おひさまの日記
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| 2005年06月06日(月) |
昔のいじめを思い出して |
いじめが社会問題になっているけれど、 実は私が小さい頃もそこかしこにあった。
いじめをしていたこともあるし、いじめられていることもあった。 両方を体験した。
小学校の頃のいじめを思い出した。 クラス中の女の子達が、ひとりの女の子Kちゃんを仲間はずれにしていた。 もちろん私もいじめる側だった。 仲間はずれや無視、理不尽な命令に従わせるようなことは日常茶飯事。 今思えば、Kちゃんは全然イヤな子じゃなかったのに。
思い出すと身の毛もよだつ。 なんと恐ろしいことをしていたのだろう。 Kちゃんがどれほど辛く苦しい思いをして学校に来ていたのかと思うと、 内臓がよじれそうになった。
中学に入っても、気に入らない子がいると、 私はやはりその子に対してクラスの仲間と一緒になって、 悪口を言ったり、辛くあたっていたように思う。 英語の発音がいい子に嫉妬して、カッコつけてるとか、そんなばからしい理由で。
今思うと、誰かをいじめる動機なんて本当にくだらない。 自分が別になんとも思っていない友達のことも、 誰かが悪口を言っているのを聞いて、 自分でその子を判断するのではなく、その噂に面白おかしく便乗し、 相手を知りもしないのに、自分もすっかり嫌いになったつもりになって、 悪口を言ったり、いじめに加担したりしていた。
中学3年になると、立場が一転、私は卒業近くまでいじめの対象になった。 学校では休み時間の度に囲まれて、机やイスを蹴られたり、 持ち物を隠されたり、壊されたり、そんなことが毎日続いた。 女の子達は、私に関わると自分もそうされるために私とは距離を置いた。 男の子達は、私を汚いと言ってフォークダンスの時に手をつないでくれなかった。 秋口にはストレスで胃潰瘍になり救急車で運ばれるほど追い詰めらた。
そのいじめグループの中には、 小学校から誰かをいじめる時にずっと主犯格で、私も従っていた子がいた。 彼女が私の悪口を広めて、いじめの主導権を握っていた。 その時に初めて思った。 いじめのような意識でつながった友達は本当の友達じゃないんだってことに。
それからようやく気付けた。 今まで自分がしてきたことの罪深さに、残虐さに。 自分が深く考えようとせず、ある種のゲームのように、 なんとなく流れで誰かを仲間はずれにしたことが、 どれほど相手を追い詰めて苦しめてゆくひどいことで、 何があっても決してやってはいけないということを、 自分がいじめられて、苦しみ、体を壊し、まさに身を以て知った。
それ以後、私は誰かのいじめに加担することはなくなった。 相手の痛みがわかったから。
あまりにも辛い体験だったけど、今はその体験があってよかったと心から思う。 その1年間の苦しい体験がなかったら、私は恐らく今セラピストはしてない(笑)
そんな昔のいじめを思い出して感じたことがある。
子供の頃は、動機がどんなものであれ、 誰かとつながっていくことがまず嬉しいし、それが仲間意識となる。 今思い起こせば、子供の頃は、相手の全体像を見るというよりは、 その瞬間何かでつながれるかどうか、 それが相手と自分の関係において重要だったような気がする。
誰かと何かでつながれることが自分の楽しみや安心や安全だったし、 そのつながりの質に関しては無感心だった。 相手と何かでつながりながら、そのつながりに違和感があろうと、 その違和感よりも、つながっているということ自体の方が、 自分にとっては大切なものだと思い込んでいた。 相手がどういう人か、と言うことよりも、 相手とどの部分でつながれるか、それが何よりも大切なのだと。
自分の娘を見ていても思う。 キツい友達がいて、その子を好きじゃないと言いつつ遊んだりしていた。 私が「○○ちゃんイヤなんじゃないの?」と聞くと、 「イヤだけど今日はイヤじゃない」と答える。 かと思えば、別の日は「こんなことされて本当にイヤだった。もう遊びたくない」と言う。 まさに上に書いたように、刹那的で、 「その瞬間何かでつなる」ことに重点を置いた関係と言える。
大人にも言えることだが、 そういう関係の中にいると、相手との関係の質を見極めることよりも、 インスタントな相手とのつながりをいかに維持するかに情熱を注ぎ込む傾向が、私達にはある。 それが何より大切だと心から信じているからだ。
なぜ大切だと信じるかと言えば、 大切だと信じて大切にしないと、好ましくないことが起こるからだ。
好ましくないこと、例えば、 よくあることでは、近所のお付き合いや会社等、団体の中での人間関係で、 その人達とのつながり、つまり共通の接点を持って、 相手に共感共鳴していないと、そのコミュニティに存在することができず、 自分が排他されていってしまう。 簡単に言うと、大人の仲間はずれにあったり、陰口を言われたり。 だから「つながり方」に違和感があろうと、それが不本意なものであろうとも、 その違和感よりも、つながっていること自体を大切にしなければならなくなってくる。
また、例えば、 友達関係や恋愛関係、一対一での関係では、 相手となんとかしてつながって(そこにガマンが生じても)共感共鳴していないと、 批判されたり、反感を持たれたり、嫌われたり、 相手が自分から去っていってしまう痛みを体験することになるので、 やはり「つながり方」に違和感や、場合によっては痛みが伴っても、 喪失やそれによる痛みを避けるために、 つながっていること自体を大切にしなければならなくなってくる。 時には「これは違うよ」って気付いていても、 「いや、違うわけない、これでいいんだ」と自分に言い聞かせたり、 理不尽な相手を自分の中で正当化してみたり。
本当はそんなつながりにしがみつくこと自体が、 自分を苦しめることでもあったのに。
子供の頃はそんなこと考えもしなかった。 そして、目の前に次々と起こる出来事に刹那的に身を任せ、 今、ここで、とにかく誰かや何かとつながれるものを求め続けた。 無意識のうちに。
そして、結果それは、人はもちろんのこと、 気付かないうちに自分自身をも深く傷つけていた。
人は無意識に生きているのかもしれない。 相手に対して、自分に対して、社会に対して、何かに対して、 感じること、思うこと、自分の中に湧き上がってくるもの、 そんなものに対してまったく無防備で、 ただ自分の中に生まれるそれのままに、生きている。
けれど、自分の感情や思考、自分の中の何か、 そんなものを意図的にとらえ、それがどういうものであるか、 思慮深くあれるようにと意識できたら、 私達の人生は変わってくるに違いない。
幼い頃の私のあやまちも、無意識に流されることで生じたものだった。 もちろん、人として成熟しておらず、 そんなプロセスを経たからこそ学べたのだが。
だからこそ、今、意識的に人生を生きることをしていきたいと思うのだった。 葛藤してもいい。 葛藤の中にあっても、常に自分の中の真実を求める人でありたいと思った。 そして、願わくばそれを体現できる人でありたいと。
私は、昔いじめてしまったKちゃんや他の子達に、 あの時は本当にごめんね、苦しめてしまったねって、手を合わて心の中で謝った。 どうか今彼女達が幸せでありますようにと。
そして、中学3年でいじめられていた中、 周りを気にせずたったひとり友達になってくれて、 私の苦しい1年間を支えてくれた「やっちん」に、 心からの感謝の気持ちを。 本当にありがとう。
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