DEAD OR BASEBALL!

oz【MAIL

Vol.189 10月2日と10月3日
2004年10月03日(日)

 いやはや、今日はイチロー一色である。
 もちろん私も、ちゃんとテレビの前で釘付けになっていた。
 観ている方は勝手なもので、あのイチローなんだから残り3試合でタイ記録まであと1本となれば新記録作って当たり前、なんて思ったりするものだが、それってフツーに考えたらとんでもないことだと考えていい。
 外から見ている立場としては、記録への挑戦が騒がれるようになっても、イチローって割といつものように淡々とした姿勢を崩さないように見えた。
 けど、実際はやっぱり意識の中にはあったんじゃないかな、と思う。
ただ、イチローの場合、そういう記録への挑戦とか、厳しくなるピッチャーの攻めとか、ブーイングの中で敬遠されることとか、そういう状況を楽しんでいるようには見えた。
 単純な話、根っから野球好きな人なんだなぁ、と感じる。
 当たり前過ぎる程に当たり前なんだけど、「イチローだから」という言葉で安易に流して見過ごしてきたこと、もしかしたら山の如くあったのかもしれない。
 それはイチローがメジャーに移籍した時にも、嫌という程に考えたことなんだが。

 しかし、毎度思うが、あのメジャーの球場の雰囲気は凄い。
 ベースボールというスポーツへの愛がある。ベースボールラヴなんて言うとちゃっちくなってしまうが。
 畏怖と畏敬の念を感じる。
 イチローが初回にヒットを打ってタイ記録に並んだ時と、3回に一気に新記録を塗り替えた時の、あの球場の空気と言ったら筆舌に尽くしがたいものがあったんじゃないかな、とすら感じてしまうあの凄まじさ。
 テレビで観ていてもそれが伝わってきたんだから、現地で生で観ている人たちや、そのフィールドでプレーしている選手、球場の職員さんたちにとっては、言葉にすることすらできないようなムードだったんじゃないか。

 歴史の証人たるべきその瞬間に、同じ空気を共有することって、一体どういう感覚なんだろう。
 きっと、鳥肌が立って、ただ立って拍手をすることしかできないんだろうな、と思う。
 私があの場にいたら、きっと興奮で泣いているのか笑っているのか分からないような顔になっているような気がする。
 あの時、あの場にいた人たちは、生きている限り「俺はあの時、セーフコフィールドでイチローが年間安打の新記録を打ち立てた瞬間を見たんだ。84年間開かなかった扉が開かれた瞬間に、新しい安打王が歴史に刻まれた瞬間に立ち会ったんだ」ということを語っていくに違いない。
 それを聞いた子供たちが、イチローという偉大極まる選手の凄さを語り継いでいく。
 記録に残るだけでなく、人々の手によって未来永劫語り継がれ、いつまでも身近にある。
 それこそが“伝説”というもの。文字通りの意味と、それ以上に重く長い真実の記録と記憶。

 私は、イチローが日本人であるということと、自分がその人と国籍が同じだという事実に、さほど誇りは感じない。多少は感じるけど。
 ただ、イチローがこの国の野球で育ち、“イチロー”という国籍なんて歯牙にもかけないような絶対的な個性によって上り詰めたことは素晴らしいと思うし、イチローのプレーに触れてきたということに関しては凄く誇らしい気分になる。
 それはともかく、イチローの存在に誇らしい気分になる日本人は、ナショナリズムという点だけにおいても、相当数いる筈だと思う。
 それならば、イチローはその存在そのものが文化だ、ということはできないだろうか。

 例えば街中で外国人、それもアメリカ人に話しかけられた時、英語なんてろくすっぽ喋れない私は、まともに受け答えはできないと思う。ヘタすればパニックにすら陥ると思う。
 ただ、もしベースボール、或いはその中にイチローという単語が出てきて、その人が物凄く楽しそうに話をしていたら、きっと私は必死になって応じようとする。
 違う国の人が、私と同じ国から生まれたスーパーベースボールプレーヤーを、私と同じように好きでいてくれる。ファンでいてくれる。それは多分、言いようのない誇らしさを私に与えてくれる筈だ。
 恐らくそれは、ハノイで「このフォーはとてもおいしいですね」と言ったときのベトナム人の気持ちや、フェラーリを賞賛したときのイタリア人の気持ちや、ベートーベンを賞賛した時のドイツ人の気持ちと、全く同じ感情に根ざしたものだ、と思う。
 食もクルマも音楽も、その国に根付いた確かな文化であるならば、だからこそ賞賛された人たちは我が事のように喜び、誇らしい気持ちになるのだろう。
 だとしたら、少なくとも私に限って言うならば、イチローのプレーを見ているだけでこんなにも誇らしい気持ちになる以上、“イチロー”という選手そのものが一つの文化である、と。

 私は、スポーツは文化だと思う。
 しかし、そう考えない人たちがいるというのは、一向に構わない。
イチローがとてつもなく偉大なる記録を打ち立てたという事実に喜びを感じない、というのであれば。
 ベースボール、そしてスポーツを文化だと考えるアメリカ人から奇異な目で見られても、挙句蔑んだ目で見られても、それでも尚平然としていられるのであれば。

 レッドオクトーバーと歪な球界再編騒動。
 海の向こうとこっち側で、どうしてこんなにも違うんだろう。



 人が成長する為には、どんなきっかけが必要なのだろうか。

 笑うことだろうか。
 怒ることだろうか。
 悲しむことだろうか。
 喜ぶことだろうか。
 憂うことだろうか。
 
 多分、全部そうなのだろう。
 そう、多分、泣くことも。

 私はスポーツを観ている時、何らかの目的を設定してそれを観ることにしている。
 それは、例えば単純に楽しむ為である時もあるし、お目当ての選手を見る為である時もあるし、応援しているチームの勝利を信じて観る時も当然ある。
 ひいきのチームや選手を持たずにスポーツを観ること程、面白くないことはないと思う。何故なら、結局のところスポーツというのは勝ち負けを競うものだから。

 ただ、自分が何の為にその試合を観ているのか分からなくなってしまうということも、時々ある。
 今日のパ・リーグプレーオフ第1ステージ・第3戦は、まさしくそういう試合だった。

 私は元々、このパ・リーグのプレーオフという制度には反対だった。
 メジャーのように、1リーグ14〜16チームを抱え、地区も分かれているなら、レギュラーシーズンだけで優勝チームを決めずにプレーオフをやるということも分かる。
ただ、現状の日本は、セ・パ両リーグでそれぞれ6チームずつ、その半分がプレーオフに進出するとなれば、そのプレーオフの結果如何ではレギュラーシーズンの意味がほとんどなくなってしまう。
 今シーズンのパ・リーグのように、1位のチームと3位のチームに相当数のゲーム差が開いても、短期決戦の結果によっては140試合近いレギュラーシーズンの道程が全て覆される可能性がある。
 このことは、ペナントレースの意義、すなわち「リーグで一番強いチームを決める」という趣旨に反するのでは、と常々思っていた。

 今日まで行われた第1ステージを見終わっても尚、その思いに変化は生じていない。基本的には。
 ただ、お互いもう1つも落とせないという瀬戸際の中での試合に、そして、劇的にと言うにはあまりにも明と暗のコントラストがはっきりし過ぎたその結末に、私はその試合を何の為に観ているのかわからなくなってしまった。
 今期、2位西武と3位北海道日本ハムのゲーム差は7.5。これだけゲーム差が開いているならば、私は西武が勝たなければペナントレースの意味がないと思う。
 だから、このプレーオフ第1ステージが始まるまでは、何としても西武に勝ってもらわなければ困る、という思いでこのシリーズを捉えていた。
 実際に試合を観たのは昨日・今日の2試合だけだが、私はこの試合を観て、少なくともこの試合に関しては、どちらに勝ってほしいとか、あっちは勝つべきじゃないとか、そういう邪念めいたものが知らないうちにどこかに消えてしまっていた。
 両チームとも、物凄い試合をしている。互いの死力で死力を搾り出すような、そんな凄まじい試合をしている。
 もうそれだけで充分だった。そこにあるのは、プレーオフとか、7.5差のチームの試合とか、そういうものではなく、純粋なプロ野球だった。
 試合はサヨナラで西武が勝ち、第2ステージ進出を決めた。
 当初の希望通りの展開になったのだ。が、そんなことはもう、気持ちの上ではどうでもよくなっていた。
 テレビ越しに見る球場からは、勝ち負けの枠を超えた、心地いいという程に穏やかではないものの、興奮という名の傷跡が刻まれた確かな余韻があった、ように思う。



 地元出身の選手には、愛着がある。
 地元出身で、地元のチームに入団し、そこで芽が出ずに北海道に活躍の場を移した投手が、今年チームの抑えのエースとして、最優秀救援投手の座を掴むまでの成長を遂げた。
 最後に打たれて敗戦投手になったのは、ヒルマン監督の期待と抜擢に応えてチームを支えた、その投手だった。
 恐らくヒルマン監督は、彼を出して打たれたなら仕方ない、と思っているのではないかと思う。
 北海道に移るまでは、素質はあってもメンタル面が弱い、マウンド上でオドオドしている、そう言われ続けたその投手は、今年はマウンド上で打者を威圧するほどのたくましさを身に付け、オールスターゲームにも出場し、リーグを代表するクローザーとしての一歩を刻んだ。
 彼は、大きく変わった。
 彼は恐らく、成長する為の何らかのきっかけを掴んだのだ。

 その彼が今日、サヨナラ本塁打を浴びた。まるで高校球児のように、目を真っ赤に腫らして泣いていた。
 彼のチームは、これで今年のシーズンを終える。その責任感を、彼はチームのクローザーという責任ある立場で、徹底的に消化しようとしたのだと思う。
 地元のチームにいた時代の彼が、そのように自分の感情をストレートに表現した姿を、私は見たことがなかった。
 恐らく……彼にとって、今日全ての感情をオープンにして泣いたことは、彼がまた成長する為のきっかけとして、彼に何らかの力をもたらす筈だと思う。
 そうあってほしい、と切に思う。

 私は本来、人に「がんばれ」と言うことは好きではない。
 だけど、こう思う。彼については、こう思わせてほしい、と思う。
 来年もがんばれ、横山道哉。



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