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2003年11月25日(火) 真夜中の妄想。

●「ヒトラーとスターリン」の続きを読みながら、つい最近の楽屋での会話を思い出す。
 空き時間、これから上演されるチラシを眺めていると、ユダヤもの同性愛者ものの佳作が久しぶりに再演される。楽屋受付の仕事をしているA嬢が、どんなストーリーなんですかと聞いてきたので、こうしてああなってと説明してやると、どうもちんぷんかんぷんな様子。逆にいろいろと質問してみて分かったのは、20代前半の彼女が、ヒトラーによるユダヤ人迫害の事実を全く知らないという事実だ。
 ナチス、ゲットー、強制収容所、ホロコースト、等々のことばは聞いたこともなく、ヒトラーは聞いたことがあったが、何処の国の人か知らなかったと言う。
 彼女はちゃんと高校を出ている。それなのに、それなのに、そんなことってあるんだろうか?

 作品を創って人々に呈示することを生業にする者として、考えることがたくさんあった。
 自分が誰に向けて、何を、どう、語っていくか。ということ。

●制作の不手際でオーディションがひとつ延期になり、今日は1ヶ月ぶりのOFFになった。
 休日にやるべきことがたくさんリストアップされていたのに、9時起き予定が起きてみたら12時過ぎ。しかも雨降りで何処にも出る気になれず。
 まあいいやと自分を許容し、家でのんびりと本など開き過ごす。

 それにしても、休みとなると目覚ましが全く聞こえないというのはどういうわけか?
 わたしは寝起きが人一倍悪いくせに、人一倍遅刻が嫌いなものだから、目覚ましは大音量のものを6つかけて眠る。それだけの準備をして、ようやく安心して眠ることができる。
 それが、休日になると聞こえない。一度消して二度寝するのではなく、大音量を聞いたまま眠っているのだ。(一緒に部屋にいた男性たちは、あの大音量の中で眠るわたしが信じられなかったと証言している)

「眠り」って、生きているわたしに最も「死」を連想させるもので、その制御のできなさ、不可解さから、自己の揺らぎを感じさせるのだけれど、「休みに於いては聞こえない」というこの事象は、そう言う意味ではわたしを少し安心させる。「眠り」の中においても、自我による制御装置が働いている証拠のような気がして。

 逆に、いつかそのときがきたら、眠るように死にたいという願望が、自分の中に棲みついている。 
 わたしのように一人で暮らし一人で行動する者は、野垂れ死にの運命といつも向き合っている。野でもいいから、せめて眠るように静かに……などと、夜、死にゆく自分を妄想したりすることがある。
 甘いかしらね。


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