おひさまの日記
日記インデックス|前の日の日記を読む|次の日の日記を読む
怖いから言えない、そんなことが沢山ある。 怖いとまでは認識しないにしても、 言いづらい、そんな感覚でキャッチすることもあるだろう。
私も今そんなことがいくつかある。
怖いから言うこともできず、不本意なままに流れていって、 結局自分の中に不満やフラストレーションを抱えることになっている。
だからこそ伝えなければならないと思いつつ、 私はそれを相手に伝える勇気が出てこない。
私がそれを相手に伝えることによって、相手が、 気を悪くしないだろうか、 怒り出さないだろうか、 バカだと思われないだろうか、 呆れられないだろうか、 嫌われないだろうか、 そんなことを考えるのだ。
そういう時は、大体、相手への反対意見や、 相手がいやがりそうなことを伝えたい時、 また、一度決まったことをひっくり返すような時だ。
そんなことを沢山ためこんでいたこの頃。 昨日、私の喉はとうとう腫れた。 今日も唾を飲み込むのが難儀なほど痛い。 言えない、表現できないことの象徴、喉、そこの痛み。 身体は心と密接につながっている。
自分の言いたいことを、自分の気持ちや意思を、 伝えず飲み込むというこのはこんなにもイヤなものなのだな。 そして、苦しく、胸の辺りがどんよりとして、 心地よくないものが沈殿していく感じだ。 本当はとてもとても伝えたいのに。
これはまさに「葛藤」だ。
言いたい自分、伝えたい自分。 言いたくない自分、伝えたくない自分。 どちらも自分。
ひとりの私がふたつに別れてしまうのは、そこに「恐れ」があるから。 真実の私と相手の反応を恐れる私。
そして、思った。 恐れに従順になるのか、 恐れと戦って自分の真実を日の光に当てるのか、 そのどちらが心地いいかと言えば、後者だ。
前者は、恐れはないが心の中で何かが腐敗していくような不快感がある。 後者は、恐れこそあっても、たとえ痛みを伴っても、 自分を生きることの曇りない澄んだ気持ちになる。 私は後者の心の状態を、よく「スッキリした感じ」と表現する。
私はわかっている。 後者の「スッキリした感じ」がどれほど大切か。 そして、それこそが自分にとっての最善だと。 それでも、そう理解はできていても、怖くて言えないこともある。 言うこと、伝えること、それが攻撃でないとしても、 それでも怖いのだ。
そして、怖い自分を認めてあげようと思う。 認めて、ここまでじれて、言うのを引き延ばして、今日がある。 それが身体にも出て、だからこそ、 葛藤に終止符を打とうという気持ちにもなれる。 恐れに翻弄される自分も慈しんであげよう。
今思う。 身体が痛みを伴って表現しているのは、心にも痛みがあるから。 それを受け止めよう、って。
そろそろ勇気を出そうかな。 言いづらいけど、でも、伝えよう。 こういう時こそ私達は勇気というものを必要とする。 そして、こういう時にこそ使うものだと思う。
思い切って電話するよ、相手の人に。
そういう時はこう自分に言い聞かせる。 「なぁに、1時間後にはスッキリしてるさ」 って。 終わった後だって思うはずだ。 なんだ、どうってことないじゃない?って。
ここがまさに勇気の使いどころ。
|