見つめる日々

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2005年04月30日(土) 
 夜明け近く。風が鎮まる。薔薇の樹もミヤマホタルカヅラも菫もみな、ぴくりとも動かない。窓から忍び足で流れ込んで来る風は、風という言葉が似合わないほどに密やかだ。街路樹も、電線も、何もかもがしんしんとしている。唯一在るのは、通りを行き交う車の音。空気を伝って振動になって、私の肌に伝わって来る。
 朝、私が、ミヤマホタルカヅラの花殻をひとつひとつ摘んでいると、娘が何をしているのかと尋ねてくる。こうやって咲き終わったお花の殻を取ってあげないと、お花が弱っていっちゃうのよ、だからこうして一個一個取ってるの、と説明すると、不思議そうな顔をしていた。でも、空き地に咲いているお花とか、道端に咲いてるお花とかにはそんなことしないでしょう? 確かにそうだ。さて、何と答えようかとしばし沈思する。結局、これはママにとってとっても大事なお花だから、できるだけ元気でいさせてあげたいのよ、と答える。じゃぁママ、外に咲いてるお花は大事じゃないの? …大事じゃない、ってことはないよ。みんな優しげに咲いてるから、そこを通るとき、いつだって心が柔らかくなるでしょう? でも、そうやってお世話したりしないでしょう? そうねぇ、うーんと、蒲公英とかヒメジオンとか、そういったお花はね、このお花よりずっと強いの、だからね…。娘にはなかなか納得がいかない様子。それはそうだろう、答えている私も、どうも納得がいかない。かといって、じゃぁこれから空き地に咲いている花々の手入れをするかといったら、多分しないだろう。こういう時、どんなふうに答えればいいのだろう。娘がこうやって時々私に向ける真っ直ぐな問いには、それがどんな些細なことであっても、いつもどきんとさせられる。私はミヤマホタルカヅラのそばから立ち上がり、朝の空を見上げる。晴れ渡る空。雲の欠片さえ今は見えない。
 今日は娘に頼んで、初めて土曜日保育園に行ってもらう。寂しがるんじゃないかという親の心配は何処へやら、娘は喜び勇んで保育園に出掛ける準備をしている。できるだけ早く迎えに行くから待っててね、と言うと、遅くていいよ、できるだけ遅くお迎えに来て、と言われてしまう。どうしてぇ?と尋ねると、だってね、土曜日は誰ちゃんと誰ちゃんと誰ちゃんが来てるから、いっぱい遊べるでしょ? 私は苦笑しながら鞄にお弁当やコップを入れている彼女の後姿を見つめる。情けない母の元だと、こういう逞しい娘が育つのか、などと、思ってみたりする。
 何ヶ月ぶりかでその街を訪れると、冬枯れていた木々がみな芽吹き、道端には蒲公英が丸いぽんぽんを作って揺れている。多少の風では綿毛を手放そうとしない蒲公英。もしかして君、風を選んでいるの? そんなことを思わず尋ねてしまいそうになる。誰にでも手放し任せるわけじゃぁないのか、この風だ、と思えた風に向かって、綿毛を手渡すのかもしれない。だとしたら、手放すではなく、手渡す、という言葉が似合う、通い慣れた道をゆっくりと歩きながら、私は街景の変化を眺めるでもなく眺める。眩し過ぎる日差し。額に手をかざす。あれほど寒々しかった通りが、今はこんなにも生き生きとしている。動物も人間も植物も、この季節を楽しんでいるのだろう。風を通して伝わって来るいろんな生き物の鼓動が、私の内奥で音を奏でる。
 辿り着いた古いアパートの一室で、施術を受ける。受けながら、こんなに私の体は疲れていたのかと驚いてしまう。確かに昨晩などは、身体中に痛みを感じ、湿布薬をあちこちに貼って堪えていたのだった。施術が進むほど、横になっていることが辛くなって来る。こんなことは、正直初めてで、私は少々自分の体の具合に驚く。丁寧に見てくれる施術師さんの手がいくら身体を解してくれても、どうも私の体が拒絶しているらしい。これではもう、どうしようもない。
 「私の友人にもね、とっても前向きに毎日を過ごしている人がいるんだけれども。でもね、昔いろいろ経た経験、それが深傷であればあるほど、身体に残ってしまうのね。心がどんなに前向きになっても、体は勝手に反応しちゃうの。かなしいかな、こればっかりはどうしようもない」
 確かに。私は聞きながら苦笑する。窓辺に置かれたお香の煙が、風に乗って窓の外へ流れ出してゆく。煙の作る薄い筋を、私はぼんやりと見送る。

 もうじき夜が薄れてゆくだろう。そして東から真っ直ぐに陽光が伸びて来る。闇は光に溶けて、辺りは明るさに包まれるだろう。娘は大の字になって、寝息を立てている。私は椅子から立ち上がり、彼女の寝顔にしばし見入る。子供は三歳までに親孝行を全て終わらせているんだよと誰かが言っていたが、確かにそうだと思う。彼女の寝顔はいつだって、私を綻ばせてくれる。大丈夫、明日だって頑張れる、そう思わせてくれる。
 今、私の心の中に小さな変化の芽が頭を持ち上げていることを、私は全身で感じている。それが薬なのか毒なのか、それは分からない。でも、どちらであっても、それを受け止めていこうとする自分がいることを、強く感じる。
 そう思うすぐそばから、私は、自分の体を切り刻みたい衝動に駆られ、慌てて横たわる娘のそばから離れる。そんなことしないで済むように、自分を落ち着けようとお湯を沸かす。やがてぐつぐつと音を立ててお湯が沸き、私はそのお湯を使って濃い目のお茶を入れる。そうしている間にも、あれほど濃く辺りを包んでいた闇色が、少しずつ少しずつだけれども緩んでゆく。

 先日友人に、ふと漏らしてしまった言葉を思い出す。或る場面に出会うと、私の心の半分が死ぬの、まるであっという間にドライフラワーになってしまう感じ。そしてそのドライフラワーは、掌で握ればくしゃっと潰れて、粉々になるでしょう? そんな現象が、私の中で起きてしまうの。
 生き残ってるはずの心半分は、必死に踏ん張るんだけれども、喪失したもう半分に対して嘆くから、私は苦しくなるの。何とか立っていなくてはと足を踏ん張るんだけれども、その足さえ片方が、くしゃくしゃと音を立てて粉々になってしまったりするの。それを止めたいと何度も思うのだけれども、止めようがないの。私の手の届かない奥底で、そういう変化が私の中で起きてしまうの。

 だからといって、最初から諦めることだけはしたくない。粉々になって風に飛ばされるなら飛ばされればいい。それでも私は、きっと、残った半分で生き延びようと必死になるだろう。それは分かっている。
 できることを、ひとつひとつ、積み重ねてゆくしかない。熱いお茶に口をつけ、一口すすってみる。そういえば、薬をお茶で飲んじゃだめなのよ、と、母が口うるさく言っていたっけ。思い出して苦笑する。私は頓服を口の中に放り込み、熱いお茶で流し込む。
 大丈夫。もうほら、夜も明けてきた。私はまたひとつ、夜を越えた。そうやってひとつひとつ、生き延びていけばきっと、いいこともあるさ。後で振り返ったならかけがえのない時間に思える出来事だってきっといっぱいある。
 自分を信じよう。あぁ、朝がもうすぐそこにやってきている。


2005年04月28日(木) (4/28夜)
 夜になっても、風は弱まる気配はない。窓際で耳を澄ますと、薔薇の樹たちの葉や枝が擦れ合う音が聞こえる。棘にひっかかり、破れてしまう葉も少なくない。せっかく芽吹く季節がやってきて、みんな一斉に手を広げ始めたというのに、そのすぐそばから傷だらけになってしまうなんて、とても切ない。
 うどんこ病はいまだ治まらず。消毒液を吹きかけるものの、強風にさらわれて、多分吹きかけたはずの半分も、樹々に届いていないに違いない。早く風がおさまってくれることを、今は祈るばかり。
 帰って来た娘を思いきり抱きしめて、膝に乗せて彼女の話にあれこれ耳を傾ける。でも、あんまりにもたくさんの新しい経験をしてきたせいなのか、全てを話しきれずに彼女は首を傾げる。だから、こちらから尋ねてみると、あぁそうそう、それはね、と彼女の弾んだ声が続く。私の足が痺れるまで、そうやってあれこれお喋りをする。
 彼女の弾む心はおさまるところを知らず、いつまでもぴょんぴょん跳ねていそうな気配。気持ちは分かるし、本当ならそのままいつまでだって彼女の好きにさせておいてあげたいけれど、続きは明日ね、と何度も言い聞かせ、横にさせる。そしていつのまにか、彼女は寝息を立てている。
 ぬいぐるみを抱いて寝息を立てる娘、細く開けた窓から飛び込んで来る風の鳴る音、時々遠くで響くサイレンの音。そしていつもと同じく窓の向こうでは街灯がしんしんと佇んでおり。そう、それは何処までもいつもの風景。見慣れた風景。
 そしてそれは同時に、何度出会ってもそのたびに、新しい風景。決して全く同じということはあり得ない。たとえば今それを眺める私の目と、昨夜それを眺めただろう私の目とは、多分全く異なっている。それだけでももうすでに、その風景は同じではあり得ない。
 不注意で、右手を火傷する。あれやこれや考え事をしている最中にお茶を入れようと思ったら、沸かしたての薬缶に思いきり触れてしまった。その後きちんと処理すればどうってことなかったのだろうに、お茶を飲むことを優先してしまった私の右手は、水ぶくれを作ってしまった。ぷしゅっと針で膨らみを潰す。零れて来る水。その後には、変色した皮膚がべろんと舌を出している。そしてふと思い出す。
 先日Kと会った折、私は思わず尋ねてしまった。自分で言うのも変だけれども、みんなあれやこれや尋ねてくるのに、Kは何も尋ねないよね、それはどうして? と。返答は確かこうだった。三十五年も生きてくれば、誰にだって内に隠してるものがある。話したくないこと、話せないこと、いろいろあるさ。もちろん、君が話したいって言えば聴きたいけれど、そうじゃないなら、こっちから無理に聴いたりはしたくない。
 ただそれだけの言葉だったが、私はその時、ふわっと救われたのだ。あぁそうか、話したくなければ話さなくてもいいし、話したくなったらそのときは話してもいいんだ。ただそれだけのことだけれども、それは私をとても安心させた。
 そして、安心を感じるとほぼ同時に、私は幾人かの友の顔を思い出した。シャボン玉のように次々浮かんでは消える友の顔。私が何をしようと、変わらずにそこに在ってくれる友の顔を。
 そして思った。私は何処まで、そんなふうに誰かを見守り続けることができるだろう。ぼんやりそんなことを思いながら、思い出した昔友から貰ったもうひとつの言葉。
 ありがとうなんて言わなくていいよ、私は好きでやったんだから。でももし、もしもあなたがありがとうって思ってくれているなら、いつかあなたが誰かを見守る立場になったとき、その人に伝えて欲しい。あなたがありがとうと思ったことを、その人にしてあげてほしい。私に何かを返そうなんて間違っても思わないで。そんなものこれっぽっちも望んじゃいないし欲しくない。あなたが次に出会う誰かに、あなたのその気持ちを贈ってあげて。思うんだ、私、そうやってさ、続いていくんだよ、連なってゆくんだよ、きっと、人のあったかさって。
 その言葉を私にくれた友はもう、ここにはいないけれども、この言葉は年々鮮やかさを増しながら私の中で生きている。

 風は相変わらず止む気配はない。細く開けた窓から吹き込む風に、カーテンが大きく揺れる。私は瞼を閉じて、風にしばし、この身を預ける。


2005年04月27日(水) (4/28昼間)
 目を覚ますと、カーテンの向こうが薄明るくなっている。毛布を身体に巻きつけたまま立ち上がり、カーテンを開ける。あぁ今日は晴れ渡るのだなと、空を見上げて思う。そして凄まじいほどの風。ベランダの薔薇の樹が、折れそうなほど撓っている。
 毛布を畳み、着替えて洗面所へ。顔を洗う。洗い終えて私は、鏡に見入る。何か変わっただろうか。鏡に映る自分の顔を、じっと見つめる。何か、変わっただろうか。鏡の中の自分と目が合って、私はちょっと笑ってしまう。別に何も変わらない。いつもの私がそこに在るだけ。でも何となく、心が軽い。それは気のせいかもしれないけれども、でも、心がちょっぴり、いつもより軽い気がする。錯覚であったとしても、そう思える自分が在るということを、私は一人、口の中で転がして味わう。
 ベランダでは相変わらず風が唸り続けており、下手に窓を開けると、暴れ龍のような風が部屋に飛び込んで来る。私は後ろ手に窓を閉め、プランターを見て回る。
 アネモネは、もう終わりだ。ずいぶん長いこと私の目を心を楽しませてくれた。今プランターの中に残る三輪も、じきに花びらを散らすだろう。
 ミヤマホタルカヅラはこの強風にあっぷあっぷしている。こんなに強い風の中では息をすることもままならない。かわいそうにと撫でてみるけれど、花も葉もみな、必死に身を縮めている。この澄んだ藍色の花、いつ見てもほっとする。
 薔薇の樹たちを順々に見て回る。この強風であちこちが折れてしまっている。新しく葉を広げたはずなのに、その葉々は擦れ合って傷だらけになっている。うどんこ病にやられた病葉たちと健康な葉々とがみな、小さな悲鳴を上げながら風にぶるんぶるんとなぶられている。この風を止めてほしい。そう思って空を見上げると、あまりにも眩し過ぎる陽光に目を射られ、私は眩暈に襲われる。手すりに掴まりながら、心の中で呟く。風が止みますように、止まないまでもせめてもう少しやさしい風になってくれますように。もちろん風は私の言うことなんてこれっぽっちも聞いてくれない。ますます強く暴れながらベランダを走ってゆく。
 身体を強張らせて、小さく震えながら俯いて立っている私の肩を、ぽんっと叩いてくれる友達。そっと肩に手を乗せて黙って笑っていてくれる友達。そっと肩を抱いて凍える私の体を包んでくれる友達。大丈夫、そんな心配はいらないよ、と、そう言ってやわらかに笑ってくれる友達。
 そんな友達が在てくれるから、私は多分、踏ん張れるんだなと、つくづく思う。
 自暴自棄になりかける私に、真剣に怒りをぶつけてくれる友人。意識を失って自傷に及んだ私にすかんと抜けるような笑顔をくれる友人。問い詰められるんじゃないかと強張る私に、まるで何事もなかったかのような顔をして、いろんなものを飲み込んで手を握ってくれる友人。あぁ、どうしてこんなに、人はやさしいのだろう。
 人を傷つけるのは人だ。これでもかというほど、相手の人生を木っ端微塵に砕くことさえ厭わずやってのけるのが人間だ。でも同時に、人を癒すのもまた、人なんだ。人間なんだ、と。

 今夜、娘はじじばばとの旅行を終えて帰ってくる。帰って来たら一番に、ぎゅうっと彼女を抱きしめよう。そして彼女からいっぱい話を聴こう。そして彼女が眠ったら、私は彼女の枕元で、ママにもこんなことがあったよ、と、こんな嬉しいことがあったよと、今度は私が彼女に報告しよう、そして。
 人間という言葉は、ヒトのアイダと書くんだよ、ヒトのアイダにいてこそ人間なんだよと。眠る彼女に、そっと、話しかけよう。


2005年04月25日(月) 
 朝。雨が降っている。肌に触れてくる空気が、しんなりと湿っている。雨が降っているという他は何も変わらない。いつもの、娘と二人の朝の時間。慌しく過ぎてゆく。
 そして私は病院へ。傘をさし、埋立地を歩く。道の両側には、花びらをもうすっかり散らした桜の樹が等間隔に植わっている。薄灰色の空を背景に、枝々には緑がひらひらと揺れる。まだ柔らかいその葉は、ちょっとすると、背景の空の色に溶け出してしまいそうな気配がする。通勤者たちが早足で私の横を通り過ぎてゆく。みな黙々と駅への道を急いでいる。一方私は、できるならもっとゆっくり歩きたい気分にかられ、尚更に桜の樹たちを見上げる。

 「なんか私、疲れてるみたいです」
「そうね、私もそう思うわ」
「それに、変なんです」
「何が変なの?」
「自分をこれでもかってほど貶めたい気持ちに駆られるんです」
「…」
「うまく言えないんですけど。昼間は、ふとすると、自分の心身を切り刻みたい衝動に駆られるし、夜は夜で、娘を寝かしつけた後、猛烈に外に飛び出したい気持ちになる」
「…」
「外に飛び出して、夜の街をふらふら歩いて、顔も名前も知らない男とセックスしちまえ、みたいな。どんどんやっちまえ、みたいな」
「…まずいわねぇ」
「はぁ、自分でもおかしいと思います。そんなこと望んでないのに。望むわけないのに、そうしたいという衝動がどくどく溢れて来る。一体何なんだって思います」
「…」
「所詮私はこんなもんなんだから、だったら徹底的にぶっ壊れちまえ、みたいな。いや、むしろ、ぶっ壊してやる、というか。うまく言えないんですけれども」
「…」
「でも、猛烈にいやなんです、男にこの身体に触れられるってことが猛烈に厭。ちょっと想像しただけで反吐が出る。結婚してた頃もそういうことがあった、愛して結婚したはずなのに、その人に触れられることに猛烈に嫌悪感を感じる。だから、さっさと終わってくれと思って、無理矢理身体を動かす、そしてさっさと相手に昇天してもらう。私は、自分の内奥で沸き起こっている出来事を隠しとおすために必死になる。なんか滅茶苦茶」
「…」
「今こうやって喋ってること自体に猛烈に嫌悪感を覚える。想像するだけで反吐が出る。なのに、衝動が止まらないんです。所詮こんなもんさ、だからどうだっていい、セックスだろうと何だろうとどんどんやっちまえばいい、とことんやっちまえ、みたいな」
「…まずいわねぇ」
「あー、もう、自分でもよく分からないんです。唯一分かってるのは、自分がかなり疲れてるなってことくらいで」
「そうね、それにかなりの緊張状態が続いてるわね」
「はぁ、そうなんでしょうか、そんな気もしないわけじゃないけれど…」
「…」
「中途半端でいるくらいなら、徹底的に貶めてしまおう、壊れるなら徹底的にぶっ壊してしまおう、二度と立ちあがれないくらいに木っ端微塵にしてやろう、って…」
「…」
「でも、たとえば夜ふらふらと街に出るなんて、現実的に不可能でしょう? 未海がいるから。今までは、そのことにひたすら感謝してた、未海の存在がストッパーになってくれてる、そのことにとても感謝してた。でもそれが、最近、それだけじゃ済まなくなってきた感じなんです。感謝と同量で、未海さえいなけりゃ私はぶっ壊れることができるのに、って思ってしまう」
「…うーん」
「今ここに未海さえいなければ、って。未海に感謝しながら、同時にそうも思ってしまうんです。訳が分からない…」
「…危険だわねぇ」
「はぁ…」
「私、明日から三週間留守にするんだけど、大丈夫?」
「先生、それ、全然大丈夫じゃない」
「ははははは、ほんと、大丈夫じゃぁなさそうよね」
「うん、先生、まずいよ、それ、ははははは」
「でも、何とか無事でいて、ね? 何かあったら病院に電話してちょうだい」
「うん、でも先生いないんでしょ?」
「そうね、いないわね」
「私、先生以外の、スタッフの人とかとも喋るの苦手だから、多分電話しない」
「じゃ、とにかく生き延びること」
「はぁ…」
「家に引きこもってなさい」
「え? 今だってもう充分引きこもり生活だと思うんだけど」
「ははははは、いいわよ、私が帰ってくるまで、引きこもってて」
「はぁ…。何とか生き延びるようにします、はい」
「またここで会いましょう、ね?」
「はい」

 各駅停車の電車を見送って、急行に乗る。余計なところで停まりたくない。停まったら、むやみに下りてふらふら歩き回ってしまいそうな気がする。だから電車の中、身体をできるだけ小さく丸めて、隅の席でじっとしている。
 家に戻り、少し横になる。自分の内奥に潜めている話を声にするのはエネルギーを要する。こんな話をしたら軽蔑されるに違いない、こんなことを話したら避けられてしまうに違いない、そういった思い込みが、私に話すことを躊躇わせる。躊躇う話をそれでも敢えて声にするのは、正直、それがどんな相手であってもしんどい。私は横になり、毛布を被る。頭からすっぽりと。外界から自分の身を守るように。
 大丈夫。きっと大丈夫。これまでだって何とかやってきたじゃないか、しんどくたって何とかなる、きっと時間なんてあっという間に過ぎてくれる。そんなふうに、自分に暗示をかける。目を閉じて、毛布に包まって、私は繰り返す。大丈夫、私は大丈夫。
 やがて日が傾き、空が薄橙色に染まり始める。降っていた雨もやんだ。私は部屋に鍵をかけて外に出る。そして保育園へ。
 「ママ!」。娘が思いきり笑顔で階段を下りて来る。その声の主は、間違いなく私の娘だ。私がおなかを痛めて必死になってこの世に産み出した、大切な大切な、宝物。この宝物を抱きしめるためになら、私はどんなことをしてでも生き延びよう。
 夜、眠る前に耳元で娘がこっそり言う。だから私も応える。
「ママ、愛してる」
「ママもみうのこと、愛してる」。


2005年04月24日(日) 
 眠ろうとしても眠れず、布団から這い出し、なのに畳の上クッションを抱いてころんと横になったらうとうとと。はっと気がついて起きあがったものの、布団に入る気力は出ず。結局いつもの、窓際の椅子に座り、ぼんやりと外を眺めていた。
 真ん丸い月が、すっきりと夜闇に浮かんでいる。眺めているうちにも少しずつ月は傾いてゆき、それはそのまま、時がそうして過ぎてゆくことでもある。分かっているけれども、だから何ができるというのだろう。時ばかり過ぎてゆくその突端で、私はただ、ぼんやりと立ち尽くす。
 何度も浮上を試み、そのたび失敗を続けている近頃の私を察知した友人が、真夜中過ぎだというのに電話をかけて来てくれる。せっかく電話が繋がったのだから、楽しい話をしようと思うのに、ふと気を抜くと、私の、これでもかというほど私的な話に終始してしまっている。
 気づけば、これまで殆ど口に出したことのないことも、もう見たくないと葬ったはずのことも、しゅるしゅると喋っていた。一体こんな喋り方で相手に伝わってくれるのだろうかと、途中で何度か思ったけれども、躊躇っていたらもう二度と、声にすることはできないかもしれないと、そう思ったら、躊躇いを無視して喋り続けるしかできなかった。
 結局、お互いの子供がぐずって起きてしまうまでずっと喋っていた。それはもう夜明け近く。月はもう、地平線近くに沈んでいる。
 それにしても。自分はなんて恵まれているのだろうと思う。こんなときに電話をかけてくれる友人がいて、こんな滅茶苦茶な話をしても黙って耳を傾けてくれる友人がいて。だから浮上しようと思うのに。なかなかうまく浮上できない。あっぷあっぷしっぱなし。そんな自分に腹が立って来る。でも、どうしようもできない。
 珍しく風のない夜で。窓を開けていても、冷えた空気が遠慮がちに抜き足差し足で忍びこんでくるだけ。私は薄れ始めた闇色の空をもう一度見つめ、娘の隣に横になる。外ではもう、雀が囀っている。

 日曜日。朝一番から、娘は水ぬりえなるものを為している。昨日ばぁばとじぃじにねだって買ってもらったのだ。真剣な表情で筆を動かす彼女。せっかくそこまで一心に為している彼女の邪魔をしないよう、私は足音を忍ばせて彼女の後ろを通り、ベランダに出てみる。
 今、ミヤマホタルカヅラが花盛り。次から次に咲いてくる。蒼い小さな星の花。昼間に輝くその星は、いつだって私の心を和らげてくれる。
 そして、薔薇の樹たち。ミニバラのうどんこ病は全然よくならない。それどころか、大輪の白い花が咲く薔薇の樹まで、うどんこ病の葉が出てきた。ひとつひとつ摘んでゆく。せっかく出てきた新芽なのに。もったいないという気持ちを何とか抑えて、とにもかくにも摘んでゆく。そして最後、消毒液をスプレーする。
 それにしても、今日はなんて気持ちの良い天気なんだろう。憂鬱感が抜けない私の上にも、その空はちゃんと広がっている。思いきり伸びをし、ついでに欠伸もする。
 昼前、娘を後ろに乗せて自転車で埋立地の方へ。人ごみを避けてあちこちを走る。途中、大きな肉まんを二つ買って、私たちは空き地の際に座り込む。ママ、もっと食べたい。じゃぁママの残しておくから食べていいよ。はぐはぐと動く彼女の小さな口。私はまた空を見上げる。
 憂鬱な日もあるさ、重苦しくてしんどい日もあるさ。余計なことばかりを思い出し、それに押しつぶされそうになる日もあるさ。もうどうでもいい、全てを切り刻んで終わらせたくなる、そんな日だってあるさ。娘がここに存在してくれることに感謝しながら、同時に、ここに君が存在していなければ私は全てを木っ端微塵にして終わらせることもできるのになんて唇を噛む日だってあるさ。
 それでも私は、生きることを諦めない。生き延びることを諦めたら、それこそ本当に終わりなんだ。私は空を見上げたまま、自分の左腕を撫でてみる。ぼこぼこと盛り上がる数え切れないほどの傷痕がそこに在る。でも、それでもいいんだ。生き延びることを諦めさえしなければ。そうすればきっと、明日は必ず今日になる。そして私は一日をまたひとつ、越えてゆく。
 ああ、空が、青い。


2005年04月22日(金) 
 目を覚ますと、娘が待ってましたとばかりに「おはようっ!」と声をかけてくる。隣にいない娘の姿を求めて身体を起こすと、彼女は窓際近くに置いてある鏡の前で、保育園の制服に着替え始めているところだった。あぁそうか、昨晩は薬を少し多めに飲んで眠ったのだったと思い出す。「見て、ママ、未海えらいでしょ、自分でお着替え始めてるんだよ、あのね、顔ももう洗ったんだ」と、娘が得意気な顔でこちらを見る。うん、えらいえらい、じゃぁママも早く顔洗って着替えなくちゃね、そう声をかけて、洗面所へゆく。
 慌しく過ぎる朝の時間。いつものように玄関の扉にぶらさがっているカエルにキスすると、娘はスキップで階段の方へゆく。私も鍵を閉めて、外に出る。
 自転車に乗ろうとして気づく。何かおかしい。私は漕ぎかけた自転車からおりて自転車をくまなく見まわす。そして見つけた。後輪のスポークが全部、外れている。いや、折れているというべきなのだろうか。どちらか分からないけれども、どちらにしてもこのまま走るなどできない状態であることには間違いなかった。娘にも歩いてもらい、私も自転車をひきずって保育園へ歩いてゆく。途中、空き地でぽんぽんを探したけれども、とても手の届かない場所にひとつ在ったきり。がっかりした娘は、しょんぼりと歩いてゆく。
 娘を見送って、私はそのまま埋立地の方へ。一面ガラス張りの喫茶店に入り、窓の前のカウンター席に座る。本を開き、ノートを開き、ボールペンを握る。一文ずつノートに書き写し、頭の中でぐちゃぐちゃと捏ねてみる。ばらばらに宙に散らばった文字たちを拾い集め、もう一度繋ぎ合わせる作業。実感を持つことができたら次へ。その作業を、淡々と繰り返す。
 珈琲もすっかり冷めて、二頁ほど進んだ頃、時計が10時を知らせる。私は再び自転車を引きずって、ホームセンターまで出掛ける。
 車の免許を持っていない私にとって、自転車は必需品だ。これがなければ非常に困る。何をするにも困る。車輪を交換すれば何とか使えるのかなと安易に考えていたけれども、そうもいかないようだ。結局、安い自転車を買い直すことにする。
 新しい自転車はひどく軽くて、漕いでいるのか漕いでいないのか不安になるほど。あっという間に家まで辿り着いてしまいそうなので、私は右に左にと横道に逸れる。今まで走ったことのない道をあれやこれやくねくね走る。とある家の玄関先に佇む狸の置物と目があったので、一応こんにちはと言ってみる。また少し走ると、今度は空っぽの車庫の真中に椅子を置いてぼんやり座っているご老人、知らない人だけれども、こんにちはと言って走り過ぎる。階段の脇の家の庭、柑橘がたわわになった樹と出会い、高台の空き地には菜の花が一面に揺れる。ただそれだけの風景なのだけれども、私は少し、呼吸が楽になる。急な角度で下りてゆく階段の一番上に立って辺りを見渡すと、横浜駅の周囲に立ち並ぶデパート群がそのまま見える。しばらくそこに佇み、そして私は再び自転車を漕ぐ。
 ゆっくり走りながら見上げる並木は、みな小さな小さな若葉をくっつけている。瑞々しいその色合い、その感触。さぁこれからどんどん大きくなれよ、そう思いながら、私は自転車を漕ぎ続ける。いつのまにか小学校の近くまで辿り着いていた。その角を曲がればもう我が家だ。ちょうど授業の終わりを知らせるベルが鳴り、しばらくすると子供たちがばらばらと昇降口から走り出してくる姿が見える。ドッチボールを始める子、サッカーをする子、校庭の端っこで何やら秘密のお喋りをしている子。小学校の休み時間、私は何をしていただろう。思い出して苦笑する。あれから一体何年が過ぎたのか。私はもう、こんなに遠く歩いてきたのか。人間的にはまだまだ未熟なのに、こんなに時間ばかりが過ぎてしまった。
 シークレットガーデンの、新しいアルバムをセットする。そしていつもより少し大きめのボリュームで私はその音を聴く。シークレットガーデンが紡ぐ音は、いつでも何故か懐かしい。懐かしく、哀しく、染み渡る。哀しい、確かに哀しいのだけれども、悲しいのではない、甘さと切なさを懐かしさに混ぜたらこんな音色になるのではないか、そんな音だ。独りの時間に聴くのであれば、どんな心持ちであっても聴くことができる、私にとってはとても貴重な音。目を閉じると、まだ訪れたことのない、けれど多分、訪れたならば懐かしくなるのだろう、そんな風景が浮かんで来る。たとえば、視界一面野っ原で、膝丈くらいの草が風に揺れている、広く広く続くその野っ原の先は崖になっていて、その下では波が砕け散っている。私はその野っ原をあてもなく歩きながら、最後、真中にころんと寝そべって、空を見上げる。空は青く青く澄んでおり、私の胸いっぱいに、その匂いが広がる。そしてまたたとえば、樹々生い茂る森の中、薄暗い細道が何処までも続いている。その細道を、私はこっそりと歩く。足音を立てないように気を付けながら。どんなに耳を澄ましても、何の音も聞こえないような、そんな完全なる静寂が世界を包んでいる。細道は何処までも続いており、私はだから、何処までも歩いてゆく。するとふっと樹の茂みが途切れる。そこには小さな池があり、手を浸すと何処までも冷たくて透明で。水面に映るはずの私の姿は、ただ薄暗い影のみで、顔も何も見分けはつかない。そして振り仰ぐと、空を覆い隠すように伸びる樹の枝々。何処までも何処までも静寂が辺りを包み込む。そして私は独り、池の縁に座っている。そんな風景。
 突然窓の外で雷鳴が響いた。振り返って外を見ると、激しく雨が降っている。私の部屋の真上の空は真っ黒、でも、西の地平線辺りは雲は途切れ、明るい空が見えている。まるでこの場所だけが雨に襲われているみたい。私はしばし、窓の外をじっと見つめる。
 ピアノの音色。バイオリンの音色。人の声色。スピーカーから零れて来るその音が、雨と絡み合い、微妙な色合いを見せる。私はその音に寄りかかり、ぼんやりと、ただ外を見やる。
 ぼんやりとした心の膜に、幾つかの顔が浮かんでは消える。あぁあれはあの人だ、今頃どうしているんだろう、あれはあの人か、そういえばあれからもう何年が過ぎたろう、あれはあの人だ、今何をしているんだろう。
 全てがもう過去だ。浮かんで来る顔の全てはもう過去の中に在る。なかには、今に引っ張り出してきたい人も何人かいるけれども、それはできない。もう交わらない、あの人たちとの緒はもう、切れてしまった。繋ぎ合わせることは、今はもう、できない。
 窓の外、激しかった雨が少しずつ少しずつ弱まってゆく。じきに止むんだろう。だって空は明るい。西の空では太陽の光が雲間から真っ直ぐに降りてきている。その色は淡い橙色で、なんだかとても優しい。あの光に包まれたなら、天にのぼってゆけそうな気がする。
 もう終わった、叶わなかった願いを何処までも引きずるより、もしかしたら叶えられるかもしれないことに手を伸ばす方がいい。結局そこに手を届かせることができなかったとしても、届くかもしれないというそのことに賭ける方がいい。
 時計がリリリと時間を知らせる。あぁそろそろお迎えの時間だ。これを書いたら私は、椅子から立ち上がり、窓に鍵を閉めて、部屋を出るだろう。そして、娘が待つ保育園へ自転車を飛ばすだろう。雨はもう止んだ。雨の通り過ぎた後の街景は、雨に洗われて瑞々しさを放っている。こんなにごみごみと屋根が重なり合う街景であっても、それは美しい。


2005年04月20日(水) 
 娘の隣に潜り込んで毛布にくるまる。眠れないまま一時間を過ごし、私はもう面倒になって眠ることを諦めた。それじゃぁと思い本を手に取る。そして頁を捲る。でも。
 最近心に余裕がなくて、本を読むのに酷い困難を感じる。文章をそのまま読み下すことができないからだ。たとえば、「私は空を仰いだ」という一文が本の中にあったとする。主語は「私は」、述語は「仰いだ」、そんなこと、多分小学生でも理解できるだろう。それができなくなるのだ。つまり「私は」という文字を読む、それが私の中で「わ」「た」「し」「は」に分解されてしまう。分解されたまま、戻らないのだ。頭の何処かで、これは「私は」なんだ、と知っている、知っているのだが、それを引っ張り出せない。「私は」はばらばらになって宙を舞う。だから私は、いっときも気を抜けなくなる。必死になって文字を追う。文字を追うのだが、それを言葉として認識するのに、酷く時間がかかり、その労力はたとえられないほどの量になる。そうして私は途方に暮れる。これが一時的なものだということは経験で分かっている。今は多分、心も頭も酷く疲れているのだ。だから、普通ならすっと理解できることが理解できなくなる。ただそれだけだ、そう分かっていても、溜息が出る。そういう自分であることを、受け容れなければならない、そのことが、悔しい。同時に、読みたいのに読むことができないという現実に、むずがゆさを感じずにはいられない。
 そうして本と格闘しながら迎えた朝、幾つもの溜息を枕の周囲に散らばして、私は起き上がる。薄暗い部屋、カーテンを開ける。でも空も同じく薄暗い。雨がいつ降り出してもおかしくはない色合い。
 多分今日は、お迎えは歩きになるだろうな、そう思いながら自転車を漕ぐ。すると娘が後ろから大きな声を上げる。「ママ、病院に行かなくちゃだめよっ」「え? 病院?」「そうだよ、お医者さんが言ってたでしょ」「あ、腕ね、そうそう、言ってた」「早く行きなさい」「…はい」。まったく、五歳の娘に諭されてどうするよと苦笑が漏れる。そういえばそうだ、もう一度来なさいといわれたのだった。でも、何となく面倒くさい。
 結局病院に行くことなく、私は部屋に篭って時間を過ごす。別にこれといってやることがあったわけではない。でも時計は、淡々と時を刻む。
 ふと窓から外を見やる。目の前の大通りに立ち並ぶ樹々を見てはっとする。いつのまにか降り出した雨に濡れた枝々は濃褐色になり、その色の合間合間に、若い萌黄色が揺れている。あぁ若葉だ、若葉が揺れている。ただそれだけのことなのだが、私は妙に嬉しくなる。ここから見下ろすと私の指先ほどの大きさの若葉。雨に濡れ、その色は余計に艶やかに私の目を射る。
 腕がむず痒くて、私は包帯をまた解く。解いた包帯を手に取り、ぽいっとゴミ箱に投げ入れる。もういらない。傷口同士がくっつけば、あとは放っておけばいい。多少膿んでいようとそんなの、たいしたことじゃぁない。
 包帯など、しない方がいいのだ。包帯なんてしていると、その包帯の端っこが洋服からはみ出してちらりと見える、それだけで、傷を意識してしまう。そうだ、切ったんだっけ、と思い出してしまう。思い出すたび、私はあの時暴発した自分を思い出す。そうすると、憂鬱になる。
 こんな堂々巡りにはまっているよりも、さっさとゴミ箱に捨ててしまうのがいい。私は病院からもらった薬以外、包帯やらガーゼやらは全てぽいぽいと捨ててみる。
 腕を撫でると、左の腕、盛り上がった傷口がぼこぼこと、撫でる私の指の腹に伝わる。切り刻んだ腕の部分が痒くて、がりがりと爪で引っかいてしまう。咄嗟に思い出す。「ママ、だめよ、かいちゃだめなのよ!」。娘の声だ。自然、私は苦笑する。数日前、約束したのだ、娘と。娘も今左腕に湿疹がでていて、それが眠る前になると痒くてたまらなくなるらしい。それを「かいちゃだめよ」と私が先に言ったのだ。そうしたら彼女が「じゃぁママもかいちゃだめよ」と言い返してきた。おお、なるほど、と思い、約束したのだ。お互いかかないことにしよう、と。もっとかきたくなる衝動を、娘の声で抑え込む。我慢、我慢。約束は約束だ。
 そして思わず膝を叩く。やっぱりそうだ、包帯なんかしてるから、ここしばらく、私はやけに傷に拘ってしまっていたんだ。そうだそうだ、切り刻んだことなんて忘れてしまえ、どうせ妙に現実感薄い出来事なんだ、忘れてしまえ。傷がちょっと増えたくらいが何だ、どうってことない。
 包帯もガーゼもゴミ箱に捨てた、それをちらっと横目で見て、私は片手でぐいっとゴミ箱の奥にそれを突っ込む。見ない見ない。もう全部忘れた。何もなかった。そうだ、何もなかった。
 そう思ったら、笑えてきた。なんか暗いよな、最近、私、鬱々してるよな、そう思ったら、俄然やる気が出てきた。そうだ、あの本の続き、読もう。文がなかなか理解できないなら、文をそのまま自分の手で書いてみればいい。書けば少しは理解の足しになるかもしれない。私は、枕の横に置いたままだった本を開き、早速書き写し始める。
 この本、「手のことば」の中には、様々な発見が潜んでいる。聾者の両親の元に産まれたのは健聴者だった、というその現実をただ淡々と記しただけの本なのだが、それがいかに残酷で、同時に何処にでもあり得る風景であるのかを、読む者にまざまざと伝えてくる。たとえば、健聴者の娘が両親の会話を聞く場面。両親は声で会話するのではない、手で会話する。その手の動きが見えなくなる闇の中では、会話を為すことができなくなる。娘がそれをどんなふうに見つめているかを淡々と記した箇所、これは多分、こういった環境ではごくごく当たり前の風景だ。確かに、明かりがなければ手話を交わすことはできない。でも、私はそれを読むまで、全く気づかずにいた。たったこれっぽっちのこと。多少想像力を巡らせれば恐らくは想像できるだろう出来事だというのに。そしてまた、娘が結婚をし両親の元を出ていった後の両親の様子を記した一場面、用事があっていつもより早く起きようと思い立ったけれども、その術がない、何故なら目覚し時計をセットしても、彼らにはそれを聞く力がないからだ。そして両親は自分の足元に目覚し時計をセットする。夜明け前、目覚し時計が鳴り出す。彼らに音は聞こえない。代わりに、鳴り出した時計の振動が、彼らの足に伝わり、その振動に驚いた彼らは、時を知り目を覚ます。------こんなこと、多分毎日繰り返される風景のたった一コマに過ぎないのだろう。けれど、健聴者である私には、思いつかないことだった。
 私は誰のことも差別しないとか、私は他人の立場に立って物事を考えるよう努力してるだとか、そんなことを言うことはたやすい。けれど、人は一体何処まで、他人の立場にたち得るというのだろう。昔、思ったことを今また私は思い出す。人間は、何処までいっても本当には他人の立場に立つことなんてできやしない、不可能だ、ということ。
 私たちは想像力を持って産まれてきた。けれどこの想像力だって、自分の経験値にそっているものなんじゃぁなかろうか。自分の経験体験から、人は想像するのだ。こうではないか、ああではないか、と。じゃぁその経験から外れている物事はどうなるか。想像することは、多分、できない。
 だから、想像力をもってしても他人の立場に真に立ち得るということは不可能なのだ、と充分に思い知った上で、それでもなおかつ、自分の想像力を駆使する、それが多分、私たちにできることのひとつだ。そしてこの想像力は、自分の経験値が物を言う。それは、頭の中につめこまれた知識によって補いきれるものでは決してない。自分が自分の体をもってして思い知ったことこそが役に立つ。自分が実感し得たものこそが、役に立つ。
 娘を迎えにゆく時間になるまでの間、私は結局、五頁も読み進むことができなかった。私の脳味噌は、まだ現実の時間についていけないでいるらしい。でも、それもまぁよし。そういうときも、ある。
 ノートを閉じ、本を閉じ、私は家中の窓を閉めてまわる。最後玄関を閉めて、細かな雨の降り続く中を歩き出す。
 この雨もじきに止む。そしてその後には太陽がさんさんと陽光を降り注ぐ日がやってくる。私はそれをただ信じて歩いてゆけばいい。
 さぁ、この坂を下り横道に入れば保育園だ。数時間ぶりに娘に会える。


2005年04月19日(火) 
 朝。穏やかな風が開け放した窓から滑り込んで来る。私は、明るい外景に誘われて窓辺に立つ。そうして空を見上げると、今私を撫でた風だけでなく空も雲も光も、みな穏やかであることを知る。
 いつものように娘を自転車の後ろに乗せて坂をのぼっていると、娘が突然言い出す。ママ、降りる。え? なんで? 白いポンポンが欲しいの。白いポンポン? 何それ? いいから、降りるから降りるっ。仕方なく私は自転車を止める。すると娘は、今通り過ぎようとしていた小さな空き地に群生する蒲公英に手を伸ばす。この白いポンポンが欲しいの。白いポンポン、それは、蒲公英の綿毛のことだった。
 二本、三本、四本。結局五本の綿毛を手に彼女は戻って来る。これ、とっておくんだ。え? とっておくの? うんっ。いや、でも、それは無理なんじゃない? どうして? 未海はこれが欲しいんだもん。いや、でも、多分無理だと思う。と、私が言っているそばから、風がひらりと吹いてくる。あ! ね、ほら、風に乗って綿毛は遠くへ飛んでゆくのよ。いやっ。いやって言っても…。あぁあ、壊れちゃった、ポンポン、壊れちゃった。娘はそう言って、半べそをかいている。娘よ、気持ちはとてもよく分かるが、それが自然なのだよ。そう言って彼女を慰めたくなったけれど、やめておく。
 家に戻り、光がさんさんと降り注ぐベランダに出る。そして、昨夕から気になっていたミニバラのプランターの前にしゃがみこむ。何が気になっていたかといえば、うどんこ病。白と朱赤のミニバラが、すっかりうどんこ病にやられてしまったのだ。しばらくじっとプランターの前に佇んでいたが、見つめていたからとて病葉は治ってはくれない。私は植木鋏とバケツを取りにゆく。
 ぱちっ。鋏の音と共に、枝葉が落ちる。私はそれをそっとバケツに入れる。ぱちっ、ばちっ、ばちっ。次々に病葉を切り落としてゆく。新芽ばかりが病気にやられているから、本当は鋏など入れたくはない。躊躇う心をぎゅっと握り返しながら、私は鋏を入れ続ける。
 バケツが半分ほど、切り落とした病葉で埋まる。なんてもったいないことを。思わず口を突いて出る言葉。私は今度は、バケツの中の病葉をじっと見つめる。
 ふと、心の中にあの樹の姿が浮かんで来る。病に冒され、次々に枝を切り落とされていったあの大樹。布をぐるぐると巻かれていた頃もあった。結局、空にあれほど大きく伸びていた枝の全てを切り落とされた大樹は、あの威厳を湛えて大地に立っていた姿を跡形もなく失い、残ったのは、太い幹と、その幹を破って出てきた若枝葉だけになった。それでも彼は、生きている。どんな姿になろうと生き抜いている。
 今、さんざん鋏を入れられたミニバラの樹たちは、芽吹かせた若葉の大半を失い、風通しが妙に良い隙間だらけの姿になった。みすぼらしいと言えばみすぼらしい。でも、これでもし病が治るのなら。
 最後に私は液薬を霧吹きで吹きつける。どうか治ってくれますように。あの大樹のように何処までも生き延びてくれますように。心の中に浮かぶのは、彼らを挿し木した頃のこと。白も朱赤も、どちらとも挿し木で増やした。友達がふとしたときにプレゼントしてくれた花束の中にあった花だった。あれからもう一体何年が過ぎただろう。これをプレゼントしてくれた友人たちとは今ではすっかり疎遠になった。多分もう二度と会うことはないんじゃあなかろうか。人の関係はそうやって変化し、私の手元に残ったのはこのミニバラの樹のみ。でもだから、余計にいとおしい。
 私は鋏を片付け、もう一方のベランダに出る。ミヤマホタルカヅラを振り返ると、この陽気に誘われて三つ目の花が咲き始めたところだった。澄み渡るこの藍。今もしここから見える景色をじっと覗き込んでみたとしても、これほどに澄んだ色合いはなかなか他には見つけられないだろうと思う。ミヤマホタルカヅラの花の前で私はしゃがみこみ、私はただじっと、花の色を見つめる。じっと。
 多分今週中に咲くのだろう蕾たちはぷっくらと膨らみ、薄紫色に色づいている。それにしても今年はなんてたくさんの花芽をつけてくれたんだろう。去年、ミヤマホタルカヅラはあまり花をつけなかった。私が挿し木で増やしたばかりだったからといえばそうなのだろうけれども、でも、私はこの花に会えなくて、とても寂しかった。一年待った今、彼らはこちらが驚くほどの花芽を湛え、戻ってきてくれた。そのことがこんなにも嬉しい。これからしばらく、彼らが私の心を満たしてくれるんだろう、そう思うと、なおさらにいとしさが募る。
 途中ふと思い立って、家の周囲をあちこち歩いてみる。私が見上げるのは桜の樹。あちこちに立つ桜の樹を見て回る。もうみな、花をすっかり落として、代わりに青々とした葉々を茂らせ始めている。その足で埋立地まで私は歩く。そして今度見上げるのは立ち並ぶ銀杏の樹。
 思わずうわぁと声が漏れる。なんて小さな掌だろう。自分の息を止め、じっと耳を澄ます。すると、夥しい数の掌が、ひゃあひゃあとおしゃべりを始める。みな一斉に笑っているみたいな声が、私の中で木霊する。手を伸ばし、ほんの少しだけ葉に触ってみる。ひんやりとした若葉の感触。ひゃぁひゃぁひゃぁ。私の小指の爪よりもずっと小さい葉々たち。今、風が吹いた。ひゃぁひゃぁひゃひゃひゃひゃひゃ。風が彼らをくすぐったのだろうか、若葉の笑い声が、鈴の音のように辺りに響き渡る。私はなんだか嬉しくなって、もし誰もいなかったら、スキップでもして帰りたくなる。もちろん、こっそりと、だけれども。
 そうやって、淡々と時間が過ぎてゆく。しなければならないことは山積みでも、したいことはそんなに多くはない。私は、したいことだけを選んで、ちょっと休んでは為し、為してはまた休む。空では太陽が歩み続け、いつのまにか西に傾き始める。陽光の色もそれに合わせて少しずつ変化をみせる。ガラス越しにさし込んで来る斜めの光が、畳の上に影模様を描く。私はその絵が一刻一刻変化する様を、見つめるでもなくぼんやりと眺め、そのたびに小さく深呼吸をする。
 ぱっくりと割れていた傷口がくっつき始めたからだろう、それがそのまま包帯にもくっついて、腕を動かすたびに奇妙な痛みが走る。それが面倒で私は病院で巻かれた包帯をひょいと解く。風に晒していればこんな傷口、いずれは乾く。微妙に膿んだ場所もいずれはくっつき、そして、乾くだろう。ふと思う、この目に今映る腕の傷口と、私が心に押し込んだ傷痕とは、重なるんだろうか。それとも、重ならないのだろうか。
 かつて、さんざん消去したくてたまらなかったこの肉体は、あれからもずっとこうして生き延びている。あの頃はあれほどに消去することを願っていたのに、今はどうだろう。私は、消去したくないし消去されたくもない。そう思っている、間違いなく。
 ざっくざっくと腕を切り刻むとき、痛みはない。皆無といっていいほどに存在しない。なのに、こうして傷となって時間を経ると、奇妙な痛みが沸いてくる。それは今のように傷が引き攣れる痛みだったり、何かに擦れて生じる痛みだったり。どちらにしても、この痛みは一体、何処から沸いてくるのだろう。でも、この痛みは多分、ありがたいものなのだと今更だけれども思う。でなければ、私はあっさりと次々に切り刻むのだろうから。そう、私はそんなに強くない。
 でも。
 そう、確かに、私は強くない。弱い。でも、この、生き延びようとする底力だけは多分、とてつもなく強い。
 自分の弱さを受け容れ、同時に自分の強さを信じ。淡々とこうして生きてゆく。それができれば、それさえできれば、多分、私は自分をまっとうできる。そんな気がする。
 今、窓からふわりと風が舞い込む。花瓶にさしたアネモネの花びらがひゆらりと落ち、床に散る。
 もうじき今日も終わってゆく。眠るときには、今日できなかったことを数え上げるのではなく、今日できたことを数えて、それが一つでも在ったことを笑んで眠れるといい。
 遠くで今、サイレンの音が木霊する。


2005年04月18日(月) 
 雨が降り、雨が止む。そしてまた雨が降る。激しい雨、霧のような雨。沈黙。一晩のうちに雨が次々変化する。窓を開けて私は外を眺めている。街灯の橙色の光の輪の中で、雨粒が大きくなったり小さくなったり細くなったり。目を閉じて耳を澄ますと、車が行き交う音。その音も、雨が降っていることを知らせる微妙な音。
 今朝ベランダに出ると、小さな小さな蒼い粒が。ミヤマホタルカヅラが咲いたのだ。たった一輪だけれど、ぱっと開いたその花びらは、見事に藍に染まり、曇りがちの空の下できらきらと発光している。娘を呼ぶと飛んでくる。が、「なんだ、薔薇じゃないの?」とがっかり。この花は小さいけど、でも一生懸命咲いてるんだよ、薔薇じゃなくたっていいじゃん、と言い返すと、未海は薔薇がよかったの、薔薇のお花が咲いたと思ったの、ときっぱり返事を返されてしまう。せっかく咲いてるのにぃと、私は一人でしつこくベランダにしゃがみこむ。周りの他の蕾たちも、いっせいに先端を薄紫色に染め替えている。じきに次々咲くんだろう。今からそれが楽しみでならない。
 アネモネの花はずいぶん小さくなった。それでもまだ次々蕾の頭を持ち上げている。花びらが落ちかけている二本に手を添えて鋏を入れる。ご苦労様、そう言いながら取り上げ、ガラスのコップにさす。

 「今週はどうでした?」
「また手首切ってしまったんですが、でも、切ったら逆に落ち着きました。ほんの数日前のことなのに、全部もう遠い昔のような、四年、五年はもう時間が過ぎているような、そんなふうに感じられます。全部が遠い…」
「…」
「切るまでは私、かなりきりきりしていたんです、きりきりして暴発寸前という感じだった、けれど、切った後はそれがなくなって、ぼんやり過ごしていたように思います。今じゃぁもう、色褪せた写真のような。遠いんです、全てが。何もかもが遠い昔みたい」
「…そう」
「でも、声が突き刺さるのは収まらないです。今も、先生、隣の、隣の診察室の声が、ぐさぐさ突き刺さる…」
「隣の声ね」
「…」
「だから電車とか乗るとしんどい。外出るとしんどい。気がつくとだから、家の中ばかりにいるような気がしないでもないです」
「…」
「…」
「大丈夫? きつい?」
「…え、あ、はぁ、あの」
「いいわよ、ゆっくりで」
「…はい、あの、いや、何喋ってるのか分からなくなってきちゃって」
「いいわよ、無理しないで」
「…」
「…」
「…先生、私、ちょっと不安になりました」
「何?」
「この間リストカットして、楽になったでしょう? 本当にふっと楽になったんです、リストカットという行為で爆発できたおかげで。でも、ふと不安になった。これで味をしめちゃって、私、またリストカットを繰り返しやしないかって」
「ええ、そう思うわ。絶対にしないで。やめて」
「…」
「ね? でないと、昔がぶり返してしまうと思うわ。あの頃は全くもう、習慣のようになってしまっていたでしょう?」
「…私もそう思うんです。だから不安になる。でも、楽になったことも事実で…」
「だめよ、絶対にだめ。もうこれ以上切ったらだめ。分かるわね?」
「…分かり、ます。頭では。私もそうなりたくないって思う。でも、自信はない…」
「できるかぎり踏ん張って。でないとまた習慣のようになってしまうと思うわ。だから、ね?」
「…はい」
「…」
「…」
「…」
「大丈夫?」
「…すみません、隣の声が、突き刺さって。みんなどうしてあんなに早口に喋ってるのかな。早口ですよね?」
「いいえ、早口じゃぁないわ、多分、普通の速度だと思うわ」
「え? そうですか? 私の耳には、どんどん早口になっていくように聞こえる」
「…」
「攻撃されてるみたいな。マシンガンみたい、次々に声が飛び出してきて、それが全部突き刺さる」
「…」
「…すみません」
「いいのよ」
「…」
「とにかく、一週間生き延びて。今はそれだけで充分だわ。ね? 来週もここで会えるように、生き延びてね」
「あ、はい…」

 診察室から出る頃、隣から私の耳に突き刺さる声はかなりの速度での早回しになっており。それはもう、声ではなく音の領域に入ってしまうような、そんな。だから私は、診察室のドアを後ろ手に閉め、早足でその場を立ち去る。早くここから離れたい、そのいっしんで。私にとって安全な場所であるはずの診察室。でもここのところいつも、隣の診察室の声に私は呑み込まれてしまって、安全だった場所が安全じゃぁなくなってゆく。それが苦しさに輪をかける。
 処方箋を受け取り、駅へ辿り着いた私は、気づかないうちに何本も電車を見送っていた。電車の扉が目の前で閉まって、閉まってしまってから気がつくのだ、乗るのを忘れた、と。そしてまた意識がぼんやりする。
 昔、手首を切ること、自分の体を傷つけることが習慣となっていた頃、先生は一度として、やめなさいとは言わなかった。唯一、左腕のこの部分以外は切らないでね、と言っただけだった。でも今、先生は、やめなさいと私にはっきり言う。それだけ私が、あの頃よりは落ち着いてきたということなのだろうか。だから、今の私になら、やめなさいとストレートに言っても大丈夫だと先生は思って、それではっきりやめなさいと言ってくれているんだろうか。だとしたら、私はやっぱり、もう二度と切っちゃだめだ。自傷行為などに逃げてはだめだ。私は心の中でそう思う。でも。
 逃げないでいられるだろうか。
 そして心に浮かぶのは娘の顔。だめだ、これ以上だめだ、そう思う。思うのに。
 自信がもてなくて。私は途方に暮れる。でも、駄目なものは駄目だ。途方に暮れながら私は、自分に何とか言い聞かす。

 ようやく乗れた電車で、私は仕事場へ向かう。三時間ほどそこで仕事をし、作成したデータを全部自宅に転送した私は、そそくさと仕事場をあとにする。少しでも自分を緩めておきたい。私は自転車で坂をのぼり、ただひたすら、家路を急ぐ。
 家に辿り着き、私はまっすぐベランダに向かう。そしてしゃがみこむ。ミヤマホタルカヅラ、今年最初の一輪。曇り空の下、きらきらと輝くその色。私はその色だけをただじっと見つめる。色は私の中で周囲に溶けだし、辺り一面、藍色に染まる。そして気がつけば、海のように広がったその色が、波の音を立て始めている。私の中で。
 心臓の音に似たその音。私はその音に耳を澄ます。私の中で世界は静かに立ち上がる。私はいつまでも、その音に耳を澄ます。


2005年04月16日(土) 
 明るい日差しが母の庭に降り注ぐ。母の庭、そこには秩序というものが存在しない。言い方を変えると、きれいに整えられた庭ではない、むしろ、好き勝手に植物が生えている、そんな、草木が在りたいように在る、ただそれだけの庭だ。確かに母は種をまく。苗を植える。挿し木する。接木もする。けれど、そこには母の意志よりも植物たちの意志の方が大きく働いている。母は言ってみれば、庭にとって草木の代弁者のような、そんな存在に過ぎない。草木の声に耳を澄まし、彼らが一番愛らしく、同時に一番伸び伸びと生きられるように配し、水をやり、愛で撫でる、それが母の役目だ。
 今、そんな母の庭は、花韮があらゆる場所で花を揺らしている。それは、どうしてこうも増えたのかと呆れ笑ってしまうほどだ。花韮の前は水仙だった。母に、よくもまぁこんなにもたくさん庭のあちこちに水仙を植えたものだね、と言ったところ、私が植えたのはほんの一握りよ、あとは水仙が勝手に増えたの、と事も無げに返事が返って来た。おかげでその時期は、庭は黄色い絨毯をひいたのではないかと思うほどの花に埋もれていた。でも、水仙の季節に咲く花はそう多いわけじゃない。むしろ、枯草色の方が庭の大部分を占めるのがたいていだ。そんななか、母の庭だけが黄金色に輝いている。しかも、整理整頓されているわけでなく、水仙が好き勝手に増えて庭のあちこちで揺れているわけだから、その姿は実に自然なのだ。道ゆく人がみな、それを眺めて口元を緩める。そして、庭の中、しゃがみこんで萎れた花殻を摘んで歩く母の姿は、すっかり黄色の中に埋もれている。
 今、アネモネやテッセン、つつじに桜草、チューリップにエリカ、その他私の頭では覚えきれないほどのたくさんの花々が母の庭で咲き誇っている。みんな自由自在に増えてゆくから、場所と場所で交じり合い絡み合いながら、空に手を伸ばしている。一日だって庭から離れられないのよと嘆く母の声は、嘆きながら同時にとても誇らしげに聞こえる。母の愛情をいっしんに受けて、それを肥しにして咲き誇る花々。庭というのはこういうものなのかもしれないと、母の庭を眺めているとつくづく思う。決して美しいわけではない、けれど、いつまでも眺めていたくなるような、そんな庭。
 水場の近くに紫陽花の株が幾つもあるのだが、その紫陽花のうちの、より日当たりのいい場所に陣取っている株の新芽に触れて驚いた。もう蕾がそこに隠れているのだ。私はあっちこっちの新芽をそっとめくってみる。ここにも、そこにも、あそこにも。産まれたての赤ん坊の爪のような、小さい小さい塊が、やわらかい新芽に包まれてこっそりそこに在る。紫陽花が咲く季節はまだまだ先だろうに。なんて気が早いのだろう。私は思わず笑ってしまう。彼らに、そんなに急いで何処に行くの、と、尋ねてみたくなってしまう。
 娘が産まれてから、再び交じり合うようになった母と私。まだ私や弟が実家で暮らしていた頃も多少なり感じてはいたけれども、この頃とても強く感じるものがある。あぁ母は言葉を使うことがとても不器用で、だから私たちは必要以上にぶつかり合って来たのだな、と。もちろん母に似て私も言葉の使い方が不器用だ。要らぬ言葉をぽんぽん言ってしまったりする。でも、今こうやって母の庭を眺めていると、母という人が実は、どれほど愛情深い人であるのかを、まざまざと知らされる気がするのだ。
 言葉がなければ私たちは伝えきれないものをお互いに持ってしまっている。それは人間の性の一つだろう。でも同時に、言葉が在ってしまうからこそすれ違ってしまう、そういう部分もまた、存在する。今、お互いに適度な距離を持って、誤解しかねない言葉は聞いたそばからそれぞれに受け流す術を覚えて、私たちは多分、心の距離が縮まった。そして、余計な言葉を交わさない分、母は私が育てている孫を、私は母が育てているこの庭を眺め、おたがいを認め合う。
 私が裏庭から通りに面した庭の方へ歩いてゆくと、娘が嬉々として走って来る。見ると、色とりどりの花束を片手に握り締めている。どうしたの、と聞くと、今ね、ばぁばと花束作ってるの、と弾んだ声が返って来る。それだけ言って私の娘は母の元へと飛んでゆく。ばぁば、今度はこのお花がいい。どれどれ、あぁこれはねぇ植えたばっかりのお花だから他のがいいなぁ。じゃぁこっち。いいわよ。そして母は花に鋏を入れる。ねぇばぁば、ピンクはいっぱい摘んだから、今度は黄色のお花がいい、あと白いのも。白いのはいっぱいあるから未海が好きなの取っていいわよ。じゃぁ黄色いのは? 黄色いのはねぇ、じゃぁこれは? うん、これにする。そうやっていつまでも庭の中をぐるぐる回っている二人。あっというまに娘の手ではもちきれないほどの花束になり。
 その花の半分が、今、うちのテーブルの上に飾られている。ばぁば、これ、半分ずっこしようね。いいよぉ、じゃぁ未海の分はどっち? こっち! じゃぁばぁばのおうちにはこっちの半分を飾るね。うん、未海はね、こっちの半分ね。昼間、母と娘とが為していた会話が、そのまま私の脳裏に蘇る。ばぁば、お花はかわいがってあげないといけないんだよね。そうね、かわいいかわいいってしてると、お花はどんどんきれいになるのよ。未海ね、ママの薔薇の樹もね、かわいいかわいいってしてるんだよ。じゃぁきっといっぱいお花が咲くね。うん、そしたらばぁばに持って来てあげるね。
 それは、日差し明るい春の日の、とある午後の風景。


2005年04月14日(木) 
 裏の小学校の周囲の道々は今、桜の花びらですっかり埋まっている。時間になると子供たちが集団登校で歩いてゆくその道。子供らの目は落ちてしまった花びらになど止まる様子はなく、隣の友達と小突きあったり嬌声を上げて走り出したり。けれど、そんな子供らに無残に踏まれながらも花びらは、何処か優しげな匂いを漂わせている。もしかしたら花びらも、子供らと戯れている、そんな気持ちなのかもしれない。幾度踏まれようと、踏まれ続けて捩れてしまおうと、これが己の運命なのだと、花びらは淡々と受け止める。むしろそんなふうに踏まれることを進んで受け容れているようにさえ見える。私は笑い合う子供らと地べたに貼りついた花びらの姿とを、ただじっと、片隅から眺めている。
 娘を保育園に送り届けたその足で病院に向かい、手当てをしてもらう。そして私は、長くゆるい坂道を自転車で上る。明るい日差しが街景のあちこちで弾けている。あちこちの家の窓が開け放たれ、ベランダには洗濯物がはためく。誰がその部屋で暮らしているのかなど知りもしないが、でも、開け放たれた窓を眺めていると、やわらかい気持ちになれる。あの部屋にいる誰かもきっと、このやわらかな風を今頃その身に受けて感じているのだろう。名前も顔も何も知らないけれども、今同じようにこの風を感じている、そのことが、何となく嬉しい。そんなふうに感じる自分に、少し笑ってしまうけれども。
 丘の上、古い団地が並ぶその壁面に、今、ハナダイコンが咲き誇っている。ついこの間まで土の色一色しかなかったその壁面だけれども、今はハナダイコンの薄紫色や桜草の桃色、そして名も知らぬ雑草たちの萌黄色で埋め尽くされている。誰から何を強いられることもなく、植物はそうして自ずから芽を出し、自ずから花開かせる。彼らはどうやって季節を知るのだろう。土の温み? それとも風の温み? 人間のように時計を持っているわけでもないのに、彼らは自分の季節をちゃんと知っている。自転車を止めて彼らを眺めながらぼんやり立っている私の頬を、風がするりと撫でて過ぎてゆく。
 家のベランダ、プランターの中でアネモネは今日も咲き誇っている。少しずつ花は小さくなってゆくものの、いまだ葉の陰に新たな蕾を秘めている。一体いつまで花は続くのだろう。そして薔薇の樹は今、次々に新芽を開かせ、その新しく柔らかい葉は常に風に揺れている。真っ赤だったまだ開かぬうちの芽が、気づけば葉を開き、そして変色してゆく。そしてもう一つ、ミヤマホタルカヅラが今、幾つもの蕾を付け出した。ぷくっと膨れた蕾はまだ緑のまま。この緑がやがて澄んでゆき、そして藍色に染まる。あとどのくらいしたら花開くだろう。今から楽しみでならない。ミヤマホタルカヅラの藍色は、他のどんな花よりも深く澄んでいるのだから。

 太陽はやがて西に傾き始める。私は久しぶりに本の続きを読み始める。「手のことば〜聾者の一家族の物語」(ハナ・グリーン著、みすず書房)。まだ半分ほどしか読んでいないが、とても印象深く残っている箇所がある。それは、工場で働く聾者の一人が手に怪我をするという場面だ。ミシンの周囲に血が飛散する。それを見つめながら、聾者は改めて自分たちにとっての手の存在を感じるのだ。聞こえる人が手に怪我をするのと聞こえない人が手に怪我を負うのとではどれほどの差がそこに在るのか。聞こえる者にとって手は便利な道具の一つだろう。負傷すればもちろん不便極まりない。けれど、聞こえない者にとって、手は、ただ便利な道具だけでは済まない、彼らにとって手とは、言葉そのものなのだ。手がなければ誰かと言葉を交わすことさえ失われる。
 考えてみれば当たり前である。手話を交わすには手がなくてはならない。そして細かな表現をしようと思ったら、指先まで柔らかく動かさなければならない。でももしその手が指が失われたら。失われるまでに至らなかったとしても、もし指一本でも動かすことができなくなったりしたならば。彼らはそれだけで、言葉の殆どを失ってしまうかもしれないのだ。
 その場面を読みながら、私は今更ながら呆然とする。言葉が失われる世界とは、一体どんな世界だろう。耳で声を聞き取ることができないだけではないのだ、自分が誰かに言葉を発する、伝えようとする、それさえもが奪われる。考えただけで私は背筋に悪寒を覚える。
 そして私の目は、包帯を巻かれた自分の左腕に吸い寄せられる。こんなふうに自分の腕をざくざく切り刻むことができてしまうのは、私が五体満足で産まれたおかげなのかもしれない。五体満足で産まれることができたから、こんなふうに自分の体を痛めつけることができてしまうのかもしれない。だとしたら、私はなんて傲慢なんだろう。

 時間を知らせる電子音で私は我に変える。もう娘を迎えにゆく時刻だ。慌てて仕度をし、家を出る。自転車で坂道を上る。交差点の手前、郵便局の前に、今、ケシの花が咲いている。儚げなその姿。一吹きの風にもくわんと揺れる。
 信号が青になり、私はペダルに乗せた足に再び力をこめる。この目、この足、この手、この声。私の体は間違いなく私のもの。そして、恵まれた証の一つ。まだ大切にすることができなくてじたばたすることが殆どだけれども、それでもいつか、この身体を愛し、慈しみ、感謝できる日が来ますよう。祈るように私はそう願う。
 さぁあと少し。この坂を下れば娘がそこで待っている。


2005年04月13日(水) 
 目を覚ます。薄暗い天井の木目の模様が、ちりちりと歪んで見える。私は起き上がりカーテンを、そして窓を開ける。娘を起こすにはまだ少し早い時刻。私はただぼんやりと、街を見やる。雨が降っているということ以外には、いつもと殆ど何も変わらない景色。でも、雨が降っているというただその一事で、世界は全く別物になる。いつもなら東から真っ直ぐに伸びて来る陽光を受けて光り輝く窓たちが、今日は鬱々と静まり返っている。樹々や屋根の輪郭も何処となくぼやけ、いつもなら明らかに浮かび上がる凹凸がすっかり失われてしまっている。私はその様を、窓枠に寄りかかりながらぼんやりと、眺めている。
 昨日の出来事はまるで百年は昔の出来事のように、私の内奥に埋もれてゆく。振り返ってもすぐそこにある、いつもの昨日の出来事ではなく、もう手の届かない、遥か彼方。出来事の前後を思い出そうと努力するけれども、全く思い出せない。病院から戻って娘にご飯を食べさせたはず、でもその後のことが全く辿れない。一体どうやって娘を眠らせたのか、一体どうやって私は眠ったのか。記憶がないということは時に人を不安にさせる。でも今の私の中では不安よりも、気だるさの方が勝っている。薄暗い外景とさらさらと降る小雨。私は街を眺めるのを止めて、着替え始める。そして娘を揺り起こす。
 ねぇみう、今日はママ、髪の毛下ろしていこうかなぁ、でも、変かなぁ? どれ、見せて。うん。えぇっとねぇ、じゃぁこんな感じ? 彼女はそう言いながら、私の髪の毛を一生懸命いじってみせる。彼女がいじっても、実は全然変化がないのだけれども、彼女の中ではおおいに変化したらしい。ほらママ、これならきれいに見えるわよ、どう? じゃぁこれでいくか。うん、ママ、かわいい! 彼女の得意げな顔があまりにかわいいので、私はちょっと吹き出してしまう。もう一度鏡を覗いても、私がばさりと下ろした髪の毛と彼女がいじった後の髪の毛は、殆ど変化がないように見えるのだが。でもまぁこれも、気の持ちよう。私たちはそれぞれに鞄を背負い、玄関を出る。
 坂道の途中のスノードロップも花韮も、ずいぶんひしゃげてきてしまった。傘をさして歩く私たちは、ちらちらと道の両脇に目をやりながら歩く。郵便局の目の前に立つ桜の樹は、もうすっかり花びらを失ってしまった。その代わりと言っては何だけれども、樹の足元は花びらで埋め尽くされ、私たちはそれを踏んでしまわないよう、避けて歩く。ねぇママ、花びらはどうなるの? どうなるって? ああやって落ちて道にいっぱい溜まって、それからどうなるの? …それはねぇ、うーん、まず天気がよくなったら風が多分何処かに連れてっちゃう。それから? 土の上に落ちたら、花びらはやがて腐って肥料になる。肥料って何? 肥料っていうのは、土に栄養をあげるもの。花びらが栄養になるの? うん、花びらも枯葉も、土の上に落ちればいつか必ず肥料になるの。じゃぁ土の上に落ちなかったら? うーん、誰かが箒でお掃除して、ゴミ屋さんにもって行かれちゃうかなぁ。ふーん。
 保育園の入り口でキスをして、私たちはバイバイをする。夕方までバイバイ。私はその足で駅へ向かう。込み合う電車の中で、私の左腕が人と人の間に挟まれる。痛みはないけれども、挟まれたことで自由がきかなくなり、私の頭はだんだん熱くなってくる。このままだとパニックを起こすかもしれないという不安から、私は途中で一度電車を降りる。遅刻が嫌いな私は、出かける折いつでもたっぷりと時間を用意する。だから、一本二本くらいの電車なら見送っても大丈夫。私はその間に、自分の呼吸を整える。さぁもう一度。さっきより込んでいるんじゃないかと思える電車に、何とか身体を押し込む。そして後は、ひたすら目を外に向ける。何を見るわけでもないけれども、ただじっと、外を向く。余計なことは何も考えなくていい。この電車に乗って、仕事場に行き、仕事をこなし、愛想よく笑って、それさえうまく為せば一日は何事もなく終わってゆくのだから。

 帰りの電車の中、はっと気づく。そういえば傘を何処かに置き忘れた。さっきまで確か持っていたはずなのだけれども。何処に置き忘れたのか、私の中にはまったく記憶がない。私は早々に諦めて、駅の改札を出る。失くしたものは仕方がない。私は右手を額にかざし、雨の中を歩き出す。別に濡れたってたいして困りはしない。あちこちで傘の花が咲く街の中、私はたかたかと歩き続ける。娘の待つ保育園に着く頃には、上着がしっとりと濡れていた。
 ママ! そう言って笑顔いっぱいの娘が階段を降りて来る。家までの道程、保育園であったことをあれやこれや話す。ただそれだけのことなのだけれども、私はほっとする。いつもと変わらない風景がここにある。そのことが、私を安堵させる。
 ねぇママ。なぁに? 今日は病院行かなくていいの? うん、明日行くよ。ちゃんと先生に治してもらわなくちゃだめなのよ。はいはい、分かってる。そういうときにはいはいって言っちゃだめなのよっ。え、あ、はい。先生が言ってたんだから! はいはい。はいはいはだめなの! はい。思わず笑いそうになるのだけれども、彼女の真剣な顔を見ると笑うに笑えない。そして唐突に彼女が歌い出す。春のうららの隅田川…。隅田川が、どうしてもすみだわがになってしまう彼女の歌。でもそんなこと、たいしたことじゃぁない。いつか彼女が自分で気づくだろうし覚えるだろう。私は彼女の歌声を聞きながら家までの道を歩く。ママ、遅いよ! 早く! 彼女の声に手を上げて答える。
 一日はそうやって終わってゆく。背伸びをするわけでもなく、かといってしゃがみ込むわけでもなく、淡々と、淡々と過ぎてゆく。それは多分、幸せの一つのかたち。


2005年04月12日(火) 
 雨が降り続く。街はみなしっとりと濡れ、あれほど乾ききっていたアスファルトは今、雨を吸い込んで黒々とその存在を知らしめる。私は込み合う電車に飛び乗って、ドアに身体をぴったりくっつけ、心の中で呪文を唱える。誰もいない、誰もいない、ここにいるのは私だけ。そんなあり得ない呪文を唱えながら、私は電車が目的地に着くのをひたすら待つ。
 きっかけは、多分、ひどく些細なことだった。そのひどく些細なことが、私の心臓をぐさりと刺した。そして気づくと、私は手当たり次第そばにおいてあったものを投げつけ、ドアを蹴り飛ばし、その場から去る。こんなことしたって何の解決にもならないことを百も承知で。
 私の中で衝動はあっという間に倍増し、増殖し、私という一個の固体を全部呑み込んでしまうほどにそれは増殖し、気がつけば私はすっかり、それに呑み込まれていた。頭の隅、ほんのひとかけらの頭の隅で、そんなことしたって何の解決にもならないのだよという冷静な声がする。でも、私の殆どの部分が、絶叫していた。そして気づけば、私の腕は幾つも切り刻まれていた。
 ぼたぼたと床に落ちる紅い滴は、私の腕から絶え間なく流れ落ち、私はそれを眺めるでもなく眺めていた。あぁまた後戻りしてしまった。これだけはもう二度とやるまいと決めていたことだったのに、私の衝動はあっけなく、私の理性を凌駕し、私の腕は傷だらけになっているのだった。
 もう何もやる気なんて起きなかった。なのに、私の奥の奥、針の先ほどの何かが必死に声を上げていた。だめだ、だめだ、こんなんじゃだめだ、ほら、自分から逃げるな、自分から目をそらすな、この弱過ぎるどうしようもなく弱過ぎるこの部分も、間違いなくおまえの一部なのだ、と。自分から目をそらすなんて卑怯な真似は、もうこれ以上するな、と。

 どのくらい時間が経ったのだろう。覚えていない。私はのろのろと立ちあがり、床に溜まった紅い染みを、まずタオルで拭いた。そして電話をする。ボランティアの人が電話に出て、近所の外科を教えてくれる。私は時計を見る。まず娘を迎えに行って、その足で病院に行こう。そう決めて、私は仕度をする。
 病院に着くと、連絡をいれていたせいなのか、先生がすぐに受付に出てきて、腕を見せてごらんと言う。どうにでもなれという心持ちで、私は先生に腕を見せる。よし、じゃぁこっちに来て。先生に言われ、私は娘と一緒に診察室に入る。娘の目の前で治療はあっという間に済んでゆく。「君、これ、一度目じゃないね。もう何度も何度も切ってきたでしょう?」「はい」「とまらなくなっちゃったの?」「はい」「よし、まずは消毒、抗生物質も出すからね。縫うのは…」「縫いたくないんですけれども…」「うーん、じゃぁなおさらに薬ちゃんと飲んで。二日にいっぺんは、ここに来ること。いい?」「はい」。
 私が腕を切り刻んだ理由を尋ねることもせず、先生は淡々と治療を進めてくれる。合間に娘に話しかけ、娘は先生の言葉に安堵する。
 じゃ、明日か明後日、また来てくださいね。そんな先生の声に頭を下げて、私たちは外に出る。

 娘が眠り、私はひとり、いつもの椅子に座る。いつのまにか雨は止んでいた。娘が眠りにつく直前まで、包帯を巻かれた私の左腕をずっと撫でていた。早く治りますように、そんなことを何度も言いながら、彼女は私の腕を撫でてくれた。
 情けないと思う。こうなってしまったことに私なりに理由があったとしても、それでも情けないと思う。
 一番恐いのは、これがきっかけになって、際限なく腕を切り刻んでしまうことだ。よほどしっかり足を踏ん張らないと、また容易に私は切り刻むことを始めてしまうのではないか、そう思える。耐えられるだろうか。踏みとどまれるだろうか。いや、踏みとどまらなければいけない。これ以上は。
 頭ではそう思うのだ。必死にそう思い、自分を律しようと私の中の私の一部がその方向に動き出す。しかし。
 同時に、思う存分切り刻んでしまえ、という声も、私の奥から沸きあがる。私をそうして誘惑し、蟻地獄に引きずり込もうと嘲笑している。
 ベランダに出る。雨の止んだ夜の街はしんと静まり返り、車の行き来も何故か今夜は少ない。辺り一面、静寂に包まれている。アネモネを見やると、夜闇の中、彼らは花びらを閉じ、じっとしている。薔薇の新芽は次々と開き、開いた直後の紅色からやわらかい緑へと変化し続けている。ミヤマホタルカヅラは今、驚くほどたくさんの蕾を孕み、その蕾は日に日に膨らんでゆくのだった。いつ咲いてくれるだろう。あの澄み切った、それでいて深い深い蒼。小さな花だけれども、その蒼の深さは海の深さを思い出させるほどなのだ。早くその色が見たい。私はしゃがみこんで、蕾をそっと指先で撫でる。

 大丈夫。揺り返しはいつだってある。それがたまたま今日来ただけだ。調子の悪い時にどどっと押し寄せただけだ。だから大丈夫。明日になれば私はまたきっと、笑っている。このくらいの傷が何だ。どうってことはない。昔腕一本を隙間なく切り刻んで、そうしなければ止めることができなかった衝動も、今日は数えられる程度の範囲で止めることができたのだから。なんとかなる。きっとなんとかなる。今日は今日。明日は明日。私はまた、歩いてゆける。
 街の明かりが殆ど消えた午後11時過ぎ。街灯だけがしんしんと点っている。見慣れた橙色の光が通りを照らす。深夜バスが今、バス停を通過した。私はベランダの手すりに手を添えて、首を反り返らせる。雨の後だ、さすがに星も何も見えない。けれど、この雲の向こうにきっと、光溢れる世界が隠れてる。明日になれば会えるかもしれないその世界を、今は信じよう。
 大丈夫。もうじき今日は終わり、明日だった時間がやがて今日になる。一日一日を地道に越えてゆけば、道は必ず拓ける。
 私は、大丈夫。


2005年04月11日(月) 
 毎週の診察を終えて電車に乗る。雨は時間が経つ毎に冷たさを増してゆくようで、私は上着の衿をかきあわせる。走る電車の窓に雨粒が点線を描く。昼間の電車は何処か寂しい。乗り合わせた人たちはみな、ぼんやりと俯いている。
 駅を降り、川沿いを歩く。コンクリートに囲まれた川。立ち並ぶ桜は次々に花びらを手放してゆく。その花びらは、川面に、そしてコンクリの壁に地べたに、ぺたりと貼りつく。工事中で黄色く細長い浮きで遮られた川面の一角が、薄桃色でびっしりと埋まっている。まるで花びらの絨毯。私はしばらくそこを見下ろせる場所に立ち止まり、辺りをゆっくりと見回す。周囲には誰もいない。通り過ぎる人影のひとつさえない。私は傘をさし、ただじっとそこに佇む。
 やがて私の歩く道は、以前女の匂いに噎せかえっていた通りに繋がる。カーテンもドアもぴったりと締めきられた部屋たち。全てのドアの隙間に、請求書等の郵便物がぎゅうぎゅうと押し込まれている。誰も取りに来る者はいない。放置されるまま。雨が少し強くなる。傘に落ちる雨粒がぷつぷつと音を立てる。私は、誰の足音も誰の気配もない通りを、ひとり、とぼとぼと歩く。ふと見やると、「暴力を追い出して明るい町作りを」と書かれた立て看板がそこに立つ。雨に濡れ、黒い大きな文字が光るばかりの看板。私は少し途方に暮れる。ここから追い出された暴力は、今度は何処へ行くのだろう。
 仕事場で、コンビニエンスストアで買ったお握りを片手に作業を為す。繰り返し作業が多いおかげで、私の頭の中はしばし空っぽになる。回り終えたフィルムがかたかたと、私の頭のずっと芯の方で音を立てている。

 「こんにちは」
「…こんにちは」
「今週はどうだった?」
「先生、床が蠢くんです」
「床?」
「私が夜トイレに入るとき、娘が扉を開けておいてくれって言うからいつも家では扉を開けてるんですけど、うちの床の木目が、蠢くんです。木目の端っこだけが、ざわざわと」
「蠢くのね」
「はい。それと、今週はちょっと、過食嘔吐が止まらなくて」
「…」
「隙間を全部埋めたくなって仕方がないんです。埋めないとたまらないっていうか…」
「…」
「別におなかがすいてるわけじゃない。すいてないのに気がつくと食べている。それに気がつくと嫌悪感でいっぱいになる、吐かずにはいられなくなる。それで吐く。でも気がつくとまた食べてるんです。だから吐く。その繰り返し」
「…」
「未海がいるときは何とか制御がきくんです。吐いてるところなんて未海に見せたくない、そう思うと何とか制御できる。でも、それ以外の時はもう、全部の隙間を埋めたくなる。食べて吐いて食べて吐いて。多分、これ、食べて吐くっていう行為じゃなくてもいいんだと思う、隙間を埋めさえできれば。でも、他にそれに当てられる行為が見当たらないから、手当たり次第に食べては吐く、そうなってしまう」
「悪夢とかは?」
「悪夢…は、あまり見てない気がする。覚えてないです」
「そう…」
「先生、その過食嘔吐と、あと、頭痛が酷いんです。頭痛に関係ないかもしれないけど、たった一晩寝ただけで筋肉痛になってたりすることが結構あって、そうすると肩とか首ががちがちになってて、四六時中頭痛がする」
「寝てる最中も身体がよほど強張ってるのね」
「自分じゃぁ分かりません。でも、そうなのかもしれない。肩とか背中とか、別に運動したわけでもないのに鈍痛に襲われる。極度の運動をした後のあの独特な痛み。でも私、運動なんてしてない」
「そうね」
「あと先生、とっても困るのが、自分の耳です」
「…」
「電車とか乗ってて、たとえばガムをくちゃくちゃ噛んでる人なんかが隣に座ると、もうだめなんです。耐えられない。あのくちゃくちゃって音が耳にぐさぐさ突き刺さる。だから耳を塞ぐ。それでも駄目なら席を立つ。でも、席を立っても、一度耳に突き刺さり始めた音は消えてくれないんです。それどころかむしろ、どんどん音が大きくなって、耳を塞いでも目を閉じても、音が耳の中でがんがん鳴ってる。隣で舌打ちなんかされた日にはもう絶叫したくなる。たった一度の音でもそれが私の耳にがんっと入ってきて、消えてくれない。自分の絶叫でそれをかき消したくなる。でも、絶叫なんかしたら私が狂ってるって思われるだけだから必死にその衝動を抑える。でも、それがたまらなくしんどい」
「…」
「…」
「…」
「…先生、今、沈黙が一瞬あったでしょ? もうこれだけで駄目なんです。今のこの沈黙の一瞬に、私の耳は隣の診察室で喋ってるこの女の人の声に全部奪われてしまう…」
「獲られちゃったのね、一瞬のうちに」
「…そう、なんです、だから…えっと…」
「なぁに?」
「いや、あの、だから…、駄目なんです、こうなっちゃうから、だから、隙間全部埋めないといけないってことになっちゃう。でないと自分が失くなってしまう」
「ぎりぎりね」
「…え、は、ぎりぎり?」
「ぎりぎりのところで踏ん張ってるって感じね。リストカットは?」
「あぁ、えぇっと、それ、それ…」
「大丈夫? もうきつい?」
「…いえ、もう少し、何とか、それで、何でしたっけ…」
「リストカットは?」
「それ、したくなるんです。もうめちゃくちゃに切り裂きたくなる。でも、それをしたら終わりだとも思う」
「そうね、そうだと思うわ」
「今それをやったらまた同じことになっちゃう、そんなふうに思う。思うんだけど…思うんだけど…何でしたっけ」
「リストカットね」
「…よく分からなくなってきちゃいました、すみません」
「いいのよ、今はとにかく、まず、一週間生き延びること、それだけ思ってくれていればいいわ」
「…はい」
「一週間後、またここで会いましょう、ね?」
「はい」
 一週間。それはどんな時間だろう。いつだって一週間、とにかく一週間、それさえ何とか生き延びることができれば、次に続くことができる。一週間、そしてまた次の一週間、それを積み重ねていけば、一ヶ月、それをさらに積み重ねていけば一年、そして二年。一日一日の積み重ねがきっと、私の明日を繋ぐ。そう信じて私は、診察室を出る。まだ隣の診察室から声が響いて来る。私は耳を塞ぐ。そして早足でその場から逃げ出す。少しでも声のしない方へ。耳の中では、どんどん女性の声が大きくなる。それはやがて声ではなくただの音になり、その音が延々と、私の耳の中で木霊し続ける。それだけの、こと。

 娘を迎えに行く時間ぎりぎりまで仕事を続ける。雨は降り続いており、私はまた傘をさして歩き出す。太陽の一欠けらさえ見ることができなかった一日。一面雨そぼふる街は暗く、もう街灯が点っている。私は頭をできるだけ空っぽにして、ただ歩くことだけに気持ちを傾ける。ふと目の前を白っぽい小さい何かが斜めに横切る。はっとして見やると、それはすぐ隣に立つ桜の樹から舞い落ちた花びら。土曜日ここを通った折には、まさに見事に咲き誇っていた桜。私は立ち止まり樹を見上げる。街灯の明かりに照らし出された枝々には、もう殆ど桜の花は残っていず、みな無残に散り落ちてゆくのだった。日曜日の風が、そして今日の雨が、花びらを次々に奪い取る。奪い取られても奪い取られても、それでも樹は黙ってそこに立ち続ける。花びらを敢えて守ろうとするわけでもなく、奪われるままに手放し、そして沈黙している。もしこの樹が私だったなら、今頃絶え間なく叫び声を上げていたかもしれないのに。どうして植物たちはこんなにも、潔いのだろう。樹々も花々もみな、どうしてこんなにも。後ろから歩いてきた人の肩が、立ち尽くしている私の背中にぶつかる。はっとして、慌てて私は再び歩き出す。駅から続く大通り、ちょうど人通りの多くなる時間。私にぶつかって、そして追いぬいていったサラリーマンの背中はあっという間に人ごみに消えてゆく。私も少し足を速めて、娘の待つ保育園へと急ぐ。
 私の目の奥で、桜の花びらが舞う。その花びらの嵐の向こうには年輪を刻んだ樹が一本、すっくと立っている。ただじっと。


2005年04月08日(金) 
 埋立地、海へと続く道沿いに、何本もの桜の樹が立ち並ぶ。まだ若い木ばかりだから、桜のアーチとまではいかないものの、それでも桜は真摯に花をつけ、その花を掲げるように枝を空へ向かって伸ばしている。
 昨日から続く強い風は、容赦なく花びらを奪い続ける。ふと見れば、石畳の上に次々落ちる花びらが、渦巻く風と共にダンスを踊っている。くるくる、くるくると踊り続ける風と花びら。私はしばらく、その様子を見守る。
 今日初めて、私は彼女を待たせた。付き合い始めてから今日まで、彼女と会う約束をするたび、待つのは私の方だった。いつだって時間ぎりぎりか遅れてくるのが常の彼女だったし、一方私は、いつだって時間前に約束の場所に着いていなければ気が済まない、そんな関係だった。でも今日、私は初めて遅刻した。いつものように目を覚まし、いつものように起きて娘と朝の仕度を終えた私だったのに、気づいたら意識を失っていた。目を覚ますと私は布団にうつぶせになっており、顔のすぐよこには娘が座っていた。ママ、大丈夫? あれ、ママ、どうしたんだろ。あのね、ぱたんってなったの。そっか、ごめんね、今何時だろ、ありゃっ、早く保育園行かなきゃっ。今朝はそんなふうに、私たち二人は慌てて家を出たのだった。
 約束の時間より五分遅刻。彼女はテラスのテーブルに座っていた。駆け寄ろうとして私ははっとする。そこに座る彼女の、顔色も髪型も何もかもが以前と違っていた。知り合ってからいつだって亡霊のように儚くこの世界に立っていた彼女はもうなく、確かに実存しているその大きさと重さをもって、今私の目の前に彼女は在た。あぁ、会わなかった一ヶ月間に、彼女は大きく変わったのだ。そのことを、私は痛感した。でもそれは決して、悪い意味での痛感じゃぁなかった。
 私の前にはじめて口紅をぬって現れた彼女は、口調も以前と違っていた。まるで薬中毒者かアルコール中毒者のようにいつだって呂律が回らない彼女だったのが、今私の目の前で話し出す彼女は、まだ多少舌ったらずなところがあるものの、それでも、ちゃんと焦点を合わせて話していた。私は黙って、彼女の喋るその旋律に、耳を傾けていた。
 あぁ、別れだな。そのことを、私は実感した。彼女の声に耳を傾け、彼女の目が私の目にしかと焦点が合っているそのことをひしひしと感じ、私はただ、黙って、彼女をただ、心の中で見つめていた。
 もう、大丈夫だ。そう、思った。そして私は、今日の私の役目を悟った。私は彼女をここで見送るのだな、と。彼女が歩いてゆくその姿を、見届けるのが私の役目なのだな、と。

 同じ頃、状況は異なれど同じ種類の事件に遭った。偶然にも同じドクターの所へ通い、同じ種類の症状名を冠され、私たちは出会った。それから今日まで、一体何年の付き合いがあったろう。ひとりでは眠れないと言っては私の部屋にやってきて、私の部屋で泥のように眠る彼女の寝顔を、私は一体何度眺めて過ごしただろう。自暴自棄になる彼女の頬をこの手で打ったこともあった。それと同じ手で、泣きじゃくる彼女の背中を夜中じゅうずっと撫でて朝を迎えたことが何度あったろう。永遠に出口のない、迷宮に迷い込んだかのような日々だった。
 早く病気と共存できるようになるよ。目の前で今、彼女が言う。多分そんな言葉を彼女からはっきりと聞くのは、はじめてのことだった。私は黙って頷いた。治るとか治らないとか、そんなレベルの話じゃぁない、一度陥ったら後は、いかに仲良く共存してゆくか、その方法を掴むしかないのが、私たちが事件を経て頂戴した代物だった。開き直りが早かったのは多分、私の方で、彼女は出会ってからずっと、いつだって嘆いていた、羨んでいた、あんな事件なんてなければと、そう嘆いては泣いていた。そんな彼女が今、私の目の前で笑っている。共存できるようにがんばるよと、そう言って。

 別れ際、私たちは桜の並木道を並んで歩いた。今年は二度お花見ができるよと彼女は私の隣で笑う。そう、彼女はこれから、北の国へ去ってゆく。引越しを済ませて一段落した頃、きっとそっちでは桜が咲くんだろうね。私が言う。うん、そんな感じだろうな、彼女が答える。
 北の国とは言えど、同じ日本だ。会えないことはない。確かにそうだ。けれど。
 私たちは二度と、会うことはないだろう。今もし、いつかまた会おうねと約束を交わしたとしても、私たちはきっと、会うことはない。何故なら、会えば必ず私たちは、自分たちの身の上に起きた出来事を蘇らせずにはいられないからだ。私たちはあまりに知りすぎた。お互いの傷を知りすぎていた。あれからの日々を、共に過ごし過ぎていた。その日々はあまりに残酷で。
 これまでの彼女だったら、いつだって私のところへ逃げてきた。パニックになった、フラッシュバックに襲われた、そのたびに彼女は私へ電話を鳴らし、私はその電話を受けた。彼女がうちまで逃げてくれば、いつだって私は彼女へと玄関の鍵を開けた。彼女が途方に暮れて私の目の前でさめざめと泣けば、私は彼女の背中をただひたすら撫でた。それでも彼女は、浮上できないでいることを、私はいつだって知っていた。私たちのような状況に陥った者は、周りがいくら手を差し出しても、それだけじゃぁだめなのだ。自分の状況を、それがどんなに受け容れがたい状況であってもそれを正面から受け容れ、そして自分の力で歩を進めなければ、どんな救いもあり得ない。それが私たちが事件を経ることで頂いた唯一の代物だった。そして彼女は長いこと、全てを嘆き、拒絶し、ただ泣きじゃくるばかりだった。
 でも。
 今彼女は、一歩を踏み出そうとしている。確かな一歩を。
 ここをこうして二人で歩くのも、最期かもしれないね。私はとうとう言ってしまう。そう言って彼女に笑いかけると、彼女もくすりと笑う。うん、でも、あなたさえ赦してくれるなら、私、またあなたに会いたいよ、会いにくるよ、元気になって。そうだね、いつかね、そういう日が来たら。でもね、あんたはもう大丈夫。なんかね、今、安心してるんだ、多分、だから安定してるっていうか…。うん、分かってる。うちの両親がね、あなたに会いたいって。ははは、別に構わないけどさ、会っても何も出ないよ。あはは、違うよ、お礼を言いたいんだって。いいよ、お礼なんて、そんなものいらない。そんなものより、あんたが一日一日、元気でいてくれれば、それでいい。うん…。
 そして最期の曲がり角。私は右に、彼女は左に曲がる。この先は別々の道だ。じゃ、またね。どちらともなく私たちはそう言い交わす。それが実現されることがないとしても、私たちはそう言い交わす。うん、またね。そして手を振って、別れる。
 心の中で私は、彼女にエールを送る。彼女の姿が心の中で小さくなってゆく。どんどんどんどん小さくなってゆく。がんばれ。

 私たちはあまりに知りすぎた。お互いの傷を知りすぎていた。あまりに残酷なあれからの日々を、共に過ごし過ぎていた。忘れることなど決してできない、そんな日々をお互いに知りすぎていた。
 だから、顔を合わせれば、私たちは否応なく、自分たちの経てきた過去をつきつけられる。それが助けになった時期も確かにあった。でも。これからは、違う。
 私は初めて振り返る。前へ前へと歩いてゆく彼女はもう、米粒のように私の目の中で小さくなっていた。小さくなり続ける彼女に、私は言う。がんばれ。そして、さよなら。

 散り急ぐ桜の花びらが、交差点に立つ私の足元でくるくると回っている。その花びらの渦を避けて、私は横断歩道を渡る。埋立地から家までの道筋、幾本もの桜の脇を私は通り抜ける。そのたび、花びらがくるくると渦を巻く。
 がんばれ。そして、さよなら。
 私は心の中でそう呟く。
 そして思う。もう二度と、私のところになど来るな。思い出すな。ようやく前へ踏み出した足を信じて、自分を信じて歩いてゆけ。そういえばそんなことがあったねと、いつか笑って話せる日が来るまで、振り向くな。今のあんたにならきっと、それができるはず。それでももし迷うようなことがあったなら、その時は私を思い出して。あんたと同じようにこの場所で踏ん張る私を思い出して。そしたら私はあんたに必ず言うだろう、大丈夫、と。
 がんばれ、そして、さよなら。
 見上げる空を駆け抜けてゆく風、私の目の中で今一度、桜が、揺れる。


2005年04月07日(木) 
 娘を保育園に送り届け、私はその足で仕事場へ出掛ける。二つ目の信号を渡ろうと思ったとき、ふと左を見たら、通りの向こうに桜が見えた。だから方向転換。交番とは思えないようなひしゃげた交番を左に見ながら、私は自転車を漕ぐ。そして。目の前に現れたのは怒涛の花。
 川沿いに立つ全ての桜が今、開き出していた。開き出したばかりだというのに、この強い強い風に煽られ、もう花びらを散らしている。辺りは薄桃色にぼんやり染まっている。さざなみだつ川面に次々舞い落ちる花びらと、宙に漂う花びらと、そして枝でゆれる花びらと。視界の全てが花だった。私は自転車をおり、橋の真中に立つ。右を向いても左を向いても、前を向いても後ろを向いても、どこもかしこも花だった。そして見上げれば、澄み渡る青空。束ねた私の髪を揺するほどの強い風。
 世界中が生きていた。とくっとくっと呼吸していた。これだけの花だ、もっと人が集まっているだろうと思い周囲を見まわしたけれども、不思議に殆ど人影がなかった。ぽつりぽつり、下を向いて橋を渡る人、もう見慣れた風景だというようにちらりとも視線を動かさず前に進んでゆく人、ぼんやりと椅子に座り煙草をくゆらす老人。世界はこんなにも生きているのに、私の目の前の光景はまるで、時が止まってしまったかのようだった。そう思ったとき、私の心臓がどくんと脈打った。
 慌てて鞄に手を突っ込み、カメラを出した。カラーフィルムじゃない、私のカメラに入っているのはいつだってモノクロフィルム。それでもこの光景を撮りたいと思った。この光景がネガに刻まれたなら、今私の目に見えている姿ではなく今私の心に描かれた世界をどうにかして浮かび上がらせたい、そう思った。でも。
 カメラを構えた私は、シャッターを押すことは、できなかった。
 どうしてだろう。
 気づいたら、私はカメラを胸の辺りに位置させていた。今カメラを覗いても、多分私のピントは合わない。だったら合わせなくていい。そう思ったら、自然にカメラに添えていた指がシャッターを押した。二回。それだけ。
 カメラを鞄に戻し、私は橋に寄りかかった。少しずつ回りながら、辺りを眺めた。世界はこんなにも今私の目の中で美しい色合いを帯びているのに、何故なんだろう、私の心の中はモノクロなのだ。もし私が筆を持っていたら、色を塗れるのだろうか? もし私がプリズムを持っていたなら、太陽にかざしてでもこのモノクロの画面に虹色を映し出せるんだろうか? いや、多分、できないんだろう。まだ、多分、できないんだろう。まだ、多分。
 私は自然、瞼を閉じた。瞼を閉じても見えるのだ、世界は。私の肌が感じる風の感触、鼻からすい込まれる大気の匂い、時々頬や額を掠めて落ちてゆく花びら、私の指が今触れる橋の手すりの温度。そうやって私を今包むもの全てが、それぞれに教えてくれる。私を取り囲む世界の姿を。そして瞼を閉じたまま手を伸ばせば、空にすぐ手が届くような錯覚。そして私の足元を、しんしんと流れゆく川。
 あぁそうだ、幾つもの目に見える特徴を挙げることは結構容易だ。けれど、いくらそれらを挙げてみたって、世界の全てにはならない。世界のほんの一部にすぎない。でも、こうして目を閉じて身体を一本の琴線にすると、世界は一瞬にして、一部ではなく全体になる。ならどうして人は、目を持つのだろう。どうして目は視力なるものを与えられて、ここに在るのだろう。私は立ち止まり、ゆっくりと瞼を開ける。
 開けてゆく間のほんの一瞬、私の内のモノクロと私の外のカラーとがリンクする。ほんの一瞬。これっぽっちの一瞬。
 そして思う。私はこれから先もずっと、この道を歩いてゆくのだろうか。私の心はこの先も、色を持たないままでいるのだろうか。そして時々世界を羨んで、こんなふうに途方に暮れるのだろうか。私の目ではない誰かの目を羨んで、こんなふうに時々うつむくのだろうか。一度失われてしまったものを取り戻すことは、もう不可能なのだろうか。いくら継ぎ接ぎしても、元には戻れないのだろうか。
 いや、違う。元に戻れないのではなく、元に戻らないのだ。もしかしたら生涯私の中は白黒かもしれないけれども、それでも私は信じて、この色が満ち溢れる世界の住人の一人として歩いてゆくのだ。私の中にもきっと、色は在るのだ、と。ただそれが、目に見える色ではない、それだけのことなのだ、と。
 私はゆっくりと呼吸する。そして再び、世界を見つめる。私の目の中で桜が揺れる。花びらが舞う。あぁ、今目の前のこの光景はまるで音楽のようだ。楽譜のようだ。今もし手元にピアノがあったなら、とてつもなく透き通った音階を、奏でることができるかもしれない。なんて美しいんだろう。世界はどうしてこんなにも、美しいのだろう。だから時折こんなにも、切なくなるのだ。涙が零れるのだ。もしかしたら私の目は、見る為にあるのではなく、涙を零す為にこそあるのかもしれない。そう思ったら、少し笑えた。なるほど、それなら納得できる。どうりで小学生の頃、泣き虫毛虫とからかわれたわけだ。自分でそのことを思い出して、ぷっと吹き出す。卒業する際、友人たちに言われたのだ。おい、中学に行ったら絶対泣くなよ、泣いたら許さないからな。友達が何人も私の周りを取り囲んで、そう言って、私の頭を小突いてくれた。みんな半分泣きべそで、それでも悪態をつくのだった。おまえ一人、違う中学行くんだから、もう守ってくれるヤツはいないんだから、絶対泣くなよ、泣いたら負けだからな。みんな、そんなことを私に言っていた。だから私は中学以降、かなり歳を重ねるまで、人前で泣くことだけは絶対にしなかった。泣くときは必ず、独りきりを選んで泣いた。再び内でも外でも泣き虫になったのは、十年くらい前からだ。懐かしい思い出。私はそんな思い出をころころと心の中で転がしながら、自転車にまたがる。
 ゆっくりと走る川沿いの道。帰りもこの道を通ろう。今日はあたたかいから、帰りはもっと桜が膨らんでいるかもしれない。夕方にはきっと、花見客でこの川沿いが賑わうだろう。その間をぬって、自転車をゆっくり走らせよう。多分その頃には、今この心の中にある切なさが、薄らいでいるに違いない。いや、それどころか、嬉しいに変わっているかもしれない。世界はこんなにも美しいのだと、そのことに切なくなるのではなく、ただ嬉しいと、そう思って、今度はこの光景を見つめることができるかもしれない。
 次の角を曲がれば仕事場だ。スイッチを切り替えて。私は振り返ることはせず、自転車のハンドルを切る。


2005年04月06日(水) 
 昼過ぎ、仕事から戻り、片づけを始める。娘が毎日必ず使う塗り絵やお絵かき帖の棚を、もっと彼女が使いやすい場所に設置するため、あれこれ考える。全開にした窓からは、爽やかな風がぐんぐん部屋に流れ込んで来る。それがあまりに気持ちいいので、私は時折、手を止めては目をつぶり、風の感触を深く吸い込む。
 一通り片付け終えて、私はベランダに出る。手すりに寄りかかり、深く深く深呼吸すると、ゆっくりと振り返る。
 アネモネ。風に大きく揺れている。白い花、藍の花、白から藍へと変化する花。一重の花びら、八重の花びら、みんなそれぞれに、揺れる揺れる。私が見つめている間に、ひとつの花の花びらがひらりと飛んだ。あっと思ったその瞬間、花びらがひらりと宙に舞った。思わず手を伸ばす。けれど花びらはひらりと、ベランダから外へ飛んでゆく。白い花びら。
 私は途方に暮れ、再びアネモネのプランターに視線を戻す。すると今度は、紫に近い藍色の花びらがひらり、風に舞う。あぁこの花びらも飛んでゆくのかと、私は今度は黙って見送る。
 そうして見つめている間に、四つの花が、花びらを幾枚か手放してゆく。風はまだ止まない。花は、葉々は、まだ揺れている。
 頬に伝う何かの温度を感じて、私はふと我に帰る。知らないうちに涙が零れていた。そのことに気づいたら、ぼろぼろと涙が溢れ出した。まるで堰を切ったように。不思議とそれを止めようとは思えなくて、私は涙がぼろぼろ流れ落ちるに任せた。
 アネモネの花びら。宙に舞い、空に舞い、今頃何処にいるだろう。こんなにもあっけなく、花は花びらを手放すものなのか。ひとかけらほどの疑いさえ持たず、花は花びらを手放した。その様があまりに自然で、だから私は、たまらなかったんだ。
 誰かの命が散ってゆく。その瞬間に何度か立ち会ったことが私にもある。何度止めようと、止めようとして手を伸ばしたか。けれど、止めようはなかった。宙に舞った命は、そのまま地に堕ち、儚くも粉々に散った。
 あの瞬間に感じる空白は、他の何をもってしてもたとえようはない。まさに空白。空洞。空っぽなのだ。そしてそれは一拍の休止ではなく、永遠の終止なのだ。二度と元に戻ることはない。蘇ることも、ない。
 アネモネは今も私の目の前で揺れ続ける。風にゆらりゆぅらりと、時折強い風が吹くと、ぐわりと花茎がしなる。でも決して、折れることはなく。風に揺られ続ける。
 アネモネ。君は、どうしてそんなに真っ直ぐに、花びらを手放すことができるのか。私にそれを教えて欲しい。そのことを小さく声に出したら、またひとつ、涙が零れた。
 ふと、背中があたたかい、と、私は気づく。立ち上がって空を振り返る。そこにはもう西に傾き始めた太陽が在り、じっとこちらを見つめているかのように。
 そうだ、顔を洗おう。私は部屋に戻り、水道をいっぱいに開ける。音を立てて流れ落ちる水の束に手を差し入れ、掌のくぼみに水を汲む。私は思いきりそれを、顔に叩きつける。何度も何度も。何度も。

 時々、どうしようもなく胸が苦しくなる。こんなふうに、もう二度と、この世界で会うことのできない者たちの命を思い出して、私の胸は苦しくなる。ぎゅうぎゅうと音を立てて軋み、まるで雑巾が捻られるかのように呼吸が絞られてしまう。もう充分に、彼らを見送ったつもりなのに。もう充分に彼らの声を聴いたつもりなのに。
 私の手から離れた彼らの手が、私の指から離れた彼らの緒が、何を思っていたのか、唐突に、誰かに教えて欲しくなる。どうして、と。
 でも。その答えなど、何処にもないし、そもそも答えられる誰かなど、存在しないことは、私ももう充分知っている。だから私は、ここに残った者のひとりとして、毎日をこつこつと営んでゆこうと思うのだ。それが私にできる、唯一のことだから。

 私はもうじき三十も半ばを迎える。じきに、もっと多くの死に出会うようになるだろう。そういう年齢だ。でもいつも思う。病気だったり寿命だったり、そういう死ならばまだ、私は受け容れやすい。しばらくの間どんなに切ない思いを味わおうと、時とともに受け容れてゆくことができる。でもそうじゃない、突然の死を受け容れることは、いつだってたまらない。それでも生きていれば多分、これからだって、幾つものそういった死に私は出会ってゆくのだろう。その時私は、受け容れることなんてできないと拒絶するのではなく、どんなに苦汁を呑むことになろうと、どんなに時間がかかろうと、いつかきっと受け容れることができると自分を信じて、それらの死と向き合うしか、ない。恐らくは。
 窓の外が少しずつ橙色じみてきて、私は再びベランダに出る。アネモネの花びらが閉じ始めている、そんな時間。娘を迎えにゆくまでにはもう少し時間がある。自分の為に、熱いお茶をいれよう。今はただ、自分の為に。


2005年04月05日(火) 
 玄関を開けて前を見やると、以前住んでいた場所が向こうに見える。そのすぐそばにある公園は、この頃毎日毎日、色が変わる。公園に植えられた幾つもの樹々が、今まさに新芽を開かせている最中なのだろうなと思う。それまで枝の一部としか見えなかった部分が膨らみ、それが赤くなり、やがて萌黄色の葉となって開く。今はちょうど、焦茶色と薄黄色が混じったような色、あと数日もすればきっと、その色は黄色がかった緑に変わるはず。いつもなら、樹々の新芽が開く前に桜の花がぱあっと開く。そうすると、まだ乾いた樹々を押しのけて、薄桃色に一面が覆われる。でも、今年は桜の花がなかなか開かない。だから、桜の花の色よりも先に、周囲の樹々の色がどんどん変化を始めている。この分だと、萌黄色の合間合間に、桃色が揺れるという具合になるのだろう。いつもと違う春の始まり。
 娘を保育園に送り届け、私はそのまま仕事場へ自転車を走らせる。朝一番から忙しそうな肉屋や花屋の前を通り抜け、このまま真っ直ぐ行けば一番早く仕事場に着けるのに、私はちょっと遠回りをして、川沿いの道を走る。川沿いに並ぶ桜の樹々は、今朝のあたたかな日差しを受けてまるで発光しているかのように見える。薄い薄い桃色の光。見上げると、空の薄水色に映えて、一層輝くその花の色。
 最近、ここに詰所ができた。売春宿が立ち並ぶその角っこに立つ詰所には警察官が常駐している。もうこの場所が閉まったままになってどのくらい経っただろう。あれほどこの通りに溢れていた女たちの匂いは、もう消えてしまった。彼女らは一体何処に消えたのか。これで本当に良いのかどうか、私には分からない。以前彼女らのうちの一人が呟いていた言葉がまた思い出される。男なんて欲望で生きているようなものよ、その男の暴力的な欲望を満たしてあげているのがこの場所なのよ。もし私たちがいなかったら、この街でもっともっとたくさん、強姦事件やら何やらが起きているはずよ。
 彼女はもしかしたら、単に、自分を正当化したかっただけなのかもしれない。でも、強姦という暴力が、被害者のその後の人生をどれほど左右してしまうのかを実際に体験している者の一人として、私は、彼女の吐いた言葉をさらりと聞き流すことはできなかった。だから今もこの胸にはっきりと刻まれているんだと思う。私は詰所のすぐ脇を通り抜けながら、人間特有の性的欲望、暴発しかねないその欲望は、これからどうやって処理されてゆくのだろうと、そんなことを思う。もちろん、この場所があったって、強姦という犯罪は繰り返されていた。けれど、ここで一部の人間たちのそうした欲望が処理されていたというのもまた、紛れもない事実だと、私には思える。
 機械的に仕事をこなしてゆく。あっという間に時間が過ぎてゆく。東の空にあった太陽は南の空高く、そして西の空へと動き続けている。開けた窓から滑り込んでくる風は、少し肌寒くも感じられるけれども、それでも間違いなく、これは春の風。ついこの間までなら凍えるだけだった風が、気持ちいいと感じられるほどに変化している。その風に乗って、街のざわめきが時々、耳に届く。
 夕方の帰り道、私はまた少し遠回りをしてみる。海からまっすぐに続く道。この辺りから急な坂道を描くその道を、私はえっちらおっちら自転車を押して上る。そして辿り着いたのは、私が大好きだった樹が立つ場所。
 その手前、銀杏やけやきが立つ場所に設けられたベンチに座る。ひんやりとした石の温度が身体に伝わるけれど、それは妙に心地よい加減で、私の体の奥へと染み込んでくる。そして私は真正面の樹を見つめる。枝が切られ、太い太い幹も半分にまで切り落とされてしまった樹。けれど、彼は決して、生きることを諦めていないのだ。短い胴体から懸命にか細い枝を伸ばし、その枝は今、濃緑色の葉がこれでもかというほど茂っている。前の姿を知らなかったら、私は今のこの樹を見つめることはなかっただろうと思うほど、姿は変わり果てている。けれど。
 生きようとする力とは、なんて強大な力なのだろう。病を越えて、生死の淵を越えて、樹は何処までも生きようとする。枝をいくら払われようと、その身をいくら削られようと、生きる本能を決して失わない。そんな姿をこうして見つめていると、彼のその生のエネルギーが、私にまでじんじんと伝わって来る錯覚を覚える。見つめるほどに私の両目は樹に吸い寄せられ、細い道を隔てて向き合っているというのに、いつのまにか樹は私の目の前に、手を伸ばしたら私の手は容易に幹に触れられるほどの近くにやってきている気がしてくる。だから私は、心の中で両手を伸ばし、幹に触れる。そしてそっと抱き寄せてみる。樹の呼吸する音が私の耳の奥の奥から響いて来る。それは外側から伝わるのではなく、私の内から涌き出るような、そんな音。
 この樹が元の姿にまで戻るには、いや、元の姿も越えて大きく大きく伸びるには、一体何年かかるのか、私には分からない。もしかしたら私が老婆になる頃になっても、樹はこんなふうに小さいままかもしれない。私が愛してやまない彼の姿を再び見ることは、もしかしたら叶わないのかもしれない。それでも、私はこの樹を求めてやまない。彼の存在が、一時期どれほどに私を支えていてくれたのか、それはどんなに時を経ても色褪せることなく、私の中にしかと刻まれているのだから。
 いつのまにか娘を迎えにゆく時間がやって来た。私は自転車を走らせる。そして今度は娘を後ろに乗せて長い坂道を上る。上りきった交差点で私たちが止まると、真正面に燃える太陽。娘と二人でうわぁと声を上げる。みう、燃えてるね、太陽。今触ったらきっとあっついね。うん、火傷しちゃうかもしれないね。ママ、じっと見てたら目が変になってきた。ママも変になってきた。目の中で虹が回ってるよ。虹? いいなぁ、ママの目の中にも虹が欲しい。じゃぁみうのあげようか? え? くれるの? いいよ。
 そうして私たちは家に辿り着き、いつものように食事をし、いつものように風呂で遊び、いつものように歌を歌って眠る。今娘の寝息に時々耳を澄ましながら、私はいつものように椅子に座っている。もちろん窓も半分開いている。今夜、夜空をじっと見つめると、小さい小さい、針の先よりも小さいかと思えるほどの星が、ちらちらと瞬いている。目をそのまま街景に下ろすと、方々の家の明かりが消えた後の街が淡々と私の目の前に広がっている。静まり返る街、あとは通りを行き交う車の音が時折聞こえてくるだけ。
 そして街灯が今夜も、しんしんと燃えている。


2005年04月04日(月) 
 布団で身動きひとつせず熟睡している娘の隣に潜り込んで、私は知らぬ間にうとうとしていたらしい。はっと目を覚ましたら、ちょうど真夜中だった。私は窓に近寄り、半分ほど開けてみる。外では小雨が降っていた。薄い薄い雨のカーテン。壊れた時計は九時四十五分で止まったまま。私は机に置いたままの腕時計を見る。明日の準備をしているうちにあっという間に午前二時半。もう一度娘の隣に潜り込む。
 次に目を覚ますと、ちょうど娘も目を覚ましたところらしく、一番に、おはようを交わす。ねぇママ、今何時? えっとね、六時みたいよ。本読んでもいい? いいよ、じゃぁ一緒に読もうか。朝から布団のなかでごそごそ動く二人。上から見たら、きっと芋虫みたいに見えるんじゃなかろうか。
 小雨の中、娘と保育園へ。今日から年長さんになる娘は、いつもの挨拶をしようとして口篭もる。組の名前を言って、それから自分の名前を言うというのが保育園の朝の挨拶。いままでのクラスの名前を言えばいいのか、それとも新しいクラスの名前を言うべきなのか。先生も笑っている。今日から新しいクラスの名前を言ってね。娘は嬉しそうに、ちょっと照れくさそうに、でも大きな声で挨拶を済ます。じゃぁまた夕方ね。ママ、一番遅く迎えに来てね。いや、それはちょっと…。遅くじゃないと、しおりちゃんとお絵描きできないんだもん。ははは、でもまぁいつものように迎えに来るよ。えー、やだー。先生が私たちのやりとりを聴きながら笑っている。お母さんに遅く迎えに来てなんて頼むのは、みうちゃんしかいないんですよ、と笑っている。それだけ保育園を楽しみに通ってくれるんだもの、嬉しいです、と先生は続けておっしゃっていたが、母としてはちょっと、寂しいような。それではよろしくお願いしますと言って私も駅へ向かう。
 朝あれだけ気持ちよくさっぱりと目が覚めたのに、込み合う電車に乗った途端、大きな眠気が襲って来る。あまりに込み合う電車に乗るとパニックになる。或いは、そのパニックを避けようと私の中の何かが作用すると、こんなふうに、瞼を開けているのがしんどくなるほどの眠気に襲われる。今日はどうもそのパターンのようで、私は手すりにつかまりながら、下りてくる瞼と必死に戦ってみる。
 病院に着き、私は荷物を枕にしてしばらくうとうとする。名前を呼ばれ、診察室に入る。いつものように診察の時間が始まる。今週はどうだったか、そのことを話し出そうとした瞬間、私の耳に見知らぬ声が津波になって押し寄せて来る。女性の声。機関銃のような勢いで、ひたすら自分の苦痛を訴える声。隣の診察室にいる方らしい。私は耳にずかずかとなだれ込んで来るその声から自分の耳を守ろうと、必死に耳を塞ごうとするのだが、気づけばもう、頭がふらふらして来る。先生、声が、声が突き刺さる、襲って来る。そう言うのが精一杯。でも一週間にたった一度の診察、私にとっては大切な時間なのだ、ここで先生とちゃんと話しておかないと私はしんどくなってしまう。だから必死に、精神を集中しようとする。けれど、私の耳に、脳味噌に、隣の女性の声が絶え間なく突き刺さる。必死に口を開き声を出そうとするけれど、私の耳には声がなだれ込んで来る。自分が何を思考しているのか、全く分からなくなる。今話したいことがあったはずなのに、話出しかけたのに、何が何だか分からない。私は何処へいったの。何がどうなっているの。お願いだから止めて。その声を止めて。私は必死に耳を両手で塞ぐのだけれども、その手を押しのけて、さらに声は私の中にずんずん入って来る。隣の女性は、どれほど自分が周囲から迫害されているかをひたすら訴え続ける。女性の声がだんだんと、声ではなく音声になってゆく。音になってゆく。言語がやがて音になり、信号になり、私の耳に脳味噌に突き刺さって来る。私の脳味噌はあっという間に次々破壊され、私は思考能力をすっかり奪われる。パニックを起こしている私に、先生が何か話しかけて来る。その声が聞き取れない。先生の顔がだぶってみえる。
 先生、もうだめ。何が何だか分からない。
 先週は悪夢は大丈夫だった? それから、息苦しくなったり頻繁にあった?
 先生、もう一回言ってください、分からない。
 先週は悪夢は大丈夫だった? それから、息苦しくなったり頻繁にあった?
 …えぇっと、えっと…先生、意味がわからなくなっちゃう。声が襲って来る。
 先週は、悪夢は大丈夫だった? 息苦しくなったりしなかった?
 …息苦しい、あぁ、あった、ありました、夢は淡々と…
 どんな夢?
 先生、話したいんだけど、分からなくなっちゃう、声にやられる。
 先生の質問に答えようとするのだけれども、先生の質問の意味が把握できない。先生の言葉を何度も聴き返す。そうして何とか言葉自体は掴めても、私がどう返答すればいいのか、それがわからない。それができるまでにひどく時間がかかる。一言でも言えればラッキーだが、私が言葉を吐こうとするたびに、隣の赤の他人の声に呑み込まれて、私は私の言葉を失ってゆく。
 これ以上ここにいる方が危ないわね、来週また会いましょう、リストカットはしてない? 大丈夫? ね、来週また会いましょうね。
 先生の声が聞こえる。返事をしようとするけれども返事ができない。
 先生、もうだめ、こわい。声がこわい。
 来週会いましょう、ね?
 はい。
 そうして私は、ふらふらになりながら診察室を出る。あの声はまだ、隣の部屋から漏れ聞こえて来る。頼むからもう追いかけてこないで。私は震える足を必死に前に動かし、壁伝いにそこから離れる。
 こんなとき、鼓膜を破りたくなる。頼むからもう誰も、私に声をかけないで。いや、私のそばで声を出さないで。そんな、絶対に不可能な願いを、私は心の中で呟く。

 家に辿り着いて鍵を開ける。ごちごちに強張っていた体が、突然、ふぅっと解れる。おかえりなさい、と、誰かの声が聞こえた気がした。もちろんそれは錯覚なのだけれども、それでも私はほっとした。そして部屋の中へ入る。いつもの娘の気配に混じって、昨日までいた友人たちの気配がまだ残っている。その気配に私はようやく深く呼吸する。もう大丈夫。
 部屋の中でぼんやりしていると、あっという間に時間が過ぎてゆく。いつの間にか娘のお迎えの時間がやって来ている。自転車に乗って走る坂道。ついこの間まで、この時間になると辺りは暗くなっていた。太陽がすっかり沈んだ街中を、私は娘を乗せて走っていたのだった。でももう今は、部屋に戻ってもまだ太陽は沈んでおらず、私たちは茜色に染まった夕日を二人で窓から見やる。ねぇママ、Sちゃんはもうおうちに戻ってるかなあ? うん、もう戻ってるよ。ご飯食べてる? そうね、そろそろ食べてるんじゃない? また遊びに来てくれるかなぁ? うん、来てくれるよ。それに、今度はママたちがSちゃんちに遊びに行こうよ。ほんと? うん、ママ、頑張ってお金貯めるから、待ってて。うん、お仕事いっぱいしてね。…はい。
 過ぎてしまえば、嘘か幻のような現実の一断面。朝診察室であった出来事は、こうして過ぎてしまえば、もう何でもないこと。いや、そりゃぁ心の中に残像は残っているけれども、だからどうだというものではない。ああいうことはよくあることだし、そんなことでいちいち落ち込んでいたら身が持たないことは、もう充分に分かっている。平気、というのともまた違うけれども、それでも、或る意味慣れてゆく自分がいる。他の人と共有しようとしても決して共有できない現実が自分にはあり得てしまうそのことに、私は少しずつ少しずつ、慣れてゆく。でもそれで、いいんだと思う。起きてしまうことは仕方がない。なら、それが起きても、過ぎ去ったら過ぎ去ったこととして片付けてしまうのが、いい。
 雨が降った後だからなのか、夜空が澄んでいる。気のせいかもしれないけれども、いつもよりも星が少し多いような。地平線に沿って漂うのは雲。あの雲は何処から産まれ、何処へゆくのだろう。耳を澄ますと、寝床の娘の寝息が聞こえる。もう少ししたら、私も眠ろう。


2005年04月03日(日) 
 目を覚まして一番に、私は窓を思いきり開けてみる。今朝は、部屋の外も部屋の中も、温度差が殆どない。私は両手を広げて、思いきり深呼吸をする。ここは大通りに面しているので感じることはできないけれども、数年前住んでいた公園の真裏の部屋では、こうやって深呼吸すると緑の匂いがしたものだった。晴れ上がった春の日には乾いた緑の匂い、梅雨の頃には湿った緑、季節毎、天気毎にそうして空気の匂いが変わるのだった。
 今日、遠い街に住む友人が、一年ぶりに子供を引き連れて遊びにやってくる。彼らの為にちゃんと場所を用意しておかなければ、と思い、私は、普段荷物置き場になっている本棚の部屋を慌てて片付け始める。
 片付けるとは言っても、この部屋は本の山。とりあえず思いつくまま本棚に本をつっこむ。そうやってあれこれ本棚の前で作業をしていたら、本と本の間からメモがぱらぱらと落ちて来た。ここにも、そこにも。昔の私が書いたメモだ。片道二時間強の通学、その間に私はひたすら本を読んでいた。試験直前であっても教科書や学校でのノートを開いたことは殆どなく、長い電車の中で開くのは、いつでも何かしらの本だった。そしてその合間合間に、思いついた言葉をありったけ、ノートをちぎった紙切れに書き記したのだった。落ちてきたメモを拾い上げ、私はさらさらと流し読む。読んでいると、自然、当時のことが蘇って来る。当時、私は毎日のように何処かしらの古本屋に立ち寄った。新刊を買い漁れるようなお金はなく、できるだけ数多く読みたいとなると、古本か文庫本を探し出すのが一番確かだった。それが就職し、自分の労働で得られた金で本を買うようになって、本にばかりお金を費やすことに遠慮がなくなったためか、私は給料のほとんどを、まさしく本に費やしてきた、そんな記憶がある。
 ちぎられた紙切れに記された文字の線はみな、思いついた言葉を忘れないようにと必死に記したのだろう、次へ次へと泳いでいる。かすれていたり、重なり合っていたり、小さな紙切れの中に何とか全部の言葉を収めようと、判読不可能なほどの小さな字がびっしり詰まっていたり。時代時代で字の形も、もちろん書き記す言葉も違っている。あぁこの頃私はこんなに尖がっていたのか、この頃はこんなにも沈んでいたのか、等々、それにしてもよくもまぁこんなにも記したものだと、私は半ば呆れながらその紙切れを拾い集める。そしてしばらく考え、その紙の束を全て、ゴミ箱に放りこむ。懐かしいけれど、多分もう、これからの私には必要はない。今の私は、この紙切れに記された時代をそれぞれに超えて来てしまった。今の私がもし同じように紙切れに何かを記したとしても、この昔の紙切れの中にあるような言葉は多分きっと、綴らない。だから、さよなら。
 そうしているうちに友人たちを迎えにゆく時間がやってくる。まだ片付け終わらない本の山を横目に、私は急いで家を出て保育園に娘を迎えにゆき、その足で友人が待つ駅へ向かう。

 友人らがやってきてからの三日間は、まさしくあっという間に過ぎてしまった。気がつけばもう別れの時間がやってきており、私たちはそれぞれにハグをし、手を振って別れる。電車が視界から消えるまで手を振った後、娘がぽつりと言う。寂しくなっちゃったね。
 夕飯を食べるのでも絵本を読みきかせるのでも、部屋ががらんと広く感じられる。それに静か過ぎる。この三日間の賑やかさが、まるで幻のように思える。ふと耳を澄ますと、耳の奥、思い出される。ぺたぺたぺたっ、ぱたぱたぱたっ。子供らが走り回るときに響く、小さな足音が。
 この三日間の間、子供たち三人を見つめていて、私はつくづく感じ入った。子供はなんてしっかりしているんだろう、そのことだ。大人と一緒にいるとき、つまり、大人に保護されているとき、子供は当然大人に甘えて来るし、わがままにもなる。けれど、大人が少し離れると、子供らは子供らのルールにのっとって、自分たちの世界を自分たちの手でちゃんと守ろうとする。そんな彼らを見つめていると、確かに年齢的には子供だし社会的には一人前とは言えないのかもしれないけれども、大人が思うよりもずっと子供は強いし自分の世界をちゃんと持っている。そしてその世界は、大人が思うよりもずっと、しっかりとこの大地に立っている。そのことを、とても強く思い知らされる。私の娘は五歳、友人の娘息子は七歳に四歳。この世に産まれてまだ十年も経ってはいないのに、彼らは大人が決める偏ったルールなんかとは比べ物にものならないような、柔軟だけれども確固としたひとりひとりのルールを持っている。小さい彼らがそれぞれに持つ世界は、誰かをむやみにはじいてしまうこともなければ、土壌は特別な肥など与えられていなくともとても豊かだ。大人が見落としてしまう小さな花が、彼らの大地にはたくさんたくさん咲いている。それぞれの色、それぞれの形、それぞれの香りを放ちながら。
 彼らの戯れる姿、ぶつかり合う姿、そして、お互いをかばい合う姿を見つめていて、思う。こういった彼らの内にある彼ら自ら持っている肥を、大人の都合でどんどん削り取ってゆく、枯らしてゆくことはどうかしないですみますように。その為には今私にどんな目が必要なのだろう。どんな心が必要なのだろう。私は彼らの背中を見つめながら、そんなことを考えてみる。
 さすがの娘も疲れたのだろう。布団に横になると、私がまだ三曲も歌い終わらないうちにすとんと眠ってしまった。私は彼女の体に布団を掛け直し、いつものように椅子に座る。そして開けた窓から夜を眺める。明日からまた二人の生活が始まる。この三日間に得た目を失ったりしませんように。夜空に向かって私は、小さく呟いてみる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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