堀井On-Line



2736, 正直こそ、最大の正当防衛

2008年10月01日(水)


    議論に絶対負けない法 −4  
                      読書日記

  学生時代に、「青雲寮」(25人)という名の寮に4年間いた。 三日前にも40年ぶりに訪ねた夢をみた。
  寮も部屋も40年前のままだったが、古くて瓦解する寸前の汚い風景であった。。
  そこで初めて知ったのが、自分の見たことのない世界があった。
  今回は夢がテーマではないので詳細は書かないが、北は秋田から南は福岡までの人種を知った。
  そこでまず驚いたのがウソを平気で言う何人かの人である。
  8人兄姉の末っ子のため、ウソなど必ず見抜かれることを体験上知っていた。
  しかし、それは私だけの話し大体、15%の割りでいた。(もちろん、ウソを付く程度のレベルで言っている。
  人を陥れるために付くウソを平然と言うと人種のことである)
  正直であること、それが一番の自然体ということは、特に母から常日頃いい聞かされてきた。
  だから、それが当たり前ということは、圧縮された異種の人間の集合体ではベースではないことを、そこで知った。
  しかし、長い人生を歩いてきて、正直こそ一番の力になることを知った。
  反面、正直とウソさえ知らない人種がいる。 それは無知の人間である。 ただ親の価値観を引き継いで、
  その価値観の中で生きていて、その価値を疑ったこともない人たちが大部分だろう。 自分もそうなのだろう。 
  その価値観に従うことが正直なのだろうから何がなんだか分からなくなる。
   −次の箇所が、そのあたりの人間の歪みを、言い表している。
  
 p−93
私たちは子供のころから本当のことを言いなさいと諭され、人生のさまざまな場面において「正直は最良の策」だと
確信するようになった。 だが、一生のあいだに、真実を語る事に、ほとんど上達しない。
おかしなことに、私たちの社会は正直であることを奨励しない。 大学に「真実を語る法」と題する講座はない。
「うそつき自主治療協会」など、というものもない。 真実を語る人だと自称する人には一度もお目にかかったことはないし、
もし自分の言うことは全部本当のことだという人がいたら、私はくるりと向きを変えて逃げ出すだろう。
私たちは幼いころの経験から本当のことを言うとたいていは罰を受けると学んだ。
本当のこと書うと、負けるか、拒否されるか、追い出されるかだ。 
悪いことをして、それを正直に告白すると、たとえ悪気がなく些細なことでも、たいがいは罰を受ける。 
自分が怖いと思ってることを正直に言うと、馬鹿にされる。
自分があこがれていることを正直に話すと、からかわれる。 
愛情を告白すると、時には拒絶される。 気に入らないことをはっきりと言うと、村八分にされる。
怒りをあらわにすると、相手は怒りをもつて反撃してくる。
私たちは真実を話さないようにすることを学ぷ。 真実に近い話を作り上げる。
まぶしすぎて目をくらませるような作り話を創造する。 ひどい発疹を避けるように真実を避ける。
私たちは正直者は単純でおめでたい馬鹿者だと教えられてきた。 真実という言葉は嫌な言葉になってしまった。
神よ、我らを真実から救いたまえ。とりわけ、自分自身に関する真実から!
私たちは真実を語らないことを身につけてきたが、私たちは誰でも、自分の心の服を脱がなければならない。
だが、あなた方を説得して心の服を脱がせるためには、まず私が自分の服を脱ぐことが必要だ。
この隠喩を実行したら、私が服を脱いでさらけ出すのは、たるんだ腹に、誰も羨ましがらない生白い胸、そのほか、
あれこれ見せるに値しないようなものではないか、と心配なのは確かだ。
だがそれでも、私たちは「裸でいるかのように話さなければならないレと私は主張する。
  −−
  著者は裁判の駆け引きの中で、やはり真実が力を持つことを経験上、知ったのだろう。 
  といって正直過ぎるのも、相手を傷つける。 せめて出来ることは、自分に正直になるように努めることだ。 
  そして誠実であろうと努めることだ。 口先の議論は、所詮はそれでしかない。 
  そこに流れている真実を見るように勤めることである。 

 ・・・・・・・・・・
2007年10月01日(月)
2372, 人は60歳で何をしたか
                 ー読書日記
 「人は60歳で何をしたか」藤原治・著 文芸春秋

何度もここで書いたことだが、50歳になった時、はたと今後如何に生きようか?
一年考えた末に、「この十年で、60歳以降も含めた全ての人生を生きよう」という結論に達した。
そして、そのつもりで生きてきた。現在に至って、このコンセプトは正解だったと自己満足をしている。
これは他人が評価する問題ではない、自分自身のことである。

昨年の一月に還暦を迎えた時に、「この10年間の生き方は満足できたが、次の10年をどのように生きようか?
そのコンセプトを一年間考えよう」と決めた。 正直にいうと、その満足できる結論は出ていない。
しかし大よそ考えたのは「この十年生きてきた中で、やり残したことが幾らでもあったはず、
それを追求だけで幾らでもあるはず、それを探せばよいだけ」である。
「やり残しを探し、一つずつ潰していく」しかし50代のコンセプトからみると、何か攻撃的ではない。

50代のそれは、好きな世界秘境ツアーを可能な限り行けばよいし、
嫌なこと、嫌な人間のいるところに、一切顔を出さなければよかった。
秘境・異郷旅行を徹した?上に、このHPの文章を遺言と思いを書き足せば良かった。
他に身体に害にならない程度に美味い酒を楽しめばよかった。
これまで読みたかった本は幾らでもあったが、それを読めばよかった。

その結果、60歳になった現在、何か張りが無くなってしまった。
この10年の間、少し無理してきたこともあり、唯我独尊の生き方でもあった。
50歳で人生の元は取った実感があったし、60歳で人生の余白も埋めた実感を持てた。
そこで、他の同じような年代の人は如何なのか、気になりだした??
(いや、それより60歳代のコンセプトを満足してなかった!からだ)

ところが面白いもので、丁度良い本を図書館で見つけたのが、これである。
それを読むと、60歳の地点で色いろな人生の立ち向かい方があるのに驚かされた。
意外に老成している内容が多いのには驚いたが、えり抜かれた人は当然ながら、
それぞれの人生に最大限の努力をしている。この本を読んでみて、
小さな世界に満足していた自分の卑小さが合わせ鏡のように見えてくる。
生きてきたようにしか、その後も生きられない。それでも真摯に生きてきた人は、
その後の人生でも枯れるのではなく、むしろ成長しているのが解る。

次回からは、その印象的なところを抜粋しながら考えてみる。、
同じ歳とはいえ、比べようもない相手ではあるが、自分が情けないような、
悲しいような気がする。これは生まれた天分だから、仕方ないとしてもである。
二度とない人生、一日一生の思いを更に深くすれば良いのだが!

ーーーーーーー
2006年10月01日(日)
2007、「私」のための現代思想 −5  
                 おはよ〜!(*^ワ^*)i
  第二章 「私」はどこで、どのように生きているのか

私たちは<世界>に投げ出され、その<世界>の中で何らかの<物語>を遂行しながら
生きていく存在である。私たちは<言葉>と<価値>によって<世界>を認識し、
<物語>をつくります。ここでの物語とは、私たち一人一人が持っている、
自分が生きていく上での「脚本」のことです。
そして<世界>とは、そのそれぞれの<物語>が上演される「舞台」のことです。
 
 ーハイデッガーの「世界劇場」− 私たちは「役割」を演じている

   ハイデッガーは「世界劇場」という概念を通して「人間の生」を把握しようと試みた。
   彼はまず私たちの「存在そのものー現存在」と「役柄」は異なっている、
   ということから考える。「役柄」は、人間は「この世界で何らかの
   役柄を演じている存在である」ということを表す概念である。学校においては学生を、
   家では息子を演じ、また友人や恋人を演じたりしている。
   これらを心理学では「ペルソナ」と呼ぶこともある。

これら仮面は、あらかじめこの世界に用意してあったもの。
少なくとも、その役割の性格から大きく離れたりすることはない。
つまり、私たちはこの世界に突然投げ出され、自らの意志によって、
その世界に予め用意されていた仮面のうちから幾つかを選び出して、それを演じています。

    このように「この世界に投げ出されること」をハイデッガーは「企投」と呼んだ。
    またその「役割」に没入している状態を「耽落」と呼んだ。
    私たちは、この「仮面を被った自分」を「本来の自分」と勘違いしている。
    仮面を被った状態の自己を「対象化された自己」という。
    被ってない状態の自己を「現存在」と呼んだ。

学生である男と、先生である自分がであったとする。
そのお互いの立場ー役割を一瞬で把握して「相互関係的な役割演技」をすることを、
「原初的な出会い」という。その前段階としての「存在の認識」がある。
それは果して存在しえるのだろうか?という問題がある。
しかし、「役割のみが存在している」のであれば、私たちは、
いきなり役割を認識できるわけです。しかしそうではありません。
少なくとも短時間で「役割を持たない誰か」が認識され、
その上でその人の役割が想起されるという段階を通っているはずだ。

    ハイデッガーは、我われが人生という劇場で役割をこなすためには、
   「役割を演じている役者である自己を自覚すること」であるという解決を薦める。
    それをもっと自覚的にするためには「役者を辞めることを決意しつつ、役者を続ける」
    ということです。そうすると大根役者と言われても、
    それは、「役割上のことでしかないのだ」と考えることができます。

「芝居が下手だ」とか、「華がない」と言われようが、そんなことは気にならなくなる。
うまく演じることにどんな意味があるのだろうかと考えれば、
うまく演じられないことにマイナスの意味を見出すことには、それこそ意味のない。
なぜなら「どうせ芝居でしかない」からです。
   −−−−
    評) 
   もっと辛辣にいえば、人生などお笑い劇場でしかない。
   真面目に演じれば演じるほど喜劇の道化になっていく。
   それに早く気がつけばよいのだが・・・
   人を笑わせることは難しいが、こと人生にかけて簡単だ。
   演じていることを自覚しなければよい。それがお笑いになる。
   没頭することは最も大事である。
  反面、どこかで没頭している自分をみている自身の時間が必要である。
  アウトサイダーと、インサイダーの両者の眼が。
   ・自分の人生という物語のシナリオと、
   ・そのシナリオに従って演じている自分と、
   ・その背景となる世界(劇場)を観ている観客と、
   ・観客を意識しながら見守っている監督、
   を意識して生きる!ということだ。
   そのためには、自分の人生の役を愛することだ。
   そして、その背景となる世界と、観客と監督を愛することだ。
   そう考えると、やはり宗教と倫理は必要ということ??
この第二章 のー「私」はどこで、どのように生きているのかーの答えー総括ーは、
「私」は「世界劇場」で、私の「役割り」を果たして生きている。
ハイデッガーは、我われが人生という劇場で役割をこなすためには、
「役割を演じている役者である自己を自覚すること」であるという解決を薦める。
それをもっと自覚的にするためには「役者を辞めることを決意しつつ、役者を続ける」
ということです。そうすると大根役者と言われても、
それは、「役割上のことでしかないのだ」と考えることができます。 −である。

   それぞれの人生劇場は二度とない!
   だから一瞬たりとも無駄にはできないのが人生である。
   自分の役を愛し演じとおすしかない!
   「私」と、私の「世界」は日々刻々腐っていく。生ものだから。
   汚れていくなんて甘いものではない!腐っていくのだ。
   腐っていくのは仕方がないことだ。腐っていくことを自覚するしかないのである。
   そして、それを自分で笑えればよい! いや笑うしかないのだ。

他人のことは解るのだが、自分のことは解らない。だから生きていけるのである。
せめて心が腐らないようにしたいが・・・
そのためには、学び続けなければならないというが、今さら何じゃい!という、腐った声が聞こえてくる。
                        ー 以上である。
                 ーつづく  \(^▽^*)バイ!           
・・・・・・・・
2005年10月01日(土)
1642.マグロ屋福助ー亭主・宗親の独り言・・1
 1, 人生を見せてもらいました!  
                宗親
居酒屋を二十数年も経営をしていると、社会の裏表が見える。
人生を人の数十倍、いや数百倍も見たように思える。
・数年前まで羽振りの良かった人が、今は乞食をしているとか。
・あのお客が会社の金を使い込んでいたとか。
・がんで亡くなったとか。
・かけ落ちをしたとか。
・実の娘に手を出し、子供ができたとか。
・遠くの親戚から、思わず数億の遺産が転がり込んだとか。
ここで書けないような犯罪の話の内容を聞いた。
それらを中心にボチボチ書いていくつもりだ。
まあ人間は酒が入ると、人間性が丸出しになるし、幼稚になるからね!

・・・・・・・
2004年10月01日(金)
1277, [人生の目的]ー五木寛之著ー読書録

 数年前に話題になった本だが、当時あまり興味を示さなかった。
先日、たまたま図書館にあったので借りてきて読んでみた。
幼児期のころから、かなり厳しい生活体験をしている為、書いてあることは暗いが、しかし重い。
彼のーあとがきにかえてーの一文が、全てこの本を伝えている。

ーー「人生に決められた目的はない、と私は思う。
しかし、目的のない人生はさびしい。寂しいだけでなくて、むなしい。
むなしい人生は、なにか大きな困難にぶつかったときに、つづかない。
人生の目的は、「自分の人生の目的」をさがすことである。
自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を見出すことである。
変な言いかたになるが、「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」と言ってよい。
そのためには、生きなくてはならない。生きつづけてこそ、目的も明らかになるのである。
「我あり、ゆえにわれ求む」というのがわたしの立場だ。
  (字数の関係でカット08年10月01日)

この本に、前回借りた人が書いた、メモが挟んであった。
達筆な年配の人のような字だ。 それを書き写してみる。
「他力の信は義なきを義とす。生きている限り生老病死の影は、私たちにさしつづける。
 このことは、わがはからいにあらず 災難に会うときは会うがよろし 死ぬる時は死ぬがよろし 
 人生は暗夜の山中行である 人は彼方の灯火に勇気づけられる それを他力本願という」
 
・・・・・・・・・
2003年10月01日(水)
910, 人生の縮図

 先日、ある世界を垣間見た。といって書くには、あまりにシビアな世界であった。
しかし、それを書くのが随想日記の真骨頂である。
ある売り物の物件を見にいった時の人生模様である。生々しい状態であった。
「あるリゾートホテルをどう転用したらよいか見てほしい」と頼まれた。
半年前に経営委託を受けた人が、支払いができないで逃げた直後。オーナーが嫌気をさして混乱しているという。

 現場に行くと数日前まで営業をしていたのが、ありあり。
給料2か月分をまだ貰えない行き場のないマネジャーや従業員が3人いた。
彼等はそこで働き出して半年、派遣会社の身分で、保障は全くないという。
現在の日本の姿が、そのまま現れている状況であった。

 これ以上の景観がない位の場所にあり、オーナーが半分趣味で建てた素晴らしいリゾートホテルである。
(字数の関係でカット08年10月01日)

・・・・・・・
デフレと対策  2002/10/01

現在上手くいっている店を見ていると、やはりデスカウントの業態の店である。
それも思い切って、20年前か25年前のプライスを打ち出しながら、現在の嗜好を取り入れた店や会社だ。
衣料品は20年前の半値以下の商品が多くなってきた。自転車も、半値か四分の一だ。 電気商品もしかりだ。
落ちないのが公共料金だけである。ホテルの値段もその様相になった。
ラーメンの値段も落ちてない。過去の三次産業の異端は価格破壊である。そうすると落ちてないのが狙い目である。
TVで180円のラーメンチェーンを紹介していた。 マクドナルドのように徹底した機械化を厨房で図っていた。
吉野家や松屋の牛丼も400円を280円に下げた。そうすると他の甘いラーメン屋とか何でもや食堂のお客が流れてくる。

先日に法事で帰ってきた姉が、面白い温泉旅館にいってきたと教えてくれた。
関東圏の温泉旅館で、4名以上で一泊二食で4500円という。
予約をすると東京周辺のJR駅の近くの三箇所の指定した場所、にマイクロバスで迎えにきてくれるという。
更に食事のときは従業員が即興の演劇をしてくれたり、とにかく飽きさせないようにしてあるとか。
社長はつなぎを着て陣頭指揮にあたっているという。先ずは安く、そして価値があればお客は殺到する。
「もうそういう時代だよ!」とつくづく言っていた。

何かどこかで聞いたことがある話だと思ったら、そうアメリカの航空業界の異端児で大不況の中、飛躍的に伸ばしている
サウスウエスト航空を温泉旅館版に換えただけの話である。斜陽産業の温泉旅館が良くぞ考えたものと驚いてしまった!!
(こういうのをベスト・プラクテスという)
客の立場にたてば,全く違った設定ができるのである。淘汰されている所は、ただ仲間内で傷を舐めあっているだけだ。
発狂してベスト・プラクテスをするか、廃業するかどちらかだ。今更発狂はできないか??!!
(発狂とは、出来ない人の目から見たベスト・プラクテスのプロセスを踏んでる姿)

[167] 読書について
                2001/10/01
 読書ー書物はすべての人の学校である、いや大学といっていい。どこの学校に入ったとしても
学べる事はしれている。学校を出てから学び続けるしかない。本を読み続けるしかない。
 大学を出ているかは関係ない、生涯、本という大学に通い続けなくてはならない。
もちろんセミナーや新聞やTVや、実際の仕事の上で学ぶべることが多い。
しかし読書という分母の上でそれらをやると効率が違う。 初対面の人でも書物の大学に
どの程度通い詰めたかどうか直ぐわかる。私も反対に見られているのだろう。
本は安い500円から2000円で、あれだけの情報・知識を買えるのだから。

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