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2011年10月10日(月)
「ツレがうつになりまして」という映画を見てきた。 TVでも放映され話題になったストーリー。 ところで、 もう亡くなってしまったが、前の会社の取引先の営業の担当が創業当時から高校の後輩ということもあり、隙間時間に 暇を持て余していた私のところに息抜きに来ていた。 ところが20数年前のバブル崩壊直前に重い躁鬱病になってしまった。 その症状のまま営業や知人先に回るので、再発すると周囲から「彼が再発をした」と、電話が入っていた。 躁の時は、 晴れやかに飲みに誘われ、しかし直前に断りの電話が入る。 鬱のときは、目が据わり今にも自殺でもしそうな暗い顔で、 再発の報告と相談に来ていた。 私も若い時から数多くの挫折体験をしてきたが、宗教書や精神科学の本の言葉で、何とか 危機を乗り越えてきた体験があるので、痛いほど彼の悩みと症状が分かっていた。 その時に彼に言い続けたことは ≪ 躁鬱や分裂病などの精神病、精神症は心の風邪で何にも恥ずかしいことではない。 風邪をひいて恥ずかしい、 という人はいないのと同じ。 上司に正直に現状を報告し、直ぐに医者にいって治療すべき。医者の言うとおりにすれば、 それ以上悪くなることはないし回復は最短になる。とにかく拗らせないで治療すること。拗らせると廃人になり鉄格子の奥に 隔離されることもある≫ と。 15年の間に大きな躁鬱の波は3〜4年に一度ぐらいは来ていたが、その都度、初めに飛び込んでくるのは私のところ。 欝にしろ、躁にしろ、本人や奥さんから状態を聞くと、それはすざましい。バットで家中のものを叩き壊して○○○に 一晩泊まってきたとか、パンツ一枚で自宅周辺を喚いて徘徊したり、躁状態の時には商品取引で騙され大金を損失を出したり、 聞いているだけで背筋が寒くなる話しが山ほどある。 しかし瀬戸際の経験を重ねるうちに、自分で医者に行き、 一時入院をするようになっていた。 会社は管理職からヒラになったが、最後まで病気と付き合いながら職に留まっていた。 「精神病」と「精神症」の境は、他人に危害を加えるかどうか。 その辺はギリギリでセーブをしていた。 彼の場合、多くの友人がいて、その失敗を見守って許してくれる人間性があった。営業先には病気を逆にネタにしてしまう 逞しさもあった。 その人も7年前に癌で亡くなってしまったが、純粋で、面白い人であった。 欝による失態も、 決して恥ずかしいことでも何でもない。 だからこそ書いている。 そういう経験があるので、この映画のストーリーに 感情移入をし、涙をしながら見入ってしまった。 歳をとると年齢に比例して欝が重くなっていく。 足腰の関節が痛くなり、 何らかの成人病が出てくる。 欝になるな! という方が無理な話。 その中で、欝というトラの背中を如何に乗りこなすかと、 割り切りきった方が良策。 それから逆算すると、若い時から何らかの宗教に入っていた方が良いことになる。 私は子供の頃から仏壇前のお経だった。 次回は、映画の感想文・・ ・・・・・・・ 3485, エッセイ脳 ー2 2010年10月10日(日) 「エッセイ脳―800字から始まる文章読本」 ー岸本 葉子 (著) ー著者のエッセイの基本要件を書き出してみたー ・A、自分の書きたいことを、 B、「他者がよみたくなるように」書く。 「何を」にあたる部分がA、 「どのように」にあたる部分がBになる。単純だが要諦である。 Aは、文章表現の動機になるが、エッセイは読み手(公共) の納得の方が優先されなければならない。そのため、「興味の持てる題材であること」と「読みやすい文章」が優先され なくてはならない。そのため、ふつうの生活の中で、誰もが興味を持ってもらえる題材を探さなければならない。 ・そこで「テーマ」と「題材」の関係が出てくる。テーマは隠されていてもよい。したがって、タイトルにテーマを書く必要はない。 テーマに合わせて題材を選ぶか、題材の中からテーマを見つけ、タイトルをつける方法がある。 これは10年近い私の経験の中でも、度々していること。テーマは一般的、抽象的だが題材は個別、具体的になる。 ・エッセイも当然、起承転結がある。「(そういうことが)ある、ある、へえ〜っ、そうなんだ」を目指している。 「ある=起、ある=承、へえっ〜=転、そうなんだ=結」になる。そして、「へえっ〜=転」が、書きたいことの中心にある。 これには驚いてしまった。捻りこそエッセーなら、言われてみれば、そのとおりである。何事も、まずは驚きである。 したがってテーマを探すときは、驚いたこと、変わったことを探せばよい。 驚きを題材にして、テーマ、そして、タイトルを 考えればよい。他に大きくても小さくても人生に影響を与えたことも題材として良い。したがって「転、起、承、結」の順に なってくる。それはテーマが与えられてない場合である。 与えられている場合は、「結、転、起、承」の順になる。 ・エッセイを成り立たせている文章として、枠組み=説明文、描写=おおずかみの文、セリフ「 」に括られるもの、などある。 これは小説でも同じである。もちろん、エッセイでは誇張も、少々の嘘も入れてもよい。枠組は頭にはたらきかけ、描写は、 感覚にはたらきかけるケースが多い。 ・描写は、客観写生ではない。主観である。その人の主観が読み手からみたら面白いしエッセイの味になる。その人のカメラ・アイ こそ、エッセイのエッセイの由縁である。 セリフは描写の補強に適しており臨場感がで、さらに再現性がある。 ・書き出しの一文は意識的に短くする。その後だんだん長い文章を入れていく。必要に応じて、問いかけ、呼びかけ(「〜ですね」) を交えてもよい。 そして、徐々に、情報を少しずつ出していく。 ・エッセイは基本的に一つのエピソードで成り立つ。 ・注意事項として①具体性に心かけ②文章は短く③文の見た目(ビジュアル)に配慮ー余白など④文のリズムに配慮する、になる。 〜エッセイの参考になるだけでない、日常の見方も驚きを立ててみれば人生が豊かになっていく。[あ、そう]が一番の敵。 ・・・・・・・・・ 3110,生きる幻想 死ぬ幻想 2009年10月10日(土) 「生きる幻想 死ぬ幻想 」 岸田 秀 (著), 小滝 透 (著) ー読書日記 唯幻論者の岸田と、宗教評論家の小滝透の対談は分かりやすく宗教とイデオロギーの関係を 世界的視点から踏み込んでいる。一神教の「正義」そのものが戦争と虐殺の火種になり現在に至っているが、 といって「価値」なしに生きることが可能か問題提起をする。イデオロギー(=一神教の亜種)は果たして終焉したのか。 「大きな物語」がなくなった現実の世界は泥沼化しているが、その病巣をえぐりだす二人の異種の対談である。 現在のアラブ対キリスト・ユダヤ世界の対立の根本構造を対話の中からあぶり出している。 ー「おわりに」で、岸田秀が以下のように、この本で取上げた問題を分かりやすく要約しているー 毎度いつものわたしの書き出しは、人間は本能が壊れた動物であるということである。 本能とは環境を知覚する枠組みであり、かつ行動の基準である。本能が壊れた人間は周りの世界がどうなっているか、 そこでどう行動すればよいか、さっぱりわからなくなり、耐え難く不安になった。そして滅びてもおかしくなかったが、 人間は、本能の代替え品として自我を発明し、自我を心の支えとして宗教を発明し、辛うして生き延びた。 自我とはここにいる自分という存在はどういう存在であるかの規定であり、宗教とは、自我の周りの世界はどういう 世界であるかを説明し、世界において自分はどうすればいいかを指示する規範である。 神も宗教も幻想であって、 現実的根拠はないのであるが、しかし、それなくしては人間が生きてゆけない必要不可欠の幻想である人間は他者たちと集団を 形成して生きるしかないが、人間が最初に形成した集団は、地縁共同体それをいくらか拡大した規模の共同体であったと思われる。 この共同体が共同体として成立するためには、その起源、由緒、来歴などについての物語が必要である。旧約聖書はそれ・・(略) ・・・そのような宗教の形態がどういうものであったかはよくわからないが、とにかく、神々はたくさんいたであろうから、 多神教と言っていいであろう。何らかの形の宗教をもっていない部族あるいは民族はなく、世界の各地の諸民族はそれぞれ独自に それぞれの宗教を創ったであろうが、そのすべては多神教だったろう。 したがって、多神教が宗教の本来の自然な形であると 言える。 多神教の神々は、一般に、部族あるいは民族と血が繋がっている先祖、あるいはいろいろな経緯でさまざまな 形をとることになった先祖である。そうでなければ、神々が住む周りの世界は親しい、なじみのあるものとならないからである。 ところが、昔々のその昔、地球上のある地方、中東地方に例外的に唯一絶対神を設定する奇妙な宗教、一神教が出現した。 一神教は、古代エジプト帝国において戦争捕虜としてか何かで、それぞれ出自の部族あるいは民族から切り離されて連れてこられ、 差別され、虐待されていた奴隷たちが逃亡して創った宗教であると考えられるが、そのような成立の事情から、この唯一絶対神は、 信者たちと血が繋がっていない赤の他入で、狭量で厳格で嫉妬深く恨みがましい復讐と戦争の全知全能紳であった。 (以下、字数の関係でカット2010年10月11日) ・・・・・・・・・ 2745.サブプライム問題と「ファウスト」 −2 2008年10月10日(金) *メフィストフェレスのモデルはジョン・ロウ ゲーテが第二幕のこの場面で、「紙幣」の創造を語ったのは、単なる思い付きではなかった。 それは、「ファウスト」という作品そのものの制作動機と深くかかわっている。つまり、「紙幣」の創造に象徴される「錬金術」 こそが、この不滅の名作のテーマなのである。南ドイツのフライブルクに近いシユタウフェンという町に、こんにちでも獅子亭 という宿屋が残っている。その外壁には「一五三九年、黒魔術師ファウスト博士、獅子亭に死す」という碑文が刻まれており、 ゲーテの戯曲の主人公、「ファウスト」は、この実在の黒魔術師がモデルだといわれている。「黒魔術」とはほかでもない、 「錬金術」の別名である。「火」、「土」、「水」、「空気」の四つの要素に、「哲学者の石」という「フィフス・エレメント (第五の要素が加われば、「鉛」のような価値の低い金属を、「金」に変える魔法のカが生み出されるという「錬金術」の思想が 誕生した古代エジプトでは、「ケム」と呼ばれる黒い土が簸金術に用いられていた。ゲーテはジョン・ロウをモデルにしていた。 ーまずは、ジョン・ロウたる人物を分かりやすく欠いてあるブログから抜粋してみるー 1715年に太陽王という異名をとったフランスのルイ14世が亡くなっています。この当時のフランスは、度重なる (以下、字数の関係でカット2008年10月10日) ・・・・・・・・ 2007年10月10日(水) 2381, 下流社会 第二章 産経新聞・土曜版の産経書房というコーナーの 「下流社会 第二章」 ーなぜ男は女に負けたのかーの書評が、面白い! 買って読むほどではないが? 前書の「下流社会」を読んでいたので、尚のこと面白い内容だった。 (以下、字数の関係でカット2010年10月11日) ・・・・・・・・・ 2006年10月10日(火) 2016, 「私」のための現代思想 −9 (≧∇≦)オハヨウ~ゴザイマス! *まずは第四章の内容を大まかに書いてみる この章では、「私」にとって「他者」とは何かを掘り下げている。「他人」と「他者」の違いと、「他者」は「私」 にとってどういう位置づけなのか? その意味と位置づけが、この章を読んでいると少しずつ解ってくる。 「私」は<他者>の「声」の存在を通して「境界」の存在を察知する。その境界の中で、芯としての《私》に気づきます。 他者との境界が、内なる《私》をつくっていく。他者は時間とともに変わり、消滅しても「境界」と、内なる《私》は残る。 この汝らとの境界が発生することによって、それまで未分化だった「私」は、明確な「形」をもつようになります。 これが《私》の発生です。《私》は、他者の「声」に触発されて発生する「私の核」である。それがいつの間にか、 私の境界を守るようになる。それが孤独を発生させ、「固別であること」の自由を得ることになる。 その《私》は「他者」を自分の都合の良いように認識する、その姿が「他人」となる。「他人」の姿は、《私》が自分の 物語のためにつくり上げた「他者」の像でしかないのか? そう考えると、全くその通りでしかない! ー以下は、要点を抜粋した内容であるー 第四章 「私」にとって「他者」とは何か −? この章では、私たちの存在の核である、《私》の成り立ちを明らかにすることによって、<私><身体>を 所有することを考えていく。他者と他人は異なる概念であるということに注意すること。 <他者>が、<私>によって認識されたとき、その認識された像を「他人」という。 ここでは、まず「<他者>とは何か」ということから考えはじめる。ところで、<物語>と<世界>を所有した人間は、 その物語を遂行する際や、世界認識において、<他者>と対立します。<社会>とは、異なる物語を生きる者たちの 集合体なので、そこに行き違いが発生する。行き違いを調整して同じものを目指そうとする必要がありません。 <他者>の了解不可能性を認識し、闘い、共振することを目指すだけで、<社会>を所有することができます。 <他者>の存在を想定することによって、<社会>を所有することができるのです。 ーレヴィナスの <他者>− (以下、字数の関係でカット2008年10月11日) モーニングコーヒーでも!( ^-^)_且~~~ ・・・・・・・・ 2005年10月10日(月) 1651, 北イタリア旅行記−2 ードロミテ渓谷ー オーストリアと国境を接するドロミテ渓谷。アルプスの雄大な山々と奇峰の間の道をバスで通りながらみる光景は 感動の連続であった。オーストリアからの抜け道的な道路は、第一次、第二次大戦の時の軍事道路として開発され、 その後その景観の美しさから山岳リゾート地として知られるようになった。イメージとしてスイスに酷似しているが、 210?にわたる道路からみる景観は今回の旅行のハイライトであった。その中で、やはりボルドイ峠にみる カレッツァ湖の美しさが感動的であった。石灰岩の岩肌がむき出しのノコギリ状の山々が次から次と雄姿を現していた。 山と空は、その地域特性をそのまま露出して見せてくれる。観光初日で、既に感動のピークになってしまった。 山の美しさは、何故これほどまでに人の心をうつのだろう。カナダのロッキーが広大の大地を背景にした 山の美しさなら、ドロミテは奇景の山並みの間からみる美しさである。 ーべネツアー べネツア観光当日の雨は残念であった。この日が快晴ならば、この旅行は最高級の旅行の分類に入ったのだが。 ベニスが西暦800年から1800年までの1000年間も独立国していたことを、今回はじめて知った。 ローマ帝国と、トルコの間にあって、このような小国が独立を保てたのは奇跡に近い。海に突き出た島々に位置し、 攻めるには膨大な海軍力が要するからだ。海に突き出た島も入り組んだ細い川?が道路のようにあり、水上バスや 水上タクシーが移動手段として使われている。メイン道路が川で、側道が歩道になっているところが風情がある。 ベニスは日帰りではなく数日の間滞在してじっくりするところ。天候が良いという前提だが。 結局、自分が実際に目で見たことと、経験したことが自分を構成してしまう。 だから自分の壁は、経験と見聞を広げるしか乗り越えることができない。旅行は、そのことをよーく教えてくれる。 雨のベニスもすばらしいが、この日の雨はかえすがえす残念であった。 ー つづく ・・・・・・・・ 2004年10月10日(日) 1286, 内部告発ーもう一つの情報化 UFJが刑事告発をされたが、発覚は一本の電話だったという。「UFJ東京本部の3F会議室に、 金融庁に説明をしたものとは別に資料が隠されている」という電話が去年の10月9日に入った。 )以下、字数の関係でカット2011年10月11日) ・・・・・・・・ 2003年10月10日(金) ある時間の断片ー40 11月15日 1968年 ・8時過ぎ学校へ出発。「人事管理」の授業に出席。終了後。先生と顔を合わせるが、緊張をしてしまった。 自分に自信がないためか。全て見抜かれているようだ。授業終了後、高木の車で寮近くまで送ってもらう。 再び、ゼミに出席のため、大学にいく。15時から17時まで教授と同期の3人と「東レの派遣学生」4人と 議論をする。特に田島が教授に対して好戦的な議論を仕掛ける。大した神経の持ち主である。そして自信も凄い。 その後、田島と二人で学食で夕食後喫茶店へいく。カナダに行きたいといっていたが断念をしたと告白した。 その理由を話した。 ・カナダの叔父さんから手紙で、甘さを指摘された。 ・母から家庭に事情で行かないで欲しいと哀願された。 ・アルバイトをしていて、世間の事情がわかってきたこと ・兄夫婦を見ていて、実直に生きる必要性を感じた ・遠くを見つめすぎた、夢のようなことばかり言っていられない等々理由を挙げた。20時過ぎに帰寮。22時から机に向かう。 ー11月16日 1968年 ・朝10時半起床。大学の書籍部へ行く。どういうわけか今日は誰も会わずじまいだ。こういう日もあるのだ。 (以下、字数の関係でカット2008年10月11日) ・・・・・・ 545, 物書きの凄み - 2002年10月10日(木) このホームページで素人レベルで毎日文章を書いているが、プロは凄いとつくづく思う。 毎日文章を書いているから、それが解るだけの話しだ。作家の椎名誠が週刊文春に、「赤マント」という連載を書いている。 5年位前に、たまたま買った内容にただただ驚いた。「新宿駅で、お腹がおかしくなり、トイレに駆けこもうとしたが、 間に合わなかった具体的な事情」を詳しく書いているのだ。誰もが「あわや!」ということがあるはずだ。 「くそったれ」「クソ!」というとおり、日本人の一番の恥でもある。「デモノ・ハレモノー出物、腫物ところ嫌わず」 というが、これは「大便、生理」の掛け合わせの言葉だということが最近解った。アメリカのクソという同意語は 「ファック」だ。海外旅行の心配は、これが最大の事だが。誰もが過去に失敗の一つや二つや危機一髪はある筈である? それをネタにして、読者をひきつける凄みはやはりプロでしか出来ない。 その後の「赤マント」に、この文章が大反響を したと書いていた。瀬戸内寂聴が「作家は大通りの真ん中で、素っ裸で大文字で寝ているようなもの」と書いていたが、 その凄みを垣間見た思いだった!露悪趣味と捉えるか、人間的側面の原点の表現と見るかだ。 私など偽悪趣味でしかない??!!偽善もあるが! ・・・・・・・・・ 179、創造について-2 2001/10/10 創造とは‘カタチ’ にすることである。言葉を‘か’と‘かた’と‘かたち’にわけて考えると ・‘カ’ は ー神のカー神示ー 発想ーアイデアーインスピレーションであり ・‘カタ’は −型,形ー 枠組みにする、 システムを作るということになる。 ( アイデアの実現の計画化ともいえる)田は字のとうり枠組みであり、‘か’と‘た’をつけて形になる。 ・‘カタチ’ −カタに血(エネルギー)をいれ、カタチにする。 創造について、システム工学の城功氏の本に書いてあった内容であった。 (以下、字数の関係でカット2011年10月11日)
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