おひさまの日記
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2009年11月15日(日) インディヴィジュアリティ

残りの荷物運びと掃除をabuが済ませてくれて、昨日アパートの鍵を返した。
生活が完全に実家にシフトした。
まだ運んだ荷物が完全には片付いていないものの、
新しい住まいで自分達の空間を作るためにあれこれやっている。

今日、ドラッグストアに買い物に行ってコスメを見ていたら、
試供品を使った人のためだろう、鏡が置いてあって、
そこに自分の顔が映っていた。
じぃーっと鏡を覗き込んだ。

ぎょっとした。

お手入れしてない顔。
眉毛もぼさぼさで、顔中の産毛もそのまま、
生活に疲れている感じだった。

お風呂から出たら、パンパンとローションを雑につけて、そのまんま。
顔なんかじっくりケアする気にもならない。
眉毛を整えることも、産毛の処理もしなくなった。
美顔器も全然やってない。

そう言えば、手だってクリームひとつ塗ってない。
カサカサになってあちこちにささくれができている。
おとといはとうとう指先があかぎれで割れてしまった。
他にも薄い亀裂があって、
これ以上放っておいたらもっと割れてしまいそう。

足もそう。
全くお手入れなんぞしてなくて、
かかとがカチカチに固くなって割れ始め、動く度靴下の内側でひっかかる。

こんなんじゃなかったのになぁ…そう思った。
雑誌に載ってるセレブママのようなケアこそしていなくても、
キレイでいるために、そこそこのケアはしていたと思う。
でも、今は自分に構う時間がない、いや、そういう気持ちになれない。
そういうことをする心のゆとりがないから、
そういうことをしようという考えに及ばない、と言うと的確かもしれない。
本当にしたければ、どんなに時間がなくたってするのだ。

別にお手入れをしないことがダメだということじゃない。
たとえば、の話だ。
自分に目を向けられていない、ということなのだ。
自分をケアしていない、ということ。
体しかり、心も。
私にとって、体に気を配れるということは、
心にも気を配れているということなのだ。

今、自分がすごく危険だと思った。

何かを追いかけているのではなくて、何かに追いかけられている。
追われて追われて、必死に走って、走るのに精一杯で、他のことが見えてない。
自分の意志で好んで走っているのではなく、
自分が所属している大きな意思に追い立てられ髪振り乱して走っている。

心が満たされておらず、それにより個を喪失しかかっている。
それが今の私。

久々にゆっくりネットをつないで、Osho禅タロットを引いた。

2枚のカードが出た。
1枚目のカードの意味を読んだ時、
奥の方から何かが突き上げてくるような感じがして、目頭が熱くなった。
2枚目のカードの意味を読んだ時、
静かに私は決意した。

自分はだだの現実逃避を選択しているのか、
それとも、未知なるものを信頼し、無限の恵みへと飛び込む選択しているのか、
それは、後になってみないとわからない。

こわくてたまらない。
けれど、今のままでい続ければ、
私はもっと自分の大切なものを遠くへ追いやってしまう気がして、
そのこわさのほうがうんと大きい。

仕方がない、生活のためだから、
そんな気持ちで走り続けることで私が得るものは、
毎月7、8万円の収入と、終わることない虚しさだけ。
とりあえず必要なお金という安心と、心の痛み、それが私の得るもの。

私が本当に欲しいものはそんなもんじゃない。
そんなちびたるもののために自分の大切なものを失うのは、
あまりにも大き過ぎる代償だ。

私はabuに言った。

「信頼していい?」

abuは答えた。

「もちろん」

自分達がしたいことをしよう、少し前からそう考えていた私達。
厳密に言えば、方向性が明確になってきたabuを、
私が手伝う形で一緒にやっていくという感じ。
そのために引っ越しもした。

「信頼していい?」なんて、人任せな質問だ。
私達は一蓮托生なのに、まるで彼に責任を押し付けるみたいな質問。
ずるい私。

でも、助けてほしかった。
こわくてこわくて、不安で不安で、
空中ブランコのバーから手を離せず、
向こう側のブランコに飛び移れない状態だった。
飛び移りたいのに。
バーから手を離しても大丈夫なんだよ、そう言ってほしかったのだ。

そして、彼は「もちろん」と答えた。
それを聞いて、頭が下がる思いだった。
本当はabuだって不安なはず。
逆に私に「大丈夫だと思う?」と聞きたいんじゃないかと思う。
今私がそう聞かれたら「もちろん」なんて言えないと思う。
自分が迷子なのだから。

屁理屈かもしれないけれど、
目先の安心のために走り続けるのをやめることが、

「信頼しています、ついていきます、私も自分の道を行きます」

そんな意思表示でもあるような気がした。

ここからの私は、何を選択するか、ではなく、
行なった選択のためにどう行動するか、になった。

以下、今日私が引いたOsho禅タロット。



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15. 条件付け(コンディショニング)

自分の人格を落とさないかぎり、
あなたは自分の個であること(インディヴィジュアリティ) を
見いだすことなどできない。
個であることは、存在から与えられている。
人格は社会が押しつけたものだ。
人格は社会のなかでは都合がよい。
社会は個であることに耐えられない。
個であることは、羊のように追従しないからだ。
個であることにはライオンの資質がある。
ライオンは独りで動く。
羊はつねに群れをなしている。
群れのなかにいると楽で居心地がいいはずだと期待している。
群れのなかにいると、守られて安全な感じがする。
誰かが攻めてきても、群れのなかにいれば、
自分を救える可能性がいくらでもある。
だが、独りだと?
ライオンだけが独りで動く。
そして、あなたがたひとりひとりが、生まれつきのライオンだ。
だが、社会が絶えずあなたがたを羊として条件づけている。
あなたの心(マインド) を羊としてプログラムミングしている。
それがあなたに人格、当たり障りのない人格、素敵で、
とても都合がよく、ひじょうに従順な人格を与えるのだ。
社会は奴隷を望んでいる。
どんなことがあっても自由に身を捧げている人びとなど望んでいない。
社会が奴隷を望むのは、特権をもつあらゆる者たちが従順さを望むからだ。

Osho One Seed Makes the Whole Earth Green Chapter 4


解説:

このカードは、
あるライオンについての禅の古くからある話を思い出させてくれます。
このライオンは羊に育てられたのですが、
年老いたライオンに捕まって池に連れていかれ、
水面に映った自分の影を見せられるまで、自分は羊だと思い込んでいました。
私たちの多くは、このライオンに似ています。
私たちがもっている自己のイメージは、
自分自身が直接体験したことから生じるのではなく、他人の意見から生じます。
内側から育つことができたかもしれない「個であること(インディヴィジュアリティ) 」が、
外側から押しつけられた「人格(パーソナリティ)」に置き換えられているのです。
私たちは群れのなかのもう一匹の羊にすぎなくなってしまい、
自由に動くことができず、
自分自身のほんとうのアイデンティティを意識していません。
池に映る自分の影をよく見て、
他人からの条件付けによって自分はこうだと信じ込まされてきた、
そのすべてを打ち破るために、動きだす時です。
踊り、走り、揺さぶり、ジベリッシュをしましょう。
内側で眠っているライオンを目覚めさせるために必要なことは、
なんでもやりましょう。



********************


21. 完成

ものごとを最後まで言わないこと――これが禅のやり方だ。
これは理解されなければならない。
ひじょうに意義深い方法論だ。
すべてを言わないということには、
聞き手にそれを完成させる機会を与えるという意味がある。
答えはすべて未完成だ。
マスターはあなたにただ方向を与えているだけだ……。
あなたが行き着くところにまで行き着いてしまえば、
なにが手元に残ったのかがわかるだろう。
だから、たとえ誰かが禅を知的に理解しようとしても、失敗することになる。
それは問いに対する答えではなく、答え以上のなにかだ。
それは現実(リアリティ)そのものを指し示している……。
仏性は遠くにあるなにかではない――あなたの意識そのものが仏性だ。
そして、あなたの意識は、
世界を成り立たせているものごとをその場で見ることができる。
世界は終わっても、鏡は残る――なにもないことを映しながら。

Osho Joshu: The Lion's Roar Chapter 5


解説:

ジグソーパズルの最後のひとかけが、
しかるべき場所、第三の眼の位置、内なる洞察の場に置かれようとしています。
果てしなく変化する生の流れのなかにあってすら、
これで完成というポイントに行き着く瞬間がときにはあります。
こうした瞬間に、私たちは絵全体を、
長いあいだ気になっていた小さな断片すべてが
組み合わされた全体像を読み取ることができるのです。
仕上げてしまったら、私たちにできることは、
この状況が終わることは望んでいないので絶望してしまうか、
それとも、感謝して、
生には多くの終わりと多くの新しい始まりがあるという事実を受け容れるか、そのどちらかです。
なんであれ、これまであなたが時間とエネルギーを注いできたそのすべてが、
今、終わろうとしています。
それを完成させることで、あなたは、
新しいなにかが始まるためのスペースをきれいにかたづけて準備することになるのです。
この間合いを両方に―古いものの終わりと新しいものの到来を祝うことに使いましょう。


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