原案帳#20(since 1973-) by会津里花
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2004年02月25日(水) どうしたの? わたし

どうしちゃったんだろう、わたし?
世の中が止まって見えるよ
色がなくなっているよ
大好きな漫画が読めないよ
自分が好きじゃなくなっていくよ

いったい、何が原因なんだろう?
よーく考えてみよう

ああ どうしよう!
思い当たる原因が多すぎて
一つにしぼれない

どうすればいいんだろう、わたし?
心に重くのしかかることから離れて
心地よい景色でも眺めましょうか
それともこのまま目を閉じて
しばらく眠っていましょうか

どうしちゃったんだろう、わたし・・・

2004年02月20日(金) 宿題、できた。

宿題、できた。

鬱、少し改善してる。
それは、薬の問題だけじゃなくて、コミュニケーションと関係性の問題の改善によるところが大きい。

それと、本読んで泣いた。(原案帳#22参照)
涙は心の自浄作用。

2004年02月18日(水) 宿題

★1・宿題



★1・宿題

ううー、どうしよう。
いつものことながら「宿題」がやってない。
実はGID研究会の「シンポジウム」で「一般演題」として発表をするのだけれど、
その内容がぜんぜんまとまっていないのだ。
ここ1年ちょっとの間にいろんなことをしてきたし、いろんな人のお世話になっている。
その中のどの部分を強調すればいいんだろう……?

あ。
こういうのは素直に書いてみるものだ。
「どの部分を強調して」? いーじゃん、全部言っちゃえば。
時間が限られているから、ある意味「抽象的な言い方」をしなくてはならないところもあるだろうけど、
わたしは全ての人への「感謝」を口にすればいいのだ。

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2004年02月16日(月) Affirmation

IFF(家族機能研究所)〜西尾和美「今日一日のアファメーション」より

自分は生きるのに、あたいする人間です。
自分は、自分のままでいいのです。
自分は愛するに、あたいする人間です。
自分は、自分の居所をつくっていいのです。
自分を、うんと好きになります。


2月16日 目標に到達する過程

 自己の目標に到達することは大切なことですが、それ以上に到達するまでの過程も大切なことを学びましょう。

 目的さえ達せればどんな手段をとっても良いということはありません。目標に達するためのプロセスを大切にしましょう。

 たとえば子どもが、おもちゃをあちこち出しっぱなしにして、もとの所へきちんと返さないという場合、大人が自分でかたづけてしまえば、おもちゃを箱の中へしまうという目的は達成できるわけです。しかしそれでは、子どもが自分で責任を持ってかたづけるということを学べません。あるいは親が子どものおしりをたたいたり、怒鳴ったりすれば、子どもはおもちゃを箱の中にしまうかもしれませんが、残念ながら、これはコントロールしたり、怒鳴ったり、たたいたりすることを子どもに教えることになってしまいます。

 時間はかかっても話しあいをしたり、子どもと一緒にもう一度始めからやりなおしをして、整頓の仕方を教えたりすれば、自分の行動に責任を持つことを子どもに教えられます。

 目先の目標にとらわれないで、その過程がどういう影響を人に与えているかを見てみましょう。

2004年02月15日(日) 「記念日」(忘れてた)

昨日はバレンタイン・デイ♪ チョコレート大作戦だいっ! ……などとお気楽なものではなくて。
(もちろんチョコレートは当日会った人みんなにあげたよ!男も女も関係なく)

実は。
「2月14日」というのは、わたしにとって決して楽しいとは言えない「記念日」なのです。
あまり言いたくはないかも。
だって、言ってしまったら「なんてひどいことを」と言われるようなことをしたから。

4年前のこの日、わたしは当時結婚していた人との離婚を、なかば強引に実行してしまったのだった。
それ自体が暴力だった、と今は思う。

それまで彼女はわたしを受け入れられるかも、と思っていたようだった。
でも、わたしは彼女がわたしを「裏切って」実家に帰ってしまった、ということにとても傷つき、困ったことに「仕返ししてやらなければ気がすまない」と思っていたのだ。

結果、彼女はたぶんわたしの思惑以上に傷つき、わたしとの接触を避けるようになった。
わたしがどんどん女性化していくのを知れば知るほど、「会いたくない」「子どもと会わせるわけにはいかない」と言うようになり、ついには「もう一切連絡をしてこないで」と言うようになってしまった。

当時のわたしは自分がどれほどひどいことをしたか、無自覚だった。
でも、主にインターネット上で「被害者」と呼ばれる人たちの声を聞いているうちに、少しわかってきた。

今は自覚があるので、「なんとひどいことをしてしまったんだろう」と後悔と懺悔の気持ちが沸き起こる……けれど、だからといってそのために何かができるわけではない。
少なくとも、たとえば直接彼女に対して
「ごめんなさい。
わたしがしてしまったことに今は自覚があります。
心からあやまりますから、どうか許してください
などと言うことは絶対に許されることではない。

もしもわたしにできることがあるとしたら、それは、
わたし自身が誰であれ他人に対して暴力的・攻撃的でない関係性を持つことを努めること、
わたしが気づいたことを、正しいことがらであればできるだけ多くの人々に伝えること(ただし、彼女や子どもに直接伝えてはいけない)
くらいではないだろうか。

ちょっと前に「前向きの後悔」ということを書いたけれど、「2月14日」という「記念日」に思い起こすこともこれと似ていると思う。

で。

あるところで「離婚」について混乱したことを書いてしまった。
「加害者が被害者にしてやれるのは離婚して相手を手放してやること」
「わたしは暴力行為として離婚をした」
と両方書いたけれど、どっちが本当?
これじゃわからない。

と、書いていた時には、実はこの「記念日」のことをすっかり忘れてしまっていたのだった。

ちょうどたまたま、この日(14日)までの3、4日+その前の準備期間も含めれば1週間くらい、ライブが続いてばたばたと忙しく、
(それについては会津里花公開スケジュールをご参照ください)
そんな中で「理由のよくわからない抑鬱感」に苛まれても、それが実は(全てじゃないにせよ)「記念日」を引き金としている、とか
上に書いたように「離婚」について混乱したことを書いたのも、どうやらこの日を無意識に念頭に置いていたからかも、とか
そういうことをぜんぜん思い出すことなく過ごしてしまっていた。

わたしのレパートリーの中に『Dreamer―夢見た人―』という曲(小川ロン・作詞作曲)があるが、その中に

<♪思い出すことなく 忘れることなく
 胸にあなたの Last, Last Call そっと しずめたい・・・>


という歌詞がある。
たまたまだけれど、ちょうど「思い出すことなく、忘れることなく」という状態にあったのかもしれない。

そういう中で、ライブをこなすことができた。

それは、わたしにとって心強いサポートをしてくれる人がいるから、ということも、忘れてはいけないだろうと思う。

おかげさまで「記念日鬱」は回避できた……っていうか、なりかけたけれど立ち直った、というか……と思う。

ありがとう。

2004年02月12日(木) わたしにできること

★1・わたしにできること



★1・わたしにできること
  (それはわたしがかつて被害者だったということを自覚すること)


わたしにできることはなんだろう。

歌うこと。
GIDの活動をすること。
英語を教えること。
愛すること。
……

というのは、前に書いたっけ。
今わたしが問題にしているのは、「被害者」「加害者」としての話。
わたしがしょっちゅうごっちゃにして苦しんでしまうのは、
「わたしは被害者だったけど加害者に転化してしまった」ということ。
わたしにとって「同じ根っこ」「地続き」と感じてしまっているのだけれど、どうもそれは危険なことらしい。

わたしは自分の被害に無自覚だったとき、加害者に転化してしまった。
でも、自分の被害に気付いてからは、たぶん攻撃的なところはずっと減ってきたと思う。
……いや、攻撃性は変わらないのかもしれないけれど、それを他人に向けることが少なくなってきた、と思う。

で。
他人から攻撃されたり、攻撃的な言動を見たり聞いたりしてしまうと、わたしは怯える。
怯えると、余裕がなくなって、どうやらそれでまた自分の攻撃性がコントロールできなくなるようなのだ。

そして、それについて思うこと。
きっと、そういうときには自分が被害者だった、ということを忘れてしまっているのではないか。
わたしは、自分が被害者だった、ということを、もっとちゃんと受け止めなくてはいけないのではないだろうか。

今までは、それが「悲劇のヒロインの真似」だと思っていた。
けれど、わたしはむしろ加害者になってしまった、ということのほうがずっと「悲劇性」が強いような気がしてきた。
「加害者ぶる」ことのほうがよっぽど「悲劇のヒロイン」っぽいのでは?

自分を悪者に仕立て上げて、誰からも非難されるわたし。
誰にもわかってもらえず、一人っきりで苦しむわたし。
苦しみの結果として他人との関係性がうまくいかなくて、でもそれについても誰もわかってはくれず、
ただただ「おかしなやつ」とだけ思われているわたし。

それこそが醜悪な「悲劇のヒロインの真似」なのでは?

わたしは、自分が加害者だったということと、被害者だったということを、はっきり分けてしまおうと思う。
それはもしかしたら、今までずっと、その二つをくっつけてセットにして考えてきたからこそ
できることなのかもしれない。

でも、もういい。
わたしは自分の被害を嘆く。悲しむ。加害者を憎む。
そうして、そのことによってはじめて、わたしは自分自身が再び加害者になってしまわないよう、
自分を適切にコントロールできるようになるのだ。

わたしは、過去の自分、
……それはわたしにとっては「男のフリをしていた頃の自分」ということに他ならないのだけど……
加害者だった自分を憎む。
自分も被害者であったことに無自覚なまま、
自分がされたのと同じようなことを他人に対してさんざんやってしまった。
わたしは、そういう自分を許さない。できれば一切なかったことにして、葬り去ってしまいたい。
でも、それが過去の自分なのは事実。

わたしにできること。
それは、被害を忘れて過去の自分のように加害してしまう人間に堕落することを、
常に引き止めておくことだ。

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2004年02月10日(火) Anyone to help me -- again!

誰か わたしを 助けてよ
わたしは 人に 抑圧的な態度をとった
そのことは憶えている 忘れられない
なかったことにはできない

けれど わたしだって 苦しむことがあるの

2004年02月09日(月) 前向きな後悔 CAP人権ワークショップ@静大

★1・前向きな後悔
★2・遅い告知ですが



★1・前向きな後悔

わたしは後悔しています。
かつてわたしは「男性」としてある「女性」と結婚し、子どもをもうけ、家族として共に幸せになりたいと思って生きていました。

でも、それは残念ながら解体してしまった。
わたしが壊してしまったのです。

わたしが自分のことや大切にすべき人たちのことを、もっと正しく考えることができたら。
この社会が抑圧支配や暴力にまみれていることに、どうやって立ち向かえばよかったのか、もっと早く気付いていたら。

わたしは、かつて自分がそれらのことに気付かず、悲惨な迷走をして周囲の人々を傷つけてしまったこと、
自分自身を正しく見つめてやることもできずにひどい自己否定の中で自分を育ててしまったこと、
そういうことについて強く後悔しています。

でも。
後悔の涙に呑まれて生きる力を失いたくない。
後悔しているのは気付いたからできるのだ、ということを忘れてはいけない。

わたしはこれらの後悔を、前向きのエネルギーに変えてしまおうと思います。

わたしが歌うこと。
わたしがGIDの活動をすること。
フェミニズムを学ぶこと。*
(自分自身の過去も含めて)DVと対決すること。
お金を稼いで自分の生活を成り立たせること。

これらのことを、わたしは大切な自分自身のために、大切な人たちのために、
できる限りやっていきたい、と思うのです。

*今まであまり触れてこなかったこともあって、わたしが唐突に「フェミニズム」という言葉を持ち出したことに違和感を持つ人もいるでしょう。
あえて「フェミニズム」などという看板を掲げる必要もないかもしれないけれど、抑圧支配や暴力のない社会を目指すこととわたし自身が後悔していることは多くの面で重なり合っています。
なので、あえて「フェミニズム」という言葉を使うことにもチャレンジしてみました。

とは言っても、まだほとんどわかってはいません。
本を1冊読みかけているだけです。
↑『フェミニズムはみんなのもの』(bell hooks・著、堀田碧・訳、新水社2003年)
きっと原文はポップで楽しい口調で書かれているのだろうけれど、そこまで的確に表すための日本語を探すのは至難の業なのでしょう、やや硬い調子で訳されていて、ちょっと「同じことを何度も」という印象があります。
そのせいで読むのが遅くなってしまうみたいだけれど、書かれていることは、わたしが言いたいのとほぼ同じことだと思います。
っていうかわたしが言いたかったことがことごとく言語化されている、というか。

21世紀は男性こそが解放され、救われなければならない時代なのだろうと思います。
余計なお世話? いいえ、40年近く男性として生きることを自らに科していたわたしの、これは実感なのです。


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★2・遅い告知ですが

うう〜〜、しまった、もっと早く告知すればよかったのに。

(以下転載)-----------------------
 静大での笹沼の授業「人権概論」で静岡CAP連絡会の皆さんをお招きしてワーク
ショップを開催します。CAPとは子どもの虐待防止プログラムのことで、寸劇をと
りいれ人権の核にある理念、「安心・自信・自由」をまさにすとんと心の底に入り込
んでくる形で実感させてくれるものです。子ども向けとして開発されたワークショッ
プですが、わたしは大人向けにこそ威力を発揮するものだと思っています。
 平日の日中で恐縮ですが、ぜひお越しください。

日時 2月9日(月)
   12:45〜14:15
会場 静岡大学教育学部G棟104教室
入場無料、予約不要


車でお越しの方は守衛所にて教育学部の笹沼に面会とご記入ください。

-----------------------(以上転載)


今からでも、たまたまヒマな人、おいでくださいませ。

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2004年02月05日(木) 書けない

書けない…… と、書いてみるテスト。

GIDしずおかのHPも更新できていない。
他にも、あれやらなくちゃ、これやらなくちゃ、ということがいっぱいたまってしまって、収拾がつかない。

以前のように、ただ愚痴だけで長々と書くような気にもなれない。

うーん、どうしよう。


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