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2007年06月13日(水) ひっかき傷。

■人と出会ったり別れたりは、わたしの仕事の一部だ。もう20年以上一緒に、或いは断続的に一緒に、仕事をしている仲間がいる。また、たった一度のご一緒で終わる場合もある。仕事を離れると、たくさんの友達、そして、去っていった恋人たち。さらには今の恋人。……出会ったり別れたりが、まわりの人より激しい人生を歩んできたような気がする。
そして、表現の仕事をしている以上、知り合っていなくても作品で無数の人に話しかけている。こうしてネット上に文章を書いていることでも、わずかながら見知らぬ人が、文章を通じてわたしを知っていたりする。

■谷川俊太郎の「午前二時のサイレント映画」という詩に、こんな一節がある。 
  
  人はたったひとつの自分の一生を生きることしが出来なくて
  あといくつかの他人の人生をひっかいたくらいで終わる
  でもそのひっかきかたに自分の一生がかかっているのだ
  それがドタバタ喜劇にすぎなかったとしても

■そして、レイモンド・カーヴァーは「ひっかき傷」という詩を書いている。

  目がさめたら、目の上に
  血がついていた。おでこの途中から
  ひっかき傷ができている。でも、
  わたしはこのごろ一人で寝ている。
  自分に爪を立てるようなやつがいるだろうか?
  いくら眠っているときでも。
  今朝からずっと、この疑問に悩んでいる。
  窓ガラスに顔を映してみながら。

■人との出会い別れを思うたび、わたしはこの2篇を思い出す。
出会っても、別れても、どんなに頑張っても、どんなに愛しても、自分は自分で、他人にたかだかひっかき傷をつけるくらいしか出来ない。でも、カーヴァーの描くひっかき傷の、ひりひりとした痛みはどうだろう? この詩の男は、由ないひっかき傷のついた己の顔を、ずっと窓ガラスに映しているのだ。ひっかき傷のない自分ではなく、ひっかき傷のある自分を見つめ続けているのだ。

たとえ家族でも、生涯愛し続けたいと思う人でも、他者は他者。わたしはわたしで、一人だ。

その痛み、その諦観。

そして、「ひっかき傷」は、逆にわたしの微かな希望となる。そのひっかき方こそが、我が人生なのだ、喜劇であれ悲劇であれ、冗漫であれ凡庸であれ。

今も、どこかで誰かが、わたしのつけたひっかき傷の痛みで、わたしを思い出しているかもしれない。

そしてわたしは、ひりひりする痛みを抱え続けて、日々を生きている。痛みなんて何もないふりをしながら。






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