見つめる日々

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2005年07月30日(土) 
 気がつけば徹夜二日目。前に眠ったのはいつだったろう、と思ってもうまく思い出せない。そんな不規則な生活を送っていながら、私の体は結構元気だったりする。
 さっき鶏の雄叫びが聞こえた。もうそんな時間なのかとカーテンをめくり外を見やる。そういえば昨日のこの時間は、Mと喋り倒していたのだった。そして、不意に闇色薄くなり出した空を、二人でじっと見つめていた。
 何が合図だったのだろう、よく覚えていない。でも私たちはまるでそれが当たり前であるかのようにそれぞれ立ち上がり、必要なものだけを鞄に詰め込んで玄関を出たのだった。闇色は、一度薄くなりだすとあっという間に消えていってしまう。私たちは、その消え行く闇色を追いかけるようにして走り出した。間に合うか、間に合わないか、そんなことは分からない、走りきってみなければ分からない。だから私たちは走る。
 辿り着いた草の原は、視界一面、薄くけぶっていた。コンクリで固められた階段の、最後の一段を踏み下りた私たちの足に最初に触れたものは、小さな小さな粒の朝露。あぁ、土だ、私は急にわくわくし始めた。その瞬間、東の空が灰白く割れた。
 闇色が去りその色とともに去った夜を押し出したのは、朝の光だった。湿っぽい風が私たちのうなじを滑ってゆく。
 一歩歩くごとに、私たちの足は朝露に濡れ、気がつけばもう靴はよれよれ。裸足になった彼女に、私はカメラを向ける。ただそれだけ。
 時に追いかけ、時に後ろに回り、時にべしゃんと倒れ込みながら、私たちは朝の最初の光の中で淡々と息を吸っていた。吸い込むほどに、濡れた緑の匂いが私の体をほぐしてゆく。彼女はどうだったのだろう。ふと見上げると、すぐ隣で、薄い口紅をひいた彼女の唇が、朝の陽光をきらきらと反射させていた。
 朝の柔らかな陽光はあっというまに消滅する。気づけば私たちの足元から影が伸び、動くたびに交叉した。その間にも陽光は、残酷なほど世界を滅せさせる強烈な光線へと変貌するのだった。そして気づく。あぁ、朝露が死んでゆく。そのことに。
 草の原をいっぱいに覆っていた朝露は白熱する太陽に次々焼き殺される。そして、白い光の炎を追うのは熱気を帯びた風なのだった。私は息を吸おうとして思わずあっと口を覆う。思い切り吸うと光線と風とでこの喉が焼け爛れそうな錯覚。
 あぁもう朝は終わった。私とMはどちらともなく草の原にしゃがみこみ、ぼんやりと宙を眺める。どちらともなくお互いに視線を交わす。そしてちょっと笑う。彼女が着てきた白いスカートは裾が濡れ、あちこちに土色の染みが浮かんでいる。私はといえば、Gパンの膝から下、そしてお尻と背中が草だらけ土だらけ、そしてもちろん靴も濡れ放題で、靴の中の私の足は染み込んできた朝露で実はもうすっかりぐしょぐしょなのだった。
 彼女の裸足の足の裏が乾くのを待ち、私たちはゆっくりと立ち上がる。帰り道はあっという間。バスに揺られてことことと。

 今、窓の外はまだ闇色だ。でもあと15分もすれば、闇色は薄れ始める。そして駆け足で去ってゆく。代わりに現れるのは多分今日も朝の光。朝の匂い。そして夏の朝はあっという間に死に逝き、顕わになる街の輪郭。世界の輪郭。強烈に焼き込んで黒と白ばかりで覆われた世界。黒と白との間の灰色は、そこにはもう、ない。
 さぁ、横になろう。眠れなくても横になろう。横になりながら見つめていよう。闇が割れ朝が来る様を。そしてその朝を凌駕して真昼の白線が街を焦がしてゆく様を。
 そして私はまた、今日を生きる。


2005年07月27日(水) 
 台風の通り過ぎた後の今日、日差しはまるで燃え盛るかのようだった。あまりの日差しにぐったりとなった薔薇の樹や朝顔の葉々、そして街路樹の枝々が、一日中ゆらりくわりと風に嬲られていた。ベランダから見下ろすと、アスファルトから立ち上る熱気で、視界がくらりと歪んだ。これが、夏、だ。
 そして今、窓の外に広がる空には、切れ切れの雲。そしてちらちらと光る星が幾つか。風はまだ時折強く吹いて、街路樹の葉が裏返る。街路樹はいつものように、そこに在る。
 この十年あまり、薬を飲み続けてきたけれども、副作用に悩まされたことは、さほどなかった。確かに、仕事の最中に眠くなってこっくりこっくりし社長に怒鳴られっぱなしの毎日を過ごした時期もあったが、薬がもとで吐き気を催したりといったことは殆ど経験がない。しかし、ここに来て、いきなり副作用に見舞われた。その薬を服用して間もなく、食事をしていなくても勝手に体重が増えてゆく。これには驚いた。その増加の速度はあまりに速く、私は恐怖さえ覚えた。予想もしなかったことにうろたえて、電話をくれた友人に一度当り散らしてしまったほどだった。
 薬のことを改めて調べ、主治医に相談し別の薬に変えてもらったものの、パニックの気配を感じるとつい手が伸びてしまう。なぜならその、私に副作用を与えた薬がとても即効性のある代物だったからだ。今のうちにこれを飲めばパニックを回避できるかもしれない。そう思うと手が伸びる。でもそこで我慢する。もうこの薬は飲まないんだと自分に言い聞かせる。その間中、体がぶるぶる震える。これ以上副作用に悩まされるのは嫌だと自分に何度も言い聞かせる。そして私は急いで袋から錠剤を出し、水で流し込む。悪寒が指先からさぁっと背筋へ走る。耳鳴りがする。視界が揺らぐ。でももうあの薬は飲みたくない。飲みたくないけれど飲みたい。飲みたいけれど飲みたくない。右と左を私は振り子になってぶんぶん揺れる。
 ようやくパニックを過ぎて呼吸が落ち着いてきてから、ぽろりと涙がこぼれる。一体なんで、どうしてこんなことを毎度毎度やってるんだろう。自分に嫌気がさす。でもここで自分を放り出したらそれで終わりだ。こういう自分にとことんつきあってゆけるのは自分自身しかいないのだから。
 橙色の街灯の明かりの輪。その明かりの輪の中で揺れる街路樹。目で捉えることの叶わぬ風が吹き続けている。傷跡ですっかり埋まった左腕を私は夜へとそっと伸ばしてみる。この夜の中なら、私のこの傷跡も闇色の中で息を潜める。あまりに切り過ぎて、腕の内側の皮膚は黒く変色している。でもこの闇の色の中なら、そんな黒ずんだ皮膚も溶けてゆく。
 つい先日、体格のいい男性に胸元をこれでもかというほど抑えつけられた。それはほんの一分か二分くらいのことだったはずなのだが、あまりの力に私の気道は締め付けられ、呼吸が止められてしまった。あぁこのまま呼吸ができなくなって死ぬのかもしれないと遠のいていく意識の中で思ったとき、猛烈な勢いで恐怖が私を襲った。いやだ、今のままで死にたくなんかない。でも、身動きひとつ叶わない。あぁこれが、男と女の差なんだ、男の力と女の力の差なんだ、と、ぼんやり思った。しばらくして男性の腕が私の体から離れた後、私は崩れ落ち、ずいぶん長いこと咳き込んだ。咳き込んでいる間中、私は自分が死ぬことを考えていた。結構あっけなく人間なんて死んでしまうものなのかもしれない、とも。さっき浮かんだ恐怖があっけなく萎んでしまうほど、私は呆然と、ただそのことを思った。
 そして、痛感した。こんな弱い腕であっても、相手の体を押しのける力のひとつも持たぬ腕であっても、私はこの自分の腕で自分を生かし、そして、愛する娘を守っていかなくちゃならない。そのことを。それがどんなに頼りなくても。
 いつの間にか窓の外浮かんでいた雲たちは姿を消し、星だけが変わらず、そこで瞬いている。世界はただ静かにじっと、ここに在る。


2005年07月20日(水) 
 ひとりぼっちの夜。窓から流れ込んでくる静かな夜風。物思いにふけるにはうってつけの時間。今私に在るのは、そんな時間。
 ふとしたときに思う。人はどうして、幸せになりたいと思いながら不幸せな方へ自ら走っていったりするんだろう。もっともっと、と願うあまり、今の幸せを省みることができない。これでもかこれでもかと求めるあまり、足元に広がる深淵に気づかず足を踏み出し真っ直ぐに落下する。これじゃぁ自殺と間違われても仕方がない。
 むしろ、幸せをぽいっと放棄し、両手両足をだらりと垂らし、幸せになることなんて諦めてしまった先に、希望が芽生えていたりする。そして私たちはそこでもなお、幸せを摘み取るのだ。せっかく咲いた花をあっけなく摘み取るのだ。幸せになりたいと歌いながら。
 日常のあちこちに潜んでいる幸せの花。私たちは一生に一体幾つの花芽を摘み取って道端にぽいっと放っていることだろう。今こう書いている私自身、きっと、もう、数え切れないほどの夥しい花芽を踏みつけにして、多分きっと、ここに在る。
 だから私は慌ててしゃがみこみ、もうずたぼろになった花を拾い上げては申し訳なさに暮れるのだ。
 じゃぁどうやったら、踏みつけにしてしまう前に気づくことができるのか。その花芽を愛でることができるのか。
 ゆっくりゆっくり歩くことだ。世界をゆっくり呼吸して、風のように、足元や頭上を時折覗き上げて、そして、今自分がいる場所を、世界を愛することだ。それに尽きる。
 今に満足したら、次はないと思え。昔、そんな言葉を言っていた教師がいた。確かにそうとも言える。このとてつもない競争社会にあって、「ゆっくり」なんてものを手にしてしまったら、そのまま落ちこぼれになるとも限らない。
 でも。
 競争なんて、人間が作り出した囲いの中の一産物だ。世界を区切って囲って、どんどん自分の大地を狭くしている。
 私は。
 私はもうすでに、社会の落ちこぼれだ。その昔、集団の先頭をきって走っていた私は、今はもうすっかり影を潜めている。代わりに私が手に入れたのは、あっちこっち転びながら、切り傷を作りながら、それでも諦めずに歩き続けてゆくしぶとさだ。でも、所詮、負け犬の遠吠えに過ぎないのかもしれないけれども、これはこれで面白いなと思う。こういう歩き方もあったのか、と。それだけで私の世界は、二倍三倍に広がった。
 人は戦わずには生きられない生き物だ、と、これもまたその昔、誰かが言っているのを聞いたことがある。本当にそうなのだろうか。確かに、目に見える明らかなる戦争という形だけでなく、戦い争いなんてものは、誰の心の中にもある。一分一秒余白を生むことさえなく、ただひたすら戦い続けて生きてゆく人もいる。それに慣れてしまって、戦いから手を引くタイミングを術を、すっかり失ってしまった人もいる。なら自分はどちらを選ぶのか。
 私はできるだけ戦いから遠いところで生きていたい。ずるいかもしれない。弱虫かもしれない。でも、私は、もっと世界を深呼吸していたいから、だから、それを阻害するものは放棄する。そのせいで或る日突然爆弾が落っこちてきて、一瞬にして死ぬ運命にあったとしても、私は、戦いを放棄することを選ぶ。
 ひとつ諦めた先に、二輪の花が咲いていた。
 ふたつ諦めた先に、四つの花が咲いていた。風にそよそよと首を揺らすかわいらしい花が。
 私は。
 そんなふうに、たかが雑草かもしれない花を愛でながら歩くことの方をこそ、やっぱり選びたい。
 さっき、西の遠い街に住む友人が、受話器越しに笑っていた。さっき東の街に住む友達が声を殺して泣いていた。そんな、人々の泣き声も笑い声もどちらも、私は抱きしめたい。戦いで流れた血を糧にするのではなく、日々の営みから漏れ聞こえてくる人々の匂いをこそ糧にして。そうして生きていきたい。

 私はまたひとつ、今日を越えた。時計を見つめ思う。さっきまで明日だった未来が今日になり、さっきまで今日だった時間が過去になり。そうして私は歩く。歩き続ける。


2005年07月13日(水) 
 朝、街はすっかり灰色の雲に覆われている。開けた窓辺に立ち、目をじっと凝らすと、細かい細かい霧のような雨が舞っている様子が見てとれる。ベランダに出て私は道を見下ろす。細かな霧のようなこんな雨でも、路上を黒く濡らしている。ベランダの手すりにつかまり、顔を空に向けて背中を思い切りそらしてみる。微かに感じ取れる雨の粒。私はしばらくそうやって、顔が微かに濡れてゆくのを楽しんでみる。
 実家に電話をし、娘に代わってもらう。いつだって彼女は一番最初に「まーまーたーん」と大きな大きな声で言うのだ。だから私も返事をする。「みーうーたーん」。最近、私はお迎えの時間になると彼女を迎えに出掛けている。迎えに行き、彼女を抱きしめて、実家へと送る。それが今の私の仕事のひとつ。リハビリのようなもの。
 駅までの道、駅から電車に乗り込んでからの時間、私たちはひっきりなしにおしゃべりをしている。今日はこんなことがあっただとか、昨日はこんなことがあっただとか。ふと思う、一緒に暮らしていた頃より、今この一緒に過ごす短い時間の方が、もしかしたら濃密かもしれない。そしてあっという間に実家の最寄り駅に到着し、私は彼女を抱っこかおんぶかをして階段を上がる。しんどいけれど、彼女の重さを否応なく感じるその行為の中で、彼女がこの数ヶ月間、私の知らないところでどんどん大きくなっていっていることを実感する。改札口にたどり着くと、向こうでじぃじが待っている。私は彼女をもう一度抱きしめ、じゃぁまたね、と言う。彼女もうんと返事をし、そして彼女は改札口の向こう、待っているじぃじのもとへとゆく。手を振ってバイバイをする。私は彼女らの姿が消えるまでじっと改札口に立っている。そんな毎日。
 できることからひとつずつ積み重ねてゆく。それは辛抱の毎日だといってもいいかもしれない。こんなちまちましたことを丹念に繰り返しているくらいなら、いっそひとっとびに無理矢理ジャンプでもしてしまった方がいいんじゃないかと思う。焦りのような気持ちが私の中で暴れている。でも、ここまできて焦ったって何にもならないということも分かる。だから必死に辛抱する。今の私は、ひとつひとつ積み重ねて、それを強固にしてゆくことが大事なのだと、自分に言い聞かせる。私の大地をしっかり固めなければ、彼女とこの先歩いてゆくためにもしっかり固めなければ。そう思いながら繋いで歩く彼女の小さな手を、私は時々ぎゅうっと力を込めて握る。そして、この手を決して離してはいけない。心の中でいつだって彼女と手を繋いでいたい。そう思う。ひとつひとつ。一段一段。できることを積み上げる、その行為がこんなにも辛抱を要するなんて、そういえば私は全然知らなかったな、と思う。心の中で繰り返す。辛抱辛抱、今は辛抱。自分でも苦笑してしまうけれど、私はあまり辛抱ということをしないで人生を過ごしてきたんだなとつくづく思う。

 ぼろぼろになっていた薔薇の樹の一本が、いつの間にか再生して、幾つもの蕾をつけている。また、薔薇の樹のプランターの中で、去年娘が植えた朝顔から毀れたのだろう種が芽を出し、棒を立ててやるとそこに絡まって、今、空に向かってぐいぐい伸びている。植物のこうした姿を見るたび、私は、沈黙の意味を知る。孤独が決してつまらないマイナス的な代物ではないように、沈黙もまた、必要な、大切なことのひとつなのだと。
 そうして今日も一日が始まる。窓際ではやさしい霧雨を受け止めながら、緑がちろちろと揺れている。


2005年07月08日(金) 
 昨夕、家に辿り着くなりばたんきゅうした私は、何度かその眠りの途中で電話を受けたらしい。しかし、まったくもって情けないことに、一体誰からの電話だったのか、一人の名前しか記憶に残っていない。ついさっきも「昨夜電話したんだよ」と友人から電話があった。覚えていない私は、ただただ平謝りである。それにしても、どうして自分が突然そんなにも眠りを欲したのか、不思議でしかたがない。
 そうして今朝、さわやかな冷気が開け放した窓からするすると滑り込んでくる。部屋の中を風が渡ってゆくさまに身を任せているのは、実に心地がいい。だから私はいつまでも、この窓際に佇んでいたくなる。

 これは多分、今、頭が冷静だから思えることなのだと思うが。
 本気で死のうとしている人を止めることは、多分、よほどのことがないかぎり不可能だ。どんなに心身を尽くしてその人を守ろうと思ったって、その人から死を覆い隠してしまおうと思ったって、所詮生きているちっぽけな人間ひとりの為すこと。出来る事なんてたかが知れている。それじゃぁお百度参りでもすればどうにかなるのかといえば、これまたどうにもならない。神様なんて気まぐれな人間の作り出した偶像だ。心平穏な頃には、それは聖なるものであっても、死へ片足を踏み出した人間にはもう、そんな代物、目に入らない。むしろ、地獄への招き手に見えるほどじゃぁなかろうか。少なくとも私はそうだった。
 昨夜、真っ暗な部屋でひとりで泣いていたあの子は、今頃どうしているだろう。笑顔は戻っているだろうか。失われた命の前で、倒れ伏し泣き続けているのだろうか。
 ひとり、またひとり、と、自分の周囲から誰かが消えてゆく。消去されてゆく存在にいくら手を伸ばしたって引きとめようと喉を掻き毟って叫んでみたって、届かないのだ。届かないというそのことに、私たちは絶望する。そしていずれ目の前に横たわる同士の死を前にして、ただただうなだれる。そして、どうして引き止めることができなかったのかと悔いて唇をかみ締める。生き残った私たちにできることといえば、そのくらいだ。
 ここまで書いて、私は苦笑する。
 そう、かつて私は、死にたい側の人間だった。死を欲する側だった。けれど。
 今は違う。どうやってでも生き延びてやろう、生き残ってやろうと思っている側の人間だ。そんな側の人間にとって、周囲の命の炎が一個、また一個、消えてゆくのを否応なく見せつけられることほど、辛いものは、ない。
 それでも私たちは生きるのだ。生きるために産まれたのだから。産まれた瞬間から人は死に向かって生きているとはよく聞く言葉だが、確かにそうだが、同時に、生きるためにこの世に産まれたのだと放たれたのだということも、間違いなく真実のひとつなのだ。だから。
 だからどうか、忘れないでいてほしい。できるなら、頭の片隅にちょこねんと、ちょこねんと、でも常に常に置いておいてほしい。君はここに存在すべき者なのだ、ということを。ここに在るだけで、十分な存在であり、間違いなくそれほどの価値を担った者であるということを。
 ねじり花が如雨露の水を受けてしなしなと揺れる。薔薇の葉の上を水滴が転げ落ちる。その雫はあっという間に土に染み込み、その姿を失う。けれど、毀れた水滴たちは毀れたままでいるのではなく、植物に吸い込まれ、やがてそれが葉になり花になり、そしてまた、落ちる。
 ただの繰り返しに思えるその行為に、私は永遠を感じる。確かにただの繰り返しかもしれない。けれど、樹の生え方が一本一本違うように、葉の茂りぶりが一枝一枝違うように、私たちの生き方もひとつひとつ、違う。
 違ってもいい。違っていていい。だから全うしてほしい。その唯一の代物を。命という代物を。
 さんざん自分の生を弄んだろくでなしの私は、今はそう、祈っている。

 いつの間にか窓の外では、細かな雨が降りしきっている。街灯の明かりの輪の中で、その細雨がまるで粉雪のように舞い揺れている。私は天気予報にアンテナを合わせる。明日の朝の降水確率は…。壊れかけたラジオの電波は途切れ途切れ、私に天気予報を教える。私はそれに耳を澄ましながら、今もまた、外を眺めている。


2005年07月07日(木) 
 或る雨の日、階段から滑り落ちた。あまりの痛さに声も出ず、私は打ったお尻をさする。右手に握っていた買ったばかりの傘の柄には、無残な擦り傷。一体何段落ちしたんだろう。数えてみると九つ近い段を滑り落ちたらしい。咄嗟にあたりを見回す元気も萎え、落ちたままの格好でしばらくぼんやりする。すると何故だか、自然に笑えてきてしまう。まったくいい歳をして私は何をやっているんだか。翌日、真っ白けっけのお尻に大きな痣がでーんと居座っていたことはもう、言うまでも無い。
 或る晴れた日、桜の樹と梅の樹が所狭しと植わった公園に出掛ける。水色のシートを敷いて転寝。こんな日は、カメラを持つ気があまりしない。念のためにとカメラは持ってきたものの、一度もシャッターを切らずに私の枕になる。朝の風が辺りで漂い遊んでいる。私はその風の声を聞きながら、風に混じる鳥の声に耳を澄ます。
 或る曇りの夕方、ふと見ると腕から血が滴り落ちている。慌ててタオルを巻き、行きつけの医院へ。多分よほど途方に暮れた顔をしていたのだろう、診察を終えて帰ろうとしていた先生が私を見つけ、その腕に目をやり、おいで、と手招きしてくれる。診察時間も終わった、他には誰もいないしんと静まり返った診察室で、先生が処置を施してくれる。
 そして或る風の日、一度途切れた筈の縁が細々と私の手元に戻ってくる。私はそれをそっと握り返す。大丈夫、ここにいるよ、私はここに在る、いつだってここに在るから、思う存分世界を泳いできていいんだよ、と声をかける。その縁はしゅるしゅると私の手に絡みつき、そして、来た道とは反対の、はるかに明日へと続く道へと泳ぎ出してゆく。

 世界は回る。そして私たちは、地球という地べたにしっかりと根付いて、世界がいくら西に転がろうと東に転がろうと、凛と背筋を伸ばして世界とともに在り続ける。

 私は目を閉じ、心の内奥に語りかける。ねぇ今は何処にいる? すると声だけが微かに戻ってくる。ここに在るよ。私の中の幼子がそう答える声がする。ねぇいい天気だと思わない? この頃の風はなんて心地いいんだろうね、そう思わない? 幼子は何も返事をしない。そうか、まだこの風が感じられるところまで君は辿り着いていないんだね、と、そのことに気づく。だから私は空を見上げながら、思うまま話しかける。風が何色をしているか、どんな匂いがするか、どんなやさしい手を持っているか、樹をどんなふうに撫でてゆくのか。そして私は子守唄を歌う。他の人には聞こえないような小さな声で、そっと、彼女の為だけに私はしばし歌を歌う。
 ベランダで今、一輪のねじり花が咲いている。一体何処から種が飛んできたのだろう。さっぱり見当がつかない。けれど、そんなことにおかまいなしに、ねじり花はピンク色の花弁を螺旋状に開かせ、吹く風に身を任せ、鉢の真ん中にひょこんと立っている。いらっしゃいませ。私は試しに声をかけてみる。ねじり花は何も答えない。代わりに、風に揺れながら音を奏でる。螺旋状の鍵盤が、鈴の音のような音を私の耳に届けてくれる。何処までも何処までも澄み切ったその音を。

 耳を澄ませば、目を済ませば、いつだって世界は鼓動に満ちている。それは、ここで誰かが生きているという証のひとつ。花の鼓動、風の鼓動、今行き交った人たちの鼓動、私の内奥から湧き出る鼓動。さまざまな鼓動が絡み合い、空へ空へとのぼってゆく。あぁ彼らは何処へ行くのだろう。昇って昇って昇って、空の天辺で何を見るのだろう。私は目を閉じながら顔を空に向け、光をいっぱいに浴びてみる。賛美歌のように声を合わせているときもあれば、思い思いに音色を奏でたり、くすくすと笑ったりしながら、鼓動は天へと昇ってゆく。多分あの中に、私の鼓動も混じってる。
 そして私はまた、一歩を踏み出す。この道が何処へと続いているのか、そんなことは何も知らないけれど。私は歩いてゆく。いつだってここに在て、私はここで生きている。


遠藤みちる HOMEMAIL

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