おひさまの日記
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2005年06月12日(日) Osho禅タロット:Ordinariness「普通であること」

■ Ordinariness「普通であること」 ■

私たちは、自分たちが生きているこの美しい世界を
あまりにも簡単に当然のことと受けとめてしまいます。
家を掃除する、庭仕事をする、食事をつくる――もっとも世俗的な作業であっても、
自分が全面的にかかわり、愛をもって、認められたり報酬を得たりすることなど考えずに、
ただそのためにだけ行なうと、それは神聖な質を帯びてきます。

出会う状況に対する、この簡潔で自然でごく普通のアプローチのほうが、
立派で賢くあろう、さもなければ特別であろうとする
自分の側でのどんな試みよりもはるかによい結果をもたらす、
そういう時にあなたはいま臨んでいます。

新奇なものを発明して評判を取ったり、
ユニークなスター性で友人や仲間を感嘆させるといったことは、すべて忘れましょう。
あなたがいま差し出さなければならない特別な贈りものは、
ものごとを簡単に、単純に、一度に一歩ずつ受けとめることで、
もっともよい形で贈られます。





これが、今日私が引いたOsho禅タロットのカードだった。

今日のカード、Ordinariness「普通であること」。

このカードの解説文を読み、
最近自分が苦しんできたことが一体何なのか見えた気がした。

それは、私が私以外のものになろうとしていたということだった。

私はいつの間にか「エイミー」になろうとしていた。
私の中での「エイミー」像は、いつの間にか私自身を離れ、
自分が作り上げた「こうあらねばならない」人物になっていた。
そして、その人物になったつもりでもいたし、
その人物として振る舞っていたかもしれない。
また、その人物以外の自分になることを極度に恐れていた。
その人物でなくなってしまうと、すべてを失ってしまうようにさえ思っていた。
ある意味、私の周りのすべてはその人物であるためのものだった。

その人物、それは、他人、自分、すべての期待を背負ったものだった。
そうして私は、自分自身の中に、ある偶像を作り上げてしまっていた。
その偶像こそが最高の姿であると信じて。

けれど、その偶像を追いかけ続けるうちに、
私は自分本来の姿から懸け離れた自分になってしまったようだ。
もっと厳密に言うと、私の本質、私の魂が求めるものとは違う人物になり、
自分のハイヤーセルフの部分では望んでいないことをしていたことになる。

それはとても苦しい作業だ。
なぜなら、偶像であるために、自分を偶像ではいさせない人や出来事や状況を、
徹底的に批判し、攻撃し、排除しなければならないからだ。
自分が素敵だと勝手に決めていた自分自身の有り様を少しでも揺るがすものは、
すべてが私の怒りや批判や攻撃の対象になっていった。

が、怒りや批判、攻撃、そんなものを
自分から放つことを繰り返していくのはものすごく苦しいことだ。
私は次第に消耗していった。
それは単に自分自身に対して、怒りや批判、攻撃を向けていることだから。

自由(ありのままの自分)である人々や出来事や状況を、それはいけないと責めることは、
私自身がすでに自由(ありのままの自分)ではないということになる。

自分が作り上げた偶像の元に、私は自由(ありのままの自分)であることを放棄していた。
自由(ありのままの自分)を自分に許していないために、自由(ありのまま)なものすべてを責めていた。
そんなんじゃいけないでしょ、って。

けれど、それは、本当は自由(ありのままの自分)である自分を責めていただけであり、
本当は自由(ありのままの自分)である自分を罰していただけだった。
私は自分の内側すべてを外の世界に投影してた。

まさに「こうあらねばならない」という想いにがんじがらめになって、
すっかり自由(ありのままの自分)を失っていたのだ。

今日、このカードを引いて、私の中で何かが一気に動いた。
ここに書いてきた一連の気付きと共に、何かが私に訪れた。

そして、もういいや、そう思った。
何もなくても私は私であり、
私は私であり続ければそれだけでいい、そう思った。

私は恐らく今までの私の世界を一度失うかもしれない。
いや、もう失い始めているかもしれない。

今日、ある場所で、それを強く感じた。

それは、私がしてきたこと、つまり、
偶像であるために重ねて来たあらゆることの結末かもしれない。
立派でありたいために積み重ねてきたことは、
自分を決して立派にはしないことだったように思う。
その結果を失うのなら、勇気を持って失おうと思った。

私は常にユニークでありたかったし、突出した存在でありたかった。
そうなれば自分には価値が生まれると信じていた。
けれど、それは、単なる恐れから生まれる幻想だった。

今はもうそれを望まなくなった。
今日、突然その変化は訪れた。

私はもう一度生まれ変わろうと思った。

Ordinariness「普通であること」、
実はそれこそがもっともユニークであり、突出したものであり、
すべての調和の中にあって、なおかつ、特別な存在となる。

そうしようと思ってないけど結果的に自然にそうなってる、
それがすごく素敵だと思う。

以前、ダライ・ラマ氏の講演を聴いた人が言っていた。
「どんなすごいオーラが出てる人かと思って行ったら、
 ただの普通のオヤジだった」と。
すごい!って思った。
あんな素晴らしい方がただのオヤジになれるなんて。
それこそ神業だ。
彼女は付け加えた。
「そして、本当に素晴らしかった」と。
そうしようと思っていなくてそうなった人の最たる例だと思う。

偶像にしがみつかなければならないほど私は弱かったのだろう。
何かに怯え、何かを恐れていたのだろう。
けれど、いちばんに怯え、恐れるべきなのは、
自分自身の姿を見失うことであると、今ははっきりと思える。

私は、私のままの「エイミー」に戻ろうとしている。

こんな作業を生きている間ずっと繰り返すのかもしれない。

私は言う。
私に言う。
「おかえりなさい」








私のリンクでも、Osho禅タロットをウェブで引けるページをご案内している。
よかったらみなさんもぜひどうぞ。


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今日も読んでくれてありがと♪すごくうれしい!
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