もんすん日記

2011年03月27日(日) その目には

こちらの日記は一ヶ月以上ぶりに更新。
ツイートはずっとしてた。つぶやくととりあえずすっきりするものの、あれはコミュニケーション前提、だけと日記は自分と向き合って自分と相談して言葉をつむいでいる気がする。大げさだけど。
誰からのリプライも意識せずに書けるこの日記は貴重。

震災が起こってからはずっとそのことで頭がいっぱいで、最近やっと精神的に安定してきた。
関西でいつもと同じ生活が出来ている私が動揺してどうするよ、と自分でも思う。でも色々あった。
最初は気仙沼で小学校の先生をしている叔母一家の安否をずっとネットで探していた。小学校は三階まで水没して、学校関係者、子供達は近隣の人たちと三回以上に避難、自衛隊が数日して入り、支援物資も届いたらしい、という情報までツイッターで得られた。今回はツイッターという新しいインフラの力が本当に頼もしかった。そのおかげで、みんなきっと無事だと信じることが出来た。

連絡が取れてわかったことは、叔母一家は全員ばらばらに避難したものの皆無事。叔母の学校は一度子供たちを帰宅させたが警報が鳴って皆戻り、津波が来ると二階に避難したものの、そこまで水が迫ってきたので、三階に避難したのだという。
それを聞いて、ほっとした。そして、子供達の恐怖はいかばかりだったろうと想像する。そんなことしてもわかるはずはないのだけど、理解しようと想像する。

母が少しおかしくなった。
叔母に義援金を送り、救援物資を送ろうと計画していたとき、急に「阪神大震災のとき、あの子(叔母)は電話すらくれなかった。」と言い出して、突然「お金だけでいい。物資は今したくない」と言い出した。
こんなときに16年前のこと?と最初はなじったけれど、どうやら阪神大震災のときのフラッシュバックがあったらしく、だんだん母の気持ちに寄り添わなくては・・・と反省した。

当時、母は神戸にいて、私は大阪で下宿をしていた。
だから、私には本当の震災を知らないし、家族なのに何もできなかったという罪悪感みたいなものがずっとある。
大丈夫、と私にもずっと言っていた。
でも、東北の震災の映像をずっと見て、色々蘇ってきたらしい。
震災の恐怖はもちろん、水がなくて姫路まで行って水を調達したこと、姫路に娘(妹)と父を避難させたけど、現金がなくて帰らざるを得なかったこと。
母の中では、6人兄弟なのに、そのとき現金や物資を支援してくれたのは祖父と長兄だけという恨みのようなものが残っているらしい。そして物資よりお金より、連絡をして励ましてほしかったのだという。

別の叔母にそのことをぶつけたらしく、フォローするつもりでその件で話をした。兄弟の中で母は姫路に避難したから大丈夫という情報がすぐに入った、電話も繋がらなかったから連絡しなかったけど、被害がなかったから見舞いもいらないと本人が言ってるらしい・・・と聞いて・・・と絶句していた。
でも姉さんのことは大切に思っているということを伝えてほしい、と。

そして私が先週京都の父方の祖母(母は若い頃ずっといじめられたとかで疎遠)をたずねたことと、「母には何もしてくれなかった」叔母に対して、あれこれするので、怒りの矛先が私にも向かってきている。
昨日は突然うちにやってきて、私が叔母に送金した金額を封筒に入れて押し付けて帰っていった。
どうしたらいいのよ・・・。

こんな大きな災害で親族が被災している。気持ちはぐっとこらえて、出来ることはしないと、自分が後で後悔すると思うのよ・・・。でも私は被災した経験がない、という思いから、母がそんな風に思うのはやはり阪神大震災のトラウマだから仕方ないのかも、という気もする。

募金はいち早く現地入りして助けてくれているNGOにしたいと思い、ピースウィンズジャパンとアムダにした。それから現地で炊き出ししている個人にも、ほんのちょっとだけ。街頭の中学生や高校生にもちょっとずつ。
赤十字などの義援金は、被災自治体に渡され、自治体が各自の裁量で支出を決定すると聞いたので、もうちょっと後でいいと思っている。

出来ることはなんだろう。親戚でも、見知らぬ被災した人たちにも。
切実にそう思うのは、自分が同じ経験をしなかったのは偶然にすぎないと思うから。だから、自分だったらしてほしいことを考える。わからない。でも、想像してみる。


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