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2003年06月09日(月)
「歓喜 ー> 理智 ー> 意志 ー> 気 ー>肉体」 至高体験=歓喜の体験、それを知った理智、そして意志にかわる、それが気になり、肉体に反応する。 たとえると野球で9回の裏逆転のホームランを打った。 そして歓喜する、その体験が理智になる、さらなるよい選手・バッターになる意志を固める、それが気(気合)に変わり、練習をして積み重ねるようになり一流選手なっていく。
他には薬草や苔類を使う場合と、アルコールを使う場合や、禅などの修業で到達する場合などがある。 教祖様やシャーマンは、この歓喜体験を通して自己より解脱をして理智を得る。好きなことを見つけ一生かけて続けるプロセスで、この歓喜体験をするケースが多くある。女性の千人切りも好きな人には、歓喜体験ー至高体験を多くする事になるのだろう。
音楽会の会場が歓喜に包まれ、アンコールの嵐をTVなどで見かけるが、至高体験をしている。この瞬間を味あう以前と以後位に感動するのだろう。
そういえば初めてロッキーに行った時も、旅行に行く以前と以後位に感動をした。
ー昨日とは別のホームページよりコピーしてみた。 ・・・・・ ■覚醒・至高体験とは(1)
◆事例集に入れる基準は? サイト「臨死体験・気功・瞑想」の中心になるのは、やはり「覚醒・至高体験の事例 集」です。 さまざまな文献や投稿のなかからこの事例集に入れるにふさわしいと思われるものをNoboru(このサイトの作成者)が選んで載せています。そのおおよその基準をまずここで明らかにします。
ところで「覚醒・至高体験」というときの覚醒と至高体験の違いは何でしょうか。この点については私自身の中では明確な区別があります。最初にこの違いを明らかにしながら、それぞれの意味を考えます。
◆自己実現した人間 覚醒と至高体験という二つの言葉は、はっきり区別できるものとして私自身は使用しています。 この区別は、人間性心理学の代表的な提唱者・マズローに負っています。
マズローによれば、人間は一般に心理的な健康に向かって成長しようとする強い内的 傾向を持っています。そうした潜在的な可能性を完全に実現し、人格的に成熟し、到達 しうる最高の状態へ達したと思われる人々のことを、彼は「自己実現した人間」と呼び ました。
しかし、心理的・精神的に「最高の状態」や「完全な発展」を問おうとすれば、何が 「最高の状態」で、何が「完全」であるのかという価値基準や判断の問題がつねについ てまわります。そこでマズローは、客観的・分析的な心理学の方法ではなく、いわば循 環的方法を採用しました。
循環的方法とは何でしょうか。とりあえず世間一般で通用している言葉から優れた 「人間性」を意味するものを集め、その用い方や定義をつきあわせ、論理的にも事実の 上でも矛盾するところがあればそれを除き、定義をしなおす。そしてその定義に適合す ると思われる「自己実現した人間」のデータを集め、それによってもとの定義をもう一 度検討する。
こうして修正された定義からさらにデータを見直すという作業を繰り返す。 このよう にラセン階段を登るように修正を繰り返して定義を検討していくのが、循環的方法です。 このプロセスをへて、最初はあいまいだった日常的な用語をますます厳密で科学的なも のにしながら研究を深めていくのです。
こうしてマズローは、たとえばアインシュタイン、シュバイツァー、マルティン・ブ ーバー、鈴木大拙、ベンジャミン・フランクリン等の著名人を含む、多くの自己実現し たと思われる人々を研究しました。この研究を通してマズローが気づいたことの一つは、 高度に成熟し、自己実現した人々の生活上の動機や認知のあり方が、大多数の平均的な 人々の日常的なそれとはっきりとした違いを示しているということでした。
平均的な人々の日常的な認識のあり方と区別される、自己実現人の認識のあり方を彼 はB認識と呼びました。BとはBeing(存在・生命)の略です。こうした認識のあ り方が、実は覚醒とか悟りとか呼ばれるものとぴったりと重なるといえるのです。
◆至高体験 ところで、マズローがこの研究を学問的に説得力のあるものにすることが出来たのは、 ごく少数の「自己実現した人間」の研究ばかりでなく、平均人の一時的な自己実現とでもいうべき「至高体験」の研究をも同時に行ったからなのです。
「至高体験」とは、個人として経験しうる「最高」、「絶頂=ピーク」の瞬間の体験 のことです。それは、深い愛情の実感やエクスタシーのなかで出会う体験かも知れませ ん。 あるいは、芸術的な創造活動や素晴らしい仕事を完成させたときの充実感のなかで 体験されるかも知れません。
ともあれそれは、一人の人間の人生の最高の瞬間であると同時に、その魂のもっとも 深い部分を震撼させ、その人間を一変させるような大きな影響力を秘めた体験でもある といわれます。そうした体験をすすんで他人に話す人は少ないでしょうが、しかし、マ ズローが調査をしてみるとこうした「至高体験」を持っている人が非常に多いことに気 がついたというのです。
ここで大切なのは、いわゆる「平均的な人々」のきわめて多くが「至高体験」を持っ ており、その非日常的な体験が、「自己実現」とは何かを一時的にではありますが、あ る程度は垣間見せてくれるということです。何らかの「至高体験」を持ったことがある 者は誰でも、短期間にせよ「自己実現した人々」に見られるのと同じ多くの特徴を示す のです。 つまり、しばらくの間彼らは自己実現者になるのです。私たちの言葉でいえば、 至高体験者とは、一時的な自己実現者、覚醒者なのです。 こうしてマズローは、ごく少数の人々にしか見られない「自己実現」の姿を、多くの 人々が体験する「至高体験」と重ね合わせることにより、彼の研究の意味をより一般的 なものにし、その内容をより豊かなものにしたのです。
以上で、覚醒と至高体験の区別をマズローに負っているという意味が理解いただけた でしょう。至高体験とは、つかのまの覚醒を意味する言葉として使用しているのです。
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■覚醒・至高体験とは(2)
◆普遍的な体験 臨死体験者の意識変化のうちで私がもっとも引かれるのは、体験者が伝統的な特定の 宗教の排他的な教義からは自由になり、しかも深い精神性、霊性に目覚めるという傾向 です。 教義や組織や伝統に意味があるのではなく、体験者自身が身をもって知った深い 精神的な体験にこそ意味があり、それがすべての宗教の根底をなすと感じはじめること です。
体験者が「存在する全てのものに、神のエッセンスが内在している」、 「神は我々す べての中にいる」と言うときの「神」とは、それを「神」と呼ぼうと「大いなる命」と 呼ぼうと「仏性」と呼ぼうと、もとになる体験の基盤は同じなのです。 だからこそ、 「全てはまったく一つなのです。個別的な宗教のドグマ(各種宗教・宗派が信奉するそれぞれの独特の教義・教理。独断。独断的な説)に固執することは意味がないことです。 ドグマは人間が作ったものです」と断言しうるのでしょう。
「自分のうちなる大いなる命を実感すれば、 どのような外なる神も必要としなくなるのです。どんなドグマも、教義も、偶像も、信仰も、 迷信も、組織も、権威も、いらなくなるのです。 それが、宗教的なるもののもっとも奥深くにある真実なのです。」
これは、本サイトのトップページに掲げている言葉ですが、 おそらく臨死体験者の多くが言おうとすることと同じでしょう。と同時に多くの覚醒・ 至高体験者たちが語る言葉とも同じはずです。
最近読む機会があった『悟りと解脱』(法蔵館)の中で玉城康四郎は、形なき《いのち》そのものであるダンマが、全人格体に顕わになり、浸透して全宇宙に充足するという事 実を、ブッダだけでなく、イエスに、ソクラテスに、孔子に、親鸞に確認しています。 臨死体験者は、この形なき《いのち》に、多少の差はあれ触れたのだとは言えないでし ょうか。 そして覚醒・至高体験者も程度の差こそあれ同じ真実に触れるのです。
それは、「日常的な小さな自己に滅んで、自己を超えた大いなる存在に目覚める」とでもいうべき体験です。宗教の根源にはこうした体験があって、こうした圧倒的な覚醒 体験を前にしたなら、個々の宗教の教義体系などは、空しく色あせた言葉の羅列に過ぎ ないのかもしれません。
どのような既存の宗教やその教義とも無関係なところで、深い覚醒を体験する人々が 数多く存在するのは事実です。臨死体験者の中にもそうした人がいることをこれまでに 確認してきました。「小さな自己に死んで、大いなる命に目覚める」という体験は、宗教の根源をなしながら、個々の宗教の枠を超えた普遍的な体験なのです。
心理学者マズローは、至高体験と呼ばれる状態の心理的な特性や、自己実現ないし自 己超越したと思われる現代の多くの人々の心理的、人間的特性を緻密に検討しました。 そうした精神のあり様を、たとえば大乗仏教が長い歴史の中で繰り返し説き、発展させ て来た「悟り」の理論、無分別智(般若の智恵)の理論が示す人間のあり方と比較して みるなら、そこに驚くべき共通性があることに気づきます。あるいは、キリスト教やイ スラム教の聖者たちが 示す深い宗教体験の中にも、大乗仏教が示す無分別の智恵、般若 の智恵とまったく同質の英知への目覚めを示すと思われる体験が数多く発見されるでし ょう。
こうした覚醒体験は、個々の宗教のどのような教義とも無関係に成立しうる人間の心理的な体験なのです。それは、すべての真実の宗教の根底をなしながら、しかも個々の 宗教の枠を超えた普遍的な体験なのです。
◆「これまで花を見ていなかった」 その普遍的な体験は、マズローのいう「自己実現」や「至高体験」に見られるB認識 と重なると思われます。B認識は、ごくふつうの人々の日常的な認識のあり方であるD 認識(D=deficiency=欠乏)と比べられます。マズローのいうB認識の特徴をいくつ かまとめてみます。
あらかじめ列挙します。 (1)B認識において人や物は、「自己」との関係や「自己」の意図によって歪められ ず、 「自己」自身の目的や利害から独立した、そのままの姿として見られる。 (2)B認識は無我の認識である。 (3)またB認識は、ふつうの認識に比べ、受動的な性格をもつ。 (4)B認識では、対象はまるごと一つの全体として把握される。 (5)B認識にはまた、具体的であると同時に抽象的である。
以下で詳しく見ていきます。、
(1)B認識において人や物は、「自己」との関係や「自己」の意図によって歪められ ず、 「自己」自身の目的や利害から独立した、そのままの姿として見られる傾向があり ます。自然がそのまま、それ自体のために存在するように見られ、世界は、人間の目的 のための手段の寄せ集めではなく、それぞれのあるがままがで尊厳をもって実感される のです。
逆にD認識においては、世界の中の物や人は「用いられるべきもの」、「恐ろしいも の」、あるいは「自己」が世界の中で生きていくための手段の連鎖として見られます。 以前触れた臨死体験者が、「病院で気がついたとき、最初に目に入ったのは一輪の花 でした。」私は涙を流しました。こんなことを言っても信じていただけないかもしれませ んが、実はそれまで実際に花というものを見たことがなかったんです。」と言いました。 この「それまで実際に花というものを見たことがなかった」という不思議な表現は、マ ズローのいうB認識とD認識の違いを念頭において考えると分かりやすいです。
つまり、この臨死体験者は、認識がD認識(手段―目的の連鎖として見る)からB認 識(それ自体の尊厳性において見る)に激変したことの驚きを、「これまで花を見てい なかった」、はじめて花を見たという表現で表したのです。彼は、一輪の花を「それ自 体の生命において」 見直し、「なにか偉大なものを眼前にするような驚異、畏敬、尊敬、 謙虚、敬服などの趣き」(マズロー)をもって接した感動を語ったのです。
(2)B認識は無我の認識であるともいえます。自己実現した人間の正常な知覚や、ふつうの人々の時折の至高体験においては、認識はどちらかといえば、「自我超越的、自 己忘却的で、無我」という傾向をおびるといいます。 それは「不動、非人格的、無欲、 無私」とも言いかえられるでしょう。自我中心の見方から脱して、対象中心的な見方に なったということです。 (1)で見たような違いを別の観点から表現したのだともいえ ます。 至道無難の歌「我れなくて見聞覚知する人を、生き仏とはこれをいうなり 」というの は、まさにB認識の核心をすばりと表現しているでしょうし、逆に同じ至道無難の「我 ありて見聞覚知する人を、生き畜生とはこれをいうなり」というのは、まさにD認識を 表現しているといってよいでしょう。
「稲や土、光や風、自然界のありとあらゆるもの、大宇宙のさまざまなものがすべて、 素晴らしい秩序の中にあって、それぞれが一つひとつの役割を果たして調和している、 そうして燃えている」と臨死体験者・鈴木秀子氏が語ったとき、世界は計算だかい「自 己」の手段として価値判断されたり、比較検討されたりすることなく、そのあるがまま の尊厳性において実感されていたのでしょう。つまり「自我超越的、自己忘却的で、無 我」の立場から感じとられていたのです。
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