おひさまの日記
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| 2005年09月01日(木) |
私のシャドーへの考察 2 |
8月29日に引き続き、 私自身のシャドーについて気づいたことを書き留めておきたいと思った。
前回のシャドーへの考察に書いた他に、もうひとつ、 自分のまた別のシャドーと、そのシャドーが見せていたものに気づいた。
自分のシャドーは感情がネガティブな方に動く人なので、すぐわかる。
私のもうひとつのシャドーは「無愛想な人」「マナーのない人」「思いやりのない人」。 ひとくくりにすると「人に対して気を配らない人(と私には見える人)」と表現できるかもしれない。
日常でそういう人を見ていると、私の中で色々な感情がぐわんぐわん動く。
どこぞの店の態度の悪い店員もそうだし、 運転マナーが悪く後ろからあおったり道をゆずらない人もそうだし、 道にツバや痰を吐いたり、ゴミや吸い殻を捨てる人もそうだし、 あいさつをしても無愛想に返事したり、無表情に感じ悪く無視する人もそうだし、 例えを出していくとキリがない。
私が特に激しく反応するのは、 人に対してやさしい態度を取れない人。 笑顔で人と接することができない人。 簡単に言うと「露骨にイヤな感情や気分を表現する人」かもしれない。 見ていると、 「なんだあいつ、感じわるぅ!ダメじゃん!」 と怒りが湧いてくる。
私は彼等を裁き、罰している。 つまり、私はそういう自分を無意識のうちに裁き、罰している。 自分の中にはそんな部分は絶対にないと信じていても、 間違いなくそんな部分を持っていて、それを罰している。
そして、それ、つまり「自己の感情や気分が最優先でそれをそのまま表現する」部分、 それを持っていたことにより、 幼い頃、何かの出来事で大きなダメージを受け、傷つき、激しく痛み、苦しみ、 ゆえに、そんな部分は私自身が自分の中にあってはいけないと裁き、 切り離して時間の彼方に置いてきた部分だ。
機嫌が悪ければぶすっとしている、 嫌いなら無視する、口をきかない、攻撃する、仲間はずれにする、 人の悪口言いたい放題、噂話大好き…
私が自分にはないと信じ込もうとしているけれど、実際は持っている部分。 自分に「そんなんじゃいけないよ」と言い聞かせ自分から切り離した部分。
改めてこうして自分のシャドーについて考えると、 私の中に、ポン、ポン、ポン、と、色々なことが浮かび始めた。
私の父は言動共に暴力が激しかった。 私が幼い頃は、それらがすべて母に向いていた。 そして、大好きな母が怒鳴られ殴られるのを、私は黙って見ているしかなかった。
それは、セカンダリートラウマと言われるもとのなって私の中に残った。 セカンダリートラウマとは、自分が直接的に何かをされたわけではなく、 間接的に心が痛むような出来事を見聞きするなどして体験し、負う心の傷だ。
自分が直接何かをされていたわけではないので、 セカンダリートラウマはなかなかわかりづらく、またとても深い傷だとも言われている。
今思えばそれはまさに精神的虐待だった。 すべて父の機嫌次第なので、いつその被害を被るか予測できない。 私は小さいながら、常にピリピリして警戒態勢を取っていた。 大好きなおうちの中がこわくならないように祈りながら。 父は感情そのものの人だった。
とても怖かった。 父が怒り出すと胸が張り裂けそうなほど苦しかった。 母の存在にツバを吐いて切り刻むような罵声を怒濤のように浴びせるその光景は、 幾千もの剣が我が身に刺さるような想いだった。 痛かった。 悲しかった。 母を助けたかった。 怖くて怖くて頭がおかしくなりそうだった。
私は自然に自分の感情を表現することをしなくなっていった。 どうすれば怒らないか、 どうすれば怒った父の機嫌がよくなるのか、 私はそんなことばかり、毎日、毎日、考えていた。 父の顔色をうかがうのが私の仕事だった。 私がいい子でいさえすれば、父の機嫌はなんとかよくなり、 少しでも母への暴力が減るのではないかと思っていた。
そして、私は父が好むように振る舞った。 父が喜ぶことを言い、父が喜ぶことをした。 いつしか私は父のマスコットになった。
思春期の頃、マスコットでいることに疲れ、 自分の本心を表現するようになってから、父は事ある度に必ず言った。
「お前は小さい頃はよく言うことをきく可愛いいい子だったのに、 今はなんなんだ」
私は、母と同じように暴力を受け始めた。
私のシャドー、「露骨にイヤな感情や気分を表現する人」。
それは、私を苦しめた父そのもの。
そして、父が暴れ出さないように私が押し殺した私そのもの。
父のようになってはいけないと自分をいさめて、 父の機嫌を損ねないようにと自分をいさめて、 殺していった私の一部。
「露骨にイヤな感情や気分を表現する人」
そう書くととてもイヤな部分のように思えるけれど、 実は、とても大切な部分だ。 人は誰でも自然に感情を感じる。 自然に生まれてくるものを押さえ込んでしまうことはとても不健康だ。 問題は、生まれてくるその感情にあるのではなく、 その感情をどう処理するかなのだ。
私はその処理の方法を教わることなく、 ましてやその感情自体を受け止めてるもらえることなどなく、 ただただ、それを「いけないもの」と認識せざるを得ない環境で育った。
だから、私はそれを封印した。 自分から切り離し、遠くに捨て去った。
「でも、本当は私だってそうしたい!」 私はいつだってそう思っていたはずだ。
私はそんな自分の一部を感じるシャドーとなる人を見ると怒りを感じる。 そして、その怒りの下には、恐怖や悲しみが渦巻く。 遠い昔の日恐ろしかった日がすぐにでも甦ってしまうような危機と不安を感じて。
私は愛想よくしなくちゃと思うタイプ。 愛想がいいまでいかない時も、感じが悪い方じゃないと思う。
例えば、そこが自分にとって居心地悪く、 苦手な人の集まりの中だとしても、 なるべくにこにこしていたり、時に無害な人でいようとする。 会話がつまらなかろうと、そこの人達が苦手だろうと、私は笑っている。 そうしているとどんどん苦痛になってくる。 それでもやめないのだ。 やめられないのだ。 怖いから。
でも、その笑顔がなんだかわざとらしくて、 貼り付けたみたいなんじゃないだろうか、そんなことをふと思った。 居心地の悪い場所で、それでも嫌われないように、波風立てないように、必死で笑いながら、 「顔が疲れる」と感じているのだ。 心の中では下を向いてもううんざりだと思っているのだ。
いい子になろうと必死に頑張った私のインナーチャイルドは、 今の私の中にいて、その任務を放棄してはない。
私は、よくわかったよ、もうやめてもいいよ、と、 インナーチャイルドに伝える。
だからと言って、私の生活は激変しない。
けれど、シャドーをシャドーと認識せず、 彼等を責めているだけでは私の傷は今までと同じく、痛み、疼くだけだ。 だから、私はこうしてシャドーを通して、 自分にはないものとしてしまった自分の一部を見つめる。 見つめて自分の心の傷を知る。
こうしていて今改めて思うのだ。 「自分は本当につらかったのだな」と。 そして、私は、まだその感情に出会っていない。 けれど、出会う日がきっとすぐそばまで来ているに違いない。 恐れおののき泣く日が来るかもしれない。
その時は受け止めよう。 小さな自分が感じることなく押し殺してきた痛みを。 私が守るのだ、小さな私を。 大人になってあの頃よりずっと成熟した私が、小さい私を。 この世界にはもっと素晴らしいものもあることを、教えるのだ。
そんな私もまた誰かのシャドーとなり、誰から怒りを受けているのかもしれない。
「へらへらしてて何考えてるかわかんないよね」 「八方美人だよね」 「調子よくてムカつく」
って。 そういう人は、人と迎合する自分、人の機嫌を取る自分、 そんな自分をダメな自分と罰し、自分から切り離し捨て去ったのだろう。
すべての人は必ず誰かのシャドー。
私達は常に誰かの鏡だ。 鏡の中に、自分が知らない自分を見る。 映るものが憎々しく、腹立たしいからと言って、鏡を割っても鏡に映るものは消えない。 その鏡が砕けるだけ。 鏡は無数にあるのだから、また違う鏡に同じものを見る。 私達が本当にすべきことは、鏡を割ることではなく、 その鏡を通して、映っている自分の真の姿を知ることではないだろうか。
人間だから、人間だもの、 右往左往しながら、葛藤しながら、時にしくじりながら、 それでも私はしていきたい。 自分の真の姿を求めていくことを。
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