 東京に舞い戻り、金沢に、住まいさまよい、長岡に舞い戻り、 千葉に、そして、再び長岡・新潟に 住まいさすらってきた。 人はそれぞれが、住まいさまよってきたから、 その一言一言が鋭く心奥に響いてくるのである。 (以下は字数の関係でカット2012年5月22日) ・・・・・・・・ 2605, 自己愛について 2008年05月22日(木) 先回書いた「最近みる夢」で、自分の夢を分析して驚いたのは、自分の心の奥の本質を、そのまま提示されたことである。 夢に出てくる「海」が「自己愛」の象徴で、海底の牢獄でもがいている己の姿に、我ながら驚いた。 ユングの地下の象徴の夢に近い。 その夢の中には、自己逃避、不安、自己愛、それに囚われもがいている自分、 そして、死などなど、多彩な内容が重なっている。これは、私個人というより、人間の本質を提示していると言える。 (いや、勝手に、そう解釈したとも言えなくないか?)そこで、行き着いた「自己愛」とは何か?を調べてみた。 ▼ 真の自己愛とは、奥深い自分に忠実であるということ。 自分が深く納得している自己愛でなければ、ナルシストの姿 かたちの表面的なものに過ぎない。キリスト教の教えのように、真の自分を愛するように隣人を愛しなさいという自己愛である。 自己愛という言葉は、「私さえよければ」という利己主義とはまったく違う。 あるいはまた、自己愛は自分の魅力を感じて 自分自身が好きであると思われることもあるが、本当はそれとも違う。その区別を見わけるために本当の自己愛の条件をあげてみる。 自己愛とは、自分が認められたり、周りから褒められたりすると、喜ぶ。これが自己愛です。生きていくうえで、他者の存在は 絶対に必要で、そのため自己愛と同じように他者愛を持つことも必要となる。 常に自分が一人ではない、と認識したうえで、 自己愛を持つことが、健康な自己愛といえる。その極端な「自己愛性人格障害者」の特徴として、次のようなものがあげられる。 ・自分は偉くて重要人物だと思っている。この幻想に限度がない ・自分は特別であり、優れている人にしか理解されないと信じている。 ・過剰な賞賛を求め、特権意識が異常に強い。 ・相手を自分の目的にしか利用せず、相手に共感することがない。 ・自分の身体の不快にとても敏感でオーバーに反応する。 〜〜 以上だが、 ごくごく至近に、その傾向の強い人がいる。女性の本質だから仕方が無いだろうが。いや、誰の心の奥にも酷似した傾向が隠れている。 (以下は字数の関係でカット2011年5月22日) ・・・・・・・・・ 2007年05月22日(火) 2240, ヤバいぜっ!デジタル日本 ・д・)ノ〔● ォ'`ョゥ○〕 高城剛著 集英社 ー読書日記 ー表紙裏に書いてある内容ーから ヤバいとはvery badとvary coolのWミーニング。世界各地を飛び回る著者が、情報最先端の事象を紹介しつつ 日本人の知らない日本と日本人を論じる。世界から取り残されてしまったIT戦略をこのままにしていいのか? 国家ブランド戦略をきちんと立てなくていいのか? 日本が世界に広めたハイブリッド車のように、異なる要素を組み合わせて 新しいスタイルを創ろう、それこそが日本人の得意分野で、世界から「クールでヤバい」と評価されるはずじゃないか? 日本への憂慮と愛が溢れる、元気の出る本。今後10年間のデジタル社会の変化を予言する書でもある。 著者は、これからの近未来はPCではなく「携帯電話」を情報の受・発信装置として駆使するライフスタイルが主流となり、 そのTrendは日本(人)が主導する」と予言。「携帯で電話しながらメールを書いてるのは日本人くらい凄いらしい」 「Googleは基本的にただの情報整理屋」と断定している。デジタル社会に乗り遅れないために日本が行うべき事として 使い方(ライフスタイル)志向で携帯電話の機能・Design・Softを開発し、デジタル社会のプラットホームにするような国家戦略を練って いくべきと論じている。グーグルに対しての見方には異論があるが、それでも携帯電話が主流になるとは、成る程と思うが・・ ーまずは面白そうな部分を P-21 ー TVを処分することを勧める!ー (字数の関係でカット2013年5月22日)
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2014年05月21日(水)
尊厳死について、多くの身近な人たちの最期をみて、これは正しい!という答えが無いことを前提に、 司法は可能な限り介入すべきではないと思う。 回復の見込みがなくなった時に治療の中止を認める、尊厳死法案が 検討されているが、これは当然のこと。 人生の終わりに、どうすれば尊厳は守られるのか、当人にとって大問題である。 この3月末にとり上げた、「そんなに長生きしたいですか 1〜7」の内容に通じるところがある。 ◆ 深く悩み納得するのが先 ー① <映画監督・周防正行> ー朝日新聞 オピニオン〜耕論ーより 《「患者に良かれ」と思い、治療をやめたお医者さんが、告発される。一度つけた呼吸器は外せない。 そんなことがあるのなら、何らかの法律が要るんだろうなと漠然と思っていました。 でも、2012年に公開した映画「終(つい)の信託」をつくるため終末期医療を調べるうち、 「待てよ」と感じるようになりました。死の迎え方は、人がどう生きてきたかと同じように、一律ではない。 経済的な理由から治療をやめざるをえない場合もあり、社会システムの問題でもあると気付いたのです。 取材してわかったのは、食べられなくなった時に栄養を直接いれる胃ろうをつけた家族も、つけなかった家族も、 どちらも「正しかったのか」と悩んでいること。そこに正解はなく、あんなに考え、話し合って決めたのだから、 という思いがせめてもの救いになるのでは。その質と量によって納得するしかないんですよね。 今の医療現場では、患者や家族と医師らの間で信頼関係を築きにくい。お互い忙しく遠慮もあるのでしょう。 患者や家族がいつでも、これからのことや不安を相談できる人が病院にいる態勢づくりが、大事だと思う。 患者と医師を結びつけてくれる窓口のような存在がいると、患者や家族は深く考え、きちんと悩めるようになるのです。 この人が望む道は何なのか。共通認識を持ち、それを実現するのが「尊厳ある治療」なんじゃないかな。 まずはそれが大事。良い医療かどうかって、患者や家族がいかに納得できるかにかかっている。 コミュニケーションがうまくとれないとだめなんです。・・・ つづく 》 ▼ 医療現場では、各個人の尊厳死に至るまでのフォローする仕組みなど出来ていない。 あとは、医療経営に有利な延命治療か、家族の都合によって生かされるか、殺されていく。 病院を監獄と看做すと、病室は獄内、身体につけられたチューブは鎖、看護婦は刑務官になる。 そこでは、拷問のため生かされた人たちの苦しみの悲鳴が聞こえてくる。チューブを外し、死なす尊厳死は 犯罪として禁じられている。しかし、当人も、家族も、それを望むなら、拷問のような苦痛の人を死なせる ことも、必要になる。それを法律で禁止すること自体に問題がある。縁者の死際では、殆どが医者の手で、 呼吸を止めているが、その前段階に、本人や家族の希望で延命を認めるべきだが、色いろなケースがあるから 一概に断じることが出来ないのが末期医療。今までは他人事だったが、今では近い将来の問題になってしまった。 ・・・・・ 4448, 屋根裏に誰かいるんですよ −2 2013年05月21日(火) 「屋根裏に誰かいるんですよ ―都市伝説の精神病理」春日 武彦著 「幻の同居人」をネットで検索すると、日本老年精神医学会学会での「幻の同居人」に関する考察で、医師の深津亮 (埼玉医科大学)が講演で、以下のような発表をしていた。 1.はじめに = 超高齢社会を迎えた我が国の社会構造は劇的な変化がもたらされている.高齢者は社会的に孤立を 余儀なくされており,このような孤独な環境は 種々の喪失体験を増悪させ,特有の妄想反応や誤認症候群を生じる母胎となる. 「幻の同居人」もその様な症状の一つであり,「自分の家の中にだれか知らない人たちが住み込んでいて,さまざまなかたちで 自分を苦しめる」という妄想と定義されている. 「幻の同居人」はRowwan EL が1984 年に「自分の家の中にだれか知らない人が住み込んでいて,さまざまなかたちで自分を苦しめる」 と訴える女性例を報告したことをもって嚆矢とされている.「幻の同居人」は「天井裏や,床下に住んでいる」,「留守にすると 部屋に入ってきて,いろいろなものに触っていく」などと訴えられる.さらに自分 の行動がその同居人に監視されていると 確信していることがある.Rowan の報告例では,知的機能の低下や感情障害が明らかではなく,思考,感情,精神運動の障害や 退行などの脳器質性障害を示す徴候も認め られないことから遅発性パラフレニーにみられる被害妄想とされた. 2.「幻の同居人」はどのような精神症状か? = 「だれかが自分の家に侵入して,物を盗んでいく,部屋を汚す, 嫌がらせをする」などの住居(家) に関する被害妄想は遅発性パラフレニー,遅発性統合失調症,接触欠損性妄想症などにも 認められる.高齢者では少なからず見出される.我が国においても,同様の症例は,報告されている. 精神症状はいかなるものか, 幻覚か,実在性意識か,あるいは想像上の友達などとの鑑別が必要と思われるが,必ずしも明確でない。 3.「幻の侵入者」か「幻の血縁者」か? = 確かに「幻の同居人」は,本邦の高齢者にも稀ならず見出される. Terada S らは前述の「幻の同居人」の特徴を分析して,「幻 の侵入者」と記載した.我が国では,このほかに父,母,祖父, 祖母,子供などの血縁者が現れることがある.外部から侵入するのではなく被害的でも敵対的でもないことが多い. むしろ親密で友 好的協調的な懐かしい血縁者であり,特に小さな子供の場合も少なくない.これらは「幻の血縁者」と呼ぶことが できるかも知れない.この様なタイ プの同居人が比較的よく見出されることが我が国の特徴のように思われる. また妄想性誤認症候群,鏡像現象やTV 現象を伴うことも稀ではない. 4.「幻の同居人」の発現機構 = このような精神症状は加齢によるさまざまな変化や社会文化的背景をもとに出現して いると考えられている.精神機能の解体過程,退行などによ ってゲマインシャフト的世界,しかも日本的な農村共同体への回帰と みることができよう.「幻の血縁者」に子供が現れることは,遠野物語のザシキワラシ 伝説とも相通ずることを示唆している. ▼ 以上だが、この「屋根裏に誰かいるんですよ」で、< 身体の一部を失っても、脳機能は、それがあたかも存在する ように感じ取る働きをする。それに似た働きに近いのでは>は納得できる。作家の佐藤愛子本人が、色いろな場所で、 これに近い経験をしているが、作家なら、冷静に精神の衰えと看破するはずだが、どうだろう。知人の夫人の場合は、 高齢者の孤立、種種の喪失体験などによる精神不安定が見て取れる。老化による精神機能の解体過程に出てくる妄想ということ。 私にもサードマンが頭の中に同居しているが、これは自分で意識的に作りあげた対自。ちょっと違うか。 ・・・・・・ 4074, 屋根裏に誰かいるんですよ 2012年05月21日(月) 「幻の同居人」 ―都市伝説の精神病理 春日 武彦 (著 ーアマゾン 紹介文ー まず、その奇妙なタイトルが目を引く。しかし本書は、そのタイトルから受けるコミカルな印象とは異なり、 精神科医である著者が、現代社会におけるさまざまな精神病理を、きわめて冷静に考察したものである。 ある日、ひとりの老女が、「自分の部屋に勝手に人が入ってきて困る」と訴える。その侵入者は、彼女の部屋にある 日用品などを盗んでいったり、ちょっとだけ位置をずらしていったりするという。しかし、姿は見えない。 まるで、「座敷わらし」などの妖怪のしわざとしか言いようがない不可解な話を、老女は真剣に語る。 表題となっているこの症例は、「幻の同居人」と呼ばれる。このような症例は、多数報告例があるらしい。 患者たちは、脳に器質的な異常が認められるわけではなく、精神的にも問題ない場合が多い。 「妄想の突飛さと当人の穏やかな常識人ぶりとのあいだに乖離が生じているときには、精神医学はたちどころに歯切れが悪くなってしまう」 と著者は言う。それがこの症例の複雑さと奇妙さとを物語っている。本書は、現代社会においても、妖怪と出会うといったような 「非日常」的な現象が、たちあらわれる瞬間があることを示唆する。 精神科医が語っているだけに、いっそう説得力がある。 ▼ ある亡くなった友人の奥さんが数年前、急に事務所に訪ねてきて、世間話の後に何気なく、「最近、家に侵入者が時々入ってくるが、 生前、主人が何か言ってませんでしたか」と言う。「侵入者とはとんでもないこと、どういうことですか?」と吃驚して聞きなおすと、 「自宅の屋根裏に侵入者がいて、彼方此方、徘徊している。」という。 よくよく聞いた後、「貴女は魔界に一歩踏み込んだようですね。 ご主人からは、それについて聞いたことはありません。」と答えた。警察に相談して屋根裏を調べてもらった時の写真を何枚か出して、 「私には、侵入者が見えるが,貴方は見えませんか」という。 私には全く見えなかったが、その辺から、何か精神的に追い詰められている のだろうと思い始めた。その後、ご主人と共通の複数の知人から彼女の同様の話を聞かされた。本人には、実際に屋根裏に何かが いるのだろう。彼女は初老で、独り暮らしである。佐藤愛子が、似たような現象を経験している。それと同じかどうか私には分からない・・・ ・・・・・・・ 3708, 自己を見つめる −24 2011年05月21日(土) ー 他者について 〜� ー ーP194 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 【 幼児は、他者が素敵な玩具をもっていると、自分もそれをもっていなければならないとすぐに決め込み、それでいて自分には その玩具がないところから、その他者を激しく嫉妬することになる。 こうして、一般に、大人になってからも、人間は、他者とか 世の中とか世間からの影響を色濃く帯び、ときにはそれに飲み込まれてしまって、その水準で自分を裁断し、ほんとうの自分の姿を見失い、 自己喪失の状態に陥ってしまう。 また、自分の不幸や不満の原因を、他者のせいとして責任を転嫁し、自分がひどい目に遭った原因を、 ともすれば世の中に押しつけ、他者攻撃に生きる傾向に人は陥りやすくなる。したがって、本来そうであるぺきなように、自己でありつつ、 他者とともにあるという、二重性ないし両義性をほんとうに生きることは、人間にはきわめて困難になるのである。 東洋ふうの言い方をすれば、「和して同ぜず」という、自他の自由な自律性と、連帯性ないし他者容認とが、過不足なく、 円滑に両立してこそ、自他の関係は充足されうるのだが、それがきわめて困難になるのである。 ニーチェは、自他の関係において、ルサンチンマン(怨恨感情)という恐ろしい感情が胚胎する機微を鋭く抉り出した。 他者の不当な振る舞いに直ぐに反発できずに、じっと我慢する人間のうちに、やがて次第に欝積してくる不満の感情のことを指す。 それは、恐ろしい怨恨感情となって、やがてさまざまな形で爆発してきて、自虐と他虐の凄惨な凶行さえも生み出す原因となる。 しかし、ニーチェにょれぱ、そうしたルサンチマンの人は、他律的なのである。つまり、怨恨感情は、他者に囚われ、他者からの 傷跡に執着し、こうして、他者への遺恨を募らせ、やがて復讐心の形を取って、自虐と他虐に向けて爆発する。 そこでは、自己自身の本来性が見失おれている。しかし、自己は、ときに、自己自身を見失って、他者になりきってしまうことも あるものである。しかもそれは、人間的他者に関してだけ起こることではなく、事物に関しても起こる。 たとえば、私がすっかり 花に見惚れたときには、花が私になりきってしまうのである。それと同じ意味で、私たちは、自己自身を見失い、ついには、 さまざまな主義主張の虜になったり、迷信や邪教に取りつかれたり、神憑りになったり、あるいは、変身願望に駆られ、嘘と芝居で 身を塗り固め、役者気取りで自分を英雄天才視し、人類の救済を気取って、大言壮語し、自己欺瞞と他者篭絡に憂き身を窶すことすら 生じかねない。 その反対の被害妄想や厭世意識も似たりよったりである。 】 ▼ その人を知るには、その人の身近の他者(=親、妻、友人、会社の上司など)を知ればよい。そして、その不満と満足度を聞けば、 ほぼ大部分を知ることが可能になる。「人を恨めば穴二つ」と言うが、恨んだレベルのことでしかない。そこに囚われるからだ。 長期の間に、その質の段差は、その空白に大きなガスを溜めることになる。 身近な人と、自分の関係はメビウスの帯のように結局は、 同じようなもの。だから、連れ添いや、仕事は厳選をしないと互いに命取りになる。 他者は、三人称より二人称をさすことが多い。 他者たちによって形づくられた自己は、自分の合せ鏡でもある。 ・・・・・・・ 3343, 閑話小題 2010年05月21日(金) * 9・11事件の謎 ここで「9・11事件についての謎?」何で、というと、米国軍事産業か、金融関係者なら平気でやりかねないと最近、 特に思うようになってきたからである。このテロでアフガンやイラク戦争で軍事産業が大きな需要が生じ、恩恵を受けたからだ。 さらにリーマンショックもしかりである。世界中に不良債権という毒の入った債権を売り、その影響が今後、10年〜20年間にわたり 出てくる。これは数百年にわたって築き上げられてきた近代資本主義の崩壊をもたらす。それさえ金融の支配者はやりかねないという 疑念が出ている。ユーロの揺さぶり、そして膨大なアメリカの借財の棒引きの狙いだ。その真っ只中に我われがいるのである。 その第一波の大きな波が、まずは南欧のラテン系の国家、Piigsである。そして、時を同じくして日本の地方と輸出産業である。 まずは地方の我われが、その直撃を受けている。 9・11事件発生の数ヶ月前から、株と為替に異常な動きが在ったと、 関係者からの証言がある。事前に知っていた者たちが、その情報で大儲けをしていたのである。あれから世界は本格的に激動を始めた。 * 韓国が北朝鮮に報復攻撃? (字数制限のためカット 2012年5月21日) * 一年近く収まっていた腰痛が? (字数制限のためカット 2012年5月21日) ・・・・・・・・・ 2968,閑話小題 2009年05月21日(木) * 考えるほど、恐ろしい近未来 新インフルエンザが、日本でも拡大してきた。通勤帰りの新潟発の新幹線は、車内で一割、新潟駅構内と長岡駅構内では 3〜4%位がマスク着用。数週間後には、全国に蔓延しているだろう。微弱性の新インフルエンザに過剰反応と思いがちだが、 秋口には、弱毒性から強毒性になる可能性がある上に、鳥インフルエンザが流行する可能性もあるというから、WHOの反応は 決してオーバーではない。今回の新インフルエンザは、鳥インフルエンザに対する世界規模のシュミレーションになっていると、 考えた方がよい。新インフルエンザの死亡率が2%だが、鳥インフルエンザは60%というから、ただごとではない。 都市機能だけでなく国家機能も失われることになる。 この騒ぎが何時まで続くか誰も知らない。 世界恐慌を上に、これである。 現実の世界とかけ離れた小説のような世界に入ってしまった。 地球システムが、人間システムを根こそぎ壊し始めたということなのか? * 事務所の移動 事務所を移動したが、これで8回目。前の事務所は5年間。これまでの平均すると4年である。 まあ腰が落ち着かないが、ここも4〜5年先に移動することになる。 今回の引越し理由は、事務所の壁を隔てた隣のテナントの 居酒屋が事務所の面積を含めた規模を希望したため。 今回の事務所は、第一シングルインの隣のビルの2Fである。 オーナーと知り合いで、家賃を半値にしてもらったことが、この移転の決め手になった。 とはいえ、ここも駅再開発工事の道路拡張のため取り壊しになるので、移転しなければならない。 また、第一シングルインの接収の売却交渉に、隣りのビルにいた方がリアルで交渉がしやすく、 そこのオーナーとも共同戦線もはれることも良い。 昨日で大方の移動作業は終了したが、 窓側が全面ガラスで天井が高く、事務所環境は格段上である。 さすらいの事務所? ということか。 ・・・・・・・・ 2604, 最近みる夢 ー2 2008年05月21日(水) 前回、「空からパラシュートから飛び降りて、墜落し、気がついたところが海底の檻の中で、 もがいている所で目が覚めた夢」を書いた。そこで、その夢分析をしてみた。 ・まずは「空を飛び降りる夢」 空は束縛のない自由の世界。 現実の世界は覆いかぶさる責任ある仕事の重圧や、会社や家庭という束縛、日常の退屈など、 知らないうちにプレッシャーがある。 空から飛び降りる夢は強い脱出願望の現れ。また落下することは、強い不安の現れである。 不幸な境遇に陥る、ひどい気分に落ち込むなどを、敏感に感じ取っていることを現わすから、サブプライム問題で更なる 不況への不安感や、還暦を過ぎたことの焦りなどが、夢に集約されている。 ・「落下途中にパラシュートが開かない」 これは開くはずのパラシュートが半分しか開かずパニックになる、 予定していた想定が、外れる不安である。この歳になると、いつ死に直面するかもしれない不安感の顕れ・ ・次は、「海に落ち、海底の牢獄の中で檻から出れないでもがいている」部分。 これが面白いのである。 夢の中で、海なら助かると自分で直感的につくりあげた瞬間創作。海は欲望、それも自我愛である。 海底の牢獄は自我愛の牢獄。そこでもがいて死の境にいる私の顕わの姿そのもの。 ・そして、「ああ、このままでは死んでしまう」と恐怖を持った瞬間に目が覚めた。死の夢は、古い自分が死んで新しい自分が 生まれる前ぶれという期待。 従って死ぬ夢は、新しい人格の為に古い人格が死ぬことを意味している。 解釈の問題だろうが、それにしても人間の顕わの姿が、自分の夢に示されている。 現在、色々の問題で混乱している部分の己を、こういう夢で光を与えてくれていると解釈すると、驚きである。 一種のユング的な夢と受け止めることができる。 夢そのものより、解釈のほうが面白いだけか?受け止め方である。 前夜、これを書いたためか、これに劣らないほど?面白い夢をみたが、ほぼ断片を残して記憶の彼方に消えた。 ・・・・・・・・・・ 2007年05月21日(月) 2239, 宇宙に他に地球のような星があるの? ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ] 以前にもすこし書いたことがあるが、20年以上前の話。夏休みの午前中にNHKラジオ放送の「子供電話相談室」に 「宇宙に地球のような星が他にあるのですか?」という質問があった。 (字数制限のためカット 2010年5月21日)
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2014年05月20日(火)
<内向型人間の時代> スーザン・ケイン著 * ‘誰からも好かれる人’の興盛 毎日が淡々として、読書、スポーツ、TV鑑賞、ブログとパソコンに明け暮れる日々。ますます内向的人間になっている。 私の年齢と、時代が、そうさせているという実感がある。 一般的に、外交的人間の評価が高いが、実際に生きる上で、 内向的か、外交的が良いのかは、その人自身の問題になる。誰からも好かれるタイプは、時代によって大きく変わってくる。 特に、情報化の現在、何が外交的か、内向的かの根本から定義を変えなければならない。 ーその辺りからー 《 社会学者のウィリアム・ホワイトは1956年のベストセラ「組織のなかの人間」で、親や教師がどのようにして内気な 子供を矯正しようとしたかについて述べている。「ジョニーは学校にうまくなじめません。 担任の先生が言うには、 勉強のほうはまあまあなのに、社交性の面がはかばかしくないとのことです。友達はひとりか二人だけで、どちらかといえば ひとりでいるのが好きだそうです」 ある母親がホワイトにそう話した。そうした教師の干渉を親は歓迎するとホワイトは書いた。 「少数の変わった親を別にすれば、たいていの親は学佼が子供の内向酌な傾向など偏挟な異常を直そうとすることを歓迎している」 親がそういう価値観を持つのは、思いやりがないせいでも鈍感なせいでもなかった、たんにわが子に「現実の世界」と向き合う 準備をさせようとしただけだ。成長して大学に入った職に就けば、わが子は集団のなかで上手に立ちまわらなければならない。 大学の入試担当官が求めているのは、特別な学生ではなく、外向的な学生だった。1940年代後半に、ハーバード大学の ポール・バック学長は「繊細で神経質」や「頭でっかちな」学生よりも「健康的で外向的な」学生を入学させるべきだと言明した。 1950年には、エール大学のアルフレッド・ウィットニー・グリスウォルド総長が、理想のエール大生は「しかめ面の専門家ではなく、 円満な人間だ」とした。さらに、ホワイトがある学長から聞いた話は印象的だ。「学生たちの推薦状を読んでいると、大学が何を 望んでいるかだけでなく、四年後に企業の採用担当者が何を望むかまで考慮するのが常識になっているのを感じると総長は語った。 『外向的で活動的なタイプ』が好まれるそうだ。『つまり理想的なのは、平均してして八十から八五点の成績を取り、課外活動に 熱心な学生である。』『抜群の成績』でも性格が内向的な学生はあまりこのまれないという。 この学長は20世紀半ばの理想的な従業員は沈思黙考ではなく、セールスマン的な性格を持った外交型であることを適確に 把握していたわけだ。・・・ 要するに、科学者の仕事は研究するだけでなく、販売を手助けすることでもあり、相手に 調子を合わせる態度が必要になってくるというわけだ。》 ▼ 地方から上京してきて、都会育ちの洗練された外交的人たちを知った時の驚きは、はかり知れないものだった。 暇さえあれば、的確な間合いで、ダジャレを言い、笑いを取る。それに比べ、地方出身者は言葉が重く、無口な人が多い。 ジョーク、ダジャレで、その場を明るく和やかにするセンスはゼロ。更に内向的になっていくか、身につけるか分かれる。 私の場合、まずカーネギーの『人に好かれる六原則』の一つずつを身につけるしかなかった。 1、相手に誠実な関心を寄せる。2、笑顔を忘れず前向きに。3、名前を覚え、意識して名前を呼ぶようにする。 4、聞き手に回り、聞き上手になる。5、自分ではなく相手の関心を話題にする。6、その人を心から大切に思う気持を伝える。 これを半年〜一年かかって身につけた結果、多くの友人に囲まれるようになった。 しかし、仮面に嫌気をさして、直ぐ 止めてしまった。何故、自分を偽るのだろう、相手中心の話題ばかりで、自分を抑えなくてはならないのか!と。 人付き合いが良くなった反面、自分を抑えすぎて、日々、息苦しくなっていた。その後、所属した武澤ゼミの影響もあった。 ・・・・・・ 2013年05月20日(月) 4447, 早朝座禅 − 「早朝座禅ー 凛とした生活のすすめ」山折哲雄著 *「死生観」から「生老病死観」へ 信長の時代から終戦までは人生50年の時代であった。それから僅か50,60年もしないうちに人生80年の時代になってしまったが、 それまでの死生観では、30年も多く生きる時代に対処できなくなってきた。それが異常な自殺者の増加というカタチで出ている。 そこで問題になるのは老いと病に対する対処の仕方である。ここで著者は「死生観」から「生老病死観」への対応が必要という。 ガンになれば、以前なら老人病で助からない自然死に近い扱いであったが、治療で乗り越えるケースが多くなる。しかし、治療で 生き延びた方が幸せかと老と病に対する問題が出てくる。 そして、それが自殺の増加につながってくる。 ー まずは、その辺りから、抜粋してみるー ≪ 人類は「人生五〇年」の時代を長く続けてきた。日本の場合、一九四七年の平均寿命は男性が五〇歳、女性が五四歳だったが、 その二〇年前や三〇年前はおだのぶながおけはざま「人生四〇年」だったかというと、そんなことはない。 あの織田信長が、桶狭間の戦げてんゆめまぼろしごといの前夜に「人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり」という 冒頭の一節で知られる幸若舞「敦盛」を舞ったのは、一五六〇年のことである。その時代からほんの数十年前まで、四世紀から 五世紀もの長きにわたって、人間の寿命は五〇年だったわけだ。 現代人は、平均寿命が徐々に延びるのが当たり前だと思っている。だが、それはごく最近になって生まれた「常識」にすぎない。 何百年にもわたって、「人間の寿命はおよそ五〇年」というのが世の中のスタンダードだったのである。 したがって「人生八○年」というのは、人間社会にとって「常識破り」の大変化だといっていいだろう。人の一生がいきなり 従来の一・五倍以上に膨張したのだから、その急激な変化が人間の心理に影響を与えないはずがない。当然、何らかの不適応が 起きるだろう。現代人のうつは、その不適応のひとつなのではないだろうか。 というのも、「人生五〇年」と「八○年」では、人間のライフサイクルがまるで違う。人生五〇年の時代は、働きづめに働いて、 気がついたときには死が目前まで迫っていた。だから「人生観」のことを「死生観」とも呼んでいたわけだ。 だが、人生八○年になるとそういうわけにはいかない。さんざん働いて定年を迎えても、死を迎えるまで二〇年、三〇年もの 時間が残されている。ゆっくりと老い、衰えや病気とつき合いながら、徐々に死に近づいていくわけだ。 そのライフサイクルは、「生か死か」というシンプルなものではない。「生」と「死」のあいだにある「老」や「病」を 受け入れざるを得ないのが「人生80年」の時代である。その場合、人生観は「死生観」だけでは足りない。 「生老病死観」とでも呼べるような、新たな人生観、もしくは人間観のようなものが求められるわけだ。 ≫ ▼ 両親の最期の頃、二人を看取ったこともあり、生老病死を近くで見てきたが、いざ自分が、その時期に近づくと、 一人称と二人称の、あまりの開きに驚いている。身体はあちこち痛んでくるし、心は暗くなる。世の中は、決して老人に 優しくはない。それと身近が次々と亡くなっていく中、死の不安の問題が出てくる。所詮は、全てが死んでしまうのが 分かっていてもである。考えようによって、以前は僅かだったが、現在は殆どが、長生長者。生老病死をじっくり 味わうことができる。どう味わうかは「生老病死観」になってくる。その中で、やはり自分一人の世界を持ち、味わうことが 求められる。現在は情報化の時代、その気になれば幾らでも味わう対象が手に入る。そうなると、それまでの準備があるか? 群れから自分から離れ、「ひとり」になれるかどうか。手っ取り早いのが、早朝の座禅、瞑想になる。長生きは辛く面白い! ・・・・・・ 4073, 哲学で自分をつくる ー2 2012年05月20日(日) 「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」 瀧本 往人 (著) 以下の人たちの哲学を一通り理解し、ダイジェスト的に説明出来れば一応、哲学の歴史の一端を理解出来たことになる。 対象が哲学の初心者に向けられているので、門前の小僧にとってシンプルで分かりやすい。 ーはじめにーより ≪ 本書に登場する哲学者と、哲学史上の位置づけは、以下のとおりである。 �哲学は、ソクラテスからはじまる。 �近代西洋社会を支えたのは、デカルト、カント、へーゲルの哲学である。 �根本的な近代批判を展開したのは、マルクス、フロイト、二ーチェである。 �二〇世紀の哲学を構築し直したのは、フッサール、ベルクソン、ウィトゲンシュタインである。 �二〇世紀の哲学を反転させたのは、スピノザ、ハイデガー、メルローーポンティである。 ※スピノザは一七世紀の人間であるが、影響という意味でここに配置されている。 �二〇世紀哲学は、実存主義と構造主義の対立、つまりサルトルと、ソシュール、レヴィストロースの対立に代表される。 �二一世紀の哲学は、フーコー、デリダ、ドゥルーズからはじまる。 一般的な哲学入門書と似たような構成をとっているが、確固たる哲学の教義体系に必ずしも沿ってはおらず、「近代」以前の哲学や 西洋以外の哲学についてもあまり言及していない。また、哲学の知識や技術を伝授するような目的で書かれたものでもない。 ここで言う「哲学」とは、今生きている私たちの「常識」的な考えの「見直し」。「常識」を「否定」「非難」しているわけではない。 あくまでも「見直し」は、哲学で言うところの「批判」である。その結果、あなたがこれまでの「常識」と違った考え方を 持てるようになったならば、本書の目的は達成されたことになる。もちろん、「常識」も大事である。 鵜呑みにするのがよくないだけである。いろいろと考えた末に、「常識」的な考えに立ち戻ってもかまわない。 「常識」以外にも別の視座を持ち、力強く二一世紀を生き抜けるよう、願ってやまない。 ≫ ▼ この近代哲学の区分けも分かりやすい。著者は、常識的考えの「見直し」という点を強調しているが、哲学は本来そういうこと。 共通するのは、あくまで入門書のため。現在ギリシャが経済を含め破綻しているが、欧米の行き詰まりの象徴である ギリシャ哲学の行き着いた果て。人間の心の奥には不安、悩みが常に沸きあがっている。目先の安易の解決を図ろうとせず、 一度、世間的常識から手を切ることだ。勝手なエゴイズムにならないようにしながら、考え抜いて肯定的に生きるべきである。 ・・・・・・・・ 3707, ジャズについて −5 2011年05月20日(金) ー 「音楽の本」三枝成彰著 より ジャズといえば、日本人の私にとって、「アルカポネがいた20世紀初めの大都会の下町の酒場で、マフィアとか、 チンピラの屯している中で、数人の演奏者が奏でている曲」というイメージがある。 実際に、ジャズの歴史に残る巨人たちは、 そこから名をなすことになる。以下の三人も、ジャズに興味が薄い私でも知っている名前である。 * "不良の巣窟"に生まれたホーキンス、レスター・ヤング、カウント・ベイシー 【 p・189ー アメリカ中西部のミズーリ州カンザス・シティ、まさに‘不良の巣窟’だった街に目を移してみよう。 アメリカでは二〇年から三三年までは禁酒法の時代だった。禁酒法はかえってアル・カポネに代表されるギャングを生む土壌をつくった。 カンザス・シティは、こうしたギャングたちが経営する密造酒場やダンスホールが栄えた街で、ジャズもまたそうした場所を 賑わせることになる。カンザス.シティのジャズを代表するのが、コールマン・ホーキンス(一九〇四〜一九六九)とレスター・ヤング (一九〇九〜一九五九)という、スタイルがまったく対照的だったテナーサックス奏者の二大元祖だろう。ホーキゾスは、アップテンポの 曲では豪快に荒々しく、バラードでは甘く柔らかく、低音域から高音域まで緩急自在なトーン・コントロールで、サックスを単なる 伴奏楽器からソロをとれる楽器へと押し上げた。 三〇〜四〇年代のニューヨークでは、たいていのテナー奏者がホーキンスを手本とした。 一方、レスター・ヤングは、同時代人としてホーキンスの色に染まらなかったところに、その独自性がある。 彼はニューオリンズ、メンフィス、ミネアポリスと渡り歩いて・カンザス.シティのカウント.ベイシー楽団で頭角を現わす。 そのテナーサックスは、ホーキンスのリズミカルな力強さよりも、まろやかでメロディアスなフレージングを特徴とした。 二人ともスウィング・ジャズ時代に全盛期を迎えたが、のちのビバップ時代のアーティストとも共演している。 ホーキンスのテナーは、スウィングの衰退後しばらく鳴りをひそめていたものの、五〇年代後半、ジャズの復古ブームとともに蘇り、 力強い豪快なトーンの健在ぶりを示してビバップ派を驚かせた。しかし晩年は深酒に溺れ、栄養失調による餓死同然の状態で最期を迎える。 レスター・ヤングはシンガーのビリー・ホリデイ(一九一五〜一九五九)との共演でも知られ・ビバップ時代以降は、スタン・ゲッツを はじめとするクール派の白人アーティストの間に熱狂的な信奉者を生んだ。彼は軍隊生活で人種差別にあったことなどから その神経を病み、やはり酒とドラッグの助けを借りることが多くなって、晩年のセッションはしばしば深い憂馨をたたえたものになる。、 カンザス・シティのジャズといえば、なんといっても、カウント.ベイシー(一九〇四〜一九八四年)と彼の楽団を抜きにして語れない。 カンザス・シティ。そのカンザス・シティを拠点に活躍していたカウント.ベイシーも、のちに楽団を率いてこユーヨークに進出する。 エリントンとベイシー。期せずしてビッグ・バンドの両雄がニューヨークで相対し、人気を二分する。いや、三十年代に入って 禁酒法が廃止されると、カンザス。シティの歓楽街の灯も消え、そこを拠点にしていた他の腕こきジャズメンも相次いで、この街をさり、 ニューヨークへと向かうことになる。以後、ジャズの中心地はニューヨークになっていく。 】 ▼当時の黒人はスポーツかジャズマン位しか名をなす機会がない世界。そこで名をなすのは至難の技の筈。その曲に魂が入っていて当然。 ・・・・・・・ 3342, 医師と看護婦の危ない関係 2010年05月20日(木) いまさらの話だが、医師と看護婦の危ない関係が表面化してしまった。下世話の話だが、何処かの同級会で 「あの何某、医師になって順調に出世しているが、彼の話だと看護婦は、○○放題?だと!」。 酒席で酔っ払っているので、言っている方も、聞いている方も、ほぼデマ?として本当とは思ってないが、「そういうこともあるんだ?」 と、半信半疑で聞いたことがある。看護婦の立場からみれば、医師にみそめられるのが理想系だが、医師の立場からすれば、同じ医師か、 その世界の娘と結婚をするか、医師のネームバリュー?で自分より格上の家の娘を対象にする。 (字数制限のためカット 2012年5月20日) ・・・・・・・・・ 2967,困難は分割して解決しろ!とはいうが・・ 2009年05月20日(水) (字数の関係でカット2,011年5月20日) ・・・・・・・・・ 2603, 最近みる夢 2008年05月20日(火) (p≧w≦q)オッ☆ ハ! 最近みる夢は、ますます深遠の奥にある中心に入り込んだような内容が多い。 一昨夜の内容といえば、 飛行機からパラシュートで落下するが半分しか開かない。先に飛び降りた人達のパラシュートは開いているのに・・・ そして海に落下する。そして気づくと海底の牢獄のようなところでもがいている。 ところが檻があって海面に 出ることができない。生死の境目を漂っているようなストーリーである。 最近、図書館から借りて目を通した 「死のまぎわに見る夢」の影響だろうか。哲学書の生死の問題について読んだばかりのためだろうか。 映画でみたダイビングのシーンの影響か。その全てだろう。夢とはその人に深く埋もれている創造性が出るというが。 現時点の、死に対する潜在的なイメージだろう。何度も書いたが、父親が死んだあとに父のベッドで見た夢は、 心の奥深く刻まれている。 亡くなる前の数ヶ月、父は「死にたくない」という死の恐怖と闘っていた。 一緒に住んでいたので、その気持ちが私には痛いほど感じていた。亡くなった数日後の深夜に、父のベッドで、 その気持ちに乗り移ってしまい「死にたくない、死にたくない」という父の気持になったのである。 その夢から覚めたときに、「何だ生きているじゃないか!」という、父の感覚が乗り移って現に生きているという不思議な感覚。 魂が入り込んだとイメージである。 魂は不死という不思議な感覚を、その時に初めて実体験をしたのである。 27歳時だったが、それ以来20年近く、霊能力みたいな五感以外の感覚が私の中に入りこんでしまった。 最近は、殆ど無くなってしまったが、何時また出てくるかもしれない。夢の内容を意識的に思い出し考えると、 不思議な世界を覗き込むようである。深い得体の知れない自己の深遠の世界をみるのである。その奥は、想像を遥かに超えた 自分の経験の積み重ねだけでなく、何億年の生命の経験の積み重ねの記憶まで広がっているようにさえ思える。 考えてみれば、宇宙の一点で独り彷徨っているのである。 それを真に気がつくのが死の間際だけとは・・・ 身近な不幸な死を垣間見たとき、つくづく感じるのである。群れているしか身の処し方を知らない人こそ、そうだ。・ω・)ノホナ ・・・・・・・・・・ 2007年05月20日(日) 2238, お金の正体 ?2 (*゜ロ゜)ノミ☆【おは?♪】 ー読書日記 ーまずは面白そうなところを幾つか抜粋して考えみよう。 P32ー ここで不動産のイロハを言うと、 ・土地、建物の値上がり率は経済成長率より低い。ロンドンでもニューヨークでも、50年~100年間の統計がそうなっている。 その理由は固定資産税をとられるからで、経済成長率より低い分はちょうど税金額に見合っている。不動産に対する税金は逃げようがない。 ・ロンドンやニューヨークで不動産で財産をつくった成功者がいるが、その人たちは大抵ユダヤ人である。 ユダヤ人相手に売買して負けになら そうぞおやりください。 (字数の関係でカット2,009年5月20日)
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2014年05月19日(月)
* 高齢者の三割が認知症とは 先日の朝日新聞の社会面に「認知症徘徊 不明届け一万人」の記事があった。 その中で「65歳以上の高齢者のうち462万人が認知症で、軽度認知障害が400万人もいると推計される」とあった。 高齢者が人口に占める割合が23〜4%からすると、高齢者が3000万人。その中の862万とすると、三割近くが 軽度を含めた痴呆症になる。前期と後期高齢者では、二倍以上は違ってくるから、80歳までに4分の1、それを超えると、 過半数は認知症になる。 そして徘徊で不明になるのが年に一万人というから、深刻な問題である。 それからして、長寿を願うのは実は考えもの。独り住まいの高齢者が増加している中、本人も周囲も深刻な問題である。 「健康診断などしないで自然死も選択の一つ」も、理解出来る。 胃瘻で一度、管につながれると、簡単に取り払う ことが出来ない。生かして拷問しているようでもある。 死ぬも地獄、生き延びるも地獄。老いて死ぬのも大仕事である。 これを書いたためか、自分が認知症になって呆然と佇んでいる夢をみた。脳は面白いものである。その夢とは、 <店頭で、ハンバーガーとコーヒーを注文するが、商品がなかなか来ない。それを(どういう訳か中年男)の店員に言うが、 何も答えない。ところが後で入ってきた若い男が目の前のチケットを取って、カウンターに並んでいる。私が店のシステムの 要領を得ないで財布を持って勝手に立っていたようだ。仕方がないので、店から出て、他のテイクオフの店に行くが、 店内の座席は、二人以上でないと座れないという。どうも自分が認知症で、街を彷徨っていることに気づいた>ところで、 目がさめる。何か恐ろしい夢だが、認知症とは、こんなものと自分自身に知らしめる内容である。 そうこう考えると、可能な限り医者に行かないで、自然にまかせることも選択の一つである。いざ、余命一年、半年と 告げられると、その恐怖は、はかり知れないのは父親の姿から知った。傍らに一年いて、その恐怖感が直に伝わってきた。 それも、激痛が、死にたくなるほど激しくなっていく。死にいくのは、簡単なことではない。そのため認知症を神様が 与えた自然の業わいとも言える。マダラボケになるから、本人も、周囲も地獄になる。生きているうち、元気なうちである。 ・・・・・・ 4446, 屋根裏に誰かいるんですよ 2013年05月19日(日) 「屋根裏に誰かいるんですよ ―都市伝説の精神病理」春日 武彦著 数年前になるが、既に亡くなった知人の奥さんが会社の事務所に訪ねてきて言うに、「誰かが留守に家に入りこみ、 困っている」と切り出してきた。それも会話の中で何気なくである。「ちょっと、待ってください。聞き捨てにならない話で、 もう一度、本当に侵入していたのですか」と聞きなおすと、現在も屋根裏に隠れていると、写真を数枚だし、ここですと言う。 私の目には見えなかったが、本人には見えるという。「警官に来てもらい見たが、何も見つからなかった。が、私には隠れて いるのが分かる。ところで、うちの主人が生前、そういう話をしてませんでしたか? 貴方にはシックスセンスがあると 聞いてましたが、この現象をどう思いますか?」と真剣な眼差し。「恐らく貴女は、魔界とか何か違う世界に取りつかれたと 考えるしかありません。そういう話は一度も本人から聞いたこともありません」と答えた。その話を、その人の共通の知人に 話すと、「実は私の家に訪ねてきて、全く同じ話をし写真を見せてくれたが、何も見えなかった。他にも訪ねてまわっている」 とか。本人は60歳前後で、老女というには、まだ若い。 ーアマゾンの内容説明ー 精神科医である著者が、現代社会におけるさまざまな精神病理を、きわめて冷静に考察したものである。 ある日、ひとりの老女が、「自分の部屋に勝手に人が入ってきて困る」と訴える。その侵入者は、彼女の部屋にある日用品などを 盗んでいったり、ちょっとだけ位置をずらしていったりするという。しかし、姿は見えない。まるで、「座敷わらし」などの妖怪の しわざとしか言いようがない不可解な話を、老女は真剣に語る。 表題となっているこの症例は、「幻の同居人」と呼ばれる。 このような症例は、多数報告例があるらしい。患者たちは、脳に器質的な異常が認められるわけではなく、精神的にも問題ない 場合が多い。「妄想の突飛さと当人の穏やかな常識人ぶりとのあいだに乖離が生じているときには、精神医学はたちどころに 歯切れが悪くなってしまう」と著者は言う。それがこの症例の複雑さと奇妙さとを物語っている。 ▼ 当時は、この本の存在を知らなかった。 子供達の巣立った家で、当人は深夜怯えているのだろうが・・ 想像しただけで、背筋が寒くなる。当人にとって感じるのだから! 私も一時期、女性の幽霊?を見たり、 幽体離脱をしたり、面白い経験をしたことがあるので、当人が真剣になるのは分かる。 ・・・・・・ 4072, 南直哉 恐山菩提寺院代の話 2012年05月19日(土) 昨夜の18日、BSフジ・プライムニュースに恐山菩提寺の南直哉(じきさい)院代が2時間近く出演し、 「生きる」ということ、「死」について、説いていた。最近、「恐山」出版されたようだ。 東北震災で家族を亡くされた人が多く訪れてくるというが、行方不明の場合、縋る思いで恐山に救いを求めるのは分かる。 院代とキャスターの問答の中で多くの鋭い指摘があった。 ・恐山は感情の器。 ・死は観念、生は感覚。 ・「やりすごす」ことの重要性。(なんとかやっていける方法がくるまで待つこと) ・人間には存在が認められた経験が必要。最初の動力になる。 子供の頃に、その基盤を両親がつくるが、それが壊れてしまっている。 ・自殺は選択の問題。まず生きることを選択すること。転んでも起き上がることが大事、自殺したくならないような人生は本来の人生でない。 ・あの世があるか?の質問に対し、「その前提に、死後の世界がある、という認識がある。」その前提は何か?と逆に問う。 ・最近さかんに「心の時代」というが、どんな時代にも、その時代を生きた人には心があったのであって、いまさら、この時代だけを 「心の時代」と言うのか?「心の時代」と声高にいう人たちは、そう言うことで、「心の時代」という商品を作っているではないか? 等々だが、訪問者が色いろの遺物を持ち込んでくる。その中に花嫁姿の人形が年に十数持ち込まれる。10年もすれば百以上になるが、 捨てるに捨てられないという。毎年、その人形に拝みにくる家族がいるからだ。その花嫁人形も、特注のものばかり。院代の話の奥行は深い。 東北大震災で奥さんがお産のため実家に帰っていて、亡くなられたヤンキーっぽい若い人の話が、涙を誘う。ただ独りで来たが、哀しみが 感じられなかったという。哀しむまで心が追いついてないのだ。本当の悲しみは時間とともにやってくる。 あっという間の二時間だった。 30年前に行った恐山は、強烈な印象である。山鳴りと、硫黄の臭いと、老人が多く入っていた硫黄風呂。あちこちに置かれていた遺品。 そして、イタコと涙ながらに話している人たち。目の前に広がる白っぽい小さな湖。哀しみの感情の器である。 ・・・・・・・・ 3706, 自己を見つめる −23 2011年05月19日(木) ー 他者について ー 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 幼児の頃から、「自分」は、他者の呼びかけによってカタチづくられていく。そして一般的には、「他者」は、自分以外の人や、 生物、そして物を総称して呼ばれる。 二人称の「汝」と「我」の出会いと対話から生じてくるのが他者である。 【(* 対人関係の葛藤の海 ーp186) 二十世紀になって、たとえばブーバーなどを中心として、多くの思想家によって、 二人称の「汝」と向き合った、「我と汝」の出会いと対話の関係が、人間存在の根本事実として、改めて強調されるようになったのも 当然である。とりわけ、人間関係が稀薄になってゆく機械的現代文明社会のなかでは、「我汝関係」の豊かな拡充が緊急の課題として 重視された。ブーバーなどは、汝の奥に、永遠の汝の面影さえ予感して、神の前に立つ自己の存在の確認を、汝との出会いの延長線上に 設定するほどである。こうした我汝関係の思想は、十九世紀前半のフォイエルバッハあたりから始まるとも言えるが、 とりわけ現代において強調された重要な問題意識であると見てよい。 さりながら、そうした他者のうちに、たとえば、サルトルは、むしろ逆に、鋭く私の秘密を握って、私に対して支配力を 行使しようと隙を窺っている、油断のならない「まなざし」を予感した。したがって、そこでは、自他の関係は、 永遠に自由をもった者同土の「相克」が宿命となる。調和的な共同主観などは幻想であり、むしろ、個別の体人同士の 峻烈な争いと闘いが、対人関係の根本事実と見なされるわけである。 ヤスパーも、人間関係において、やはり、争いを、不可避の個別的限界状況と捉えていたことは、すでに述べた。 ・ つまり、一つには、人間関係の根本には生存競争という非情な争いが、一皮剥けば、いたるところに隠れ潜んでいることが、 すぐに露呈してくるからである。実際、人間関係の深刻な極限的状況においては、食うか食われるかの、生死を賭けた争いの火花が 噴出してくることは、誰もがつとに覚悟している。 また、平凡な日常生活の場面においても、いろいろな局面で、先着順や成績順や 業績順や体力順によって、岐路が分かれ、自他の運不運の差が顕在化して、憂き世での浮沈が結果としてくる。 ・ さらに二つには、自己と他者は、相互に協力し合いながらも、「愛しながらの争い」において、互いにたえず、本心を確かめ合おうとし、 公明正大さをめぐる人間的吟味の鋭い眼を、相互に向け合う。すなわち、自他は互いに、相手が、どれほど誠実であるか否かを、いつも 気懸かりの種とする。つまり、他者を、その誠意や裏切り、欺朧や正直、傲慢や謙虚、忘恩や怠慢などの点で、吟味して、他者が 真に信頼の置ける人物であるか否かを、人は不断に確認しようとする。・・・ 】 ▼ ソクラテス、デカルト、カントの三者の考えは、みな「私」を拠り所にして他者や世界と立ち向かっていたと感じていた。 しっかりした「自分」があってはじめて他人と接しることができると考えていたようである。しかし、19世紀初めに 生きたヘーゲルは、この考えに根本から批判する。自分が自分でいるのは、先に「私」があるのではなく、むしろ他者が 先にいるからであると。少なくとも、相互作用が必要と言う。「他者」が「私」のことを意識することによってはじめて、 「私」は、この世に位置づけられる。 人生の節目どきで、身近にいた他者が変わる時に、この意味が実に鮮烈に見て取れる。 特に内面の希弱な人にとって、他者の交代の節目は、自分を支える基盤が無くなり、大きく動揺する。老齢になるほど大きくなる。 ・・・・・・ 3341, 今日からデジカメ写真がうまくなる 2010年05月19日(水) 「今日からデジカメ写真がうまくなる」 久門易著 元もと写真が好きで多く撮ってきたが、デジカメが出来てから、それがより多くなったようだ。 それにしてもデジカメの機能の日々の進化は目を見張るものがある。 プロとアマチュアの差は、 「多くの角度から枚数を撮って、その中からベストのものを選択できる要因の差」という。 (字数の関係でカット2,012年5月19日) ・・・・・・・・・ 2966,ミューズが降りる 2009年05月19日(火) 先日、立川談志のテレビインタビューを見ていたら「ミューズが降りた」芸について語っていた。 年に2〜3回はあるという。 話芸の中の人物に魂が降りてきて、自分でも信じられない芸になる。 その幾つかの中の一つの「芝浜」の録画を放映したが、何度か観たことのある録画。名優の演技には、度々あるのだろう。 森光子の放浪記の演技の中でも多くあったはず?。 談志曰く、「その時の芸は自分でも抱きしめたいようだ!」 ーネットでミューズを調べてみると・・・ ー「ミューズ とは、ギリシア神話に出てくる、文芸・音楽・舞踊・哲学・天文・芸術一般などの女神たちの総称。 個々の女神は、Muse ミューズで単数の形になります。 大神ゼウスと、記憶を意味するムネーモシュネー女神のあいだに生まれた、 9人の姉妹とされている。ー 芸の中の人物を演じていると、その人物が自分を観ている錯覚を覚えるという。 霊感の鋭い人の感覚は、鈍い人に解りようがない。スポーツ選手でも、政治家でも、一番勢いの乗っているときは、 誰でも神がかる。神?が本人を使っている状態か。 頭に浮かんだイメージに自分を通してエネルギーを入れると、 魂が入るということだ。芸術品もミューズが降りた神の仮の姿とみれば、違った面も見えてくる。 私の同級生の兄が「能」をしているが、「能の世界は現実か、現実が幻想世界か、混同することがある」(新聞紙上) と、同じようなことを言っているのだろう。 ところで私にミューズが降りたことがあっただろうか? いや、 誰にもあることでしかないか?言わないだけ、表現する場がないだけ、表現方法を知らないだけ、それだけ人間の脳力は 深いということ。 (後記ー偶然、昨年書いた、「ごっこ遊び」が、関連したような内容。) ・・・・・・・・・ 602, ごっこ遊び 2008年05月19日(月) ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。 ーまずは「ごっこ遊び」を、ー辞書で調べてみるとー 【ごっこ遊び(ごっこあそび)はこどもの遊びの一種で、何かになったつもりになって遊ぶものである。 通常、○○ごっこというように、何かの名前をつけて呼ぶ。 何かの職業のまねをして遊ぶ場合や、テレビやマンガの ヒーローやヒロインのまねをして遊ぶ場合がある。こどもはあこがれを抱いた対象ならどんなものでごっこ遊びにしてしまうので、 「わんちゃんごっこ」や「お人形さんごっこ」 など大人の予想しないごっこ遊びを始めることがある。】とある。 子供の頃に、 多くのごっこ遊びをした記憶がある。最近は、若者の間にアキバ系で「メイドカフェ」なども、「ごっこ遊び」そのもの。 他にも、ロールプレーイング・ゲームがある。元々は戦争シミュレーションゲームから派生したアメリカで考案された遊び。 参加者が各自に割り当てられたキャラクター(プレイヤーキャラクター)を操作し、一般にはお互いに協力しあい、 架空の状況下にて与えられる試練(冒険、難題、探索、戦闘など)を乗り越えて目的の達成を目指すゲームの一種。 様々な設定と制約の元で、空想上の世界で物語の登場人物のように活躍できる。考えてみれば、世の中の多くは 「ごっこ遊び」のようなもので、国が発行している札だって、所詮は紙切れでしかない。 (字数の関係でカット2,011年5月19日) ・・・・・・・・ 2007年05月19日(土) 2237, お金の正体 ー1 「お金の正体」 ー日下公人著 (((。・-・)从(・-・。)・゜ 「生・死」と「金」の話題は尽きることは無い。 特に「金」に関してはもういいや!と思うが、それでも次々面白い道理に出あう。しかし、どれを読んでも面白いのは、 金が欲の集約でもあるからである。この本を図書館で手に取ったときは、あまり内容のない本に思えたが、実際読んでみると、面白い。 「お金の正体」はつきつめると「その人が求めている幸せは何ですか?」ということになる。 幸せとは何ですか?は、これも単純で解りきったように思えるが、実は深い問題である。 私が好きな「幸せはアルコールのようなもの」とか、軽く扱われない大きな問題である。 (字数の関係でカット2,010年5月19日)
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| 4812,閑話小題 ーシネマ『それでも夜が明ける』 |
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2014年05月18日(日)
* シネマ『それでも夜が明ける』 ー評論 一昨日はシネマの日。 今週は『それでも夜が明ける』を、みてきた。 評)90点 暗い内容だが、重厚で、アカデミー賞の作品賞をもらうだけのことはある。南部の奴隷が動物並みに扱われていた実態は、 それは酷い。中南米諸国のアスリストの身体能力が高いのは、奴隷としてアフリカから運搬船で送られる船中で、まず淘汰。 その後、過酷な肉体労働で生き延びた人たちから、さらに選び抜かれているため、異常に高い身体能力があるという。 当時の南部では、家畜として見ていたようだ。 インドのカースト制は、三千年前に西の方からやってきたアーリア人が、ヒンズー教を創りあげ、肌の色で階級を つけた仕組みで、そのミックスを防ぐのが目的で、現在も、そのまま続いている。 白、赤、黄色、ねずみ色の順に、 見た目だけで階級が判断できる。その上に体格も、顔つきも、そのまま三千年の歴史が現れ出ている。 最下層は、牛以下で、車ではねても、そのまま立ち去ってしまう。 先進国、後進国の格差も、似たようなものか。 3年前の節目時の日々は、『それでも夜が明ける』そのもの。 『闘い済んで日が暮れる』である。 ただ、面白みと味わいもあったが・・ 差別?、軽蔑の視線をモロに、受けてみて、「成るほど、こういうものか」という 逆視線と、経験したことのない怒りと、その対処法の知恵も出てくる。いちいち怒っていられないので、その場でイメージで 消去してしまう。 それで相手への憎しみも怒りも、その場限りで不思議なことに消えていく。 消去方法は?企業秘密。 で、再び怒りが出てきたら、その都度、小まめに消去する。10回もすれば、ほぼ消去。 百回なら大病、事故? 何度も書くが、避難先の高台(現状)から、外海に押し寄せてくる大津波に、ただ、漫然としている人たちの姿が見える。 三分の二は助かるが、三分の一は、間違いなく飲み込まれる。危ない人ほど、自分は大丈夫とタカをくくっている。 この映画の主人公のように、ある日、突然騙されて南部に売られ自由を失った主人公のように、突然、全てが失われる。 これは、社会的変動だけでなく、誰にでも起こる生老病死の問題もあるが。 国家としての行き先は、現在の韓国のように、 韓国内の企業の株式の8割が外国所有になって、民度は落ち続け、客船沈没事件とか、得体の知れない宗教団体の跋扈とか・・ それでも、かの国の夜が明けている。 色いろ考えさせられた映画である。 ・・・・・・ 4445、早朝座禅 2013年05月18日(土) 「早朝座禅ー 凛とした生活のすすめ」山折哲雄著 この本を読んで直ぐに30分早く起きて、早朝座禅を取り入れてみた。まずは、今月一杯は続けてみるが、どうなるか。 今のところ抵抗感も、異物の習慣といった感もない。もう40年以上も朝起きの習慣化があった上に、その時間帯での全てが カタチを変えた瞑想みたいなもの。朝の散歩やミニサイクリングは、移動座禅といってよいほど。 何故、今まで軽い気持ちで 早朝座禅か、瞑想を取り入れなかったのが不思議なくらい。 30年間の新幹線通勤の往復一時間が、瞑想に近いし、 夜半の4時間の爆睡後の一時半から4時半までの三時間は、瞑想に近い状態になるので、あえてその必要が無かったこともある。 しかし姿勢を正し、目を瞑り、思いに捉われないで、覚醒した気持で正座をするのとは違うのは、経験して初めて知ったこと。 ーまずは、(内容ーアマゾン)よりー < 現代ほど「人間関係」の重要性が説かれる時代もない。家族、学校、会社、それぞれにおけるコミュニケーションの 大切さが謳われる一方、疲れた人やうつ病は増え続け、自殺者は九年連続で三万人を超えている。著者は、疲れたときには 「群れ」から離れて「ひとり」になってみよ、という。毎朝、五分坐って、己の心と向き合う。正しい姿勢で、深い呼吸をする。 季節の風を胸元に入れながら、歩く。ときには庭にたたずみ、河原で風に吹かれる。 ひとり静かに自分自身や自然と向き合うことが、騒々しい人間関係の疲れを取り、豊かな人生を手に入れる最良の方法。 凛とした生活を送るために大切な身体作法を実践的に説く、山折流・人生指南の書。> =概要をマトメルと= ≪ 現代社会にあふれる‘うつ’の現象を分析し、 ○過去に人生モデルが見つけられない程の高年齢化。 ○宗教的な感覚が欠如した口先だけの言葉の群れの氾濫。 それが、世の中に不安をもたらすモノノケとなり、うつを蔓延させている。 回復には、ひとりで静かな中で早朝坐禅をし、 モノノケから自由になり、歩く・泣く・眠るという3原則が大事とのこと。 宗教は非日常性。教会でもお寺でも、 日常の気持ちから離れ、心を改めて参拝します。 一方、俗人の日常は、非宗教です。宗教者とは違い、生活に宗教性は薄く、 実生活を営んでいきます。著者にとっては、この場は混ざり合っていて縦横に歩ける無境界地帯のよう。 早朝坐禅は、無念無想のために坐るのではなく、むしろ雑念妄想を吐き出させ、それ以後の1日をスッキリ生活させる為の手段。 またチベットの寺院の真似をして、呼吸さえ密やかにする坐禅中に、茶を喫するなどその自由闊達な動きは著者独自のもの。 頭の中に湧いてくる雑念をそのまま流れに任せ感じ、そのまま受け入れる。嫌な事でもいい事でも想像の中で、いろいろ出来る。 著者は「疲れたときには‘群れ'から離れ‘ひとり'になれ」と。そして自分の心と向き合って深呼吸をする。 人間が自分を不幸だと感じるとき、それは絶対的な不幸をいうのではなく、「幸福な他人」との比較による相対的な不幸に ついて言っている。 あらゆる不満は他人と比較で生じると。≫ ▼ 創業の第一歩は、「ひとりになること」から始まる。心にイメージした絵に向かい、ただ独り長年かけ準備をしていく。 周囲が現在のことに無我夢中の中で、一種の宗教のように自分が目指す、創業に向かい一つずつ、パーツを集める。 傍からみたら一種の狂人に近い心の状態。それでも続けていると、カタチが少しずつ現れてくる。問題は前進を止めないこと。 その中で、心の芯に「ひとり」を保っていないと、現象に流され、群れに同化してしまう。 庭弄りとか、散歩、一人旅、 読書など、「ひとり」になる切り口は幾らでもある。それでも、モノノケに縛られる。早朝禅か、瞑想の習慣は最も有効だが。 さて30分の野狐禅が身につくかどうか? ・・・・・・ 4071, 哲学で自分をつくる ー1 2012年05月18日(金) 「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」 瀧本 往人 (著) 実をいうと、この本、トイレに一年間以上、置いておき毎日読んでいたもの。これを手に取ると自分の本音を見透かされてようで、 切り口が素朴で日常的のため面白い。あまり知られてない、こういう掘り出しものが哲学書には数多ある。 門前で野狐禅みたいなレベルで知識を弄んでいる輩(私)に、噛み砕いて教えを説かれているようである。 ー内容ー ソクラテス、ニーチェ、ウィトゲンシュタインから、フーコー、ドゥルーズ、デリダまで、 19人の哲学者の思想・人生のエッセンスを、現代に生きるリアルな問いに置き換え、今を生きぬいていく方法を学ぶ。 (読者評価) 19人の哲学者たちの声に耳を傾けつつ、もう一度自分自身の頭で考えるということから始めてみよう。 確かに悩みや不安を宿命として受け止め肯定的に捉えるのは容易なことでは無い。しかしそのために考えることを生きていくことの 力とする哲学というものが存在する。もっと哲学という方法を、すなわち自分で考えるということの強度を信頼しても良いのではないか・・。 著者はそうした問題提起の下、それぞれの哲学者に成り代わって現代の読者との対話を試みるのである。しかし本書は哲学者を高みの 存在には置かない。また、昨今の入門書のようにデフォルメもしない。あくまでも彼らがそれぞれの時代を生きた一人の人間であり、 一人の生活者であったことに軸足を置いている。このニュートラルな哲学者の位置づけによって、それぞれの哲学者に瑞々しい生命力が 与えられ、彼ら哲学者と現代に生きる我々との問題意識が決して隔てられたものではないという親近感を得るのに役立っている。 ーはじめにー の冒頭が、この著書の特徴と狙いを書いているー 【 あなたには、自分らしくありたい、人に認められたい、自分のことを分かってほしい、世の中で成功したい、幸せになりたい、 金持ちになりたい、モテたい、死にたくない、もっと真っ当に生きたい、といった積極的な意欲があることだろう。 もしくは、 とにかくモヤモヤしている、何もかもが信じられない、人づきあいが面倒、生きるのがつらい、何もしたくない、誰かなんとかして、 といったような、消極的な感情もあるかもしれない。過去の哲学者たちがもし、今、ここにいて、21世紀に生きる私たちの、 そういった悩みや葛藤を聞いたなら、はたしてどうなるのか。どのように聞きとり、どのようなことを語ろうとするのか。 「街の意見」をぶつけられた哲学者が応えるようなスタイルで本書は、書かれている。 本書は、あなたに「哲学する」ことを勧める。 ここで言う「哲学する」とは、生きてゆくうえでの「思考の力を磨くこと」である。既存の哲学を単に解釈したり理解することではない。 日常的に哲学的な問いかけを行い、生きることに役立てること、つまり哲学を使って「自分」をつくるということである。】 ▼ 現代の我々にとっての疑問、悩みを歴史上の哲学者が答える形式は分かりやす。我々が日常で悩んでいることや考えていることは、 全て過去の哲学者が考えてきた一部の悩みでしかない。19人は哲学者の中でも選りすぐりの人たち。彼らのいっている 真理は現在でも、そのまま通じること。最近、気づいたことは、私の人生はニーチェに大きく影響されていたようだ。 この生活者としての生の内面の疑問に19名が答える形式は哲学を身近に引き寄せる。残されて人生、とにかく考え続けるしかない。 ・・・・・・・ 3705, ジャズについて −4 2011年05月18日(水) ー 「音楽の本」三枝成彰著 より 一九二〇年代に「ビッグ・バンド・スタイル(4人位のバンド編成が、15人を超える大編成)」が受けるようになった。 その巨人が、あのデューク・エリントン。ジャズの世界を知れば知るほど、面白い。 * ビッグ・バンド・スタイルの流行 【 ジャズの中心がその生誕地ニューオリンズからシカゴに移っていた二〇〜三〇年代、ニューヨークやカンザス.シティでは、 大編成によるビッグ・バンド・スタイルのジャズが流行した。トランペット奏者、サックス奏者、トロンボーン奏者がそれぞれ四人程度、 それにピアノ、べース、ドラム、ギター奏者が一人ずつの編成し、クラシックの楽団には比べるべくもないが、それでも、一五人を超える メンバーからなるビッグ・バンドはニュー・ーオリンズ・ジャズの編成(一般的にはコルネットット、トロンボーン、バンジョー、ピアノ、 ベース、ドラム各一人)に比べればはるかに大規模だったし、現在でもトリオ(ピアノ、べース、ドラム各一が基本)か、カルテット (ピアノ、べース、ドラム各一にトランペットかサックスが加わる)がジャズ演奏の主流であることを考えれば、大編成と呼んでもいいだろう。 そのビッグ・バンド・スタイルを確立させたのは、フレッチャー・ヘンダーソン(一八九七〜一九五二)。しかし、ニューヨークの 黒人居住区であるハーレムのポールルーム(ダンスホール)やクラブを拠点に活躍したビッグ・バンドの巨人といえぱ、 デューク・エリントン(一八九九〜「九七四)をおいていない。 本名エドワード・ケネディ・エリントン(デュークは公爵という 意味のニックネーム)は、あとで触れるマイルス・デイビスに、「あらゆるミュージシャンは彼に感謝を捧げる日を持つべきだ」といわしめ、 フランスの作家ポリス・ヴィアンをして、小説の登場人物に、「かわいい女の子たちとの恋愛と、デューク・エリントンの音楽。 それ以外は消え失せたっていい。醜いんだから」と語らせた人物である。「A列車で行こう」「黒と茶の幻想」 「ソフィスティヶイテッド.レディ」「サテン・ドール」・・・。ジャズ・ファンならずとも耳にしたことがある名曲.名盤を数多く残し、 自らもピアン奏者であったが、彼の真の楽器は、自分の楽団そのものだったといっていい。アーム・ストロングと同じように時代や 国に影響を与えた彼は、アームのソロイストとは対照的に、優れたバンドリーダーであった。エリントンにとって、バンドのメンバーは さながら絵の具のようであり、それぞれ個性という色を混ぜ合わせて、最終的には「エリントン風絵画=楽曲」に仕上げることに長けていた。】 ▼ そうこうジャズについて知ると、学生時代に、こういう本があれば、もっとジャズ好きになっていた筈である。 エリントンの70年の録音された「ニューオリンズ・スイート」は、その地と縁もゆかりもない彼が、ジャズの発祥の地に 敬意を表したアルバムである。 アメリカ発の魂の歌とも言うことができる。 ・・・・・・・ 3340, 感性・悟性・理性 ーカント 2010年05月18日(火) 理性といえば、「純粋理性批判」のカントである。ーこの一冊で「哲学」がわかる!ー白取晴彦著ー の中で、 認識についてのカントの考えを次のように書いている。 ≪ 彼は、その中で「・・・我われの認識がすべて経験を以て始るとはいえ、それだからといって、我われの認識がすべて 経験から生じるのではない。 なぜなら、おそらく我われの経験認識ですら、我われが印象(直感)によって受け取るものと、 我われ自身の認識能力(悟性)が自分自身から与えるものとの結合真実であろうからである。」と述べている。 では、この「我われ自身の認識能力が自分自身から与えるもの」とはいったい何なのか。 それは感性と悟性である。 ・感性とは、見えている素材がいろいろな形で心に受容される能力というほどの意味。 感性は五感を通じて現われたもの、 すなわち現象を捉えます。このとき、感性は時間と空間という内なる形式にしたがって現象を整理して見ています。 時間と空間というこの形式は、人間の感性の中にあらかじめ備わっている先天的なものである。 ・この現象から得た情報を整理して判断するためには、もう一つの理性、「悟性」がここで必要となる。 悟性とは、大雑把にいえば、「理解する能力」です。 少し丁寧にいえば、能動的な思考・判断能力となります。 さらにわかりやすくいえば、「現象に規則を与える能力」だといえます。 この結果、概念の骨格が一つずつ出来てきて それに肉付けをしたものがイメージになって出てくる。 受け取った概念はたとえていえば、骨格標本のようなもの。 これに対応するイメージを生み出すのが、我われの人間の「心の内奥に隠された技術」すなわち構想力だといいます。 ・我われは日常的なこと、目に見えることだけを知りたがっているわけではありません。「愛とは何か」「神はいるか」 「何が善で何が悪か」といったことを知りたがる。 カントによれば、これら形而上の事柄に関しての担当は悟性ではなく、 理性であるといいます。感性と悟性は現象まで扱い、それ以上のこと、すなわち現象の原理については理性が扱うのである。 「霊魂は単一か否か」は昔からの馴染み深い疑問でした。 しかし、これこそ、という答えはありません。 霊魂は現象として目に見えるものではない。しかし、理性はこれについて考えてきた。 つまり人間の理性は、感性や悟性が 感知できないものについて、思考をめぐらすことが可能である。 しかし、カントは、そこで面白い結論を出したのです。 すなわち、認識の限界を超えたことを思考すれば、必ずや二律背反に陥るということである。 二律背反とは、互いに矛盾するということ、互いに矛盾しながらも互いに反駁も出来ないことを言います。 どうして、こういうことが起こるのか。 感性も悟性も到達しえない理念について理性が考えても、その考えは 認識できるものではないということです。 ≫ ▼ カントの認識に関するエキスの部分を非常にわかりやすく噛み砕いてある。「・現象を時間と空間の中で対象として感性で捉え、 ・悟性で、その対象を整理をし、・思考して(判断を加え)、・理性で原理を求める」 ということが認識としている。 非常に分りやすいカントの認識論である。 ・・・・・・・・ 2965,世界はパンデミックに入ったのか! ―2 2009年05月18日(月) * パンドラの箱が開いた! ついに国内に新インフルエンザの感染者が出て、そして拡大が始った。時間の問題ではあったが、これからは何処まで感染者が 増えるかの問題になる。感染者が増えていく過程で、菌が悪性化するから問題。予測どおりにゴールデンウィーク明けの10日足らずで、 日本も世界並みに感染が始った。問題は高校生であるところ、多くの生徒の間に感染している可能性がある。更に家族などから ネズミ算的に感染してる可能性がある。 スーパーや電車など人混みの多い所は要注意。マスクは殆ど感染に効果がないというし、 よく手を洗うしか予防がない。ウガイは10分以内の菌にしか、効果がないという? しないよりは、良いのだろう。 (字数制限のためカット2011年5月18日) ・・・・・・・・・ 2601, 柏崎沖地震で原発が7基、停止しているが 2008年05月18日(日) 去年、柏崎沖地震で7基の原発が停止をしたが、真夏の東京の電気を一時止めることも無く乗り切った。 これは、どういうことなのであろうか。 休止していた火力発電を急遽動かし凌いだといっても、原発の数は54基。 そのうち7基といえば大きい影響が出そうだが、それを乗り切ったという実績は大きい。単純に計算すると原発の発電電力が 占める割合が35パー。柏崎原子炉が大よそ15パーセントであるから、掛け合わせると5パーセントになる。 古い火力発電などを再開して、何んとか乗り切ったのである。2002年の統計だが、世界における総発電量(163215億kWh) の16.2%が原子力発電所によるものであり、これは火力発電所の66.6%、水力発電所の16.5%に次ぐ。 世界でもっとも原子力発電所に依存しているのはフランス (78%)、次いでスウェーデン (46.3%)、ウクライナ (44.9%)、 大韓民国 (35.4%)である。2005年現在、日本における発電電力量の約35%、発電設備容量の約20%を担っている。 (字数制限のためカット2012年5月18日) ・・・・・・・・・・・ 2007年05月18日(金) 2236, *閑話小題* ・д・)ノ〔● ォ'`ョゥ○〕ヽ(・д・`●) ーまさか、貴方まで!? 同級生のY君が病に倒れ、いきさつ上、私とM君が入院の合間に「Y君を励ます会」の幹事をすることになった。 他の同級生にもお願いして、連絡する名簿を振り分け、まず一番初めにK君に電話を入れた。 (字数制限のためカット 2010年5月18日)
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| 4811, Quirt <内向型人間の時代> ー2 |
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2014年05月17日(土)
<内向型人間の時代> スーザン・ケイン著 * 内向型人間は二流の性格特性か? 外交型人間の代表といえば、特にイタリア、スペインなどの南欧の人たち。逆に内向的人間の代表はフィンランド人を 代表にした北欧の人たちからみて、季節要因と食料が大きく影響しているのが分る。黒夜の時節、15時になれば真っ暗に なれば自殺率が高いのも当然である。冬期間に雪に閉ざされ、内向きになる秋田、新潟の自殺率が高いのと似てる。 外交型人間を理想とする価値観の中で、内向型人間は、一段も二段も低く見られるため、どうしても隠したがる。 ーその辺りから抜粋ー 《 今日、社会が求める性格タイプはごく狭い範囲に設定されている。成功するには大胆でなければならない、 幸福になるには社交的でなければならないと、教えられる。 私たちはアメリカを外向型人間の国家として見ているが、 それは必ずしも真実ではない。どの研究を見ても.アメリカ人の三分の一から二分の一は内向型である。言い換えれば、 あなたの周囲の人々のうち二、三人にひとりは内向型なのだ(アメリカが有数の外向型の国のひとつだとすれば、世界には もっと内向型の比率が高い国々がある)。あなた自身が内向型でないとしても、家族や学校や職場に何人か思いあたるだろう。 もし三分の一から二分の一という統計に驚きを感じるのなら、それはたくさんの人が外向的のふりをしているからだ。 隠れ内向型は、学校の運動場や高校のロッカールームや大企業の廊下に気づかれずに生息している。なかには自分自身までも すっかり騙していて、なんらかのきっかけで、たとえば、失業、子供の親離れ、遺産が転り込んで時間を好きに使えるように なったなどで、ふと自分の本来の性格に気づく人さえいる。この本の内容を友人や知人に話してみれば、思いがけない人が 自分は内向型だと思っているとわかるだろう。 多くの内向型がそれを自分自身にまで隠しているのには、それなりの理由がある。私たちは、外向型の人間を理想とする 価値観のなかで暮らしている。つまり、社交的で先頭に立ちスポットライトを浴びてこそ快適でいられる、そんな自己を 持つことが理想だと、多くの人が信じているのだ。典型的な外向型は、熟慮よりも行動を、用心よりもリスクを冒すことを、 疑うよりも確信することを好む。たとえ悪い結果を招くかもしれないと思っても、すばやい意思決定を優先する。 チーム行動を得意とし、グループ内で社交的にふるまう。私たちは個性を尊重すると言いながら、ひとつの特定のタイプを 賞賛しがちだ。その対象は「自分の存在を誇示する」のを心地よく感じるタイプなのだ。もちろん、テクノロジー分野の 才能があって自宅のガレージで起業するような人なら、一匹狼だろうとどんな性格だろうと許されるが、それはあくまでも 例外で、そういう特例として認められるのは大金持ちか、そうなると約束されている人たちだけだろう。 内向性は、その同類である感受性の鋭さや、生真面目さ、内気といった性格とともに、現在では二流の性格特性とみなされ、 残念な性格と病的な性格の中間にあると思われている。外向型を理想とする社会で暮らす内向型の人々は、男性優位世界の 女性のようなもので、自分がどんな人間かを決める核となる性質ゆえに過小評価されてしまう。外向性はたしかに魅力的で あるがゆえに、押しつけられた基準になってしまっていて、そうあるべきと、大半の人々が感じている。・・・ 》 ▼ 戦国時代の、信長、秀吉、家康を、この性格分類からみると、信長と、家康は内向型で、秀吉は外交型になる。 家系と、家族と、連れ合いなどの環境も、大きく左右してくるが、豊かさと、知識も多分に影響してくる。 学生時代の、ある時期から、面白いように次々と小さな殻が壊れていった。その一つが、父親が私の牛小屋のような 寮に来て、その見窄らしい生活に驚き、仕送りを二倍にしてくれた頃に、欧州旅行と、ゼミの影響もあって、外交型に 自分が変化していった。当時、仕送りが二倍になるのは、日常が根こそぎ変わることでもあった。 ーつづく ・・・・・・ 4444, 過去の意味は変えられる 2013年05月17日(金) * 過去は変えることはできないが、過去の意味は変えられる 何気ないが心に響く言葉、「過去は変えることはできないが、過去の意味は変えられる」がある。 40年近い事業人生と、この結末を如何に受容するか。所詮は、人生も事業もバブルと、その崩壊過程の側面がある。 何事も始まりと終わりがある。その行蔵は残るが、変えることはことはできないが、意味は変えられる。 それは、自分が何を目指すか、楽観的か悲観的か、などで意味の捉え方で変わる。過去の意味(価値)を変えることは、 未来と現在に対する考え方を変える。過去を結果に言い換え「結果は変えることはできないが、結果の意味は変えられる」 として、人生、事業を総括すると多くの視点が見えてくる。現在こうして存在していることは奇跡である。 全てがベストであったから今の私が、ここに存在している。(この宇宙、地球、人間など全てだが) それでは「過去の意味を変える」とは如何なることか。意味に近い言葉に価値があるので、意味=価値として考えてみる。 価値とは、その人にとっての優先欲求、優先順位でもある。ということは、何を目指しているかに行きつく。 過去の価値は、現在の価値で解釈が変わって当然、作り変えられ、加工される? 歴史が、時間と共に解釈が変ると同じ。 意味には真実も含まれるが、その真実もあてにならない。当人が信じていること、それが真実といわれるケースが殆ど。 そこで、真実と意味を辞書で調べると ・【真実とは、虚偽の反語。本当のこと、偽りでないこと。歪曲や隠蔽や錯誤をすべて排したときに明らかにされること。 漢字の意味は、事柄の中身を開いて見たときに、実(じつ)として充満しているもの ...】 ・【意味とは、表現に対する「なかみ」。意図するところ。表現(結果)をさかのぼる真意、意図、目的。 ある現象(行為・言語・その他)に添付される、ある種の上位概念。】とある。 真実も、意味も、言葉の解釈で如何様に変わる。あるのは現在しかないとすると、過去は記憶でしかない。 その記憶も曖昧ときたら、成り立つ基盤は在って無いようなもの。「過去の意味は、現在の解釈で如何様にもなる」ということ。 ・・・・・・ 4070, 主義とは、内に貫く一つの信条 2012年05月17日(木) * 勇ましい、高尚の人生こそ最大の遺物! ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 「金も、事業も、文学も、思想も、これをもって最大遺物ということが出来ない。その訳は、誰にでも残すことが出来る遺物でないから 最大遺物ということが出来ない」と、内村鑑三は論じて、こう訴えかける。 『それでドウゾ、後世の人が我々に就いて此の人等は力もなかった。富もなかった。学問もなかった人であったけれども、己の生涯を めいめい持っていた主義のために送って呉れたと云われたいではありませんか。是は誰にでも残すことが出来る生涯ではないかと思います。』 ▼「内に貫く一つの信条」こそ、その人となりである。 私は、「人間として生まれたからには、人生を全うをすること」を信条にしている。 一度だけの人生、自分で納得できてこそ。納得出来なかったとしても、それも人生だが・・・ 主義とは言葉の通り、その人の主たる義。 内に貫く一つの信条を実践することが義である。他人の思惑など入り込む余地など、そこには微塵もないはず。 貫き通せば、勇ましく、 高尚の人生が、そこに残る。しかし、人間は所詮、動物の進化系でしかない。 勇ましい、高尚の人生も、見方でどうにでも解釈はできる。 そうとでも思わなければやってられないということ。やり抜くには刷り込みも必要である。その刷り込みを、いかに加工するかである。 * 長い期間にわたって不幸なのは、その人が悪い! 誰でも長い期間にわたって不幸なのは、自分が悪いにほかならない。 死も生も堪える勇気のない人も、 抵抗しようとも逃げようともしない人、こういう人にはどうしてやればよいのだろうか。 ーモンテーニュ『エセー』より ▼ どこにでもいる、不平家。 勝手に不幸と決め込んでいるから始末に悪い。悪いことに親から相続しているため直しようがない。 現実を全く疑い持たない一般にいう世間人間。いっけん純粋で素朴のため、世間幻想を現実と信じている。 まともに思考をしたこともなし。 傍によらないことだ。不幸、幸福など、これまた解釈の仕方ひとつ。 不幸の時期ほどベストのことが隠されている。ベストよりベターが良いモノと、信じているんじゃないのか、彼らは?いや、自分か? ・・・・・・・・ 3704,自己を見つめる −22 2011年05月17日(火) * 死について ー� 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 死に際し、結局は神に頼りざるをえないのが人間。絶対者への希求に行き当たるのである。 最後は絶対者の支えなしには、 人間自身が、己を支えることが出来ないのである。私という主体が死という終わりに、根本態度として神様無しにはいられない。 【 神の子であるイエス自身が、ゴルゴダの丘で十字架に架けられたとき、「わが神、わが神、なぜわ私をお見捨てになったのですか」と、 大声で叫んだ。 西田幾多郎が、言ったように、有限性の極みのなかで、その逆対応的に、絶対者への希求が現れてくるのである。 もちろん、その絶対者をどのようなものとして思い描くかという立ち入った内実は、宗教的信仰によってさまざまであろう。 しかし、そうした観念の根底に、すべてを知る者としての絶対者という概念が潜むことだけは明らかである。なぜなら、この現実の悲惨を すべて知り尽くし、その上で、さらに、それを裁き、審判し、あるいは、善き者を許し、嘉し、こうして、すべてについて、正義の秩序を 保持して、万物を支え、生かし続けるであろうところの絶対者というものの観念の根底には、その根本前提として、その者が、生起した いっさいの出来事を見抜き、知り尽くし、記憶し、けっして抹消されることのない全知のなかにこれを映し出す働きを行うということが、 予想されているからである。万物を知り、そのあるべき秩序を保持し、それらすべてを見抜いて、審判と恩寵を与え、そのようにして、 それらを本当の意味で生かす根源的な働きを行うところに、絶対者の絶対者たるゆえんがあることを、誰もが理解しているからである。 そうした絶対者が、実際にどこかに、この世界の内にか、あるいはその外にか、確固として、人間を越えて、現実に存在するかどうかが、 問題であるのではない。そうではなく、むしろ死の限界意識および、それと連なる人間の悲惨という事態の自覚を介して、私たち人間に、 懐疑と絶望と憂悶のなかで、それと矛盾するかのように、こうした絶対者への希求が湧き上がってくるという、その抑えがたい 祈願の強靭な根源性そのものが問題なのである。 そこに、絶対者の観念の生まれ出る根源があるということが大切なのである。 言い換えれば、死の問題意識は、こうした絶対者の観念を生む土壌であるという根本事実が重要なのである。おそらくは、そうした 絶対者の観念は、私たち人間自身の救いようのない現実意識の裏返しにすぎないのかもしれない。 しかし、私たち自身のうちには、 時を越えた不滅の全知の存在を要請する根強い希求が、最後の時に至るまで、燃え盛っていることだけはたしかである。 それが、人間の生存とその努力を内面から支える根拠をなしている。 その根拠への確信が引き抜かれるとき、おそらく、人間の生存は、 その究極の意味と支えを失い、人間自身が、崩壊するであろう。 人間の生存の営為が無意味でないためには、その精進と努力の いっさいを移ろうことなく見届け、意味づける絶対者の眼差しがどこかに存在しなければならない。 誰もが、みずからの心の奥深くに、 そうした絶対者の眼差しの影を宿している。そこに、人間の存在の、畏怖すぺき尊厳の最終根拠がある。 それは、死をも越えて光輝く人問の尊厳であり、人間をとおして瞬く絶対者の眼差しである。 ーP・291 】 ▼「死の問題意識は、絶対者の観念を生む土壌であるということが重要なのである。 絶対者の観念は、人間自身の救いようのない 現実意識の裏返しにすぎない」 絶対者の眼差しが人間には必要欠くべからざるである。大部分の凄惨な最後は、それを示している。 ・・・・・・・ 3339, 2011年新聞・テレビ消滅 −2 2010年05月17日(月) 「2011年新聞・テレビ消滅 」ー佐々木 俊尚 (著) 現在のマスメディア崩壊の原因の1つとしてメディアのプラットフォーム化の進展をあげている。 これまでは新聞社の社員が記事を書き、紙面をつくり、印刷し、それを販売店に届けた。 販売店も専売店としてネットワーク化されている。これを3つの層に分けて説明する(もとはグーグルの及川卓也氏の説)。 その3つの層とはコンテンツ、コンテナ、コンベヤというモデル。 ● コンテンツ=内容 ● コンテナ=内容を納める媒体 ● コンベヤ=媒体の流通経路 という形で説明している。 * これから旧来の新聞を分類すると、 コンテンツ=新聞記事 コンテナ=新聞紙に印刷された記事(新聞紙そのもの) コンベヤ=新聞販売店 となるが、 インターネットでニュースを読む層が増えてきた今は、 コンテンツ=新聞記事 コンテナ=新聞紙、またはニュースサイト コンベヤ=新聞販売店、またはインターネット と変化してきているとのこと。 * テレビだと、コンテンツ=番組、 コンテナ=テレビ、 コンベヤ=地上波、衛星放送、CATV。 これがコンテンツ=番組、コンテナ=ユーチューブ、コンベヤ=インターネット、という形に移行し始めている。 (字数の関係でカット 09年05月17日) ・・・・・・・・ 2964、「未婚社会」 2009年05月17日(日) 先日のNHKの特番「未婚社会」をみたが、収入に対して女性がシビアな現状に驚いてしまった。。 長期停滞景気などの時代背景が、そうさせているのだろう。 最近は男性の収入も少ない。 平均収入が200万円の男性が一番多いが、女性が男性に望む最低年収は400万円。 20代の独身男性で年収400万円以上は4分の1しかいない。男の非正社員の既婚率は正社員の約2分の1。 30歳になっても、この時勢では給料が右上がりにはならないなら、互いにミスマッチになる。セクハラを恐れて職場の女性に 近付けない男性の声もあった。それなら男は自分の趣味に没頭するしかない。女性の魅力も情報化で減少する。 法的に縛った現行の結婚制度に対する反対もあったが、頭でっかちの感も。ドイツの新しい制度が紹介されていたが特徴として (1)減税あり、(2)お互いに貞操の法的義務なし、(3)一方的に「結婚」を解消化が可能。 日本とは背景が違う。 未婚者増加の原因は「草食系男性の増加?」と、背景にワーキングプアの拡大がある。 いま、この国の若者の置かれている状況は深刻。 情報化社会も、結婚を躊躇する要因になっている。 ・女性の立場からみれば、豊かな社会がTVなどを通して入ってくる。そうすれば「金のない男と苦労覚悟で 何で結婚しなければ?」と疑問を持つのも当然。 ・男の立場からしても、「高慢な女性とワザワザ結婚するより、好きな趣味の世界を保っていたい」もの。 私たちの時代は、男は30歳まで、女は20歳半ばまで結婚するという世間的圧力があった。 しかし、現在では就職戦線が氷河期の中で、収入が大きな壁になっている。 渡辺淳一が昨日のモーニングショーで、草食系の現代の若者に対して「欲情の作法」を語っていた。 ・心を込めずに褒めろ ・テスティングをしろ(触れ、誘え)・片っ端から口説け 等々。 いちいち真面目に考えずにチャンスをつくれということ。 しつこくする、のは違う。 一時代前なら当たり前のことが、現在では教訓になる。男諸君、先日の週刊誌の見出しに「独身男は、9歳も早死にする」 とあった。 理想が高いのは解るが、自分を見つめなおして見切りをつけなさい!ということ。 しないよりは良い。 いや、どうか? 過半数は破綻するから、どうともいえないか〜? ・・・・・・・ 2600, 一点集中力 2008年05月17日(土) 「一点集中力 」伊藤 真 (著) 図書館で見つけた本だ。今さらと思ったが、借りて目を通してみた。著者が東大在学中に司法試験に合格。 その後、受験指導を始めたところ、人気講師になり、95年に「伊藤真の司法試験塾」を開設して「伊藤メソッド」と呼ばれる 革新的な勉強法を導入して、司法試験短期合格者の輩出全国トップクラスの実績を不動にしていると、著者履歴に書いてあった。 その彼の恐らく最も基本が一点集中主義なのだから、説得力のある本であった。表紙裏の紹介文は簡単にー何かを成し遂げる人は、 みな「一点集中力」を持っているーである。まだ憶えているが、小学校の5年生になった時、ある姉が勉強法を教えてくれた。 「いい点数をとりたかったら、一教科だけとにかく集中して一度良い点数をとってみなさい。そうすると、他の科目も良い 点数がとれるようになるから」であった。 そこで算数に狙いをつけて一番になってみた。そうしたら、他の科目も何時の間に 取れるようになった。これも一点集中だったのだろう。とにかく、やはり借りて読んでよかった。もし受験期の子供がいるなら、 迷いなく、この本を買って与えることを勧めます。 私自身の一点集中は、 ・この7年間は、この随想日記を欠かさず書き上げること。 ・秘境ツアーに行き続けること。 ・良い習慣を少しずつでも付け加えること。それ以外で捨てること。 私も一点集中ということに関しては、知っていたつもり。 「錐の先の一点集中のエネルギー」「レンズで太陽光を一点に集中し発火させる」等々 戦略・戦術のまず第一歩である。それを兵法でといたのが「孫子の兵法」である。 まあ自分の話は、この辺にしておいて、 ーこの本の印象に残った部分を抜粋してみようー (字数の関係でカット 12年05月17日) ・・・・・・・・・ 2007年05月17日(木) 2235, 男は女のどこを見るべきか ー2 (゚∇^*)オハヨ♪ ー岩月 謙司 (著) 第四章 女性は記憶をかいざんする がなかなか面白い。この歳になり初めて知らなかった女性の心奥の魔性の一部を 垣間見た思いがする。一番身近な家内の心の内の未知を幾つか知って驚いた箇所があった。 なるほど男の知恵と女の知恵は大きく違う。まあ、それが良いのだろう。 *記憶の改ざんについて* 特に記憶の改ざんについて、なるほど思い当たる部分があまりにも多い。 女兄弟や女性の職場にいたこともあり、 多くの特性を把握していたつもりであったが、所詮は男の立場の理解でしかなかった。 (字数の関係でカット 09年05月17日)
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2014年05月16日(金)
<内向型人間の時代> スーザン・ケイン著 * 内向型人間かどうかのチェックリスト 私は、あまり外交的ではない。だから、事業創業の人生を選んだのである。 この書の冒頭にあった内向型リストで、○✖▽で、チェックしてみた結果、 20のうち、13が○、✖が3、どうだろう?▽が4で、明らかに内向的人間である。 家内は明らかに外交的人間と思っていたが、○が15に、✖が3、▽が2で内向的人間には驚いた。 専業主婦ということもあるが、驚きである。 ー以下、左が私、( )が私から見た家内である。 ーまずはチェックリストからー 日本人、特に地方、北国は8〜9割は内向的人間? ○グループよりも一対一の会話を好む ○ (▽) ○文章のほうが自分を表現しやすい ○ (✖) ○ひとりでいる時間を楽しめる ○ (○) ○周りの人にくらべて、他人の財産や名声や地位にそれほど興味がないほうだ ○ (○) ○内容のない世間話は好きではないが、関心のある話題について深く話合うのが好きだ。○ (○) ○聞き上手だと言われる ○ (▽) ○大きなリスクは冒さない ✖ (○) ○邪魔されずに「没頭できる」仕事が好きだ ○ (○) ○誕生日はごく親しい友人一人か二人や、家族だけで祝いたい ○ (○) ○物静かだ」「落ち着いている」と言われる。 ○ (○)
○仕事や作品が完成するまで、他人に見せたり意見を求めない。 ▽ (○) ○他人と衝突するのは嫌いだ ▽ (○) ○独力での作業で最大限の実力を発揮する。 ○ (○) ○考えてから話す傾向がある ○ (○) ○外出して活動したあとは、たとえそれが楽しい体験であっても消耗したと感じる。 ✖ (✖) ○かかってきた電話をボイスメールに回すことがある。 ✖ (✖) ○忙しすぎる週末よりも、なにもすることがない週末を選ぶ ○ (○) ○一度に複数のことをするのは楽しめない ▽ (○) ○集中するのは簡単だ。 ○ (○) ○授業を受けるとき、セミナーよりも講義形式の方が好きだ。 ▽ (○) ▼ 意外なことに、アメリカ人でさえ、2〜3人に1人は、内向的人間という。事業人生を30年以上、たずさわり、 人との接触が多い仕事もあって、外交的部分も多かった?反面、嫌な場面へ行かないで済む、自由もあった。 逆に仕事上、内向的姿勢も求められたこともあった。 家内の友人に、極度の内向型人間がいて、その話を度々、 聞くことがあった。内向的にも、暗いのと、明るいのがいる。冷たいのも、温みがあるのもいる。 携帯パソコンが一般に普及した中、情報選択と決断が重要になっているが、この時代だからこそ内向型人間の時代、 というのも、説得力がある。ヨガブームというが、週二回、26ヶ月、参加して、成るほど、内向き、精神性の時代が、 実感できる。 高齢者は、どうであれ、内向きになりざるをえない。 ーつづく ・・・・・・ 4443, ヨガと座禅の違い 2013年05月16日(木) 毎週二回、スポーツジムの「ヨガ」に参加して14ヶ月、百回はゆうに超えているが、回数を重ねるたび、身体も、 気持ちも解れていく。学生時代に野狐禅だが、六日町の雲頓庵で持ち込んだ卒論の種本を読みながら、合間に広い禅室で独り 座禅を組んだことがあった。ただシーンとした中、「直ぐにでも止めようか」という気持ちと戦いながらのたった独りの座禅は、 永平寺での一瞬気持ちを緩めれば、禅僧に叩かれる状況より辛い。誰もいないため、直ぐ止めたい誘惑との闘いになる。 ヨガで仰向けになり全身を弛緩する「死者のポーズ」があるが、これは座禅の禅定に似ている。飛行機内の座席で、 耳栓をして姿勢を正し、次々出てくる思いを泡のように流していると、何かのゾーンに入ってしまい、10時間以上の 時間がアッという間に過ぎてしまう。ヨガは、瞑想で心を解すのが目的で、禅は、その状況から仏の悟りに近づくことにある。 ーヨガと座禅の違いをネットで調た中で、納得にいった3つをコピーしてみるー 《人は疲れたときに目をつぶる事がある。そこで何かを思い浮かべながら瞑想にふける。この繰返しがヨガという。 このヨガはもともと「軛(くびき)」ということで、牛に車を曳かせる腕木を指した。これが次第に神の力に人間を 結びつけることを意味するようになり、その修行法として智慧、愛、行、瞑想が重視された。一般にヨガと呼んでいるのは、 このうちの瞑想による神人合一の方法である。このヨガは紀元5世紀ごろには「ヨーガ・スートラ」を根本経典とした ヨーガ派が独立してさかえ、完全性をそなえたひとつの霊魂を最高神としてあがめた。このヨガの修行法が仏教にも 広く取り入れられてきた。それが坐禅につながっていく。》 《 ヨガと坐禅は、まず姿勢を正して、呼吸や五感(眼、耳、鼻、舌、身)を整え、誘惑をさけ、精神統一するのは どちらも同じ。ヨガは、これによって初めて超自然的な力が得られ、対して禅は「禅定」に深くかかわり、静けさを求める。 禅とは(ジャーナ、禅那)という梵語の音写で、釈尊の悟りを追体験して”身心脱落”し仏の境地になりきり坐禅をすること。 禅は「無」を標誘し功徳や利益を求めない。ひたすら足を組んで坐禅をすること。ヨガは神人合一して身心の健康を増進させる。》 《ヨガは、インドに古くからあり、ウパニシャッドと言われる古代インドの哲学書にも出てくるもので、瞑想や呼吸法、 座法などによって心身を鍛える事で、心の動きを抑制する方法として古くから用いられた。 後に、ヨーガ学派という 哲学集団によって、解脱への実践方法として体系化されていったと言われています。そして仏教においても、このヨガは 悟りへの実践方法として用いられ、釈尊も、瞑想によって真理を悟ったと言われますし、「瑜伽行」という修行法として 確立されました。現代のヨガも、もともとはそのインド独特の修行法をアレンジしたものですから、仏教の修行とヨガとは、 出発点は同じであると言えるでしょう。違いと言えば、仏教における修行は、さとりを目指す為の方法であり、現代のヨガは、 心身の健康維持のためのもの、という点でしょうか。座禅とヨガとの関係についてですが、ヨガは、座法や呼吸法を盛り込んだ、 精神統一の方法でありますし、「禅」といいますのは、「禅定」つまり精神統一をし、真理を観察することであって、 「座禅」は座法や呼吸法を用いた「禅定」一つの方法ですから、根本的な部分で同じ要素を持つものと言える。》 ▼ ヨガは座禅と出発点が同じ「座法」「呼吸」を盛り込んだ精神統一の方法に対し、座禅は精神統一を通して真理を 観察するもので、少し意味合いが違っている。腰痛持ちの私にとって、週二回のヨガは腰痛緩和の自己マッサージ治療。 私の腰痛は完治はないが、仲良くするのは可能。その方法がヨガの中に多くある。手軽なベストの場が見つかったもの。 たまたまー「早朝座禅」山折哲雄著ーを見つけ読んでいるが、数日前から、30分早く起き、早朝座禅を取り始めたが、 これが良い。4時から7時までは、正にゴールデンタイム。60年以上溜まった毒出し、矯正の時間でもある。 ・・・・・・ 4069, お金と神 ー2 2012年05月16日(水) * 「お金=信用」と、「神=信仰」は同じようなもの 〜� ー「お金の執着」が経済を狂わせるー小野善康 より お金の本質に関して多くの本を読んで考え続けてきた。ここで、お金と神の本質を同定し分かりやすく書いている。なるほど、人は 心情的に多くの金を持ちたがるはずである。とはいえ、それは心情である。傍に迷惑をかけない範囲で、自分の好きなことに時間をかけて 使うべきである。通帳にあるのは単なる数字の羅列。その辺りの知識がないと必ず後悔する、それが人生である。 ーまずは抜粋ー ≪ 一方、お金はどうか。人は物やサービスという実体を消費して、生活している。経済は、それらを効率よく手に入れるため発達してきた。 多種多様な物欲と技能を持つ人びとが、それぞれの能力を最大限発揮して、生活を物的に豊かにするためには、自分の得意な物を作って、 他人が得意とする生産物と交換すればよい。それによって、自給自足では望めなかった生活永準を実現することができる。そのための 交換の場が市場であり、お金は交換手段として生まれ発達してきた。 物々交換では自分の欲しい物を相手が持っているとともに、 自分も相手の欲しい物を持っていなければならない。経済学で言う、交換における「欲望の二重の一致」である。このとき、誰でも普遍的に 欲しがる物があれば、交換手段として最適である。二重の一致が一重で済むようになり、いつでも自分の欲しい物と交換できるからである。 そのため、宗教が雷や山から始まったように、お金もはじめは、それ自体が安定した実用価値を持つ米や金銀などであった。 しかし、交換機能だけを考えれば実用価値などいらず、信用だけで十分である。持ち運びや保管には、かえって実体として機能は邪魔になる。 そのため、金銀の代わりに大銀行の金銀預り証が紙幣としての役割を持ち始め、20世紀に入ってからは金銀との交換性とも切り離されて、 純粋に交換手段の不換紙幣が定着した。しかし何の価値のない紙幣を流通させるのに、信じ込ませることが必要である。それが信用である。≫ ▼ 金も、社会的価値として信用出来るから流通するのである。それ(交換手段としていた金)が、いつの間にか、将来の不安を解消する手段に すり替わってしまっていることに人は気づかない。 金は使うべき時に使うのが道理ということ。 何で人は、お金を残して死ぬのだろう? 死後に残された金は、あくまで死の不安の遺物。しかし交換手段の額が大きいほど、自由になる幅が広くなることは確か。が、それも幻想。 やりたいことをするのが自由である。何がしたのかをハッキリさせて使ってこそ金(自由)の効用が生きてくる。 貯めたは貯めたで、 金に未練を持ったまま死んでいく。つくづく、人間は頭が変である。自分の好きなことをして行蔵として残せばよいものを。 100億円遺した人と、100億円使い果たした人と、どちらが面白かったかをみれば分かること。人間両手に持てるのは2千万まで! ・・・・・・・ 3703, ジャズについて −3 2011年05月16日(月) ー 「音楽の本」三枝成彰著 より アームストロングとバイダーベックといえば、私が学生時代の1960年代後半は現役で、ラジオやTVで見かけていた。 当時の部屋にはステレオがあり、アームストロングのレコードを何枚か持っていた。 この著書で、彼が集団即興演奏を、 ソロ中心のスタイルに変えた役割を果たしたことをしった。 当時の、あのシワガレ声は、今でも脳裏に焼きついている。 近々、近くの図書館に二人のCDを探しにいくことにした。あると思うが・・・ 【 * 〔 シカゴ・スタイルの中心、アームストロングとバイダーベック 〕 ジャズといえば4ピートのリズムを刻むのが大きな特徴だが、それが確立されたのは一九二〇年代のことである。 この時代、腕の立つミュージシャンが集まったのがシカゴだった。シカゴを代表するジャズメンといえば、当時は若きコルネット奏者として ニューオリンズからやってきたルイ・アームストロング(1901〜1971)である。 彼がジャズ史上に残した最大の功績は、それまでの ジャズの集団即興演奏スタイルを、ソロ中心のスタイルに変えたことだ。他のミュージシャンもこの時期、同じ方向を目指していたが、 アームストロングの才能は圧倒的だった。1925年には自らのバンド「ホット・ファイブ」を結成し、やがて楽器をトランペットに持ち変え、 「ウエスト・エンド・ブルース」をはじめキラ星のごとくジャズ史上に輝く名演奏を残していく。 同時に、独特のしわがれ声に深い情感を たたえたボーカルも評判となり、1926年の、「ヒービー・ジービーズ」では軽快なスキャットボーカルを初めて披露した。 30年代初めにはヨーロッパ・ツアーを敢行し、‘世界のサッチモ’となる。第二次大戦後はビッグバンド演奏をバックに従えた エンターティナーとして、もはやジャズの枠にとらわれない活動を展開する。 もっとも、初期ジャズの優れたミュージシャンは、 黒人ばかりとは限らない。 1919年、アイオワ州ダヴェンポート。ドイツ移民の一家の次男坊が、ディキシーランド・ジャズの レコード(兄貴の除隊みやげ)に夢中になっていた。やがて彼は、親兄弟の反対を押し切り、シカゴ周辺でコルネット奏者として 身を立てることになる。 この白人男、ビックス・バイダーベック(1903〜、93、)こそ、ルイ・アームストロ・ングに負けず劣らず、 多くの後進に影響を与えた天才ジャズメンである。 これこそ、白人ジャズマンの始祖である。ユニークなアーティストである ライ・クーダーのアルバム『ジャズ』でも、、インナ・ミスト」「きらめき」と、彼が残こしてくれた美しい音楽を聴くことができる。・・】 ▲ 歴史はクラシックと比べ、短いが、黒人の虐げられた歴史が背景にあるため、その奥行きは深い。 その背景を、知って聴くと聴かないとは、雲泥の差が出てくる。特に日本の戦後は、アメリカ文化に大きな影響を浮けた。 プロ野球に、ハリウッド、そして、ジャズにブルース。特に私の青春時代は、その最たるものだった。 ・・・・・・・・ 3338, 2011年新聞・テレビ消滅 −1 2010年05月16日(日) 「2011年新聞・テレビ消滅 」 佐々木 俊尚 (著) プロローグからして、刺激的な内容である。 ≪・・最初に言っておこう。2008年からアメリカで始った新聞業界の地滑り的な崩壊は、3年遅れの2011年、日本でも起こる。 アメリカで起こった現象は、ほぼ日本で3年遅れで起きている。 それからして来年の2011年は、テレビ業界にとって二つの 大きなターニングポイントの年である。アナログ波の停止による完全地デジ化と、情報通信法の施行だ。この二つの転回点によって、 これまでの垂直統合モデルが剥ぎ取られ、電波利権はなんの意味をもたなくなり、劇的な業界構造転換の波へとさらされることになる。 何社かは破綻し、業界編成が起こるかもしれない。もちろんそれ以降も、企業としての新聞の一部は生き残っていくだろう。 しかし、そうやっていきのびた新聞社やTV局は、もうマスメディアとはいえない別の存在になっているだろう。 その先に何が待ち受けているのだろうか?≫ ▼ この本を読んで尚のこと、日本でもかならず起きると確信してしまった。 現在、百貨店を見ればわかること。 誰が5年前に伊勢丹が三越を、大丸が松坂屋を、ヨーカ堂が西武・ソゴウを、阪急が阪神を、救済合併をするとは 思ってもいなかった。 さらに数年内に、さらに高島屋も含めた再統合が始る。 その後塵がマスコミ業界で始る。さらに、iPadなどのタブレット式パソコンの 普及が、紙からの移行を劇的に早めることになり、それがフリー (限りない無料化)を推し進めることになる。 著者は、 「これはマスコミのぬるま湯体質とか金融危機が原因でもない。大規模スーパーやビールメーカーの価格決定権の喪失ことではない」という。 現在、日本いや世界で起こっている行き詰まりと原因が同じような気がする。 TV局の最も大きな果実であるTV広告はネットなどの プラットフォームに奪われる。コンテンツ企業としては現在の制作会社と同程度ぐらいまで縮小せざるをえなくなる。それでは、新聞社は? というと、無料モデルに呑み込まれ、コンテンツを有料化していくことが、ほぼ不可能になってきており、この業界の未来は最も暗い。 電子書籍のプラットフォームへと参戦する選択肢があるが、ここには、アマゾンやキンドルという強敵が控えている。 ーつづく ・・・・・・・・ 2963, ディズニーランドとディナーショー 2009年05月16日(土) 先日、地元長岡の300人のディナーショーについて書いた。 「直感的にディナーショーの会場の雰囲気がディズニーランドと感じたが何故?」と考えてみた。 ディズニーランドは遊園地。 家族、友人が連れ立って浮世から離れ異次元の世界を楽しむ幻想の世界。その辺がディナーショーと同じと感じたのだろう。 女性達が最高の御洒落をし、仮想(仮装)を楽しむところが酷似している。ディズニーランドの御人形に自分がなってしまうところがミソ。 その点では、ベニスの仮面舞踏会の方に近いか。一万円でディナー付きでショーを楽しんだ上に、互いの着飾った姿を楽しめるのだから、 これはこれで良い。それも小さな地方の街で、300人も集合したハレの世界である。最近、「共同幻想」という論を知った。 そこに「共同幻想、他幻想、自己幻想」というのがあった。全てが幻想でしかないなら、仮装をすれば良いのである。 服装は、第二の皮膚というなら、可能な限り良いものを着ればよい。虚飾も、それまた「虚飾した自分」である。 全てが元々幻想でしかないのだから。ただ、解った上で幻想を楽しむことだ。人生は楽しめるうちに楽しんでおくこと。 また、笑えるうちに笑っておくことである。 そう思えるようになったのは、歳をとったということだろうか? 聞くところによると、300人のディナーショーは、地元では珍しいという。あれだけの女性を集めるというと、色いろな 難しい点があるはず。あの人と同席は嫌だとか、隅は嫌だとか、女は難しい。ディズニーランドというより、ズーの世界に近い。 それも固定化された城下街のこと。 私の知らないことだが、キメの細かいカースト制度(身分社会)があるのだろう。 誰々は銀行の重役とか、お医者様の奥様とか、今はときめく新興ソフト会社の社長婦人とか。 その渦巻く社会のアッパーが凝縮した世界を「御伽話」として、現に見ることができたのである。 まあ、そういうこと。 ミッキーマウスは、チャップリンからきているというが・・・ ・・・・・・・・・ 2599, 楽天主義とは 2008年05月16日(金) こういう先行き不安定の時、せめて気持ちは楽天的でなければせっかくの娑婆、勿体ないではないかと思う日々である。 そこで楽天主義を フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で調べてみた。 ≪ 楽天主義とは、optimismの訳語のひとつ。哲学上では最善説と訳される。対義語は悲観主義。ライプニッツの予定調和を主張する 「最善説」に由来する。ライプニッツは、現実世界は可能なすべての世界の中で、最善のものであると考えた。 かれはまず想定可能なすべての世界を考える。しかし、このうち、内部に論理的な矛盾を孕む世界はそもそも現実化可能ではない。 そこで、この共可能的な事象の組み合わせからなる複数の可能な世界のうち、どのような世界が(神によって)実現されたかが問題。 (字数制限のためカット 2014年5月16日)
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2014年05月15日(木)
「ある明治女性の世界一周日記―日本初の海外団体旅行」野村 みち (著) 何気なく、図書館内を彷徨っていたら、この本が目につき借りてきたが、現在の朝のNHKの連ドラの 「花子とアン」の、出身校の東洋英和女学校出身とあったことも借りる動機にもなった。そして、読んでみて、 面白いこと。ランダムに、どのページを開いても、その日その日の、本人の視線が、そのまま直に伝わる。 ーAmazonの内容紹介よりー 「母親からの厳しい「良妻賢母」教育と共に、東洋英和女学校でキリスト教と英語という新しい教育を受けた 明治の女性、野村みち。豊かな感性と柔軟性で、真摯に、率直な心情を綴った世界旅行記。」 ーレビューよりー 《 元横浜YWCA会長を務めた野村みちの「世界一周日記」。若い頃から洋行に憧れを持っていたことが書かれていた。 その「世界一周」は、1908年3月18日から96日間にかけて行われた。冒頭に旅のルートが掲載してあり、米太平洋郵船 会社のモンゴリア号で横浜港を出港し、ハワイを経由し、サンフランシスコ、ソルトレークシティ、シカゴ、ボストン、 ワシントン、ニューヨーク、英国ホワイトスターライン社のセドリック号で大西洋を渡り、ロンドン、パリ、ローマ、 ナポリ、ヴェネチア、ベルリン、サンクトペテルブルク、モスクワ、シベリア鉄道を利用してウラジオストック、敦賀に 帰ってくるという世界一周旅行です。一行54名、女性3人。 筆者の夫は、横浜の実業家・野村洋三氏で、外国人相手の古美術商のサムライ商会を営んでいました。 本町通りにあったサムライ商会は横浜の古い写真集を見ていると必ず登場するようなエキゾチックでユニークな 外観をしています。258ページに写真が掲載してありますので。筆者の家族の写真や世界一周時の集合写真も掲載してあり、 文章だけでなく当時のイメージが理解できるようになっていました。旅行中の装いも和装で通す意味合いも書いてあり、 このあたりに聡明さが伺えます。アメリカのルーズベルト大統領との謁見や、パリで名バイオリニストのサラサーテの 演奏を聞いたことも記されています。 巻末に番外編として「野村みちとは」と題する生涯を、北川原美乃さんが25ページにわたって紹介していました。 戦後すぐマッカーサーが占領下の日本で初めて接した民間人が野村夫妻だったことも書いてあります。そのような生き方を 貫いた女性であることが分かる書でした。》 ▼ 100年前の96日間の世界一周日記、そこに女性が3人、加わっての旅行、それは大変だっと思われるが、幕末、 明治初期の一女性の目で見た当時の、外国への視線が面白い。長年にわたり、多くの人が様ざまな経験をして記録に 残されているのに、改めて感心する。情報端末がノートしかない時代に、その人の記録が逆に、生々しさとして、 後世の者の心に訴える。横浜で外国人相手の古物商をしていたため、カルチャーショックは、さほど、無かったようだが、 そうでなかったら、その参加自体してなかっただろう。 ところで、居間の座椅子の横に、二年以上も、「世界の旅行記101」が置いてあり、毎日、数分間、読んでいる。 2〜3ページに要約した101の旅行記が、それぞれ何人かが分担して書いてある。ところが、どれもこれも、重いため、 せいぜい、一日、数分しか読めないが、それでも門前の小僧で、少しずつ、階段を下りるように、何とか読んでいる。 それらから比べれば、ツアーで内容が軽いが、それ故に、親近感がわいてくる。 世界は広く、それぞれが深い! ・・・・・・ 4442, 閑話小題 ーリタイア後の幸せ度 2013年05月15日(水) * リタイア後の幸せ度 退職後の幸せ度は、一番高いのは創業者、二番目は違う会社で勤めている人、三番目が、そのまま再雇用している人、 最後は、そのままリタイアした人、という調査結果がある。一番高いのが創業者は自分が、そうだから分かる。それも、 私のように会社を倒産させた人がいうと、強がりにように聞こえるだろうが、複雑な実感である。 挫折感より遥かに達成感が強いことは確かである。 自己完結してキレイサッパリするから。意外なのは、完全リタイア組の 幸福度が一番低いこと。長年かけたライフワークを持ってないためだろう。「自分が、まだ有用の存在でいたい」のか。 後は、解釈になる。収入の関係もあるのだろう。幸せの感じ方は様ざま。 鼻歌でスキップしていくしかない? そのためには、少々のお金と、知恵と、意欲が必要である。一番の問題は、やはりお金に行き当たるのか。 * 節目を超えたようだ! 昨日、もう一つのブログ《バードウォッチ》に。「一月ほど前か、現在の自分と娑婆に対し、底知れぬ可笑しさを感じて、 知らずに独り腹から笑っていた。これで節目を乗り越えたようだ。こういうのをアップスケール(脱皮)という。独り万歳! あとは、心置きなく流しの遊びの世界で我を忘れればよい。割り切るのに、やはり二年。節目としての4分割の最後のシリーズ。 心の還暦になる」と書いた。50歳になった時が、これかと思ったが・・、もう一破壊が必要だったようだ。そして少し楽しめ! ということになる。まだまだ重いし、最近、何事にも面倒が先に立つ。ただ、バイアスが日ごと取れて好奇心が強くなっている。 遊びに対して、まだまだ修行が足りないようだ。 「節目を打て」というが、なるほどである。 (後記)ところで偶然だが、去年の以下の文章が、これに連動していた。面白いもの。決して傷は浅くないということか!
・・・・・・ 4068, 疲れたら憩がよい、彼等もまた、遠くにはゆくまえ! 2012年05月15日(火) * 挫折について ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より ≪「人間のプライドの究極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事があります、と言い切れる自覚ではないか」 (太宰治・〈走れメロス〉)という科白もある。これなぞは負の体験こそ人間に正当な自負心を与えうる唯一の立脚点ではないかと、 負をプラスに転化しているのだ。・・・たえず自分の弱さや、醜さや、愚かさを思い知らされているというが、それがしかし、 自分というものを知る第一歩なんだ。そして自分の悩みを知ることを通じて以外にどうして他人を知ることが出来るのだろう。 その点からいえば君の悩みは、まだ浅すぎるかもしれない。自分はもっともっと悩むべきだ、と考えてみる必要があるかもしれない。 「ひょっとして、人間が愛するのは、太平無事だけではないかもしれないではないか? 人間が苦痛をも同程度に愛することだって、 ありうるわけだ。いや、人間がときとして、恐ろしいほど苦痛を愛し、夢中にさえなることも、間違いなく事実である。」 (ドフトエフスキー「地下室の手記」より) ・・・世に文豪と呼ばれるほどの人びとの書いたものを読めば納得できよう。 彼らが作品に描いてみせた人間的苦悩の深さは、とても凡人には耐え難いほどだが、そういう深い苦しみ苦悩を通じてこそ彼らは、 その反対に光り輝く美や愛や幸福やを、あれだけ深く生き生きと感じることができたのだった。・・・ 「疲れたら憩がよい、彼等もまた、遠くにはゆくまえ!」(尾崎一雄「痩せた雄鶏」) おそらく挫折して世に出れなかった日々、 尾崎さん自身、この言葉を自分に言い聞かせ、じっと耐えていたのだろうと思う。 ≫ ▼「死ぬほど苦しんだと言い切れる自覚がプライドの立脚点」には考えさせられる。負の体験を現在しているが、 これをプラスに転化にするには、結果から、原因を徹底的に見つめなければならない。まだ、悩みが足りないのは分かっている。 しかし、盛んだった日々の光りがあれば闇もあって当然と思ってしまう。幸せも、不幸も解釈次第。死んでしまえば、全てチャラ! だから人生は面白い。負の節目が挫折になるが、プラスの節目もある。しかしマイナスの節目ほど次のステップには効果的である。 ・・・・・・・・・ 3702, 自己を見つめる −21 2011年05月15日(日) * 死について ー� 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 【 元気旺盛のただなかで、突如、不治の病を宣告された人は、初めは死を、不条理な運命として呪誼し、憎悪し、拒否するが、 次第にやがて、その苛酷な宿命を受容して、死を覚悟し、承認するようになるという心理学的研究も存在する。 人間が死と立ち向かう心理的状況は、種々様々である。 死を迎え入れ、その定めを覚悟し、その準備を整える用意は、 憂き世の終末に向けて身辺を整理することを含む。 そこには、種々雑多な俗世間的な事柄が絡みつくが、それらはみな、 老境の責務だとも言える。 ありうべき介護や臨終、葬儀やさまざまな後始末、それらをすべて、何らかの仕方で見越しながら、 誰もが、終末に身構えざるをえないのが、死にまといつく憂き世のしがらみである。 たいていの日本人なら、死んだら、草場の蔭から子孫を見守り、お盆には憂き世に帰り、生者と交わることを望み、しかし やがて年月が経てぱ、往時茫々、すべては諸行無常のなかに消え去ってゆくのがこの世の定めだとして、それを、詮方ないことと 心得る諦念を、心中密かに保持しているであろう。 あるいは、永遠の生命の流れとしての浄土に、自己が繋がり、久遠の仏性に 救い上げられるという強い信仰をもつ人もあるかもしれない。 さらにはまた、西洋からの宗教思想の影響のもとで、死に際して、 神の恩寵と審判が下され、裁きが行われるという終末観を抱き、神に救済されることを祈って、日夜、信仰と精進に励んで生きる、 敬謙な人々も存在するであろう。 死という終わりに直面する私たちが抱くさまざまな不安や、懐疑や、憂悶や、希望や、希求や、 欣求には、果てしがない。 それらの種々の想念と気遣いのすべては、いかに人間が、死の影のもとに、蜉蝣のような自己の身の上を、儚いながらも、 充実した有意義なものとして構築して生きようとするかという、胸痛む事実を、告知している。人間は、徹頭徹尾、 死の影のもとに生きる存在者なのである。 この憂悶にみちた現実が、人間の生存の真実である。】 ▼ 結局は、大部分の人にとって壮絶な死に際が待ち構えているが、敢えて知らないふりをし、日々の細事に気を紛らわせるしかない。 それも、物心とも準備を怠ってきた人は、ただ動転し、目先を辛うじて生きるしかない。その結果、事故や、争いに巻き込まれ、 老醜を曝す結果となりがちでなる。それは、家系とか、持っている体質にも関係してくる。やはり人の死は大方悲惨と覚悟をすべき。 問題は、当の本人が、それに独り直面し、ギリギリの極みの中で、苦痛の中で最期を向かえ、意識が消えていくことである。 ・・・・・・・ 3337, サイバーとは超格差社会 2010年05月15日(土) ー「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) ー8 * サイバーとは超格差社会 ー まずは、その部分を抜粋してみる ー P−236 私は過去のコラムで「サイバーとは超格差社会」と書いたが、一方でこれは持たざる者、立場の弱い者に大きな恩恵を もたらすものだとも考えている。 その格差といえば情報と知恵の差である。仮に判らないことがあっても質問できる双方向性。 実はこれこそがサイバーの最大の特徴でもある。そこから自然にコミュニティが生まれ、互いのノウハウを交換しあうことによって 更に自らを高めることができる。電子町内会の誕生である。 こうしたことも、かつてなかったスタイルの「恩恵」であろう。 サイバー社会の格差を埋めるのもまたサイバーなのである。 この事実に我々はもっと注目すべきだ。 なのに現状、インターネット上の最大の産業がポルノ、またはポルノまがいのコンテンツになっているのは情けない話である。 「あらゆる技術は軍事目的で開発され、ポルノ目的で広まる」ともいうから(写真もビデオも、もちろんインターネットもそう)、 ある程度は仕方がないことなのかなとも思う。 しかしインターネットが我々の身近なものに降りてきて10年あまり、 そろそろ次の段階にステップアップすべきなのではないか。 「次の段階」、それは前述したように人々が学び、情報武装して賢明な市民となり、甘言を弄する政府の嘘を見抜き、 健康で文化的な生活を生涯に渡って維持することである。 そして、そのためにこそサイバーを有効活用することだ。 サイバー社会が人に恩恵をもたらすものである限り、私はそこを自らの事業ドメインとして関わり続けていこうと考えている。 ▼ 現在、サイバーに対してマイナーの視点で論じる傾向があるが、負け犬の遠吠えでしかない。 弱い立場の者に大きな恩恵をもたらすが問題は知恵である。 知恵と才覚があれば、その中で格差を埋めることが可能である。 そのためには哲学の基礎も必要になる。 哲学をもってネットを使えるかどうかで、その差は大きく左右する。 考えないでネットにハマッタら、底なしのバカ?になる。 HP・ブログに10年前に気持ちを集中してなかったら、 良し悪しは別にして現在の世界観とは全く違っていたはず。これからiPadと簡易ブログのツイッターが爆発的に普及した時に、 この蓄積は何ものにも変えがたくなる。 知らないうちにサイバーに移動していたことになる。 ますます情報=通貨の度合いが強くなる。恐慌も含めて、こんな時代が見れるとは思ってみなかった! ・・・・・・・ 2962,若者たちは今 −2 2009年05月15日(金) −若者が危ない!ー いつの時代にも「今時の若者は」と言われてきたが、少し前の経済週刊誌に「現在の20歳代が危ない」という特集があった。 その特徴として、 ・上昇志向なし ・10歳代で「失われた10年」を経験 ・二年で3割離職 ・20歳代前半の43パーセントが非正規社員 ・親との同居率6割 ・職場に不満は過半数 ・海外志向のない若者が半数 ・あまりモノを買いたがらない 等々である。 今さらだが、彼らには弱肉強食の意識が欠落、若いときに辛い体験をして、それをバネにして上を目指そう という気持ちが欠落している。韓国、中国などの若者に比べて、全く人生に対する姿勢が劣っているようだ。 例の「ゆとり教育の犠牲者」なのである。 こういうマイナスの回転に引きこまれた世代は、何処までもマイナスが ついて回るのだから、気の毒といえば気の毒。我われの世代が逆にプラスの回転だったから、それが鮮明に見えるのである。 (以下、字数の関係でカット11年05月15日) ・・・・・・・・・ 2598, 中国の地震について 2008年05月15日(木) 中国の地震は、死者行方不明は十万人以上の可能性も出てきた。産経新聞が行方不明9万人と報道していたが、 まだ真偽は解らない。中越、中越沖地震がマグネチュードが6・8、今回の中国の地震が、7.8 。 震度が一違うと32倍というから、いかに大きな地震だったか!が推測できる。 32年前の文革真っ只中に24万人の死者の地震があったというから、日本の最近の地震とは規模が違う。 この地震もも、マグネチュードが7・8だったという。最近は誰もがデジカメか携帯電話のカメラや、ビデを撮ってしまうから 情報管制は難しい。連日、生々しい写真が出始めいる。スマトラ沖地震と、ミャンマーのサイクロン、そして、 この地震と大規模の災害が続いている。それも中国にとって華やかなオリンピックの聖火リレーの最中に。 (以下、字数の関係でカット09年05月15日) ・・・・・・・・・ 2007年05月15日(火) 2233, しお壷の匙 ー2 (´∀`σ)σ オハYO! この中の「銭金について」の上司の言葉と、本人の動揺が面白い! 「学生気分が抜けない頭でっかち」を注意された時の カルチャーショック。誰もが一度通らなければならない精神的脱皮の時である。働くとは何か?金を稼ぐことである。 生きるためである。そして、その中に生甲斐を見出していくことである。一度、徹底的に自分を破壊して、金を稼ぐプロとして 再生しなければならない。これが三年目にくるか、十年目にくるか、それぞれ違うだろうが。 ーまずは、その部分を抜粋してみるー 「・・ある日、私は上司に呼ばれ、きみはまだ学生気分が抜けていないんじゃないか、お世辞、お愛想の言い方がへただ、 と注意された。突然のことに当惑していると、上司は自分の机の抽出しから一冊の本を取り出し、いきない「これは何だッ。」 と呶鳴った。見れば、それは私の本だった。当時、新潮文庫の一冊として上板された、プラトーン・田中美知太郎訳 「ソークラテースの弁明」であった。私は己れを慰めるためにそれを書店で求め、通勤の往き帰りに電車のなかで読んでいた。 上司はそれを私の机の中から取り出し、咎めているのだった。「俺はお前が週刊誌を読んでいる姿、見たことねえぞ。 これは何だ。こんなもの読みやがって。こんなもの読んでて、金に頭を下げられると思ってんのか。人間の心は捨てろ。 そうすれば、どんなことだって平気で出来る。人におべんちゃらを言うことだって、人を騙すことだって平気で出来る。 俺たちは人に頭を下げることによって、飯を喰ってんじゃねえぞ。金に頭を下げることによって、喰ってるんだ。 いいか。お前はその屈辱にもよう堪えん男じゃないか。金に頭を下げることのありがたさを知ったら、どんなことだって出来る。 屈辱に堪えること、それがお前の喰う飯の味だ。お前だって、金なしには飯が喰えん男じゃねえか。 その金は誰からもらうっているんだ。おう、どんな別嬪も便所へ行ったら、パンツを脱いでしゃがむんだ。 人間の心を捨てろ。いいか。」 ・・・ 私にあっては、この小事件は大きな意味・価値を持っていた。 (以下、字数の関係でカット11年05月15日) ・・・・・・・・ 2006年05月15日(月) 1868, ブログは社会革命ー 2 おはよ?!(*^ワ^*)i
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2014年05月14日(水)
* 年寄りの愚痴 親戚の法事で、いつも愚痴を言っている一回り少し年上の人がいる。今回も、前回同様に酒が入ると愚痴が始まった。 今回は「昔は良かった!」から始まり、山本五十六の家系の話から、掛軸の絵の知識の披露と、延々と講釈が続いた。 年を重ねると知らぬ間にクドくなるのは、自分も同じ? 長く生きてきたためだろうが、これは合せ鏡で、自身を思いやる しかない。酒もまわっていたため、私も二度「本当に昔が良かったですか?」と、クドく話に割り込んでいた。 愚痴は、老人性うつ症の特徴の一つの現れ。 そこでネットで検索してみると、 《 65歳以上の高齢者が全人口の23.1%(平成22年)を占める高齢社会になって、当然ながら老人性うつ病も増えてきた。 高齢者のうつ病には若年層で発症するのと比べると、いくつか特徴があります。若年期、壮年期に発症する場合には患者の 口数は少なくなり、行動はむしろ不活発にみえますが、高齢者の場合では逆によくしゃべり落着きのない印象を与える。 若年期のうつ病では身体的な症状を強く訴える場合は、仮面うつ病と診断されますが、同じように老人性うつ病でも身体の 不調を訴える傾向があります。うつ病を発症していなくても老年期には、個人差はあるにしろ変化を嫌い、意欲を失い、 適応力の低下、周囲への関心の喪失という行動的、心理的な面でいろいろな変化が起きやすい時期です。 特に注意したいのは、老化に伴って性格が変わっていく点です。 一般的傾向をまとめてみますと、 ①自己中心的になる ②疑い深くなる ③何にでも口や手を出したがる ④保守的になる ⑤自分の健康を必要以上に心配する ⑥愚痴が多くなる ⑦感動しなくなる ⑧気分や気持ちの切り換えがスムーズにできなくなる ⑨ストレスにうまく対応できなくなる ・・・》 ▼ 肉体的衰えが、精神の衰えを加速し、それがウツ症状をきたす要因になる。週に5日は運動ジムに通い、 1〜2時間のミニサイクリングをしているので、何とか落ちこみそうな気持ちを保っているが、この楽しみと、 週一の映画館通いと、自宅のドラマや映画の鑑賞と、この随想日記を書上げる面白味が無ければ、おそらく、 ウツ症になっているはず。先ほどの9つの老人の傾向、どれもこれも、日々、強くなっている現象である。 これが連れ合いにも起こり、その矛先が自分に向かってくるため、二重、三重苦になる。で、愚痴が深くなる。 しかし、老いてからの連れ合いの喪失は、それより遥かに厳しくなる。そして、攻撃先を探し出し・・・ 意地悪ばあさん、じんさんになっていく。 「転がる石には苔がつかない」で、転げまわるしかないのか? ・・・・・・ 4441, 四つの時間 2013年05月14日(火) * 四分割の時間割 「早朝坐禅―凛とした生活のすすめ 」山折 哲雄 (著) 宗教学者の著者が、この本で勧めている生活が奇しくも私の時間割と酷似していて驚いた。 �デカルトの時間、�イエスの時間、�ブッダの時間、�涅槃の時間、の四分割だが命名がユニークでよい。( )は、私。 �のデカルトの時間は、早朝座禅と読書や執筆などに充てる時間。(4時半〜6時にブログに掲載する文の添削と完成、 そしてアップ。6時過ぎから7時20分がミニ・サイクリングになる。そして朝食、新聞、風呂で9時になる) �のイエスの時間。著者が会社勤めをしていた時は、仕事に集中。あたかもゴルゴタの丘を十字架を背負い歩くような時間。 (9時過ぎから12時近くは書斎で、読書か、翌日のブログに掲載する文章の下書きなど音楽を聴きながら、独り沈潜する) �のブッダの時間。午前中に集中した緊張から解放された時間。(一時間ほどTVを見ながら昼飯した後、スポーツジムへ。 正午から15時が目安になる。帰りに図書館かスーパーか蔦屋に立ち寄り15時半位に帰宅) �の涅槃の時間。仕事も終わり、疲れきってしまい、後は晩酌をしたり野球中継をみたり。そして、熟睡。 (私の涅槃の時間は16時から21時になるが、TVの前で、野球、大相撲、録画のドラマか、書斎で読書、そして晩酌) 早朝、午前、午後、夕刻・夜の四分割になるが、書き出してみると価値の高い順に坂を下りるように世俗化するのが見てとれる。 この四分割、人生にも当てはめることが出来る。0〜19、20〜39、40〜59、60歳以上の、20年一区切り。 か、25年一区切り。 こうみると、どうも私は��が混同していたようだ。ゴルゴダの丘も大変だったが。そして、涅槃の時節に御隠居で、納得。 4分割を更に8分割すると「時間割」になるので、曖昧に二つ分けておくと良い。成るほど、老後への長期間の準備が必要だ。 ・・・・・・ 4067, つれづれに ー悲観的すぎるのか 2012年05月14日(月) 先日、一年半ぶりに木鶏クラブの会に出席した。この会の何人かは、私のブログを見てくれているが、自分でも気にしていた、 「最近の世界と日本経済の私の見方が悲観的過ぎるのでは」と指摘をされた。読者の多くは、「一年前に会社を潰したため、悲観的に なっているだろう」と予感をしていたが、案の定。その指摘に対して、「自分の事業の資産デフレと価格デフレの実情を実際に見て、 右下がりの移動年計グラフを10年間にわたって見てきた裏ずけがある。世界の株価の総額が4千兆円というが、その十数倍=6京円の 不良債権が銀行、企業、政府の金庫の中に隠されている。これは、何かのキッカケで現れ出る日がくる。私の事業に早めに来たので、 会社をたたんだが、これから世界恐慌というカタチで、大荒れになるのは当然の理。決して、悲観的過ぎないと・・ 日本政府の財政を見れば分かるはず、この有様をみて、悲観的に思わないほうが変である。」等々、の話になった。 フランスも、ギリシャも、今回の選挙で、国民は緊縮政策に「ノー」の答えを出した。 綺麗事をいい国民におもねいた野党の毒入りの 饅頭の政策に傾いてしまった。それと現在の民主党と自民党の一部の連中の、囁きは同じ。 10年前、5年前に、現在の事態を予測して、 警告を発した人は、当時は変人扱いをされていた。5年先から現在に戻ってきて、警告を発したら、私が言い続けてきたことなど、 大甘の論になると確信している。5年後は世界恐慌の渦中にあり、銀行閉鎖とか、食料の配給もありえる話。5年前、リーマンショックや、 東北大震災と原発事故を想像できただろうか。両者とも、500年とも千年に一度の大事件である。目先の応急処理で平静を保っているが、 株式の大暴落やハイパーインフレなど大クラッシュが起きて当然。 リーマンショックという大地震は起きてしまったのである。 その後の津波は1〜2年以内に押し寄せてくる。ただ、時間の問題でしかない。地方経済は半値八掛が現実。現場は沈黙しているが。 ところで移動統計グラフとは、月単位とすると、毎月、去年の翌月から今月までの年間の売上合計をとりグラフ化したもの。それをみると、 一年単位の趨勢が見えてくる。この右下がり傾向が10年以上も続いているのが地方の現状。 それで6〜7割減といえば・・ 一番先に現れるのが駅周辺のホテル、居酒屋、タクシー業界。 さらに携帯、パソコンなどの情報化が、消費者のシビアな選択を加速、 競争を激化させている。その結果としてデフレが拍車。この中で供給サイドの体力は大きく削ぎ落とされている。 悲観的になるわ〜 ・・・・・・・ 3701, ジャズについて −2 2011年05月14日(土) ー 三枝成彰著「音楽の本」より 【 * スピリチュアル、ブルース、ラクタイム……ジャズのルーツは黒人音楽。 ニューオリンズのブラスバンドだけがジャズの 母体となったわけではない。二百年にわたるアメリカ黒人の悲惨な奴隷生活の中から自然に沸き起こってきた‘魂の歌’の営々たる 蓄積が、今世紀初頭にジャズという人種の垣根を超えた新しい大衆音楽として花開いた、ともいえるだろう。 そうした‘魂の歌’が、ワーク・ソング(労働歌)であり、スピリチュアル(黒人霊歌)であり、ブルースだった。 ワーク・ソングとは、その名の通り、長く単純な肉体労働の最中、少しでも気を紛らせるために、あるいは仲間主体となって その苦行を乗り切るために歌った歌のことである。リーダーが即興で一声うなると、それ応じて全員がコーラスで応じるスタイルだった。 これは、たとえばかって日本の酒つくりで、極寒の酒造りの中で杜氏たちが作業中に歌った‘元摺り歌"などにも通じるものがある。 ワーク・ソングはなにも黒人特有のものではなく、世界のいたるところでかつては見られた労働者の風習だったといえるだろう。 スピリチュアルは、西洋キリスト教の賛美歌などに影響を受けた黒人独特の宗教歌で、これは教会音楽を経由し、ゴスペルという形で 現代に継承されている。 ブルースについては、他のページでも融れるが、奴蒙の身分から解放された黒人ひとりひとりが、差別や貧困に苦しむ私生活の哀歓を 個人的な感情を込めて歌ったものといっていいだろう。そして、そのブルースが持っていたミとシの音撰半音下がる「ブルーノート」と 呼ばれる音階構造は、とりわけジャズの発生に大きな影響を及ぼした。 また、黒人とクレオールの融合は、ラグタイムというリズミカルな音楽を生んだ。ラグクイムはクラシックと同じように楽譜遍りに 演奏されるピアノ音楽で、即興性を大切な要素とするジャズとは直接の共通点はないが、十九憧紀後半から二十世紀初頭にかけて 流行した音楽で、これもまたジャズの源流となった音楽の一スタイルであることは間達いない。いずれにせよ、一方には 黒人の魂の歌やリズムがあり、他方には、クレオールからもたらされたといってよいラグタイムとブラスバンドがあった。】 ▼ ジャズのルーツはブルースやワーク・ソングなどの二百年にわたるアメリカ黒人の悲惨な奴隷生活の中から沸き起こってきた ‘魂の歌’の営々たる蓄積が背景にあると知って聞くと、また違って聞こえてくる。特にブルースが、ジャズの発生に大きな 影響を及ぼしていると、この本で知った。ジャズに奥底には、黒人の差別と貧困の長年の哀歓がある。 その辺を捉えて聴くと、今まで何気なく聴いていたリズムの奥にあるスピリットを少しは感じるようになった。 ・・・・・・・ 3336, 2010年6の月、500万人が夜逃げする 2010年05月14日(金) 昨日の朝の書籍の新聞広告をみていると、「2010年6の月、500万人が夜逃げする 」ー水澤 潤著 が目に入った。 (以下、字数の関係上カット2011年5月14日) ・・・・・・・・ 2961,300人のディナーショー 2009年05月14日(木) 昨夜、地元の長岡駅近くのグランドホテルで福沢恵介ディナーコンサートに参加してみた。前夜の知人と福沢恵介さんとの ガーデンパーティに招かれ楽しいひと時を過ごし、是非参加してみたくなったのである。 私らしからぬことだが・・・ これもライフレッスン!9割が50歳〜60歳代の中年の女性で、一割が和服姿。隣に昨夜、一緒だった同級生の席。 私の顔見知りが数人はいたが、ほぼ見知らぬ人ばかり。ところが、隣席の同級生が、あれは何処どこの誰、これは誰と教えてくれると、 正しくディズニーランドにいるよう??。歳をとってきたせいか、面白おかしく姿を正視することができた。 オバサンの ファッションショーの趣きも! 武士の紋付・袴には胸に二つ、背中と袖に三つ家紋が付いていたが、あれは正しく家を 背負っていることを意味していた。 それと同じことが現在でも罷り通っているようだ。 家に縛られた閉鎖社会である。 同級生に「あんたも、大変だね。こういう社会で商売をしているのだから。よくノイローゼにならないね」と思わず言ってしまったが。 「いや、これが長岡。外部の人が長岡では中々、仕事をするのは難しい」とか。コンサートは、福沢恵介さんのギターの弾き語りで、 熱のこもった素晴らしいショーだった。一人で300人の観客を自分の歌の世界に引き込むのだから、大変な仕事である。 ところで、同じテーブルの前の席の女性二人、歌っている最中に平気でオシャベリをしていた。私に睨みつけられても、 隣の女性に「注意」されても、平気で話し続けていた。何処かの老舗の??。歌の半分は彼女らの声のバックグランド。 途中から慣れて気にならなくなってしまったが、家内に聞いたら、かなり酔っていたとか。 まあ、ディズニーランドだから、 それもご愛嬌だが、オバサマは凄い。この二日間は、普段は経験できない楽しい貴重な体験をしてみた。 ・・・・・・・・・ 2597, みんなのたあ坊の哲人訓 ー1 2008年05月14日(水) 「みんなのたあ坊の哲人訓」さんりお 辻信太郎著 ー読書日記 図書館で見つけた小型版の絵本のような本である。子供向けに サンリオの社長が選び抜いた言葉と、割り切ってみると 違った風合いがある。どれもこれも、耳にこびりついている言葉だが、子供向きにと思うと改め新鮮に思える。 何を今更というより、子供に道理の一部を伝えようという気持ちが伝わってくる。 今日は、100のうちの50までの印象に残った言葉を書き写してみた。 この中でも一番、好きな3つの言葉は 「虹だって15分続いたら人はもう見向かない」(ゲーテ) 「失敗の最たるものは、何ひとつ失敗を自覚しないことである」(カーライル) (以下、字数の関係上カット2,010年5月14日) ・・・・・・・・ 2007年05月14日(月) 2232, しお壷の匙 ヽ(★>з<)。o○[ォハヨ]○o。(>ε<☆)ノ 車長吉の本の評価は、それがどうした?とみるか、驚きの目でみるか?二つに分かれる。 私は「で、それがどうした?」という視点が強い!内容は事実をそのまま写生的だが、 何処にでもある話である。 人はそれぞれの人生を生きているのである。 ー面白そうなところを抜粋してみた。 (以下、字数の関係上カット2,008年5月14日) ☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ
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2014年05月13日(火)
* ボケか? 先週の土曜日、親戚の法事で駅まで歩いた後、タクシーに乗って寺まで行ったが、誰もいない。そこで、住職の自宅 玄関で聞いたところ、翌日の間違い。その前日、もしかと思い、案内を見直して日曜日と確認したが、その勘違いを確認した ことも忘れてしまっていた。 こういうのが呆けの初期症状? 家内に厳しい冗談?で、「施設に入れなくては!」と、 馬鹿にされ「他人に言わない方が良いよ」とまで、言われる始末。 それにしても、ハガキを見直しても、間違えてしまう 迂闊さに、我ながら信じられない思いである。帰り道、履き慣れない靴のため靴擦れの脚を引きずりながら、反省のため 30分の道のりを歩いて帰ってきた。 休憩のため駅東のマックに入ってハンバーガーを食べたが、それが何ともいえない味。 緊張感欠如だろうが、後々考えたとき、これが、ボケの始まりだった、でなければよいが。 * カラオケは、森の生活だからこそ? スナックに行っても、カラオケをほとんど歌わなくなった。店内に客が連れと二人だけでも、歌う気がしないのである。 やはり仕事の憂さとか、張り合いの中でこそ、歌に張りも気持ちが入るというもの。ゴルフはやらないが、これも現役時代 のプレーが、定年後より遥かに面白いとか。 年齢もあるが、秘境ツアーも以前ほど行きたいと思わない。これも、仕事の 合間に何とか都合をつけて、浮世のストレスを秘境旅行のストレスで消すからこそ張り合いがある。 今は今の楽しみが あるのだから、それは、それで良いとしなくては。 * カラスの糞かけ またまた偶然の一致だが、法事から帰ってきた玄関で、カラスの糞が、目の前50センチ前に落ちてきた。 これまで、一度は命中、あと一度が、以下の前年の同月同日に書いたのを含めて、三度目になる。 それより、よりにもよって一年前に書いていたとは面白い偶然である。 私には、この手合いの偶然があまりに多い。 その瞬間、「今回は、カラスに狙われた」と直感したが・・。 最近、一羽のカラスがペットのインコの鳴き声に惹かれて、 自宅の周辺に屯している。何か、法事とか、葬式に、よく起きる不思議な現象の一つ?だろうか。ー以下をご覧あれ!ー ・・・・・・ 4440, 閑話小題 ーカラスの糞かけ 2013年05月13日(月) * カラスの糞かけ 数年前になるが、自宅近くを自転車に乗っていた時、カラスが低空で私の二mほど先に糞を落としていった。 問題は、これは果たして私を狙ったのか偶然か、毎朝近くを通る度に考えたことがあった。 ところが、一昨日の朝日新聞の朝刊のコラムで、四コマ漫画の「ののチャン」が、専門家に質問する形式で、 「カラスの糞かけは、意図したものかどうか」を取り扱っていた。よくあることだから、取り上げたのだろう。 答え手は、「あくまで偶然で、カラスにとって何ら利益にならない」と、ゲーム説や、カラカイ説には否定的だった。 専門家といっても、私のように三十年以上、毎朝、散歩やミニサイクリングでカラスを観察していた訳でない。 で、私はゲーム説である。 長岡大橋の手すりで、カラスが5羽並んで私が自転車の通りすがりで至近距離に近づいても 逃げない「度胸ためしゲーム」をしていたことを、ここで書いたことがあった。また散歩中の小型犬を、至近距離で、 威嚇して遊んでいるのを見たことがある。犬の飼主も、それを面白がって見ていたが、明らかにバカにして遊んでいた。 話は変わるが、昨日の午後、帰宅をすると、隣の空地で5羽のカラスが入り乱れて空中戦をしていた。よくあることだが、 昨日は違っていた。その二組が同時に地上で激しい乱闘を始めたのである。初めは車内で見ていたが、決着がつかないので、 車庫に車を入れてから門の角から隠れてみていたが、その間7〜8分。鳴き声を聞きつけた他のカラスが数羽が駆けつけ、 騒然とした中での激しい乱闘はなかなか見もの。上下に体勢が入替わり互いの身体をワシヅカミしてツツキ合っていた。 よく再び飛びたてたもの。身体からみて若いカラス同士の縄張り争い。最近、一羽が我家の庭に度々来ているが、 その中の一羽だろう。
・・・・・・ 4066, つれづれに ースポーツジム、その後 2012年05月13日(日) * スローヨガ このところ、スポーツジムのスローヨガに参加している。連続参加が勘違いで14回で途切れたが、これまで18回参加した。 ヨガのポーズは腰と背骨の矯正に絶好である。大よそ30〜40人が参加しており、火・木曜日の午後の週二日である。 平日の午後、これだけの人数が一同、暗闇の教室でヨガをするのも奇妙な感覚である。慣れるのに7〜8回はかかったが、 慣れてしまえばしめたもの。60×120センチのマットの上で色々のポーズをとるが、ヨガの先生曰く、「ヨガでは、 このシートが全宇宙と思って、自分独りと思って下さい!」 一回、50分だが、あっという間に、時間が過ぎてしまう。 始まると周囲の人が意識から消えてしまうのがよい。 シートの中の自分と先生の世界が、それぞれ出来てしまう。 ところで、 専門のヨガ教室だったら幾ら?と値踏みをしてみたが、一回、千円の価値は充分ある。 週二日、月に6回(二回、休む?)として 6千円になる。 これだけでSJの会費の元が取れることになる。時間帯もあるが、9割が中年女性である。 * 昨夜は、新潟で飲み会 何?から一年以上経ち、そろそろ蟄居閉門も明けつつある。とはいえ新潟駅前で事業をしていた手前、会場は敷居が高い地区。 一般債権が無いが、気分的には近寄り難いことは確か。「あの野郎、沼垂で赤ら顔をして飲んでいた」と、言われそうだが・・・ 27〜8年前に、月刊雑誌「到知」に惚れ込み、新潟市周辺の愛読者の同好会「木鶏クラブ・新潟支部」を立ち上げた。 私自身は12年ほど前から、会から遠ざかっていたが、現在でも続いているが、有難いことである。最後に行ったのが 一昨年の忘年会、去年は時が時だけに一年の喪?が明けた今回、参加した。その前に、新潟駅構内にある家電のジョーシンと、 ビックカメラに行寄ったが、土曜日もあって客で溢れていた。 長岡と新潟の勢いの差は駅に出るが、あまりに大きい。 泊まろうと思ったが、22時半の最終新幹線で帰ってきた。 昔の仲間との邂逅は良いものだ。 * 自転車専門大店 昨日、新潟駅近くのイオン直営の自転車大店に行ってみた。100坪位の店舗にビッシリ自転車が並んでいたが、やはり 電動アシスト自転車が主流。 開店直後で、まだ軌道に乗ってないようだが、時代から見て時間をかければ良くなるはず。 まだ価格帯が10万円あたりだが、4〜5万円が爆発的に売れる分岐点だろう。 店長曰く、「電気代が月に20〜30円」。 一回分なら分かるが、こんなに安いとは知らなかった。電動アシスト自転車に乗って二年半になるが、本当に良いと実感している。 道具一つで、自分の生活圏の広さが全く変わってしまう一事例である。ヨガもそうだが、ポタリングを習慣にしてしまえばよい。 ・・・・・・・ 3700, ジャズについて −1 2011年05月13日(金) ジャズ1000曲がパソコンに入ったため、常にBGMとしてジャズを聴こえてくる。これに慣れると、もう無しには いられないから不思議。そこで、ジャズとは、そもそも何?と知りたくなって本棚をみると、三枝成彰著「音楽の本」があった。 そこに丁度、私が知りたいことが、そのまま書いてあった。 面白いものである。 【 「黒人の民族音楽と白人のヨーロッパ音楽とが融合し、その結果、黒人を中心としたブラスバンドから生まれたポピュラーミュージック」 「遅れて拍子を打つ黒人独特のバック・ビート(四拍子の一拍目、三拍目におくアクセントを二拍目・四拍子目にずらして演奏する)を リズムに持ち、即興演奏を生命とする音楽」 ジャズという音楽を簡単に説明すれば、こういうことになるであろう。 さて、そのジャズは二十世紀の初頭、アメリカ南部の港町ニューオリンズで生まれるのだが、ここは十九世紀はじめにアメリカが 購入するまで、スペインとフランスが交互に統治していた地域だ。そこには、フランスやスペインの白人と、西アフリカをルーツとする 奴隷として連れてこられた黒人、そして、その混血である「クレオール」が生活していた。 クレオールはおしなべて教育水準が高く、ヨーロッパに留学をしたり、ビジネスで成功するなど、ニューオリンズではエリート層に 入っていた。ところが南北戦争を受けて奴隷を解放せざるを得なくなった南部白人層の不満は、黒人ばかりかクレオ一ルへも向けられ、 クレオールも人種差別の対象となる。 一方、ニューオリンズの黒人たちは、奴隷解放後、主に音楽に仕事を求めた。南北戦争に敗れた南軍軍楽隊の楽器を古道具屋で 安く手に入れた彼らは、祝祭パレードや葬儀の行進などで演奏するブラスバンドとして活躍。とりわけ、葬儀の際のブラスバンド行進は、 ニューオリンズ名物として伝説化されている。埋葬へ向かうときには悲しげな曲を、墓地から戻るときには死者の魂が天国に 迎えられるように明るい曲を。ジャズ史上最も有名な曲の一つである「聖者の行進」は、そんな時代に生まれた曲だ。 こうしたブラスバンドには、どのグループにも何人かのクレオールがいた。白人社会から締め出された彼らは、同じ被差別層である 黒人たちと一緒に仕事を始めたのである。音楽の素養があるクレオールは、楽譜の読めない黒人に西洋音楽の技法の手ほどきをする。 黒人はアフリカの祖先から脈々と受け継がれている生来のリズム感覚を持っていた。それが融合し、ジャズの生まれる下地が できあがったのである。「ニューオリンズ(ディキシーランド)−>スウィングー>ビパップー>クールー>ハード・バップー>フリー」 これがクラシックの歴史を振り返ると「バロックー>古典ー>ロマンー>近・現代」といった流れで見るように、誕生から 百年を経過したジャズのスタイルの変遷も、こうした流れで見るのは一般だ。 】 ▼「ニューオリオンズ」という地域と「黒人」、そして「クレオール」という人種に行き着くのである。 20世紀の初めの頃、怪しげな下町の酒場で、即興として、古道具屋から安く手にいれた黒人たちがバック・ビートのリズムで始った。 あのアルカポネの時代に全米に、それが瞬く間に広がっていった。やはり、その背景を知っているといないとでは・・ ・・・・・・・・ 3335, 閑話小題 ーつれづれなるままに 2010年05月13日(木) * ゴールデンウィークの異変と、連休明けの異変 このゴールデンウィーク、道路も街も賑っていたが、この5〜6年で様変わりをした。10年前までは車の旅行客が夕方になると 殺到していたのが、ピーク3日間でギリギリ満室か9割がやっと。それも高校の剣道大会とバスケットの大会がベースで 一棟埋まっていた上で、これである。不景気もあり消費者が合理的になったのである。 その行動パターンのケースとして ・連休の間に日帰りを二回するとか、一泊で四国まで行って来たとか、高速道路の料金千円をフルに利用するもの。 ・東京まで早朝のバス代2500円×往復で5000円で行って来たとか、周辺ではいかに安く済ましたかが話題の中心。 それがブログやツイッターで話題になれば、直ぐに伝わる。 これも恐慌と情報化の影響である。 ところで毎年の恒例で、連休明けに一時的だが宿泊が減る。さらに6月に入ると二段目の落ち込みになる。 覚悟をしていたが、今回も予測どおりの落ち込みである。 数年前の、このブログにも落ち込みの現象を書いているが、 それが、ますます大きくなっている。 年末年始明けと同じような数字だから恐ろしい限りである。 * 民主党のおぞましさ 思わず現政権の官僚の言葉に耳を疑った。一国のトップが外国と約束をした「5月末までの決着」を、 ここにきて「延期」と言い出したからだ。 国際間で、それが通ると思っている無知・幼稚さに、ただただ呆れる。 これからみても政権末期である。これまた、一年も政権維持が出来ないことになる。これで4人連続である。 鳩山首相も、血筋も知性?も一級だが、やはり政治は阿修羅の世界で一寸先は闇の世界である。 長年かけた アメリカの実質日本占領下で出来てしまった体質の中では、思い切ったことが出来ない事情もあるが。 * 「Youtubeが面白い」のに気づく 息子に「Youtubeが面白いよ」と言われてから一年以上経つが、殆んどみることがなかった。 ところがデジタルビデオカメラを購入しアップをキッカケにして時々見るようになったが、これが面白い。 それより、自分が現実にアップして初めて注目をするのだから、頭が固くなってしまったということ。 特にペットとか、動物の世界の思わぬ出来事の遭遇の映像には驚いてしまう。 これまではTVで、月に一度位でみた衝撃映像が、ここでは幾らでも出てくる。 情報格差も大きくなるわけだ。 ・・・・・・・ 2960,藤を見るかい 2009年05月13日(水) 「藤を見るかい」の招待を受けて、昨日の17時過ぎに長岡郊外の友人の別荘に行ってきた。 (字数制限のためカット 2010年5月13日) ・・・・・・・・・ 2596, 金融鎖国 2008年05月13日(火) ー読書日記ー (朝´∀`){♪Good Morning♪} 「連鎖するドル大暴落」「ドル覇権の崩壊」の二冊を立て続けに読んでショックを受け、 それでは、その著者が以前に書いた本が、何処まで当たっているか見てみようと、 「金融閉鎖」と「日本壊死」を図書館から借りてきた。そして、その7?8割は当たっていた。数年前に本屋で手を取ってみたが、 気になってはいた本であった。読めば読むほど、先行きに対して不安になってくる。やはり、その2008年になったのである。 石油が120ドルという、とてつもない暴騰をし、世界経済が根本からおかしくなり始めたのである。 穀物や油が高騰を続ければ、世界経済は大混乱をするのは時間の問題である。物は売れない、原価は止めの無い高騰。 企業は成りゆかなくなり、倒産、そして失業者が溢れかえる。資源を狙って隣国同士が戦争とマイナスの連鎖が続くだろう。 現時点では、金融閉鎖は無いにしても、アメリカのドルの暴落、債権の暴落等で金融鎖国的の事態もありうるというのも肯ける。 悲しいことに日本は、その直撃を受けるのである。 ー概略をまとめてみたー 「金融鎖国」ー日本経済防衛論 副島 隆彦 (著) (字数の関係でカット 09年05月13日) ・・・・・・・・・ 2007年05月13日(日) 2231, 男は女のどこを見るべきか (ヾ(´・ω・`)ノオハヨウ(o´_ _)o)ペコッ ー岩月 謙司 (著) ちくま書房 「女性は男性のどこを見ているのか」の著者・岩月謙司の女性論である。こういう女性論は探せば幾らでも在りそうだが、 比較的少ない本である。彼の論によると「男は女をあまり理解していないが、女の方は逆に男と較べると段違いに 理解していて、理解できないのは、男の強い性衝動位のもの」という。男と女の違いより、共通していることのほうが多いが、 極限状態のときに本質的な違いが浮かび出るという。雄と雌でしかないのを、割り切ってしまえばよいが、 割り切れないから面白いドラマがあるのだろう。 ー概略をまとめてみるとー 女性の思考法の特徴を 1、自分の快・不快でものごとの善悪を決める ー女性が感じる快は、自然の法則に合っていることが多いが・・。 2、社会的配慮が苦手ー自分を守り、自分を愛してくれる人が一人いれば社会を敵にしてもよい 3、二分法的な発想 ーゼロか100かという二分法の発想 4、数の論理 ー「みんながしている」という数の論理で動いている、それで安心してしまう このような発想で生きていると、多くの人から愛される人間になり、結果として、 愛を多くため込むことになります。女性は「愛の貯金箱」にたとえる事が出来る。 人を愛するということは、 「人の悦びが我がことのように悦び、悲しみも我がことのように悲しむことです。 人の幸福を願い、不幸を悲しむことです。」 慈悲深い人になるのです。その愛情の大きさは、男の数十倍?数百倍もあるのです。 男とは桁が違うのです。それ故に、素敵な女性は女神であり、慈悲深い天使です。 ・男性は理論から感情を構築し、女性は感情から理論を構築する傾向にある。その感情も小さくできており、 大きな感情を理解できない。大きな感情を持っている人は、小さな感情は理解でたとしても、 小さな感情の人は大きな感情の人を理解できない。だから始末の悪いことがある。 ・気まぐれ(個人的感情)による約束反故は(彼女らにとって)正当な理由になる。 (字数制限のためカット 2010年5月13日)
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| 4806,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー3 |
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2014年05月12日(月)
「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著 * 自分も、人生も、記憶がつくりあげる 記憶は、その痕跡として、自分でアレンジすることが出来るため、その蓄積としての記憶は、その人自身が作り上げた 要素が大きく加わっている。その時点での、自己対話としての内的世界が重要になる。そして、その記憶もである。 時間の経過とともに、その記憶も修正されていく。 《 記憶は自己の同一性の基礎となっており、私たちの性格や生きかたに大きな影響を与えている。しかし、たとえそうだと しても大多数の人は、記憶など自分の過去に起こったできごとの痕跡にすぎないと言うだろう。 これから未来へ向かって 生きていこうというのに、今さらどうしようもない過去の痕跡にかかずらっている時間はない、と。しかし本当にそうだろうか。 先ほどのTさんの話の中には、未来に向かって生きるためにもやはり、記憶が重要なことを示唆する一幕がある。 記憶喪失のために八年間の記憶をすべて失ったTさんは、当初、何とかしてその記憶を取り戻そうと焦っていた。 母親はそんなTさんに、誰もが三六五日すべての記憶があるわけではないのだから、過去にこだわるよりは、今から何かを 始めればよいと言ったそうだ。しかし、それに対してTさんは、「今まで何をしようとしていたのかを知らなければ、前に 進むことができない。それを知らなければ生きている意味がない」と言ったという。 このことに関連して私が思い起こすのは、戦後四〇年目におこなわれた当時の西ドイッのヴァイツゼッカー大統領の演説だ。 ヴァイツゼッカー大統領はこの演説の中で、第二次世界大戦のナチスドイツによるユダヤ人虐殺について深く謝罪すると同時に、 「過去は神でも変えられぬ」という台詞で、過去を変えることができないことを強調した。しかし、だからといって過去を 封印しようというのではなく、彼は「過去に亡目になる者は現在に目を閉じることになる」と続け、過去を知り、それを 現在に生かすことの大切さを訴えかけたのだ。基本的には、私たちの記憶もこれと同じではないだろうか。自分の記憶を みつめることで、それを現在に生かすことができ、記憶は未来への航海へと漕ぎ出す原動力となるのではないだろうか。》 ▼ 記憶といえば、日記に書かれていたかどうかで、大きく違ってくる。だから、ネットや、日記帳に、書き込んでいる。 そして、毎年の同月同日分を読み返しているが、なるほど、自分の加工が大きく入っている。それが「自分」という ことになる。ということは、それぞれが自分史を生きているのである。今さら書く事もないが、より足取りを確かに するためには、書いておいた方が良いのだろう。改めて、何気なく繰り返し思い出している記憶が、実は、自分が大きく 加工したものでしかないとすると、やはり共同幻想、幻覚の中で生きているだけということが、少しは自覚できる。 最近、ブログで過って行った先の写真をネットからコピーし、ブログに載せているが、これが、当時の記憶を彷彿させる。 これも、当時の記憶の再生と、再体験になる。行ってなければ、注目もしないだろうし、どんな写真より、当時の感動の 方がはるかに良い。過去の再生と体験と同時に、新たなる未来のためにも、常に、記憶の手入れが必要になる。 ・・・・・・ 4439, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー9 2013年05月12日(日) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著 ー これまでの7つの登山道を更に簡略すると、次のようになる(後書きより)ー ・ ルート1は、心は幻想だと理解する道。 脳神経科学の知見から考えると、意識される今は幻想だ。今とは、未来や過去が調整されて今だと思わされているに過ぎない。 自分が主体的に行っているとリアルに感じる意思決定も、そうしていると 思い込んでいるだけだ。 僕たちは「生きていると錯覚しているだけだ」と考えざるを得ない。 ・ ルート2は、すぐ死ぬことと、あとで死ぬことの違いを考える道 所詮はいつか死んでしまう、ということから人生を考えると、今死んでもあとで死んでも同じよなものだ。 人生は死刑のようなもの。だが、それは、悲観的なものではない。生まれてきた奇跡を、この宇宙的ラッキーを、 ポジティブに捉えようではないか。死ぬことが悲劇なのではなく、生きていること自体がすばらしい奇跡なのだ、と。、 ・ ルート3は、宇宙サイズの視点に立って、自分の小ささを客観視する道。 百三十七億年前にできて、直径二百七十四億光年のサイズを持つ巨大な宇宙。この宇宙スケールから見ると、何て人間は 小さいことか。しかも、地球上に七十億人もうごめいている人間。あなたはその中のたったの一人に過ぎない。 全体から見ると、あなたが自分の死にこだわることは、極めて部分的な些細なことに過ぎない。 ・ ルート4は、主観時間は幻想だと理解する道。 客観的な時間は、百三十七億年にわたって、一秒ずつ確実に時を刻んできたかもしれないが、主観的な時間は、それとは異なる。 過去と未来は圧縮され、生死のところで長さがゼロになる。しかも、それは幻想だ。あなたの過去は記憶の中にしかないし、 あなたの未来は想像上の産物だ。あなたには今しかない。あなたは、今しか感じられないのだ。時間などない。 だから、あなたの主観時間に、死の入り込む余地はない。 ・ ルート5は、自己とは定義の結果だと理解する道。 自分がいて、生きていて、考え、行動し、いずれは死んでいく。そう考えるのは、近代西洋流に、自と他、生と死、主体と客体、 能動と受動といった二項対立図式でものごとを捉えているからに過ぎない。それが正解ではなく、ものごとを考えやすいように、 そのように定義しているだけだ。「自分」を定義するから自分があるかのような認知が行われ、「死」を定義するから死を 恐れている気がするに過ぎない。もともと、世界は単に全体として世界であるだけであって、自分も死もないのだ。 ・ ルート6は、幸福学研究からのアプローチ。 幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人の目を気にしない傾向。 これらを満たすのは、自己を捨て、無我・無私を実践できる達人の生きかた。・・・ここに到達した人は、 持続的な至福を感じることができる。逆に、持続的な至福を感じられる人は、達人の域に到着することができる。・ ・ ルート7は、リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ。 そこには、リラクゼーションからでも座禅からでも、念仏からでも達することができる。いや、ルート6のいずれからでも 到達することができると言うべきだ。 何しろ、もともと同じ山を登っていたのだ。 登頂した先は、同じところ。 死を恐れない境地。それはそのまま、生を満喫出来るところ。昔の人は、科学技術の知見がなかったから、仏教哲学に よってしかそこに到達できなかったのかもしれない。しかし、現代人には科学技術がある。脳科学の知見は意識が幻想だ という事実を僕たちに突きつける。 ▼ <私たちの心は幻想でしかない。137億年の時空の自分は小さな存在、そこでの主観時間は幻想。それを感じている 己も定義でしかない。そこでは、他の人との比較に目を奪われることなく、深くリラックスをしていれば良い>が活きるコツ。 ひたすら今を活き活き、楽しめばよい。背中に羽をつけた天使のようになるに、まだ重い。せっかくサバンナに出てきたのに。 ・・・・・・ 4065, お金と神 ー1 2012年05月12日(土) * 「お金=信用」と「神=信仰」は似ている 〜� ー「お金の執着」が経済を狂わせるー小野善康 より お金とは何だろう?と長年考え続けてきたが、お金と神との同定の視点が面白い。両者ともバーチャルの信頼で成り立っている。 一部の支配者が神の信託に、紙幣の信託の類似性をみて発明したのが金で、両者とも共同幻想の最たるもの。 ーまずは、抜粋から。 ≪ お金と神は似ている。一般に、お金とは汚いもの、神とは聖なるものと言われる。いずれも実体のないバーチャルなものなのに、 人びとの行動に大きな影響を与える。適度に使えぱ人々に安心と幸せをもたらすが、行きすぎれば人生を狂わせる。宗教が狂信者を生んで 世界を恐怖に陥れるように、現代におけるお金への強い執着は、人々に購入を控えさせ、不況を生み自分たち自身を失業に追い込んでいる。 ◎ 宗教とは、リアルな物欲が生む煩悩から逃れるために、人間が頭の中に作ったバーチャルな世界である。 それはときとしてリアルな物より人間行動に強い影響を与える。純粋にバーチャルな神という概念をそこまで高めるのに、人間は多くの 過程を経てきた。はじめ神は嵐や雷、山や川など、自然物や自然現象と結びつき、それらのリアルな脅威や恵みが、直接の畏敬の対象だった。 その後、徐々に抽象化されていく過程では、多くの装置を必要とした。装置とは、大伽藍であり、宗教画や彫刻であり、神話や経典である。 それらを使って人びとに極楽浄土や天国を信じさせ、信仰に導いた。この段階ではまだ、宝石や黄金、美しい花や天女など、極めて世俗的な 妄想を抱かせている。しかし、宗教の抽象化はこれに留まらい。禅宗に至っては、脳内での世俗的な快楽や美しさへの想像さえ否定する。 すべては無であるという禅宗の経典、般若心経では、直接的な物欲だけでなく物への妄想さえ捨て去ることにより、心の平安を得ようとする。 これによって宗教は完全にリアルから切り離され、バーチャルな観念へと昇華きれる。 ◎一方、お金はどうか。 ーつづく ≫ ▼ お金の亡者は、金を神のように崇める人をいう。 世の中の9割方の問題が金で解決出来る代物なら神様より頼れる紙切れである。 神が共同幻想なら、それを信じている世界では通用するが、通用しない世界では、紙切れの存在でしかない。信じばこそ、 そこに価値が出るもの。その価値を生み出すための装置の重積で、妄想から信仰に昇華させていく。資本主義における神こそ、 お金である。アメリカのドルと国債こそ、神に近い存在であった。それも今や、そのカラクリ(欧米の資本主義)が崩壊しつつある。 ・・・・・・・ 3699, 自己を見つめる −20 2011年05月12日(木) 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) * 死について ー� ーP・283 【 死の壁に突き当たって打ち砕かれ、この世での自己の赤裸々な実存の現実へと跳ね返されて、そこで、みずからの過去を背負い、 あるべき将来を目指し、現在の状況のなかに立って、熟慮し、行為し、人生の道を切り開いていって、自己と他者と世界と存在の すべての意味ある本質充実を達成すべく格闘して生きるよりほかにないが、それが人間が生きるということである。 それはまた、 人間が生きつつ死ぬということであり、さらには死につつ生きるということである。したがって、この世で生きる自己の存在の根底には、 こうした死の存在論的概念が深く食い入っている。死を抜きにして、自己はなく、人生はなく、この世の生存はない。 無にさらされたものとしてのこうした人間的自己というその必然的運命の自覚の上に初めて、具体的な医学的現象としての死の諸相も、 位置づけられうる。 自分が、癌で死ぬのか、事故で死ぬのか、成人病の悪化で死ぬのか、老衰によって天寿を全うするのか、 それは誰にも分からない。しかし誰もが、この世に生まれてきた以上は、医学的な具体化を伴って出現する死に早晩さらされることを自覚し、 自己の無化を心得つつ、終わりある自己の人生を深く銘記し、心の奥底でその覚悟を整え、その孤独な最期を密かに見つめながら、 いままさにこの世のさまざまな営為に携わって生存の努力を重ねているのである。 こうした意味で、明るい現実の根底には、穴が穿たれ、 虚無の風が吹き上げていると言ってよい。 そこには、暗い無の深淵が、底なしの無気味さを湛えながら広がっている。 自己の存在の根底には、無が潜んでいる。考えてみれば、自己がこの世に存在する以前に、元来、自己は、どこにもなく、無であった。 いま、自己は現世のなかの活動に浸って、一見確固たる実在感を覚えている。しかし、無常のこの世は、うたかたのように過ぎてゆき、 再び自己は、存在の無のなかに沈み込む。 無としての存在の大海のなかに、ひととき浮かび上がって、浮き草のように漂い、 必死にもがいて、確固たる存在を築きえたかに思った自己存在は、やがてまた、無の大海に呑み込まれてゆく。 ハイデッガーが言ったように、死は、無の枢である。そこには、人間には窺い知れない存在の秘密が隠されているとも言える。 誰もその奥を覗き込んだ者はいない。 さりながら、かつて、エジプトのザイスの神殿に、帳で隠された女神が祀られていたが、 その帳を取り除けることに成功したある人物がそこに見たものは、不思議なことに、当の自分自身だったという。 へーゲルやノヴァーリスが語るこの意味深い言い伝えに従えば、存在の深淵を覗き込んで見出されるものは、実は、当の自分自身である。 ・・・その意味でも、死を含んだ、無としての存在が、人間の真実であり、それ以外にどこにも存在の真理はないと言わねばならない。】 ▼ 最後の章は死である。死は、ドーナツの穴と類推すると、面白い。穴はあって、ない。ドーナツの形状が穴を形づくっている。 永六輔が「色即是空の色がドーナツで、真ん中の穴が、空」といみじくも言っていたが、人間存在を色とすると、自己の存在の根底に 潜みこんでいる死は、その穴のようなもの。ドーナツを食べてしまえば、その穴も無くなってしまう。 また、ハイデッガーの「死は、無の柩」も考えさせられる。無など元もとないのに、それを敢えて柩という著者のセンスが面白い。 ・・・・・・・ 3334, 「ウェブ2.0」時代の大前流「情報活用術」 2010年05月12日(水) ー「知の衰退」からいかに脱出するか? ー 大前研一 (著) ー7 * 「ウェブ2.0」時代の大前流「情報活用術」 ー まずは、その要点部分を抜粋し考えて見る ー (P 230) ≪ 今の若い世代から40代、50代の世代に至るまで、情報収集・管理・活用が下手になった。 これは「○×式教育」の弊害である。答えはあらかじめ用意されている、しかもそれは「○か」「×か」という世界で育つと、 そもそも答えを探すところからわからなくなっている。 手探りで失敗を繰り返しながら答えを導き出すという習慣がない。 そして、よしんば答えを得たとしても、それが正解であるか間違いであるか検証する方法もしらないのである。 だから、初めから「新聞やテレビの情報は正しいものだ」という前提で、そこにある情報を収集し、それを覚え込もうとする。 これが間違いである。 こんなことをすると、昨日の夕食に何を食べたか思い出せないように、情報は体外にそのままストンと 流れ出て終わりである。 なぜ、体内に残らないのかと言えば、それは、本当に自分の血となり肉となる情報でないばかりか、 せっかく取り入れた情報でも自分で加工しようとしないからだ。 情報といいうものは、加工しないことにはなんの価値も 生み出さない。 いくら収集しても放置してしまえば、そこから何も生まれない。 従って、手に入れた一時情報の意味を考え、 時に疑い、ストックした情報と照らし合わせて、栄誉のある情報だけを吸収して自分の中に取り込み、あとは捨てる・・・ ≪字数制限のためカット 2012年5月12日≫ ・・・・・・・・ 2959,閑話小題 2009年05月12日(火) * 金メダルを取れる人 「金メダルを取る人は、トップレベルの才能のある人は逆に取れない」という。トップレベルの人を目標に背中を追っていた 「三番手、四番手の人」の方が、努力をするからである。一番手の才能の人は、そのこと自体の有難さが分からないから努力を しなくなり、こぼれていく。その重なりの中で、結果として金メダルの道を歩くことになる。必死に努力した方は、その努力に 愛情を持っているから、心の芯になってしまう。ここに金メダルと、途中で挫折する才能のある人の差が出る。 何か亀とウサギの御伽話のようだが、人生の深い示唆があるような話である。 二代目が大成しないのと同じか! * 物語をつくる 毎日、随想日記を書き続けて、あと40日ほどで3千回になる。随想日記も考てみれば「小さな物語」である。 物語とは、テーマの設定と筋書きつくり。文章作法の起承転結という筋書きの中で、味付けをしなければならない。 その上に魂を込めない限り読むものの魂に響いてはこない。そうそう毎日、魂を込めるのも並大抵ではない。 一年ごとに見つめる自分の目も怖い。しかし一度、物語にしてしまえば、記憶パッケージ化したことになり、 魂の記憶として長期間残ることになる。 * エーゲ海クルーズと吉田類の酒場放浪記 ≪字数制限のためカット 2011年5月12日≫ ・・・・・・・・・ 2595, 閑話小題 2008年05月12日(月) * シティーバンクが41兆円の資産売却の意味すること ニュースでシティーバンクが総資産の2割にあたる41兆円を売却すると報じていた。ということは、サブプライムローンで 同額位の損失をしたと考えてよいだろう。それが、世界全体の10~20%と見ても200~400兆円の損失と考えても 不思議ではない。シティだからこそ、それを売却して支える力があるから良いが、殆どの金融機関が無理だろう。 ≪字数制限のためカット 2010年5月12日≫ ・・・・・・・・・ 2007年05月12日(土) 2230, 人生張っています ー読書日記 それでは特に凄いウンコ話を抜粋してみた。オカマのマツコとの対談は、あまりにも凄いので掲載はひかえる。 (字数制限のためカット 2014年5月12日)
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2014年05月11日(日)
* 当事者の隠れた心理とは 其の辺の視線から度々、思うことは、当事者の心理まで解ってないということ。ホテル建設の準備と立上げほど 面白い仕事はないのでは? 実感として、そのトータルと、一応軌道にのせた時に、その金額分の元を既にとった 実感がある。これは事業創業と同じであるが。 クルーズが好きで、趣味が興じて、その設計から建設まで、造船会社と 打ち合わせをし、造りあげた船が10年、20年後に難破して命からがら助かったとする。その時に、誰かが、「惜しかったで すね!」と言われた気持ち?が、こんなもの。 「いや、これだけ楽しんだから、未練も悔しさもない!海から引退する身に とって、下手に中古品として残っているより、この方が危険な遊びより解放されて、むしろ良かった」が本音。 第三者は、 難破して命からがら救われた、姿しかみてない。しかし、当事者は、その辺りが周辺の視線とは全く違う。 これも、救命用具と救命舟を用意して、命からがら助かった?からこそ、言えるのだが。 で、ボートしか乗ったことが ない人ほど、その時に勝手な揶揄をすることになるが、その面白さが、何ものにも代え難いことは知る由もない。 人は、それぞれ、頑固な岩場の小さな洞窟内のことしか、知りえない。それは、あくまで、大小の大きさの差でしかないが。 私の身近な人の心理が、こんな心理もあった?ということを、自分が経験して初めて知ったこと。 両親の生き様の後ろ姿から、「人生には、何が起こるかもしれない、だから、その時々の楽しみは、その時に、味わうこと を、子供ながら学んだ。それにしても、9割以上?の何も考えない人たち、何をしているのだろう。年金生活に入っても、 収入の二割は漠然たる目先に不安のため、預金をしていて、死期が迫ってから、この世に、したいことをし得なかった無念と、 預金を残して死んでいくのだから、恐れ入る。 で、「そのお金もない、したいこともない、無念もない!で、どうした!」 これはこれで、おめでたいこと。これも、目くそ鼻くそを笑う範疇でしかないが! 王陽明もあるが、論語もあるか? ・・・・・ 4438, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー8 2013年05月11日(土) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著 * ルート7 リラクゼーションと東洋的思想からのアプローチ(思想の道) 「いい湯だな」と「悟り」は同じこと。両者とも「リラックスの極致=悟り」ということ。 笑いは緊張とリラックス(弛緩)の間に生まれ出る。喜劇やお笑い番組の束の間に悟りがあるのか? お笑い芸人が果たして悟りをひらいているのか? という疑問が出てくる。しかし「深いリラックス」が、悟りと笑いにある。 早朝のミニサイクリングで信濃川の土手を音楽を聴きながら、深呼吸をしている時の気持ちは悟りの心境である。 深くリラックスをしてないと、自分が壊れてしまう恐れもある。逆に悟りに近い心境は自ずからリラックスの状況を求める。 −その辺りを抜粋ー ≪ 先ほどの達人の境地や禅僧の姿はこれに通じるものがある。自分を磨くことによって至ることのできる境地。 これに対し、リラックスの境地は、「世界を貫く原理原則を知った」状態とは異なるように思えるかもしれない。 しかし、そうだろうか。リラックスの境地は、我欲や悩みやその根源である身体の不自由さから解放された境地だ。 心が無であること、あるいは、幻想であることを、体で理解した境地だ。 「ああ、世界での幸福なあり方とはこういうものか」と体で理解した境地だ。そう考えれば、リラックスの境地は、 「世界を貫く原理原則を知った」ことと等価ではないだろうか。「体で理解」する点が、禅宗の「不立文字」とも関係している。 先ほど述べたように、禅宗では、悟りの境地は言葉では言い表せないものだと考える。右で述べた、体で理解した境地とは、 まさにこのことだ。 頭で理解したのではない。体で理解したのだ。体で、世界を貫く原理原則がわかった、と実感したのだ。 よって、リラックスの境地は禅宗の悟りの境地と同じものだ、と体で理解しさえすれば、同じものなのだ。 ただ、古代仏教では、禅宗とは違って、悟りの境地を論理として理解しようと考える。これはどう捉えるべきなのだろうか。 僕はここにも矛盾はないと考える。矛盾か矛盾でないか、自己か他者か、実在か幻想か、論理か感性か、頭か体か、 という対立図式を超えるのが仏教哲学の論理だ。・・・・ 〜(略)湯船につかって、「あ〜あ、きもちいい〜」と思う瞬間。これは大金持ちでも、貧乏人でも同じ。 育ちも実績も関係ない。欲も悩みもない。何も考えない。ただ、「あ〜あ、きもちいい〜」に集中している。 実は、あっけないことに、これが、「リラックスの極限」=「悟り」だ。 あらゆる欲を超越し、過去も未来も超越し、 静かで満ち足りていて、心の安らぎと平和を享受している。悟りや涅槃の定義にぴったり一致する。 そうはいっても、リラックスの境地と悟りが同じとは ーしかも、よりによって、風呂の「あ〜あ、きもちいい〜」と 悟りを同一視するとはー あまりに突飛で不謹慎な考えだ。そう思われる方も少なくないかもしれない。が、そんなことはない。 期せずして、あるチベット仏教のアメリカ人僧侶は、悟りとは深いリラックスだと述べていた。≫ ▼ 起業を決意してから45年間。三つのブラックスワンで、この結末。オセロで、白石が全て黒に変わったようなもの。 しかし、人生にとってベストと数ヵ月後に気づいた。50歳の節目時に、「還暦までに、それまでの人生を圧縮して生きる」 と決意して、その通り実行してきた。しかし、まだ何かが足りなかった。そこで気づいたのが、悟りが全く足りなったこと! ・・・・・・・ 4064, 思想とは 2012年05月11日(金) * その人の思想とは一つの行為である ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より ≪ ――自分に実感がなければ、ひとを掴めるはずがない。 心の底からほとばしって、聞いているみんなの心を ひたむきな感動で引っ張ってゆくのでなけりゃだめだ。 今日も明日も机にへばりついて、膠で接ぎ合わせたり、 他人の賞味したお余りでこった点をこしらえたり、 掻き集めた灰のなかから 貧弱な火を吹き起したりするのでは、 子どもや猿どもには感心してもらえるかも知れん―― それがきみらのお望みならばだ。しかし、真実、良心から出たものでなければ、 けっして心に達するものではない。 (ゲーテ「ファウスト」) そういう声を聞くと、心を打たれると同時に、なるほどこの人はそういう人かと、そこにたしかな一個の存在を認めるだろう。 この人物には思想がある、と。すなわち思想とは、つまりその人が断乎としてそのように考え、そのように生きる、その生き方の 言葉や行動にあらわれたもの、ということになる。自分の生き方の全部を賭けた言動だけが、思想の名に値するのだ。 そこから小林秀雄の、次のようなはげしい断定も出てくる。≫ ≪ ――精神の状態に関していかに精しくても、それは思想とは言へぬ、思想とは一つの行為である。 (小林秀雄『私の人生観』より) 口で言うのならどうにでもなる、とよく人はいい、これはとくにわが国では支配的で、政治家の言口葉などはその標本のようなものだが、 そんなふうに言葉=意見を弄んでいる者は、ついに真の自己に達することはできないだろう、というのである。なぜなら、ひとは自分が しんから正しいと考えたこと(それはその人の生き方から出た必然の思想である)を口にする時、己れの全存在を賭けてそれを言うのであり、 それが周囲に認められ、あるいは否認されることで、己というものを知るのだから。≫ ▼ 11年間、ここで書き続けてきた効用は、この実感がないことは逆に、書けないということ。だから出来事に直面したときの実感を、 その場で文章化して頭に残して置いて、記憶に残す習慣が出来てしまった。写真家は、シャッターチャンスを待つが、その間、頭の中で、 その場の光景の実感を文章化しているという。写真に添えられている文章は、だから写真を引き立てる薬味になる。 思想とは、真実、 良心から出たものでなければ、心に達しないのである。心にとどくのは、自分だけの頭で考え、経験し、感じた実感である。 読書日記より、書くネタがなく仕方なく捻り出した「閑話小題」、「つれづれに」のテーマの方が面白いと言われるゆえんである。 ・・・・・・・ 3698, 自己を見つめる −19 2011年05月11日(水) 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 人生は、難しい。老いの時期に、それまで生きてきた過程で問題処理を誤って置き去りにしてきた過去が吹き出てくる。 これは万人に言えることだが、肉体の衰弱と、精神の衰弱が、それに加速させていく。特に、現在、これまでの家制度が崩壊、 老後は、親子が支えあうシステムは消えようとしている。その中にあって、自分(の世界)を長年かけて作っておくしかない。 しかし、「こんなはずではなかった、まさか!」が、人生である。 誰の身にも形を変えて、突然現れ出る。 * 老いについて ー� ーP272 【 こうして不動の英知を得た、落ち着いた老年は、死を覚悟しながら、自分なりの人生のまとめを試み、知恵を磨いて、認識を深め、 哲学的知性を研ぎ澄ます恰好の時期となる。 キケロが言ったように、無分別は青春につきものであり、反対に、分別こそは、老熟に 伴ってようやく熟成する。 およそ、知性を錬磨して、労作や仕事に励む老年には、老化は寄りつかないのである。老年になって恵まれた 晴耕雨読の田園生活こそは、人間に幸福をもたらす。自然のなかで草木を慈しみ、書籍を読んで知性を鍛える田園生活は、人間に精神の 安らぎを叶えさせる。あらかじめ美徳善行の想い出を蓄えることに努力を傾注して、精神的に満ち足りた円熟した老年にとっては、こうして、 時きたってこの世を去るのは望ましいことである。自然の摂理に従い、生命に定められた限界に従って、従容と死に赴くのは、 人の使命だからである。 セネカの説いたように自然の定めに従い、それに即して自己を形成することが、何よりも大切であろう。 心身を健全に保ち、見識を蓄え、運命の贈り物は活用しながら、しかしその奴隷にはならずに、乱されない自由な心と剛毅な精神において、 不屈の力をもって、公正に生き、道義を守り、克己心強く、高潔に、そして調和をもって優美に、善行に励むことのうちに、人生態度の 基本が据え置かれねばならないと、セネカは捉えた。 人間は、老境においてこそ、いよいよ、こうした人間のあり方に熟慮を傾けて、 人生の実りを念頭に置きながら、自己自身に相応しい生き方の拡充努め、最期の時に、備えなければならないであろう。】 ▼ 長生きはしたいが、老醜は曝したくない。この溝が老年の大問題になる。他人のドブ沼は垣間見ることはできても、自分になると! 「生まれ活き、老い、その結果、長く生きている分、多くの病を経験して、最期は死んでいく。これが人生。」 そう、綺麗には人生を終わることはできようがない。事業も同じ。綺麗に引きたいは妄想。これからが、本番、長い日々が待っている。 清く、正しく、美しい人生もあるのだろうが?? これほど詰まらない人生もないだろう。 それは私の偏見か? ・・・・・・・ 3333, 「○」と「×」の標識の間を漂流している国民 2010年05月11日(火) ー「知の衰退」からいかに脱出するか?ー大前研一 (著) ー6 * 「○」と「×」の標識の間を漂流している国民 ここで小選挙区制度の欠陥を大前はシビアに指摘をしている ーそれをダイジェストに、まとめてみたー ≪ 2005年9月に「郵政選挙」で自民党は歴史的大勝を果たし、2007年7月では「年金選挙」で自民党は大敗し、 民主党が大勝した。そして去年の9月には衆院選挙でも、自民党は惨敗をきした。 2005年の郵政選挙は、 「郵政民営化に」賛成か、反対かの二者択一の選挙であった。年金選挙は、国民は民主党に勝たせたいという訳でなく、 年金の不祥事に自民党に「ノー」を突きつけた選挙。これも二者択一の選挙であった。 この二つの選挙で言えるのは、 争点が単純化できれば選挙は勝てることを証明した。さらに言えば、「国民は複雑なことは考えられない。 単純なことしか通用しない」ことが、二つの選挙で証明されてしまった。その時点で、郵政3事業はその歴史的役割を終え 廃止すべきであった。 道路公団も整理・廃止すべきものであった。小泉元首相は、歴史にも逆らったことをやり国民のための ものでなかった。 改革と称し、その政策をほぼ官僚に丸投げし、つぶすべきである道路公団や郵政を生きながらえさせたのだから、 ほとんど詐欺。しかし国民詐欺行為を国民は認識していない。現在の日本国民は「〇」と「×」の標識の間を漂流しているに過ぎない。 標識の間を漂流しながら、本当の答えは求めてもいないし、求める方法も知らない。 さらに、求めるための正しい質問もしていない。 これが日本国民の「知の衰退」の実態である。≫ ▼ 現在の民主党政権の政策を国民が支持したのではない。 あくまで、自民党の長期政権にノーを突きつけただけ。 しかし連立の社民党や民主党内の隠れ元社会党の輩が、この時とばかりに時代遅れの社会主義政策を本気にやりだしたから、 とんでもない事態になっている。 これこそ、○×の標識の間を政策が国民と共に漂流している姿である。 それでは自民党に政権を戻せば、間違いなく土建屋的利権を復活してくることは目に見えている。 国家衰退は、全てがマイナスに働く。 どう立て直すのか、当分の間は迷走するしかないのか。 ・・・・・・・・ 2958,人はどうしてオヤジになるか? ー4 2009年05月11日(月) * 時たま見かける恐ろしいオナゴ アフリカ旅行で、イスラエル旅行で、そしてetc..見かけた「離れオバサン」。 「離れ○○」の離れとは、アフリカで恐れられている水牛である。 群れから少し離れて一匹で居る「離れ水牛」で、 人間やジープを見ると見境なく襲ってくる凶暴な奴。 現地人が一番、恐れている水牛である。 一人参加か、時に二人参加だが、 その場合は一人は小使いのように隷従している。とにかく唯我独尊我。自分のペースを他の人に強要し、自分の旅行自慢をするが、 他人の話は一切聞こうとしない。もし従わない場合は喧嘩腰で攻撃してくる。 その恐ろしいこと。兎に角、その毒は強烈である。 独身のため夫婦・親子連れは目の仇になる。 アンハッピーだから癒しに来るのだろうが・・・ 独りの強さ、弱さを知り尽くしているから、どうもこうもならない。 「ヌーの河渡り」のツアーに参加した時には、 何と三人もいたが、常連で徒党を組んでいた。 親分肌の50代後半の独身オバサンは、毒の塊。10年は経つが、 今でも忘れることができない。老いた母親がいて婚期を逸したと他のオバサンが教えてくれたが。 アフリカ専門ツアーの代理店に申し込みの電話をした時に、受付の女性が「何か歯に挟まったイワクがありそうな雰囲気」 (えっ参加するの!)の意味を、アフリカのサファリカーの密室で初めて知った。 面白い旅行には何かにマイナスがある。 旅行をしていると、その人の人生の一端をみることになる。 不幸な状態?は、その本人が作り出した我慢のなせる業。 人生を60年以上生きてきて思うことは、如何なる場合でも貧してはならないこと。 《貧すれば鈍する》ということ。 《鈍すれば貧する》も真実。 《鈍》は何とか努力で克服できるが? どうも、そうでもなさそう? 結局、オヤジと同じで、 「我慢の人生を生きている」からである。「でも、多かれ少なかれ人は我慢の人生を過ごしているんじゃないか?」 もちろんお釈迦様が看破したとおり、四苦八苦の娑婆の中で過ごすのが人生である。但し、努力や知識で少なくすることが可能。 それが教養ということ? 何か教養が足りない人生を過ごしてきたようだが?? オヤジ度と、オバサン度の高いのは、大嫌いなだけ。 「ちょっと!離れオバサンなど、アフリカなど行かなくても何処にもいるよ!」 そうか・・。アフリカにぴったりなだけ! ・・・・・・・ 2594, 最高の人生の見つけかた 2008年05月11日(日) 昨日、「最高の人生の見つけ方」という映画を観てきた。期待した通りの内容で、「それ以上でも以下でもない」 というのが感想。死を宣告された末期がんの最後の死に様を軽妙に扱っているところが良い。 ーまずは、その内容を主観的にまとめるとー ーーガン末期の病室で知り合った70歳位の二人が、人生の最後の‘やりたいことリスト’を紙に書いているうちに、 意気投合して、それに基づき、残りの人生を生き生きと駆け抜けるストーリーである。 一人は ・哲学的、思索的でクイズ番組が大好き人間。 ・頭が良いが、妻が妊娠した為にやむなく学者志望を諦めて自動車整備工になった人。 ・妻一筋。浮気など無縁で、自分より家族を優先する。 いま一人は ・理論より行動の実践型で、仕事が趣味で一代で千億円という財産を作った。 ・プレイボーイ。結婚も3回したが、今はひとり。何より自分優先。 この対極にいる2人が同じ境遇で病院の同室に入ったことから物語は始る。そして、その対極のある二人が、互い補完をしあって 人生の最後を過ごす。原題は「棺おけリスト」。 棺おけに入る前に、やりたいことを書き出す。 真面目な前者のリストの一部は「荘厳な景色を見る。 赤の他人に親切にする。 涙が出るほど笑う」 大金持ちのリストは「スカイダイビングをする。 ライオン狩りをする。世界一の美女にキスをする」などなど。 最近は、かなり際どいドキュメントがあるので、より軽いタッチの内容にホッとした。 ▼ 「棺おけリスト」という言葉がよい。20歳前後に作っておいたほうが良いだろうが、差し迫らないと直視しないことである。 哲学は、その根本問題から問いを立てている。社会的な成功や達成など、「やりたいことリスト」の達成から見れば 些細なことでしかない、という事実を軽く表現しているところが良い。 それは人生の余白を埋めるリストでもある。 死は、この137憶光年の宇宙空間の外にでること。 本人にとっては消え去る、なぞというほど甘くはない。 生まれる前のことなどと気休めを考えても仕方が無い。同じようなことだが? 私の墓には 「死んでしまえば、それまでよ」 と書くつもりである?? 父親の口癖だった言葉だ。まあ、このHPも墓のようなものだが。 ・・・・・・・・・ 2007年05月11日(金) 2229, 人生張っています ー2 (σ・з・)σオハYO!! 『人生張ってます』 ー読書日記 対談を終えてのインタビューの感想がまた面白い! ≪以下字数制限のためカット2010年5月11日≫
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| 4804,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー2 |
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2014年05月10日(土)
「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著 * ある逸話 ー‘あとがき’に、以下のような逸話があった。まず、その抜粋からー 《 「サザエさん」の原作者の長谷川町子のマンガで、小学一四年生のときに読み、今なお覚えている作品がある。 それは、一人の男の人生をめぐる、良い神様と悪い神様の話だ。何の不自由もない家に、玉のような男の子が生まれた。 これを知った悪い神様は、どうもこれがおもしろくなく、この男の子の人生を惨たん憺たるものにしようとシナリオを練る。 そして、「男の子の身には次々と不幸が起こり、紆余曲折をへて船乗りとなった挙句に猛烈な嵐に遭遇して、最後は絶海の 孤島に流れ着き、そこで人生を終える」というシナリオをつくりあげた。はたして、男の子の身に次々に不幸が襲いかかる。 しかし、良い神様がそれに気づいて彼を何度も助けたために、彼は幸せな人生を送ることになる。ところがその臨終の場で、 彼は自分の人生を振り返って、本当に不幸な一生だったと言い出すのである。そして、自分の夢は船乗りになって、 どこかの島で人生を終えることだった、と述懐して息を引きとるのだ。二人の神様は、人間とはよく分からないものと 言って去っていく。これが私の人生の原点である。幸せな人生とはあくまで本人が決めることであり、まわりがとやかく 言う問題ではない。もとより、記憶のざまざまな性質や、生かしかたを知ったからといって、幸せになれるわけではない。 もとより、記憶の様々な性質や、その生かし方を知ったからといって、幸せにはなれない。ただ、知らないよりは、知って おいたほうが、みすみす損をしないだろうと思われるだけだ。・・ 》 ▼ 何か、現在の複雑な気持ちの解釈に、大きなヒントになる内容である。 3年前の節目の数ヶ月前までは考えられない、 「まさか、自分が!」が、正直な気持ち。しかし、現在に至って、これが私の物語の終わりには、丁度良いのでは?とか、 こういうのも面白い?とか、何でまた?等、色いろ複雑な気持ちが入り組んでいる。 絶海の孤島ではないが、結末が ハッピーエンドより、せっかく創業をしたのだから、倒産の終わりの方が、この筋書きとして面白い?とか、この物語の 解釈がある。これが私らしいというか、何だろう? 要は、30年間、転身しなかった結果でしかないが。ストーリーの 面白さは、これで充分。「ああ、面白かった!」と、言えるだけでも有難い。 神様は、丁度良いオチをつけたようだ。 ・・・・・・ 4437, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー7 2013年05月10日(金) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著 * ルート6 幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道) 《 幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人の目を気にしない生き方。 それを満たすのは、自己を捨て、無我、無私を実現する達人の生き方。欲にも、生死にも、他人との争いごとに拘らず、 達観して静かに生きる姿勢。ここに達成した人は、持続的至福に達することが出来る》 これが、幸福学の結論。 現在の状況を冷静にみると、「これが人生、で、もう一度同じ人生を歩みたい」という現在の心境と同じ。 ー他人と比較しないことによる幸せこそ、人生の要諦。 その辺りよりー ≪ 幸福学とは、要するに、幸せに効く主観的な要因は何か、を明らかにする研究だ。 その結果、僕たちの行ったアンケートの範囲では、幸福の要因は大きく四つの因子に分けられることがわかった。 ・一つ目は、自己実現や自己能力に関する因子。目標を持っているか、直近の目標と将来の目標に一貫性があるか、 自己統制感が高いか、自尊心が高いか、など。 ・二つ目は、つながりに関する因子。他人に対して親切か、様々な出来事に感謝しているか、多様な知人がいるか、など。 ・三つ目は、楽観因子。楽観的か、ポジティブか。 ・四つ目は、他人と自分を比べない因子。他人と自分を比較しない傾向が高いか。 ここでは、四つ目の因子に注目しよう。 すなわち、「他人と自分を比べないことによる幸福」について。 自分を他人と比較しない人には、長続きする幸福が訪れると考えられる。千五百人への調査結果も、それを表している。 つまり、千五百人の回答者のうち、他人と自分を比較しない傾向が強い人は幸福である比率が高く、他人と自分を比較する 傾向が強い人は不幸である比率が高かったのだ。 自分と他人を比較しない人々には二つのタイプがあると考えられる。他人を見ないタイプと、自分を見ないタイプだ。 前者は、自分だけを見て他人を見ないタイプ。周りのことを気にしないマイペースタイプだ。 我が道を行くから、 周りなど関係ない。場合によっては、独りよがりだったり、わがままだったりするかもしれない。 自分は幸せでも、他人には迷惑をかけている「自分勝手」タイプかもしれない。後者の自分を見ないタイプは、 逆に、世界は見るが自分を見ないタイプ。何が欲しい、こうなりたい、などの自我の欲求があまり強くないから、 他人と自分を比べることにそもそも興味がない。悪くいえば向上心や競争心がない。なすがまま、自然のまま、だ。 たとえば、武道の達人をイメージしてみていただきたい。茶道、華道、座禅などでもいい。 凛として、姿勢がよい。 何かあっても、動じない。静を以て動を制す。普段は静かだが、実は相手を倒す力を秘めている。無駄に力んだりせず、 相手の力をすっと利用して、自分の思いどおりに世界を動かす。しかし、私利私欲はない。判断は大局的。全体が見えている 緊張感のある空気を醸し出すが、自分のためには怒らない。思考の対象は常に世界だ。世界のために行動する包容力。 名声を得ていたり、人望が厚かったりするが、決して自慢などしない。 もちろん、他人と自分の比較などしない。≫ ▼ どうも世の中、嫉妬と苛めの糸で哀れなほど。私住む城下町は長年の柵で、雁字搦めの蛸壺社会。 8割以上が地元出身者で占められ、それが全社会。学校関係者以外は殆ど付き合いがないが、垣間見えてくる世界は 箱庭のようで面白い。知識を持たない人の無意識の科学は、身近の人との比較しかない。不幸になって当然。 それも私の主観による思い込み。「横を見ないで、縦(今、ここ、自分)を見て生きる」と割切ってしまえば、良いが。 ・・・・・・ 4063, 本当は怖い抗うつ剤 ー2 2012年05月10日(木) * うつ病になったら、どうしたらいいのか。 { 浜松医科大名誉教授 高田明和 } 倒産の惨劇を身近で見ていたので、二年間は落ち込むのは避けられないと判断。 最小にするためスポーツジム通いと、 打ち込める対象を加えることを考えた。一つ間違えると欝に伴う暴発か、破滅になっていく。それがiPadとシネマと 蔵書の再読と、世界の潮流の鳥瞰などを、逆に徹底的に楽しむことであった。それと、中村天風の「積極一貫」の思想書を、 身近に置いて何度も何度も読み返した。二年にまだ一年あるが、一息ついた後半の方が危ないのかもしれない。 その私が予防策でとった方法がそのまま、治療法として研究されていた。運動と、考え方、受け止め方をプラスにすることだ。 ≪うつ病の治療法として確立しているのが「運動」である。体を動かすことが精神によい影響を与えることは様々な研究で示されている。 第二は「ものの考え方」である。私たちは競争社会に生きている。競争とは相手に勝つことを目的とする。もし負ければ落伍者になる。 一度敗北すると、将来がないように思うのだ。さらに大事なことは、どのような分野にあっても自分より勝れた人がいるという事実。 例えば野球にイチローがいて、ゴルフには石川遼がいるのと同じようなものだ。努力は大事だが、自分が及ぼないからといって 自分を責めていたら人は決して心の幸せは得られない。・・・堀口大學は自身の『座右の銘』という詩で「暮らしは分が大事です。 気楽が何より薬です そねむ心は自分より 以外のものは傷つけぬ」と詠んでいる。自分以外とは社会的ランクのことである。 今の自分のランクを受け入れ、それでよいのだとする以外に心は楽にならないのだ。禅では「不思善 不思悪」といって、思い出さない ことをもって最も尊いとする。といって、無理のことなら、思い浮かんだら、しばらく放っておいて手を出すな、必ずその思いは 消えると、禅では教えている。 実際に、どのような思いも5秒で消える。・・・ ≫ ▼ 「どんな思いも5秒で消える」は、言いえて妙である。出るのは仕方がないが、なるべく、そこで切るように心がければよい。 全ては二年で落ち着くし、目先は五秒のフラッシュで出てきた思いの延長を考えないこと。特に寝付けない布団の中での苦悩の嵐は、 訓練で最小にすることが可能。 そのためにiPodを枕元に置いている。最近は、ほとんど夜半、使うことはないが、音楽は効く。 ・・・・・・・ 3697, 自己を見つめる −18 2011年05月10日(火) * 老いについて ー� 〜P270「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 【ショーペンハウアーが言ったように、そうした老年の実りが熟するためには、まず何よりも、人は、健康と生計の維持に、早くから 留意して、みずからの人生設計を築き上げる努力を怠ってはならない。生計もままならない病気がちの老年は悲惨の一語に尽きるから。 そうではなしに、比較的健康に恵まれ、また、なにほどかの金銭を蓄えた老年は、少なくとも社会生活全体の安寧が保たれた条件下 では、むしろ静かで、平穏な人生の実りの時期になるであろうと、ショーペンハゥアーとともに人は言うことができるかもしれない。 生の本能の激しい渇望も静まり、社会的責務もいちおう果たし終えた、比較的自由な老年は、自己を振り返り、世界を見つめ、 知性の働きを純化させて、洞察と実りを結びうる最良の時期だと、たしかに言えるであろう。 しかし、そのためには、人生に対する過剰な期待や野心に惑乱された、思い込みの激しい混乱した想念から解き放たれて、 冷静にこの世の営為をその真相において見つめる知恵の魂が熟成してこねぽならない。ショーペンハウアーが言ったように、 人生の表側だけでなく、裏側もすっかりよく眼のなかに入った老境においてこそ、初めて、人生の虚妄と空しさが会得され、 所詮はいかなる人生も五十歩百歩であるという事態が得心されてくる。 そうした人生の有限性への徹底した悟りが、老境の 平静さを築く基底とならねぼならない。実際、誰しも、老年とともに、そうした悲愁にみちた諦念を学び取るものであろう。 老年になって、やっと人は、自分の人生を変えた大きな出来事が、そっと気づかないうちに自分に忍び寄ってきて、 自分を支配するに至ったことを理解する。 自分の周りの人々が、ほんとうは何者であったかが、ようやく分かるのは、 老年になってからである。 老境に至って、ようやく、自分の歩いてきた人生が、その意味と射程において、誇張も、卑下もなく、 ありのままに見つめられ、自己の人生の限界と特性、その意味と無意味とが、過不足なく凝視される萌芽が生い育ってくる。 この世の中の名誉や名声や栄誉などが当てにならず、他者の身勝手な憶測に依存した評価に過ぎないことも、すべて見抜かれている。】 ▼ 新潟で事業を事業を立ち上げた時、近隣の土地のオーナーの老人に建築確認の判を貰うため交渉をしたときに、心底、驚いた。 自分の優位の立場を利用して、自分の人生の鬱憤を晴らしている姿が老醜そのものに思えた。これは沼垂界隈の特性と当時は思ったが、 最近分かったのは、実は老人全般が持っている性癖ということである。内面を見つめる力のない人は、その鬱憤を外に向けるしかない。 それを長年かけて培ってきたため、心の底には、怒りと憤りが底なしの泥沼のように深く蓄積され毒ガスのように湧き出ている。 そのガスの対象を次々と探し出し、他虐、そして自虐として爆発を始める。それが老醜である。 老年は、その道を一歩ずつ 歩いていると割り切った方が良い。そうすると、長生きは、ほどほどということになる。 それにしても老醜という奴は、である。 ・・・・・・ 3332, 全然人種が違う「携帯世代」 2010年05月10日(月) ー「知の衰退」からいかに脱出するか?ー 大前研一 (著) ー5 * 全然人種が違う「携帯世代」 この7〜8年で、ブログと携帯電話が、我われの生活を激変させたといってよい。携帯電話とブログが、これだけの機能を持つとは 驚異的といえば驚異的である。さらに、ミニブログのツイッターと、iPadなどが爆発的普及を始めようとしている。 第二次大戦後の電話とTVの普及から始った情報革命がデジタル化などで、人類そのもののあり方を変え始めた。 情報端末によって、その世代の性格、能力まで既定をするほどになっている。で、次は携帯電話世代である。 ー まずは、その部分を抜粋してみる ー ゲーム・キッズに続く世代が、この章の冒頭で述べた、いわゆる「ケイタイ世代」である。この「ケータイ世代」は、 これまでの日本人とは、また全然人種が違う。 この世代の特徴をひとことで言えば、彼らは私たちの見えないもの、 私たちの見ていないようななものを空想できるカは持っているが、まったく無欲だということである。 たとえば彼らは「モバオク」や「モバゲータウン」を平気で信頼して、モノを売り買いしたコミニティを形成したりしている。 これは上の世代からすると、ある意味信じられないことだ。 ここまでサイバー空間を無条件に受け入れることは、おそらく、 私たちにはできない。 10年前に携帯電話が普及し始めたころ、誰が、ここまで携帯が進化し、私たちの日常生活に入り込むと 考えただろうか? それが、いまやメール、ネットアクセス、テレビ視聴、ゲーム、写真、動画の撮影や交換、スケジュール管理、 ショッピング、切符予約・購入、決済など、全てがケータイで済む時代になった。 前記した「モパオク」だが、 これは2004年にディー・エヌ・エーが立ち上げた携帯電話からのオークションサイトで、売りたいものをケータイで撮り、 DenAのサイトに送るシステムである。現在では1日1600万のべージビューがあると言い、その利用者の6割以上が女性という。 また、その後導入されたケータイゲームサイト「モバゲータウン」は1日2億ページビューがあるというから驚く。 忘れてはならないのは、この携帯文化は日本特有のものということである。外国は、せいぜいチケットやメールくらいである。 〜〜 さらに、これが進化してパソコン機能まで付いたモバイル携帯電話に変化を始めてきた。それと兄弟的機能を持った iPadが次の主役になるのは間違いない。現在の5〜10歳の子供たちは、ツイッター・iPad世代と、 後々になっていわれるだろう。 「情報機器からみる世代分類」というテーマを立つ。それは、後のテーマにする。 いずれにしても、別世界が出来てしまったのである。 ・・・・・・・・ 2957、世界はパンデミックに入ったのか! 2009年05月10日(日) 新型インフルエンザの拡大が、警戒「5」に入ったが、近々に最悪の「6」が宣言される可能性が出てきた。 今のところ鳥インフルエンザのような猛毒ではないが、世界中に拡大していく中で猛毒に進む可能性が大。 ≪字数制限のためカット 2011年5月10日≫ ・・・・・・・・・ 2593, 閑話小題 2008年05月10日(土) *地元スーパーの社長の死 地元長岡のスーパー原信の社長が亡くなったと新聞で報じていた。40数年前にセトモノ屋をしていたが、先代と供にスーパーを立ち上げ、 一部上場までもっていった。20年ほど前に胃癌になったと聞いていた。享年73歳。チェーン理論を教える「ペガサスクラブ」のセミナーで よく、顔を見かけていた。30年ほど前に会計事務所の所長の紹介で会ったことがあった。40過ぎの温和な人という印象が残っている。 スーパーを立ち上げた直後に私の父親のところに創業を供にした先代の父親と、衣料品の仕入れ先とか、産地とかを聞きにきたと 父から聞いたことがある。 ・・・私には関係ないことだが。 何時も人様が亡くなると思うことだが、仕事の質量より、どれだけ 人生を楽しんだかを推し量る。 あまり楽しい人生ではなかったように思えたが、それは私の想像でしかない。 しかし、生きていることが90%、それをフルに利用して多くを学び、楽しむことを加えれば99%の価値がある。他人様の死は、 そのことを自戒させてくれる。弟と供に途中まで会社を伸ばしていたが、子息が大学から卒業する辺りを狙って追い出したのは驚いた。 その前後に、弟と故人は二人とも癌で倒れた。 そして大よその20年後に鬼籍に入ったのである。 その弟の方が余程、人生を味わったと思われる。 ≪字数制限のためカット 2011年5月10日≫ ・・・・・・・・・ 2007年05月10日(木) 2228, 「多財布」家計 ヾ(?o?o)ノ 【ぉはょぅ?】 先日の日経新聞に、「総働き家族」“富山にはなぜか富がある!?”という記事があった。(日経新聞07.05.04朝刊1面) ーまず、その記事を要約すると、 *日本一豊かな家計の秘密は「総働き家族」の風土と環境・・ ▼「平均月収」71万円=日本一 ▼「消費支出」40万円=全国二位 ▼「こづかい月額」4万5千円=日本一 ▼「平均預貯金残高」569万円=全国七位 その秘密は一家の「多財布」という。 (*'-'*)ヾ(*'-'*)ヾ(*'-'*)ハ 女性の常用雇用率は全国一位の66%で、全世帯の6割近くが共働き。 日本では家計に占める世帯主収入の割合が82%だが、 富山では62%。配偶者や他の世帯員の収入が異常に大きい「多財布」家計になっている。富山の女性は働くのが 当たり前で、 家にいると『体が弱い』と思われる。子供は姑が見て、働けば旅行など楽しみも増えるという考え方。 富山は三世代同居が世帯の2割もいる。日本型家族制度という昔ながらの伝統が、逆に女性の社会進出を支えている。 化学や金属加工など産業が盛んなことも女性が働く風土を育てている。富山市は昨年「運転免許証を返上すれば2万円給付」 という制度を始めた。対象は65歳以上だが、市が高齢者と若者の住まいの交換を仲介する。 高齢者は車が必要な郊外の一軒家を出て中心市街地に引っ越し、空いた家は子育て世帯に貸す。所得に応じ月1万円の補助も出す。 ▼ 以上のことからみて、県民性が堅実な働き者家族で、これからの日本の家庭のモデルともいえよう。 私の知人に夫婦で都合、年収1600万の人がいる。長男で家を継いでいるので家賃やローンもないので、 非常に豊かそうだ。 下手をすると、本社の重役より豊かな生活を送っているようだ。 以前、ある知人から「サラリーマンの三ランク」を聞いたことがある。 ・家持ちの人(親から家を受け継いでいる人)で、妻がキャリアの収入の多い人か資産家娘で、二つの条件が揃っている人。 ・二番目は、そのどちらかの一つの条件の人。 (字数制限のためカット 2014年5月10日)
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| 4803,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー1 |
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2014年05月09日(金)
「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著 * 自分も人生も、記憶がつくりあげる この本の感想文を書いていた昨日、9年前〈2005年05月08日(日)1496, いま・現在について−4 〉に、 記憶について書いていたことに気づいた。 よくある偶然の一致だが、ーまずは、その内容からー 《 「記憶のない男」ーDVDレンタル レンタルDVD で観た「記憶のない男」が、「いま」と「私」を考える上で面白い内容であった。 ー知らない街に仕事を捜しに来て、暴漢に襲われて記憶を全て失った中年男の物語ー それぞれの人の「いま」は、それぞれの過去を背景を持っている。過去が記憶喪失で失われた場合、 その人の「いま」は無いに等しい。ストーリーでは、そこまでは表現しつくしてはいなかったが。 しかし、その空白を「いま・現在」という現実の中で、必死になって埋めようとする主人公の心を、静かに淡々と 映し出していた。過去の想起がなければ、[私]は存在しないに等しい。動物に[私]はない。それは想起ができないため。 もし自分が過去の記憶を無くしたら、「いま」という感覚は希薄になる。 青年時代の日記を偶然倉庫で発見。それを、 悪趣味的に、この随想日記で露わにした。その過去の「いま」を、思い出すほど、現在の「いま」との重なりが見えてくる。 そして現在の「いま」がより濃く深くなっていく。それは現在が過去より成立しているためである。 過去や、未来より、「いま」が全てだと考えがちだが、過去も未来も重要であることを教えてくれた映画である。 {「いま」を人間の手とすると、過去と未来は人間の身体}と例えると解りやすい。手は手としては存在し得ない。 手はあくまで身体の一部でしかない。記憶喪失とは、「手そのものしか自分を感じ得ない」ということ。 身体全体が失われた感覚は想像しただけで恐ろしい。そこ(いま)には、「私」は無いに等しい。 [いま]に集中するということは、過去と未来に対して「楔」を打つことである。 楔を打つことは最も重要な行為である。しかし全体の構造を考えて打たなくてはならないのである。 今上の人生、来世のことは考えない方がよいのか? それとも、来世のために今生を生きるか? やはり「いま」に全てを傾けるべきである!? 「どうせ死んでしまう」のだから。 》 ▼ 人の記憶は、そのまま、その人の過去になる。その記憶がスッポリと無くなれば、その箇所の過去が消えたのと同じ。 リタイア後は、過去と向き合う時間が多くなる。それは自分と向き合うことである。 問題は、その過去の解釈、受け 止め方になる。それを、ここで延々と書いているが、その受け止め方は、過去の蓄積の上の知識と経験のベースで決まる。 その記憶との付き合い方を、この書が変えようというのだから、面白くないはずがない。 ーつづく ・・・・・・ 4436, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −6 2013年05月09日(木) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著 * ルート5: 自己とは定義の結果だと理解する道(自他不分離の道) ≪ー自己という概念を取り去ってみるとー 意識は身体をコントロールする主体ではなく、世界を観測し世界と相互作用する 身体Aという媒介の動作をモニターする装置に過ぎない。僕たちの心は、そもそも、どの身体に宿ってもいいのではない。 一つの身体に、一つの「こころという幻想」がセットになっているだけ。ただそれだけのことだ。どんな人間にも、心は一つ。 あなたの心は、よくSFにあるようにコンピューターに乗り移ったり、オカルトのように身体を抜け出したりできるものではなく、 脳の計算によって作られた単なる擬似体験劇場に過ぎないのだ。そう考えれば、特に身体Aを「自分の身体」と捉える必要はない。 ・・・ 本書を読んでいる「クオリアA」は「あなたの心」ではない。何かを感じているだけの存在だ。たまたま、これまでは 「あなたの身体」と呼んでいた「身体A」と接続されていて、「身体A」が世界と相互作用した結果を観劇しているだけだ。 つまりクオリアAから見ると、身体Aもそれ以外の世界も同じくクオリアAの観劇対象なのであって、所有物ではない。 もはや身体と外界、自己と他者、主体と客体、という分け方は意味を持たない。意味としてつながり合って相互作用しているのみ。 クオリアAが観劇できる範囲は、身体Aの五感が情報取得する範囲まで。つまり、身体Aは、移動式観測装置だ。 これまでの世界で、あなたと他人の同意とか共感とか呼んでいたものは、身体Aを介した他者の自己化だ。 いや、自己の他者化と言うべきか。自己という概念はないので、主客合一、自他非分離と言うべきである。≫ ≪ー私とは、仮構された「自己」というシステムでしかないー もちろん、この楽しく生き生きした世界を観劇できなくなる ことはとても残念だが、それだけだ。「私の死」ではなく、「一つの観劇システムの終了」だ。つまり、仮構された「自己」 という概念を解体してみると、「死ぬのが怖い」という概念は存在できない。「死ぬのが怖い」という概念は、「自己」という 幻想に付随して作り出された幻想に過ぎないのだ。比喩的に言えば、身体Aとは窓だ。一つの窓を通して世界を見る装置だ。 世界は、いろいろな身体を通して見られていた。また、世界では、それらの身体によるインタラクションも行われていた。 これからも今までと同じように、行われていく。おびただしい数の身体たちによつて。違いは、おびただしい数の身体の中の たった一つであるところの身体Aが機能を停止した、ということだけだ。それに伴い、役目を終えた、身体Aを介した世界観測者 であるクオリアAもまた役目を終えた。ただそれだけ。 もう「つ、強調しておくと、身体Aと世界は一体だ。 身体Aは、世界とつながっている。世界は、身体Aとつながっている。つまり、元来「自分」と呼んでいたものは世界である、 世界は「自分」だ。本来、自己と他者の境界はない。境界を定義するからあるように見えるだけだ。したがって身体Aの喪失は、 世界の一部の喪失に過ぎず、世界から見ると髪の毛や爪を切るようなものだ。≫ ▼ 自己は定義の結果とすると、精一杯生きてきたこと自体が何だったのだろうか?そこで立ち現れた世界が自分になる。 ご隠居の身になった現在、私など死のうが生きていようが、どうでもよいこと。今まで「自分」と呼んでいたのが実は 世界だったということ。入江の洞窟と外海が繋がっていて、洞窟の周辺を自分と思っていたが、外界を含めた 世界が自分と考えると納得する。己の行蔵を振り返ってみれば、そのことがよく分かる。今の自分も世界ということも。 そうこう考えると、何?この俺は! になる。ただ気楽に死ねばよいだけ、プシュと。 ボチボチ気楽にいけばよい。 ・・・・・・ 4062, 本当は怖い抗うつ剤 ー1 2012年05月09日(水) 数ヶ月前に抗うつ剤(ハッピードラッグ)の恐ろしさについて書いたが、ある雑誌に浜松医科大元教授の抗うつ剤からの脱却の レポートがあった。親戚・縁者にも鬱病に苦しんでいる人を多くいる。青年期に何度か挫折体験をしたが、宗教系や精神論の本で、 独りで克服してきた。去年の挫折?は、早朝のミニサイクリングとスポーツジム通いで運動量を増やし、毒が溜まらないようして 乗り越えた。iPadにエネルギーを集中したことと、シネマ通いも効果があった。 また身近な縁者の倒産劇を手助けしたことで、 情報を得ていたこともある。節目は可能な限り綺麗に?を、心がけたことも毒を最小にしたようだ。 私の知人に気楽に精神科の 通院を勧めたが、大丈夫だろうか。 抗うつ剤が多く使われ出した頃から、自殺者が激増し始めた統計がある。要はドラッグ患者に 仕立てられているのでは? という疑問が出ていた矢先の、医学者の実体験の内容である。 恐ろしい限りである。 ー 大まかにまとめると ー { 浜松医科大名誉教授 高田明和 } ≪ 厚生労省は2013年から、今まで4大疾病として扱われてきた、脳卒中、急性心筋梗塞、がん、糖尿病に精神疾患を加えることを決定した。 厚労省が08年に実施した調査によると、精神疾患の患者は323万人と糖尿病の患者数237万人を上回っている。 自殺者の数は13年運続で 3万人を越えている。 私たち家族は米国における9年の生活を切り上げて、1975年に浜松に帰ってきた。子どもたちは日本語を話せず、 家族ともども激しいカルチャーショックを経験した。それは強度のうつ状態を引き起こした。 その時の体験は、『本当に「うつ」が治った マニュアル』に書いた。 薬は便わなかったが1年後に、私が言霊療法と呼んでいる言葉を使い考えを変える方法と、坐禅で劇的に うつから脱却できた。その後30年くらい何の問題もなかったが、70歳のころ、何度か海外出張後に時差ボケが治らず、医師に相談すると、 睡眠薬と抗うつ剤パキルスを処方された。 最初は眠れたが次第に寝付が悪くなり、これは睡眠薬の依存かと思って中断したところ、 ひどい不安と不眠を体験した。パキシルで不安が解消されたので、自分がうつ病になり、パキシルが効いたのかなと不安になった。 しばらくしてパキシルを中断すると、再度不安と不眠に襲われた。そのころ、欧米でパキシルの離脱症状(車酔いのような気持ち悪さ、 顔の発汗、血の気を引いたような症状)が問題になっていたので、抗うつ剤から逃れようと、二週間薬なしで済ませた。 自分は病気でないと繰り返して、何とか頑張った。 抗鬱剤は効果より副作用の方が大きいのではないかと、疑問が生じたのである。 実際には抗うつ剤の効果はブラシポ効果(暗示)が多いこと、抗うつ剤を一度服用してしまったら、止めるのが至難である。・・≫ ▼ 抗うつ剤の恐ろしさは、それは麻薬そのものであること。 一度、依存をしてしまうと、切れると禁断症状が起こることだ。 そして服用をしているうちに段々、強い抗うつ剤でないと効果がなくなる麻薬の禁断症状と同じである。 初めは、気楽に 医者の処方薬を飲んでいるうちに麻薬中毒になってしまうことだ。 薬のため、精神のバランスを崩した男をみたことがある。 狂ったような怒り方は、狂人そのもの。長年積み重なった鬱憤が麻薬で爆発するから、知らない人は、呆然となる! ーつづく ・・・・・・・ 3696, 閑話小題 2011年05月09日(月) * ジャズ、1000曲 私の知人がジャズマニアのSE。 先日、パソコンの不具合をみてもらった折、「自分の持っているジャズが1万曲あるが、 そのうち1000曲をあげるよ」と言われた。そして先日、その記憶媒体を通して私のパソコンに入力をしてもらった。 その結果、私の書斎コーナーのパソコンと、それに伴ないiPodには、一挙にジャズが1千曲が加わった。 先日、事務所から引き上げてきたステレオをパソコンと繋いでiTunesで聴けるようにしたため、部屋はジャズ喫茶のようにBGMが 常に流れる空間になっている。 ジャズなど知らない私でも、自分の好みのリズムのジャズを選んで聴いている。それが、読書や、 この随想日記の下書きをするBGMに非常によい。 自分の居場所を昔から作るのが好きだったが・・ 本人は、ネットラジオと図書館の貸し出しのCDからコピーした曲というが、フリーの時代は、こういうことである。 * 問題は高速道路と新幹線が引っかかるため?・・ 政府が、汚染地域を拡大出来ないのは、広げると高速道路、次に新幹線の福島駅に引っかかるためではないか?と言われている。 もしアメリカの基準の80キロにしたら、新幹線と高速道路が不通になり、東北六県が大打撃になりかねない。 この原発事故の今後を考えると暗澹たる気持ちになる。海水汚染と、それに伴なう雨などで関東圏も、やられる可能性も充分にある。 それほど、この事故の根は浅くない。既に関東圏の不動産の暴落の噂が週刊誌などで騒がれ初めてきた。もちろん、地元の新潟県も 影響してくるだろうに。放射能測定器が6万から8万円で売られていて、飛ぶように売れているというが・・・ ・・・・・・・ 2010年05月09日(日) 3331、「ゲーム・キッズ世代」は、まだ見込みがあるが・・ 「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) ー4 *「ゲーム・キッズ世代」は、まだ見込みがある ーまずは、「ゲーム・キッズ世代」の部分からー Pー262 「少年ジャンプ世代」に続くのが「ゲーム・キッズ世代」である。「任天堂キッズ」「プレステキッズ」と言ってもいい。… ただし、このゲーム・キッズというのは、その世代の主流ではない。「少年ジャンプ」に熱中するよりはゲームに熱中した世代 ということでこう命名しただけだ。 この世代の先端は、すでに三十代半ばになろうとしている。この「ゲーム・キッズ世代」は 私が見たところ、「少年ジャンプ世代」よりはマシである。ゲーム・キッズ世代は子供のころから、ロールプレイングゲームを やってきた世代だけに、とにかく、何かをしてやろうという挑戦するメンタリティをもっている。ロールプレイングモデルの いいところは、少なくとも勇気を持って「新しいドアを開ける」「未知の世界に通じる洞窟に入る」などの選択をしなければ、 物語が進まないことである。とはいえ、この世代は粘りがない。ゲームの展開が思わしくなくなるとすぐに、‘ゲームオーバー’ させたくなる、つまり「オールクリアーしたい」と思ってしまうのだ。・・・・ この世代で活躍している人間を見ると、たとえば アメリカやインドに負けないIT人材が輩出されている。彼らは日本のゲーム産業をつくった世代であり、「ウェブ2・0」の適応力は この世代が一番高い。彼らはネットの世界を通じて世界観を確立、これを本格的に利用した初めての世代である。 したがって、現在のサイバー社会に対する感覚は、世界でもトップクラスである。これは自明のことで、たとえば、ここで30歳と 45歳を比べてみれば一目瞭然である。30歳の多くは、12歳ごろからパソコンを始めているから、パソコン歴は15年以上になる。 つまり、人生の半分以上を、パソコンといっしょに暮らしてきた。一方の45歳は、30歳ぐらいでようやくパソコンを始め、メールを 使い始めたのがここ7、8年。 ワードでの文書作成やネット検索などを経て、最近4、5年でようやくエクセルやパワーポイントを 使えるようになったレベルだ。この両者のどちらが、いまのビジネス社会に対応できるだろうか? こう考えてみると、いまや若い 人間が年上の人間の「先輩」になる下克上の時代であることがわかる。 IT化によって古いスキルは廃れ、どんどん新しい スキルが必要とされている。 ▼ それぞれの年代別の特徴が入りこんでいるから複雑だが、漫画からゲーム・キッド、そしてパソコン、携帯と、IT化が、 それぞれの世代の性格を微妙に変えている。この次の世代が携帯である。それは次回になるが、ここでは、まだ書いてないが、 ブログ、ツイッター世代、そしてiPad世代という括りも出てくるはずだ。 ・・・・・・・・ 2956,マッピングする視点 2009年05月09日(土) ある本に「マップする視点」という言葉があった。グーグル・アースが出来てから 《誰もが何時でも、宇宙からの写真を気楽に見ることが可能になった。》気楽にマッピング出来るのである。 「秘境ツアーにはまって世界中を憑かれたように何ゆえに行ったのか」というと、ストレスの発散であった。 軽い痴呆症の母と同居して、ストレス発散をしないと家庭が壊れるという危機感を持ち、家内と年に2〜3度、 秘境旅行に行くことで何とか乗り越えることが出来た。 自分の存在を異質空間に移動して実感として マッピングすることで、その時点の「今、ここ、自分」を括弧にいれ、旅行のストレスと相殺することだった。 遠くから「極限に近いストレス」の生活を眺めることによって乗り越えようとしていたのだ。 アフリカや南米の遠くからマッピングする視点を、自分たちの支えにしていたのである。 これが空間的なマッピング体験である。 ▼ 次に哲学に凝ったのである。初めは「ソフィー世界」など軽い哲学史から始めた。同時に哲学書入門。 学生時代には体験が少ないため、さっぱり解らなかったことも、経験の積み重ねで解ることが多いのが哲学である。 ≪字数制限のためカット 2012年5月9日≫ ・・・・・・・ 2592, 日本の国民皆保険は世界に誇るシステム! 2008年05月09日(金) 文芸春秋の4月号に、「日本の国民皆保険は世界に誇るシステム!」とあった。当り前と思っていた日本の健康保険が進んでいる 事実を初めて知った。年間33兆円に上る国民医療費は、対GDP比でみるとOPEC30ヶ国中21位と高くない。 しかし、その質的レベルからみると世界に誇れるシステム。 それぞれの国によって、多くの規制があり、日本のように彼方此方の医者に気楽に行けないという。 ーまずは、その部分を書き写してみたー 医療技術、たとえばがん治療は世界でも最高の水準を誇っている。しかし一方で、納得できる治療を受けられずに 複数の病院を渡り歩く「がん難民」もあふれている。06年に近藤正晃ジェームス東京大学特任准教授らが、 がん患者1168人に対して行ったアンケート調査の結果、「治療説明時に不満、または治療方針決定時に 不納得を感じたがん患者」が53?を占めた。これを日本のがん患者128万人にあてはめれば、68万人が 「納得できる治療を受けていない」ということになる。保険証一枚あれば、いつでも、どこでも、誰もが平等に 医療を受けられる「フリーアクセス」を、日本の患者は当たり前に享受しているが、これはどこの国にでもあるものではない。 1961年に始まったこの目本の「国民皆保険」は、じつは世界に冠たる医療制度なのである。 ≪字数制限のためカット 2011年5月9日≫ ・・・・・・・・・ 2007年05月09日(水) 2227, 人生張っています ー1 (*´・ω・)ノおはよー ー 読書日記 「中村うさぎ」については、もういい加減にしろ!と思いながら、図書館で見つけると、つい借りてしまう。 エゲツナイ!の一言である。「人生張っています」は露悪という言葉など、はるかに超えている。 「無頼の女たち」5人と語った対談は、互いの最悪を引き出したエログロものである。 こういう話は、世間様の枠から遥かに出ていて中途半端なお笑いより面白い! 花井愛子、岩井志麻子、マツコ・デラックス、西原理恵子とくれば「たしなみ」など、ありえるわけがない。 「はみだし者」の世間の価値観におさまらないオバケのような妖怪女が普通人の「常識」と違う「異世界」 の話を展開している。 ≪字数制限のためカット 2010年5月9日≫
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2014年05月08日(木)
<世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論> ー細野真紘(2014年の論点100) * 年金は安心!を、まとめると 年金は、あくまでも老後生活の補助金。あまり知られてないが、現役世代が圧倒的に多かった数十年間で、積立金が 120兆円もあり、それを取り崩していけばよい。 現在の年金の支払いは、現役世代の年金収入以外にも、税金からも 支払われている。巷で言われている、1970年の20〜65歳年齢対65歳年齢が8・5人対1で、2050年に1・2人対1としても、 今まで計画的に積み立てられてきた年金基金と、税金を加えればよいことになる。 楽観的だが、一理はある。 正社員の比率が減る中で、厚生年金に加入できる人が減っていることが大問題。今後、高度成長も望めず、国家の 体力が弱っていく中で、楽観視は出来ない。しかし、この年金制度が無かったとしたら、10年、20年先の若者は、大変。 最悪の想定で、両親2人と、その両親の親4人、合計6人の面倒を見るケースも、ありえる。 多くの紆余屈折を経て、 それなりのカタチになっていくが、悲観だけをしても何も得ることは出来ない。ここで取り上げてきた基本的知識を、 国民は、あまり知られていないようで、より丁寧な教えが必要のようだ。40年以上の厚生年金を夫婦してかけてきて、 手取り25万では、何か釈然としないが、それでも大きは生活の柱になっている。逆に、夫婦二人で、国民年金だけの 収入で手取り11〜2万では、生活保護にも満たない。 核家族化の中で、子供からの援助も当にできず、ハイパー インフレにでもなれば、アメリカの貧困層のように救済センターに食事のための行列も現実になりかねない。 私も、半年前までは、倒産など、思いもよらなかった。家内も、私の実家も、堅実な家柄だったので、厚生年金や、 万一の備えをしていたので、何とか生活の質を落とさないでいるが、一つ間違えれば、大変の事態になるところ。 生きていく上で、お金は健康とともに大切である。それから自由になるには、長年の時間をかけての準備と、 蓄積が必要。 老いれば尚の事、たかが年金、されど年金。たかがお金、されどお金である。それ以前の知識も・・ で、120兆の年金基金も、日本国債とアメリカ国債に化けているとしたら、どうなる? 国家あってこその個人である。 ・・・・・・ 4435, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −5 2013年05月08日(水) * ルート4:主観的時間は幻想だと理解する道 ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著 ーまずは、この概要を主観的にまとめてみる。ー ≪ 客観的な「今」と主観的な「今」の違いからみると、客観的時間は、時間が一定速度で進むという前提に基づいている。 時間を秒、分、時間、日、月、年、ディケード(10年)、世紀といった絶対尺度で捉えるから、そのような結論になる。 客観時間は、一定速度で進む。それは、人がそのように定義したからに過ぎない。しかし、主観時間は、そのように 捉えるべきものではない。 主観的時間を考えるに、「今」を考えてみよう。「今」は、客観的には時間軸のある一点である。 客観的な今は時間の幅を持たない。どんなに短くても、時間が幅を持っていたら、それは今でなく、過去と未来になってしまう。 今とは、それが千分の一秒前と、千分の一秒後の間が、今になってしまう。 千分の一などどうでもよいと思いがちだが、 数学や物理の世界ではそれを認めない。ということは客観的今とは時間幅を持たない。 では、主観的な今とは何か。 「クオリアとして知情意を感じている、この今とは何か?」と問う以上、主観的な今は時間の幅を持っていると考えるべきだ。 ここに、時間的幅を持たない客観的な今と、時間幅を持つ主観的今。両者の定義は異なる・・・ 私たちの心は、「今」しか考えられない。過去を思い出したり、未来を想像できるが、それらを行うのも「今」だ。 私たち人間には、過去も未来もない。実は現在もない。 過去のことを思い出せるが、エピソード記憶に残っていることを 思い出しているに過ぎない。過去はクオリアではない。単なる記憶だ。その過去の体験のクオリアに戻ることは出来ない。 人間には「今」しかないのだ。・・・ 僕たちは「今しか感じられない機械」。今と、生まれてから今までと、今から死ぬまでが、 あなたにとってのすべての時間なのだ。それだけだ。 主観的時間には、「死」なんてない。死ぬ瞬間は、もはや主観的な 「今」はない。死の直前には「今」を感じられるが、それは死の瞬間ではない。主観的には死はないのだ。生まれる前は 主観的には生まれていなかったのだから当然、時間は流れていなかったのだ。主観的な過去の時間は過去にさかのぼるほど 圧縮され、ついには物心ついたとき以前の時間は完全につぶれゼロになると考えるべきだ。未来も、先に行くほど圧縮される。 物心ついたときより前の時間がぺしゃんこにつぶれてゼロだったように、いつか死んだ後の時間もぺしゃんこのゼロだ。・・・ つまり自分が死んだ後の無限の時間、という想定も、過去と同様、見直すべきだ。 そんなのは無いのである。≫ ▼ 当たり前のことを論じているが、これが自覚できないのが人間。過去も未来もゼロ、現在も幻想。ただクオリアがあるだけ。 「自分が死んだ後も世界は無限に続く」ということが、間違いである。死ぬと同時に今も、過去も未来も、ゼロに潰れる。 「今」しかないのに、過去や未来にこだわる人間は奇妙な生きもの。過去は記憶に過ぎなく、未来は予測に過ぎない。ならば 可能な限り、嫌なことを忘れ、良いことを繰り返して思い出すよう努め、今だけを考えること。所詮、未来も、過去もない。 それで良いのだと。亡くなった両親を考えてみると、その道理が理解できる。死んだ後の時間はペチャンコに潰れている。 クオリヤを感じている今こそ、生きているのである。だったら、私たちも、この「今」を生きるべきである。 主観的時間が幻想としてもである。今しか活き活き生きることが出来ないのである。ケセラセラと今を活き切るしかない。 ・・・・・・ 4061, 我事に於て後悔せず 2012年05月08日(火) * 我事に於て後悔せず。 宮本武蔵「五輪書』より ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より この本で著者は、五輪書の武蔵の「我事に於いて後悔せず」を取り上げている。一流のプロなら、引退後の後悔などせぬはず。 後悔するのは腐った?のような人物がするもの。 ー 以下の部分は、その辺りを微妙に書いてある。 ≪ これをふつうは「われ事に於て後悔せず」と読む。小林秀雄は「わが事に於て」と読むほうがよかろうと言っていて、その意は、 「その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会ふ事はない。別な道が吃度あるのだ、 自分といふ本体に出会ふ道があるのだ。 後悔などといふお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、さういふ確信を 武蔵は語ってゐるのである」(小林秀雄『私の人生観』)と説明している。 自分の過去の行動についてあとから、あれは間違っていた、 などとそのたびに後悔するようでは、後悔というものを受け入れるようでは、ひとは本当の自己に出会うことはできぬ、というのだ。 小林秀雄は武蔵の言葉をかりてつまりはそれが言いたかったのだが、このことは今ぼくらの考えている「自己への忠誠」にあてはまる・・ ◎『自己に対する何という無礼だ、その決心をした時より今の自分の方が利ロだと、どうして思うのか。』スタンダール「パルムの僧院」 これぞ言葉の中の言葉だ、これほどにひとを励まし、自己への忠誠を元気づける言葉を、ぼくはほかに知らない。 武蔵の箴言は いささか道学者くさいが、ここには自己であることの純粋なよろこびがある。・・これはスタンダールの全作品に鳴りわたっている言葉。 ◎ ースタンダールはそのすぐ前で公爵夫人の性格についてもこう言っている。公爵夫人の性格には二つの特徴があった。 彼女は一度欲したことはあくまでも欲した。また一度きめたことはけっして論議しなかった。 ◎ ー彼女は偶然にまかせ、そのときどきの快楽のために行動してきた。しかしどんな行動に身を委ねる場合でも、断乎として行なった。 あとで冷静に返っても、けっして自分を非難しなかった。まして後悔しなかった。自己にたいする忠誠とはかくのごときものであるかと 若い日に讃嘆させられて以来、これらの言葉はそのときどきにつねにある内耳器官のごときものとなって、ぼくを導いてきた小説の 主人公ではないか、とバカにしてはいけない。 ≫ ▼ 小林秀雄に「無私の精神」という文章がある。実践家は、自我を押し通す人と思いがちだが、実は無私の人である。 彼は無私に徹しなければ物事は成就しないことを知っている。極限に立ってきた人は後悔などしない。そこで自分を押し殺し、 己を抑えるほど物事は大きく成就してきたことを知っているからだ。 後悔は、実践の中では後々、害になることもである。 ・・・・・・・ 3695, 自己を見つめる −17 2011年05月08日(日) 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 還暦もとうに過ぎ、更に65歳になったとたん、事業は、これ。 それは本格的な老いへの第一歩を踏み込んだ現象だろう。 歳には勝てない現実が誰にも待っている。それに対し抵抗を諦め、従うしかない。それが老いと著者はいう。 そして、それが恵まれた状態で向えようが、悲惨な状態であろうが、直ぐにやってくる死を前にすれば、誰も彼も大して 変わらないことは、今更言うまでもない。それぞれの年齢の老いの景色は変わっていくが、殺風景になっていく経験も 辛いものがある。 しかし、それでも、生きているだけでも有り難いと思えるうちは良いが。 * 老いについて ー� −P262 【 老いは、端的に言って、心身の変化や不調、障害や不全、病気や悩、生計の面での困難や窮迫、人間関係における亀裂や別離、 忘恩や裏切り、さらには長年の人生遍歴における事故や災害、対立や紛争などの側面の出現といった、ありとあらゆる不幸な事態の 顕在化という姿を取って、人生の暗い側面を表す顛末の様相を帯びながら迫ってくる傾向が強い。もちろん、明るく幸せな老年と いうものも存在するであろう。 けれども、老いは、もともと死の予感とも結びついて、悲惨な様相の影を本質的に内在させている。 老いは、総じて、誰もがそこから眼を背けたがる暗黒の象徴を含むものとして受け取られる面を含んだ現象であることは否定する ことができない。 実際、ショーペンハウアーも指摘したように、年を取って、生計に困り、病気がちとなったら、その人の晩年が 暗いものとなるのは必定である。したがって、誰もが、早くから、その点に留意して、自分を守る必要がある。 しかし、いくら 用意周到を心掛けても、予測しえない出来事の起きるのが人生である。 老いと高齢化の行く手は、誰にも予測することができない。 むろん、老いとともに円熟する人生というものも考えられる。しかし、人間は、受肉した自分自身を、自分自身の思いどおりに、 させたり、若返らせたり、あるいは好きな姿で老化させたり、終わらせたりすることはできない。 自己の自然的かつ社会的な 存在のうちには、自分の思いどおりにならないもの、いわば自己の根源的受動性が潜んでいる。自己は、自己を越えた宿命の定め 委ねられた側面を、その根底に抱えている。 いかに自発性に富み、能動的で、いわゆる勝ち気で、理性的な人といえども、 自分の老化と死を、自分の思いのままに支配することはできない。 人は、老化と死の歩みを停止させることはできない。 それどころか、老化し、瀕死の身となった自分自身を自己は、自分で処置することもできず、そこで自己の能力の限界に突き当たる】 ▼ 定年などを切欠に職を終える時期に、人は、老いの段階に入ったと認識させられる。特に定年制は、まだ活力のある逸材を含めて、 一律に世の中から排除する一種の姥捨てとして、世代交代の作用にもなる。姥捨ても見方の一つだが、現実には山中で悲観にくれる のも辛い。 二人称である親族、知人などの最期を傍でみていても、壮絶である。そこに向かって一日一日が歩みだした自覚を 持ったとき、本当の老いが始るのである。 起承転結でなく、起承転々というが、これが難しいはず。老いと向き合う時期に入ったか。 ・・・・・・ 3330, スモールハッピネスの「少年ジャンプ世代」 2010年05月08日(土) 「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) −3 * スモールハッピネスの「少年ジャンプ世代」 いまの日本を語る上で、以下のように著者独自の観点で世代を分けている。 ≪ 偏差値の次に指摘するのが「少年ジャンプ世代」である。この世代は「偏差値世代」より、さらに考えることが出来ない世代。 彼らが育った1980年代後半は、「少年ジャンプ」が部数的に大飛躍した時代で、1990年に入ると、実に600万冊以上も売れた。 その「少年ジャンプ」で描かれるのは、編集方針である「努力・友情・勝利」という、3つの要素の入った物語。 この3つの要素で1つの物語が完結をする。 しかし、その物語というのは、‘近くのラーメン屋の娘と仲良くなれたらラッキー’ というふうな世界である。 勝利は社会的な勝利ではなく、極めて身近な勝利である。小さな夢と身近な友だち、そして幸せ。 それもいいが、言い換えれば、「非常な内向き」ということになる。 このような、外向きでない人間たちがいまの日本の 働き盛りの中核を占めている。 これは憂うべきことで、日本だけの閉じられた世界ではグローバルは立ち行かなくなる。 少年ジャンプの世界は、最後は勝利である。 そこには、ものを考える余地がなくなっている。 2000年代に入ると、 その少年ジャンプが部数低落に歯止がきかなくなってしまった。主人公が努力している姿を見ても面白くなくなったなど、 色いろ分析されている。 この世代に続くのが、「ゲーム・キッズ世代」である。 ≫ ▼ 以上が要旨だが、国が衰退するときは、頭と尻尾から腐ってくる。 それにしても幼稚である。草食系は、アメリカと、 その手下の自民党、社会党、そして官僚の長期政策の結果だったのである。 ここで思い切った政策の変更を根底から変えなければならない時期に来ているが、果たして可能かどうか。 ・・・・・・・・・ 2955, マネーはなぜ暴走したのか? 2009年05月08日(金) * アタリの経済危機を考える NHKの連休の二日間のジャック・アタリのインタビューの内容が考えさせられた。 二時間近い内容を、頭に残っているまま思い切って要約すると、 《 この経済危機の大きな要素は、ベルリンの壁の崩壊である。これは人類3千年かけて望んできた (自由)と(個人)を最終的に獲得した画期的な大事件。その結果として、まずは経済のグローバル化が始った。 それが市場原理主義と情報化がマッチして世界の流れになってしまった。 しかし、それには絶対的なルールが必要であったが、アメリカの金融関係の連中が自分の利益を追求するあまり、 ルールのできる前に金融工学とかいう美名を楯に世界中に得体の知れない金融債権をばら撒いてしまい、 再起不能なほどの金融危機を起こしてしまった。 その結果、今後10年、20年、30年と、大きな津波が押し寄せることとなった。 第一の波は、アメリカ一極支配体制の崩壊(アメリカは、一極支配は捨てても、決して弱体化はしない。内向きになるだけ) 第ニの波は、多極支配体制への移行 第三の波は、グローバルな超帝国の波 ー市場そのものが帝国化して、国単位では規制不可能になる 第四の波は、超紛争の波 ーあらゆる武器が開発され、誰もコントロール不能になる 第五の波は、超民主主義の波 ー人々は利他主義に気づいて、その力が加速して結果として、プラスの流れが出る。 アイデアは他人に与えても減るものではなく、むしろプラスの相乗効果が出てくる。 世界の人は、自家用のヘリコプターを持っていても誰も賞賛しないが、持っている者を惜しみなく人に与える人を 賞賛するようになる。それこそ、人類が求めていたもので、合理的利他主義という。 紛争や、移動の簡易さで、 ノマドといわれる遊牧の民が増えていく。 ノマドにも三種類あって、?超ノマド=世界中を気楽に何処にでもいける人、 ー下層ノマド ーバーチャルノマド=誰もがなれるが存在してくる。 第一から第四の波は、多くの痛みが出てくるが、 その結果として、第五の超民主主義が出てくるというのが、 楽観的といえば楽観的だが、それはインターネットが 大きな役割を果たすことになるだろう。 こうして要約すると、この流れは当然起こって然るべきことと納得できる。 流れの背景は、やはり世界の人は「自由」と「個人」という言葉を獲得したのである。 その最も有効に働いたのが、 インターネット、携帯電話である。これは、どんな権力者も阻止できない流れとなってしまった。 ・・・・・・・・・ 2591, 日本壊死 2008年05月08日(木) 三年前なら、読み過ごしたが、サブプライムローン問題が大きく露出した現在では、この本の内容は決して 絵空ごとには思えない内容である。特に、ここにきて日本がアメリカの属国とう著者の論は、的を得ている。 彼の主張していることは、彼からすれば当たり前のことで、誰も現実を直視しようとしないだけなのか。 安部前首相、福田首相の姿を見ると、数年後の修羅場が目に見えるようである。 「日本壊死」ー新しき人目覚めよ 船井 幸雄, 副島 隆彦 (著) ー 表紙裏の説明文 アメリカ帝国主義とロックフェラー支配の終焉、1ドル60円時代の到来、ユーロの台頭、借金1000兆円国家・日本の 地獄絵図、財務省の重罪、預金封鎖と老人税の導入、行革が進まないワケ、脱米入亜の可能性、次世代国家を作る 新しい人たちの登場 …日本が歩むべき道を徹底討論。 *面白そうな部分を抜粋してみた。 ー副島隆彦 ・「米国債400兆円を買わされ、さらに毎年30兆円分買おうとしている日本」 (字数の関係でカット11年05月08日)
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2014年05月07日(水)
* 朝日新聞デジタル版 以前から、迷っていた朝日新聞のデジタルに加入した。現在のキャンペーン中に、申し込めば新聞代プラス500円の 追加料金で済む(平常は、千円)。別にパソコンで見る必要もないと思ったが気になっていた。 最低期間が半年で、 月初めなら、その月が無料で7ヶ月間なら、試してみる価値があると判断した。 で、三日経ったが、これが正解。 記事の一つをクリックすると、そこだけがクローズアップする。更にテキスト記事に転換可能で、スクラップも出来る。 間違いなく、新聞紙を手にとって見るより遥かに便利。 これがプラス500円ならお勧め。 朝食前後に、一度、全体の ページに目を通し、昼飯か、夕食時に、印象に残ったところを、いま一度、目を通していたが、スクラップは、ほぼすることは なかったが、これからはする! また、一日単位でタブレットなどにダウンロード出来るので、ネット環境が無く ても、持ち運び見ることが出来る。 また家庭内の他のパソコンからも、手軽に記事に目を通すことが可能である。 現在の私は、書斎と寝室にいる時間が多いため、何度も、気楽に、記事に目が通せるところが良い。実感で、読む時間が 今のところ、二倍になっているが、数ヶ月後には3〜4倍にはなるのでは? ページ一覧も可能で、一面、社会、政治、 経済・マネー、国際、スポーツ、カルチャー、オピニオン、などから、記事を拾うことが出来る。 紙面が、そのまま、 ビジュアル化して見ることも出来る。 その文字の大小も選択できるところも良い。紙の新聞を見た後に、気楽に読むのに 最適ということ。これまで30分読むか読まないかだった、iPadか卓上なら、プラス30分ぐらいは、読むのでは! 日中、居間と書斎と寝室のTVとパソコンの間を流離う身にとって、紙聞紙の持ち運びから解放されるのは、大きい。 加入を家内に告げると、まず大きく拒否反応を示したが、これは何時ものコース。一番、これを読むのは間違いなく、 本人になるが、それが分かってない、何時ものコース。今まで読まなかった、連載小説や、読者の声の、コーナーを 早速、読み始めている。新聞社も、紙面+デジタル版のカタチで生き延びようとするのでは。月刊誌も、店売りの他に、 宅配にして、デジタル版を100円+すればよい。それなら「新潮45」か、「文藝春秋」を購入するだろう。 それにしてもデジタル版は良い! 他に、雑誌の幾つかが読み放題の「ビューン」に入っているが、これも良い! ・・・・・・ 4434, サードマン現象とは 2013年05月07日(火) 母親が晩年になってから、たびたび「私には守護霊がいる。それは子供の頃に亡くなった父親。何時も私を見守ってくれ、 いざ何かあると、私を良い方向に導いてくれる」といっていたが、気持ちの問題だろうと聞き流していた。また先日亡くなった 将棋の米長邦雄が講演で、「何時も父親の位牌を布団に持ち込み、父に話かけていた」というのを聞いたことがある。 先日のNHK教育(PM7:00〜7:40地球ドラマチック)で、サードマン現象を再放映していた 。 これはジョン・ガイガー著「奇跡の生還へ導く人ー極限状況のサードマン現象)をインタビューなどで編集したもの。 で、その概要とは・・ ◎ 9・11の世界同時多発テロで、ニューヨークのワールドトレードセンタービルに旅客機が二機衝突した事故で、最後に 脱出した1人は、煙が立ちこめ瓦礫に阻まれた階段を下りられず、もうダメだと諦めかけた時、どこからともなく聞こえた 声に従い、突き進んで命を救われたとか。 ◎ 多くの登山者を飲み込んできたヒマラヤのナンガパルバットに初めて登頂したヘルマン・ブールを危機の中、励ました声。 ◎ アメリカ大陸からヨーロッパ大陸へ、人類初めての単独飛行をしたリンドバーグを支えた声。 ◎ アメリカの宇宙士が極度の緊張の合間の休みに神のような何かの存在を感じたとか。 生命の危険にさらされた苛烈な環境の時、自分を奮い立たせる声を聞く能力が備わっているというのが「サードマン現象」 といわれ、その「第三の人物」は、その極限状況を克服するために精神的な助けをしてくれる。 この現象は、かつて神や 守護天使とか守護霊として受け止められることも多かったが、現在、それを人間の生理的・心理的機構が生み出した幻だとも いわれる。過酷な極限状態において発動する右脳の原始的?スイッチという感じ。知らない誰かや父親、自分自身、守護天使、 などがそこに存在する感覚という。脳は危機的な状態や生命の危機が起きたり、体験すると「潜在的脳力」が働く。 私たち人類の先祖は過酷な自然の中で、獲物を狩ったり、果実を採取してきた。20万年前の人類の先祖は「サバイバル」の 極限の中で、恒に「サードマン現象」が起きていて、これらの遺伝子が先祖代々受け繋がられ、現代人にも存在していると、 考えられる。 以前は450年前の先祖の堀井宗親という仮身を、現在は「地球の中心点」を擬人化した「球芯様」と、両親の 霊を話し相手にしている。それは自分の魂の仮身である。 この「球芯様」、最近は、ヨガの最中とか、夜半のベッドで 囁きかけてくる。それが、思いもよらない問いかけをするから、面白い。 また、幾つかの創業の時など、極限の状態に自分を置くと、 何故か異常な力が湧き出てくる。火事場の馬鹿力というか、底知れない力が自分の中心から立ち現れくる。原始的、動物的 知恵と力で身体も心も浮いたように勝手に動き出す。誰にも経験があるはずだ。 以前、家内が世田谷と同じ面積のある、 ポンペイの遺跡で、迷子になってしまった。それも日が暮れる直前。警察は来るは、遺跡のスタッフが総出で捜索に当たるは、 現地ガイドと添乗員は、青くなって駈けずりまわった中、色々あって本人は一時間先にあるホテルに何とか帰りついていた。 何かの折に書くが、いざとなると、異常な力が湧き出るということ。 サードマンを創って話相手も面白い、是非お勧め! ・・・・・・・ 4060, 要は、受け止め方である! 2012年05月07日(月) 人生、色いろ経験を積み重ねた後に過去を俯瞰すると、その行蔵はどうにでも解釈できる。 ついてなかった人生としても、 視点を変えれば、ついていた人生と脚色出来る。受止め方次第で過去も現在も、そして未来も変わってくる。 中村天風は 「全ての受け止め方を『積極一貫』にし、肯定的であれ!」と説いている。 人生は問題の山、その中心点が何か考えつくし 無心に立ち向かうしかない。 これからは、自分の人生を、どのように受け止めるかが人生の問題になってくる。 受け止め方を変えることは、行蔵の中の要素を仕分け直すことになる。それで、これからの人生の方向を変えることになる。 そのために記憶さえ変えるのが人間の業。 それは行蔵の要素をどのように解釈するかになる。そこでも知識の絶対量が必要になる。 分別ない人間の身勝手な解釈では、ますます歪になろうというもの。「運」があるか、ないかは、「運は自ら運ぶこと」と解釈すれば、 運そのものが意志の問題になる。運がない人は意志が弱いと解釈出来るというもの。 「人生に起こったことは無駄のものなし」と、 信じていれば、最悪のことも結果としてプラス材料になる。 そうこう考えると無知は、それだけで罪の原因になる。 知らなかっただけで、どれほど多くの失敗を重ねてきたことか。人類も私もである。初めから自分のミッションを明文化しておけば、 それが信念になり、途中経過の失敗も成功も、受け止め方がハッキリしているので、ブレが小さく済む。 おい方一つで、荷物も 軽くなると、同じ。これからの日本は坂を転げ落ちるように衰退する。そこで何が必要か? 教育制度の再構築と、憲法改正。無理? ・・・・・・・ 3694, 自己を見つめる −16 2011年05月07日(土) * 幸福について (不幸について) ー3 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 【 加えて、そうした無事安全な生活の場の確保に立脚して、更に誰もが、この世に生まれた以上、自分の生きがいがある。 ・・・ 略 しかし、そのためには、人は、その自己拡充を念頭において、たえず日夜、精励しなければならないであろう。 というのも生き甲斐の達成は、いろいろな面で課題や試練や困難や障碍に出会って、これを克服する努力の連続に置き換えられてゆくから。 格闘することなしに、人生の実りは結ばないというのが、この世の鉄則である。 実際、存分に生き抜いたという生き甲斐にみちた幸福感は、 それなりの自己集中や犠牲や断念や労苦の代償のもとでのみ、初めて獲得されるのである。 けれども、いかに精進したとしても、 非力で有限な人間には、完全な意味での幸福感はけっして与えられえないであろう。考えてみれば、生きているということは、 まだなすべきことを残しているということと同義である。なすべきことがなくなった人生は、死と同義である。生きるということは、 欠如の意識にもとづき、それを充足させるという運動と情熱において成立する。 その情熱は、充実に向けられている点では、たしかに、 憧れにみち、その実現状態を夢見ていて、幸福感に浸っているであろう。けれども、その意識が、目下は自分にその充実がいまだ 与えられておらず、また、あらゆる意味での完全な充実が人間には不可能であるという自覚に伴なわれたとき、それは、そのまま、 不幸な意識に転じるであろう。したがって、人間には、生きているかぎり、終息した絶対的安寧としての幸福感は、 与えられず、叶えられず、許されず、その意味で、人間は、終生、不幸であろう。・・・ 】 ▼ 不幸論という本もあるほど、人間の本質は不幸である。最後は死ぬことを、二人称の死の経験をして、洗脳されているためである。 その人によって大かれ少なかれ、不平不満や、神経質になり、我執をし、理屈を言い張る部分を持っている。それが膨張すると、 周辺に諍いをぶつけていくことになる。それが不幸の大きな要因になる。 そうこう考えると、不幸は体質もある。 それは血筋、家系にも関係してくる。どっちみち、一生の間には谷あり、嵐が襲ってくる。 それを乗り越えるのが、人生。 そのプロセスこそ人生である。 そう割り切ってしまわないと、冷静に立ち向かうことができなり、破滅が待っている。 ・・・・・・・ 3329, 草食系で何が悪い! 2010年05月07日(金) 昨夜のNHKのゴールデンタイムに、「草食系で何が悪い」というテーマで激論を交わしていた。 現代の若者と、社会の一線にたっている人たちの議論。 見ていて食い違いがあまりに大きい。 我が家も含めて、何処の家庭の親子の食い違いも、こんなものだろう。 現実世界の将来を見出せない若者、 現代の若者にはネットという別世界があり、自己実現がネットの中に存在しているのである。 なぜ現実世界の中の価値観に縛られなければならないのか? そこでは、明るい未来が抱けない、という彼らの立場もある。 とはいえ、彼らの相手は外国の同じ世代である。 それが現実世界の中で闘っている人たちには見えている。 アメリカの間接占領による「日本の植民地化政策による無能化の完成が、彼らの姿」である。 その自覚があるのかないのか。 アメリカの補佐が実は日教組であり、更にいえば自民党であり、官僚。 偏差値による選別教育の結果である。 ーまずは、NHKのHPから、この番組の紹介をコピーしてみるー * 日本の、これから「草食系で何が悪い 若者と語るニッポンの未来」 ー内容ー 車やブランド品、酒、海外旅行離れが進み、大人しくなった、内向きになったと言われる最近の若者たち。 彼らの本音は? 日本の進むべき未来について語り合う市民討論番組。 ー詳細ー かつての若者のあこがれ、車・ブランド品・海外旅行に、興味を示さない20代の若者たち。 「おとなしくなった」「内向き」「草食化した」などといわれ、欲がないように見えることから「悟り世代」といわれる。 一方でブランドものに頼らない、環境や社会問題に関心が深い、地元に愛着を持って昔からの友人と長くつきあうなど、 日本が「成熟」した証という見方もある。若者たちの本音は? 日本の未来について語り合う討論番組。 ―― 長年かかって完成した現代の草食系若者、そう簡単に動物系には変えることは不可能である。 韓国、中国、ベトナム、インドなどの若者の目の輝きと、日本の若者の目の輝きの差は、あまりに大きい。 彼らは、日本が一番豊かな絶頂期に生まれたが、大人に育つ過程が失われた20年といわれる時代背景の中で、 希望を持てと言われても、無理なのは分かる。 この数日、大前研一著の <「知の衰退」からいかに脱出するか?>の 読書日記を書いているが、まさに、大前研一と若者、の図式が、この番組に出ていた。10年、20年後の日本は暗い! ・・・・・・・ 2954、ハゲタカ 2009年05月07日(木) 連休の5月4,5,6日の3日にわたり、NHKで朝9時から二本ずつ「ハゲタカ」というドラマを6本放送していた。 日本のバブルの崩壊後にアメリカのハゲタカファンドに荒らされが、去年の9月15日のリーマンの倒産で、そのファンド そのものが崩壊してしまった。しかし、それまでは世界を荒らしまくった彼らの実態の一部をドラマを通し垣間見るようであった。 まずは、ー番組紹介ーから ニューヨークの投資ファンド運営会社社長・鷲津政彦は、バブル崩壊後、不景気に苦しむ日本に戻り、 瀕死状態の企業を次々と買収する。敵対するファンドによる妨害や、買収先の社員からの反発を受けながらも、 鷲津は斬新な再プランを披露し、業績を上げていく。 企業買収、再生の真実を克明に描いた問題作。 ▼ 三日間、このドラマと、その後のNHKスペシャルの「マネーはなぜ暴走したのか?」のセットに釘付けになって見たが、 多くの示唆が含まれていた。資本の論理からみてハゲタカが処理した企業が結果として、贅肉を削ぎ落として再生した方が むしろ良かった?という視点もある。小泉、竹中の金融改革の功罪をドラマ化をして考えさせられたということ。 外資の投資ファンドがハゲタカなら、日本の大手の勝ち残った大手銀行は互いの死肉を食い合うハイエナと例えることもできよう。 (字数制限のためカット 2010年5月7日) ・・・・・・・・・ 2590, イスラエルの話 2008年05月07日(水) 長男が、イスラエルから帰ってきたので、その感想を書いてみる。 ー今回のツアーからの概略(私のインタビューからの情報) ・ツアーの会社は、新日本トラベル(現在は合併でエヌイーオーに改名) ・総員23名。半分が一人参加。本人を除くと全員が40歳以上。70歳代の夫婦が三組。男女の割合が半々。平均年齢50歳位。 ・4月23日〜5月02日までの10日間コース。 ・添乗員は40代のベテラン女性。 現地ガイドは日本系のイスラエル人。 ・旅行の最中に日本人には一人も会ってないが、韓国人らしきグループを一組みた。 ・現時点で、年間のイスラエルの訪問客は8000人。 ・危機感を持つ場面は、ゼロ。しかし、ウズベスタン航空のサービスは最低。 帰りのテルアビブからウズベスタンへの飛行中に、かなり厳しい乱気流にあって死ぬ思いの経験。 ・一人参加のアップの加算を含めて、38万円。総額43万円。 ・満足度は100点。 ・テルアビブの飛行場と、エルサレムの街の緊迫感は、私から聞いていたほどではなかった。 ーー 以上だが、9年前の私の実感とほぼ同じである。9年前の場合は、これにアブラハムが十戒をつくったエジプトのシナイ山があった。 これは強烈な印象が残っている。 イスラエルはインパクトがあまりに強い。わずか四国の大きさの国土で、700万人の国が、 存在としては大きく位置を占めている。日本の大よそ二十分の一の国がである。 契約の概念はユダヤから出ている。 神様との契約が、いつの間にか人間同士の契約にすり替わったのである。ユダヤ人とイスラエル人は同一ではない。 一般的には、イスラエル人=イスラエル国籍を持っている人。ユダヤ人=ユダヤ民族。と思われているが、ユダヤ人は ユダヤ教を信じていて、両親のうち両方が何じゃらとか難しい決まりがある。「ユダヤ人は選民である」という教えが、 他の民族から忌み嫌われるのである。多くの決まりがあり、ユダヤ教徒は、それを厳格に守るのである。 旧約、新約聖書のような物語と、その舞台が、そのまま一致しているのはイスラエルしかないというが、異教徒?の目から見ると、 尚のこと、その特異性が、何とも新鮮で驚きをもってみることが出来るところである。 ー以下は私の旅行記である。 ーー ーH1105イスラエル聖なる旅 この旅行は、四千年の旧約・新約聖書に出てくる歴史と出会う旅であった。四国の面積とほぼ同じ中に、数えきれないほどの ドラマがあった。現地の日本人ガイドのシャワ?のような説明が新鮮かつ面白く驚きと感激の連続であった。 その為か帰ってきて、新約・旧約聖書をじっくり読む事ができた事が最大の成果となった。 関連を含めると十冊を前後二ヶ月たらずで読んでしまった。考えてみたら私の人生の転機の度に必ず聖書か聖書関連の本があった。 人生のもっと早い段階で、じっくり読むべきであった!。旧約は先入観で固く難しそうであったが、 読んでみれば何もむずかしくない、ただただ面白い!内容であった。旧約はユダヤとユダヤ民族の歴史の書であった。 また新約は出会い=イエスの心との出会いの書と言ってよかった。 ー印象の強い順に列記してみると、 まずは何といってもエレサレムである。イスラエルがそのまま凝縮されているといってよい。四千年の昔から神の名と民族の誇りをかけ、 数え切れない戦いの舞台となった。そして現在も続いている。この街を歩く事は世界の歴史の生き証人と出会い同行することかもしれない。 イエスが十字架を背負って歩いた悲しみの道=ヴィア・ドロローサ。磔刑に処せられたゴルゴダの丘。最後の晩餐の部屋。 イスラム教の重要な寺院=岩のド?ムとアクサ寺院。ユダヤ教徒にとって最も貴い嘆きの壁と広場、そしてダビデの塔。 旧市街を囲んでいる城壁は四千年の歴史の深さをそのまま物語っている。次はモ?ゼの十戒で有名なシナイ半島のシナイ山である。 深夜の二時に三時間かけて登って山頂からのご来光とシナイ山の山並み。そして、その麓にあるカタリナ修道院と、神の声をきいたという “燃える柴”。そして帰路にたちよったベトウィンの部落。そして、そこで飲んだ紅茶。“マサダの要塞”この旅行まで全く知らなかったが、 キリストが死んだ四十年余り後に、ローマ軍に追いつめられた熱心党員のユダヤ人九六七名がたてこもった自然要塞。 陥落の前日、 そこの指揮者ベン・ヤイルの演説の後、七名を除く九六〇人の集団自決のあった場所であった。 その時の詳しい内容が生き残った者の証言で残った(ヨセフスの“ユダヤ戦記”に生々しく残っている)。 =「奴隷にされる前に...自由の状態におもむこうではないか。」 =自殺を厳禁しているユダヤ教徒の集団自決であるからその意味が違ってくる。イエスの生まれたベツレヘムの岩の ほら穴の馬小屋と岩の飼葉桶。ユダヤ教エッセネ派の“死海写本”が発見されたクムラン洞穴。 一九四七年、近くを歩いていたベトウィンの少年が、洞穴で土器に入った巻物を発見。 壷に納められた六〇〇を越える巻物には、イザヤ書全巻や旧約聖書等々記されていた。 (字数制限のためカット 2011年5月7日)
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2014年05月06日(火)
<世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論> ー細野真紘 (2014年の論点100) * 基礎年金と、厚生年金と、老後の預金 あくまで年金は老後生活の資金補助の位置づけ、とは知らなかった。まず、老後の預金に、基礎(国民)年金が加わり、 最後に厚生年金が加わる。これを40年にわたって、かけてきたかどうかで、既に老後格差が、ついてしまっている。 父親の代から、連れ合いに別立てで給与を与え、健康保険と厚生年金をかけるのが当然のように行っていた。それは、 私の知識・知恵ではない。 ー以下の部分は、年金を分かりやすく要約してあるー 《 ◎ まず国の年金は、大きく2種類があるのです。 1つ目が「自営業者」の「国民年金」です。中小業者は定年が ないため、60歳以降も収入を得ることができます。そのため、年金をもらうための保険料は(会社員などと比べると)安く なっていて、給料を預貯金に回せる割合が多くなっています。その老後にもらえる「国民年金」は満額で月6万6千円程度。 つまり「自営業者」のための「国民年金」は、「弁当」でいうと保険料を安くして、老後は最低限の「お米」だけ もらえる位置づけで、「おかず」については60歳以降に働いたお金で買ったり、それまでの貯蓄で買ったりできる。 ◎ その一方、「会社員」の場合は定年退職のため、定年以降は、収入を得ることが難しくなってしまいます。 そのため、会社員の場合は、現役時に(自営業者よりは多めに保険料を払うことで、国から「厚生年金」を死亡するまで 受けとれることになっているわけです。これは「弁当」でいうと、会社員は定年があるので、現役時に(自営業者より) 多めに保険料を払い、引退後に死亡するまで、国から「おかず付の弁当」をもらえるようにするものなのです。 その「厚生年金」は月16万円程度となっています。合計で22〜3万になる。ちなみに、公務員の場合も会社員と同じ定年制 になっているため、「共済年金」は「厚生年金」と同様に「おかず付の弁当」となっています(厚生年金と共済年金は 分ける必要性が乏しいため、一元化する方向に向かっています)。 ◎ 今では日本は「世界一の高齢化率」で、世界で最も65歳以上の割合が多い国となっています。そして、国の年金制度は 仕送り方式なので、「将来は年金がもらえなくなる」という声がよく聞かれます。 そこで、「現在の少子高齢化で、年金は破綻する」という論を考えてみましょう。まず、日本も含めて世界の先進国では、 基本的に国の年金は、個人が自分のため蓄える「積立方式」ではなく、現役世代が高齢世代を支える「仕送り方式」です。 そのため、テレビなどでは図表を使い、もっともらしく"年金破綻論"が展開されている。「今の年金制度は仕送り方式で、 2010年現在では現役世代2・6人で高齢者1人を支えている騎馬戦型が、高齢化のピークの40年後には現役世代1・2人で 高齢者1人を支える肩車型になる。こんな仕組は破綻する!」 これは一見、、もっともらしく思えますが、実は単純な 「ひっかけ問題」にひっかかっています。まず、国の年金制度は「仕送り方武」ではあるのですが、この「仕送り方式」にも 「ひっかけ問題」が潜んでいて、多くの人は「これまでの保険料が、すべて高齢者の年金に支払われている」と錯覚している。 ただ、現実に、そんなことになってなく、かっての現役世代が多かった時の保険料については、きちんと今後の年金の 支払いに備えて国が「年金積立金」として保有してあるわけです。そして、なぜ日本ではこのように極端な人ロ構成に なっているのか、というと、「団塊の世代」の存在などの特殊要因があるためで、そのため「年金積立金」も世界一の 水準にまでなっているのです。さらに年金の財源は、保険料だけではなく、あくまで「国の保険の仕組み」なので、 財源として「税金」も入っているのです。 》 ▼ ネットで積立残高を調べてみると120兆円あったが、問題は多くが日本の国債にばけていること。また、年金支払に 税金も含まれていることは、全く知らなかった。だから、さほど心配する必要がない? 私の場合、家内も厚生年金に 40年近く入れていたので、合計で税込で350万(税抜きで300万余り)。持出しが家内の預金から年間で??万に なるが、地方もあって生活には不自由はない。欲しいものや、旅行も、外食も、現役時代に十分、楽しんだため、 TV番組で追体験をしながら見ていれば充分。 中小企業者や個人営業の場合は、別立て預金は当然のことで、敢えて 言うことでもはない! でも、周辺で、してない人が多い? また、保険屋と証券屋に騙されていたことすら気付いて いない? 他人事ではないが。 今さら年金の話題に熱中するようじゃ、B層もいいところ? まあ、面白いが! ・・・・・・ 4433, 閑話小題ー次のグーグルの新製品が面白い 2013年05月06日(月) * 次のグーグルの新製品が面白い ニュースでグーグルの次世代端末「グーグルグラス」を紹介していたのをYoutubeでみたが、これは面白い。 メガネのフレームの上部だけの柄に超小型カメラがつけ、視線が、そのままネットの生中継で世界に配信される。 見知らずの人の視線が、そのままリアルで見れる面白さは格別。これは視覚のツイッター。「カメラ、ビデオ」と発音すると、 その機能が立ち上がり自動撮影するという。 これをグーグル・アースに繋げると、アフリカや南米のある地域をクリックし、 見たいシーンを打ち込むと、誰かの目線が現れ出てくるのだろう。ジンバブエのバンジージャンプが見たいといえば、 飛び降りる画面を生で見ることも可能に? 日本橋三越本店の客か、店員の目線のアクセスも可能になるはず。 日本で売り出されるのは来年辺りだろうが、これが当たり前になるとしたら、まさにSF世界。 いや現在もそうか。 他のメーカーも、こういう類の情報端末が出してくるはず。情報端末の進化は止まることはない! 良いのか悪いのか? * 何歳まで生きたいですか?の質問に ある調査で、「あなたは何歳まで生きたいですか?」の質問に、 60歳未満が8・5%、70歳未満が15・1%、80歳未満が31・1%、90歳未満が54・1%、100歳未満が60・9%、 百歳以上が僅かに9・3%という。更に150歳以上は6・5%。私なら、90歳未満と答えるが、酒の飲み過ぎで無理。 それにしても意外な結果。神様がいたとして、「幾つまで生きたいのですか?希望を重視しますから」と問われたら、 やはり90歳と答える。「寝たきりでも良いですか?」と問われれば、躊躇する。元気が前提、いや絶対条件になる。 死ぬまで10年間は、何らかの形の介護を要するというから、80半ば? これだけ面白い情報が手軽に入手できる時代、 出来るだけ長生きしたいが、「生老病死」の苦痛を考えるとどうだろう? 不摂生もあり、せいぜい7〜8年か。 ・・・・・・ 4059, つれづれに ーネット社会の現在 2012年05月06日(日) * 飲食店の漫画の棚 ーデジタル本の世界 喫茶店や中華料理店のランチの楽しみの一つに、本棚の週刊誌か月刊誌を読むことがある。 最近、店内に入ると、 iPhoneかiPadで、その店が契約したネット上の本棚にアクセスして色いろの雑誌を読むことが出来るという。 店は一月7000円を業者に支払えば店内のネットで雑誌が見放題になるとか。よく考えるものである。 前回、70冊の蔵書をデジタル化にするため業者に依頼したが、先日、久々に、そのHPを見たところ、デジタル化した本を 月980円で見放題のサービスを始めていた。 漫画が中心とあったので、契約はしなかったが、これも面白い企画である。 現在、私が契約しているのは、朝日新聞のデジタル版と、朝日、毎日の週刊誌など数十冊が読めるビューンである。 朝日のデジタル版は月1000円の加算。ビューンは月480円。 もちろん有料でアクセス出来るブログがあるが、 写真集のデジタル本に有料でアクセス出来るのがある。幾つか買ってあるが、次々に更新されているのが良い。 * スマートフォンと、タブレット 現在、スマートフォンが爆発的に売れているという。iPhoneが初めて売り出された時に買ったが、画面が小さすぎて、 インプットに戸惑って使いこなすことが出来なかった。そこで学んだことは、二代目以降の機種変更になってから購入すること。 それもあってiPadは、二代目のiPad2になってから買うことにした。スマートフォンが爆発的普及は、携帯電話が 世の中を変えたように、世の中を更に大きく変えるだろう。 それはゲームや、ブログ、ツイッターなど書き込みや閲覧の 端末にも使える。小ささが逆に便利な場面で有効になる。電車や、車の移動とか、昼休みに何処にでも持ち歩けるからだ。 何ども書いているが、現在、普通の携帯電話とiPadを使い分けている。 PCは居間のTVの前と、仏間の書斎コーナーに iMac一台ずつ、とiPad、合計三台を使っているが、その使い分けのバランスは非常によい。 これに読書とTVと、 ペットのインコとくれば、お宅そのもの。図書館と、スポーツジムと、早朝のポタリングと、週二日の近くの店のランチで 息抜きをしているのが日課。 これまでのスリルとサスペンスのストレスが少ないのが、逆にストレスである。 ・・・・・・・ 3693, 自己を見つめる −15 2011年05月06日(金) * 幸福について (不幸について) ー2 「 自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 【 不幸は、その出来事の客観的説明の当否のいかんを越え、また、その人の主観的資質の鋭敏さの度合いのいかんを越えて、 その人に、いやおうなく襲いかかる絶対的事実である。 不幸は、その人の時間的歴史的な人生遍歴の過程のなかに突如、 痛苦を与える刑罰として立ち現れる、不可抗的な不倶戴天の敵である。不幸とは、その人を根底から震憾させる苦悩の化身である。 そうした不幸は、この世の中のいたるところで、不運、事故、災難、災害、病気、心痛、貧困、労苦、不遇、虐待、軋礫、失敗、 挫折、対立、不和、紛争、戦争などの種々様々な姿において、たえず出現の隙を窺っている悪夢である。したがって、不幸は、 ものの見方を変えることによって、消去したり、転換したりすることのできるような、たんに主観的な事柄では断じてない。 それは、深刻な苦難として、この世の中に、乗り越えがたい障壁の姿で、厳然と存在する。それゆえに、こうした不幸においては、 何よりも、その出来事が、その人にとって、この上なく不当で、許し難いものとして感受されるという点が大切である。 なぜ、自分は、このように、辛く、苦しい、耐えがたい悲惨や屈辱や困難を課せられねばならないのか、どうして、自分は、 このように、見捨てられ、罵倒され、除け者にされ、迫害される憂めに会ねばならないのか、と、いくら自問しても、 その理由が分からず、ただひたすら、苦悶し、絶望するところに、不幸と苦悩の本質があるのである。 そのことは、旧約聖書のヨブ記のなかに典型的に示されているとおりである。善人のヨブは、あるとき、理由もなく、 身の毛もよだつような苦難と不幸のすべてに襲われ、ついに、ヨブは、神を呪うほどの絶望と絶叫のなかに陥ってしまう。 こうしたヨブの心境こそは、この世の不幸と苦難に逢着したすべての人間が抱く感懐であり、苦悶であろう。・・・】 ▼ 人の間で生きている人間は、他者と自分とを比較し、色々憶測する傾向を持つ。 従って、大小種種の、不平不満、卑下慢心、 確執や争いが、あらゆるところに、絶え間なく起こる。 それは絶えず、出現を窺っている悪夢であるが、一度、檻から出たら、 本人とて抑えることが出来ない猛獣として暴れまわる。それが他虐になり、次に自虐として、深手を負うことになる。 ニーチェが度々引用したように「難破しながらも、よく航海したものだ」と授戒することが出来た人なら、直ぐに次の新たな 取り組みをすることができる。 しかし、意志薄弱者は、ただ恨む対象を探し、そこに執着し前進が出来なくなる。 その辺のことが理解できないのは、それまで生きてきた中で経験を消化してこなかったことに由来する。不幸は自分で招くこともある。 ・・・・・・・ 3328, HPを開設、10年目! 2010年05月06日(木) 一昨日で、このHPを開設して10年目に入った。旅行中も出発前に書きだめをして、会社の人に頼んで書き込んできたので、 ほぼ休んだことはない。 時どきスランプになるが何とか続けてきたが、書きあげる重要性が日ごと分かってくる。 一つのことを続けると、その習慣が自分自身になる。 ここまでくると、私の精神というより、魂の中核になる。 HPではレポート用紙で15枚分までの字数の制限があるので、数年前から毎日カットせざるをえないが、身を削るようで辛い。 それだけエネルギーが入っている。 第三者の目を意識しながら、自分の思いの倉庫(墓場?)として、その時どきの、 浮かんだ思い、習得した知識、面白そうな情報、潮流を書き出してきた。 あと一年で10年になるが、書きたいことは 書き出したつもり。 その時どきの時節のメルクマールとして、情報タンクとして非常に有効になっている。 また毎日、過去分の同月同日に書いた内容を読み返すことができるのが一番のメリット。 「書きだめをして何になるのか?」といわれても、返す言葉はないが、これが魂の中核なのだから、 中心点に向かって一日2〜3時間、気持ちを集中し続けている、それが全てである。絵、俳句など、それぞれ人によって違うが。 まず文章のテーマを考え、情報を集めて、書いて、何度か修正するプロセスが考えるということ。 いま書いている文章の読者は、未来の自分であり、過去から現在にいたる因縁ある人であり、新たな因縁のある人。 文章を書き、それを公開するのは恐ろしいところがある。 自分を曝け出してしまうからである。 今さら、仕方ないだろう! と、何度呟いたことか。 書き上げて、アップロードした瞬間に、見事なぐらいに内容を忘れてしまう。気持ちが入るほど、 そうなってくる。 したがて一年ごとに、その内容と出会うと、驚くことしばしば。 数年前の今日こんなことを考えていたのか、 こんな本を読んでいたのか、こんなことに出会っていたのか、等々に驚かされる。それは既に過ぎ去った過去の自分である。 (字数制限のためカット 2012年5月6日) ・・・・・・・ 2953,人はどうしてオヤジになるか? −3 2009年05月06日(水) * オバサン前段階のアラサーとアラフォー ―女の最後の輝く時ー 最近、アラサーとアラフォーという言葉がマスコミ上で目に付くようになった。40歳前後の女性を指して around 40を略してアラフォーという。日本的風土では働く女性は「仕事と結婚」の両立が大きな問題になっていた。 しかしこの世代は、男女雇用機会均等法のもとで社会進出を果たし、自由に選択できるようになった。 しかし、これが人生の転機を遅くさせ、大きな問題になっている。アラフォーはアラサーから派生した言葉。 アラサーとはaround 30を略した言葉で「30歳前後の女性」を指す。2005年の女性誌が使ったことから広まった。 彼女らは90年代中頃にコギャル文化を体験しており、団塊ジュニアに続く世代区分としてアラサーを用いるようになった。 それに次いで登場したアラフォーの概念で、1964年から1973年に産まれた人となる。40歳前後は、オバサン化するか どうかの瀬戸際である。もう一度女として花を咲かせるかどうかの?20年ほど前になるが、 ある大手の保険代理店の支店長が言った言葉が印象的だった。「女性の一番美しいのは40歳前後。 その年頃の女性は人生の分かれ道、何ともいえない色気が沸きあがっており、危ない時期でもある。 彼女らとは塀の上で仕事をしているので、一つ間違えると塀の向こう側に落ちてしまう」そういえば、スナックなどの アルバイト女性に、その頃の女性が目に付くが、なるほど色気が満ちている。しかし45歳を過ぎると同時に、 坂道を転げ落ちるのように変化するのも事実。 それにしてもアラサー、アラフォーとは、上手く命名したものである。 《そこのお嬢さん! 鏡ばかり見てないで(外装だけでなく)内装も手入れしておきなさい!》最近は、兄さんにも言えるが! ・・・・・・・・・ 2589, 日本の真実 2008年05月06日(火) 「ドル覇権の崩壊」と「連鎖する大暴落」の警告が、あまりに当たっているので、副島隆彦の「日本の真実」を、 アマゾンで買って読んでみた。「日本はアメリカの属国、日本の支配者層は、その傀儡の売国奴でしかない!」と、 辛らつに切り捨てている。 また、そう直視すると見えない真実が見えてくる。角栄や栄作など、隷属国家の悲哀を 一番良く知っているのだろう。角栄と、福田赳夫がアメリカに呼びつけられて、ある人物に大声で怒鳴れれている 現場の生々しい話を聞いたことがある。二人が震えていた姿が痛ましかったとか・・・ しかし、その御陰で、アメリカ型消費社会を享受することが出来たのである。 その毒饅頭のおかげで、脳までやられてしまったのが現在の日本の有様である。 ーまずは、その概要からー 「最高支配層だけが知っている日本の真実」 ー副島 隆彦 (著) ー表紙裏の「著者からのコメント」が面白い!ー 本書が提供するのは「日本の最高支配層の人間たちだけ」が知識と情報として占有し、隠し通し、一般国民には 絶対近づくことをさせなかった諸事実である。なぜ一般国民には大きな事実が知らされないのか? その理由は、現在の世界覇権国であるアメリカ合衆国の属国群のひとつであり、しかも属国の優等生として卑屈極まり ない現状にある私たち日本国の支配層の人間たちが、帝国からもたらせれる高度の情報と知識を独占することによって、 それら最高情報が生み出す価値を自分たちだけで享受し、そのことから来る圧倒的な優位性によって国内権力者層として 存在しているからである。だから、これらの秘密を公然と暴き立て、一般国民に知らせ、広めることが、私たちの日本国に どうしても必要なことである。そうすることで、一方で帝国から常に脅され、脅かされている現在の惨めな彼ら指導者たちと 一般国民の間に壁が消えて、日本人が一致団結して、国難に立ち向かうことができるのである。 「編著者のことば」より ー目次 (字数制限のためカット 2011年5月6日) ・・・・・・・・・ 2007年05月06日(日) 2224, 自分の居場所ヽ (★>з<)o○[ォハヨ]○o(>ε<☆)ノ 昔から、どの世界に行っても「自分の居場所のつくり方」は上手い方であった。 八人兄弟の末っ子と、商家の生活環境もあって、 大所帯の中で独りで自分の居場所を何時もつくっていたため。その条件が誰とも就かず離れずの間隔を幼児時期から身に着けていた。 人間は、両親との人間関係の相性が人間性のベースとなる。両親の愛情をたっぷり受ければ愛情に満たされた人間性になる。 両親の不仲の中で愛情が空回りになった子供は愛情不足になる。その不足を友人や恋愛相手に求めてしまい、 バランスが崩れてしまい、自己嫌悪になるケースが多い。その根本が、親への愛情に対する不平不満である。 愛情不足の人は、何時も自分の居場所に不安を感じとり、何処かに母の存在を求めて居場所の確保追われることになる。 (これは当人は気づいてない)その確保を探し求めても、所詮は虚構を求めているだけでしかない。 その解決は自分でしか出来ないが、「まあ、しょうがない!居場所は居直る心の状態しかない!」と自分の心の奥で悟るしかない。 (字数制限のためカット 2014年5月6日)
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2014年05月05日(月)
「よくもここまで騙したな これが[人殺し医療サギ]の実態だ! ーいのちを奪いながら金を奪うワンワールド支配者」船瀬 俊介 , ベンジャミン・フルフォード (著) 以下の内容紹介だけでも、この書の半分は言い尽くしている?あのベンジャミン。これぐらいでないと、面白くないが、 医者の世界では、今さらのこと? こういう視点も知っておいたほうがよい。 ー内容紹介ー 〜医療を殺人ビジネス化した者たちよ! 化けの皮はすでに剥がれている! ◎ がん患者1000人殺して一人前! ◎ 日本の内科医は1人平均1000人のがん患者を殺している ◎ 命を奪う、カネを奪う! 医者は完璧に白衣の殺人鬼、白衣の詐欺師! ◎ 日本の近代医学はどこをほじくり返しても詐欺とペテンと強盗と殺人だらけ ◎ 欧米医療というのは基本的に軍隊の医療 ◎ 足を切断や伝染病の治療には欧米医療はいいが、糖尿病とがんといった慢性病のときは絶対に関わらない方がいい ◎ 漢方も鍼灸も食事療法(ナチュロパシー)や整体療法(オステオパシー)も弾圧された ◎ マッサージもカイロプラクティックもサイコセラピーもホメオパシーも弾圧された ◎ 自然治癒力をサポートして病気を治す伝統的なテクノロジーは全部弾圧され、薬物療法だけが生き残った ◎ 伝統療法は、金融マフィアによって保険対象外にされた ◎ 強制的に保険料を取って、自分たちの息のかかった殺戮医療マフィアにだけおカネを回すシステム ◎ 医療の問題は上に行くとラムズフェルド、ブッシュ、ロックフェラーらに行き当たる ◎ 医者に金も命も投げ出す崖っぷち日本人よ! 今こそ、自分の脳を疑いなさい ◎ 薬漬け、検査漬けの放射線大量照射に生物兵器の毒物注入まで ◎ 抗がん剤は元々は廃棄に困った化学兵器の原料 ◎ 失敗する医者ほど儲かる /治す医者は失業 ◎ 医療は世にも不思議な失敗報酬の世界! ◎ 一番高い抗がん剤ペグイントロンは1グラム3億3170万円する ◎ マイクログラムまで薄めて使っても1回当たり何十万円、利益率は何万%にもなる ◎ 白血病はがんではない。 団十郎を殺した!?マイロターグという白血病の治療薬は、1グラム4800万円 ◎ マイロターグは投与した患者の90・5%が死ぬ! ◎ 輸血は人命を助けていない、むしろ殺している!? ◎ お年寄りが死ぬとわかるとここぞとばかりに点滴、投薬をやる香典医療というのがある。稼ぎどきならぬ殺しどき! ◎ 「現代医学の神は、唯一人しかいない、それは死神である」とベストセラー書籍『医者が患者をだますとき』の 著者ロバート・メンデルソンはいっている! だから病院が営業停止中には死人が減る!? ▼ 少し?過激に思えるが、何度か目を通すと決して過激ではなく、こんなものと気づくはず。医者にすれば、見送りの 手助けだが、患者からすれば殺人? 更に言えば、人間ドックや、健康診断が一般的に行われているのは世界で日本だけ。 先日、週刊ポストの広告見出しに、ー「血圧147は健康値」の怪奇ーがあった。 《 人間ドック学会が健康診断の基準値を大幅に緩和。他に「総コレストロール199ー>254」「悪玉コレストロール119ー> 178」「中性脂肪149ー>196」など、》 「これを元に、それまで飲んできた薬は何なんだ?」の疑問が起きて当然。 この変更だけをみても「健康人」を「病人」にして、薬漬けにする利権の闇が見えてくる。医療行政と製薬会社の利益のため、 一般国民が弄ばれている図式が透けてくる。昔、父親が高血圧で何時も気にしていたが、当時、年齢プラス90が目安と言う。 ところが、5年前に医師から聞かされたのが130。『これも、いい加減なので』と、言葉を加えていたが・・ で、健康センターで測ってみると125〜160の間で、平均すると140辺り。父から聞いていた数値からすると、私は158が目安。 140は少し高めだが、これで良しと思っていたが正解。これからして、医者は偉そうにしているが、詐欺、たかり、殺人集団? ・・・・・・ 4432,「死ぬのが怖い」とはどういうことか −4 2013年05月05日(日) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著 * ルート3:自分の小ささを客観視する道ー「1億7125分の1と、70億分の1」 今度は、時間――宇宙と生命の歴史1についてである。世界の人口からみれば、私は70億分に1。宇宙年齢からすると、 人の一生は1億7125分の1の存在でしかない。そう考えれば、深刻に自分の生き様など考えることはない。その自分の枠組も 勝手な定義でしかない。自分など何ということはない。 やっと、それが理解できるのが最期の最期とくる。 そのことが分からないから、「死ぬのが怖い」のである。 ー まずは、その辺りを抜粋してみるー ≪ すざまじく荒れ狂うひずんだ宇宙の中の、オァシスのような地球。光速で拡大することこそが普通である宇宙の中で、 あたかも静かに見える特殊で局所的な世界。そこに偶然生まれた人の命。なんとはかなく小さく特殊な現象であることか。 生命の誕生は、今から40億年前といわれている。 地球誕生から6億年経った頃。 霊長類が誕生したのは、6千5百年前。 現生人類であるホモ・サピエンスが出現七たのは25万年前。 中国その他で文明が誕生たのが今から6千年前(から9千年前)。 そういわれても、どれも大きな数字すぎて実感がわかない。 そこで試しに、137億年前のビヅグバンを、1月1日の午前零時、現在を一年後の12月31日の24時にたとえると。 つまり、宇宙の歴史を137億分の1に短縮してみると―― ・ビッグバンは、1月1日午前零時 ・地球誕生は、8月30日 ・生命の誕生は、9月15日 ・霊長類が誕生したのは12月30日午前6時26六分(新年まであと1日と約18時簡) ・原生人類のホモ.サピエンスが出現したのは12月31日午後11時50分 ・中国などで文明が生じたのが新年まで14秒前 ・人間の命は、80歳まで生きるとして、0・18秒。 宇宙の年齢の、1億7125分の1。 ちなみに、宇宙の直径が274億光年、人間の身長が170センチだとすると、人間の大きさは、宇宙の大きさの 1・44×10の25乗分の一というとてつもない小ささだ。それに比べ人間の一生は、宇宙が経た時の1億7125分の1。 時間の差は、空間の差よりもはるかに小さい。これは意外な気もする。1億7125分の1とは途方もなく小さいとお思い かもしれないが、地球の人口は70億人。あなたの心は、地球上にある人間の心の70億分の1に過ぎない。 一億7125分の1はそれよりも約四十倍も大きい。意外と宇宙の中での人間の一生も長いという気がしないでもない。 とはいえ、宇宙の年齢を一年にたどえると、人間の一生は0・18秒だ。≫ ▼ 前にも書いたが、この宇宙の他に、10の500乗の宇宙が存在している可能性があると知って世界観が変わった。 上記のことすら、問題にならない。ケセラセラだが、当面、死ぬまでの生活もある。一日一回、このような壮大な 宇宙と、その中の自分を考えればよい。象を世界に、その皮膚の間に住む寄生虫、70億分の1の自分。その象も、 この宇宙からみれば、10の500乗の宇宙からみれば、チリですらない微細の存在。だからこそ、生きているうち! ・・・・・・ 4058, B層の暴走と価値の錯乱 2012年05月05日(土) 二年前の5月2日に ー3324, 「B層」という「IQ]が低い人々ー という文章を書いていた。(3日前の、ここにある) ところが昨日の産経新聞の一面の【賢者に学ぶ】「素人の暴走と価値の錯乱」で、このB層の人たちを取り上げていた。 選挙対策として、この層を的にして狙い打つには問題がない。しかし、彼らB層の価値観を押し付けようとする機運が、 全体を導き始めたため、社会が混乱を始めてきている。その危険な状況を理路整然と論じた問題提起が以下である。 【賢者に学ぶ】ー素人の暴走と価値の錯乱ー(哲学者・適菜収) 産経新聞 5月4日 ≪ ・・・19世紀ドイツの哲学者ニーチェは「神は死んだ」と言った。その意味は、西欧において 価値の根拠とされてきた 《神の視点=普遍的真理》を設定することが理論上不可能になったということだ。にもかかわらず、《神》は平等主義や民主主義といった 近代イデオロギーに姿を変えて私たちを支配している。その根底にあるのは「神との距離において人間は等価である」という信仰だ。 近代大衆社会はこうしたキリスト教本能をもつがゆえに、あらゆる格差、階層的なものを破壊する。 また、《本当に価値があるもの》 《偉大なもの》《美しいもの》は貶められ、《つまらないもの》《新奇なもの》《卑小なもの》が評価されるようになる。 その結果、芸術家気取りのゲテモノ、半可通、あらゆる領域における素人が権力をもつようになってしまった。 テレビの音楽番組では、芸術の対極にあるジャリタレが「アーティスト」と呼ばれ、ワイドショーでは有象無象の評論家が 専門外のトピックについて無責任なコメントを垂れ流している。 こうした価値の錯乱の上に成立するのが《B層文化》だ。 前回も述べたように《B層》とは平成17年の郵政選挙の際、内閣府から依頼された広告会社が作った概念で「マスメディアに 踊らされやすい知的弱者、ひいては「近代的諸価値を妄信する層」を指す。 この《B層》が現在消費者の主流になっている。 そこでは大企業のエリートがマーケティングを駆使し、大量の資本を投入することで《B層》の琴線に触れるコンテンツを量産している。 ・・・ ニーチェは言う。「畜群人間は、例外人間や超人がいだくのとは異なった事物のところで美の価値感情をいだくであろう」 畜群はまさに《B層》である。真っ当な価値判断ができない人々だ。彼ら《B層》は、圧倒的な自信の下、自分たちの浅薄な価値観を 社会に押し付けようとする。そして、無知であることに恥じらいをもたず、素人であることに誇りをもつ。ありとあらゆるプロの領域、 職人の領域が侵食され、しまいには素人が社会を導こうと決心する。これこそがニーチェが警鐘を鳴らした近代大衆社会の最終的な姿だ。 与党政府も素人に陥落されつつある。前防衛相の一川保夫は「(自分は)安全保障の素人」と誇らしげに語り、続いて防衛相になった 田中直紀は素人以前の「ド素人」だった。 閣僚から地方首長にいたるまで政治家の劣化が急速に進んだ背景には、 《偽装した神=近代イデオロギー》による価値の錯乱という問題が潜んでいる。 ▼ 恐ろしい末期現象に日本は置かれている。その一つにマスコミが流す世論調査がある。世論の大方を占めているのが B層の人たち。彼らは質問の内容で、どのようにも誘導可能。 政治のトップ判断の重要事案に、それを使い権力を駆使する。 その背後に、アメリカの巧妙な誘導が見え隠れする。B層が「近代的諸価値を妄信する層」なら、過っての?私も当然、その層。 この10年、哲学に目覚め少しは盲信から抜けてはきた、しかし森林は面白かったが・・で、サバンナでは?この蓄群が屯する。 ・・・・・・・ 3692, 自己を見つめる −14 2011年05月05日(木) * 幸福について ー1 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 【 私たちは、幸福であるとき、その幸福をあまり感じない。不幸になったとき、私たちは、初めて、自分に幸福が失われている ことを痛感し、深く傷つく。 幸福は、たいていの場合、不幸を介して、その姿を浮かび上がらせてくる失われた桃源郷である。 幸福は、不幸という現実のなかで、初めて見つめられる幻影、そして追い求められる夢、切なく慕われる理想である。 ダンテが歌ったように、「幸なくて 幸ありし日をしのぶより なほ大いなる 苦患なし」(山川丙三郎訳)である。 否定的な状況のなかで、肯定的な状況に憧れ、それでいてその達せられない悩みをかこつというのが、人間における幸福と 不幸の相貌である。 幸福と不幸は、離れ難く結びついている。 人間は、不幸の現実を直視しながら、嘆きと悲しみのなかで、 幸福を思うのである。 望みをもたない人間というものは、存在しない。 人間であるということは、何らかの願いを胸に抱き、 その実現を希求し、その願望の達成を欣求し、そのために励むということである。何らかの目的を定め、それに向けた自己拡充に おいて、その可能性から現実性への転換と具現を冀い、そのために熱い胸を躍らせるというのが、人間であることの根底を形作って いる。してみれば、現在の欠如状態から、いつの日にか将来の充実状態へと、恋いこがれる熱情は、人間にとって本質的である。 そうだとすれば、欠如状態としての不幸と、充実状態としての幸福の二つは、人間を構成する基本要因だということになる。】 ー「幸福は、不幸を介して、その姿を浮かび上がらせてくる桃源郷」は、言いえてる。 「幸福は不幸という現実を通して見つめられる幻影」である。時代背景があるが、若い時には「自分は間違いなく幸福になるだろう」 という変な確信があった。 大かたの青春時代は決して幸せとは言えない四苦八苦を過ごしている時期である。 その頃の幸せの願望は祈りに近い感がした。 ところが人生の終盤に差し掛かってくると、幸せの願望も失せてしまい、死の不安が 立ち現れてくる。 精一杯生きてきたのに、あの桃源郷の正体も見え隠れする。 先に逝った人たちの最期は、不幸に見えてしまう。 老いが進み、死が現実問題として迫ってきて、漠然とした不安が心を覆ってくる。その時に、過去の充実していた時の思い出に 逃避するしかなくなる。 その時、人生を生きてきた通りの老いと死が、自分を覆いつつむ。 これが自分の人生だったのかと! ・・・・・・・ 3327, 偏差値導入が日本人を劇的に変えた 2010年05月05日(水) 「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) ー3 * 偏差値導入が日本人を劇的に変えた 大前健一は、改憲論者であると同時に新自由主義者である。また「安保闘争以降の偏差値による選別教育が日本人の愚民を 押しすすめる結果になった」と主張。 偏差値による選別教育の年代とは 現在の40歳代前半から20歳後半である。 ーまずは、その部分を抜粋してみるー 日本で、詰め込み教育、受験一辺倒教育、偏差値による選別教育が始ったのは1960年代後半の安保・大学紛争以後である。 今から考えると、あそこが分岐点であった。 あの紛争で、政府は、過激な学生運動に非常に強い危機感を持った。 ここで、国民教育を民化政策に転換した。その象徴が「偏差値教育」である。・・・・ 本来、人間の能力は自分で判断すべきである。自分のやりたいことは、その判断に基づいて自分で決めること。 ところが、日本の子供たちは、自分の能力の判断をする大切な時期を偏差値に支配された世界で過ごすため、 自分で自分を判断する力をなくし、やりたいことも自分ではなく、偏差値で決めることになってしまったのである。 こうなると本人も偏差値による数字を先生に言われることで‘予定調和’して、「自分はこの程度」と簡単に思ってしまう。 学校や塾で「この数値では、この学校は無理だ]と、繰り返し言われれば、目標を上にあげることなぞ無理になる。 これが、偏差値教育の持つ最大の弊害である。 これは工業化社会の確立を目指す政府には非常に都合のよい政策である。それぞれが、能力に見合った位置で仲良く 協力しあってやっていくことが必要とされるからだ。 こういう飼いならされたロボット人間が、大量に必要なのが、 工業化社会であって、そのために、偏差値による選別有効に働いた。これは、個人個人から意欲というもの、 アンビションを奪ってしまったのである。現在の40代前後の偏差値世代の人たちは、非常に従順なのが多い。 彼らは共通の思い込み「偏差値が高い=頭がよい」と子供の頃から植えつけられていて、そこから抜け出さないのである。 クラスメート、同級生といった狭い範囲で考えてみると、自分たちより数値の高い人が、マスコミに行ったり、 役所に行っているのを見て、彼らは偏差値が高いから頭がよい。だから、彼らの言うことは正しいと、勝手に思い込んでいる。 ▼ この年代が社会の中心になってきたのが、この日本の不況の隠れた真実である。 この年代の人たちと、この十年来、 ツアーなどで一緒になる機会が多かったが、前頭葉がゼロというほど思いざるを得ないと感じていた。 勝手に自分たちの階級を決め付け、それ以外には一切を無視をする。 無視なら、まだマシだが、否定をしてくる。 その後の年代を大前は、「少年ジャンプ世代」、「ゲームキッズ世代」と分けているが、それは次回。 ・・・・・・・・ 2952,スリルな瀬戸際だった日々 ―2 2009年05月05日(火) 前回の凍りついた二日間で思い出したことがある。 《まずは、以前書いた文章を御覧あれ!》 (字数制限のためカット2011年5月5日) ・・・・・・・・・ 2588, 閑話小題 2008年05月05日(月) * パペット パペットとは、手や指を入れて遊ぶことができるぬいぐるみのことをいう。 他には影の人物や国に操られる人間や国を指す。日本などは、ある意味でアメリカのパペットとである。 以前に「新潟県を活性化する会」を何度かやらされたことがあった。いい様に操られる猿回しのエテと気づいて、 さっさと役割を降りたが・・。3?4回まで!と始める前に約束をしたが、それを了解をしておいても、 「縛り付けをして役割から抜けられなくなるのが世の常」チャンと、そういう役割の英語「パペット」という 専門単語があったのである。それが仕事ならパペットとして納得するが。 地元のために発展を考える中小企業の社長という役の振り付けで、ボランティアだとか。 それを知っていて巧妙に役割に収めようというのも、その人の仕事なのだろうが、私は何の価値もない。 乗りかかる私も甘いが、いや三回ぐらいなら面白いと割り切っていたから、甘くはないか? それ以上は絶対にやらないこと位見抜けなかったのか? いや、見抜けないか? (字数制限のためカット2012年5月5日) ・・・・・・・・・ 2007年05月05日(土) 2223, HP開設、6周年 [○´・ω・]ノオハヨウ! 毎年のように、開設記念日に感想を書いていた。今年も二日遅れになるが書くことにした。 実のところ、全エネルギーを入れて書き続ていて複雑な気持ちがある。ネタ(テーマ)を選ぶだけで神経を 集中せざるを得ない。それと、ネタ切れになるので、何処かからネタを探してこなけかればならない。 しかし良寛の発句「焚くほどは風が持てくる落葉かな」の、落ち葉と同じように何時の間にか湧いてくる。 その感覚とスリルを楽しまないと続かない。考えつく全てを吐き出して何も書くことが無くなれば、 その境界の外に出ざるをえない。それが、この随想日記を書き続ける一番のプラスニなる。 書くために読む、書くために考える、書くために本を買う、そして借りる、そしてウソも吐き出す。 (字数制限の関係でカット2,010年05・05) ・・・・・・・・ 2006年05月05日(金) 1858, ローマから日本が見える ー10 ォ'`ョ━━(。・∀・)ノ゙━━ゥ★ この本を読んでいると史実を読んでいるというより、壮大な歴史小説を読んでいるようだ。 一人一人がそれぞれの立場をわきまえて役割をこなしている。当然、ローマに敵対する英雄もいる。 カルタゴの英雄ハンニバルである。まずは第5章のハンニバルの挑戦 の概略を抜粋する。 ー第5章 ハンニバルの挑戦 ー1 (字数の関係でカット2,008年0505)
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2014年05月04日(日)
<世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論> ー細野真紘(2014年の論点100) * 年金の根本的誤解 これを読むまで、年金を根本的誤解をしていた。<「それで老後の生活は十分」というものではなく、あくまで 「老後の最低限の補助」という位置づけ>という。 そうすると、我われ国民が、ほぼ誤解していることになる。 我家も、家内の預金を取崩し、年金に加えて生活しているが、この根本の考えが間違いだった! ーその辺りからー 《 年金について、TVでよく次のような街頭インタビェーが出てきます。記者「あなたの年金で生活は十分ですか?」 年金受給者の主婦「いや、月5、6万円じゃあ全然足りない。だから、仕方なく預金を取り崩さないといけない状態だ」 このようなやりとりが、何の疑いもなく放送され続けているが、これに基本的な「誤解」があると気付いている人は どれほどいるのでしょう? まず、この記者の質問自体がおかしいが、そもそも年金というのは、「それだけで 老後の生活は十分」というものではなく、あくまで「老後の最低限の補助」という位置づけになっている。だからこそ 昔から人は、自分自身で貯金をするわけです。これは、特に、日本のような「低負担」の国では必然的な行動の結果です。 さらに言うと、インタビェーでコメントしている入も、誘導尋問に乗っかっておかしな発言をしています。 それは、そもそも貯蓄は「老後の備え」として貯めていたわけで「老後に取り崩す」というのは、極めて当然の行動のはず。 それなのに「国に感情をぶつける」ように答えてしまっているのです。なぜこの「矛盾だらけのテレビ報道」に対して、 これまで誰も疑問を抱かなかったのでしょうか? これは、一言でいうと「社会保障に関する教育の欠如」に尽きます。 つまり、教育が全く機能しでいないので、視聴者が判断できなくなってしまっているわけです。 では、どのように「国の年金」を捉えておけばいいのでしょうか。これは、日本の年金とは「老後に国から死亡するまで もらえるお弁当」だと捉えておくとイメージもしやすいし、根本的な誤解も減っていきます。・・・ 》 ▼ 弁当の飯とおかずの例えが,解りやすい。ということは、大部分の人たちは、老後は飯だけの生活が待っている ことになる。 ネットで中小企業の数を調べてみると、【 2006年で、420万社で我が国の企業数の99.7%を占め、 中小企業の従業者数は2,784万人で我が国の雇用の約7割を占めている。また、国民総生産の約2割を占める製造業においても、 2008年には、中小企業は48.4兆円と製造業付加価値額の約5割を占めている 】とある。そうすると、国民の多くの老後に、 決して楽ではない生活が待っているのが現実。それから考えると、少ない給与の中で2割は別途積立など蓄財が必要になる。 消費税の3%値上げや、インフレターゲットなど、国民にとって、実際には、聞捨てにならないこと! ーつづく ・・・・・・ 4431, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −3 2013年05月04日(土) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著 * ルート2:直ぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道(時間的俯瞰思考の道) 人はいずれ死んでしまう。直ぐか、そのチョッと先かの差でしかない。 で、悲観的になるか、楽観的になるか。 誰もが楽観的の方が良いと思うが、悲観も時に必要。ブラック・スワンが80年の人生のスパンに、必ず何羽かが舞い降りる。 思いもよらないことだらけ、これが人生。だからハリケーンや地震多発地帯の住宅ではシェルターが必要。それを人生にも 組み込む必要性がある。そのためにも悲観は必要。悲観のレールに楽観の列車で走れば良い。 ー箇所が面白い!ー ≪ 人生は絶望か、希望か?では、本質的には意味のない人生を、どう生きればいいのだろうか。以下の二つの方向性がある。 (1) どうせ人生は無意味なんだから、はかなく悲しい、と絶望に向かう生き方。 (2) 人生には定められた意味などないんだから、人生の足かせを取り去り、むしろ自由に人生をデザインして 軽やかにのびのび生きていこう、とう希望に向かう生き方。 (1)と捉えるか、(2)と捉えるか・・ あなたはもともとお金を持っていなかったとしよう。ところが何らかの理由で今は一万円をもっている。しかし何らかの理由で、 そのお金はなくなる。これをどう捉えるか。どうせお金はなくなるんだから、はかなく悲しい、と絶望するか、たまたま一万円 持っていると希望を持つか。これと同じだ。あなたはもともと生きてなどいなかった。ところが、何らかの理由で今は生きている。 しかし、いずれまた無に戻る。中島義道だったら「この世に自分の意志ではなく生まれさせられ、苦しみあえいで生きねば ならないから、はかなく悲しい」と絶望するかもしれない。 (1)型の捉え方だ。 しかし、見方を変えれば「なんと幸運なことに、何の因果か、たまたま、生きているかのような幻想を一的に手に入れた。 なんてラッキーなことか」 これが(2)だ。 つまり、人生とはあぶく銭。生まれる前には何もなかった。 ところが、何の因果か、宇宙ができ、有機物の塊が生物になり、それが進化して、人間になった。その中の一人として、 何の偶然か、あなたが生まれた。生まれたての時は、何も考えなかったが、脳が成長・学習して今に至った。 これがラッキーでなくてなんだろう。あなたにとって、宇宙史上最大のラッキーの一つだ。死刑というより、恵みだ。 信じられない、鮮烈な奇跡である。そんな奇跡を楽しまずして、この奇跡が再び失われてしまうことにフォーカスを 当て続けるなんて、もったいない。それよりも、この刹那の偶然を、大いに楽しもうではないかが、それが、(2)だ。 一万円を得たこの奇跡的な現在を喜ぶか、その一万円を失う未来を憂うか。その違いが(1)と(2)の違いだ。 (1)は、いま一万円を持っていることから出発しようとするから、失うことの絶望に向かう。それって近視眼的ではないか。 一万円を得たという既得権は、既得権。それは当然としておいておき、一万円の維持にフォーカスしている。 それよりも、人生をその始まりから俯瞰する視点に立ち、もともとゼロだったものが一万円になったこの人生のあぶく銭を 楽しもうではないか、というのが(2)だ。 視野が広い。 ルートと関連付けるなら、今一万円を持っていると思っているのは、 幻想だ。本当は持っていないのだ。誰かが「自由に使っていいよ」と言い、そっと貸してくれたのだ。このラッキーな一万円を、 幻想だと知りながら、ぱーっと使おうではないか。 そして、なくなったら、なくなったとき。くよくよしたって仕方がない。 もともと持っていなかったのだ。・・・ ≫ ▼「要は生のラッキーを楽しみ、死の恐怖を超越すべし」からすると、この辺りを理解してないと人生を誤る。 それを教えるのが親の務めである。必要なのが教養。 生まれたときからの環境などが備わっているかどうかもある。 幸せな家系は幸せに、不幸な家系は幸せになる傾向が強い。26歳で千葉で、34歳で新潟駅前で創業を決意をした時、 特に新潟駅前の時は、500%の成功するだろうという確信があったが、兎にも角にも、何にも知らない業種。土地の時価を 含めて当時の私の能力からして、やはり博打。魂が震える思いである。で、自然考えたのが、上記のこと。 「せっかく与えられたチャンス。もし失敗しても、全てを失っても後悔はしない」と! だから現在、さばさばしている。 万一の備えはしていたこともあるが・・ 人生も、「ご覧のとおり、そのまま結構!」と、開き直りか。 日々是口実! ・・・・・・ 4057, 随想日記も12周年 2012年05月04日(金) 11年前の5月4日にHPを開設してから連日、ほぼ休まずに掲載してきた。旅行時は知人に頼んで書きだめしたのを当日ごとに アップしていた。12周年を期に気楽に休むつもりである。休み癖をつけると続かなくなる心配が逆に、ここまで続けることが出来た。 内容はともかく、「自分に納得できる文章にすること」を心掛けてきた。毎日、同月同日分の10年分を読み返しているが、手を抜いた 文は少ない。 大相撲、全日本柔道選手権、新年とか殆んど欠かさず同日に、同テーマの感想を読むと不思議な奇妙な感覚になる。 読んでいると、変わらない自分と、変わってしまった自分に気づくことがある。 ここまで書きためると自分自身の墓場そのもの。 飾ろうにも飾ろうとしている自分が現れ出る。従って正直に書くことになるが、それが人を大きく傷を付けてしまう。言葉の力は大きい。 大まかに、「読書日記」「過去の思い出」「現在の社会現象と分析」「つれづれに」「箴言」「新たに知った言葉」などに分けられる。 「書くということは、書き続ける自分を維持するための行為」ということに気づいている。思いを、印象を、書き出すということは一度、 脳から文として出し、吟味することになる。書く行為そのものが考えることになる。毎日、読み返し11年分の自分に出会っているが、 そこに自分の小さな歴史をみている。 もし書いてなく、完全忘却をしたら、元々、何も無かったのと同じでは?と思うことさえある。 実家の事業を5年足らず携わった時、気持ちの余裕が無かったこともあり、写真も、日記も殆んど残っていない。書き残していたら 面白い断片が数限りなくあった。大変だったが自分の力が十二分に発揮できた時期だった。このシリーズは心底では自分に120点。 だから逆に書き残さなかったのが良かったとも言える。 おいおい、その時のことを書くつもりだが・・・また人を傷をつけるのか? 毎日、書き出す習慣も慣れてくるとゲーム感覚になる。 ネタ切れの際(きわ)に常に立っているスリルと苦痛が逆に面白味を増す。 ・・・・・・・ 3691, 自己を見つめる −13 2011年05月04日(水) * 運命について ーp226 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 【 ハイデッガーの言い方に従えば、私たちは存在の真理の「呼び求める促し」の中に立たされていることになる。 私たち人間は、そうした運命的なものの呼びかけに聴従せざるをえない、あり方を、根底に宿し、 それに聴従することによって初めて、真に生きることを果たしうるものというように捉えていった。 ・・・自己と歴史の由来を、その根源から聴き取って、それをその将来と結びつけることによって初めて、人間は、 自己の根底を見定め、生き方の根拠を探り当てることができるようになると説かれたわけである。ここに、現代における 優れた運命思想の一つがあると言っても過言ではない。 ハイデッガーによれば、私たちは、この世の中に生きるときに、 予期しえない形で「降りかかってくる」、さまざまな「偶然」の出来事にさらされているのである。ということは、 人間は、出来事の出現をすべて見通し、それを支配することのできる神ではないということである。 人間は、非力で、無力なのである。しかし、それでいて、人間は、自分なりの情熱と威力において、 自己の本来的存在の証を立て、それを刻み残そうとする。 そうした覚悟のうちで初めて、立ちはだかる宿命的な 困難と格闘しながら、人間は、真の存在の呼びかけを、運命の声として聞き取りつつ、それに聴従して 本来的に実存しようとするのである。 ここに、優れた運命思想があることはたしかである。 】 ▼「運命」について、考えさせられる内容である。( 存在の真理の「呼び求める促し」に立たされ、運命的なものの 呼びかけに聴従せざるを得ない、あり方を、根底に宿し、それに聴従することによって、真にいきることを果たしえる) これが運命に従って生きるということである。これが本来的に実存しようとすることである。それぞれ天命、宿命、運命がある。 その中で、運命は自分で切り開いていくもの。 自分で真の存在の呼びかけを聞き取り、聴従し、実存しようとすることである。 そうこう考えると、運命に対する見方が変わってくる。 自己の根底を見定め、生き方の根拠を探り当て、前に進むことが 運命に従うことになる。 それとて下記のような虚無的見方からすれば、些細なことでしかないが。 ・・・・・・・ 3326, 人みな骨になるならば ー12 2010年05月04日(火) この著書は、蓮如上人の「白骨の御文章」と「般若心教」の視点から、当たり前と信じている日常の思い込みを一つずつ取上げ、 その根拠を潰している。 何かにとらわれり、行きづまった時に、この書は、それが如何に取るに足らないことかを諭してくれる。 葬式や法事で参列者全員がこの「白骨の御文章」を読経することがある。死を第三者でなく自分に当てはめて考えさせるためである。 そこで改めてネットで検索して、コピーしてみた。 ー蓮如上人の「白骨の御文章」ー ≪ それ、人間の浮生なる相(すがた)をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。 されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。 一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。 我や先、人や先、今日をも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。 されば、朝(あした)には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。 既に無常の風来りぬれば、すなわち二つの眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて 李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。 あわれというも中々おろかなり。 されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、 はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。≫ ー以上だが、父の生前の口ぐせ、「死んでしまえば(生きている方からすれば)それまでよ!」である。 あるのは、いま、ここ、だけである。過去の、あの時も、現在も、「いま、ここ」しかない。 一期一会である。 それぞれが、いま、ここ、で生きている。そして、それも、確かに存在していると感じるが、実は幻想。 自分の感覚という器官が能作しているだけである。 夢・幻でしかないのである。 で、確認で酒を飲む、のか! ・・・・・・・・ 2951,人はどうしてオヤジになるか? −2 2009年05月04日(月) * 女はどうしてオバサンになるか? 「人はどうしてオヤジになるか?」というなら「女はどうしてオバサンになるか?」を考えてみたくなる。 ーそれではオバサンとは、どういう人なのだろか?ー 《30代後半から40歳前後の大きな境目として、女を捨てると同時に恥じらいを捨て「怖いものがなくなった」存在で、 特に徒党を組むと非社会性が露出する。 お婆ちゃんといわれる前に、それまで内に圧縮されていたエネルギーが非社会的行為として 露出する歪んだ「突然変異の一時的生きもの」である。彼女?を見ようと思ったら、デパ地下とか、ホテルのランチバイキングに行くと 徒党を組んだ姿が見られる》 ところで、秘境旅行に行くと、必ずといってよいほど「離れオバサン」が参加している。 これが恐ろしい存在である。具体的に書くのを憚るほど唯我独善。 今回は、そこまでは書かないでおく。 逆に40歳前後までに、女としても人間としても自分を見つめ、「個」としての自分を確立し、責任を持って生き、 自信に満ちた態度を持てる女性を「マダム」という。それに対しオバサンは自己管理ができないで、集団化した第三の性化した存在。 (以下は字数の関係でカット。2012年05月04日) ・・・・・・・・・ 2587, 幸福大国ブータンから、幸せとは何かを考える 2008年05月04日(日) 国民の97%が幸福と実感し、自殺者ゼロの国、40年前には国土の5割以下だった森林面積が、現在は7割以上に回復し、 経済成長ではなく「国民総幸福」を国の指標とし、独自の「豊かさ」を目指すブータンという国がある。 数年前にTVのドキュメントで見て気になっていたが、図書館で、この国の第四代国王王妃が、その国の素顔と ブータン人の死生観などを書いていた本を見つけ早速読んでみたが、何とも心の豊かさが滲み出ている内容であった。 ブータンの幸せ指数世界一だが、物資や食料の欠乏は、心の貧困には繋がらない証明になる。 (以下は字数の関係でカット。2011年05月04日) ・・・・・・・・・ 2007年05月04日(金) 2222, 平凡って幸せなの? ー2 ♪ヾ(*'ー')*'ー')*'ー')/" オッハヨウ! 平凡って幸せなの?という、何気ない家内の質問に、「そういえば、平凡など考えたことがないし、 平凡の日々を過ごしていながら、平凡を嫌って生きてきた自分に気がついた。」というのが本音である。 しかし過去を振り返ると、平凡な日々のなかにこそ人生の真実があったように思える。 しかし、これも縦に立ち上がっている、問題の陰に隠れてしまって記憶には残らない。 記憶に残らないということは、無に等しいと思いがちになってしまう。ただ合せ鏡で平凡の生き方をしている人を見ると、 やはり?とも、思ってしまうが。「平凡とは?」と検索をしたら、面白い質問に行き当たった。 まずは、その部分を・・・ <平凡な生活に対する疑問> 「毎日を平凡に生きている人間って、どうして生きているんでしょうか? はっきり言って僕は、そういう人間は死んでしまってもいいと思います。毎日何も変化のない 暮らしというのは最も最低な人間の生き方と思うのですが・・みなさんはどう思いますか? 」 ▼ この答えが、面白いので後にコピーしたが、平凡は一番身近の問題であり、過去には多くの人が名言を残している。 ところで平凡って何だろうか? 非凡とは何だろうか? 考えてみたら非常に難しい問題である。 「死んでしまえばよい」でなく「死んだも同然」と言えば良いのだ。「死んでしまえばよい」でなくては「釣り質問」 にはならないか? ところで、若い時に「こんな生活を送っていて良いのだろか? もっと良い生き方が在るのじゃないか」と何時も思っていた。 今でも、「二度とない人生、悔いのない一日を過ごすよう心がける」が、 私の信条の一つである。これも「平凡の人生を否定する言葉」ではないか。 平凡に対する、テーゼ・アンチテーゼとして、自分で何時も問答をしなければならない問題である。 ==== *投票でベストアンサーに選ばれた回答 (字数制限のため、中間カット 2010年5月4日) ーー 以上だが、なかなか含蓄がある答えが多い。平凡、非凡を何を持っていうのかという問題にもなるが、王陽明に影響を受けた 我が長岡藩の河井継之助は「天下になくては成らぬ人になるか、有ってはならぬ人となれ、沈香もたけ屁もこけ。 (字数制限のため、中間カット 2012年5月4日)
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2014年05月03日(土)
* 苦悩の時間的推移 この節目の一連の精神的苦痛の実感は 「 ①痛いー> ②痛・哀しいー> ③痛・気持ち良い(痛みに慣れる)ー> ④痛・面白い(立場を客観視できる)」へと変化している。 もちろん七転八倒をした上のことだが・・ 私のすぐ上の姉の連れが20年前に亡くなった時に、葬儀の席で、一まわり以上年上の従姉妹が、姉に 『私の経験からみて、三年で哀しみは消えるよ!』と慰めていた。 時間が解決する『時間薬』である。 青年期からの節目(挫折)の苦痛の経過を振返ると、大よそ上記の経過をたどったが、大たい次の障害への取組で、 それらが消えていった。前向きに生きることが、如何に重要かである。 そして、最後に、その痛いが無くなり、 「ああ、面白かった」だけが残るなら、ハッピーリタイアよりは良い? 肯定的に捉えれば、それを境に全く違った 新世界が開けることになる。その世界からみると、節目前の自分が、何とも滑稽に思えるもの。新しい自分の再生が、 何とも奇妙な感覚である。「泣いても笑っても同じ空」で、笑ってきたが、泣きが不足していたのだろう、私には。 母親から聞いた話が耳に残っている。『小姑の虐めに、耐えられず実家に帰ったところ、母に〈シッカリしなさい! 一番辛い時が人生で一番、良い時なのよ〉と、励まされた』と。見方によれば、この3年間が、私の人生で一番良い時? といえば、思い当たるフシもある。いや、サホド辛くもなかった?どうだろう? 少なくとも、人生で一番、内省できた ことと、解放感があったことは事実。 本当に精神的苦痛なんど、あったのだろうか? それからも、解放された? 成るほど、人間は少しハンデを負って、《痛》が、頭に残っていた方が良いのかもしれない。どの道、10年後には、 8.9分は存在していないのだから。苦悩も、解放も、知的欲求も、感動も、感謝も、至高体験も、生きている今のうち。 ・・・・・・ 4430,「死ぬのが怖い」とはどういうことか −2 2013年05月03日(金) * ルート1 心が幻想だと理解する道(脳科学の道) ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著 信長が、幸若舞の演目のひとつの「敦盛」を好んで舞っていたが、そこには、 「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ・・」という詞章があり、織田信長がこの節を特に好んで 演じたと伝えられている。人生振り返れば全てが夢幻。 その辺りを以下のように述べている。 ≪ 古くは進化論で有名なダーウィンが、感情は基本的に「幸福」「驚き」「恐怖」「怒り」「悲しみ」「嫌悪」「軽蔑」の 七つから成ると述べている。また、心理学者エクマンは、表情から見た感情には、「幸福」「驚き」「恐怖」「怒り」「悲しみ」 「嫌悪」の六つがあるという。軽蔑を感情に含むかどうかだけが異なるが、あとは同じ。「幸福」が感情だというと日本語では やや不自然な感じがするかもしれないが、「ハッピネス」を「楽しさ」と訳さずに「幸福」と訳したと解釈すれば、違和感はない。 ちょっと驚くのは、ポジティブな感情は「幸福(楽しさ)」だけで、他の五つないし六つはネガティブな感情だという点だ。 ああ、人間のポジティブとネガティブは、なんて非対称なんだろう。いずれにせよ、恐怖=怖さ。人間は、怖いという感情を持つ。 ちなみに、恐怖に限らず、あらゆる感情の記憶はすべて大脳辺縁系に蓄えられているといわれる。このため、大脳辺縁系は心の 中心だという人もいるくらいだ。・・・ もし人間に感情が無かったら、人間社会は、ロボットの集団、ないしはアリの集団の ように、ただ役割分担をし、ただ生きて死んでいくような、無機質な社会だったに違いない。・・・シマウマの群がライオンに 襲われたとき、一匹が犠牲になる。それはお布施と同じで、一匹の命をライオンに提供しているのだという。あたかもお布施の ように思えるシステムが、種と種の間の調和のために成り立っていることは、進化の当然の帰結だと言うべきだろう。・・・ 要するに、生物種は、個体の死へのセンチメンタルを超えたダイナミズムによって進化を遂げただけ。それだけのこと。≫ ▼ 一人称の死は存在しない。死んだ瞬間、無になるからだ。あるのは二人称と三人称の死しかない。怖いというのも 感情の一つなら、心=感情は幻想と理解すれば、死は恐ろしくないはず。固体の死への感傷を超えたダイナミズムが猿から 人間に進化させたのだ。一人称の私の死など、真面目に考えることはない、ということ。死ねば幻想が抜けたゴミでしかない。 逆に、夢幻こそ大事にすべきといえる。小説、映画、ドラマ、コミックも作者の創作という幻想。 だから面白い。 ・・・・・・ 4056, 個性など、どうでも良い。的を絞った意欲と根気だけ! 2012年05月03日(木) * どう騒いでも、われわれは集合体の一部なのだ ー 「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より ≪ 結局のところ、なにをどうしてみたところで、われわれは集合体なのだ。なぜといって、純粋な意味で自分の所有だと いえるものなぞわれわれはごくわずしか持っっていないのだから。われわれはみな、先人からも同時代人からも受け入れて 学ばねばならないのだ。どんな偉大な天才でも、なにもかも自分の内部にたよろうとしたら、大したことはできないだろう。(略) 要するに、自分の内に持っているか、他人から得るか、独力で活動するか、他人の力によって活動するか、こんなことはみな愚問。 大事なことは、大きな意欲をもち、それをやりとげるだけの技能と根気をもつことだ。それ以外はどうでもいいことなんだ。 ≫ エッカーマン『ゲーテとの対話』 ▼ 我々は何らかの形で人類の蓄えられてきた文化遺産の一分野にいるのであって、それから一歩も出ることが出来ない、 ということになる。一歩出たところで、それも際の範疇でしかない。そう思えば、あくせくすることもない。 そのことに気づきてしまえば、後は楽。個性とか、自分になるとかは、他と違うことをなしうる能力に求めがちだが、 本当に必要なのは、強い意欲を持って、やり遂げるだけの根気。アランは『教育論』で、発明や、一般に天才とよばれて いるものについて、長い間の勉強のあとでなければ出てこない、と述べている。 個性など、その後の話でしかない。 好きこそものの上手なりで、好きだからこそ、辛抱づよく続けることが出来る。それを誤って才能と誤解してしまう。 一人一人が意欲をもち、やりとげる技能と根気をもち努力するしかない。他人と比較することもない。要は意欲と根気だけ。 で、根気を持って、これ続けています。 ・・・・・・・ 3690, この随想日記も、まる10年か〜 2011年05月03日(火) 今日で、この随想日記がまる10年になるが我ながらよく続いたと驚いている。10年は大きな節目、今後どうするかである。 これで自分の全てを出し切った思いがある。あけすけに脳内を公開しているようなものだが、これを続けたおかげで自分の中に、 一人の記者の目が出来たようである。その結果、世界の見方が変わってしまった。 いや世界そのものも大きく変わってしまった。 書き続けるために、常に数回分の文章を書きためておかなければならないプレッシャーは大きい。が、それを逆に楽しむ面白さもある。 「一度でも休むと、もう二度と書き続ける気力が無くなるのでは」という恐れが続ける後押しをしてきた。振り返って読んでみると、 ここで書いてきたことが私の限界線でもある。 一番のメリットは数年分の同月同日の文章を毎朝、読むことが出来ることである。 過去の痕跡の文章を早朝、読み返しているから10年続いたのかもしれない。 それと、「何人かの知人が読んでくれている」 という実感があることである。 それと書き続けることで、否が応でも常に読書を自分に強要できることである。 この10年で、私の人生の支柱の一つとして残すことが出来たのは大きな収穫である。 他にも、 ・最後は、こういう結果としても、四十年近くの事業の起承転結と、・50回近い秘境ツアー、・そして10年間続けた随想日記。 ・それと、好きな酒と肴を思い残すことなく、飲み食べたこと。 ・それと読書を十分にできたことなど、思い残すことはない。 そうこう考えて、これから続けるかどうか、止めれば張りが無くなるし、続けるのもシンドイし・・・ 「力を半減して、当面、続ける」が、現在の答えか? ・・・・・・ 3325, やりたいことは三千五百万もあれば・・・ 2010年05月03日(月) ー「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) −2 * やりたいことは三千五百万もあれば・・・ ・「死ぬ時に、楽しい人生だった」と言えるには、したいことは全部やったと思えること。 ・ そのための金額は普通の人なら三千五百万もあれば殆んど実現できる。 葬式代は350万もあれば充分。自分で葬式の手立てをしておけば三分の一で可能。 (120万を前提に葬儀屋を何社か呼んで手はずを組んでおくこと) ・ 「漠然とした不安感で貯めておいた金を、この世に置いて後悔だけを持っていく」 これが日本の大部分のバカな老後の姿である。 要は、考えてないからである。 ▼ 以上のことは大前研一でなくとも私でも思うことである。要は考えないからである。 40歳の時、良い悪いは別にして 「年間1000万は使い切る」と決心した。しかし当時、10歳前後の子供がいて大学を卒業するまで10数年は、それほど贅沢を 出来る金額ではなかったが、それでも年二回は家内と海外ツアーに行き続けることが出来た。海外旅行代は総額3千万前後だろう。 一点豪華主義?である。月にすると10万になるが、普段の生活で節約をしていたので、使いすぎたという感はなかった。 その御蔭か満足した後半生を過ごしてきたと思っている。 これまで46回のツアーに行ったが、これを、これから始めることは 時代背景と年齢を考えると無理。「べき時に、べき事を、べくすべき」を実行していて良かったと満足をしている。 したがって老後の心配は殆んどない?。三千五百万といえば大金である。しかし100万ずつなら何とか可能?家を売却して 貸家に入っても「やりたいことを、すべき」と思うが、いざとなると、これが出来ないのも分かる。それぞれの事情があるから、 これ以上は言えないか。 もし何とか可能なら40歳から100万×35年間で、不可能でもない?。 無理?なら、50万は?それも無理? 月に4万の積み立ても無理? その前に、まず「自分は本当に何をしたいのか」考えなくてはならない! で、ないと 「漠然とした不安感で貯めておいた金を、この世に置いて後悔だけを持っていく」ことになる。そういう思いで、歳をとってから 秘境に来ていた人と出会ってきた。それを実感したので、迷いなく実行できたのである。ーそれがどうした?って、どうもしないが・・ くだらない自画自賛か! これから3500万か〜面白そうだが、老後資金を考えると?となる。 でも、その金が! 宝籤を買うか! ・・・・・・・・ 2950,人はどうしてオヤジになるか? 2009年05月03日(日) 『疲れすぎて眠れぬ夜のために』 内田樹著の《人はどうしてオヤジになるか》の問いかけが面白い。 この文章を読みながら( 私は「オヤジ」かどうか?)を内省してみた。 オヤジといえば、オバサンである。 現象に大きく左右され、考えることをしない両性化した生き物。オヤジも長年かけて自分でつくりあげる生き物である。 常に自分の中で肥大化しようとしている化け物として、監視しておかないと・・・ ー まずは、その部分から ー P・20 人の誤解のうちに最も危険なものの一つは「不愉快な人間関係に耐える能力」を人間的能力の一つと思い込むことです。 その耐性はむしろ有害であり、命を縮めることの方向にしか作用しません。「耐える」人の場合は、「耐えること」が 自己の中心にあります。それ以外のことは「耐えること」のために総動員されます。「不愉快な人間関係に耐える」というのは、 人間が受ける精神的ダメージの中で最も破壊的なものの一つです。世の言う「中年オヤジ」というのは、この耐えることが 劇的に人格化されたものといってよい。 会社で上司の罵声に耐え、部下の暴言に耐え、クライアントのわがままに耐え、 満員電車に耐え、妻の仏頂面に耐え、セックレスに耐え、子供の軽蔑に耐え、巨額のローンに耐え、背広の綻びに耐え、 全身これ「忍耐」からできているのが「中年のオヤジ」という存在です。 人生のある段階で、(たぶん、かなり早い段階で) 不愉快な人間関係に耐えている自分を「許す」か、あるいは「誇る」か、とにかく「認めて」しまったのです。 そして、その後、「不快に耐えている」ということを自分の人間的な器量の大きさを示す指標であるとか、人間的成熟の証しとか、 そういうふうに合理化してしまっている。蟹が甲羅に合わせて穴を掘るように、人間は、自分でつくってしまったパターンに 合わせて不幸を呼び込みます。「不幸に耐えている自分」を「器量の大きい人間」と勘違いをしたら、もうその後の 「オヤジへの道」は一直線である。そういう人は不愉快な人間関係だけを選択し続けることになります。本当にそうなんです。 ▼ 以上だが、八割の人は、この「耐え人」の人生を過ごしている?自分の人生を振り返って、一番良かったことは何か?と、 考えた時に、「事業を立ち上げ、一度も営業赤を出さないで何とかやってこれたこと」(今年度からは??) (字数制限のためカット2010年5月3日) ・・・・・・・・・ 2586, 日本の貧困率 ワースト2 2008年05月03日(土) ヾ(´∀`o)+。才ノヽ… 先日、Wowowで観た映画『しあわせの力』という映画。ウィル・スミス演じる主人公が貧乏のどん底から成功者への階段を 上っていく内容だが、その大部分が「すべり台社会」を滑り落ちていく内容。 リアルで他人事に思えない内容である。 地下鉄のトイレや、教会の施設に並んで泊まったり、子供が一緒だから尚のこと引き込まれてしまった。 実話に基づいた内容だから、迫力があるのだろう。 黒人のセールスマンが収入が無くなり、奥さんに愛想をつかれ子供を 置いて出て行く過程など現実的である。そして、最後はホームレスになる。這い上がるのは無理という状況から主人公が 成功を掴んだ要因は、【息子への愛】と、どん底でも諦めない執念。何か身につまされる内容であった。 人生で、何度もすべり台に立つ瀬戸際を経験した。一つの判断が致命傷になる、それが創業ということ。 (字数制限のためカット2010年5月3日) ・・・・・・・・・ 2007年05月03日(木) 2221, 静岡で感じたとこ ヾ(●´∀`●)GOOD MORNING!! 去年、学生時代の友人が私のところに訪ねて来て、今年は私が静岡を案内してもらった(4月30日、5月1日)。 学生時代に30日間欧州旅行をした友人である。静岡は住みやすいと聞いていたが僅か2日間だけでも、その豊かさを感じ取った。 静岡市内を案内してもらった後に、車で一時間近くにある浜松市に行き、その後に焼津に行って、友人の地元の知り合いの 経営しているホテルに泊まった。その間に車の中から垣間見た世界は、東海ベルト地帯の豊かさである。 「日本は東京から名古屋までの地帯に富が一極化に集約されるのではないか」とさえ思えるような景気の良さと豊かさを感じとった。 車から見える家と車は新しく、街並みは奇麗に整備されており、静岡駅や浜松駅周辺は再開発など大きなビルラッシュで、 カナダの都市?のような活況と清潔感があり、「これが地域格差」「これが21世紀」を具体的に見せつけられた思いであった。 「新潟駅立体交差再開発の完成の姿を思い浮かべることができた」ということか。静岡県は「ヤマハ」「本田」「鈴木自動車」 それにトヨタの関連企業が数多揃っていて互いシノギを削っている。友人の実家が、トヨタ自動車のラジエーターを主に つくっている会社で、友人は、その子会社の社長で、かなり鼻息の荒い状態だった。東海道ベルト地帯は永年かけた工場地帯の 集積がある上に、お茶の生産地があり、焼津などの漁港もあり、山梨などの後背地域もあって、それぞれが有効に連鎖している。 名古屋駅周辺を含めて、隔世の感があるほど活況があり、不景気はどこ吹く風という。 なるほど他とは格差がつくにはつく理由がある。それに引き換え、それ以外の日本は?・・・・ ▼ そうそう、今日でHP開設、6周年になる、2200も毎日、この文章を書いたことになる。それと、もう一日に書ける限度の レポート用紙20枚分をオーバーする。6年前の文章をカットしなければならない。毎日、過去に書いた文章を眺めて自己満足をしていたが、 オーバーのサインが出てきて、カットするのが非常に心が痛む。過去の自分(のエネルギー)を切り捨てるような気持になり、 どれも捨てがたいのである。 (○´ω`○)ノ **SeeYou *(○´ω`○)ノ ・・・・・・・・・ 2006年05月03日(水) 1856, HP開設、5周年 ー1 \(^▽^*)おはようございます!(*^▽^)/ 明日で、このHPを開設して、まる5年になる。旅行以外は、ほぼ?一日も欠かさず随想テーマ日記を書いてきた。 我ながら続いたことに驚いている。5年前のこの日を境に一変し、全て、このHPを中心に生活がまわるようになった。 一日、何らかのカタチで5時間以上?はパソコンに向かうようになった。5年前にパソコンの先生に事務所にきてもらい、 このHPを立ち上げた。さらに自宅近くのパソコン教室に三年以上通った! ・パソコンを自分の道具として使いこなせるようになりたい! ・HPを自分のネット上の部屋にしたい ・ネット・サーフィンでネット空間を飛び回りたいという思いがあった。
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2014年05月02日(金)
* 何かが変?なのは、自分? それとも巷の常識? 先日取り上げた【「道徳」を疑え!〜自分の頭で考えるための哲学講義ー小川仁志著】の中で、イギリスの哲学者 フランシス・ベーコンの「イドラ(本当のことを隠してしまう臆見)を取り上げていた。 彼によると、人間には四つのイドラがあるという。 《・一目は「種族のイドラ」です。これは人間という種族に固有のイドラで、感情や感覚によって知性が惑わされることに よって生じる。人間は自分が主張する立場に箇執し、その点からしか物事を判断できない。 ・二つ目は「洞窟のイドラ」。あたかも狭い洞窟に考えが入り込んでしまったかのように、個人の狭い事情により 生じる思い込み。その人の受けた教育、影警を与えた人物、読んだ本などが原因で、狭い考えに入り込んでしまう。 ・三つ目は、「市場のイドラ」です。これは言語によって生じる思い込みです。あたかも市場で聞いたうわさ話を信じて しまうがごとく、人は言葉のもつ力に弱いものです。いまは市場より、インターネット上に氾濫する言説が原因になる? ・四つ目は「劇場のイドラ」です。それぞれの都合の良い物語を疑おうとしないで信じてしまうことをいう。》 :この結果、世間とかいう、ほぼ嘘で固められた常識を疑うことなく信じる九割以上の人達がつくられ、現に存在する。 この方々は、殆どのイドラが全存在。 覆い隠されている真実の世界の存在など想像すら出来ないため、厄介そのもの。 彼らには、「嘘もほどほどにしろ」より、「本当のことは、ほどほどに」と、対応するしかない。何故なら、本当の ことは、イドラの世界からは見ることが出来ないから。本来、人間は共同幻想の中にしか生きることが出来ない存在。 とすると、変なのは社会と、その中で生きる、私たち(個々人)になる。問題は、それを常に自覚できるかどうかが、 境目になる。 リーマンショックから、一段と世の中が変になっている。ところが何故か、それを覆い隠している何か、 恐ろしい力。それが何だろう?「世界恐慌は静かに浸透しているが、誰も声高に言わない。いや、言えない」のだろう。 石ころの大小を言っている自分も、その中の砂利でしかない。結論は、「私も、一般常識とも、変!」 ということ。 ・・・・・・ 4429, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか 2013年05月02日(木) * 死の恐怖を克服する七つの登山道とは ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著 人生で最大の難関が最期の死。ここには、死の恐怖を克服する著者の椎奨の七つの登山道が書かれている。 スッと、眠るように死にたいが、そうは簡単にいかない。 長生きすれば「死に損ない」と言われそうだし、癌で、あと一年、 数ヶ月と区切られ悶々と死んでいくのも厳しい。現に父親が、そうであった。一年間、傍にいたので、それが直に伝わってきた。 砂漠の真只中に置かれたような生の渇望の乾きは残酷である。実際に、その立場に置かれて経験しないと分からないこと。 死の恐怖の克服法は知らないより、知っていた方が遥かによい。生への渇望の克服など無理といえば無理。肉体的に精神的にも、 のたうちまわって死んでいくしかないのが実態。だから恐れる。著者が死への登山道という表現は言い得て妙である。 ーまずは、7つのルートとはー ルート1 心が幻想だと理解する道(脳科学の道) ルート2 すぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道(時間的俯瞰思考の道) ルート3 自分の小ささを客観視する道(客観的スケール思考の道) ルート4 主観時間は幻想だと理解する道(主観的スケール思考の道) ルート5 自己とは定義の結果だと理解する道(自他非分離の道) ルート6 幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道) ルート7 リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ(思想の道) ▼ 次回から、それぞれのルートの要点を書き出してみるが、最近読んだ、「宇宙は本当にひとつなのか」と、 「宇宙は何でできているいるのか」(村山斉著)を読んで、この宇宙の他に、10の500乗の宇宙が存在している 可能性があると知り、単純だが、自分の人生も、死も、大した問題でないことを改めて知った。 これはルート3の、 客観的スケール思考の道になる。 この7つのルーツの道を繋ぐと、 ≪ 人間の心は、本来幻想。人の一生は宇宙的スケールでみれば、瞬時でしかない、直ぐ死ぬのも後で死ぬのも同じ。 また微細な存在。知情意で捉えている時間も幻覚。自分という枠組みも定義で変わるもの。恐怖が幸福の対角にあるとし、 その幸福という感覚も幻覚。ただそれだけのこと。≫ ということになる。般若心経そのものになる。だから、 死に直面すると、写経を始めるのは効果がある。こう、まとめると、各ルートを歩くのが面倒に思ったが、よく読むと、 道筋には含蓄に満ちた景色がある。目先の死を知ってから、それまでの一生分を生きるのだから、学び足りないのは当然。 ・・・・・・ 4055, 一個の人間の顔、それは一つの象形文字 2012年05月02日(水) ー 「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より ≪ 「一個の人間の顔、それは一つの象形文字だ。ある神聖な、明確なしるしだ。なかに魂の現在があらわれている。 動物だってそうではないか水牛がものを咀嚼しているとき、その顔を見てみたまえ、鷲の顔を見てみたまえ、犬の顔を見てみたまえ。 一個の人間の顔の中にはっきりした意欲と決意とがあらわれているとき、それは一個のばらばらな意欲と決意という以上のものだ。 そういう顔をぼくの夢想の中のドイツ人は持っていた。どれも一息つくより短い夢の間にすぎなかったが。 むろんぼくは、 ぼくに向って吹きつけてきたその未知の人物の顔を必ずしもいつも見たわけではない。(中略) だがともかくそういうとき、 ぼくはそういった顔を内側から見たという気になったものだ。『 わたしはこういう人間だ 』と、それらの顔には書かれていた。 そして今ぼくはこの四ヶ月というもの、現実の人間の顔を見ているわけだ。 なにもぼくはかれらに魂がないなどというのではない、 魂の光は一再ならず閃き出るのだが、それがすぐまたふっと消えてしまうのだ。鳩小屋の鳩と同じことで、強と弱、近いものと遠くから 持ってきたもの、卑俗なものと高貴なものとの、永遠の入ったり飛び立ったりなのだ。 あるのはざまざまな可能性のそういった 落着きのない出入りだけ、そしてそこにはつねに、あの一つの偉大な、決して言葉に言い現わせぬ奥底の思想が欠けている。 立派な顔には必ずあるあの変らぬものが。・・・ ≫ ーホフマンスタール『帰国者の手紙』より ▼ 顔に責任を持て、と言われても今更だが、年齢を重ねた顔には責任を持たねばならない。 特に、政治家の大事を成し遂げた顔は、大事の象形文字と見ることが出来る。『わたしはこういう人間だ』と、 そのまま書かれているようだ。先年、亡くなった片岡球子の人物画の顔が良い。人間の顔が象形文字ということを 知り尽くしているから、あのような顔がかけるのである。 顔は魂の表出、老いてきたとき、行蔵が、そのまま現れ出る。 ・・・・・・・ 3689, 自己を見つめる −12 2011年05月02日(月) * 世間とは 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 世間についても、何度も取り上げてきた。特に絶対神を持たない日本では、右に倣えの世間的価値に同化することが善になる。 人生の最晩年になって、いかに、それが自分の壁になっていたことに気づいて慌てふためく。(それさえない人もいる) 世間から身を守るためには、やはり読書か、芸術や趣味などに専念するなどライフワークが必要である。 世間を否定するのではなく、それと、心底で距離を置くことが必要である。 ー以下の、哲学的世間論も分かりやすい。 【 ー世間とはー 世の中の人が判断する仕方に従って判断する。大勢に準じた生き方のスタイルが、自分自身の生き方のスタイルに なってしまう。 それ以外に自分の人生を考える余裕もすっかりなくなってしまう。 なにしろ、そうした自己喪失的な大勢順応の 暮らし方のほうが、気楽で、安心で、責任がなく、居心地がいいのである。 下手に逆らったり、別の道を選ぶと、世間から 締め出される危険性が忍び寄ってくる。 みんなと一緒のほうが安全なわけである。 したがって、誰も、真剣に自分のほんとうの 生き方の道などを考えてみようとはしない。 ハイデッガーは、こうした自己喪失的な世人のあり方を「頽落」と呼んだ。 そのときには、世の中の人は、いやな過去のことはどんどん忘れ、将来の成功のことをもっぱら予期し、現在の周りの出来事には、 最大の注意を払って、そこでの出番の成り行きに汲々となる。 そのとき世の中の人は、好奇心に動かされて、噂話や風評に打ち興じ、 物事の真相を曖昧にしたまま、仕事や趣味や遊びや気晴らしで、興奮した多忙な日々を送る。そうしないと、恐ろしい倦怠と、 ぞっとするような人生の深淵が眼に入ってきて、鬱陶しいのである。そうして、無責任で活気にみちた興奮と狂乱と日常的な 世界内存在の表面ないし前景を形作ることになる。・・・ 】 − 世間とは、無責任で活気にみちた興奮と狂乱と日常的な世界内存在に生きている人たちをいう。しかし人間は、自分の存在の 根底を見つめたとき、投げ出された底なしの存在に、不安を覚えるもの。その気分の方が、人間の根源に潜む根源的気分であると、 ハイデッガーが看破した。 それは死にさらされた自己自身の存在の自覚とともに立ち上がってくるという。 その逆に、存在の根底から目を背ける人たちが世間の人である。我々は底なしの存在から目を背け現象に気持ちを集中させて 生きようとする別名、俗人ということになる。 俗人も悪くはないが。 ・・・・・・・ 3324, 「B層」という「IQ]が低い人々 2010年05月02日(日) ー「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) ーの中で、B層という言葉が印象的に残った。 以前、小泉元首相が、≪一言メッセージ≫を国民にわかりやすくコメントしたり、郵政解散で自民党の内部分裂を ショーにして選挙に大勝した。 これは、考えない「B層」に狙いを絞った戦略だったことを、この本で知った。 その後の民主党の大勝も、「腐りきった長期政権の自民党の破壊」という分かりやすい争点であった。 それにしても、小泉、安部、福田、麻生、鳩山という政治を家業とする二代目が、徹底的に日本を破壊してくれた。 創造の前の破壊なら、それも良しだが。どうも、そうでもない。アメリカの実質、日本の植民地化の政策が背後にある。 彼等二世の養成もアメリカの長期戦略の一つ? 恐ろしい限りである。 ーウィキペディアによると 「B層」とは 2005年、小泉内閣の進める郵政民営化政策に関する宣伝企画の立案を内閣府から受注した広告会社「スリード」が、 小泉政権の主な支持基盤として想定した概念である。その後、ポピュリズムに動員される国民層を揶揄する意味合いで 使われるようになった。 スリード社の企画書では国民を 「構造改革に肯定的か否か」を横軸、「IQ軸(EQ、ITQを含む独自の概念とされる)」を縦軸として分類し、 「IQ」が比較的低くかつ構造改革に中立ないし肯定的な層を「B層」とした。 主に主婦や教育レベルの低い若年層、 高齢者層を指すものとされる。 上記の企画書がネット等を通じて公に流布されたため、 資料中に使用された「IQ」(知能指数)の語や露骨なマーケティング戦略が物議を醸すところとなり、国会でも取り上げられた。 ・「A層」=エコノミストを始めとして、基本的に民営化の必要性は感じているが、これまで、特に道路公団民営化の結末からの 類推上、結果について悲観的な観測を持っており、批判的立場を形成している。「IQ」が比較的高く、構造改革に肯定的。 *構成ー財界勝ち組企業、大学教授、マスメディア(テレビ)、都市部ホワイトカラーなど ・「B層」=現状では郵政への満足度が高いため、道路などへの公共事業批判ほどたやすく支持は得られない。郵政民営化への 支持を取り付けるため、より深いレベルでの合意形成が不可欠。 「IQ」が比較的低く、構造改革に中立・肯定的。 *構成ー主婦層、若年層、高齢者層など。具体的なことは分からないが小泉総理のキャラクター・内閣閣僚を支持。 ・「C層」 構造改革抵抗守旧派。 「IQ」が比較的高く、構造改革に否定的。 〜〜 大前は、「B層という知の減退した人たちと一線を引いて、何とかA層に入りなさい!」というから辛辣といえば辛辣。 しかし、この日本の低たらくの現実がある。 ネット社会=情報化社会では、端末から価値ある情報が無限に引き出せる。 したがって彼の論旨も、ある意味で納得できる。 知能まで植民地の住人に落ちてしまったB層の比率の拡大? 周囲は、ほぼB層? ということは、私も? まあ、いいか! で、A層とかいう幸せな方々、実はD層じゃないかい (一番大事なことを考えない、見えてない、という意味で?) 上記の5人が、その証明。 闘い続けている点は認めるが! ・・・・・・・・ 2949, スリルな瀬戸際だった日々 2009年05月02日(土) 先日の4月28日に、無事に第二シングル・インの中のテナントが決まり、調印が終わった。そして午後にテナントの内装屋から 電話が入り、「建物の用途変更は、お宅でして貰えるのでしょうね」という。 (字数の関係でカット2,008年5月2日) ・・・・・・・・ 2585, 情報は1冊のノートにまとめなさい 2008年05月02日(金) 「情報は1冊のノートにまとめなさい 」 −100円でつくる万能「情報整理ノート」 ー奥野宣之著 (以下、字数制限のためカット2010年5月2日) ・・・・・・・・・ 2007年05月02日(水) ー遇然同日に、酒の話があった。面白いものだ2008年5月02日 2220, 酒の話ー3 +.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨオォォ☆゜・:*☆ 酒の話は、ここで何度も取り上げてきた。酒には付き合い酒、祝い酒、涙酒、別れ酒、 怒り酒、迎え酒、寝酒など、色いろあるが、あるHPで酒に関する面白い文に行き当たった。 酒は下ネタと同じく時空を超えて万国共通であるためか人間の本質を知る上で身に沁みる戒めが多い。 特に私は!? 偶然の一致だが、三年前の今日、『酒について』というテーマで酒について、 書いていた。面白いものである。 それにしても、酒の失敗があまりにも多い! ===== *まずは『旧約聖書外典』である。『外典』は、『正典』としての「旧約」や「新約」聖書の成立の編纂で、 排除された文章をまとめたもので、酒に関する戒めのような実用的なものが多い。 これが2000年前の旧約聖書にあったのだから、酒は今も昔も人間を狂わせてきた魔物。 ー『旧約聖書外典』(関根正雄編 講談社文芸文庫)よりー 大酒を飲むことで勇者を気取るな 酒で失敗した人は多いのだ 炉が鋼鉄をためすように 酒は酔っ払う人の性格をためす 酒はほどよく飲めば 生命の力となる 酒なくして何の人生か 酒は人を幸せにするために作られた 時をえらんでほどよく飲めば 酒は心を楽しませ 愉快にする だが飲みすぎれば苦い思いを味わい 怒りと復讐の心を生む 愚か者は酒によって憤り 自ら害を招く 酒は力を弱め ついには障害をうけるようになる 酒の席ではとなりの客と争うな 相客が楽しんでいるのを妨げるな 隣人をあざけったり 借金の催促などをしてはいけない ==== また若山牧水「酒の歌」で『今まで自分のして来たことで多少とも眼だつものは矢張り歌を 作ってきた事だけの様である。いま一つ、出鱈目に酒を飲んで来た事。』と酒の思いを述べている。 ー牧水の酒のうたー (字数制限の関係でカット09年5月02日)
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2014年05月01日(木)
朝日新聞(4月22日) 耕論「消費される物語」 * 二つの大震災は「自然と文明」の大きな物語に開かれる機会だった! 私の人生のテーマは、「創業と事業を遊ぶ」だったが、それもブラック・スワン(思いもよらない震災クラスの事象) の何羽かの出現で終りを遂げたが、結果に対して挫折感は殆どない。むしろ、自分の手で息の根を止めることが出来て、 良かったと手前勝手に思っている。で、これも、物語。物語とは手前勝手の筋書きでしかない。無事にリタイアをして、 事業を次に送ったとしたら、閉じられた一つの物語だが、私の結末は、破壊により開かれた物語になる。 ものは考えようである。 しかし、物語には節操が必要である。 ーその辺りからー 《 ー忘れられる節操ー 将来への不安がのしかかってなかで、私たちは小さく閉じたきな物語の方向に開かれる 身近な物語に癒やされているわけです。最近は作曲家を話題にするときに、作品と関係のない事柄が全面に出てくる。 女性の研究者の話題でも、メディアは研究の内容関係ないファッションや趣味などを大きく取り上げる。それが節操のない ことだという了解がなくなっている。 STAP細胞を発見したのが、30歳の女性ではなく、さえない中年の男性ならこれほど 社会的な関心を持たれることはなかった。本筋と関係ない過剰な物語がつくられることで、スタップ細胞について、 よりよく理解できたかというと、そうではない。 物語は自ら完結する性質があります。つまり物語の外を遮断して閉じているということですが、この閉じた物語を あえて開いて、外にまなざしを向けるのが人間の進歩というものだったと思います。 けれども、物語を外に向けて開くことなく、心地よい物語を作っては消費して、飽きたら捨ててまた新しい物語を作る。 その繰り返しでは社会の進歩はありません。阪神と東日本の大震災は、「喪失と癒やし」といった小さな物語として 消費されてしまいがちですが、本来「自然と文明」という大きな物語の方向に開かれるいい機会でした。人間の文明など、 自然の力で一瞬にして押し流されることがある。そう気づいた以上、「私たちとは何者か」と語りなおすことによって、 内向きの物語が外に向かって開かれる可能性があったのですが。結局、「復興」という美名を冠したあまたの物語に のみ込まれてしまっています。 私が小説家として目指しているのは「閉じない物語」。いろいろな人間、価値観が混じりあって混然一体となった 空間です。いたるところに破れ目や出口がある。あえて完結はしない、大団円やオチがない物語が理想ですね。》 ▼ 地元の城下町・長岡に戻ってきたとき、「アッ危ない!」と思った。『閉じられた孤島の世界があって、 この価値体系に飲み込まれると自分の一生が潰されてしまう。とにもかくにも、距離を置くこと。自分の世界を つくり、第三者をいれないこと!』であった。こう割り切ると、これほど面白い世界はない。で、今回も、その 距離のおかげで、比較的、冷静にいられる。「目くそ、鼻くそを笑う」というが、そんなもの、「ドくそ、目くそ、 鼻くそ(を)、笑う」でしかない。逆に「ドくそ、目くそ、鼻くそに笑われる」と、割り切ればよい。所詮は、共同幻想で しかないのだから。挫折を個人にとっての大震災と喩えると、その人を取り囲んでいる地球の、そして身近な 「自然と文明」に、気づき、開かれる機会になる。この東北大震災も、リーマンショックも、日本人に、いや、 人類にとって、「文明の行方の方向性を、根本から考え直せ」になる。私も、この結果を含めて人生の意味を考えると、 森の生活から、サバンナの生活に移行し、早く馴染め! ということか。 これからして、{『東京オリンピック』は、明らかに愚行そのもの!} いや、{オリンピックは文明の象徴、 これで良い!}と意見が分かれるが、私は、せっかくの再生のチャンスを潰す象徴!の方が、正しいと思うが・・ ・・・・・・ 4428, 前期高齢者になって、気づいたこと! 2013年05月01日(水) * 老人教育の必要性 前期高齢者になって丸二年になる。丁度、会社も無くなり、年金暮らしに入り、丸裸の自分に直面、そこで改めて 自分の年齢に驚いている。まず気持ちが年齢についていけない。まだ50歳半ばというところ。 数年前に親戚の法事に出たが、宴席で80歳位の人の愚痴が始まった。「後期高齢者という命名が人を馬鹿にしたようで 気に入らない」「免許書換えで、返納を考えるように暗にいわれた」とか。そこで、年寄りの愚痴ほど周囲を不愉快にする ことを教わった。私の両親の愚痴を殆ど聞いたことはない。 肉体の衰えが精神に転化し顕れるのが愚痴。スポーツジムに 毎日通って腰痛は軽くなったが、何かしらイライラする頻度が多くなった。さしあたった心配事がないこともある。 「前期高齢者」「後期高齢者」という命名は確かに失敗。例えば前期を「グリーン高齢者」、後期を「プラチナ高齢者」 ぐらいにする心遣いも必要である。歳を重ねるたび身体は重く、気持ちは暗くなり、身内や身辺の悪口、あら探しの 度合いが強くなるのが老化のようだ。 他人をみると分かるが、自分になると自覚できない。それもあるから年寄りは 意識して明るくなければならない。それと自立が出来てなかった人ほど老人の甘えが強い。 政府が音頭をとって、 地域自治体に「お年寄りの心得」とかいうセミナーの聴講を義務づければよい。 私など最も手のつけられない偏屈老人に なりそうだが・・ 日本は世界の名だたる長寿国になったが、それに備える知識教育はされてない。 その以前に、 自立と教養の問題に行き着く。 御隠居学とか、余生の過ごし方のようなノウハウ本には、長年かけた準備が必要とあるが、 今日明日、そう簡単に良い老人への変身など土台無理の話。そこで、せめて「明るく自立した生き方を目指すべき。 老人になると、人生で培ってきた要素の格差が大きく出てくる。老いていく自分を自虐的に鳥瞰するのも面白いもの! ー たまたまだが、以下の内容が、丁度つながる。 ・・・・・・ 4054, 吹き来る風が私に云う 2012年05月01日(火) ー 帰郷 ー 中原中也 柱も庭も乾いてゐる 今日は好い天気だ 縁の下では蜘蛛の巣が 心細さうに揺れてゐる
山では枯木も息を吐く あゝ今日は好い天気だ 路傍の草陰が あどけない愁しみをする
これが私の故里だ さやかに風も吹いてゐる 心置きなく泣かれよと 年増婦の低い声もする
あゝ おまえはなにをして来たのだと・・・ 吹き来る風が私に云う ーー この最後の二行が、現在の自分の心?でもある。 自分だけでない、晩年の人間から湧き出る言葉。 「あゝ、おまえは何をしてきたのだと・・・吹き来る風が云う」 ったく!お前という奴は!と、まともに人生を生きてくれば、 この言葉が出るのが自然。 秘境ツアーで、平々凡々に生きてきた人が病気で突然、死に直面し慌てて人生の余白を埋めに 来た人に出会ったことがある。 死線を彷徨った手術の後、壮大な景色に感動して夫婦して肩を抱き合い泣いている姿も見た。 ネパールで遠景のヒマラヤ連峰が一望できる丘であった。 パタゴニアでは初老の婦人が何気なく、「親のいう通り生きてきたが、 ハッと気づくと、先が無い。 私の人生で何もしてこなかった。このままでは死にきれない。この旅行は、その穴埋めにきた」と、 道すがら語りかけてきた。「・・・吹き来る風が云う」声で追われるように旅立ってきて、そこで何を感じたのだろう。 実は、この矛盾こそ実在。 生きてきた証である。 エッ 証文が束になっている? 誰? ただ飄々と風がふく。 ・・・・・・・・ 3688, 自己を見つめる −11 2011年05月01日(日) 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 愛の不在の人=肉親の愛情に恵まれなかった人を見抜くことは難しい。 両親の仲が悪い子供には往々に多いが。 愛の不在の人は普段は分からないが、節目時に、それが表面化する。 人への憎悪と呪いが、そこで爆発する。 これは誰々という訳でなく、全ての人の心の奥に巣くっている。 節目時は、傷ついている場合が多い。 そのマイナーのエネルギーをプラスに転換するには、そのまま流される数倍のエネルギーを要する。 しかし流される人は意志が弱いため、そのエネルギーが空回りをしてしまう。そして自爆になっていく。 以下の箇所も、充分、肯ける部分である。 ー愛の不在ー 【 小さいときから、肉親の愛情に恵まれず、誰からも優しい扱いを少しも受けなかった人があったとすれば、多分その人は、 心の奥底に深い傷を抱いて、その後ずっと人生を恨みとおし、表面は穏やかであっても、おそらく心の底では、一生を通じてずっと、 他者に対して暖かい心をもつことができず、絶対に他人を許そうとはしないであろう。 小さい頃に親の愛情に恵まれなかった人、 また、周囲の人たちから嫌われ、いじめられ、除け者にされたと思っている人、さらに、長じてからも憂き世の労苦と意地悪な 世間にもみくちゃにされて、何の優しい愛の絆をも構築することができなかった人、そうした人は、その原因が何であれ、 その隠された心のなかで、人生を憎悪し、呪うことになるであろう。 そうした人は、自虐や他虐のふるまい方をする以外に、 人生への仕方をすることができなくなるであろう。 そのすさんだ心には、辛い人生に復讐する怨恨構の爆発だけが、 この世の慰めとなるであろう。 これは、ひとごとではない人生の最重要問題である。 こういう否定的な感情は多れ少なかれ、 誰のうちにも巣くっている心の病だからである。なぜなら人間は、どこにおいても、厳しい人間関係のなかに置かれ、 大なり小なり、この世の荒波にもまれ傷つ経験を免れがたいからである。】 ▼ 無条件に親の愛をうけた人は、それが温もりとして性格を形成する。 逆の人は否定的感情に支配され、深く自分を傷つける。 それは誰も持っているが人により強弱がある。 普通の流れでは、それは出てこないが、節目時に暴風となる。それも家族全体が。 ・・・・・・・ 3323, 「なぜ・なぜならば」の極限としての自由 2010年05月01日(土) 『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著 −3 「理性の極限として自由に行き着く」とは、驚きだが納得できる。 そしてカントも自由が「創造的能力」と看破。 自由は第一原因であることから、当然の帰結である。 自分の真にしたいことを人生を通して貫き、 創造性を発揮することが自由であり、それが理念であり、そこに理性が働くことになる。 *「なぜ・なぜならば」の極限としての自由 ーP・205 から ≪ 自由は第一原因である。原因は理由であり根拠であり、「なぜ」「なぜならば」であったから、第一原因としての自由は、 意外に思われるかもしれないが、「なぜ」および「なぜならば」の極限である。日常のことばの使用法からすれば、 「なぜ」は単なる疑問詞であり、「なぜなら」も単なる接続詞にすぎず、これらが自由とじかに結びつくことはない。 それを思えばよくよく意外な地点に到達したものである。しかし、「なぜ」「なぜならば」「理由」「根拠」「原因」、 そして「第一原因」と、一連の鎖を極限までたどってくると、おのずと「自由」に逢着せざるをえなかったのである。 これらの鎖の項は、いずれも理性のメタモルフォーゼ(変容・化体)である。理性は自由の最終的メタモルフォーゼである。 そして、自由はあの「なぜ存在するものがあって、むしろ無ではないのか」というライプニッツ以来の問いに対する、 考えられうる「なぜならば」の中で究極のものである。 その意味で、先にアプリオリな判断が、ライプニッツによる 十分な理由の法則の成長形態であることを確認したが自由はその成長の極致と言ってよい。 われわれ独自の定式で言えば、「なぜ『なぜ』なのか」という問いに対する究極の「なぜならば」でもある。 この背後に関しては、哲学はソクラテス以来の率直な「無知の知」をもって答える以外にない。 究極の「なぜならば」であるかぎり、そのさらに「なぜ」は少なくとも理性にとっては無意味である。 カント自身も、「なぜ」自由が可能なのかは、答えることが出来ないとした。自由が「なぜ」(理由=理性)の極限であれば、 理性にとってそれ以上の「なぜ」はあるはずがない。あえてその背後に踏み込もうとすると、理性の限界外に越権を犯すことになり 言葉が空転する。そこには、理性を満足させうる答えはない。 というのは、理性を満足させうるのは再び理性のみであり、 理性の限界外には「非理性」があるだけだからである。 ちょうど、鏡に万物が映し出されるが、しかしその中には何も 実在していないように。 非理性によって満足するものがあるとすれば、それはさしずめ「構想力」(イマージネーション) であろうが、それを満足させることができるのも、やはり逞しい構想力であって理性ではない。・・・・ たしかに自由は無からの創造に類似する。超時間から時間への作用である自由は、どこか神による無からの創造を思わせる。 カントも自由が「創造的能力」であることを、はっきり認めていた。 しかし、理性的存在者としての人間は、その自由ゆえ 自己の行為の創造者でありえても、世界の創造者ではない。≫ 〜「よく遊び、よく学び、よく遊ぶ」これが創造的能力を発揮する! この「よく」が理性? 親、社会の刷り込みからの自由? ・・・・・・・・・ 2948, 報道されないニュース 2009年05月01日(金) ネットで「商業販売、過去最大24.0%減に」をみて驚いた。 大手の新聞記事を探したが見当たらない。 報道管制をしているのである? メーカーが40〜50パーセント減、流通・サービスが30〜40パーセント減、 と言われているが、あまり表面だった報道はされていない。ところが、共同通信社のHPに、この記事があった。 スーパー、百貨店などが24パーセント減とは、マスコミは間違っても報道はしないが、実際は、そんなところか? 日本は、とんでもない領域にあるということだ。 時間の経過と共にツルベオトシになっている。 これに豚インフルエンザときたら、5〜6月は大荒れになってしまう。即死の企業が多出するのは必然である。 *3月商業販売、過去最大24.0%減=卸の全業種マイナスに 4月28日11時1分配信 時事通信 経済産業省が28日発表した3月の商業販売統計によると、卸売りと小売りを合計した商業販売額は前年同月比24.0%減の 45兆0650億円となり、4カ月連続で過去最大の減少幅を記録した。自動車や半導体の輸出が不振で、卸売業販売額が 29.2%減の33兆3420億円と急減したことが響いた。 卸売りは全業種でマイナス。 *2月商業販売、過去最大21.5%減=卸、小売りの全業種がマイナス (2009/03/27-10:20) ≪字数制限のためカット 2011年5月1日≫ ・・・・・・・・・・ 2584, ただ、生命だけが‘びくびく’と生きている 2008年05月01日(木) ー「人生の答え」の出し方ー 柳田邦夫著 ー2 この本の「魂を揺さぶる言葉」という項目の中でー「いのちの初夜」 北條民雄著ーを取り上げていた。 ハンセン病のために隔離され疎外され、23歳で夭折した小説家・北条民雄の代表作「いのちの初夜」で、 古株の患者が新入患者である主人公に語る言葉の一部がある。 まず、その部分を書き写してみる。 ーー 「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのち そのものなんです。 僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。 あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。 ただ、生命だけが‘びくびく’と生きているのです。 なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那(せつな)に、 その人の人間は亡びるのです。 死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では 決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。 けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、 全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復(かえ)るのです。復活そう復活です。 びくびくと生きている生命が 肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。 死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。 ひとたび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか」・・? 「いのちの初夜」より ここからは、ー「人生の答えの出し方ーより?? ・・ハンセン病になったとたんに、家族からも地域からも排斥され、社会的存在としての人間は抹消されてしまう。 しかも、病気の進行によって、肉体は崩れて感覚器官もうしなわれていく。まさしく<生命だけが、びくびくと生きている> 状態になることを、北条は残酷なまでに表現している。<びくびく>という形容詞が情景と本質を正しく表現する決め手に なっている。・・この作家が川端康成に出した手紙の中に次のような文章がある。 「この作品は書かねばならないものでした。・・僕には、生涯忘れることの出来ない恐ろしい気(ママ)憶です。 ・・僕には、何よりも、生きるか死ぬか、この問題が大切だったのです。」 ーー 解)「人生の答え」など、あるわけがないと、この本を読むまでは考えていた。ところが、此処には、その答えがあったのである。 この本の構想のメモには、 <俺は俺の苦痛を信じる。如何なる論理も思想も信じるに足りない。 ただこの苦痛のみが 人間を再建するのだ。> とすざましいことをいっている。 人間は、死を直前に突きつけられると「生きる意味」に気づかされるのである。 死を目の前に突きつけられると、自分が宇宙のチリの中の微粒子の、そのまた無に無限に近い存在に気づかされるのである。 そして、そこから改めて現世に振り返って、そのことを考えている己を見つめ直すと生死の際でボウフラのように、ふわふわ している存在に大きな愛情を感じる。 著者のライ患者・北条は、そこで苦しみ苦痛こそ、崩れ去ろうとする人間性を 再建させてくれると悟り、 書くことに全てを捧げる。 それこそが、人生の答えの出し方である。 「その苦痛こそ、多くの人間の苦悩を救うことが出来る。それを書くという一点に全てを集中すること」 それが人生の答であると、柳田邦夫は看破している。 ・・・・・・・・・ 2007年05月01日(火) 2219.平凡って幸せなの? おはよう! (=゜ω゜)ノょぅ! 数日前の出勤前の朝飯の時に、家内が神妙な顔をして「平凡な生活って幸せなの?」と聞いてきた。私が読んでいた 「14歳からの哲学」(池田晶子)を、この数日の間、読んだ影響だろうと思ったが、待ってましたとばかりの 瞬時の私の答えといえば・・・ ▼ 「もちろん、平凡ってのは幸せだと思う。何でもそうだが、平凡の生活も、非凡も、現象をどう受けとめるかだ。 脳には長年かけて作りあげた、絶対超越言明という、言葉の受け皿がある。その受け皿が<受け止め方>として、 自分の脳の中で、経験を分類・整理をするようになっている。だからマイナス要素の強い人なら、その受け皿の分類で 何ごともマイナスに選り分けることになるし、プラス要素の人ならプラスに分類・整理をするだろう。 (字数制限のためカット 2014年5月01日)
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