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2003年08月09日(土)
よのなかはちろりに過ぐる ちろりちろり (49)
何ともなやのう 何ともなやのう うき世は風波の一葉よ (50) 何ともなやのう 何ともなやのう 人生七十古来稀なり(51) ただ何事もかごとも 夢幻や水の泡 笹の葉に置く露の間に あじきなき世や(52) 夢幻や 南無三宝 (53) くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して (54) 何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ (55)
ー 大意ー 世の中は、ちらっと、瞬く間に過ぎる。 ちろり、ちろりと。 浮き世は「風波の一葉」でいいじゃないか。古希まで生きられる人間が「古来まれ」 でもかまわない。「水の泡」「露の間」のようなはかない「夢幻」の世。 「夢の夢の夢の」ような世間だからこそ、すべてを肯定して「狂へ」ばいい。
ー数年前にこの「閑吟集」の一節を読んで、この歌の中に流れている諦念と 反面、強烈なエネルギーにショックを受けた。 その翌年の年賀葉書に書いて出したりもした。 またコピーをして、知人に配ったり、手帳にはさんで、この一節を暗記をした。、 そして数ヶ月間近くいつも口ずさんでいた。 たまたまモロッコ旅行の飛行機やバス移動の中で一人口ずさんでいた。 その時の自分の気持ちをそのまま歌にまとめてあるようだった。
一種の無常観を歌っているし、「ちろりちろり」には茶化したユーモラスな 感じが漂っているのがよい。「ちろりちろり」と人生はあっという間に過ぎて いくものよと、諦念混じりに笑っているのが心の琴線に触れてくる。
反面、強烈な現世肯定の歌にもとれた。 「狂う」とは常軌をいっした行動ととれるし、、ある物事に集中する意味にもとれる。 びくびくと、したり顔をしてつまらない一生を送るより、ただひたすらに「狂う」 ように集中して生きろと。この世の儚さをそのままに受け止め、一期の夢と見切る 覚悟があればこそ、人は「狂う」ことが出来るのだ。 読み人知らずの作者が5百年近くの時間を越えて語りかけているようだ。 「世間」を「男女の仲」の意味もあり、そう解釈するとまた意味が違って来る。 「ちろり」は、昔、酒を暖めるのに使った、「銚釐(ちろり)」という道具を 連想すると、男女の交わりを暗示していることになる。
・・・・・・・・・ あるホームページの感想文をコーピーした。
ー宇羅道彦の「春風録」 断言命題/現代状況構造分析*「閑吟集」より
なにしょうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え 「閑吟集」より
詩を書いていた若い頃、万葉集から芭蕉までの歌を新潮社の日本古典文 学大系を買い込んで一気に読んだことがあった。
以来、閑吟集の上記の歌が心に残り、時として口ずさむ。 最近の世情を見るにつけても、古人のこの歌の心が思われる。
これを刹那主義と見ては誤るだろう。 文学者にも、時代背景からして明日をも知れぬ大衆の退廃的刹那主義と する見方もあるが、くすんだ学者らしい愚かで浅はかな見解である。
退廃的刹那主義を生きるものに「一期は夢よ」という自覚があろうはず がない。 厳しい社会状況において人が見ることを強いられるのは、平時には日常 性の中に隠されている人の生の本質である。
ここに歌われているのは、苛酷な人生に正面から立ち向かう大衆の心意 気である。
ニーチェはその永劫回帰の思想を「これが人生か、さればもう一度!」 と語ることであらゆる苦悩を含めた人の生の全体を肯定してみせた。
この歌もまたニヒリズムの地平を突き抜けたところで歌われている。 「ただ狂え」という言葉はそこにおいて初めて発せられるものだ。
過ぎた日々や失ったものに執着しこだわるとき人はくすむ。 ぬかるみを生きる湿った感性である。 ただ狂うためには振り返らず、今だけを見つめて生きるあくまで乾いた 感性が求められよう。 ニーチェはこの精神をツァラツストラのなかで<軽みの霊>といった。
苛酷な状況にあって人が局面を打開する可能性があるとすれば、まさに この歌の心を手に入れた時をおいて他にない。
ここには禅の悟りにも近い覚悟と、人の生への究極の認識が直感的に表 出されている。 乱世の暗黒を生きた大衆は、それに応じた充分力づよい人生を生きた。 この歌はいわば、その証である。
生きることが困難な時、それでもかけがえのない人生をどう生きるか。 あたうる限り、味わい深く存分に生きることが目指されよう。 くすんでいては瞬く間に人生は終わる。一期は夢よ、ただ狂え!
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