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2009年03月14日(土)
「脳と仮想」茂木健一郎著 −読書日記
松井孝典の「レンタルの思想」の中のキーワードの一つが「共同幻想」で、以前、読書日記で取り上げたことがある。 ーウィキペディアによると 共同幻想(きょうどうげんそう)とは、複数の人間で共有される幻想である。 日本の思想家である吉本隆明が用い、 有名になった言葉である。吉本は、自分の共同幻想とは、マルクスの用語である上部構造と同じ意味であり、 ただ手垢がついているから使いたくなかったと述べている。 吉本隆明は、著書「共同幻想論」で人間関係は、3種類に分類されると提唱した。 ▼ 自己幻想 = 個人と個人の関係。 ー芸術がこれに当たる。他者には影響を及ぼさないため、無制約に自由である。 ▼ 対幻想 = 個人と他者とのプライベートな関係。 ?家族・友人・恋人がこれに当たる。 ▼ 共同幻想 = 個人と他者との公的な関係。 ?国家・法律・企業・組合がこれに当たる。 ー以上だが、 これを読んで、いささかショックであった。日本社会を構成している「世間」=地域社会をみていると、 地域の共同幻想を抱いている集団社会が露出して見える。 また宗教団体も教祖様の教えの刷り込みをした共同幻想集団のことも明白である。 自己幻想も、対幻想も、多くの幻滅を経験した結果として、所詮は自分も、自分を取り巻く社会も幻想で成り立ち、 そのバブルと破裂の繰り返しているだけということが分かった。 死に直面したり、リタイヤをする時に初めて、 勤めた会社を含めた全てが共同幻想の中で、自己幻想と、対幻想を持って生きてきた自分に直面することになる。 図書館で茂木健一郎著「脳と仮想」を借りてきた。 幻想と仮想と、何処が違うのか? 似たものなら、 脳との関係はどうなっているのか?と、考えながら読んでみた。 この本のテーマの「仮想」は、飛行場で5歳の姉が妹に問いかける「ねえ、サンタさんていると思う?」という 何気ない一言から始まる。サンタクロースという仮想の現われ方、その我われの現実の生活への作用の仕方の中にこそ、 人間が限りある人生を生きる中で忘れてはならない何ものかがある。 それを徹底的に追求した本である。 ヒントは吉本隆明の「共同幻想」から得たのだろうが、それは書いてない。しかし、切り口は鋭く説得力がある。 次回には、印象に残った部分を書き出してみるが、「共同幻想論」に劣らない。 般若心教の「色即是空 空即是色」にも通じる道理でもある。
・・・・・・・・・ 2536, 意志するということ! 2008年03月14日(金)
ーある作家の大病経験からー っ´Ι`)っ { おはよう 作家の石川好の大病経験の手記が、「生老病死」の「 老病死」を迎えるに当たって、 示唆を与えられた内容であった。彼は以下の文章を書く4年前にリュウマチに罹り、 インドの病院に入院した経験から、病気経験だけでなく、人生の在り方まで学んだようだ。
ーまずは、その部分を書き出してみた。 とくとご覧あれ! −− 病床に伏して思い知ったのであるが(今更気がついたとて遅きに失するのであるが)、 体力のある人間はおのれの体力を過信するものである。 もし仮にわたしの体の一部にでも弱い部分があったのなら、 日常生活においても仕事においても、病気いうことをわきまえ、自重していたはずなのだが、 体力に自信のあるわたしはそれまでひたすら走り続けたのであった。 無病息災という言葉があるが、重い病気を患い、むしろ一病息災が望ましいのだと思ったのである。 入院中インドの医者の、その技術的なレベルが優れていることに驚くとともに、医者と患者との関係が いかにあるべきかを巡回してくる毎に話しかける、その見識に、わたしは深く心を打たれたのであった。 例えば、わたしが入院した日、医者達は次のように述ぺた「私たちはあなたの病気を治し、元の体に戻す自信がある。 しかし何より重要なのは、あなた自身が我々と同じ医者のメンバーになる自覚を持つことです。 それは、具体的な治療は我々がするのですが、あなたには病人であるあなたを、 精神的に励ます医者の役割をやってほしいのです。あなたに自分の病気を直す意志や気持ち、 あるいは闘争心がなければ我々がどんなに努力をしてもあなたを完治させることは難しいのです」 病人になってみれば、頼るのは医者だけだと思っていたが(勿論それは間違いのない事実であるが)、 その先生は、病人になったが故に、なおさら人間は自ら生きる意欲を持たなければならない、 と暗に言っていたのである。 自分達医者は病人の自己回復力を手伝う人間にすぎないからだ。 そういう考え方をその医者は説明しようとしていたのだ。こういう医者達との会話の中で、わたしは思い知ったのであるが、 人の生き死にとどう立ち会うかを職業とする医者が、結局人間はすべてその人の意志の強さ(あるいは弱い意志の持ち主で あるのならばその弱い意志をどのようにして強くするのか)を鍛えるために生きているのだ、ということを、 これまた暗に伝えているように聞こえるのであった。わたしは前に述べたようにそれまでの人生で入院したこともなく、 また十人家族の中で育っても、母親が長いこと腰を痛め入院した.ことを除けば全員がすこぶる元気だったので、 病気とか、それが進行しての死というものを深く考えることはなかったのだが、 −−
以上だが、「宇宙の意志が、地球を奇跡の星として創り出した。 そしてそこに自然と、生命をつくり出し、人間を創り、この宇宙の意志が(己の目で) 自分自身を見るようにした。」(幕末の僧)のである。意志こそ、大自然の力である。 かつ知識を積むことのできるようになったのは、目に見えない意志があればこそである。 インドの医者の言いたかった、 「結局人間はすべてその人の意志の強さ(あるいは弱い意志の持ち主であるのならば その弱い意志をどのようにして強くするのか)を鍛えるために生きているのだ」、 その意志こそ、我々人間の一番大事な何かが隠されているのである。 「死ぬまでは生きている」のである。そして生きている間は、意志を大事にすべき。」 ということだ。
・・・・・・ 2007年03月14日(水) 2171, 考える日々 −読書日記 池田晶子著 毎日新聞社出版
この本は、9年前の『サンデー毎日』の連載コラムをまとめたものである。 一昔前のためか、少し感覚がずれてはいるが、それでも彼女独特の現世、そして現象への白けた眼が面白い。 私も、知人にはアウトサイダーとか、大変な人と、思われている?が、それをむしろ目指しているのだから始末が悪い?。 しかし、彼女の視線は私のような中途半端ではない。そういえば、哲学者の中嶋義道も「哲学者というならず者がいる 」 という単行本を出しているほど、奇人を自称している。彼女の本を読んでいると、何か親しい友人と語らっているような 気持にならから不思議である。 世間の現象を醒めた眼で見据えているところが同調できる。 この本の中の面白いところを書き出して、考えてみよう。 −酔うほどに冴える、はずだったがーより ー P164ー ーかっては、すごかった。普通の成人男子は、ほぼ間違いなく、先に潰れた。 それも私の場合、相手が潰れるまで見極めて、しかし、それをしっかり覚えているから、 相手はたまったものではない。言ったこと、口走ったこと、その状況の仔細まで、 全部覚えているのである。それだけ圧倒されて、彼らは早々酔っ払ったのではないか。 仕方ない。私は、酔うほどに冴えわたる体質なのである。 酔うほどに、理性と知性が燦然と冴えわたり,全宇宙の全現象が見える。わかる、わかった、という感じになる。 妄想ではない。じじつ、そうやって手に入れた認識はたくさんある。 飲みながら考えるのが面白くて、かっては、そうしながら、認識メモをつけていた。 またの名を『酔っ払いの覚書』というそれは、さながらウィゲンシュタインばりの、とまでは言わないが、 その一瞬に閃く洞察を?まえてとじこめた断片群、これが、けっこう今の仕事の核の部分になっている。 酒のことを「スピリット]]と名づけた感性は人類に共通しているようだ。 あの液体は、私にとって、明らかに「精神」であり、思考の円滑油もしくは起爆剤として作用する。 いや、作用したのだった、かっては。ところが最近は、飲むと考えるのが面倒になってくる。
ー P−166ー 政治家や偉いさんなど、高級料亭で高級な酒を飲みながら、仕事の話をするという、 その感覚が信じられない。酒がもったいない、酒に申し訳ない、私ならそう信じる。 貧乏性ではない、仁義に欠くと感じるのである。・・・・ 男性が、女性のいる店にのみに行く、そのことだけで私はその人を信じなくなる。 ああ、この人は、酒を飲みたいんじゃないんだ。・・・・ この仕事を始めた頃は、編集者に連れられて、いわゆる『文壇バー』なるところにも何度か行ったが正直なところ、 ああいうところは好きではない。そうは言っても狭い業界らしく、互いにどこの誰かと言うのは知っているのだろう。 見てみぬふりをしながら強烈に牽制しあっているのが、よくわかる。 有名作家が太鼓持ちの編集者を引き連れて入ってくると、店の雰囲気ががらりと変わる。 あっちでヒソヒソ、こっちでヒソヒソ、なかで如才ないヤツはオベンチャラを言いに出向くし、 作家は作家で、俺のことを知らぬかという顔で見回しているから、アンタなんか知らないよという顔で、意地でも続けたりする。 うまいわけが無い。やっぱり酒は、大事に飲みたい。少なくとも私にとっては、人生における大事な時間。 意に染まぬ人と飲むよりも、断然ひとりの方がいい。まだ覚めやらぬまま、日も暮れてきた。 今日の仕事は、これでお終い、これ一本。さて、酒ビンを抱えて、今宵も私はスピリットの旅に出る。 ーー 解)この本のあるページに、この時期に小さなガン細胞が発見された、とあった。 死因は腎臓ガンというから、やはり酒の飲みすぎ?ということか。 酒は般若湯というとおり、頭を中を活性化させる。凡人はそれを活用できないが、哲学者にとって思考活性水として 思考の飛躍にはモッテコイであるが、それが命取りになってしまった。 それにしても生半可な酒飲みでない。 酔ったときの一瞬の知恵を掬い取ってしまうというのも、彼女ならではである。 また、文壇バーの文士様の姿を面白おかしく描写しているが、だいたい酔っ払いなど、こんなものだ。 何処かの街の御名士様溜まり場バーなど、ほぼ同じである。私自身、そういう御名士様溜まり場バーには一切行かない。 スナックでも4千円までの店しか行かないからニアミスはない。 寂れた、うら悲しそうな小料理屋かスナックで、オダをあげるのが好きである。 酒に沈没したオナゴ哲学者・池田晶子に献杯! o(▽^*)ノ~~=バイ ・・・・・・・・ 2006年03月14日(火) 1806, 秋葉原再開発 |。っω-)..。oо○(゜+。ぉレ£∋ぅ゜+。)
先日、東京・秋葉原にたち寄って、その変容に驚いてしまった 三十年以上前から秋葉原のワシントンホテルが定宿で、年数回は電気街を歩いていた。 しかし5年ほど前から日暮里のホテルに変えてしまった。 久しぶりに秋葉原の電気街など駅周辺を散策したが、駅周辺の再開発で街が一変。 最近になり、電気・電子機器などの世界の秋葉原と注目されているが、猥雑な感じが残っていて、街そのものが面白い。 昨年、筑波都市と列車が直結したこともあり街が萌えているようだ。IT宅族にとって、この街は魅力のある街だ。 立ち寄った当日(3月9日)に、秋葉原UDXが開業したが、その事実を知らなかったため見学できなかったのが残念。 再開発地区「秋葉原クロスフィールド」に オフィスや飲食店街などの複合ビルが立ち並んでいる。 秋葉原文化の発信地としての役割が期待されているようだ。 東京に行く度に、エネルギーを東京にとられ地方がマスマス弱体化していっているのが手に取るように分る。 東京駅や新橋周辺だけでなく、神田界隈、秋葉原、上野・アメ横、日暮里と下町の個性の集積が出来ているようだ。 特に東京駅再開発が2011年に完成予定というが、日暮里、上野、秋葉原、東京、新橋と駅周辺の再開発が進んでいる。 これに地下鉄と結びついて、足の便が非常に良くなっている。 これがバブルなのか、本物なのか十年先には判るだろう。
o(▽^*)ノ~~=バイ〜バイ♪ ・・・・・・・ 2005年03月14日(月) 1441, 星野富弘ー詩画展 −2
先週、近くの長岡中央図書館に行ったところ星野富弘ー詩画展が2Fで開催されていた。 3年前に新潟市に隣接している豊栄町で見ていたこともあって、今回は見るのをパスをしたが、 いま一度見ておけばよかったと後悔している。 画家から見たら、星野さんの絵に対して違う見方をするだろが、絵からは花に対する思いと、 美しさへの感動が直に伝わってくる。花という儚い一瞬の生命の光りが、そのまま絵にこめられている。 花が自分で星野さんを通して、その姿を刻印しているようだ。 首から下が麻痺で動けない状態で、口だけで描くのだから、「念写のような」という表現の方が正しいのかもしれない。 誰もが感動するのも納得する。反面、あまりに波動が強いこともあって、少し不自然?の感もするが、 絵は、それで良いのではないだろうか! いかなる状況でも、人を感動させる道があるものだ。
以前、書いた文章をコピーしておきます。 ー文章に書き残していると、その時の感動、感想が残るからよい。 絵に残すのは、もっと残るだろう。 ーーーーー 2002/06/28 星野富弘ー詩画展 −1
先日、新潟近郊の豊栄の公会堂で彼の詩画展に行ってきた。 数百人が来ていて,何ともいえない熱気に包まれていた。
ー彼の概略は ・私と同じ年の1946年生まれ。24歳のとき教師をしていたクラブ活動で、首の骨を骨折して手足の自由を失う。 ・入院の2年目より口に筆をくわえて文や絵を書き始める。 ・9年後の退院の年に前橋で絵画展を開く。 ・その後国内やアメリカ各地で花の詩画展を開く。 ・1991年に生地の群馬県勢多郡東村で村立富弘美術館を開く。 毎年40万人が訪れるという。 彼のことを知ったのは十数年前の「到知」という雑誌である。 対談だったと思うが、その中で「傷口よりあなたの優しさが沁みこむ」という文が忘れられない。 早速詩画集を買って絵を繰り返し見た。口で、これだけの絵を書くエネルギーに別世界を感じ取った。 今回の豊栄の「花の詩画展」で彼の絵を同じ目線で直接見て、自分が彼(星野)そのものになって、 自分の絵を見ているような気持ちになってしまった。何か悲しい、しかし底から突き上げてくるような暖かさを感じとった。 更に動けない自分と花が一体化したような。花も星野という一つの生き物が自分と一体になっていることを喜んでいる感覚。 見方によっては、反対に不自然な絵でもある。 これまで一人の人間に見つめられた花が過去にあっただろうか? 愛情と言葉とエネルギーに包まれ一体化して、絵として表現されたことが。絵の世界ではあったのか知れないが。 決して幸せでない、動けない自分に対する苛立ち、諦め,怒り、そして愛がそのまま絵と文を通して迫ってきた。 地方の女性が一生、因縁に縛られ他の世界を知ることなく終えようとしている。 そういう人にとって、その絵と文は、いま流行の癒しとなるのだろう。
・・・・・・・・・ 2004年03月14日(日) 1075, スペインのテロ
・スペインのテロがあったが、次は日本と連想をしてしまう。 「大国?で、60年近く戦争が無いこと自体が異常」と考えたほうがよい。 何かが起こるのは必然と考えておいたほうがよいだろう。北朝鮮が仕掛けてくる可能性もある。 イスラエルやシリアでは、生の虐殺のすざましい話を聞く。シリアの前首相のサダトは、テロリストの 潜伏している町の住民全て殺して、町ごと埋めてしまったという。それ以来、シリアではテロは無くなったという。 旧約聖書を読んでいると、預言者が「この町をの虫一匹残らず殺せという神の お告げがあった」いえば、そのとおりにしてしまう世界である。一神教は仏教とは違う世界なのだ。 それに対抗する為に「マホメット」がアラブ人ようにイスラム教を創作した。 その争いから、グローバル化になってしまった現在、逃れる事は不可能である。 中国のウイグル地区でイスラムに滅ぼされた仏教国の遺跡を見てきたが、仏教とイスラム教では (戦いという点で)次元が違う。だんだんアルカイダの術中に引き込まれているのかもしれない。 これはテロというより戦争のゲリラ戦と考えたほうがよい。 日本は新幹線か山の手線をバズーカ砲一発で大混乱だろう。
・・・・・・・・・ 2003年03月14日(金) 709, シンプルー2 −ワンプライス・ショップ
私の経営するホテルはワンプライスホテルである。ホテルは値段を数種類にしておいて、 繁盛時期ー夏期や連休や、週間単位では火水木曜日に高い値段の比率をあげて売るのが常識であった。 それを一切無視してお客本位にしたのが当ホテルだ。 100円ショップもそうだ。 スナックでも、時間性で3千円とか5千円という店がある。九州の境内の土産物屋で、中学生が多く入っている店があった。 千円均一の店であった。修学旅行の中学生に一番手ごろの千円に絞って品揃えをしてあった。 土産物屋でも業態が可能であったのだ。 居酒屋で300円か400円の均一の店を出せばと思うのだが。 料理や酒すべてワンプライスにすればよい。おそらく多くある筈だ。おでん屋もよいのではないだろうか。 今なら不況なので200円均一にして、ビールなら生ビールだけにして、千円のセットー5品から出せばよい。 格安なセルフの讃岐うどん屋が流行っているが、これも100円ショップにすればよい。 素うどん100円、トッピング100円とか。すべての事にいえるのは「絶対に例外を認めない!」ことだ。 一つでも認めれば意味がなくなる。100円ショップで「200円コーナー」をという誘惑にかられそうになるが。 例外なく均一100円だからよいのだ。値札をつける必要もないし、値下げの必要もない。 ヘドロ商品は2個100円にすればよい。メーカーも問屋も分かりやすいし、お客の方もそうだ。 ワンプライスでなくても、ファミリーレストランや居酒屋チェーンでは値段を3〜5種類に絞っている。 「シンプルイズベスト」の典型である。駄目な店ほど多いアイテムの商品と値段の店が多い。無知の涙を地にいっている。 こういう眼で見ていると、飲食店ウォッチングになる。
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