大学教員の日記

2011年03月31日(木)  最終日

 今日も時間が限られている。昨日はアパートを引き払っていたので、町内の旅館泊。朝食が美味しかった。

 7時に学校。自分が作成して決裁が必要なものが残っている。さらに、次の方がスムーズに仕事ができるための段取りも。そして、IBCラジオ収録。予定日は16日だったのだが、震災の影響で今日まで延びた。自分がいる間に無事終了してホッとしている。

 多くのICT機器を積み込み、そうじをして13時に退庁。自分にとっては宝のような3年間であった。関わった皆さんに感謝の気持ちでいっぱいである。
 帰りにアパートの大家さんにもご挨拶。これで軽米ともお別れである。

 長女も今日帰省。新幹線が通じていないので苦労したようだ。限られた時間で原稿に取り組む。明日から新しい1年がまた始まる。



2011年03月30日(水)  お別れの会

 早く出勤。とにかく時間がない。ダッシュであれこれ。
 8:35から子どもたちとのお別れの会。移動中の車の中で考えていたことを話す。3年前に赴任してきた時に「砂糖」を出して「佐藤です」と言ったので、お約束ごとで今回も。学年ごとのメッセージを伝えた。子どもたちの顔は美しかった。

 終了後、挨拶へ。学校に戻ってきてからすべきことをどんどん進める。14時から引き継ぎ。2時間以上かかる。終了後も次々と業務をするが、終わりが見えてこない。そのうち時間切れ。

 19:30からPTAの三役さんとの会。感謝してもしきれない、すばらしいPTAだった。ありがとうございました。



2011年03月29日(火)  新年度業務

 今日は新年度の重要な業務。あれこれ情報を聞くことができて何よりだった。暖かい一日で天気も春らしかった。ようやくではあるが、春が来た感じである。

 ガソリンスタンドは相変わらず行列ができている。しかし、その行列があるということは開いているところが増えてきた・・・ということだろう。先週の日曜日に感じて今日が火曜日。これからは大丈夫かな?今日は灯油も2缶購入できてホッとした。



2011年03月28日(月)  遅くまで・・・

 年度末業務。時間が限られている。大きな仕事が二つ。入学式に関わる業務と学校経営計画作り。それぞれ例年であれば今ごろは終わっているべきもの。しかし、震災の影響で今までずれ込んでいる。もちろん、これらの業務に専念できるわけではなく、会議が二つに午後からは副校長会関係で外勤。もろもろの問い合わせ。

 外勤後、学校に戻ったのは6時近くであった。さすがにこの時間になると、残っている先生も少なく、ここからは集中して学校経営計画作りに集中。びっちり2時間行って、何とか今日の最低限のノルマまで。
 もっと遅くなることを覚悟していただけにホッとする。それにしても、「集中できる環境」というのは大切だなあ・・・。今の立場では、それは無理なことだし、電話・来客・問い合わせも大切な業務だけど。



2011年03月27日(日)  今年度最後の休日

 寒い朝。被災地の寒さを想像する。なかなか来ない春。自然は容赦ない。

 学期末ということで、今日は在宅で仕事。あまりないのであるが、今回の震災により様々な面で公務にも影響が出ている。仕方がないあ。

 今日は日中に軽米へ移動。途中いくつものガソリンスタンドでの長い行列にあう。今までは開くことすらなかったスタンドが多かったので、ようやく回ってきたのかなと思う。自分は確実に給油できそうな高速のパーキングのスタンドで。1時間半待って給油。何とか次の見通しが立つ。

 今年度もあと勤務日が4日。いよいよまとめである。



2011年03月26日(土)  4時間で2千円分

 今週末ぐらいはガソリン事情がよくなっているかと思っていたが、ダメなようなので、昨日偶然自動車が連なっていた(道路脇に置きっぱなし!)ガソリンスタンドに朝の5:30から並ぶ。すでに500メートルぐらいの列。8時に整理券をもらって、給油は9時半。4時間待って2000円。軽米に帰る分にも満たないが、今週給油しないことには来週出勤できないので、仕方がない。

 寒い一日。午前中はこの給油で疲れてしまい、帰ってから休息。午後になって事務仕事やあちこちを回る。娘の高校入学関係の書類書き。案内を読むと、高校の授業料の徴収はしていないと書いている。高校無償化というニュースはもちろん見ていたが、今日改めて実感した。

 大震災から2週間が経つ。まだ2週間しか経っていない。重くショックを受ける日々だったのでかなり経った感じだ。昨日、かつての同僚のお子さんが津波に流されたことを知る。無念でならない。



2011年03月25日(金)  PTA・教育振興会総会

 朝早く学校へ。道路はツルツルで校庭も駐車場も一面の雪。もっとも日中には晴れて融けたが。

 午前中は総会のための準備、入学式、学校経営計画の段取り等。先週と比べて残り日数が少ない分、だんだんと時間に追われてきた感じ。午後にPTA総会と教育振興会総会。時間をかけて入念に準備したからか、無事終了。その後も新しく出てきた事務仕事に取り組むも、タイムアウト。

 18:30、水沢に向けて帰宅。「ガソリンがようやく出回るようになった」と言われているものの、実際には相変わらず長蛇の列。特に高速道路のガソリンスタンドは、「ガソリンを入れるためだけに高速に乗った」という人もけっこういるようだ。
 自分も寄りたかったが、そうなると日を越えてしまう可能性があったので諦める。明朝早く並ぼう。



2011年03月24日(木)  資料準備

 昨晩は余震がなく、夜中に起きることなく眠ることができた。ただし、日中の余震は何度も。今日は職場に最後に一人残った時に一番大きな余震で少し焦った。被災地の人たちは余震のたびに恐い思いをしているのだろう。

 さて、今年度は町副校長会の事務局、そして町学校保健会の広報部長を務めさせていただいた。広報部長は3年連続である。どちらも今年度で任を降りるので、そのための資料やファイルを整理。
 いかに次の人に分かりやすく引き継ぐかも仕事のうち。少なくても自分がバトンを受けた状態以上にしなければいけない。午前中いっぱい時間をかける。
 午後は別業務。明日の教育振興会総会の準備もあれこれ。余裕をもって迎えられそうだ。

 今日も17時過ぎに退庁。外は雪が降りしきる。3月下旬なのにこの雪。被災地にとってはまさに無情の雪である。



2011年03月23日(水)  次年度計画

 昨晩は強い余震が何度もあった。あの大震災の夜や次の日以来の多さである。中でも1時ごろは寝ていて「これは避難だ」と思うほど強く感じた。あとで震度を確認したらそれほどでもなかったが、やはり揺れるとあの恐さが襲ってくる。

 朝、ガソリンスタンドが開いているで給油。いくらか足すことができた。これで何とか週末に水沢に帰ることができる。春休みの学校ということで期末事務が続く。今日は次年度の教育計画のチェック。学校教育の骨子であるだけに、吟味して読む。先生方には締切までにしっかりと出していただいたので、何とか年度内には終わりそうだ。

 学期中より家に帰ってからは時間があるので、今日も震災関連のニュース。支援も広がってきていることがわかる。多くの学校では卒業式も。学校での予定された卒業式ではなく、今できる卒業式だ。そこでの子どもたちのコメントには泣かされる。歴史の一大事の今、旅立つ子どもたち。力強く生きてほしいと願わざるをえない。



2011年03月22日(火)  入念に事務仕事

 期末事務も本格化。学期末ならではの決裁が次々と。自分自身が担当になっている資料作成にも入念に行う。
 ただ、今回の震災で3月末から4月までの予定はあれこれ変更になっている。その段取りや連絡調整。先週とは気持ちも少し違うことを実感。今日は珍しく定時退庁。もっともその後外回りの仕事で3カ所回る。

 6日間延びた高校の合格発表。震災を受けた子たちの合格発表のニュースにも思わず共感。卒業式のニュースを見ても思ったのだが、子どもたちにとっては、学校という存在がやはり立ち直りのベースなのだと思う。



2011年03月21日(月)  余震も減ってきた

 昨晩は余震もなく久しぶりに朝まで眠ることができた。それでも日中は眠くなり昼寝はする。今の自分にとっては必要なことかもしれない。

 テレビでの震災関係の番組を見ていると、避難生活での困難な点や復興に向けての足音の両方を映し出していた。今後もこれは続くであろう。そんな中、宮城県での教職員・児童生徒の犠牲者・行方不明者を知る。岩手もそうだが、沿岸地方の今後の学校再開については多くの困難が待っているだろう。県内教職員が団結してそれぞれの立場でできることをしていくしかないだろう。

 ガソリン不足は相変わらず。移動できる分はあるものの、今日入られるところがなければ今週は別方法での通勤を考えなければいけない。しかし、移動中150kmまで開いていたガソリンスタンドは1つだけ。喜んで入ると「整理券の方のみです」とのこと。それはそうだろうなあ。行列ができていなかったもの。諦めかけていたら、最後のガソリンスタンドに長い列。無理かもしれないけどと思いながらも2時間待って何とか少し補充できた。これで今週の通勤分はOKである。この給油で水沢を出てから6時間近くかけての帰宅だった。

 帰宅後、大船渡中での卒業手渡しの式をテレビで見る。式終了後、避難所に移動しての合唱「ふるさと」。涙が出てしょうがなかった。きっと子どもたちはこの故郷を支えていくだろう。 



2011年03月20日(日)  水沢中卒業式

 地震のために一週間延びた二女の卒業式。当初は13日。参加予定だったが地震で15日に延びた。自校の卒業式と重なるので参加できなくなったが、再度延び今日になった。帰省のためのガソリン不足が心配されたが、運よく入られたので参加できた。

 今の中学3年生は前任校で担任外として6年生時に社会を教えた子たちだ。3年経つとこれだけ成長するんだなあ・・・と凛々しくなっていた姿に驚いた。

 震災を考慮した式の進行。子どもたちも話していたが本当に卒業式ができることの有難さを感じる。大人数の合唱も迫力があった。長女から始まった義務教育も13年で終える。1つの区切りである。いい小学校、いい中学校だったと先生方に御礼を言いたい。

 午後は娘のケータイ手続き。物流がストップしていて、数少ない営業している店で購入。そこでも品切れが続出。食料品だけではなく、こういう所にも影響していることを知る。

 夜、神戸の友人から電話。かつて阪神大震災を経験しているから、その時の気持ちを考えたら心配でしょうがなかったという。あれから15年である。



2011年03月19日(土)  ブログ休止

 普通の朝。普通であることが有難いし、同時に今の自分にとっては心苦しい。
 テレビでは県内被災地が復興に向けての一歩を踏み出したというニュース。各地からボランティアが炊き出しもするニュースも。同じ県内にいるものとして嬉しいが、自分も行きたくてもガソリンがない。被災地の現場で働くこともない。義援金を送る、節電するといったことしか自分にできることはない。県教職員としては忸怩たる思いである。無力感そのものだ。これは県内の多くの教職員も抱いている気持ちだと思う。

 そんな中に入ってきた県内教師や子どもたちの犠牲者情報。確かなルートからの情報だけにショックを受ける。覚悟はしていたものの、やはり具体的な数値となって出てくると衝撃的だ。職務上、子どもたちの安全を確かめてから最後に避難させたであろう。自分が10年前だったら、同じ立場だったのである。

 この情報が入ってきた段階でブログの休止を告知。今回の大震災後に即休止も考えたが、安否情報を流すことや現段階での自分の思いを伝えることも必要と思い、とりあえず続けてきた。
 しかしながら、被災県でありながらほとんど被災していないに等しい自分が、中途半端な思いをブログに書くのは正直「安全地帯からの発言でいいのか」という気持ちが強かった。

 そして、今日の無力感や衝撃的な事実が決定打。これからはブログに費やしていた時間をさらに「自分ができること」に使おう。職務以外では前向きになれないのは事実だが、いつかは自分の「出番」があるはずだ。あるいはその出番がなくても、ブログ再開にきっかけもあるだろう。その時を待とう。



2011年03月18日(金)  自分の仕事を粛々と

 大震災から一週間。日本にとって、そして岩手県にとってまさに激動の一週間だった。
 わずか数分の大地震が国民にこのような大打撃を与えるとは全く想像しなかったことである。

 もちろんその間でも自分の職務を責任をもって果たすことが、自分にとっては一番大切なことだ。大震災後の様々な変更を含んだ仕事、例年通りの仕事を粛々と行う。
 昨日の雪と寒さで、校庭はまた一面の雪。もしかしたら雪融けがないままの新年度になるかもしれない。

 水沢に帰る分のガソリンは何とかあるので、今までにないぐらいのエコ運転。帰りに情報が入り、何とかガソリンが少し追加できた。帰り道はガソリンスタンドもコンビニも200kmの中でほとんど営業しておらず。様々な店も節電。今は非常時。内陸はこれでいいのだ。沿岸が最優先だ。



2011年03月17日(木)  もろもろの変更

 朝早くガソリンスタンドで行列を作っているところを探すが(つまり、開店の可能性がありそうなところ)、今日は行列はなし。全く入る見込みはないようだ。車しか交通手段がこちらの地域は問題は深刻だ。雪が降る中を十数キロも自転車で・・・というわけにはいかない。自分に自転車はないのだが。
 そういう話を職場でしていたら、「自転車も完売みたいですよ」ということを聞いた。
 やはり今まで経験したことのない事態だから、不安な心理が働くのだろう。一部の人に過ぎないだろうが買い占めでコンビニやスーパーに食料品がない。ネット上では「こういう事態でも冷静な日本人のよさ」が言われているし、そのことは広めるべきだ。同時に先のようなことも事実。壊れた家屋での盗難も出ているという情報もある。これが現実だろう。

 さて、職場では年度末の事務仕事。特に事務局担当の会計を終わらせホッとする。夜はその会計監査。21:30帰宅。

 自分たちに係り合いのあることでの変更・中止がどんどん増えてきている。当然のことである。今日入った情報で一番大きいのは、人事異動の一部凍結である。おそらく今までなかったことだろう。

 それにしても今日も寒い。外の景色は1月のよう。最高気温も2度。被災地の皆さんの苦難を想う。



2011年03月16日(水)  今日から春休み

 卒業式を無事終えて、今日から春休み。
 当たり前のことながら、例年の春休みとは異なる。ガソリン不足は相変わらず。町内、隣市ともほぼ空っぽの状態。中には数時間かけてやって手に入れた先生も・・・。
 それでもそれらはあくまでも不便なだけなのだ。

 卒業式お礼、入学式関係、学年末会計等、例年通りのもろもろの事務仕事を行う。同時に今回の地震に関わって、次々と検討事項が浮かび上がってくる。職員室内の行事黒板も次々に赤字で変更や中止の文字が入る。教育公務員である自分であるから、今の職務をまずはしっかりとすることだ。

 マスコミの報道も、被災者情報が多くなってきた。地元新聞紙では4ページを割いて、被災者名簿を掲載。テレビでは被災者のビデオレター。スペースや時間の都合上、限られた人数かもしれないが、それでも有難い情報である。特に新聞では何人も教え子や保護者を見つけることができ、涙、涙だった。

 帰宅してからは節電、節約を心がける。ふだんからかなり行っているのだが、さらにプラス。寒くて冷たい無情の雪が降り続けるが、節約は当然のこと。外に出かけるかっこうを室内ですれば、何も不自由ではない。



2011年03月15日(火)  卒業式

 ガソリン不足は深刻。昨日、あちこち電話をしてようやく「給油ができそう」という情報を聞いて10km離れた町はずれのガソリンスタンドへ。6時前から並び7時過ぎにようやく10リットルを入れてもらう。この分だとガソリン不足で職場に通えない教員が出るのは必至だ。

 今日は卒業式。まずは無事に式ができたこと自体を幸せに思う。小学校2人、中学校2人と本校の中ではもっとも少ない学年の4人。晴れやかないい表情をしていた。式後は、昨日できなかった修了式。

 午後からは校内で卒業を祝う会。子どもたちが企画した内容で、震災のことに配慮しつつ言葉を選んでいた。4人とも成長した姿を見せてくれた。

 それにしても子どもたちはやはり希望の光だ。子どもたちも、地震の被害の話をしている。子どもたちなりに感じているし、今回経験したことを今後のためにきっと役立てるであろう。子どもがいるからこその学校なのだ。今は避難所になっている学校も、きっと元の学校になる。



2011年03月14日(月)  やはり祈るだけしかない

 まだまだ余震は続く。昨日から単身赴任生活なので、いざという時にすぐに外に出られる用意をして眠る。昨晩は3回ほど起きた。それでもずいぶん少なくなった方だ。

 学校は臨時休業日としたものの教職員は出勤日。お互いの情報交換。明日の卒業式に向けての準備を粛々と進める。今回の地震でとある会をするか否かという話が2件。確かに悩むところであろう。外部の方から見たら、「当然中止」と思われるかもしれないが、その会の趣旨+復興に向けて決意しようというのであれば別なのではないか・・・・そんなことを思う。

 悲惨な現実は受け止めなければいけない。同時に、歩けるものは明日に向かってやはり歩いていくべきなのだ。
 そう言いながらも、地元の新聞紙を見ながら、まだ涙。今後もどれだけの涙を流さなければいけないのだろうか。でも、それは生きてるが故の涙なのだ。とにかく無事を祈るしかできない。

 帰り際の話題はガソリン問題。遠距離通勤の本校の先生方にとっては大きな問題だ。単身赴任の私も同様。でも、これも単に「不便」なだけ。不幸なわけではない。

 アパートに帰ってからもあれこれ考えると落ち着かない日々。心のダメージは自分が考えているよりも大きいのかもしれない。



2011年03月13日(日)  「生きているだけでよかった」

 電気が通じるようになってライフラインも復旧。
 朝から一気に様々な情報が入るようになった。特に注視したのがテレビだ。きっと被災地以外の全国各地には一昨日からこのような映像が流れていたのであろう。

 宮古市を襲う津波。かつて自分が勤務したところだ。あの市役所が高いところまで水浸し。自動車がどんどん流される。高浜も似た様子だったに違いない。家内が勤務した重茂は分断されたのではないか。娘が入っていた藤原保育園は海のすぐそば。ちゃんと避難しただろうか・・・。大好きな宮古の惨状を目の当たりにしてショックを受ける。

 それだけではない。陸前高田市と大船渡市が津波に襲われる映像はもっとショックだった。まさに壊滅状態。今後どれだけの犠牲者が出てくるのか・・・。昨日に続き、同僚だった先生方のことを思う。インタビューに答えた人が「家もすべて流されたけど、生きているだけでよかった」と涙ながらに話していた。今の時代にこの地獄絵。

 現実に戻り、校長や中学校の副校長と明日からの学校体制の連絡。軽米に向けて早々と出発。内陸自体は被災状況はたいしたことはないのだが、たまに開いているコンビニに寄ると食料品はほとんどなし。ガソリンスタンドも長蛇の列。鉄道には地震の時に止まった電車。あちこちに地震の跡は残る。

 職場に行き、明日のための準備。休校となった。諸連絡と卒業式の日の段取り。それ以降に地震の影響があるものを確認し、17時過ぎにアパートへ。軽米も今日通電して生活するのに不便はない。

 ネットでは、地震の中でもすばらしい日本というエピソードが流れている。本来であれば、自分が積極的に話したい話題だ。
 今回もご家族もあるのにお店を開いた方々、整然と並ぶお客さん、全国各地から助けに来る救援隊、眠らずに惨状を伝えるラジオ放送・・・。
 しかし、今回は自分はまだまだ語らないつもりだ。関係者の安否がまだまだはっきりしない今は、まだ大地震が終わっていない。とにかく無事を祈りたい。



2011年03月12日(土)  自分は不便なだけ

 大地震のあった日に限って寒い夜。何度も何度も震度4〜5の強い余震があり、そのたびに跳び起きて外に出る。停電中の外は美しい星空。その美しい自然と全く正反対の自然の恐さ。寒さと睡眠不足で5時ごろに起きてしまう。

 まだパソコンにバッテリーがあるのでネットにつなぐ。MLの皆さんからの温かい声に励まされる。ラジオにスイッチを入れると、地元ラジオ局がずっと特別放送をしている。不眠不休でがんばるアナウンサーに励まされる思いである。

 やがて日が昇ってくる。恐怖心も少し和らぐ。家内は卒業式の日だったが、当然延期。二女も卒業式前の登校日だったが、何も連絡がなかったので一応登校時刻に一緒に中学校に行ってみる。先生方が玄関前に立って、生徒や保護者に必死に連絡をしていた。「地震があってもすべきことをしているんだ」とこれまた元気をいただく。

 自分自身も公務でいつ軽米に行くのかわからないので、できることをどんどんしていく。近くのスーパーが開くという情報がラジオから入ったので、さっそく行って並ぶ。1時間近く待って買い出し。停電の中で電卓で計算して会計。こういう時こそ開くスーパーの心意気に頭が下がった。買い物客も整然と並び、「5世帯ずつ」というルールにも従って混乱はなかった。かつて関東大震災で外国人が驚いた日本人のモラルの高さを90年近くのちの時代に今、自分が体験するとは思わなかった。

 自分が困るのがガソリンだ。勤務地まで15リットルは必要だ。これまた探したら長蛇の列があったので、ピンと来た。さっそく並んで1時間ほどで給油してもらう。疲れるだろうに手動式で一生懸命に給油してもらった。2千円分でも有難かった。この作業を何時間も続けるのだからまさに頭が下がる。

 家に戻ってからラジオで津波の惨事を聞く。停電なので、どれだけの惨事かが映像でわからない。結局、被災地が一番情報が届かない。MLやブログを読むと、とにかく「信じられない映像」のことだ。

 ラジオでは、学校情報や知人の安否を問い合わせる情報も入っていた。とにかく関係者の無事を祈るしかない。いつでも避難できる服装で横になり、目を閉じる時間が続く。ローソクの火を見ながら、体をとにかく休めていた。「自分は不便だが、それだけだからな・・・」と感じる。

 ふと思ってローソクの灯りで県内の教職員の職員録を見る。壊滅といわれている陸前高田、大槌の先生方を調べてかつての同僚や知人が多くいることを知る。一人一人の先生の笑顔を思い浮かべる。何とか生きていてほしい・・・。



2011年03月11日(金)  未曾有の巨大地震

 3学期も残り3日。卒業式に向けての練習、様々な事務仕事を行っていた14時46分。今まで経験したことのない地震が襲った。

 最初揺れた時には、「また地震か」と思った。一昨日に大きな地震があり、その余震と思ったのだ。緊急マイクのそばに行き、全校児童に机の下にもぐるように指示。しかし、いつものなら揺れがおさまる30秒程度が過ぎても揺れ続ける。いや、むしろ大きくなる。戸や窓ガラスも大きな音で揺れるので、あわててガスを止める。電気も切れた。外にいる子たちに「校舎に近寄らないように」と指示。その後も校舎内を周り、文集配付で廊下にいた6年生を職員室の机の下にもぐらせた。時間にして3〜4分ぐらいだっただろうか。
 思わず、「無事でよかった」とホッとする。相当の地震ということで、学校として即下校とすることにした。手分けして子どもたちを送る。全員帰したのを確認してから、先生方にも帰ってもらう。まずはこれで一安心するが、我が家のことも心配だが、やはりケータイはつながらない。

 17時過ぎになっても電気はつながらない。大変な地震なので、待機しても電気がつながらないだろうということで給水ポンプの停止、水道の元栓を閉めて、電気が復旧した時点で学校に来ることにした。17:10退庁。

 そのまま水沢に向けて帰るが、当然高速は閉鎖。国道を使って帰るものの、県内全域停電。信号もついていない。晩御飯を食べたいが、店はどこも開いていない。100kmほど走ったら盛岡大学前のコンビニが営業していた。真っ暗な中、発電機でレジだけ部分照明をしていた。食料品はすでにほとんどなかったので、お菓子類と飲み物を購入して凌ぐ。

 帰る途中で聞こえてくるラジオ放送から大変な地震だったことがわかる。しかし、そこで聞いたことはあとで考えるとあくまでも序章に過ぎなかった。何度も渋滞に巻き込まれながら22:30に自宅着。長い長い5時間だった。「おかえり、意外と早かったね」という家内の言葉に少し安心した。ローソクとラジオ、反射式ストーブでの生活が始まる。



2011年03月10日(木)  余震が続く

 夜中も朝も昨日の地震の余震が続く。震度4以上になったら管理職としての連絡事項が生じるので緊張するが、震度3にとどまる。

 さて、登校日は今日を含めて4日間のみ。教科の授業はないものの、卒業式練習・修了式予行等、重要な式練習が続く。事務仕事も最後の校報、会計のチェック、式関係の事務仕事、自分の事務局仕事等々、ピーク状態が続く。
 何とか目途もつくが、春休みにも多くの事務仕事があるので先を見通して行うようにしよう。

 フラッシュ型教材本、情報テキストの指導書等、自分が関わった仕事の成果物が今週相次いで送られてきた。担任ではないが、こういう冊子が送られてくるたびに実践意欲も喚起される。授業の腕を落とすわけにはいかない。



2011年03月09日(水)  公立高校入試

 県公立高校入試の日。我が家でも受験生。年次をいただき高校まで送る。単身赴任ということもあり、こういう時は家族優先。といっても、送ったあとはすぐに軽米へ。この時期はやはり一日休むのは厳しい。
 移動途中の地元放送局のラジオでも「今日は入試」という話題がたくさん。あれこれ聞いているうちに自分の高校入試の時のことを思い出した。
 途中で強い地震もあり心配されたが、まずは無事に終了したということでホッとする。

 3月も残り3週間。まとめも大事だが、次年度もあれこれ見すえなければいけない。同時進行である。



2011年03月08日(火)  学年末に向けて

 朝から全校読み聞かせ。3人のボランティアの皆さんには大変お世話になった。月に2回、あちこちの図書館から本を借りてきてくださるのは実に有難いことである。

 さて今日は昨日できなかった仕事をメインに。会計や通信づくり、そして卒業式関係の指導等、時間を割く。気づけば一週間後は卒業式。慌ただしくなってきたが、ミスしないようにあれこれ見直し。

 勤務終了と同時に今日は退庁。水沢へ。このパターンだと晩御飯にも間に合う。いい夕食だった。



2011年03月07日(月)  3学期も佳境

 久しぶりに目ざましで起床。ぐっすりと寝られた証拠。
 3学期も今週を終えると、あとは修了式と卒業式のみ。
 先生方の仕事もまとめのピーク。式練習も呼びかけ、歌練習とピーク。そんな中、今日は2年生へ。2時間目の体育から見たが、学習システムがきちんと確立されていて、なわとびもボール運動も特に指示しなくても大丈夫だった。感心。

 5時間目まで合間を見て重要なチェック仕事の後、学校保健会理事会へ。3年間役員を務めて、無事終了。ホッとした。終了後学校に戻り、また一仕事。18:50退庁。朝に続いて原稿&教師力本2刷のためのチェック。



2011年03月06日(日)  マイペースで

 昨日十分に休養したはずが今日は疲れていたのか、2回も昼寝をしてしまう。体が休養を必要としているのだろう。あとはマイペースであれこれ。

 そういえば昨日の某人気番組で俳優の柳葉敏郎が秋田のあれこれを紹介していた。同世代で秋田出身の自分としては、いつもの何倍も楽しめた。秋田の友だちともしばらく会っていないなあ・・・。



2011年03月05日(土)  久しぶりにあれこれ読書

 寒い朝。道路にはうっすらと雪。それでも日中は暖かくなり、久しぶりにコートなしでも外出できるほどだった。

 今日は多くの情報収集。読書にも少し時間を割く。アウトプット中心の生活はインプットがあってこそ・・・と反省。

 二女は今日が高校受験前の最後の土日。親としては本当にほとんど何もできなかったが、まずは来週の本番の健闘を祈るのみ。



2011年03月04日(金)  穏やかな日

 朝4時前に目が覚める。もう少し寝た方がベストなのだが、目が覚めてしまっては仕方がない。そのまま起きて原稿。

 朝は冷え込んだが、日中は日差しが差し込むいい天気。授業は2時間。すでに復習や発展学習。午後は事務仕事。18:50退庁。

 いつものように水沢に帰るが、早く目がさめた分、最後がきつかった。やはり睡眠確保は重要。



2011年03月03日(木)  今日も寒い

 かなりの寒さ。冬に逆戻りであるが、日中は太陽ものぞく。昼休みは担当として卒業式のしおり用の写真撮影。今年は小6も中3も最少人数の2人。4人を何回も撮影して、カメラマン気分。

 授業は1時間。昨日の会議の報告書作り、通信作り、会計、その他もろもろの事務仕事。ようやく余裕も出てきた。その余裕も明日までで、来週からは一気に卒業まで進みそうだ。

 2日連続の夜の会議で、体も疲れ気味。早めに就寝。原稿は今週は厳しいなあ・・・。「時間がない」なんてことはないのだが・・・・。



2011年03月02日(水)  学校放送教育大会DVD

 寒い朝。と思ったら天気予報は最低気温はマイナス2度ほど。春が近い暖かさになれてきた証拠か。
 朝のラジオでは、「1月の降雪は記録的だったが、12月と2月はそれほど降らなかったので、全体的に見れば暖冬」という放送だ。確かに結果的にはそうだなあと感じた。

 学校では全校朝会。開始6分前には子どもたちが整列し終えていた。すばらしいこと。2時間連続で授業。3年生はソロバンの学習。実物投影機が不可欠である。昔は大きなソロバンを黒板に掛けて授業していたが、本当にそれは昔のことになってしまった。今、その教具を見たら子どもたちが驚くかもしれない。

 学校放送教育岩手大会事務局から大会のDVDが送られてきた。改めてすばらしい大会だったと思い出した。お礼の電話をすると、助言で少し話したICT活用を来年度は推進していくとのこと。嬉しい話だ。

 今日も19時から会議。学校評議員会。21時50分帰宅。疲れをためないように早く就寝。



2011年03月01日(火)  今日から3月

 早くも3月。2月は本当にあっという間だった。この3月も同じように過ぎるであろう。

 今日は授業が少ない火曜日。決裁物も昨日よりも少ない。ということで、事務仕事に時間。大量の資料の印刷、会議の段取り。先を見通して卒業式関連の仕事等、先へ先へ進んだ。夜の7時からは教育振興会の役員会。総会と来年度に向けてのアイデアがあれこれ出てよい会議になった。21時前に帰宅。

 学校も年度末に向けて仕事もピークに入っていくが、「自分の仕事」も今月は勝負月。一日一日が勝負である。


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