おひさまの日記
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| 2010年07月07日(水) |
幸せや成功や豊かさから遠ざかろうとするのは |
何かがうまくいきそうになったのに、そこで止めてしまったり、 チャンスが巡ってきたのに、理由を付けてそれを逃したり、 行動を起こさなければならない時なのに、理由を付けて行動しなかったり、 そういう人がいると思うし、 また、誰にでもそういう時があるんじゃないかと思う。
幸せや成功や豊かさから遠ざかろうとする時が。
誰が好き好んで、幸せや成功や豊かさをぶち壊すのさ!? そう思う人もいるかもしれないけど、
「幸せになってはいけない、 うまくいってはいけない、 豊かになってはいけない」
「幸せになれるはずがない、 うまくいくはずがない、 豊かになれるはずがない」
そんな強い観念を心の奥の奥の奥の方に持っている人がいる。 そういう人を端から見ていると、 片っ端からうまくいかなくなるように行動し、必要な行動をやめ、 片っ端からチャンスを逃し、巡ってきた幸運の流れをつぶす。 負のスパイラルの中で見事にどんどんうまく行かない方向へと向かう。
でも、本人は、うまくいかなくなる行動をいたって真面目にやっている。 また、そこには必ず正当な理由がある。 そして、その正当な理由は極めてとんちんかんだったりする。 よく言えば、よくできた言い訳のようなもの。
それなのに、本人にしてみれば、もっともな、正当な、大切な、理由だ。
たとえば、重大な何かを成立させるために、 ある場所に行かなければならない状況が訪れた時、行くのをやめたとする。 行けばチャンスのかけらのひとつもつかめるような時。 行かない理由が、
「庭の植木が枯れそうだから」
というものだったりする。 何より重大なそのチャンスのために行動すべき時なのに、 その理由ゆえにやめてしまう。 そして、その理由がもっともらしく正当化される。
「大事に育ててきた植木が弱っていて、 今日1日いなかったら枯れてしまうかもしれない」
確かにそうかもしれない。
だが、しかし。 そのチャンスが、生活や人生に関わるような、非常に重大なものだったら?
もし、本当に植木が心配なら、朝夕の水やりを誰かに頼んででも、 行かなければならないこと。
けれど、幸せや成功や豊かさから遠ざかろうとする人は、 行かない理由を何より大切にする。 仮に「もっと重大なことが差し迫っているのだから行くべきだ」と言ったら、 多分、キレる(笑) キレるまで行かないにしても、不機嫌になり、 なぜ自分がこんな切なる思いで行くのをやめたのに、 それをおかしいと言うのか? という反応をする。
そうした人を見ているとわかるのは、 「うまくいかないのが好き」ということ。 「うまくいかず、不遇の中にいるのが好き」とうこと。 もちろん、意識しているわけではない。 でも、面白いくらいことごとく状況をよくない方に持っていく。 そして、その中で、膝を抱えて苦しむ。 それさえも潜在的に望むことであり。
もうひとつ、たとえ話。 10の手続きをすれば100万円がもらえたとする。 その手続きはめんどうくさいけど、やればできないことじゃない。
でも、そうした人は、そんな時手続きをせずに、100万円をあきらめる。
仮に、その手続きをする資格が自分にないなら、 では、どうやったたらその資格を持つことができるのか、 という視点で考えようとしない。 無理なのだ、できないのだ、という視点でのみ判断する。 いかに自分がその手続きができないかの正当な理由を羅列する。 その理由は、可能性を放棄するという点において完璧なものだ。
お金がもらえない自分というセルフイメージに忠実に行動している。
可能性が1%しかなかったとしても、 豊かさを手にするひとつのチャンスなら、やってみる価値があるのに、 そうした人は、いかに自分はそれができないか、 という部分にフォーカスする。 そして、そのできない理由がそういう人にとって何より正しく大切なのだ。 やってダメならそれでいい、じゃなく、 どうせダメだからやらない、なのだ。 ここ、重要ね。
なぜなら、うまくいかないために。
うまくいかないように必死に頑張っているので、 それを阻止されようものなら (つまり、うまくいくようにアドバイスされる、アイディアをもらう等)、 すねたり、反発したり、気分を悪くしたりする。
もちろん、本人はうまくいかないように頑張っているとは思っていない。 自分なりに必死でやっているつもりになっている。 けれど、何ひとつ結果が残っていない。 当然だ。 結果につながる選択、決断、行動をしていないからだ。 そして、結果につながるそれらを回避するのがとても上手なのだ。
本人はうまくいかないことがとても苦しい。 けれど、うまくいかないことの中にいるのが心地いい。 心地いいと言うか、自分はそこにいるべきだと思っている。 「そんな中でそれでも懸命に生きる自分」が、苦しくも心地よく、 そうしたセルフイメージに絡め取られている。 そして、表面の意識ではそれに気づいていない。 気づきたくないのだ。 気づいてしまったら、そのやり方を変えなければならなくなることを、 潜在的によく知っているからだ。
そこから抜け出す最初の一歩は、 自分がそうしたセルフイメージを持っていて、 そこにフィックスされているということを「認める」こと。
そういう人を目の当たりにしているということは、 私も同じものを持っているからだ。 自分ではそう感じられないけれど、ここまで見せつけられるのは、 まさに、自分も同じものを持っているのだという証。 これは、私が向かい合う深いテーマ。 今、自分は、このテーマを清算しようとしてると感じる。
そういう人が周りにいて、おかしいと批判だけするのではなく、 今、私は、自分の中にあるものを見せられている、と受け止めている。 時に、その中に自分が巻き込まれて、 負のスパイラルに陥ったとしても、それは、そういう人のせいではない。 私の責任で起こっていることだ。
人は鏡。 自分の中を本当によく映し出す。 例外なく、だ。
おかげで、私は「認める」ことができた。 私は、幸せや成功や豊かさから遠ざかろうとする部分を持っているのだと。 今まで自分がそんな観念など持っているとはこれっぽっちも思っていなかった。 なりたい自分にならないセルフイメージを、頑に守り続けてきたのだろう。 やっと、やっと、認められた。
認めたところから始まるものを、私は育んでいこうと思う。 人を変えることはできない。 だから、私は孤独な作業をしていく。 自分の中からそうしたものが消え去る時、 私の周りの人のそうしたものも消え去る。 ホ・オポノポノの定義。
こういうひとりぼっちは嫌いじゃない。 誰も巻き込むことができない作業。 時には、さびしくて心細くなって、泣いたすることもあるけど、 なすべきは自分の責任で自分に向かい合うこと。 この世界のすべては誰のせいにすることもできない。 自分が変わることによってのみ、何かが動く。
幸せになっていいんだよ。 成功していいんだよ。 豊かになっていいんだよ。 もう、いいんだよ。
その言葉を自分に向ける時、居心地の悪さと少しの苛立ちを感じる。 は、そんなのわかってますが?みたいな。 その時点で、私の中にはそうしたものに反発するものがあるのがわかる。
成功して輝いている人を見てうらやましく思い、まぶしく感じ、 また、そうでない自分を悲しく思うかたわらで、 決して自分はそうならないであろうという確固たる信念のようなものを感じる。 そして、そういう場所にいることに安堵している部分があることを。 そういう場所にいることに何らかの理由を付けて正当化している自分がいることを。 私は知っている。
なんて大きなテーマなんだろう。 今までたくさんのテーマに取り組んできた。 これがいちばんやっかいで強大なテーマのように感じる。 私のルーツそのもののような、大きな固まり。
これを抜けたらどんな場所に出るのだろう。 今はその場所を想像することもできないけれど、 でも、抜けてそこに行くことだけは決断した。
決断したら悲しくて仕方ない。 面白いね。 私の中の何が泣いているのだろう。 これから少しづつわかってくるんだろうな。
もう疲れたんだよ。 うまくいかないものの中にい続けるのは。 もうイヤなんだよ。
この「もうイヤ」を感じた時こそが、チャンス。 私はもう逃さない。 今まで逃し続けたから。
チャンスの神様は前髪しかないって聞いたことがある。 思えばスゴイ髪型だ(笑) ちょっと大五郎をイメージ(わかった人は同じ年代)。 だから、あ、チャンス!と思ったらすぐにつかまないと、 (前髪をね) ちょっと遅れてつかもうとしてもつかめないのだそうだ。 (後ろ髪ないからね)
幸せや成功や豊かさから遠ざかろうとするのは、 まぎれもない私の姿。 目の前の誰かの姿を通して見つめる自分の姿。
やっと会えたね、きっとやっと会えたんだ。 助けてやんなきゃね、自分を。
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