Opportunity knocks
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光と影がくっきり存在感をしめしているようなそんな1日。 朝から夕方まで仕事だったけど、それでも今年いちばんの気持ちの良い素敵な1日だった。 明日は掃除と洗濯に勤しむ予定。ほんとういえば、海いってビーチで寝転んで冷たいかき氷でもたべたいというのが本音なのだけど。仕方なく。 明日も今日と同じく良い天気になりますように。
2003年07月25日(金) |
何となくそこにあるもの |
ケイタイ電話をかえようかな、と、半年以上思っていながらなかなか変えることができないでいる。今使っている携帯電話は、実は買ったばかりの頃に洗濯機の念入りコースで最初から最後まで念入りに洗ってしまったというシロモノ。これはもうだめだ、とあきらめていたらなんと半日たってから復活した。それが約3年前。奇跡的に復活したというのもあってなかなか捨てられない。
もともとけして物持ちの良い方ではないし、ひとつのものをながーく使っていこうという主義の人間でもない。でも、何となく捨てられずにかなりの時間持ち続けているものがいくつかわたしのまわりには存在する。例えばネコの置物。これはかなり前に友人Hからもらった誕生日プレゼント。誕生日のプレゼントだからというのもあるけど、長年そばにおいていたら何となくHの顔に似てきたような気がして余計粗末にあつかえなくなった。いつもだいたいPCの上など、目につくところに何となく置いてある。 そのほか、高校生のときから使っている旅行鞄。高校を卒業して専門学校に入学するために富山の田舎から荷物を入れて持って来て以来、これも捨てられないでいる。全然使ってないし、引越しだって数多くしてきたから途中でなくなってもよさそうなものなのに。なぜかまだある。 あとは、ベトナムが南北別の国になっている地球儀(ロシアもソ連になっているしドイツも東西に分かれている)とか、すでに流行遅れになっているのにもかかわらず捨てられないワンピースとか(衣替えの時何度も処分しようと決心しているのに)結構、きりがない。
それらに共通していえることは、特に思い入れもないのに何故かながく持ちつづけているということ。(Hからのプレゼントは別)なんで今の今までここにあるんだろう、とほんとに思う。
今使っている携帯電話もたぶん壊れるまで使い続けるような気がしてしょうがない。
2003年07月23日(水) |
荒れ狂う海と小さな島と鉛色の空 |
太平洋に浮かぶ小さな島にいってきたんだ。といってもハワイとかサイパンとかグアムとか与那国島とかじゃないよ。漁師が海辺で魚取りの網を丁寧に解きほぐして手入れをしているような、そんな島さ。まあそんなことはどうでも良いのだけど、台風みたいに雨風が強くってね、島までいく船が揺れに揺れてまいったよ。自分も揺れる船も揺れる外の景色も揺れる、そんな感じなんだ。まるで洗濯機の中でまわってるちっぽけな靴下にでもなったような気がしたよ。 島についてからも雨風はやみそうになくってね。仕方ないからずっと部屋で本を読んでたよ。時々荒れ狂う海なんかをぼんやり眺めながらね。そんな天気だったけど、けっこうたのしめたな。なんていうのかな、非日常って感じがしてさ。なかなかよかったよ。そういうのも。 そんな感じで、ちょっと特別なところにいって特別なねじをまいてきたよ。また明日から凡庸な一日がはじまるけど、それもそれで悪くないなんて思ったりしてるんだ。ほんとうにさ。
前から楽しみにしていた合唱オペラ「ごんぎつね」を聴きにいった。 前半は前にも書いたとおり、池辺晋太郎氏と谷川俊太郎氏をゲストに迎えたトークショー、後半が総勢100人を越える人たちで行われた合唱オペラ。どちらもとても素晴らしかった。トークショーでは、文学からみた「ごんぎつね」、音楽としてみた「ごんぎつね」のことを谷川、池辺両氏がそれぞれ話をされていて、とても聴き応えのある内容だった。
谷川さんはTシャツに濃いめのグレーのジャケットという出で立ちで、想像していたとおりの雰囲気を持った方だった。両氏はそれぞれ、ご自分の分野から「ごんぎつね」と新美南吉の作品に対する思いなどを話されていて、とても聞き応えのある内容だった。講演の終わりには池辺氏のピアノをバックに、谷川さんが新美南吉の「道」という詩を朗読するというおまけまであって少しびっくり。ちょっと癖があって、でも、人を落ち着かせるような雰囲気を持った谷川さんの声がとても良かった。
そして肝心の合唱オペラの方。 想像していたよりかなり良かった。楽器はピアノだけだったけど、演技者(というのかな)の声量も十分だったし、なにより100人以上のもの人がステージ上で一斉に合唱するというのがとても迫力があった。ソプラノ、アルト、テノール、バス、それぞれの音色がまじりあって一つの音色を作り出していた。 主要人物(ごんとか、兵十とか、鰯売りの男とか)以外は地元のアマチュア合唱団から選ばれた方がほとんどなので、もちろんプロの楽団の音には到底及ばない。でも、それでもその音には一人一人の演技者の熱意と思い入れみたいなものが強く感じられた。素晴らしい合唱だったと思う。
帰り道、コドモと二人で音楽の話(オペラってすごいね、面白いねという話)文学の話(ごんと人間の気持ちはどうしてすれ違ってしまったんだろうという話)をした。いろいろ感じ取ってくれたみたいで、少しうれしかった。また機会を作っていろいろ連れていこうと思う。
最近、子供をめぐるいろんな事件があちこちで起こっている。そんな事件の報道をみるたびに気が滅入ってくるのだけど、世の中の人たちはどんな気持ちでこれらの事件を受け止めているのだろうか。わたしは正直いって、ほんとうに気が滅入っている。なんでこんな事件が起こってしまうのか、と多くの人はいうけれど、理由は結構はっきりしているのだ。わかっていながら大人達は(わたしも含めて)なにもしようとしない,あるいは何もできない。気が滅入る本当の理由は、わかっていながらなにもできない自分の無力さにあるのだろう。
もちろん無力だからといって、自分にできることは何もないとは思っていない。 少なくとも自分の子供に対しては責任を負うつもりでいる。子供のやっていることには常に関心を向け、必要とされているときはいつもそばにいようと思っている。でもそれだけじゃだめなんだ。
今回の事件(長崎の事件、稲城市の女児の事件も含めて)はいろんな要素が結合してひとつの形になったものにすぎないと個人的に思う。要するに犯罪へと向かう道が着実にいろんな段階をへて形作られていったということ。例えば誰かから(罪にとわれない)悪意を受けたとする。それはまわりの友達からかもしれない、親からかもしれない。社会からかもしれない。とにかくそのこと自体は法律でさばくことのできない種類のものであったとする。その事自体はささいな悪として見過ごされる。でもそんな些細な悪が大きな悪を作っていく。そして結果、その悪は大きな暴力となって吐き出される。
罪にならない悪を、はたして誰が止めることができるんだろう。何が抑止力になるんだろう。子供の帰宅時間についてまったく関心を払わない親、少女が売った下着を平気で買う大人の男たち、無神経に人を傷つける言葉、少年や少女を助長させ煽り立てるマスコミ、しようもない洋服にブランドという付加価値をつけて高い値段で売る某アパレルメーカー、などなど、言い出せばきりがなくなるが、それらのものを止めるてだてが今の社会にはたしてあるだろうか。
いったいこれから先、どんな社会になっていくのだろうか。そんな社会の中でどのような役割をはたしていけばいいんだろう。 とりあえず考えていこうと思う。何もできなくても考えることはやめないでいこうと思っている。
2003年07月17日(木) |
今日はミニシアターへ |
「北京ヴァイオリン」やっとみてきた。 素晴らしい映画だった。特に音楽。 パガニーニ、シベリウス、ブラームス、シュトラウス、リスト、そしてチャイコフスキー。最後に駅で少年がバイオリンを奏でる場面、ほんとに素晴らしかった。
中国の街並みにクラシックというのは結構良いものだ、と前にBBSでほっぺさんが言われていたけど、ほんとうにほんとうに良かった。石積みの塀に囲まれた狭い路地、床がぎしぎしいいそうな古い家の小さな窓からさしこむ光の中、少年はバイオリンを弾くのだけど、それがまわりの風景ととけあって、なんていうのかな・・鳥の音や木の葉が風でふれあう音みたいに、自然に耳の中に入ってくる。少年にはこころがあって、こころのおもむくままに楽器を奏でているのだよね。そして彼のバイオリンの音色はいろんな人のこころに届いて、その人のこころを潤していく。ほんとうに素晴らしい映画だった。
映画の本編の前にいろんな映画の予告編が上映されていて、それが興味をそそられるものばかりで困ってしまった。「フリーダ」に「トーク・トゥ・ハー」に「デブラ・ウィンガーを探して」。ほかにも「過去のない男」「エルミタージュ幻想」「シティ・オブ・ゴッド」などなど。見に行きたいけどはたしてその時間があるかどうか。でも、できるだけ多くの映画を観て、いろんなことを吸収していきたいと思っている。
昨日に引き続きBSで映画鑑賞。 今日は「アニーホール」 うーむ。はじめて最後まで見ることができた。 これまで何度となくTVで目にしたり、ビデオを借りてきてみようとしたりしたのだけど、なぜか最後まで観ることができなかった。 なぜだろう?
映画が始まる前に、とよた真帆・青山真治夫妻がゲストとしてこの映画についての話をしていたのだけど、その中で青山真治氏が、ウディ・アレンは人としてうざい、というようなことをいっていた。何となくその意味はわかる、と少し思った。考えてることをすべて言葉にしちゃう(あるいはできちゃう)、落ち着きがない、常に悲観的、もしくは人を(自分の恋人も含めて)信じることができない、そういうのをうざいと感じるのかもしれない。そしてなにより、すべて計算づくでそれらのことをやってのけちゃうっていうのが、どうしようもなく人の神経を刺激するのかもしれない。 でも、そういうのをすべて飲み込んでしまうと、この映画はとても面白い。映像の素晴らしさや細部まで凝った演出などがすっとこころに入ってくる。実際映画を観てて、はっとする場面や心に残った台詞がかなりあった。良い映画だなぁと思った。
しかし、こうやって「アニーホール」を楽しめるようになってきたというのは、わたしの中で多少なりとも人間理解が進んだということなのだろうか。だとしたら良い傾向なのかもしれない。といってもとうぶん「卒業」を理解することは無理だと思うけれど。
BSで「卒業」がやっていた。 嫌いなのに嫌いなのになぜか終わりまでみてしまった。 救いのないミセス・ロビンソンも陰気なサイモンとガーファンクルも主体性のないエレーンも嫌い。もちろん最後まで自分に都合の良いベンジャミンもだい嫌い。ストーリーも演出も台詞回しも陳腐でつまらない。 なんてことを連れ合いにぶつぶついっていたら、嫌いっていってるわりにはけっこう食い入るようにみてたぞ。ほんとうはすきなんじゃねーの(笑、なんていわれてしまった。・・・ほんとに嫌いなんだよーっ。
強い雨風が吹き荒れる夜。 雨粒が窓ガラスにあたって大きな音をたてている。 しばらくやみそうもないので、植えたばかりのバラの苗と、クレマチス、アイビー、などを部屋の中に入れ、お茶を沸かして飲んだ。
さて。 今週末から(コドモと連れ合いは)夏休みに突入。 ばたばたと忙しくなるそのまえに、ゆっくり買い物にいったり、映画観にいったり(シティ・オブ・ゴッドか北京ヴァイオリンのどちらかで迷っている)しようと思っている。 来週には梅雨もあけるかな。
2003年07月11日(金) |
蝉の声、記憶の残像、雷雨 |
朝起きたら、なんとセミが鳴いていた。 ってべつに驚くことではないか。 もう7月だし。
ところでモンダイ。 しゅるしゅるしゅるしゅるしゅるしゅるしゅるーーー。 このように鳴くセミがいますが、さて何セミでしょう。 正解の方にはセミ博士の称号を授与!
というのは冗談だけど、わたしはけっこうこのしゅるしゅるしゅるーーという鳴き声が好きである。たぶん小さい頃、このセミの鳴き声に付随してなにか良い出来事があったのだろうと思う。しゅるしゅるしゅるしゅるーを聴くと、今はもう思い出せない記憶の残像のようなものを何となく感じるのである。夏の日の遠い昔の記憶。
今日は午後から滝のように雨が降った。雷も少々。 本格的な夏まであともうすこし。
つい最近まで「パン屋再襲撃」を再読していた。そのときに思ったこと。
その昔まだ10代だった頃、この本はわたしにとって圧倒的だった。こんな世界を書ける人がいるんだ、っていうことがすごく驚きだったし、率直に言ってそういう世界に対して強烈にあこがれていた。たぶん、そんなふうに生きたかったんだろうと思う。誰からも干渉されず、大きな壁をつくってたったひとりでそこに住む、そんなようなことをわたしは求めていたのかもしれない。
で、今この本を読み終えて何を思うか。 10代の頃のわたしは何もわかっちゃいなかったということ。 今だってすべてわかっているわけではもちろんないけど、昔のわたしはほんとうになにもわかっていなかった。
「でも本当の生活というのはそういうものじゃないわ。本当の大人の生活というものはね。本当の生活というのは人と人とがもっと正直にぶつかりあうものよ。・・・」
これは「ファミリー・アフェア」の中で「僕」の妹が「僕」に対していった言葉。
そのときにはその言葉の意味がよくわからなかった。 でも今はよくわかる。 本当の大人の生活っていうものがどんなものであるかということが。 本当の大人の生活というものがどれだけの重みをもっているかということが。
逃げたかった。 自分をとりまくすべてのものから。 でも、今は逃げずに向き合っている。なんとか。 そんな自分も悪くないと思っている。
今日も朝から雨がしとしと。七夕だというのにね。
一日ずっと、6月分のレセプトの計算で忙殺。 600枚近くあるレセプトをプリントアウトし、集計し、正誤をチェックし、点数を計算し(計算機で一枚ずつ計算してカルテと照合していく)各保険の種別ごとに枚数を確認し、保険者番号順に並べ、綴じていく。 単純デスクワーク地獄。 指先と目の周りの筋肉が異常に強張っている。頭の中は数字が飛びかってぐるぐるしてるし、電卓を叩く音とレセ用紙をめくるときのしゃらしゃらという音がまだ耳の奥で鳴っている。
つかれた。
2003年07月05日(土) |
無私という言葉に意味について考えてみる |
「木を植えた男」読了。 無私の行為というものについて考えた。「私」というものなくして、一つの熱情を持ち続けるということについて考えた。そしてつねに「私」を先に考えてしまう自分のことを考えた。
たぶん、この男のようにわたしは生きられないと思う。でも、この男のように何かをなしうるのだという熱情は持ち続けたいと思う。そんなに崇高なものでなくてもいいし、ほんのささいなことだっていい。少なくとも、それが自分も含めて誰かの気持ちを豊かにすることであれば、それを持ち続けたいと思う。 そして、豊かに生きていたいと思う。
最初、装丁にひかれてこの本を購入したのだけど、中に書かれてる挿画がやはり素晴らしかった。あとがきを読んでみると、この絵の作者のフレデリック・バックという人は短編アニメ映画も作っている映像作家で、米アカデミー短編映画賞を受賞したこともあるとのこと。というかこの「木を植えた男」をもとに作った短編アニメ映画がアカデミー賞を受賞したらしい。絵がとても素晴らしいものなだけに、たぶんその短編アニメも芸術性の高い素晴らしいものなんだろうな、きっと。観てみたいけど観られないものなんだろうなぁ。
とにかく良いものを読むことができてほんとうに良かった。
実を言うと今週のはじめに連れ合いと喧嘩をした。 もー顔を見るのも嫌、声を聞くのも嫌、一緒の空気を吸うのも嫌、という感じでかなり最悪な気分だった。連れ合いの方は仲直りをしたいらしく、次の日から完黙しているわたしになにかと声をかけたりしていたが(あたりまえである。悪いのは向こうなんだから)わたしの方はというと、そんなに簡単に許してたまるかという気持ちがぶすぶすと燻っていて、そういう仲直りしようという連れ合いの気持ちも無性に腹立だしくて、完全無視していた。そういうのが大人のオンナとしてのたしなみに欠けるのだということは重々承知しているのだけど、どうしようもない。まるで「道草」のお住である。「道草」を読んでいたときは、お住がもう少し広い気持ちで健三に接してくれれば健三も救われるのにな、なんて思っていたのだが、とんでもなかった。お住はやっぱり正しい。人間の気持ちなんて所詮そういうものなのだ。
で、今日の朝。実は連れ合いは今日から来週の月曜日まで東京に出かける。現在連れ合いは、母校である武蔵美の校友会の愛知県の支部長をしているのだけど、今週末から年一回の支部長会議というのが行われるので、それに出席することになっているのだ。
「さー、準備もできたし、出かけようかな」と連れ合い。 「・・・・・・」とわたし。 「3日間もいないとさびしいでしょ?やっぱり」と連れ合い。 「ぜんぜん。」とわたし。 「あ、そう。ふうん」と連れ合い。 「じゃ、いってきまーす。人形焼かってきてあげるねー」と玄関を出る連れ合い。 「サザエさんのやつだよー、餡子とカスタードクリームとひとつずつだからねー」と思わずいってしまうわたし。 (実は人形焼がすきだったりする)
うーむ。なんだか、なんとなく仲直りしてしまった・・・。 あんなに怒っていたのに、人形焼のひとことで和んでしまうとは。 中途半端な自分に脱力。 でもまあそうだよな。そうじゃなかったら10年以上も続くわけないし。
ということで、果てしなくこのようなことを繰り返しながらケッコン生活を送っている、わたしと連れ合いなのでした。
わたしのすんでいるH市には結構大きなコンサートホールがあって(というか地方にしてはという程度なのだけど)、結構有名な人もたまに歌を歌いに来たり、楽器を演奏しにきたりする。(来年のはじめには綾戸智絵さんもそこでコンサートをする予定になっていて、当然聴きにいくつもりでいる) そのコンサートホールで今月の終わりに合唱オペラなるものが上演されるらしい。しかも二部構成になっていて、一部は作曲家の池辺晋太郎氏と詩人の谷川俊太郎氏の対談、そして二部が童話「ごんぎつね」をもとにつくられた合唱オペラを上演するという内容。なぜに「ごんぎつね」なのかというと、わたしのすんでいる市は新美南吉の生まれた生家があるところなのだ。新美南吉は若くして亡くなった童話作家なのだけど、優れた童話を物語をいくつも残した人。ぱっとしないこのH市では唯一、文化的に有名な人である。
合唱オペラ「ごんぎつね」、さらに池辺晋太郎氏と谷川俊太郎氏の対談という内容はかなり魅力的なので、さっそくチケットを買いにいった。大人と中学生一枚ずつ。はたして理解できるだろうか、という懸念もあるがコドモも連れていくことにした(本人が行きたいかどうかというのは不問) 何かを感じ取ってくれるといいんだけど。 とにかく非常にたのしみ。
漱石の「道草」読了。 この小説は、遙か昔(わたし的に第一次漱石ブームだった)高校生のときに読んだことがあるのだけど、おしりの青い学生時代ということもあってあまり肝心なところを理解していなかった。で、今はどうかというと、多少なりとも人生経験を積んだおかげで、学生時代に読んだときよりはいろんな感慨があった気がする。 しかし、こうやってあらためて読んで見ると、漱石という人は孤高の人だったんだなあとあらためて思う。
去年、学校の共通科目のレポートで漱石の「こころ」についての小論文を書いた。テーマはなににしようと迷ったあげく、「先生とわたしにおける淋しさの視点について」というようなものにした。そこで「先生」と「わたし」が持っていたそれぞれの淋しさを検証し、それがそれぞれの人生にどのような影響を与えていたかというようなことを中心に書いたのだけど、考えれば考えるほど、漱石はいろんな意味の孤独を抱えていたんだなあということを思った。まず優れた頭脳を持っていたということ、そして、普遍的な考えを持っていたこと(時代というものに囚われない自由な発想)などなど、そんな誰もが持ちえなかったものを持っていたからこそ漱石は誰よりも孤独だったのかもしれない。漱石の小説にはそんな孤独の精神が随所にみられる。
しかし、なんでわたしはこのような小説にひかれてしまうんだろう。淋しいものが好きなんだろうなあ、きっと。たぶん(訳の分からない自分勝手な表現だけど)淋しさには受動的な淋しさと能動的な淋しさみたいなものがあって、わたしは能動的な淋しさというものが好きなのかもしれない。つまり自分から淋しさを求めていくその行為、または淋しさそのものを少し離れた場所から傍観すること。
以下、「道草」からの抜粋。 自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなる程、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気にその淋しさを感ずる場合さえあった。けれども一方ではまた心の底に異様な熱塊があるという自信を持っていた。だから索漠たる曠野の方角へ向けて生活の路を歩いて行きながら、それが却って本来だと心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。
漱石の抱えていた淋しさは、底が見えないくらい深いものだったと思う。漱石は彼の言う熱の塊みたいなものとひきかえにそれを享受した。でもそれは本人が思うよりもずっと過酷なものだったのだろう。 漱石は結局それを自覚しないままこの世を去ったけど、彼がその熱の塊みたいなものを追い求めた結果生まれたもの、つまり彼の多くの小説はこれからもずっとずっとこの世の中に存在して、多くの人の心に残っていく。 それはほんとうに素晴らしいことだと心から思う。 本を読み終わったあと、そんなことを考えていた。
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