夏コミは結局申し込みをしませんでした。多分夏は忙しいと思いまして。でも、9月の映画オンリーにはできれば出たいと思っています。本を作る気はあるんですが、売ろうと思えば通販もありますしね。 私はさっき、自分の反社会性、反体制性、自分が社会不適合者であることなどを考えていて、ひとつの究極の結論に達しました。社会性のある人間と、反社会的な人間の衝突こそが、私にとっての萌えの究極なんだという結論です。まさにこれは「罪と罰」に共通するテーマですが、前者は後者の自由に、後者は前者の自己犠牲の精神、その寛大さに密かな憧れと反発を抱き、惹かれあう。お互いにこうはなりたくない、と思いながらもどこかで憧れている、自分はこうはなれない、という気持ちを抱いている……そしてそんな相手を受け入れ、認めることが赦しであり、愛なんだろう。それは男女の関係そのものでもあると思う。うーん今日は偉大な発見をしたかもしんない。 先日読んだ本の中にとても興味深い一説が載っていました。キリスト教と女性原理について、 『この点で、イシス信仰に関して、心理学者フォン=フランツ(1915-98)の解釈は興味深い。彼女は、男性が自分の内にある<女性的なもの>にどのように対峙していくかに男性の成熟がかかっていると指摘する。言い換えれば、<女性的なもの>を抑圧していては男性の成熟も達成できないのである。異性としての女性に対する抑圧は男性の内なる<女性的なもの>への抑圧でもあるのだ』 まったくその通りだ! これこそ我々スラッシャーがスラッシャーたる所以であり、男同士の愛に快を見出す理由の重要な部分であり、また逆に言えば成熟し切れていない男たちが、ゲイやスラッシャー(腐女子)を嫌う理由なのです。 こうした「惹かれながらも反発する、認めながらも拒絶する」という複雑な心理は、自己を見失うことへの恐れから生じているのです。でもそこまでして護ろうとする自己とは何なのか。ああもうこれはまさに「罪と罰」が辿り着いた結末です。すべてが脆くも崩れ去った時、ラスコーリニコフはソーニャの眼の中に、本当の自分、紛れもない自己を発見するのです。 すべての愛がこんな荒々しい、嵐の海のようなものであってもらっても困りますが、でもこれはすごいな〜。もちろん、純粋に異性としての男の肉体に性的興奮を覚えるということも大きな理由ですが、男が男に抱かれてアンアン言う瞬間とは、女が「女としての自分に対する男の抑圧から解放される」瞬間でもあるのです。そのことを女たちは、漠然と、それこそ本能的に、察知していたのですね。 さっきまで、自分がこれまでいかに反社会的だったか(学生新聞の記事など)を書いて楽しんでいたんですが(それがそもそも反社会的だ)、それはまたいつか。
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