DEAD OR BASEBALL!

oz【MAIL

Vol.179 深化する浪人
2004年03月04日(木)

 小宮山悟のスローカーブが好きだった。松坂大輔のカーブのように特に落差がある訳でもなく、星野伸之のような極端なスローカーブという訳でもなく、堀内恒夫のように打者の腰を砕くようなキレがある訳でもない。それでも、小宮山のスローカーブは、彼にしか出せないアンサンブルを奏でつつ、小宮山悟という投手を語る上では欠かせない独特の球種だと思っている。

 “精密機械”と呼ばれるその針の穴を通すようなコントロール。百戦錬磨という言葉がピタリとはまる精緻な投球術。プロの選手をも唸らせる卓越した投球理論。それら全てが小宮山を語るキーワードであり、個人的な感覚だが、その全てのベクトルが彼のスローカーブという球種に集約されているような感すらある。

 その小宮山悟が、日本球界に帰ってきた。

 38歳。ベテランと呼ばれるその年齢は、小宮山にとって彼という人間の年輪そのもの以上の意味を為さないものなのかもしれない。

 横浜ベイスターズからFAでニューヨーク・メッツに移籍したのは01年オフ。当時メッツの監督を務めていたボビー・バレンタインは、95年にロッテの監督として小宮山と直に接している。恐らくはその筋の後押しもあったであろう小宮山のメッツ移籍は“36歳の挑戦”として注目を集めたが、成績は0勝3敗。メジャーに定着することも適わず、その年のオフに解雇を通告された。

 メジャーからのオファーはなかった。傍目から見れば挑戦失敗と受け取られた小宮山には、年齢的な面や2億円近いFA制度の保証金がネックになり、日本球団からのオファーもなかった。阪神フィーバーで過熱した03年のグラウンドに、小宮山の姿はどこにもなかった。

 引退以外に辿る道がないと思われた状況下、小宮山の姿を見たのはテレビの野球中継の実況席だった。解説者として座った小宮山の肩書きは「現役投手」。冷静に、しかし野球への想いを激しく燃え滾らせるような彼の解説から、彼はまだプロのマウンドに立つ意思を現役という立場で磨き続けているのだと感じた。

 その小宮山悟が、日本球界に帰ってきた。

 彼にオファーを出したのは、古巣のロッテ。監督にバレンタインが再就任したばかりのロッテは、現役投手という形で宙に浮いていた小宮山と交渉し、小宮山も入団に合意する。

 年俸は4000万円(推定)と大幅に下がり、FAの保証金も消滅したことで、金銭的な縛りがなくなった小宮山に古巣が接触した。そういう見方が一般的のようだが、言うまでもなくバレンタインの影響力がそこには多分に働いているだろう。バレンタインは確実な戦力として小宮山に接触し、小宮山もその自信とバレンタインへの信頼感からロッテ側のオファーをすんなりと受け入れた筈だ。

 現役投手を名乗っていたからには、いつでもマウンドに上がれるだけのトレーニングを小宮山は続けてきたと想像できる。ただ、それでも1年間実戦から遠ざかっていた小宮山は、その不安面ばかり注視されたように思う。事実、私自身も小宮山がどこまで計算できるかという部分については半信半疑だった部分が大きかった。せめて先発の5〜6番手辺り、シーズン前の戦力診断でもそういう見方の域を出られなかった。

 2月28日のオープン戦開幕、黒木知宏の復帰登板として注目を集めた巨人×ロッテ戦。高橋由伸に満塁弾を浴びた黒木の後を受けてマウンドに上がった小宮山は、2回1/3を僅か1安打に封じる好投を演じた。

 三振を奪ったスローカーブはいまだ健在。錆び付くどころかさらに進化、いや深化したかのような小宮山の投球は、横浜で12勝した01年以上の斬れ味を感じさせるものだった。それはさながら、妖刀村正を手に一瞬の抜刀だけで相手を斬り伏せる居合い斬りの達人、そんな座頭市のような錯覚すらもたらせるものだった。

 1年のブランクは、小宮山の投球を錆びつかせるどころか、新たな凄みをもたらせる熟成期間だったのだろうか。彼は『色々なことを経験している。だから乗り越えられるということもある』と語ったそうだ。

 苦しみを味わったであろうメッツでの1年、そして現役投手という立場で外からプロ野球と接してきた1年は、日本での現役生活で身につけてきたものとは別の柔軟な筋肉を手にする為の時間だったのかもしれない。もちろんそれは想定外のことでもあっただろうが、マイナスをプラスに転換するというスポーツ選手に欠かせない力を、小宮山は絶望的な局面でも磨き発揮したのだろう。

 小宮山が芝浦工大柏高から早稲田大に進学するときに二浪しているのは有名なエピソードだが、その浪人というネガティブな響きをポジティブに動かす力はその頃から既に身につけていたものだろう。早稲田大からドラフト1位でロッテに入団した小宮山は、入団後もチーム事情で勝ち星に蹴られることが度々あったが、年を追う毎にその投球が深化していったことだけは疑い様がない。

 バレンタインと小宮山の再会を、運命的に扱う記事もあった。だが、恐らくバレンタインは、プロの選手にとって何が最も必要かということも、その最も必要な力を小宮山が持っているということも、さらにはこの2年でその力がさらに鋭く研ぎ澄まされていることも知っていたのだろう。金銭的な部分を云々する前に、バレンタインにとって小宮山はチームにとってこの上なく大きなファクターだった筈だ。彼がチームに入る影響は、勝ち星以外の様々な面でいい方向に出てくるだろう。

 肉体的には、確かに衰えがきていてもおかしくない年齢ではある。しかし刻まれた年輪の深さは、同時にその樹がどれだけの栄養を取り入れ、どれだけの強さをその中に蓄えてきたかということを最も端的に示しているものでもある。幾重にも年輪を重ねた小宮山悟という樹は、若さだけでは辿り着けない強さを幾重にも重ねて、若さとはまた違った強さを体現しているようにも見える。

 無駄なものはない。歩いてきたその道には、必ず手にするものがあった。小宮山の野球人生は、何よりも雄弁にそのことを物語る。あらゆる時を深化の材料にし、太く強く年輪を刻んできた男の哲学は、10の勝ち星よりも大きな財産をロッテに、そして日本球界にもたらすかもしれない。

 深化は止まらない。小宮山悟が、日本球界に帰ってきた。



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