堀井On-Line



362,ある思い出-慈善

2002年03月31日(日)

中学の頃の話である。
隣にMという一家がいた。
そこに一歳年上のカッチャンという遊び友達がいた。
その家の裏に倉庫があった。

そこに乞食のような生活をしている親娘が住んでいた。
母親が肺病で、私のある姉にあの家の近くに近寄らないように言われていた。
カチャンの母親が気の毒がって面倒を見ているという。

カッチャンの父親は数年前亡くなり、
母親とカッチャンとその姉と3人の家族であった。
今考えるとカッチャン一家は、その生活を維持するのに精一杯の筈だ。
その苦しい中、その親子を面倒見ていたのだから大変だったろう。

ところが彼女が癌で、なくなってしまった。
神も仏もあるものかである。
残されたカッチャンと姉さんは、おじさんと同居する事になった。

その肺病の母親もまた二年後亡くなった。
そして娘は施設に引き取られていった。

その事を今から20年前に、何かの拍子に思い出した。
そのMという人の心に気がついた。
どういう気持ちでその苦しい生活の中、その人を面倒を見ていたのか。
そしてその中で死を迎えた時の本人の気持ちは、いかなるものだったのか?

人間の一番大事なことは何であるのか?
それとは関係なく、現実は非情に動く。
「愛は世界の中心である」という言葉がわかるが、
反面本当かとも疑問が湧く。

人生で最後残るのは、そういう愛の行為か。
少なくともカッチャンと姉さんには、深く残っているのではなかろうか?
それとその娘の心に!


361,イスラエル

2002年03月30日(土)

主観であるが、旅行をしたところに事件がおきる。
ペルー、エジプト、イスラエル、そしてフィジー、ケニアと次々と、
ああそれとパキスタンとネパール。

それから考えると、今度はヨルダンかシリアあたりか。
考えてみたらペルーを除けばイスラム教に関係している。

イスラエルに行った時に危ない感じがした。
まずは入国審査の審査は異常なくらい厳しいものだった。

また国内はあちこちで兵士が機関銃を持って歩いていた。
私用の時も身から離さないようだ。

あちこちの広場に兵隊が駐屯していた。
市場で兵隊が3人血相を変えて走って行く。
その後を商店主のアラブ人が何事かと走って行く。
これが日常のようであった。

アラブ人地区に入るとやはり民度が落ちるのが解る。
4000年の対立は致し方ないのだろう。
3年前の文章をコピーしておく。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・


H1105イスラエル聖なる旅 

この旅行は、四千年の旧約・新約聖書に出てくる歴史と出会う旅であった。
四国の面積とほぼ同じ中に、数えきれないほどのドラマがあった。
現地の日本人ガイドのシャワ−のような説明が新鮮かつ面白く驚きと感激の連続であった。
その為か帰ってきて、新約・旧約聖書をじっくり読む事ができた事が最大の成果となった。
関連を含めると十冊を前後二ヶ月たらずで読んでしまった。

考えてみたら私の人生の転機の度に必ず聖書か聖書関連の本があった。
人生のもっと早い段階で、じっくり読むべきであった!。
旧約は先入観で固く難しそうであったが、読んでみれば何もむずかしくない、
ただただ面白い!内容であった。
旧約はユダヤとユダヤ民族の歴史の書であった。
また新約は出会い=イエスの心との出会いの書と言ってよかった。

印象の強い順に列記してみると、

まずは何といってもエレサレムである。イスラエルがそのまま凝縮されているといってよい。
四千年の昔から神の名と民族の誇りをかけ、数え切れない戦いの舞台となった。
そして現在も続いている。
この街を歩く事は世界の歴史の生き証人と出会い同行することかもしれない。
イエスが十字架を背負って歩いた悲しみの道=ヴィア・ドロロ−サ。
磔刑に処せられたゴルゴダの丘。
最後の晩餐の部屋。イスラム教の重要な寺院=岩のド−ムとアクサ寺院。
ユダヤ教徒にとって最も貴い嘆きの壁と広場。そしてダビデの塔。
旧市街を囲んでいる城壁は四千年の歴史の深さをそのまま物語っている。

次はモ−ゼの十戒で有名なシナイ半島のシナイ山である。
深夜の二時に三時間かけて登って山頂からのご来光とシナイ山の山並み。
そして、その麓にあるカタリ−ナ修道院と、神の声をきいたという“燃える柴”。
そして帰路にたちよったベトウィンの部落。そして、そこで飲んだ紅茶。

“マサダの要塞”=この旅行までは全く知らなかったが、キリストが死んだ四十年余り後に、
ロ−マ軍に追いつめられた熱心党員のユダヤ人九六七名がたてこもった自然要塞。
陥落の前日、そこの指揮者ベン・ヤイルの演説の後、
七名を除く九六〇人の集団自決のあった場所であった。
その時の詳しい内容が生き残った者の証言で残った
(ヨセフスの“ユダヤ戦記”に生々しく残っている)。
=「奴隷にされる前に...自由の状態におもむこうではないか。」
=自殺を厳禁しているユダヤ教徒の集団自決であるからその意味が違ってくる。

イエスの生まれたベツレヘムの岩のほら穴の馬小屋と岩の飼葉桶。

ユダヤ教エッセネ派の“死海写本”が発見されたクムラン洞穴。
一九四七年、近くを歩いていたベトウィンの少年が、洞穴で土器に入った巻物を発見。
壷に納められた六〇〇を越える巻物には、イザヤ書全巻や旧約聖書等々記されていた。
今世紀最大の発見といわれている。ここで他にとんでもない事が記された文書があった。
−イエスキリストが主張された大すじが、そのずっと昔のこの文書の中にあったという。

“イエスはエッセネ派の指導者の一人でしかなかったのでは?”
という疑問がでてきたのである。そうすると西欧キリスト教の根底が変わってしまう。

あと十年後に振り返った時、恐らく今回のイスラエル旅行は私の内的深奥で
一大転機の経験となるのではないだろうか。
旅行は外界を訪れるだけでなく内奥の自分との出会いの機会でもある。

【別記】

この旅行と旧約聖書を読んで今の日本に絶望的気分になった。
四千年間の他民族・他宗教と血と血で争う闘いが現在まで続いている。
六十年前には六〇〇万人ものユダヤ人がナチに殺されている。
現在も一歩間違うと今の国土より追放されかねない緊張感・危機感が全土にあった。
男子は三年、女子は二年の兵役があった。
国中どこにいっても機関銃を持った兵隊がいた。
一歩家の中に入ると機関銃が無造作においてあるという。
といってその手の事件は一切ないという。
その銃の目的は敵に使うもの、国を守る為のものというのがはっきりしているからである。
今の日本の防衛に対する考え方甘さが対比すると浮き彫りにされた旅行でもあった。
1999.4.14〜4.24


360,末っ子相続

2002年03月29日(金)

世界の何処の社会でも長男相続である。
それが当然と思っていたら、末っ子相続の社会があった。
世界は広いそしていろいろあるものだ。

北欧のバイキング社会がそうだった。
成人をすると、男は船に乗り外の社会に出て行く。
最後に残った男か娘が両親の面倒を見るという。
その代わり、家督を相続するシキタリという。

彼等にとっての海は夢を実現する世界。
長男から成人になると、さっさと出て行くのが慣わしという。
それが永年の試行錯誤の中で、ベストのシステムになったのだろう。

広い自然資源があるから、そういうシステムになったのだろう。
力が付いたら広い世界へ旅立つ、大きい自然環境があった為。
バイキングといえば、海賊だ。
40〜50人乗りの海賊船を数十隻を連ねて、村や街を襲ったという。

日本などの農業社会では、すぐにでも男手が必要であり、
外にはそれほどの資源が無かった。
昔から長男以外は都会などに丁稚奉公や女中に出された。
継ぐべき田畑があったが、一家が生活出来るぎりぎりだった。

北欧の場合、せいぜい家と舟ぐらいだったから、長男などは魅力も
引き継ぐ仕事も無かったのだろう。
しかし海や海の向こうに、無限の自然のめぐみと夢があった。

バイキング社会は10世紀から200年ほどしか続かなかった。


359, ST訓練

2002年03月28日(木)

毎年この時期、新入社員に私が直接する訓練である。
もう2〜3回の入社ゼロの年を除いて、
前にいた会社も含めて26年間行っている年中行事である。

初めの頃は二泊三日で行っていたのがいたが、一泊二日になり
今は一日だけだ。
研修所や旅館を使って密室状態であったのも、現在は事務所で行っている。

センセビリテー・トレーニングを、途中から独自に変えた内容である。
当初の頃は、感性訓練を目的としていたが。

密室に新入社員を閉じ込め、それぞれ二人に問いかけと、答える立場を決める。
そして彼らにテーマを出させ、そのテーマについてどことん聞き出させる。
脇道にそれたり、いいかげんな事を言った時大声で叱咤する。

あるところまで来たら、立場を逆にする。
それを密室の中で、繰り返しそれぞれの相手を変えてやっていく。

その中で自分のいい加減さ曖昧さを互い気づかせ、表面的会話から、
本音の会話へ、更に対話に深めていく。
その中で感性を磨く。あるいはお互いの気心を理解させ、
仲間意識や帰属意識をつくる。

組織は人間どうしの意思や情報伝達が基本にある。
聞いたことを、はっきりと他の人に正確に伝える事が前提になる。
時間をかけて、叩かれていく過程で身に付けるものだが。
それを初めに、きっちり訓練を入れることを目的とする。

それとリクルートの能力適正試験の内容と、実際の本人の内容の誤差を見る。
ほとんどないが、それでもそれだけで見えない部分がある。
ある意味で一生もう決まっている、その人のソフトのベースもある。

こういう訓練を通して、自分で把握した事がある。
日記を書くこと、本を読む事、人の話を聞くこと、自分で考える事、
理想も持つ事、良い習慣を多く身に付けること、変化する事、初心を持ち
それを大事にする事、その訓練を通して一番教えられるのは自分だ。



358,縞模様

2002年03月27日(水)



縞模様は、中世では囚人やらい病や魔女とレッテルを貼られた人に
着せられていた。
悪魔の象徴の模様が由来という。

それがパジャマの模様で着ているのは、どういう理由なのであろうか。
囚人服や病院服と似ているのは?

悪魔の模様であったのが、いつの間にか日常に
使われているのが面白い。

よこしま(邪ま)な野郎だ、という語源がここから来ているとは思えないが。
明治や慶応のラグビー部が確かこの模様であったが、このことを知っている
いるのだろうか。

いや相手がこの模様のために、少し臆してしまうのを狙う効果もあるか。
シマウマは悪魔の馬と聞いた事がない。

そういえば葬式の時、バックに張る布も縞である。
いやあれは縦縞か。


357,西アフリカー4

2002年03月26日(火)

今回行った中で、私たちと同じ年格好の夫妻がいた。
100カ国の国を訪れるのが目標で、これで93カ国達成したという。

回数は70回、この5ヶ月は毎月アフリカに来ているという。
エチオピア、マリ、マダカスカル島、ナミビアそして西アフリカ。

現在失業中とか言っていた。お金の方はと聞きそうになったが、
さすがに聞けなかった。私がこのペースで年3回続けても、
10年以上かかる旅行にすでに行っているのだ。

次回はまだ決まってないが、帰ってから決めるといっていた。
本当に旅行が好きでたまらない感じだった。

こういう旅行のマナーとして、プライベートの事には興味を持たないようにしている。
しかし自分の世界をはるかに超えた人と出会うと、どうしてもその世界に
興味を持ってしまう。

金髪に染めていた30歳前後に見えた女性、実は?0歳近くで新婚。
相手の男性は10歳以上若いという。
1?歳の子持ちで月収数百万あり、使い切れないという。
行き帰りはビジネスクラス、アーどうなってるんだろうと
考え込んでしまった。

この5月の連休もアフリカに来るという。
最後は本性が出て、添乗員を怒鳴りつけていた。
来年は傷心旅行か?
色々面白い!


356,西アフリカー3

2002年03月25日(月)

能力探し

今回の旅行で面白い人とであった。
予備校の講師でミュージシャン、今度小説を出すという。

年令が31歳、数学の本を何冊か出し、予備校の講師。
今回の旅行で3つの歌を作ったという。

音楽のゴーストライターもやっているという。
ゴーストライターで本は聞いたことがあるが、音楽では珍しい。
ミュージシャンと数学の先生の二刀流ということだ。
CDを数枚出し、有線でトップテンに入ったことがあるという。
「防波堤」は、長岡のスナックで聞いた事あった。
夜バーで聞いた弾き語りがなかなかよかった。

昼からビールを二本飲んでいた。夜もしかり。
話しているだけで、自分の中の創造性が喚起される。

私の目では一応本物に見えた。
エルミナの夕景を見にホテルの海岸に出たら、一人海辺に隣接している
誰もいないスナックでビールを飲んでいた。
声をかけると、夕日で変わる海の色の変化を見ているという。
これはいえない言葉である。

何か変わった人だと気に留めていたが、家内からあの人はミュージシャンで
予備校の講師と聞いて納得した。

その後何回か話す機会があったが、講師とミュージシャンの仕事の特性の
為か、相手を自分の世界に引き込む話術には驚いた。
いや話術ではなく、その人の中味なのであろう。

http://yoshiki-o.hoops.ne.jp/
大上芳樹


355、西アフリカ旅行記−2

2002年03月24日(日)

今回の旅行は西アフリカのコートジボアールとガーナと
トーゴとベナンの4カ国を突き抜けるバスツアーであった。
人間の頭に例えると、インド洋が顔、大西洋を後頭部とする。
その後頭部にあたります。

1000舛隼廚辰討い燭実際2000舛任△辰拭
バスツアーそのものを楽しむものだった。

ほとんど景色は変わらず、淡々とした旅行でもあった。
やはり異質性はあった。
東洋人を全く見たことがないようで、彼らの好奇の目に驚かされた。

何処でもそうだが、こういうところは市場が面白い。
各地の市場にいったが、現地の特性があり生活の匂いがしていい。
彼らは写真を撮られることに、異常に拒否反応を示した。

4カ国を短時間で見て、それぞれの政治情勢が手に取るように解った。
当然のことだが、政治の重要性を感じとることが出来た。

奴隷についても、日本でもありえたのでないか。
隣国が海で囲まれていない場合、
戦争捕虜を皆殺しをしないで、隣国に売り払った可能性があった。
戦国時代は負けたほうは、条件をつけない場合は皆殺しであった。

何処がどうという事でなく、トータルで異国情緒を愉しむという旅行であった。
同行者もアフリカのみならず、世界中を行きつくしたツワモノぞろいであった。

私にとって行きたい処の情報の宝庫であった。
もう一つの楽しみの同行者がよかった。
何かを背負い、また降ろしてきた人生のツワモノ達でもあった。

こういうところに来る人は、変わった人というより旅行をしているうちに
ここに行き着いたという人が多い。その中で感性が磨かれたものと思われる。
それと初めから何かのきっかけで来ているか、どちらかである。

これから数人具体的に見てきた人を紹介してみる。


354,偶然の一致   -時差ぼけ

2002年03月23日(土)

心理学でいうシンクロニシティーである。
今起きてきて、台所の時計が9時16分で止まっていた。
居間の時計も9時16分で止まっていたのだ。
寝室の時計で6時過ぎである事は確かである。
現在は6時21分のはずである。
腕時計を見たら、9時21分になっていた。
ウソじゃないか!ウソじゃない!
そうすると3っの時間が9時16分に一緒になっていた事になる。
台所の時計は止まり、居間の時計は現在9時35分でどういう訳か
今動いている。腕時計を今見ると9時35分である。
(16分から19分たって35分になっていた為、時間が違う)
シンクロニシテーが起こったのだ!

TVをつけたら9時35分であった。
4っつ目の偶然の一致?いや寝室の目覚ましが壊れていたのだ。
お粗末!これが時差ぼけだ。家内は今も寝ている。
それにしても朝4時に目覚ましを見たとき、いやに明るかった!
それに何の疑問を持たないのが時差ぼけである。

たった今起きた小さい迷事件である。


353、流通再編ーウォルマートの進出

2002年03月22日(金)


旅行の留守の間の新聞をみていたら、3月15日付けの日経に
ウオルマートの西友の買収の記事に驚いた。
当然といえば当然だが。

これでジャスコとヨーカ堂とウォルマートとの3極の再編成が
この4〜5年で始まるだろう。

ユニーなどの地方の準大手や中堅企業のSMも、
吸収か倒産のどちらかの選択に迫られる。

この3極の一角も10年以内に倒産に追いやられるのは、
アメリカのKマートの倒産を見れば当然だろう。

自動車業界や電気業界と同じ世界に、流通もおいやられるということだ。
まずはダイエーの淘汰はこの数年で必至だ。そして今最盛期を誇っている
ホームセンターも3〜4年先から倒産の嵐も必至である。

もちろん地元の原信やウオロクなどは、そのどこかに参加するか
消滅しかない、面白い時代になってきた。
といって全ての企業がこの数年で存続か消滅の岐路に立たされている。

最終的にダイエーを買収すると思っていたが、西友とは思ってなかった。
SMのスパーセンター(1500〜2000坪)
あたりを狙ってくるのは当然だ。

仕事人生の前半に流通業に身をおいていたから、その競争世界の激しさに
震撼とする。

地方(痴呆)豪族化していたー(ペガサス主幹の渥美俊一)
痴呆スパーの淘汰に入った。

ー地方豪族化を敢えて説明すると、
自動車販売会社やケーブルTVとか、印刷会社や貸しビルなど持つ
??などの地方スーパーをいう。
ーあくまで渥美談ー


352,西アフリカ旅行記

2002年03月21日(木)

・海岸をただバスでひたすら高速ではしるリゾートの旅であった。

・見えるのはココナツの木とやしの木の林、それと10人位の人が
 引いている地引網。一全岾屬阿蕕い砲修譴見える。
 その道路の反対側にその魚村が見える。

・海には丸太をくり抜いた帆かけ舟の魚船。

・ガーナのエルミナのケープコーストの城塞。
 奴隷を一時収監していた牢獄をもつが、奴隷倉庫の為か陰惨さは
 想像していたより少ない。これが世界遺産かと驚く。
 しかしそれを取り巻く漁村のトータルとしてみれば納得する。

・感動感激の連続の旅とは程遠い事も事実である。

・ここで始めて知ったのは、白人が奴隷を捕まえて売り払ったのでない事だ。
 ガーナのアシャンテ王国を中心とした国々が、他民族を征服していく過程で
 捕まえた捕虜が奴隷として売られていったのだ。
  
 ーほとんどがアメリカ大陸に、2500万人が売られていった。 
 今でもその民族同士の恨みがあるという。
 男が25人女が31人に一台の大砲が、
 相場だったというー大きさにより前後するが。
 男は屈強、女は絶世の美女が条件だった。

 アメリカ大陸の白人が決して悪いわけでない。
 ただそれが売られていただけだ。
 当時の自殺よけの口銜えが悲しい!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
同行の人達をみると、過半数以上が一人参加。
ほぼ全員が50回以上の海外旅行参加の人達。
アフリカはほぼ行きつくした「アフリカ大好き人間」の集団であった。
私の行ってないナミビヤ、エチオピア、リビア、マダカスカルは、
大体の人が旅行経験者だ。これは数年のうち行くつもりだ。

行った場所が温暖の気候の為、アフリカ大陸としては
物質的には比較的恵まれていた?
しかし資源が少ない為、世界から取り残されていた。

同行の顔ぶれで変わったところでは、ミュージシャンや商店主などや
茶髪の女性の新婚さん(10歳年上をカバーする為と後でわかった)
・・・・年齢は30歳前後から70代まで
ーーーーーーーーーーーーー
総括として
まだ早いという感じ。
ナミビヤ、エチオピア、リビアなどの後でも良かった。


351,自己配転

2002年03月06日(水)



キャリアとは、「多くの経験をしてきた」といういみである。
役人の出世コースは若いうちにどんどん配転させ、経験を積ませる。
いわゆるキャリア組である。

会社も「将来の幹部候補」は別に配転コースを組み、それに従いどんどん配転させる。
そのプロセスの中で実績を重ね、適正を見つけ、それぞれのコースにえり分けていく。

仕事も何事も経験がまず第一である。OーJ−Tが基本である。

私も務めで、寝具、日用雑貨、子供服、靴下、配送センター等々経験した。
経営では、飲食で養老の滝ー1122号店、焼きたてのパンのセンチュリー・ベーカリー、
衣料量販店、今のビジネスホテルー学生ショップを経験した。

「よくいろいろの経営ができるね」と聞かれるが、皆一緒である。
商品変われど、システムとして捉えれば全部同じである。
そういう意味で自己配転をしてきた事になる。

ホテルをやるとき、「単品のズボンを一日70本売るのと客室を
70室売るのと何が違う?」と考えたからだ。
何も違わない!ただそれだけ。4千円の値段まで一緒だ。
そしてそのとうりだった。
一つだけ違うところは、それを20^30年、売り続けなければならない事だ。

職を変えていく事とフリーターと何処が違うか、といえば「目的を持ってそれを経験として
蓄積できるか」どうかである。

フリターも結果としてよい場合もある。
それが結果としてプラスになればだが、ほぼ絶望が99佑澄

ある社長がきて「息子が勤めた会社を1年で辞め、フリターになってしまった。
本人が言うに、若いうちにどんどん色々な経験を積みたいという。どういうものか?」
と聞くから「いいじゃないか、ただのフリーターじゃないよ。
自己配転をしようとしているじゃないですか。考え抜いたそれだから素晴らしいよ。
応援してあげなさい」と言うと、本人もそれに気づいたようだった。

目的を持つと言う事は、人生に意味を多く持たせる。
更に目的に向かって、舵とりを覚えるようになる。


350,プラスの言葉とマイナスの言葉 

2002年03月05日(火)


           

ープラスの言葉

楽しい
ヽ(^o^)丿(^^♪!(^^)!(#^.^#)(*^^)vヽ(^o^)丿(^^♪!(^^)!(#^.^#)(*^^)v
嬉しい、おいしい、きれいだ。可愛い。美しい。元気だ。丈夫だ。
のびのびしている。満ち足りている。どんどんよくなる。笑う-可笑しい。
全てうまくいっている。すべておだやかだ。ポカポカ暖かい。成功する。
順調にいく。自信がある。かならずうまくいく。

ー実に楽しい。とても愉快だ。とても幸せだ。−

ーマイナスの言葉

悩む。苦しい。悲しいー(+_+)(/_;)(ーー゛)(;一_一)、
腹が立つ。痛い。憎い。辛い。不平。不満だ。泣く。どうしていいかわからない。
暗い。失敗。ぞっとする。意地が悪い。寒い。冷たい。どんどん悪くなる。汚い。
汚らわしい。自信がない。どうしても嫌だ。私ほど不幸なものはない。
----------------------------------------------------
以上がある本からの抜粋だが、
周辺で上手くいってない人が多い。
これは事実だ。上手くいっている人も多い。
周辺でも「信じられないような幸せな一生」を過ごしている人がいる。
私の義母ーである。
こんな人生もあるのかと思えるような、幸せな環境である。

上手くいっている人生と、全く上手くいってない人生とに、
それぞれの共通点がある。

上手くいっている人は「育ち」という言葉で集約できる家系がある。
幸せ系の家系というか、それは親の性格と夫婦間の相性だ。
子供にとって、これは集約された環境といっていい。

上手くいってない人の両親は夫婦仲が悪い。あるいは嫁姑の関係が悪い。
その間がマイナスであるから、自然に言葉もマイナスになってしまう。
その環境に育てば、マイナスの言葉や空気が子供の時から脳にしみこむ。
プラスの人はその反対である。

性格改造は言葉使いの改造である。
言葉は言魂といって、それ自体魂が入っている。
プラスを使っていれば、人生そのものがプラスになる。

自戒の文章である。


349、われ思う、ゆえに我あり

2002年03月04日(月)

「われ思う、ゆえに我あり」この言葉をもじって、
過去の哲学者がいろいろ書いている。

「われ意志す、ゆえに我あり」
「われ笑う、ゆえに我あり」
「われ行動す、ゆえに我あり」
「われ感激する、ゆえに我あり」
等々。
その中で「われ意志する、ゆえ我あり」がいい。
意志するとは、人間の思考の基本といっていいからだ。

意志薄弱はその正反対の言葉だが、意志が固いはモノゴトを
やり遂げるベースである。

「われ??する、ゆえに我あり」の??探しが一種の課題なのかもしれない。

今考えられるのは
ーセックス、夢みる、感動、感謝、耐える、食べる、話す、恋愛、愛、働く、
死ぬ、いきる(生きる、活きる、・・)読書、創る、働く、遊ぶ、・・

いくらでもあるものだ。


348,否定の否定の落とし穴

2002年03月03日(日)

「マイナス言葉+ない」という言葉のトリック。
「苦しくない」「悲しくない」・・・
これは意外な落とし穴がある。

否定語を否定するとプラスにみえるが、
それが常態になると、否定語が勝ってしまう。

私の嫌いな「子狐」を例にとる。
否定を否定しているが、そのうち子狐が勝ってしまうのである。
悪貨は良貨を駆逐するのは真実だ。悪貨から離れるしかない。

従ってどうしたらいいか。
父が教えた「近所の人と親しくなるな!」である。
これ以上書くと差し障りがあるから、書いてはいけないが。

近所は否定語の最たるものだ?ー意味深長!
空間は早々変えることができない、真空にしておくべきだ。
一年に一度ぐらいが最高レベルの付き合い限度と、ある本に書いてあった。

言葉は難しい、そのトリックに知らないうちに落ちてしまうからだ。
人間関係も然りだ。

「いやよいやよも好きのうち」の最たるものだ。
嫌いなら離れるべきだ。
人間にもプラスとマイナス要素をがある。
プラス要素の多い人となるべく付き合うべきだ。

マイナス要素(多い)の人は長期的に付き合っていると、
必ずマイナスの毒を飲まされる。今更いうことがないが。
よどんでいる所、人にはガスが溜まる。

マイナスの要素の否定は、その否定よりマイナスが勝ってしまう。
更に否定そのものが、マイナスの加勢する。


347,心の陰

2002年03月02日(土)

人を指さしたとき、他の指は全て自分のほうを向いている。
人を非難するのは、結局自分の影を非難しているに過ぎないことを,
いっているのだ。

「他者認識は不可知」という論がある。
ー他人のそれを認識はできない、認識したらもう他者のそれでなく
自分のそれを認識しているに過ぎないー

これが理解できるかどうかで、
「人生に背負っている人間関係の重荷」が半分か三分の一に軽減する。
特に「嫌いな人間」に対しては「自己の嫌いな部分」
をみているにすぎないからである。
自己脱皮のできない「子狐」どもを嫌っているのは、
今でも脱皮できなかった自分の部分を見ているからだ。
自分もその「子狐」で、少し程度がいいだけだからだ。

私の嫌いな、いま一つの典型の
「教養のないオバサン」
それこそムシズがさわぐ。

結局教養のない「現実志向も自分のある一面」であるからだ。


346, 20歳の頃ーある教授との出会いー3

2002年03月01日(金)

       武澤信一教授  人事管理ゼミ

私の人生で最大の師は大学の恩師武澤先生です。
もう亡くなられて7年になる。
イメージはキザな気取り屋で、底知れぬ教養人です。
話しているだけでコンプレックスの塊になる。
特に人事管理の世界的権威のレベルと聞いていた。

先生との出会いがなければ、30数年間一日平均2〜3時間の読書を
続けられなかったと思う。
知的コンプレックスを脳の中心に叩き込まれたためだ。

非常に印象は冷たく、傍にいるだけで居たたまれなくなる人だったと思います。
親分肌の正反対のタイプだ。
あだ名は「絹布団」自分でも気にっていたとか。
初めは冷たく感じるが、長く付き合ってもらえれば温みが感じられる。
目上の人で筆不精の私が何回も、手紙や葉書をやり取りしたのは先生が
初めてであった。
                − 遺稿文を載せてみるー

さようなら武澤先生ー   ー武澤先生ご遺稿・追悼文集ー「はげみ」より

武澤信一先生、そして懐かしい武澤ゼミ、八王子ゼミナール、はげみの会、
最終のゼミナールとその晩のコンパ。
そして先生の退職時のはげみの会(最後のゼミナールと称して参加者の全員の
自己紹介と経緯の説明)等々、様々なことが思い出されます。
私の学生時代、いや50年の人生で恩師武澤先生をのぞいて考えられない位、
大きい存在でした。‘ご遺稿・追悼文集’発行の手紙をいただいた時
「よかった」と思わず言葉が出てしまいました。
先生に対する追悼の思いを表現する場が、もやもやした中途半端な気持ちに
あったからです。
立大3年の終わり頃、親友だった石川譲冶さんより「今入っている武澤ゼミ、
素晴らしいから、面接に来ないか」と誘われまま、気楽に試験に行ったのが
武澤ゼミとの出会いでした。
そして入ってまもなく大学3年間の、いや人生の22年間の不勉強に、
呆然としてしまいました。
そして2学期から卒論を書くにあたって、知的コンプレックスは極限に達して
ノイローゼの一歩手前の状態になってしまいました。進路もこのまま果たして
このまま進んでいいものか?直接その迷いを先生にぶつけてしまいました。
その時の武澤先生の一言が「迷いを数字で表現してみなさい!」でした。
その時の自分の答えが忘れることができません。
「51対49」でした。すかさず先生は「それなら、51の方を選ぶべきです!」
しかしその後、最終的に選んだのは49の就職の方でした。
「それなら初めから相談に行く必要がなかったのではないか」という矛盾でした。
その後就職をしたのですが、その後そこを辞め大学に編入しなおし、再び就職後
事業を起こしました。そして現在に至っています。
そのプロセスの中でいつも先生の影が、自分を追い立てていたようです。
また「51対49」が私の人生観の一つになりました。
何事も「51対49」と考えると、迷いも冷静に対処できるのです。
好き嫌い「51対49」差し引き2。
正しい、間違い「51対49」差し引き2・・・・。

1989年の夏、先生が新潟大学で第19回の労務学会全国大会で議長をされました。
その時、私のホテル(シングルイン新潟)に泊まっていただきました。
そして「卒業後の30年のつもる話」を、させていただいた事を忘れる事ができません。
そして新潟の夜をハシゴをして飲み歩いた事も。

ところで武澤先生と最後にお会いしたのは、1993年の「はげみの会」でした。
二次会で先生が異様に元気がないのが、気になっていました。
そして、その会の帰りがけにエレベーターの前で、私の手を握って
「堀井君、遠くから有難う!身体にくれぐれも気をつけて、元気で!」
と上下に激しくふった時、「もしかしたらこれが最後のお別れになるかも?」
と思ってしまいました。
しかしまさか、こんなに早く現実になろうとは・・・。
天国の武澤先生、本当に本当に有難うございました。ご冥福をいのります。



                   1996年7月13日発行



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