思い出に変わるまで
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2006年04月26日(水) 祖母の死

午前中に小用で実家に電話した際、祖母が危篤状態だと知らされた。
89歳の父の母である。
数年前から痴呆が進み、養老施設に入っており、癌が発見されてからは入退院の繰り返しだった。
1週間前から危ないとは聞いてたので大阪行きも少し危ぶまれた。
大阪から帰り、実家に寄った際にはさとしクンとタメを連れて病院にお見舞いに行った。
痴呆の為誰が誰なのかはもう認識できない状態で元々細かった体が一段と細くなりチューブに繋がれた体が痛々しかった。

私の中の祖母は80歳近くまで働いており、しっかりとして女で一つで三人の子供を育てただけあって芯があった。
我が強いと言うか、わがままと言うか正確がキツいだけあって周りからの風当たりも強く、お世辞にも周りから好かれるタイプではない。
当然、嫁、姑関係もメチャ悪くて家庭内別居、いや、無視に近い状態だった。
中学生の正月は忘れられない。
お年玉の袋を犬のエサを与えるようにポィッと投げた時には子供ながらに
「こんなお年玉いらない」
って言った覚えがある。

お金ですよ?
お金を投げてはいけないって小さい時教わらなかった??

平気でやってのけた婆さんです。
それでも周りから嫌われる婆さんが逆に哀れに思ったもんです。

姉は性格がストレートな分衝突も多かった。
姉と同じ年のいとこ(父の妹の娘)と一緒に婆さんと対立してたから姉は10年以上会ってないコトになる。

痴呆が進んで来た3、4年前。
一時的に祖母を実家で預かる事になり、一人暮らししてた私は祖母の姿を見る事は出来なかったけど母から様子は聞いてた。
平常な状態と痴呆の状態が交差してた時期でプライドの高い婆さんは
母に何かと世話になる事が嫌だったらしいが、自分ではどうする事も出来ない事を面倒見る母の姿に平常に戻った婆さんは何度も礼を言い、涙を流したそうだ。
対立してた長男の嫁は当然世話も嫌がりデイサービスに任せっきりだそうで
我が屋の家族の団欒、人との触れあい、孫、ひ孫との生活は嬉しかったそうだ。

意地とわがままだけで通した人生。
孫からも寄り付かれ無いお婆さん。
初めて「大ばあちゃん」と呼ばれ、ひ孫から遊ぼうと言われ
ささやかな幸せを味わう。
哀れだと思った。
寂しい人生だと思った。
80歳を過ぎて自分の生き方を後悔しちゃいけない。
老いては子に従う
かわいいお婆ちゃんになりたい。

子供の頃から祖母の発言、態度を見てて
こうあってはいけない
こうしちゃいけない
大人になりきれてなかった私でも実感した。

祖母の最期は祖母自身どうおもったのだろうか?
悔いは無かったのかな?

約3週間前、
両親、甥、タメを連れて病院を訪れた時
枕元で
「婆ちゃん、みんながきたよ、タメだよ」
みんなが枕元で色々語りかけた。
痴呆で分からないかもしれないけど、分かった上で数十分話し続けた。
眠ってた祖母は目を覚まし、うつろな目でしっかりと私達の方へ視線を移し、じっと見つめられた。

分かってるのかな?
分かるのかな?
耳はきちんと聞こえているよね?

色々語りかけたら祖母の右目から一粒の涙がつたったのが忘れられない。
単なる目の乾きから出た涙なのかもしれないけど
もし、何か感じるものがあって出た涙なのか・・・
それは今も分からないけど
89年の人生を終えた祖母に
お疲れさまと伝えたくて、明日、実家に向かい通夜、葬儀に参列したいと思う。

葬式には行かないと言ってた姉も母と私と話し、両日来るそうだ。
久しぶりに姉にも会う。



mamirin |MAIL

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