ふつうっぽい日記
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2002年03月29日(金) 明日は誕生日

明日は、私の誕生日。そして、友だちの猫(春ちゃん)の誕生日。そして、メール友だち(Aちゃん)の誕生日。そして、大阪の友だち(Tちゃん)の結婚式。そして、主人は土曜出勤…いろんな人の3月30日。

今日は、昨日のように、キビキビと掃除をする、1日ではなかった。でも、相変わらず昼寝をすることはなかった(笑)新聞の折り込み広告にコンタクトレンズを扱ったものがあったので、購入について少し考えた。やはり、5年目くらいになるであろうレンズは装着しないほうがよさそうな感じだ。一般的な(形式的な)きまりでは「使わなくても1ヶ月に1回は洗浄しましょう。」「定期検診に行きましょう。」とある。1ヶ月に1回の検診は後回しにして(こらこら)1ヶ月に1回の洗浄…実は、半年くらい触ってなかったのだった…主人に言うと、「そりゃ、虫もわくわいな!」と…たしかに。“ものもらい”ができたのも、やはり、汚れによるものじゃないかと今、思う。幸い、“ものもらい”は母から教わっていた民間療法で完治した。今日の広告によると、高いと決めつけていたソフトレンズもハードレンズと変わらない価格であったので、まあ、また余裕ができたら行ってみようと思う。毎日、装着するのか?と問われたら約束はできないが、どうも、視力が落ちているような気がするのだ。といって、意識して眼鏡をかけているか…というと、車の運転の時と英会話くらいだ(PC触っている時もした方がよいのにも関わらず!)まあ、煮詰めるのはまだ先になりそうだ。

さて、今日は個人的に嬉しいことがあった。少し前の「写真付き日記」に“キューブ”について取り上げていた。掲示板のある書き込みにより、「図柄入りキューブへの挑戦」が私の中で急加熱した。少し、ヒントをもらったが、どうもうまくいかない。そこで、ネットでキューブの完成法を扱ったサイトはないかと30分ほど、探した。すると、あるサイトで私にとって分かりやすい図解を見つけたのだ!でも、そんなうまくいくものか?と疑いはあった。あまり期待せず、図柄入りキューブを手にモニタを睨みながら(眼鏡してない…!)軽い気持ちで操作する。…と!ちゃんと、完成させることができたのだった。一人で「ヤッタ〜!スゴーイ!」と小躍りする私(^ー^)v

図柄入りキューブは実家にもあって(キャラは「ドラ○もん」)自宅にファックスを流す。反応が待てずに、妹に電話をすると、「ファックス?なにも来てないよ〜」とのんびり言う。
私:「そんなはずはないよ!エラー出てないし!」
妹:「ふぅ〜ん?ああ。コレ?何?自作のキューブ?」
私:「違う違う!あのキューブだよ!」

そんなやりとりをして、1時間経つが経たない内に携帯メールに「お見事!できた!」とメッセージが実家より送られてきた。

潔く、諦めることも時には大切。でも、思い立って、足を突っ込んでみることも大切。そんなことを思った誕生日の前日であった。


2002年03月27日(水) コンタクトレンズ

久々にコンタクトレンズを思い立って装着してみた。かなり、久しぶりである。まだ使えるのか?という不安も抱えながら。

友人によると、3年おきくらいに買い換えているらしい。このレンズはいつ作っただろうか?と記憶をたぐる。まだ、たしか、結婚が決まるか決まらないかくらいだったので、4年前か5年前か。友人の法則によると、邪道である。さらに、ここ何ヶ月か放置(液はたまに変えていたが…)していたのである。マズイのだろうか?どなたか知っている方、ご一報くださいませ…

もちろん、このレンズは実家にいたころ、つまり、福岡で作ったのだ。さらに、記憶を具体的にたどると、これを作った店は、閉店したのだ(縮小かもしれないが)もちろん、メンテナンスを受けられる状態ではない。

保存液はまとめ買いをしていて、久々に見ると、期限が迫っていた!今日は、15分くらい装着して、よーく目の周りを見ると、右目の下のほうに「ものもらい」ができていた。もしかすると、久々のコンタクト装着によって皮膚が驚いたのかもしれない。右目だけだったので、そのままにしておこうかと迷ったが、やはり、気になって両目ともレンズを外すことにした。期限ぎりぎりの保存液に浸すのも、さらに、品質を落とすと思い、「これ1本でオッケー!」と掲げられた10日使いきりの保存液を購入。さらに、容器も新しいモノに変えた。もしかしたら、もう処分すべきレンズなのかもしれないけど、使えるかもしれないとも思う私。傷が付いたレンズを装着すると眼球に傷が付くとは聞いたことがあるけど、レンズについた傷は私には確認できない。また、ここで私の得意なシュミレーションが頭をぐるぐるする。このレンズを近所の店に持ち込む→使えるかを訊ねる→買い換えを進められる→買い換えに応じる、という図だ。

まあ、買い換えをして、これから、装着する癖をつけるというのもアリなので、市場調査をしてみようかな、とも考え始めたのも正直なところだ。

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「ものもらい」は、つげの櫛を畳でしごいて、患部にあてる。そうすると、治る。私はそうやって今まで解決してきた。教えてくれた母親に感謝。果たして今回はどうだろう?週末の披露宴参加までに落ち着くといいが…


2002年03月25日(月) 「花嫁の手紙」の世界〜母の背中編〜

自分がどれくらい、成長したのか?我に返ってもなかなか分からない。一番温かく成長を見守ってくれるのは、親なのではないだろうか。

「ちょっと、お母さん!私って、何か成長したところってある?」って素直に聞けるものなら、聞きたい。でも、いきなりそんなことを聞くとハテナの顔になるし、やっぱり、素直になんか慌ててなれるもんでもないよ。でも、それよりも、失敗すると分かっていても、そっと見守ってくれた母の温かさに不器用でも気付く自分を大切にしたいって思う。

母は、私が生まれてきて、とびっきりの笑顔を降り注いでくれたはず。まだ、目が開くか開かないそんな私に。まだ、“あんよ”もできない私に。まだ、“ママ”と言えない私に。まだ、あなたを母親だと認識できてない純粋な私に。

赤ちゃんの道を通って生まれでてくる間に、無期限無制限の愛情のパスポートをもらったね、私。そのパスポートには、たしかに父の愛情のサインもちゃんとしてあって。サインをしたことを忘れないように、私のおでこには父の面影が、困った時に下がる、怒った時に上がる眉のあたりと、しっかりと大地を踏みしめる足は母の面影が。たしかに私は父と母のパーツを守って、生まれ、そして、今も生きてる。

自分に似た人間を前に、あなたはどう思いましたか?ちょっと照れくさかった?これぞ、宝って思った?

私が日々成長するにつれて、思い描く理想とは裏腹に、物静かで声も小さくて、「おとなしいお子さんです」ってよく言われていたね。私も、自分で分かってたんだよ。妹をわざといじめてお母さんの気をひこうとしたこともあったよ。そんなことをしても、お母さんに嫌われるって分かってたのに。お母さん、ごめんね。

お母さんが、自転車の練習を40才後半で始めたよね。夕方、お父さんがお母さんの首の後ろを支えてさ。その周りを妹と二人でキャッキャいって応援して。その時は自転車に乗れてあたりまえって思ってて、「お母さん、頑張ったね!」って言えなかった。今、思います。お母さんは頑張ってた。できないことを克服する姿に、今さらながら感動してます。そして、理想的な夫婦の姿も見たような気がするよ。それから少したって、自動車の免許も取ったよね。それをいいことに、学校まで送ってもらったり、酔っぱらった私を駅まで迎えにきてもらったり。渋滞で遅くなったのに、イライラしてお土産にって買ったドーナツをお母さんのいる前で箱ごと投げたこともあったね。「こんなことをしたら、いけん!」と泥のついたドーナツをお母さんは1個ずつ拾って家に持って帰ったね。私は、突っ立ってるだけで何もしなかった。その時のお母さんの背中がわなわなと震えているのも、分かってた。でも、家に帰っても特に叱らず、そっと見守ってくれたのは、お母さんで。

中学校の数学の宿題で、分からないところを一生懸命教えてくれた賢いお母さん。くじけそうになった時、お母さんの握ってたコアラの絵のついた鉛筆を握りしめてました。高校、大学の合格発表も「もう、ダメ…」という私に「大丈夫、大丈夫」と言って一緒についてきてくれたよね。何かあると、相談していつも返ってきてたお母さんの「大丈夫、大丈夫」って言葉。時にはひと事だと思って、軽く言ってるんだって決めつけてたこともありました。でも、短い言葉だったけど、その言葉に支えられて私は頑張ってこれたのだと思います。

結婚して、離れても私のお母さんはお母さんのままです。無理をせず、お父さんと仲良くね。私も、頑張ります。


2002年03月22日(金) 涙の訳。

昨日、主人の草野球チームの監督さんの結婚式披露宴と二次会に参加した。当初は、二次会だけの参加であったのだが、前日に行けない人が出たということで急遽私に招待の打診があったのだった。家計を預かる身として、すぐに「お祝の増額」が頭の中を走った。嬉しいことだが、現実は厳しく少し間を作ってしまった。すると、監督さん(新郎)は「お祝は一人分で構わないので、気楽にご飯食べる感覚で来てもらえたら嬉しい」と言われ、オッケーの返事をした。

監督さんからの連絡は夜9時半過ぎに自宅にかかってきたのだが、聞くと主人の携帯にかけて出なかったというのだ。つまり、このことは主人はその時は知らないのであり、なんとか主人にそのことを知らせたいと思った。出ないという携帯にしぶとく電話をする私。やはり、出なかった。呼出し音は鳴っているのに。次に携帯に「至急連絡せよ」とメールをした。すると、聞き覚えのある音が寝室の方からしてきた…。そう。主人は携帯を自宅に忘れていたのであった。なんということだろうか?私もそれまで気づかなかったのだ。その晩は、とくに遅く、最寄りの駅の最終を見逃し、一つ前の駅止りの最終電車で帰ってきた。もちろん、一駅だったがタクシーで帰ってきて!などとは言わず、ドキドキしながら、私は、迎えに行ったのだが。

さて、次の日。お隣の奥様にメークとセットを依頼しており、約束の時間に洗顔と着替えをして向かった。前日に靴や鞄の色や装飾品などを写真で見せていたので、スムースに準備は進んだ。「今日は泣くような感じ?マスカラはどうする?」と言われ、そんなに泣くことはないだろう!と思っていた。が、結果として私は涙を流してしまうのだった。「大丈夫だと思うよ〜」なんて言って、軽くマスカラもつけてもらった。

会場には電車で一駅揺られて、タクシーで行った。小雨がパラつきそうだったのと、風がとくに強く「セットが乱れるし」なんて言いつつ、正直、履き慣れないパンプスで2キロほどの道のりを歩く気はなかったのだ。タクシーを捕まえるのに少々手こずり、また、道も程よく渋滞していて、なんとか「ワンメーター」で行けて、余裕で受付に間に合った。午後3時15分定刻、披露宴は始まった。壮大な音楽に合わせて、打ち掛け姿の新婦と紋付袴姿の新婦がやや緊張気味で入場。忘れず持参したデジカメで早速撮影。だいたい、流れというのは決まっていて、自分達も経験したことでもあるし、「次は〜だね」なんて主人と言っていたのだが、予想外にその打ち掛け姿でいきなりウェディングケーキ入刀ときた。「ナニィ!」と報道陣は慌てて新郎新婦の前に近寄る。私は小柄なほうなので、ネズミのようにチョロリと動きベストポジションをゲットした。しかし。予想以上にドライアイス(スモーク)がもくもくと上がり、動揺する報道陣。3、4枚撮ってなんとか1枚使えそうなのがあった。私は草野球チームのHP作成事務(自称)もやっているのだ。今回かさ張るデジカメを持って行ったのもそのネタのためといえる。

ケーキ入刀後は、思った通りの流れで進み、次のお色直しでは洋装(ウェディングドレス)で再入場。その間、歓談しつつ料理を堪能したのは言う間でもなく。入場とともに、キャンドルサービスが始まった。私達の時はウェディングドレスでケーキ入刀で、最後カクテルドレスに着替え、キャンドルサービスをやったのだが。メインキャンドルに火が灯されると、意外や意外、大量のシャボン玉が二人を包んだのだった。もちろん写真にもちゃんとおさめてある。そして、友人等のスピーチやカラオケなどがあり、落ち着いた頃合に新郎からの挨拶。そして。新婦の家族への感謝の手紙が朗読される。司会者の代読ではなく、新婦本人の声で。たいがい、本人が読むと、観衆はぐっと来ちゃうものなのであるが。今回は、かなりぐっときた。それは、

新婦の母親が10ヶ月前に病気だと思われるが、亡くなっていたのだ。言われてみれば、その母親の位牌を新婦の妹さんが持っていた。母親が危ないという知らせを受けた時の妹、弟、父親への気持ちなどを素直に言葉にしてあり、そこで、もう、ぐっと来るしかなかったのだ。主人も後ろ姿を見る限り、涙を流していたと思う。私はどちらかというと、このような席では「我慢しようしよう」というのが働くのだが…カメラのシャッターを切りながら両目から大粒の涙が出っ放しだった。落ち着かせるために、写真を撮りまくっていたと思う。上手く撮ろうなんて、考えず、自分の泣き顔をカメラで隠すように、そう動いたという感じだった。実際、後でプレビュー画面で新婦手紙朗読の画像を見ると、手ぶれもいいところで10枚以上そのシーンを撮っていた…ビデオカメラ係の弟さんも、妹さんも、父親も、親戚も70パーセントの人が涙していたと思う。一番印象的だったのが、「…お母さん、○○ちゃん(新婦)、お願いだから結婚式では娘による両親への感謝の手紙の朗読なんてせんどいてな。お母ちゃん、絶対、泣いてまうわ…って言ってたよね…お母さんのことだから、きっと今日、この場に来ているんでしょうね…」という言葉。

娘と親との絆、妹や弟の母親との別れの心模様、そして、長女としての冷静かつ素直な思いが自然に交差されていて、共感せずにいられなかった。新婦の父は、泣くのを我慢してはならないよ…と、妹が結婚する時がきたら私は自分の父親に言えたらなと思った。私は父に、自分の結婚式でわんわんと泣いてほしかったのかもしれない。


2002年03月20日(水) グラビアアイドル

ほぼ毎週木曜日、主人に週刊誌(マンガ)購入を頼まれる。暖かい季節になってきたせいか、表紙には水着の若い女性が載っている。同じ女性として少々、恥ずかしく(レジに並ぶという行為が)なるのだけど、「私は旅人」と毎回言い聞かせて“任務”を遂行している。さらに、私も通読していたりするのだが(笑)

週刊誌(マンガ)の表紙の方々(グラビアアイドルというのか?)に限らず、テレビに映る方々(本来隠すべき身体の露出表現をされている女性)を見ると「この人たちの家族はどう思っているんだろう?」といらぬお節介をする。それらの人々はお節介を焼いてほしいためにやっているわけではないということは、分かっているのだけど、そう考えてしまうのだ。私の想像では、まず、家族とはなんだかの事情で決別し、割り切って生活の為に、お金のために、職業としてその道を選んだ(選んでしまった)と映るのだった。また、女優の夢やアイドルと呼ばれるようになるためのステップなんだろうか、とも。

「表現の自由」っていうのは、たしかに、ある。際どいそれらと接する機会を作るのも未成年でなければ許される。若い時代だからできること、若い時期だからアピールできることっていうのも、分かる。もし、自分に満足できるカラダがあったら、自分のカラダに投資できる余裕があったら、「その道」を選んでいたのだろうか。

やってみないと分からない心情が何か、もしかしたら、あるのかもしれないが、私には週刊誌(マンガ)の表紙の方々の気持ちが本当は弱いモノと思えてならない。

弱いモノやもろいモノには、悲しいことか幸いか金銭的価値があるものだ…そういうことなんだろうか…それくらいなもんなんだろうか…自分の中にあるダイヤモンドを売るか、墓場まで持ちこむか、そういうことなんだろうか…


2002年03月18日(月) 焼肉

狂牛病だ!と問題になって、どれくらいだろうか。でも、我が家ではあまり意識せず、牛肉を食べているような気がする。もしも、子どもがいたら、警戒するのかもしれないけど、死ぬ時は一緒と言ったら変だが、そうなったらそうなったとき!というような潔さがあるのかもしれない。

さて、焼肉のお話。焼肉は外食もするけど、家でもする。冬だからとか夏だからとか季節関係なく食べていると思う。焼肉を家でする時は、ちょっと気をつけることがある。それは、いったい何なのか?

まず、換気。いろんな種類を焼くと、狭いリビング兼ダイニングは匂いとともに煙が充満する。キッチンもそこにあるので、換気扇を「強」にする、という方法もあるが、これではテレビの音が聞こえにくいという欠点がある。ベランダ側の戸を少し開ける。そして、エアコンの空気清浄機能を使う。まあ、これでなんとか換気はマシになる。

次に、テーブルの上の鉄板の周りがギトギトになるので、鉄板を置く前に新聞紙を広げる。タレが飛び散ったりすることも考え、自分たちの座る膝の上にも少し垂れ下がる程度に敷くこと。

そして、お気に入りのぬいぐるみやクッションなどがその部屋にあるなら、別室に避難させる(笑)もちろん、別の部屋へと続くふすまやドアは閉めておくことだ。しかし、床はたまにギトギトの余韻がうっすらと残るので、気になった時にちゃんと拭かなければならないのだが。

昨日も我が家は焼肉だった。でも、今回は肉は「タン」のみにした。その代わり、量は少し多め。今までは、3〜4種類の肉と野菜を焼いてきた。種類が多いと、それぞれの量は少なくてもいいのだが、後半になると、疲れてきて味わう余裕がないのだった。昨日はとてもシンプルだった。焼き野菜も特に用意せず、生野菜でレタスを洗ったくらい。鉄板の上では牛タンの他には、お惣菜として買ってきた焼き鳥4本がアルミホイルの上で温められた。あと、小鉢として「もずく」と「小松菜とかまぼこのからし醤油和え」が晩酌の友となった(笑)主人も私も満足。

焼肉。安い肉を食べまくった時もあれば、いろんな種類をたくさん食べた時もあった。少しずつ自分たちにあった無理ないスタイルをつかみつつある。

次回は「タン」と「きのこのホイル焼き」(「にんにくのホイル焼き」もいいかもしれない)にしようかな?なんて言いつつ、日曜の夜は心地よく更けていったのだった。


2002年03月15日(金) 耳もとで虫の音が( ̄○ ̄;)!

この3日ほど、女性の機能を有するが故に起こる痛みと向き合っていた。昨日の昼あたりが、最高に辛くて素直にベットに倒れてた。

ところが、5分も経たない内に、耳もとで大量の虫の音(鈴虫のような心地よい音でなく、大量の蜂が接近してきたような大きな羽音)がしたかとおもうと、身体が締めつけられた。そう、いわゆる「金縛り」ってやつだ。疲れがたまると、起こりやすいとどこかで聞いたような聞かなかったような気がするが、私は久しぶりの感覚だった。実家にいる時は頻繁に金縛りにあっていた。

私の場合は上にも書いたように、前兆として「耳もとで大量の虫の音」がする傾向がある。昨日は、身を任せて金縛りに苦しめられるのは嫌だ!と強く思い、目をなるべく閉じないように頑張った。横に寝返りを打つと、緩和するような気がしたので、一瞬の隙を狙い、横を向いた。しかし…また、「耳もとで大量の虫の音」がして、再び金縛り状態に突入。それでも、やはり、あの息苦しい苦痛は嫌なので、頑張って目を開けて身体が解放されるのを待った。

リビングに行って湯飲みに水を3分の1ほど注いで、それを枕元に置いた。眠れない時は枕元に盛り塩をするとか、水を入れた器を置くというのをどこかで聞いたような気がするのだ。「お願い、静かに寝かせてください」とココロで念じ、少し本を読んでから、眠りに誘われる。3度目の正直というのか、今度はちゃんと眠れることができた。

久しぶりにそういうことがあったので、主人にも金縛りの話をしてみた。すると、主人の場合は「耳もとで大音量でクラシックが流れる」というのだ。「音」が前兆になっているのは私と共通していた。まあ、最近はないような感じだった。二人で並んで眠っている時は、不思議と金縛りは起こらないのだった。

今日も、昼食後、激しい睡魔に襲われたが、またあの苦しさが襲ってくる気がしてならず、強引に起きていた。昨晩主人が帰ってきた時に「明日はかなり遅いと思うよ。最悪、会社に泊まるから」と軽く言うので「金曜日なんだから、遅くても帰って来て!!なんだったら、JRの駅まで迎えに行くから!!(いつもは私鉄で帰る:終電時刻が早い)」と私は返した。

明日は、予定では神戸方面に散策に出かけ、夕食は梅田あたりで外食ということなっているが…さて、どうなることやら。


2002年03月12日(火) いつかやると思っていたコト

「いつかやると思っていたコト」さて、何なのか?正確には「しでかすと思っていたコト」といえるかもしれない。そのコトがなければ、もう少し早く更新ができたのだが(言い訳)

当初の予定では、今晩は肉じゃがであった。いや、たしかに肉じゃがは作った。その後が問題だった。肉じゃがの下ごしらえには圧力鍋を使用した。くるくるとサインがでて、少し圧力が下がるまで放置して別の鍋に肉じゃがを移した。

そして、次にお米を洗ってざるにあげた。さきほどの圧力鍋をあらって、ガスレンジの上に置く。圧力鍋炊飯は5分くらいでできるので、急がずに別のことを少しした。

20分ほどたって、ご飯を炊くことを思い出した。

いくら慌てていたとはいえ…


水を入れ忘れるなんてこと、今までなかった…



そう、なんと、お米に水を入れずして火を付け、圧力をかけたのだった。何やら、焦げ臭い空気が漂ってきたが、隣の肉じゃがの鍋の火が鍋の取っ手を焦がしていたのではないか?と、疑い火を小さくする私。圧力鍋の方は、くるくるとサインが出ていい頃なのに、おや?と、その時始めて「何かがおかしいぞ?」と疑い始める。でも、それでもすぐには火を消さず、私は「水を注ぐカップ」を見に行った(遠くにある訳ではない)なんと、定位置に少しも水分がついてない状態、それはまるで戸棚に座って出番を待っているような感じだった…

いやはや。今日は楽しいことも盛り沢山だったのに。明日は英会話。ヘア−スタイルの変化のツッコミはいかに…素直に「Thank you!!」と言えますように…あまり芸がないが、「I'm fine !!」と即答しないように気をつけたい。


2002年03月08日(金) 夫の反応

何かのCMで昔、こういうふうな夫婦のやりとりがあった。

妻:あなた、何か気づかない?
夫:(新聞を見ながら)何だ?パーマかけたのか?似合うじゃん。
妻:いつもと同じよ!ほら、よく、見て。
夫:何だ?あ〜あ、口紅の色変えたんだ。ちょっと濃すぎないか?
妻:違うわよ…

このCMが何だったのか肝心なところは忘れた。たしか、ダイヤのネックレスをしていたとかそんなんじゃなかったかな。(キャッシングサービスのCMだったのかもしれない)そのやり取りはなぜか覚えているのだった。髪型一つ変えても気づかぬ夫、普通と同じなのにそれを変化だと言う夫っていそうな気がする。

私達夫婦の場合は、美容院や床屋に行く時は前もって相手に言っておく。主人の場合は土日の仕事が休みに行くのでさらに分かりやすいのだが(笑)私は土日に行かないって訳じゃないけどほとんど平日に行っている。「美容院に行こうかな」と言えば「坊主にするの?刈り上げにするの?金髪にするの?」とふざけたツッコミが入り、変化を期待される。

昨日、美容院上がりの私を見て、「今日だけの限定の顔だな」と言った主人(笑)まあ、よしとしよう。変化に気づいてくれるというのは、今のところ嬉しいことだ(意味深)

いつもと何だか違うところがあると、主人は気づくタイプだと思う。それは、「何か新しいモノを買ったな?」(お金使ったな?)という視点が傾向として多いようだ。私が2年ぶりに着た服を見て「それ、買ったな?」と言われたことがある。「前から持っていたよう」と言い返すと「そうなんだー」という。そう言われたら「新しい服が欲しいな」と言いにくいなと考えることもある。

しかし、私はあれこれ欲しがる方ではないと思っている。興味関心があるモノについては、アピールをするので、いや、自然と行動や表情に出るので分かりやすいのだと主人が言っていた。例えば、雑貨屋で立ち止まってある一点を見つめているとか(笑)別に「買ってほしいビーム」を発している訳ではないのだけど、その姿が無邪気に映るのか(自分で言ってしまっている、、)困ったように主人は小遣いの入った財布を覗いて「しょうがないな〜これ欲しいんでしょ〜」と210円を私の手に握らせてくれたりするのだ。私は「いいよ〜」などと拒まず「やった!」と小躍りしながら、雑貨をはじめとするグッズを触りまくって満足いくモノを手にして会計をすませるのだった。その後、「俺って偉い」と自分の行為に陶酔する主人が私には無邪気に映るのだった(あれ?なんかノロケているみたいな感じに…)

自分の予想とは反して、悲しくなるような反応も時にはあるが、それはその時相手のセンスや価値観を受け入れたり、修正させたりできるいい機会であると思っていたい私であった。


2002年03月07日(木) 女でよかった〜

1週間前から、今日のことはドキドキしていた。いったい何のことなのか?

今日はお隣の奥様を我が家の福岡ナンバーの車の助手席に乗せて、美容院にご一緒したのだった。昨日、ゼンリンの地図ソフトを起動し、大きめに地図を出力し、時間ギリギリまで「シュミレーション」をしていた。運転するのは、何ヶ月ぶりだろう。大阪に来てからも数えるくらいしか乗ってない。美容院での髪型のオーダーよりも、運転することに集中していた。「人にだけはぶつけるな」「左側をずっと行け」「右折する時は余裕もって車線変更をすること」と主人から言われていた。

さて、時間通りに車は軽快に滑り出した…と思ったらいきなり渋滞に巻き込まれた。珍しいな〜とも思いつつ、大型車も多いし、これが普通なのか…と流れにそって走る(というか、ノロノロ)1キロほど走ったところだっただろうか、多数の右側の車が左側に車線変更していた。何だ?と思ったら1台の車が止まっていて、前の部分が“へしゃげて”いたのだった。前の車に突っ込んだのかもしれない。警察車両も1台駆け付けていた模様だった。行き掛けに嫌なモノを見ちゃった…と動揺しつつも、車を進めた。すると、前方にバスが停車していた。車線変更したほうがいいか、このまま待つか、少し考えてバスを避けて右側に移動することにした。充分に車間距離があったので、スムースに移動できた。と、安心していたら、なんとバスは発車し、短い距離で同じく右側に移動してきた。そして、信号が赤になった。前がバスなもんだから、前方の信号は見えない。まさか…と、嫌な予感が少しだけした。そう、バスは右にウィンカーを出していたのだ。主人によれば、「右側にいてもいいけど、右折車が前にいたらイライラするよ、待てればそれでいいけど」と言っていた。別に、イライラしなかったのでバスが右折してから、直進しよう!と思っていたら、私がいた車線は右折帯だったらしい…さらに「右折可」の信号が誇らし気に点灯していた。後ろの車も右折したいサインを出していたので、しょうがなく、右折することになった。走り慣れてる主人だったら強引に左車線の先頭の前に入りこんだだろうが、私はもうドキドキのほぼペーパーさんなので、流れにそって行くしかなかったのだった。右折をしてから、どうするか?と5秒くらい考えて、お隣の奥様に「駅からだったら分かるよね?」と尋ねる。急な進路変更で動揺しつつも、「たしか、コッチよ!」と駅の方に車を進めた…が、ロータリーになっていて、戻るしかなかった(笑)そこで、軌道修正を試みた。間違って右折したポイントまで戻って来れたので、そこから進むべき道に出た。それからは、シュミレーション通りに現地に着くことができた。

カットが終わってから、お隣の奥様のご好意でエステ体験をさせてもらうことになった。時計は12時半をさしていたので、お昼を食べてからということになった。歩いてでも行けるが駐車場も広いから車で行くといいですよ、とファミレスまでの地図を描いていただたいたので車にて移動。レストランまでは分かりやすかった。駐車場は…というと、ちょうどお昼のゴールデンタイムとあって、車の数の多いこと。さらに、思ったより駐車スペースは狭くて一回りして、1ケ所駐車エリアを見つけた。駐車しようとするエリアの向いには縦列駐車で車が止まっているし、両サイドの車もかなり隣接してて、切り返し切り返し苦戦していたら右隣のオレンジ色の軽トラック(ガス会社だか電力会社だか)の持ち主のグループが食事を終えて戻ってきたのだった。30秒くらい、彼等はうさん臭そうに(?)早く出してねぇ〜的な感じで私の車を見ていたら、泣きそうになっていた(?)運転手、助手席ともに女性の表情を受け止めてくれて「よかったら誘導しましょか?」と言ってくださったのである!「是非是非お願いします!!」と言って、3人くらいのお兄さんの誘導付きで無事に駐車することができたのだった。さて、車から降りよう!と思ったら右側の軽トラの車が出庫するのに苦戦していた(^^;)誘導してもらってお礼に今度はコチラが誘導しましょうか?なんていう自信はもちろんなかったので降りれる幅ができた時にドアを開け、鍵を閉めた。まあ、お兄さんたちは4人ぐらいのグループだったので、彼等には「どうも、ありがとう」「すみません」という声と頭を下げて私達は食事へと急いだのだった。

エステの気持ちよさもさることながら、もたつく駐車に助けの声をかけてもらったことは、「女でよかった〜」と思わずにはいられなかった。この調子で頑張ろう(笑)


2002年03月06日(水) 以心伝心

電話をかけようとしたらかかってくる、自分が言おうとしたことを相手が言う、そういうことがたまにある。

昨日、高校時代の親友にメールを書いて送ったのだが、宛先不明で返ってきた。共通の友人にメールアドレス変わったのなら知りたがっているってことを機会があったら伝えておいて、というメールも送ったのだが。でもサーバのメンテナンスの関係かもしれないと思い、今日再び送ってみた。けれども戻ってきた。彼女とはしばらくご無沙汰で、最後のメールのやりとりはどんなだったか記憶を手繰り寄せた。たしか、ネットの懸賞やプレゼント企画のHPの紹介をしてくれていたのだが、「そういう紹介の内容のメールは別のメールアドレスに送ってほしい」ということを彼女に言って、彼女は「ごめんね、迷惑かけたみたいで」的な返事をくれていたのだった。やばい、まずい、と思って何だかのメールを送ったと思うのだがそれきりになっていたのだった。そして、今回のメールアドレス不明の通知。

嫌われてしまったか…と勝手な想像をする私。少々、自己嫌悪モードになっていた。そこで、今日、メールアドレス変わったのかをたずねる文章を載せた葉書を送った。重たい気分を引きずりながら、夕方、買い物に向かった。

そして、自宅のポストを開けると…彼女から葉書が来ていた。それには、「新アドレスは○○です。変更よろしくね」と書かれていたのだった。小躍りしながら、玄関を開け、うがいと手洗いだけして彼女の家に電話をかけた。「186をダイヤルしてもう一度…」というトーキーが流れ、指事通りに再ダイヤル。すると、疲れたような男性の声。「あれ?」と思いつつも名字を名乗り、彼女を指名した。「ちょっとお待ちください」と保留音も流されずに1分弱待たされた。どうやら、ご主人だったらしい。受話器からアニメらしき、テレビの声が聞こえていた。彼女には4歳くらいの息子がいるので、一緒にテレビを見ているんだろうな〜と想像しながら、待つ。すると「あの、自分、今、帰ってきたばっかりで、カミさん(?ヨメさん?)探したけど見つからなくて…すみません…」とご主人。5時過ぎだったので、子どもと散歩に出かけたかもしれないし、夕方のバーゲンに行っているという可能性もある(勝手に想像)ご主人には「ハガキ届きました」とだけ伝言を頼み、電話を切った。すぐに彼女の声が聞けなかったのは残念だったが、この小さな感動をメールに綴って新アドレスに送ったのは言う間でもない。

明日は、久々の運転。久々の、美容院。
安全運転しなきゃ┌(・。・)┘└(・。・)┐┌(・。・)┘


2002年03月04日(月) お兄さんとお皿

今日は、午後から銀行に行った。本当は3月1日に済ませたかった“お仕事”だったのだが、タイミングを逃し、今日になった。月曜日は、ただでさえ、何かと忙しい気持ちになるので避けたかったのだが忘れたら我が家の一大事になることなので、意識している内に動いた。

3時前30分ほどの某銀行。以前に来た時は、専用の窓口があって“待ち紙”(お隣の奥様がそう言っておられたのでこう呼んでおくことにする)無しでするっと対応してくれたように思ったので、前もって“待ち紙”を取らずに係の人に尋ねた。すると、「コチラを取ってお待ちいただけますか」と、“待ち紙”を渡された。“待ち紙ナンバー625番”窓口の対応番号はまだ500番台で、20分くらいは待たなければならなかった。“待ち紙”を握りしめ、“待ち椅子”にで我が順番を待つ私。両隣には老婦人がでぇ〜んと座っている。大きな身動き取れずに、軽く人間観察をすることにした。

“待ち椅子”は仕切りこそなかったが、5人くらいの横長タイプで私が着席したのは窓口に近い部分だった。2列目の椅子に座ると、両隣の人間の足場を気にしつつ、「ごめんなすって」と片手で拝みながら申し訳なさそうに席を立たねばならないので、前の列でよかったと少しリラックスする私。実はちょっとだけ臆病なところが私にはある。600番台になると、足など組んで少し余裕が出てくる私。

615番の“待ち紙”ナンバーが呼ばれ、少しだけ動揺する私。615番は痩せ形の、ちょっと内気そうな20代前半と見えるお兄さん。(年下だがお兄さんと呼んでおく)お兄さんは丁寧に会釈をして振り込み用紙のようなのを窓口の女性に渡す。控えのようなモノが“お皿”(ブツブツの付いたお金をのせる器)に載せられた。手続き完了には少し時間がかかるのか、お兄さん控えと何か(?)をカウンタから受け取り再び着席し、何かを待っている様子。ちょっとおどおどしていたのが、お茶目な姿に見えたのでさりげなく、お兄さんの方を見る私。

なんと…手には“お皿”を持っていた。そう、お兄さんは“お皿”ごと持って行っちゃったのであった(笑)その後、巡回している行員に何かを勧められているようだったが照れながら断っていた。でも、お兄さんはまだ“お皿”を持ち続けていた。おそらく、かなり緊張していたのであろう。ハッ!と気づきながらもきまり悪そうにカウンタに“お皿”を持っていくのはカッコ悪いよな…と余計な想像までする私。そんなことをシュミレーションしている内に私の番号は無事に呼ばれた。

あのお兄さんは、あの後どうしただろう?と少し気になりながらも、忙しそうに私は銀行を後にした。


2002年03月01日(金) “オルガンをちっとも弾かなかった先生”

今日は楽器について少し。今、テーマ掲示板に子ども時代の遊びについて取り上げている。「子どもは何歳から何歳までか?」と言われると、社会的、教育的、医学的、精神的にいろいろ区分があるだろうが、今回の遊びに絡む「子ども」の定義はあっさりと流す。

まあ、幼児及び児童と言われる12歳くらいまでとするなら、小学校時代がメインだろうか。小学校6年間の遊びの変化は、人間としての成長の変化とも言える。そこには、関わる集団がいる。例え、一人でブランコに乗って遊ぶ、一人で縄跳びをして遊ぶ、一人でオルガンを弾くとしても、回りは「集団」になる。

私は小学校5、6年の時、音楽係だった。定番の仕事としては、「今月の歌」をクラス皆で歌うためのオルガン伴奏だった。その他としては、教科としての音楽の授業のための準備の先生の助手的なものだ。音楽係は3、4人くらいいただろうか。4人でオルガンを弾く時は2人がペダルを踏む(左右:計2人)、左手の伴奏1人、右手のメロディー1人だったような気がする。本当は1人でだってペダルを踏みつつ、左手で伴奏をズンチャカ押さえ、右手でメロディーを弾くっていうのはできた音楽係の女子たち。まあ、4人っていうのは違ったのかもしれない。でも、そう言う風に弾いたこともあるし、見たこともあった。昼休みは音楽係の職権を乱用し(?)独り占めして弾く姿も珍しくなかった。担任は男の先生で、オルガンが苦手で(?)音楽の時間の6割くらいは、音楽係が「先生」の代わりをしていた。こういうのが許されていた時代だったのかもしれない。

               * * *

大学の単位の一つとして、約10年前に小学校で1ヶ月実習した私。近隣の国立の教育学部では、付属の小学校に実習に“行かされた”らしいが、私がいたところは出身校が原則だった。出身校で実習をするっていうのは、なかなか新鮮だった。私自身が小学生だった時代と何もかも比べた。すっかり立て直された講堂、シンセサイザーが設置されて弱ったオルガンのない音楽室、私の時代にはなかった学内テレビ放送施設。昔とちっとも変わってない遊具施設、なんだかひときわ清潔な職員室の横の来賓用トイレの雰囲気は同じだな、などと初日は思い出と対話したような感じだった。

実習生は、子どもたち(児童)のカッコウの遊び相手となる。幼稚園でも2週間程、実習を体験したが、その時は“人間遊園地”状態だった。体力は幼稚園でも小学校でも同じくらい消耗するのだが。昼休みは前半は、やはり、担当クラスの児童と行動をともにした。でも、一つの集団で一つの遊びをしている訳ではないので、関わり方には気を使うところがある(あたりまえのことだ)

男子児童は運動場でドッジボールやサッカーをし、また、教室で漫画を書いたり、本を読んでいたり、じゃれあっていたり(笑:小学5年生)、女子は、これまたグループが細分化されている時もあれば、まとまっている時もあったり、好奇心旺盛だけど、すぐに飽きてしまうような感じ。でも、今も昔も変わらないと(当時)思ったのは、オルガンを弾いている子がいることだった。低学年の教室でもオルガンを弾いている音がよく聴こえていた。

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無事に実習を終えて、担当の先生に自分の小学校時代の音楽の授業について少し語った。担任の先生はちっともオルガンやピアノを弾かず(ピアノ以外でもギターを弾いたというなら別だが、それさえも…)、音楽係に任せていた、と。「今の教育では考えられない」と言われたのは無理もない話だが、今や“オルガンをちっとも弾かなかった先生”は校長をしているという。機会があれば、訪ねて世間話をしてみたいものだ。ちなみにその“オルガンをちっとも弾かなかった先生”とは今でも年賀状のやりとりをしている。


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