本日で1年すぎた。 父の七回忌と共に供養の日。 はやいな・・・ 最近、忙しい時に従兄がヘルパーに来てくれている。 法要のあとの膳でお酒を注ぎにいったときに甥のことをよろしく、父親のようなつもりでいろいいってやって、と頼んだら 「おう、俺は土日は休むと(甥が)いったから、この忙しい時に土日もやるときは仕事するもんだ、といったこてや」 という返事。 いや全くその通り。 自営とはそういうものだ。 私がいっても全然聞かないことだが。 そういえば、最近が土日、甥はよく動いているなあ、と思う。 いつも土日働け、と言うわけではない。 忙しい時はそういうものだ、ということを教えてもらったようでよかった。
お寺さんが「どちらも「最近」のことで、在りし日の姿が目に浮かぶ」といわれたが、ほんとうに。 弟も、父の七回忌と自分が一緒に供養されるとは思いもしなかったろう。 「こんなはずではなかった」とただボーゼンとしている、と言う先日の霊能者の方の言葉が実感を伴なう。 しかし、それも彼の魂に何か意図があってのことだとおもうのだ。 「あちら」でそれを思い出すだろう、おいおいと。 などとこの頃考える。 もちろん、姿がないのは、やはりたまらなくさびしいが。 それにしても、「死」というシンプルな目的のために私たちは生まれて来ている。 なぜなんだろう。 死が無であるなら、生も無ではないか。 ならば、生きている意味はないし、人間が存在する意味もない気がする。 やはり、この世は魂鍛錬の場であって、そのために肉体という入れ物が必要なのだ、というのが「合理的」であるように思う。 そして、その人生において計画された鍛錬が終わった時に、そのときの人間関係や家族と関係なく「もといた魂の場に戻ってしまう」と言うことか。 かぐや姫の話を思い出すなあ。 かぐや姫、天上の衣をまとうと、すべてのことを忘れて清浄になる。 魂もそうなのかもしれない。
などと思い巡らせている亡弟の一周忌である。
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