おひさまの日記
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最近、改めて強く思う。 「思考」って自分という世界の中だけのオバケみたいなもんで、 自分にとっては真実だけど、周りにとってはどうでもいいことなんだって。
そして、その「思考」が自分の真実であると信じてしまうことから苦しみは生まれてくる。
たとえば、 こんなことがあったから、これからこうなるに違いない、とか、 ああいう態度をされたから、あの人はこう思ってるに違いない、とか、 こういうふうでいないと、私には価値がないんだ、とか。
それは、予測という名の、また、思い込みという名の「思考」だ。 人に何か言ったら嫌われちゃったり怒られちゃうに違いない、ってのもそうだ。 過去の体験(傷ついた出来事)がデータベースとなり、 私達はそこから過去の事例を引き出してきて、 それに照らし合わせて未来を予測したり、状況を判断したりしてているのだ。
そして、そこからネガティブな感情が生まれる。 人を責めたくなるし、自分に対してそうしたくなる。 人生を嘆きたくなる。
だからと言って、いきなり、 じゃあそのデータベースはあてにしないようにしよう!なんてこともできないし、 それはそれで今まで通りでよくて、そこでできることがあるとしたら、 今まで通り、不安がったり、恐れたりしながらも、 それは「真実ではない」と知っておくことだ。 自分が幻想に怯えているということを知っておくことだ。 そして、それを常に自分のものとしておくことなのだ。
感情は思考から生まれる。 何かを考えたことによって生まれてくるのだ。 何かを考えたと気づかないくらい無意識に瞬時に考えて、 そこから生まれた感情に翻弄されていることだって多い。 データベースからひとつの思考を起動させる引き金は、 日常の中に腐るほど転がっているのだ。
私は悟ったことがないので、悟りについて説くことはできない。 けれど、なんとなく思うのは、 悟りとは何もなくなることじゃないんだろうなってこと。
弘法大師は確かこんな感じのことを説いていた。 無とは何もないことではなく、すべてがそこにあって、 ただそれらがあるがままにあることである、みたいなことを。
これを読んだ時、いたく感動したっけ。
私達は「思考」によってそこにあるものに様々な意味付けをしたり、 それに基づいて色々な予測をしたりするけれど、 それは、私達が物事を見たいように見て、判断したいように判断しているだけのこと。
ひとつの物があるしても、それを好きな人と嫌いな人がいて、 どちらもその人にとっては真実だけど、 実はそこにはただその物が存在しているだけなのだ。
最初に頭でわかっておく。 体験によってその頭での理解が知恵になる。 腑に落ちてゆく。
だから、知っておくのだ。 私達の「思考」は、自分にとってだけの真実であり、 それはただ自分の中から生まれた幻想、思考の罠なのだと。 不安や恐れに飲み込まれそうになった時、思い出してほしい。 感情はそのままに、ただ思い出すだけでいい。
私達が信じているのは「そういう気がする」だけのものであることがほとんどなのだ。
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