おひさまの日記
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2005年07月19日(火) 「与える」という行為の罠

日記でも触れてきた「与える」という行為。

「与える」ことは、ひとつ間違えると「犠牲になる」ことでもある。

嫌われないように、怒られないように、
そばに置いてもらえるように、恐れていることが起こらないように、
周りの誰かの要求に添うように生きてきてしまった人は、
もう自分を与え尽くして乾き切ってしまっている。
そんな人がまたさらに人に与えようとしても、それは犠牲の延長でしかない。

「与える」という行為は、
犠牲であったり、恐れや不安の回避ではない。

「与える」という行為の罠がそこにある。

私達は、時に、自分を生け贄のように差し出し、
どうかこれで許してくださいと言わんばかりにその行為にふける。
小さい頃から自分を押し殺して誰かの要求や問題回避のためにしてきたことがそれでもある。

そして、それを続けていくと、本当の自分の欲求とはかけ離れていくために苦しくなる。
それでも苦しさを麻痺させて続けていくと、
今度は体に病気やなんらかの症状として出ることもあるだろう。

自分のしたいこと、言いたいこと、それを押さえ込まなければ生きてこられなかった、
人形のように言いなりになるしかなかった、
自分という存在とその思考や感情を切り離さざるを得なかった、
私達は苦しい環境や状況の中にいると、無意識のうちにそういったことをしてしまう。
それ自体が相手に自分を差し出し与える行為かもしれない。
あなたが望む私を差し出し与えますので、どうかよくしてください、そんな悲願のもとに。

私達はそんな「与える」という行為の罠の中にいることに気づいていくことも大切なのだ。

じゃあ、「与える」って一体なによ!?ってなるけど、
日記では書き切れないな…
って言うか、もうすぐ朝になっちゃうんだよな。
だから、今日はここまで。





最近の私は「与える」ということについて、
本当に色々考え、感じ、また体験する機会を得ている。

「与える」行為は、
何かをしたり言ったりすることでもあり、
実際に物を与えることでもあり、
時に、逆に、何もしなかったり言わなかったりすることでもあり。
また時に、あえて与えないことで、別の何かを与えたりすることでもあり。

人からなにかを受け取っていることを、
私達は後になって気づくことも多い。
場合によっては何年も後になることだってあるかもしれない。
私もそうだ。

本当に大切なものほど、受け取っている時にはそれと気づけない。
後になって、ある瞬間、気づく。
そして、その与えられたものの神々しさに心が震える。

そうして与えられた魂の贈り物を心に刻み、
次は自分がそれを誰かに与えていきたいと、そう思うのだった。
偉大なる先人のごとく。


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