日々雑感
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2002年09月30日(月) 特別な喫茶店

友人は今日帰る。見送りがてら、いっしょに喫茶店へ。以前、東京に住んでいた彼女にとっての特別な場所だ。

繁華街のど真ん中、迷路のような裏道に、ひっそりとその店はある。古びた戸を開けて中に入ると、階段も床も黒光りのする木製で、歩くとギシギシと音がなる。曇りガラス越しに外の光は弱く、昼間でもぼんやりと薄暗い。大きなステレオからはクラシックが流れている。

何より、その空気だ。ここでは、時間は流れてゆかずに、ゆっくりと静かに降り積もってゆくみたいだ。かつて誰かが過ごした時間が層をなしている。そうした空気の底に沈みこんで、ピアノやオーケストラの音を聴いていると、この店にいると自分自身がチューニングされるような気がすると言っていた、その友人の言葉がほんとによくわかる。

その後、神保町などぶらぶらしてから東京駅へ。電車の中からは、神田川が見える。水面には川っぷちのビルの灯りがうつる。雨の東京。


2002年09月29日(日) オヤジ

朝、起きるなりネットでサッカーの結果をチェック。このところ絶好調だったA.C.ミランが引き分け、おまけに試合運びもまるでいいところなしということでショックを受けていると、昨晩泊まった友人に「オヤジみたい」と言われる。プロ野球などのひいきチームの結果に一喜一憂するのが「オヤジ」とするならば、その気分が少しわかったような気がする。

夕方からは新大久保のスタジオで練習。その後再び友人と合流し、さらに隣りに住む友人ともあわせて3人で飲む。小、中学校の同級生であった3人が、こうして東京で酒など飲んでいるのだから不思議だ。そして、例えばあと10年たった頃、皆どこでどうしているだろう。焼酎と泡盛。昨日につづいて今日も飲んだ。

夜、酔っ払って帰る。真夜中なのに、外でカラスが鳴いている。


2002年09月28日(土) 悪い奴等を蹴散らして

友人、上京する。東京駅で待ち合わせ、そのまま日比谷公園へ。エレファント・カシマシの野音コンサートがあるのだ。

焼きソバのソースの匂いがしたり、ビールを飲む人がいたり、ときおり風が吹いたり、虫の声が聞こえたりするのが野音の醍醐味。そして、久しぶりのエレカシはすばらしかった。宮本さんほど説得力ある歌声を持つ人を他に知らない。「がんばれ」とか歌われるのは好きではないけれど、宮本さんが「明日もがんばっていこうぜ!」と言うと、よし、自分もがんばろうという気持ちになる。命令形ではなくて、必死でがんばっている本人が(おそらく)自分自身にも向けて発している言葉だからか。そうだ、「悪い奴等を蹴散らし」て行くのだ!

ライブのあと、友人とワインを2本空ける。ただし、ハーフボトル。


2002年09月27日(金) ときどき無性に

雨。秋の雨は冷たい。地下鉄のホームに降りてゆくと、暖かくてほっとする。同じ温度でも、暑いと感じるときと、暖かいと感じるときと、いつの間にかその境目を越えている。

ものすごく久しぶりにマックでバリューセットを食べる。身体にはあんまりよくないだろうと思いつつもときどき無性に食べたくなるものがあって、マクドナルドのハンバーガーとポテトはその筆頭だ。モスだとか、フレッシュネス・バーガーだとか、ちゃんとしたものではなくて、マックの薄いハンバーガーがよいのだ。昨晩から頭の中でなぜか「マック」が増殖していたので満足。しかし、平日59円というのはすごい。

明日から友人がやってくる。夜は、部屋の掃除のラストスパート。徹夜覚悟。


2002年09月26日(木) 好きなタイプは遺伝する

近所の喫茶店へ。少し前までは毎回アイスコーヒーを注文していたけれど、そろそろホットがほしい季節だ。

隣りのテーブルでは、共に高校生の娘を持っているらしい女の人が2人、空になったカップを前に話し込んでいる。1人が主に話し、もう片方はどちらかというと聞き役か。声が大きいので、悪いなあと思いつつも話の内容を聞いてしまう。それによると、
・高校生の娘は反抗期。
・その娘はスピッツの草野さんが好き。
・「草野さんって、何となくうちのパパに似てるのよね。好きなタイプって遺伝するのかしら」
・そのお母さん自身はオダギリ・ジョーが好き

草野さん似のお父さん、見てみたいと思う。そして、草野さんとオダギリ・ジョーに共通点はあるのだろうか?

夜、毎週恒例となったナーちゃんと友人との夜散歩。ぐるぐる歩いたあと、友人宅でお茶かお酒というのがいつものコースだ。小さな骨の形をした犬用クッキーを味見。なかなか美味。


2002年09月25日(水) 彼岸花

彼岸花を見かけるたびに足を止めてしまう。あの赤色はどこか異様だ。何かの道標のようだと思う。

夕方からはゼミ。夜8時すぎまでの長丁場だ。休憩時間に友人がバナナをひとつ分けてくれ、いっしょに食べる。他にも、おにぎりを食べる人、お菓子を食べる人、煙草を吸いに行く人などいろいろ。長期休み明けのゼミ初回はペースが戻らず、なかなかきつい。

帰り、石焼イモを買う。味覚だけ、着々と秋である。


2002年09月24日(火) 豆腐屋、路地を行く

秋晴れ。外を歩いても、部屋の中にいても、金木犀の匂いがする。道端では彼岸花が咲いている。

自転車に乗った豆腐屋とすれ違う。荷台には豆腐が入った大きな箱を載せ、麦わら帽子をかぶり、チャルメラを吹きながら夕方の路地を行く。どこかの家から呼び止める声が聞こえ、豆腐屋、すぐに自転車の向きを変える。ここでは、まだ豆腐屋の来る生活が健在なのだ。ランドセルを背負った学校帰りの小学生が2人、何かひそひそと話しながら角の向こうへ消えていく。

夜、銭湯へ行くとロビーに人だかり。巨人対阪神を観ているのだ。その段階で巨人の優勝はすでに決まっていたが、試合自体は延長で阪神のサヨナラ勝ち。瞬間、浴室へ、玄関へ、皆それぞれに散って行く。果たして巨人のファンなのか、阪神のファンなのか、表情だけではわからず。微妙な優勝シーン。


2002年09月23日(月) パワーをもらう

友人と下高井戸で会う。「金八先生」の乙女ちゃんこと星野真理に似ている彼女とは、この夏、地元での青少年国際交流なるプログラムに参加したときに知り合った。2人とも東京暮らしだけれども、こちらで会うのは初めてである。

下高井戸という街で飲むのも、また初めて。土曜日は新宿でお祭りにぶつかったけれども、今日はここがお祭りらしい。駅前の商店街は神輿渋滞。八百屋の前で半被姿の若衆にかつがれたお神輿を見送ってから、彼女の馴染みの店に連れていってもらう。

この夏の話から、仕事の話まで。彼女は4月に就職したばかりだ。毎日大変らしく、「グチばっかりでごめんなさい」と言いつつも、その仕事を大事に思っている様子や熱心に打ち込んでいる様子が伝わってきて、こちらもパワーをもらったような気分になる。年は自分のほうがずいぶん上なのに「しっかりしなさい」と励まされているみたいだ。

そして、よく飲む。顔色も全然変わらない。結局2人して、夜の下高井戸でハシゴする。神輿はもちろん、もういない。


2002年09月22日(日) 「永遠と一日」

夕方から雨。雨が降る日は夜が来るのも早い。あっという間に暗くなる。

夜、NHKの教育テレビでテオ・アンゲロプロスの映画「永遠と一日」。この人の作品を観るのははじめてだ。ギリシャの港町を舞台に、重い病にかかり、死を意識した老作家と、偶然に出会った難民の男の子との「最後の一日」が描かれる。

老作家の部屋からは海が見える。窓いっぱいに見渡す限りの海だ。冬のギリシャの曇った空と海の色は、暗いというよりも、何か遠くまで見通せるように澄んで冷たい。誰かの家の窓から音楽が聞こえる。老作家は飼っていた犬を連れて外に出る。

海と、傍らを行く老作家と、その風景を見ているだけでたまらない。とてもきれいで、とてもかなしい。感傷的になっているのだろうか? いつかきっと大画面でこの映画を観よう。

何だかんだと、気がつくと今日も深夜。すっかり夜更かしグセがついてしまった。


2002年09月21日(土) 祭りの遺伝子

夜、新宿で飲み会。駅から出ると、道沿いに提灯の灯りがずらりと並んでいる。地元神社のお祭りらしい。ふだんは、人が大勢集まっては通り過ぎて行く、新宿の表の部分しか見ていないけれども、ここにも確かに古くからの生活があり、暮らしている人々がいるのだ。

飲み会の参加メンバーから電話。車で向かっているのだが、新宿に近づいたところで「神輿渋滞」に巻き込まれたという。渋滞はいらいらするものであるけれども、「神輿なら仕方ないか」と思ってしまうのは、祭りの遺伝子が自分たちの中にもあるからか。

帰り、まだ提灯は明るい。ビルの合間にはぼんやり霞んだ月もある。



2002年09月20日(金) 『花々と星々と』

花屋でススキを見かける。「中秋の名月」を明日にひかえて、月見用に入荷したらしい。和菓子屋には月見団子が並んでいるだろうかと思いつつ、そちらは確認せず。

『花々と星々と』犬養道子(中公文庫)を読んでいる。五・一五事件で凶弾に倒れた犬養木堂(毅)を祖父に、白樺派の作家であり、後に政治家となった犬養健を父に持つ著者が、幼い頃の日々と周囲の人々について描いた自伝的長編である。

大正から昭和の初期にかけて。本の中にはいろんな人々が登場する。活字でしか名前を知らない彼らは、みな生き生きとして、どこか可笑しい。ふっくらと「お餅」のような体格で相撲好きの岸田劉生や、父と連れ立ってどこまでも歩いていってしまう武者小路実篤、犬養毅は身体の弱い孫娘のためにりんごを磨り、そんな中で芥川龍之介は決して笑わず、黒いマントを羽織って「さながら影のごとく死の使者のごとくであった」。

しかし、やはり印象的なのは白樺派の文人たちの肖像。この本の前半に満ちているのは「白樺らしい理想と楽天」であり、底抜けに明るく、風通しがよい。「ほんものとは、人真似をせず自己に徹した人のこと」と言い合い、「自由」と「自分」とを貫こうとする人々。そうした空気が、やがて五・一五事件へと向かう作品の後半では、どんなふうに影を帯びてゆくのか。

夜、友人とナーちゃんの夜散歩に同行。そのまま友人の家で「ニュース・ステーション」をいっしょに観ながら小豆アイスを食べる。帰りがけ、『真珠夫人』の文庫本と楳図かずおの『洗礼』、りんご2つをお土産にもたせてくれる。夜道、月が明るい。


2002年09月19日(木) 秋の日は

一日、部屋の中で仕事。5時をまわったところで図書館に本を返しに行く。

カウンターに本を置き、館内をひととおり眺めて外へ出るともう暗い。空気がひんやりする。9月も半分過ぎて、ずいぶん日が短くなった。太陽が沈んだかと思うと、ぐんぐん暗くなる。そうだ。こういうのを「秋の日はつるべ落とし」と言うのだ。

帰り道。すれ違う人の足音も、虫の声も、すぐ近くに聞こえる。寒い季節、音がよく響くのは空気が澄んでくるからか。夏の間はいろんなものの生気があたりに満ちているけれども、秋にはそれぞれが自身の中に戻ってしっくりと収まっているような気がする。自然と呼吸が深くなる。

夜、栗のプリンを食べる。秋の味。よい季節だ。


2002年09月18日(水) <語り>と<問いかけ>

秋晴れ。非常に快適。

外では、大家さん夫妻が庭仕事をしている。雨がつづいていたので作業も久々らしい。「ほら、ここに青虫いるよ」「青虫じゃなくて芋虫でしょ」「いや、これは青虫」。青虫と芋虫の違いは何だろうと思いながら、自分は布団干し。

古本屋で『猿を探しに』柴田元幸(新書館)を買う。エッセイ集。この人の翻訳はまだ読んだことがないのだが、エッセイは好きだ。中に、三浦雅士氏の著作をひきつつ<問いかけの思考形式>と<語りの思考形式>について書かれた一編がある(エッセイの中で柴田さんは「我田引水」と言っているが、ならばこの日記は何と言えばよいのだろう?)

柴田さんの解釈に従えば、<問いかけの思考形式>とは「対象について問いを立てる思考形式」であり、<語りの思考形式>とは「対象を受け入れる思考形式」。つまり、「<問いかけ>は批判する思考形式であり、<語り>は没頭する思考形式」。そして、自分が「大学教師として論文指導が下手で、にもかかわらず翻訳はけっこう得意」なのは、対象から引いて読むことができず、入り込んで、同調してしまう<語りの思考形式>に圧倒的に傾いているからだと言う。なぜなら、翻訳で大事なのは、自己の人格を放棄し、身体的に同調し、対象に入っていくことであるから。

自分も完全に<語り>寄りだ。「読む」ときには全然客観的になれない。わかってはいたけれども、こんなふうに用語を与えられると、何かすっきりする。

夜、テレビで欧州CL、フェイエノールト対ユベントス観戦。またも夜更かし。サッカーを熱心に観ていると慢性寝不足状態。


2002年09月17日(火) 仮の宿り

友人からメール。地元ではもうストーブをつけたらしい。寒くなるのはあっという間だ。

その地元から、別の友人が上京している。こちらに来たら考えもしなかった涼しさで、あわてて長袖を買ったという。ハチ公前で待ち合わせ、渋谷でいっしょに夕飯。夕方の渋谷は、平日でも雨降りでも人が多い。2人して歩いていると、自分もまた上京したてのような物珍しさで街並を眺めてしまう。

自分はほんとうに東京に住んでいるのだったか。東京暮らしもずいぶん長くなるのに、いまだに根づいているという感じはせず、仮の宿りという気持ちが抜けない。たぶん、これから先もずっとそうだろう(そして、いつかどこかで「根づく」ことはあるのか?)。

湯葉やかぼちゃの煮物など食べる。友人は、アマレットを使ったカクテルが気に入った様子。自分は泡盛。ひとしきり喋る。

別れ際、駅の改札前で友人を見送る。彼女は明日、飛行機に乗って帰る。上京して以来一度も見ていないという太陽が顔を出すとよいのだが。


2002年09月16日(月) 酒飲みの舌

昨晩はテレビでパルマ対ウディネーゼを観戦、つづけて「くるり」のライブも観てしまったせいで夜更かし。友人からの電話で目が覚めると、10時をまわっていて驚く。久々の朝寝坊。外は雨だ。

夜はその友人と飲む。また秋刀魚。先日、同じ店に来たときは泡盛を飲んだけれども、今日は日本酒だ。銀盤に〆張鶴は、かにみそやいかの塩辛との取り合わせが絶妙。つくづく味覚が酒飲みになったなあと思う。秋刀魚の「わた」も好きだ。

もう使わないというデジカメをゆずってもらう。友人いわく「日光写真と同じくらいのレベル」らしいが、試し撮りしたものを見ると、なかなかよい感じだ。「写真のページをつくる」と言ってはみたが、果たして。とりあえずはお隣りのナーちゃんを撮りに行こう。


2002年09月15日(日) 夢を見るために

涼しいというより肌寒い。長袖を着る。

昨日は亀の夢を見た。家の中の梁に中くらいの海亀がへばりついていて、いきなり頭の上に落ちてきたのだ。びっくりした。まったく夢を見ない時期がつづいていたのだが、最近になってまた毎晩のように夢を見ている。「最近は夢を見るために生きているようなものです」と言ったのは誰だったか。そこまではいかないにしても、似たようなことは思う。

夜、昨晩友人がお土産に持ってきてくれたアイスを食べる。練乳入りの「赤城しぐれ」だ。冷たい。ますます寒くなる。でも美味しい。


2002年09月14日(土) 秋が来る

花屋の店頭にりんどうが並ぶ。りんどうの藍は秋の色という感じがする。

目の前の仕事はまだ終わっていないが、ふらふらと村上春樹の『海辺のカフカ』を買ってしまう。もう少し我慢しようと思っていたのだが。あなたにいちばん縁のない言葉は「意志の強さ」とか「努力」とか、と言われただけあると我ながら思う。上、下巻ともカバーをかけてくれた店員さんの名札を見ると「村上」だった。

夜、友人から電話。「今から行く」と言う。10分待ってくれと頼み、焦って掃除。バタバタやっているところに、ビールとアイスクリームを手に現れる。ナーちゃんもいっしょだ。すでに飲んできたあとらしく、友人はご機嫌。ナーちゃんはというと、部屋のあちこちへ顔を突っ込んではいろんなものを引っ張り出している。大騒ぎだ。

ひとしきり喋ったあと、2人と1匹で夜の散歩へ。街灯に照らされた路地の上をナーちゃんは喜んで歩く。虫の声がする。空気はもう秋の匂いだ。9月も半分過ぎる。


2002年09月13日(金) メールは嬉しい

朝から頭痛。しばらく横になっていたが、良くなる気配なし。思い切って起き上がり、部屋の掃除をしたり、図書館まで本を返却しにいったり、身体を動かしていたらいつの間にかすっきり。身体の中の淀みが消えて、流れがスムーズになったような感じだ。単なる運動不足か。

夜、ドイツからメール届く。夏に知り合った人だ。送るほうも、届くほうも、必要事項の連絡手段としてのメールが増えてきただけに、何でもないメールが届くととても嬉しい。「何でもない」というと語弊があるけれど、もちろん良い意味である。

文章の中に見慣れない記号が混じっていて、何だろうと思ったらどうやら顔文字らしい。顔文字は全世界共通ではなかったのだ。ドイツの顔文字はこんな感じ;-)


2002年09月12日(木) 巻き戻しはできない

朝から日差しが強い。暑くなりそうだ。

夏と秋の狭間。こんな季節の境い目には、ふと時間の感覚が狂うことがある。これから夏が始まるのではないか。どんどん暑くなって、やがて夏休みが来るのではないか。手つかずの夏が目の前に広がっているような気がして一瞬ドキドキするが、意識の焦点があってくると、夏は終わってしまったのだ、巻き戻しはできないのだということに気づく。こうやって時間はどんどん過ぎて行く。

外へ出ると、細い路地の両側にカラスが一羽ずつとまっている。その様子は、さながら神社前の狛犬か、沖縄のシーサー。カラスのあの威圧感は何だろう。大きさのせいか、つやつやとした黒色のせいか、妙に堂々とした態度のせいか。

二羽の間を通り抜けるときは、門番にじろじろ眺められて、品定めされているような心境。思わず「すいません」と言いそうになる。


2002年09月11日(水) 三日月の夕方

夕方、スーパーまで買い出しへ。金魚屋の水槽が暮れかけの路地にぼんやり浮かんでいる。金魚の赤が蛍光色のように水の中でゆらゆらと揺れる。西の空には三日月。今日はスピッツ「三日月ロック」発売日だ。スピッツ、月齢も見越しての発売日決定か。

帰り、本屋に寄る。明日発売の『海辺のカフカ』村上春樹(新潮社)がもう並んでいる。いちばん目立つ場所に山のように平積み。新潮社のPR誌『波』の村上春樹インタビューに、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のつづきのようなつもりで書き始めたとあって(少し変わったらしいが)、それ以来この新作がますます気になっている。

心ゆれるが、今抱えている課題が終わってから一気読みしようと決めているので買わずに去る。手元にあると絶対に読んでしまう。今、自分のもとにはなくとも、読みたい本が確かに本屋に並んでいるというのは、もどかしいけれども幸せ。


2002年09月10日(火) 目があう、目をあわす

朝から部屋の中で作業。さすがに煮詰まって、夕方、資料など持っていつもの喫茶店へ出かける。

2階すみっこの窓際の席が空いている。さっそく座る。読んだり、書いたりに疲れると、ぼうっと外を眺められるのが窓際の席の良いところだ。店の前の道路は、車も人もひっきりなしに通る。ときおりバスも行く。バスの窓越しに乗客も見える。何か話している人、ぼんやりしている人、こちらからはその様子がよく見えるけれども、目があったことは一度もない。

誰かと何らかの関わりを持つときに「目をあわせる」ことはあっても、例えば道を歩きながら、電車に乗りながら、知らない人と「目があう」というのは、そんなによくあることではない。ふと目があってしまったときでも、何かきまりが悪いような思いで、すぐに視線をそらしたりする。

目をあわせるのは一対一の真剣勝負であり、エネルギーがいる(「にらめっこ」を考えればわかる)。偶然、目があったときに動揺するのは、心の準備ができていないからだろう。すれ違う人、皆と目をあわせていたら、きっとぐったりしてしまうだろうけれども、ほとんどの人と一度も向き合うことなく時間は過ぎて行くのだと思うと、少しもったいない気もする。

夜、豆腐とトマトのサラダ。納豆ごはん。麦茶。健康的だ。


2002年09月09日(月) シンクロニシティ

朝から雨。雨の音に混じって、大家さんの猫、モモちゃんの鈴が鳴っている。

友人から宅急便が届く。包みを開けてみると、誕生日のプレゼントということで本が2冊入っている。1冊は東山魁夷の画文集。東山魁夷は、谷内六郎と同じく、絵と共に文章が好きな人だ。ドイツについて書いた『馬車よ、ゆっくり走れ』(新潮社)や、「私は北方を指す磁針を、若い時から心の中に持っていた」と始まる北欧紀行『森と湖と』(新潮文庫)など、どちらも本棚の中で特別な場所にある。友人との話の中で東山魁夷の名を出したことは一度もなかった。思いがけない偶然にびっくりしつつも嬉しい。これが、「意味のある不思議な偶然の一致」である「シンクロニシティ」か。

もう1冊のタイトルは『あなたは絶対!運がいい』。「運のいい人になるためにはどうすればいいか」という内容なのだが、その中に強調して書かれているのは「身のまわりをきれいにする」「部屋の掃除をする」。そうか、やっぱり掃除か。「掃除しなさい」といろんな人から言われていた最中だっただけに、訳もなく説得力を感じる。これもシンクロニシティ。友人、おそるべし。


2002年09月08日(日) 『谷内六郎展覧会』

古本屋で『谷内六郎展覧会』(新潮文庫)がそろっているのを見つける。5冊シリーズのうち「春」は手元にあるので、「冬・新年」「夏」「秋」と購入。もうひとつ「夢」は後で買いにくることにする。嬉しい。

実家にこの文庫シリーズがあり、大好きでよく読んでいた。しかし、いつの間にか一冊、また一冊と消えていって(本には、そういうことがよくある)、残ったのは「春」一冊のみ。文庫自体も絶版になっているらしい。

「週刊新潮」の表紙で知られる谷内六郎さんの画文集。絵はもちろんだが、添えられた文章もすばらしくよい。1ページにも満たない短い文章なのだが、それだけで一編の詩、随筆、あるいは短編小説、何しろ完成された密度の濃い作品を読むような気にさせられる。

「童画」「メルヘン画」などと言われることが多く、確かにそうではあるのだが、絵にも文章にも、それらの言葉からつい連想してしまうような甘さは全然ない。子どもの頃は、訳のわからないものがたくさんあった。名前や解釈が与えられる前の、混沌とした世界の恐ろしさ。夕暮れの街の得体のしれない不安、お祭りの不気味さ、海鳴りや風の音の不思議、それらが「訳のわからない」ままに描かれている。子どものまなざしを借りながら(絵の中に登場するのは、ほとんどが子どもである)、感傷ではなく、もっと透徹した目で世界の底知れない深みを見つめている。改めて読み返しながら、すごいなあと思う。

夕方、実家から荷物が届く。開けてみると、家の匂いがする。


2002年09月07日(土) 支えてきたのは

「北の国から」後編。21年ものあいだ、このドラマを支えてきた大きな柱は北海道の風景だったのだあと思いながら観る。今回は知床・羅臼の流氷が圧巻。トド射ちに出て遭難した漁師役の唐十郎は、流氷の上を歩いて戻ってくる。夜明けの陽の光に染まる流氷の上、ゆっくりと岸へ向かってくる小さな人の影。ドラマの筋も何も関係なく、それだけで、北の地に伝わる古い神話の一場面のような光景だった。

夜、雨が降る。雷も鳴る。ひと雨ごとに涼しくなってゆく。


2002年09月06日(金) 継続は力なり

「北の国から2002・遺言」、前編の放送日。テレビからは、一日中さだまさしの歌声が流れている。

富良野の風景が現れ、五郎さんの石の家が見えてくる。ああ「北の国から」だなあと思って、少しじんとする。こんなふうに、その世界が変わらずに存在していると確認するだけで、しみじみと嬉しくなるようなものがある。また会えたら、とにかくそれで満足なのだ。継続しているものが持つ強さだろう。

来週にはスピッツの新しいCDが発売される。村上春樹の新作長編も出る。どちらも、自分にとってはそんな存在だ。心待ちにしている。

今回の「遺言」、新しく出てきた内田有紀とその義父役の唐十郎がいい。特に唐十郎。明日の後編も楽しみ。


2002年09月05日(木) 前世

友人と居酒屋へ。念願の秋刀魚を食べる。至福のとき。大根おろしもたっぷりついている。友人は焼酎、自分は泡盛を飲みながら、他に茄子と茗荷のおひたしや茶豆、にんにくの丸ごと揚げなど。

友人はあらかじめ花火を買っていたらしい。店を出たあと、近くの公園のベンチに座って遅めの花火大会をする。友人のライターを借りて火をつけようとするが、なかなかうまくいかない。何度も失敗したあげく、親指に軽いやけど。いい年して火もつけられないのかと呆れられる。

いまだに火の扱いが下手だ。下手というだけでなく、実は怖い。マッチやライターを使うときなど特に緊張する。他に、車やオートバイも苦手だ。きっと必要以上に警戒していると思う。自分の前世は交通事故で亡くなった何かの動物ではないかと、かなり本気で考えている。


2002年09月04日(水) 紹介者を得る

「ハンニバルに惚れた」という友人の言葉を聞いてからというもの、ずっと気になっていた『ローマ人の物語』(塩野七生)を文庫で読み始める。面白くて止まらない。『ローマは一日にして成らず』を読み終えたところで、塩野さんの他のエッセイなどにも寄り道しつつ、ハンニバルの登場に備えている。

この塩野七生といい、須賀敦子といい、イタリアと日本女性は相性がいいのだろうかと、ふと考える。また、真摯に向き合い、ひだの奥にまで入り込むような紹介者を得るというのは、ある国や街にとって幸せなことだとも思う。翻って、日本の場合はどうか。

夜、今年はじめての「秋味」を飲む。一連の秋ビールの中ではいちばん好きだ。残暑はきついけれども、気分だけ先に秋となる。


2002年09月03日(火) 時差ボケ

早朝の新幹線で東京へ。暑い。何だこれは。

久しぶりに東京に戻ると、人の波をうまくさばけない。流れの中で立ち往生したり、あちこちぶつかったりしてしまう。時差ボケのような症状。午後からは学校へ。帰ってすぐに「こちらの世界」に接して無理矢理に東京リズムに戻すのがいちばんと、今までの経験からもそう思う。そうでないと、なかなかピントが合わせられない。

夜、缶ビールを持って友人がやってくる。ナーちゃんもいっしょだ。ひと夏見ない間に、ナーちゃんはまた大きくなっている。それだけの時間が流れたということか。


2002年09月02日(月) 今年の夏も

夏になると帰省する。東京に出てから、ずっとそうである。いつまでこうやって過ごせるだろうと思いながら、今年もまたここにいる。

一年のうちのほんの一時期、夏のあいだだけの風景。どの夏のこともよく覚えている。はじめての帰省、同窓会、神社の境内でのラジオ体操、間近で見た花火。開け放した窓の外でニセアカシアが風にゆれている。遠い波の音。

今日も夕焼け。今年の夏もしっかりと仕舞いこまれて、明日は東京へ戻る。


2002年09月01日(日) 雑然としている

朝、母親の友人から電話。畑でとれた野菜がたくさんあるので、もらいに来ないかという。喜んで出かける。トマトにピーマン、ナスにじゃがいも、それにバケツいっぱいの茗荷。まだ土がついたままの野菜を車に積み込んだあと、昼食までごちそうになる。採れたてのトマトのサラダが美味しい。

増築して間もないという家は、広くて整然として美しい。隅から隅までピカピカしている。「物買うのきらいなのよね」と言うように、余分なものは何もない。そんな部屋の中で、きれいだなあと感心しつつもどこか落ち着かない。そこら中に本が積み上げてあったり、思いがけないものが窓辺に置かれていたり、そんな雑然とした環境に骨の髄までつかっている自分に気づいて、やれやれという感じ。

部屋の状態はその人自身の状態を表すというけれど、だとすれば、自分はとことん雑然としているらしい。部屋を片づけるところから始めるべきか、精神状態から改善していくべきか。

今日も暑かった。お盆の時期の肌寒さは何だったんだろう。夕方、西の空に金星が浮かぶ。外の空気はまだぬるい。


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