−最後の切り札−

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 2003年12月21日(日)  As a Man Thinketh



さらっと読んでしまった。良本の噂に違わずだが、和訳のタイトルがイマイチか。
読後感は『チーズはどこへ消えた』と似ている感じだ。
内容は似ても似つかないが、底にある「物は考えよう」な辺りからだろうか。

考えたように物事は動く、育つ。だから思いは崇高に穏やかに、そして強く。
綺麗事と言えば綺麗事だし、道徳の教科書みたいと言えばな内容。
言葉は平易でわかりやすく優しく諭してくれている。詩集のようだと言っても(^^)

どんな嵐にも揺らぐことのない、永遠の静寂の中にあるという穏やかな心を
表に出しておけと言う。そう内容は理解しやすいものだけれど、決して
その実行は簡単ではないのだ。自分を穏やかに保ち、且つ気高く美しくあること。
人間の永遠のテーマであろう。だから読みつがれるのだろう。


私は生来のPessimist(笑) でも表にはそれを出さないように。と子供時代からここまで来た。
できるだけ家族に対し、友人知人に対し、仕事に対してはPositiveに立って歩いている。
それをこそ疑問に思ったりしたことはなくこれが私だと、インナーなギャップと付き合ってきた。

ところが背景や状況を最大に考慮しても、その間にある壁を簡単に蹴り破り、自分ですら触れたくない所に
無遠慮な程に入ってくる人と数年前に知り合った。今でこそ親友であり片翼であるような相手だけれど苦手だった。
それは一見、こういう穏やかな人間。大人物では決してない。どちらかと言うと気弱で頼りない。(コラ)
ただこの人と一緒にいるとNegativeな部分が表に出る。(^^; 穏やかな感情の波があっさり時化になる。
これがとても嫌。今も疑問だらけだ。この人と共に歩かなければ、私はもっと穏やかに日々を暮らせる。



と言うことで、私は今まで自分を「ある程度出来上がった、分別のある安定した大人」だと思っていた。
けれどそれは八方美人に近いものであって、中身が伴わないと言うことを、この人と出会い、
さらに今日この本を読んで、もう一度考えさせられ、ぼんやりと見つめなおしたのでありました。


自己コントロールから生まれる正しい思い。それをしっかり抱きしめることが切り札なのか、
崇高でも何でもない思いを素直に持つ方が強い切り札になるのか、答えは当分出そうにない。





 2003年12月17日(水)  テキスト


今こうしてテキストを綴ろうとすることすら、村山由佳氏が言うように『人間としてどうか』のラインなのかもしれない。
テキストを操っていると、誰にもわからないように。またはただ一人にだけわかるようにと言葉を埋め込むことは良くあること。
それは良きようにも悪しきようにも書くことができる。綴る私と共に誰かの気持ちに触れるように、甘くも悲しくも痛くも。

体験したり、目にしたり、読んだりしたことをテキストに変換する。このことへのスイッチが簡単に入るのは怖いことかもしれない。
性癖と仕事上、スイッチはいつでも入れられるようにしている。ただこのスイッチは暗さを灯すもの。綴り終えるまでは闇の中。
何も楽しいことなどないような気がするけれど、この時代プロでもアマチュアでも、テキストを綴り続ける人間はだいたい同じ。
自分を追い詰めて切らなければ何も生まれない。その時に周りすら切ってしまいたくなるのだ。時にそれは無意識。これが怖い。

そしてこれも性分。今日のテキストは本当に切ってしまいたいことを昇華させようとしている。もちろん自分を代わりに切って。
こうまでしてテキストを置く必要はないのだけれど、切り札として、言葉を操る術を少し持ってしまった人間の愚かさ。落ち着かないのだ。


けれど今日は『人間としてどうか』のその手前で止まれたことを誉めてやろう。
綴らなくてもいい言葉もある。







 2003年12月07日(日)  アンケート




と、おやおや。
有料版はすごいことになってますね。(..) blogとかそういった波の影響でしょうか。無料でblogシステムを提供している所も多いし。
でも私は有料・無料に関わらずエンピツが好き。他の日記サイトもたくさん巡りましたが、落ち着くんですよねココ。自サイトのCGIよりも(笑)


さて表題。
数日前大学生から、そう卒論の資料に使いたいのでご協力頂けませんか?と職場にメールが来ていた。答えられる事とそうでない事があると
前置きをして、「それでよろしければ?」と返事をしておいた。上司には確認を取らず、面白そうだな。という私の判断で。(^-^;
そのアンケートが今日ついた。内容は通り一遍なものであったけれど、あらためて問われると「ん。」と考えてしまうものもあった。

上司しか答えられない問いと、実際に広報担当である私が答えられるものとがあった。それはどちらが答えますか?と話し合った結果、
いい機会だから2人共が回答しよう。と言うことに。それは私達の職業・職場・職種・・・その総合的な「理想像とは何ですか?」と言う問い。
日々雑然とする仕事をルーチンでこなす中では、なかなか近くにいるもの同士でも、理想像などと言うビジョンは会話に出てこないから
自分自身の中にぼんやりとでも浮かべるためにも、このアンケートを受けたのは正解だったかもしれない。

文字にして行くと当然ながら如実になってしまい自分でも驚いた。毎日のあれもこれも・・・そうか、こう思っているからなのか。と。
それを半商売柄、理路整然と論理的に返事を連ねておいた。もはや論旨の結びになるのではないだろうかとすら思うほどに。コラ(笑)
実務に当たっている人間が搾り出した理想像。これを学生が、どこまで机上で空論にならずにまとめあげていけるのだろうか。と、思わず苦笑も
してしまうような感じではあるけれど、現実は甘くないと言うことを読み取ってもらえるといいなと思う。これから社会に出る前の人達に。


理想像 
けれどその実像のシルエットだけでも見えれば、切り札になるのかもしれない。







 2003年12月06日(土)  天の川のひととこ



うん。いい話だね(^^)


『僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たちいっしょに進んで行こう。』
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。・・・」


でも
『けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。』 「僕わからない。」 『僕たちしっかりやろうねえ。』 ・・・・・カムパネルラはそして。



気持ちはどんなにか「そうあれ」と願い、向かって行こうとしても、実際には何度も何度も自分のエゴとの闘いになる。
犠牲精神ではなく、天上への長く暗い道を歩いて行くことも自分で選んでいるのだから、そこに自分の幸いがあるか。なのだと思う。

自分を大切に出来なければ、他の人の幸せなど求むべくもない。と言うものも途上の邪魔をする。極端にどちらかを選ぶのではなくバランス。
その仕切ったラインの上をまたいで歩くわけだけど、歩く本人は一定に保たれない甘いものなので、右に寄ったり左に寄ったり。
時にその道から外れてしまいたくもなる。これが闘い。立ち止まれば足も疲れないし、先行く中で躓くこともないのも知っているから。

けれど進んでみないことには天上へも辿りつけない。ひょっとしたら行き着くことがあるとしても、そこは天上ではないかもしれない。
私のジョバンニも同じ思い。結局のところ、何もわかっていないし見えてもいない。けれどそれもカムパネルラと一緒なら。とそう思っているらしい。
暗くて長い道を歩き続けることが、お互いに決して楽ではないことだけは知っていて。正しくも間違いでも「確信犯」だ。

ただカムパネルラがそっと天の川のひととこに入って行こうとすれば、へたをすると一緒に入りかねないジョバンニ。けれど私はそれを望まない。
だから私にジョバンニがいるのを幸いと。そう思える間は、百ぺん灼かれてもかまわない。他の幸いは自分の幸いと。また一歩ずつ進むのだろう。



ほんとうのさいわいのカタチ。それが見えているわけではないのだけれど。
それが見えれば、それこそ切り札にも懐刀にもなるような気はするのだけれど。






 2003年12月05日(金)  最初の切り札 



とりあえずカスタマイズ完了。
なんでもいいやと思いつつ EXにはしているのはなぜ?(^^ゞ


たいしたカスタマイズじゃないけど、テキストが映えて読みやすけりゃ それでいいの。うんいいの。(笑)
ちょっと今度は初めての横に文字数が長いタイプにしてみた。慣れるまで何度もリロードしそう(^-^;


日記の場所を移動した理由は・・・確かに気まぐれでフォーマットを変えたくなっただけ。
だけど今までの事はあの場所で。なものでしかなくて。あれはあれ、これはこれ。にしたかっただけ。
(気まぐれの上にわがまま)


切り札とか懐刀とか・・・持ってるとかっこいいなぁ。という憧れなタイトル(笑)
はたして私の切り札は何なのか。また書き綴っているうちに見つかるのだろうか。



To be continued.




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