原案帳#20(since 1973-) by会津里花
★表紙へ戻る★  ★#22★  ★#26★  ★セクマイ★  ≪前   次≫   ▲目次▲

2005年03月24日(木) 2月26日Live in 島田の写真・補足


2月26日のライブで。(クリックすると例によってバカでかい画像が別窓で開きます)

(楽器はよく見えないかもしれないけれど)アコースティックベース弾きながら歌っているところ。

ついでだからアコベの写真も載せちゃえ↓

(これは拡大画像なしです)

すこーしずつ、このK.Yairiのアコベに馴染んできている。
弦をマーチンのアコベ用のに替えたら、なんかとってもよく鳴るようになった。
(でも弦の寿命はかなり短かそう)

よくよく眺めていると、なーんかクラシックギターみたいなデザインで、不思議。

2005年03月22日(火) 情報源

@ケータイ

「NHKvs朝日新聞」とか「フジテレビvsライブドア」とか見ているうちに気づかなければいけなかったことに、昨日の「BeGood Cafe」でのきくちゆみさんの発言を聞いて初めてはっきりと気づいた。

マスコミは、自分に都合の悪いことは決して報じない。

だから、NHKの疑惑についてNHKのニュースでは絶対に本当のことがわからないし、フジテレビの経営問題はフジテレビ系列のメディアで知ることができない。

本当のことが知りたかったら、異なる種類の2つ以上の情報源に当たってみなければならないのだ。

アメリカにも、イラク戦争に反対する人は一千万人規模で存在する。
テレビで報道しないからと言って、「アメリカ人は全員おかしくなってしまった」と考えるのは、間違い。

きくちさんに、
「あなたはアメリカの企業に勤めていたこともあったのに、アメリカをそんなに批判するのはなぜなんですか?
アメリカが好きだから?
それとも、嫌いだから?」
と聞いたら
「好きだから」
と即答されて、なんだかほっとした。
もしかしたら、実はわたしもそうなのかもしれない。
もちろん「全部好き」「全部嫌い」と言い切れるものではないだろうけど。
(キリスト教原理主義は嫌いだけどキング牧師は好き、とか
ハードロックは好きでもないけれどジャズは好き、とか
今のディズニーアニメはイデオロギッシュでイヤだけど、昔の作品は好き、とか)

あ、話が逸れた。
とにかく、自分が見聞きしたこと以外の事実が知りたかったら、極力2つ以上の情報源に当たること。

いちおう知ってるつもりでいたけれど、忘れていた。

2005年03月19日(土) 大阪に出かける前に(3月13日の記事UP)

3月13日の記事「水を守るLIVE」をUPしました。

で、これから支度して大阪へ出発!です。

2005年03月18日(金) そうか今日は誕生日だった

「誕生日が同じ人」(ニッセンから来たグリーティングカードより)
フランク永井
横山やすし
奥田瑛二
宮崎俊郎
豊川悦司
芳本美代子
洞口依子
黒柳能生
吉井怜
松本友里
高橋里華

ししまった年の多い男性しかわからない。
あーあ、わたしが男だったらトヨエツみたいな感じになってたかもしれないのに……??

横山やすしも一緒かぁ…… ううーん下手するとそっちかなあ?

奥田瑛二はカッコイイと思っていたけど、実はレイプの前科があるって!?〜〜〜残念ー!ていうかだめじゃん。
(勘違いだったらゴメン)

吉井怜って骨髄移植したんだ。

黒柳能生という人はバンド「SOPHIA」のベーシストだそうで。

いちいち名前検索するのもアホみたいだけど。
こういうことでもないといわゆる「有名人」にあんまり興味持たないので。

わたしはわたしだい!

P.S.
そういえば、フランスの象徴派詩人、ステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé)も、3月18日生まれだった。
翻訳の壁が厚くてわたしには今いちわからなかったけれど、高校生の頃に背伸びして「一生懸命」読んだっけ。

ところで、わたし誰に話し掛けてるの?
「それはもちろん、今これを読んでいる、あなたよ。」なんてアホなことは言いません。
ちょっと夜寝なかったので、ヘンなふうにハイになってしまっていて。

明日から2日間、関西なのに。

2005年03月17日(木) 脆弱な存在

★1: わたしという脆弱な存在



★1: わたしという脆弱な存在

このところ、というか割とずっと、
わたしはこの日記(原案帳#20)にネガティヴなことばっかり書いている。

その一方で、ライブなどでは、ほとんどはしゃいでいるみたいに
「元気に」「楽しく」振舞っている。

このギャップは?

わたしは、一方では
「なんとかして人のためになることをして生きていきたい」
と思っているけれど、もう一方では
「わたしは生きていくのに値しない者なんだ」
とも思っている。

実はこの二つは1枚のコインの裏表みたいなものだ。
わたしはこのままでは、生きていくのに値しない者だ。
罪深く、お荷物で、……自分で自分のことが許せない。

でも、死ぬわけにはいかない、というか、死にたくない、というか。

だから、なんとかして人の役に立つことして
自分がこの世に存在してもいい、と思い込みたいのだ。
自分の存在の罪深さ、有害さを帳消しにするために
……いや「帳消し」になんかはできないけれど
せめてほんの少しでも罪が軽くなるように、と
人の役に立ちそうなことをしたがっているのだ。

今のわたしは「自分のために生きる」ことはしたいと思えない。
けれども、欺瞞に陥ってはいけないと思う。
上のように、自分がどんなに罪深いと思っていても
人間は……ああ、いけない、
また「高いところから見下す言い方」になってしまうところだった……
わたしは、自分を生かすためにしか生きられない。

どんなに理屈つけても、所詮は自分に都合良いように生きているだけ。
理屈そのものから、それは透け透けに見えてるじゃない。
「人のため」なんて言って、自分から目をそらそうとしてはだめ。

わたしは自分の罪深さと向き合う。
そうして、それでもなお、自分のために生きる。

あと、一つだけ……

こんなにネガティヴなことを言ってしまったら
悲しむ人もいるから。
わたしのことをなんとかして認めてくれようとしている人も
いるのだから。
わたしの罪深さを知った上でも。

わたしは、その光を信じたい。

この記事のトップへ
ページのトップへ

2005年03月15日(火) 悪夢

ひどい夢を見た。

夜の雨の中。
怪しい車がたまに通る。
わたしは怯えながら家路をたどるけれど、わたし自身もとても怪しい存在であることに気づいている。

家に帰ると、恐ろしい内容の本がある。
わたしはそれを、燃やしてしまおうと思った。
火をつけると、まるで石炭のように内部に熱を持つ。

あ、まだ他にもすごくやばい本が。
その本も、内側から赤く燃える。

やがて、部屋の中は赤く燃える本ばかりになってしまった。

いけない、これでは火事になってしまう!
急いでバケツに水をくみ、燃える本の真ん中にねらいをつけてぶちまける。
すると、燃えていた本はさらりと灰になって流れてしまう。

何回か流したら、部屋の床は何もなかったかのようにつるりとなってしまった。

危ないところだった。

わたしは深夜のコンビニで、クリームのたっぷり入ったパンを買う……

もっと切迫した雰囲気の夢だったような気がするけれど、もう覚えていない。

2005年03月14日(月)

あほらしい。

ふと気が付けば、自分のみっともない写真を晒したり(お化粧がどうのこうのと低いレベルなのに恥ずかしげもなく!)、「高いところから見下すような言い方」してオヤジっぷりを晒したり、いくら切羽詰っているからって、みっともないったらありゃしない。

2005年03月13日(日) 水を守るLIVE

原案帳#23にも書いたけど、静岡駅ビル「パルシェ」にて『静岡の水を守るLIVE』が開催され、それに出演させてもらった。
当日の写真
せっかく写真撮ってもらったので、ここにもUPしてしまう。(これは原案帳#23とは別の人の撮影)
(画像をクリックすると元のサイズの画像が表示されます……が、かなりデカいです汗)
まあ、つまりその、こんな感じでした。

静岡市の清流がダイオキシン汚染されそうだ、という問題は、この問題にしっかりと取り組んでいる方から聞いた話をまとめると(勝手にまとめるので間違いもあるかもしれません)、だいたい次のような事件のようだ:

・建築解体業者がここ10年かそれ以上にわたって解体した建築物の廃材を「野焼き」して、低温焼却の結果発生する大量のダイオキシンを含んだ焼却灰を藁科川支流の河川敷近くに放置した。

・付近の住民(の一部)が焼却灰の撤去を求めたが、解体業者は廃業してしまった。

・行政に撤去を求めたが、行政はあいまいに業者に「指導」するだけで、実際には撤去は行われず、それどころか焼却灰の上に土盛りをしてごまかそうとした。
(土盛りはとてもいいかげんなもので、雨が降ったら崩れてしまった→それが川に流れ込む?)

・ダイオキシンの濃度は、ある調査によれば三千ppm以上にものぼるそうで、近年騒がれた埼玉県の事件で検出された数値の10倍にもなる。

どうも、行政がまともな指導もせずに事実上放置してしまったのは、解体業者が保守系の政治家とつながっていたこともかかわりがあるらしい。
まあ、それ以前に行政の意識がとても低いレベルにとどまっていて、市民の健康より、自分たちの行政責任を問われたくない、保身を図る一心だと思う。

……ということを、わたしは「自分の問題」だと思ったから、このライブに出演させてもらった。

もう「昔のバンド」になってしまったけれど、Rebeccaの曲「MOON」の歌詞を思い出した。

壊してしまうのは 一瞬でできるから
大切に生きてと彼女は泣いた

意味は違うんだけど、
自然環境がどれほどの時間をかけて今ある姿になってきたか、
そうしてそれを人間がどれほど簡単に壊してしまうか、
わたし自身の行為も含めて考えていきたい。

今のところ日本一面積の広いこの静岡市の市民として、その大半を占める自然を「無駄遣い」してしまうのではなく、本当に共生していけるように、少しでも意識をもって生きていきたい。

2005年03月12日(土) 共存 DA VINCI CODE

★1: 共存
★2: DA VINCI CODE



★1: 共存

家の前にホームセンターができることになり、その用地となる工場跡地の椎の木を伐採することになった。
樹齢40〜50年にまで育った大木が、商売のために簡単にその命を絶たれる。

ちょっと前には、こんなこともあった。
某金融機関の「計算センター」というのがうちのすぐ近所にあって、そこはたぶんセキュリティのためだろう、塀の代わりに1m以上幅のある植え込みを設けていた。
ところが、その銀行はつぶれてしまったらしく(ちょっと記憶が不確か、移転しただけかも)、その建物は新たな借り手として大手ドラッグストアを迎え、物流倉庫として使われることになった。
当然トラックが頻繁に出入りするようになり邪魔だからということで、植え込みは跡形もなく取り払われてしまった。

結局、人が何か新しい建物を作る時、そこにそれまであった「自然」(実は椎の木も植え込みも純然たる自然じゃなくて人の手によって作られたものなんだけど)を尊重したり活用したり、という知恵は働かないことが多いんだな。
椎の木の木立はかなり高くまで伸び、その向こう側に作った建物を隠してしまうだろう。
「景観が悪い」「売り上げにはマイナス」……
ちょっとしたことでも下手すればお店の死活問題になりかねない。

商売上は、ね。

貨幣経済と自然って、相性悪そう。
っていうか、よほど頭良くないと、その地域の自然環境と共存できるかたちで商売を成立させるなんて、考えられないんだろう。
わたしは商売については傍観者でいられる、ある意味ラッキーな立場だけれど、実際に商売やってる人に言わせれば
「そんな余計なことにまで気を回す余裕なんかない!
こっちは遊びでやってるんじゃないんだ」
と怒られてしまうでしょうねぇ……

ちなみに、向かいの工場が解体され、木立も3分の1くらいなくなってきて、最近気になるのは、我が家に対する「風当たりの強さ」。
いえ、世間からじゃなくて、家の500mほど向こうを流れる川から吹き付ける、川風の当たりが、障害物がなくなってきたからだろう、急に強くなってきたのを感じるのだ。
これは、数年前に家の前が広い道路になった時にも感じたんだけど、更に強くなってきたような気がする。

でも、こういうことって、誰かにどうにかしてもらえるものでもないから……

こうやって「砂漠化」が進行していくのかなあ……

この記事のトップへ
ページのトップへ



★2: DA VINCI CODE

いや、まだ読んでないんだけどさ。

テレビでダ・ヴィンチ・コードにまつわる番組やってて。

「イエス・キリストにはマグダラのマリアという妻がいた(そうして子どもをもうけた)」

……そう言われると、突然キリスト教の世界が色彩を帯びてくるような気が。

キリスト教の記述には、確かに男性中心主義と思われても仕方ないような言葉が多い。
まあそれは、キリスト教というものの存在がはじめから持つ限界かもしれない。

限界……それは「政治」。
古代には宗教と政治の区別なんかなかった。
そうして、政治が当然のように戦争と不可分だった時代、その主な担い手が男性中心になってしまうのも、仕方なかっただろう。
聖書の記述は、たとえ神さまの言葉を記したものであっても、その時代の「常識」を抱えた人間の頭と手を通じて書かれたものだ。
「聖書の言葉は絶対」という考えは、ともすれば不正な戦争を正当化するブッシュのような過ちをただすこともできない。

わたしにはなんの根拠もないけれど。
イエスは決して男性中心主義に囚われてなどいなかっただろう、と思う。
神さまは絶対だ。
全知全能にして無謬の神さまの、そのひとり子であるイエスが男性中心主義などという過ちを犯したはずがない。

そうだ、たった一つだけ、わたしがそう思っても良いと思える証拠があった。

イエスは「神の国」を作ろうとする活動の中で、ただの一度も武力や戦争に頼ったことがなかったのだ。
(それは決して記述した人間の「常識の限界」なんかじゃなかった)

このたった一つの事実をもって、イエスが男性中心主義に冒されてなどいなかったと断言していいと思う。

結局は人間の愚かな罪のせいで、イエスは地上に神の国を作るどころか処刑されてしまうのだけれど、それこそがわたしたちの希望の光に他ならない。
神さまはその一部始終をごらんになりなから、決して「神の軍団」を差し向けて武力でイエスを救ってしまおうとはしなかった。

わたしたち……いや、少なくともわたしは、この事実に学び、従って生きていきたい。

あらら、レオナルド・ダ・ヴィンチの話だったのに。
(彼の姿に、なぜかセクシュアルマイノリティの雰囲気を嗅ぎとってしまうのはなぜ?)

この記事のトップへ
ページのトップへ

2005年03月10日(木) 1億6千万年

よく
「人間も恐竜と同じように滅んでしまうのか、
それとも生きながらえるのか」
という言い方を聞くけれど。

人間は、まだたった数万年しか存続していない。
一方、恐竜は1億6千万年も繁栄した。

人間が、もしも恐竜と同じくらい存続することができるとしたら、それはもう身に余るほどの幸せなのでは?

今のままじゃ、あと何百年もつのやら、と、つい思ってしまう。
っていうか、こんな生き方しているのにそのまま生き延びるとしたら、それはなんだかとても恐ろしいことのように思われる。

とりあえず、わたしが生きている間くらいはもちそうだし、その先のことなんてぜんぜんわからない。
子どもの世代くらいまでは、もってほしいけど。

姿を変えずに存続するのは、いったいどれほどのことか。
変わっていくことを肯定的に考えられるようになりたい。
だって、生き物なんだからさ。人間も。

2005年03月04日(金) 今日こそ早く寝る!

★1: 戦い・消耗……
★2: シェア



★1: 戦い・消耗……

このところ、調子が悪い。
といっても、原因は相変わらず自分で作っているだけなんだけど……

わたしは自分と戦わなければいけない。
でも、かといって「自罰」に走ってはいけない。
そりゃあ、おまえ(=里花)は人に言えないような悪いことをしたのかもしれない。
生きていく中で、いろんなことがあったからねえ。
それを人に言えば、間違いなく「おまえは悪い奴だ」と言われるでしょう。
けれど、けれどもね……

それを安易に人にバラしてしまい、
それで非難されるのに甘んじることで、
実は自分を甘やかしてはいないか?

黙って引き受けるべきではないのか?

けれども、それでは「なかったこと」になってしまうだろうに……

どうすればいいんだろう?
消耗してしまう。

この記事のトップへ
ページのトップへ



★2: シェア

わたしが自分の「罪」を語らなければならないのは

そうしないと自分の罪に自覚のないまま
押しつぶされてしまいそうだから。

自分が何をされて、何をしてしまったか、
わからないままになってしまいそうだから。

理由もはっきりしない「罪悪感」だけに苦しめられ、
そこから逃れるために先回りして自分を悪者にして
本当のことは結局わからないまま、というのでは
まともに生きていくことはもうできそうにないから。

既にだいぶ「鬱」に取り込まれていて、
生きる機能が低下しているのを
自分でも感じているのです。
ほとんど「生活してない」し。

わたしはなんとかして
生きていきたいのです。

この記事のトップへ
ページのトップへ


★表紙へ戻る★  ★#22★  ★#26★  ★セクマイ★  ≪前   次≫   ▲目次▲