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2003年06月08日(日)
数年前に買って読んだが、人に貸したまま帰ってこない本である。 当時コリン・ウイルソンの文章の巧さもあって、その面白さに夢中になって読んだ。 インターネットで調べた内容を後でコピーしておくが、至高体験の 内容に対して詳細に情報が載っている。
私の知人で精神症の人が、鬱の治療薬を飲んで一回だけ歓喜の体験談を話始めた。「それは至高体験といい、薬物を使わなくとも経験できる。またその体質を持った人にはたびたびおこる現象」と説明したところ、その人は怒り出した。「絶対に度々経験ができるはずがない!」と。 「じゃあ長島茂雄はどうなんだ。あの人は過去に他人の体験できない歓喜を数百倍経験しているだろう」といったら、本人は納得をした。 その直前に巨人が10・6?の劇的逆転優勝をしていたからだ。
この本は19世紀から現在までの精神分析の流れが書いてある。 フロイトやユングなどはマイナスの精神病の患者からの切り口で精神分析をしてきた。これに対してマズローが精神分析を健康人に対して、自己実現などの視点で前向きにとらえた。 多くの普通人が「至高体験」を経験していることに注目をした。 そしてそれを真正面に分析して解ったことは、超人とか成功をしているほど この「至高体験」を多く経験しているのだ。成功体験などもそうだろう。 一時巨人の9連覇した選手が多くのチームの監督になったのも、至高体験者の原動力と成功手順の経験を求められた為だろう。
私がいそいそと秘境旅行に出かけるのも、そこで大自然の何かに打たれて「至高体験」を経験するからだ。三桁以上は軽くある。 酒を飲んで騒ぐのも、ミニ至高体験を求めるからだ?少し違うか。
----------- 「至高体験―自己実現のための心理学 」 河出文庫 コリン ウィルソン (著), Colin Wilson (原著), 由良 君美 (翻訳), 四方田 犬彦 (翻訳 ー内容ー 人間の新しい地平をひらく、悦びの純粋な瞬間「至高体験(ピーク・イクスペリエンス)」。 倒錯や異常といった病理を斥け、あくまでも健康人の心理学の確立を目指した エイブラハム・マスローの仕事のなかに、『アウトサイダー』のウィルソンが見出した 驚くべき可能性―。十九世紀以降の心理学が辿った複雑な歩みを、分りやすく語った本。
ー目次ー 機械論の時代―デカルトからミルへ 意志の心理学へ―ブレンターノからジェイムズへ フロイト以降 マスロー、伝記的スケッチ 人間の限界をより高く
ースポーツ医学の分野で解明されつつある現象で、真のトップ アスリートのみにあらわれるという次元。 それは、ZONE(ゾーン)と呼ばれる現象です。 ここに登りつめること、そして、それを常時日常的に感受する 心理的身体的状況を実現すること、これこそが人類の求めている 一つの到達点ではないか、というのがコリンの主張です。 ーーーーーーーーーーーー ー至高体験をインターネットで調べてみたー
道徳うんぬんを別にすれば、類似の体験は幻覚剤の効果によっても得られるらしい。 実際、神秘家や芸術家の中にはむしろその効果を助けとし、何らかの啓示や 創作イメージを得る者も多い。
次に、LSDによる変容意識の体験者のレポートをひとつ挙げてみよう。 「服用してから約2時間後、何となく後頭部を締め付けられるような感覚が起こり、 身体がむずむずしてきた。静かに壁を眺めていると、次第に唐草模様、あるいは ヘブライ文字か、シッタン文字のようなものが浮かび上がり、ゆらゆらと動いて見え 壁に掛けてある絵画の人物や、背景などの輪郭も滲んで見えた。 色彩 は鮮やかに眼に飛び込んでき、激しく生気を発していることに気がついた。 また野外の音や、自らの体内の音にも敏感になり、その一音一音に深い意味性を汲み取り、 また、時空の振動すら意識できた。 さらに経つと、時間感覚すら無くなり永遠を感じた。 外出してみると、風や日差し、空、草花などが少々恐ろしいくらい身近に感じられ、 自分はそれらとまったく一体で、そこには偏在した意志のような“何か”があった。」 以上がLSDの体験記の一例で、LSDの開発者ホフマン博士も同様な時間の消失感について 言及している。また、小説家オルダス・ハクスリーは、メスカリンの体験を著書『知覚の扉』 で詳しく述べている。彼の花の観察には次のようなくだりがある。 「生き生きとした花の光の中に、質的に呼吸に相当するものが認められ 一ただしその呼吸は出発点に戻ることのない呼吸で、潮が繰り返し引くということはなく、 ただひたすら美から更に高度の美へ、深き意味から更に深き意味へと絶えず昇って いく流れである。−中略−〈神の示現〉、〈存在−認識−至福〉 −これらのおどろおどろしい言葉の言わんとすることを、私は、はじめて・・・正確に、 完全に、理解した。」 もっとも幻覚剤の場合、バッドトリップと言われる悪夢のような状態に至る場合も ままあり、例えば詩人アンリ・ミショーのメスカリン体験は、自我崩壊の恐怖を 地獄巡りとして表現していた。 その他の体験では、ただひたすら万華鏡のような光彩が見え続けるだけとか、 人によってもその変容意識の状態は様々である。 かように薬物による効果でも、神秘体験や変容意識などの状態に非常に 近似している要素がある。 実はそれも当然のことで、インディアンのシャーマンなどは、ペヨーテを用いて得た 幻覚を啓示として受け取り、古代ヴェーダでは幻覚性植物ソーマが時に神そのものとして 敬われていたのである。 彼らにとって薬物と神秘は、儀式の一部として深く溶け合っていたのであろう。 一方、中東や西洋でも薬物と神秘は強く手を結んでおり、サバトといった 怪しげな世界で親しまれた。一説によれば魔女たちは、ヒスイ、ベラドンナ、 トリカブトなどの成分からできた軟膏を秘部に塗布し、一晩中飛行体験や、夢幻的、 あるいは性的なトランス状態に耽溺したという。民族学者ポイケルト教授は、 実際にそれらの成分で魔女の塗膏を処方し、自ら実験台となった。 その結果 報告を端折って挙げると次の通りである。 「無限の空間へのファンタスティックな飛行感覚、醜悪な顔の生きものたちの祭り、 原始的なまでの地獄巡り等々。」 上述したような薬物の影響ではなく、 何らかの極限状態や身体の変化に因っても、変容意識は起こり得る。 登山家が厳しい自然と格闘の末、頂上を制服した時、突如として目前に広ろがる 大自然にはっとして至高感を得るという。このように、稀に自然に意識が変容する こともあるようである。
ここでは生理的変化の一因として、酸素欠乏が挙げられよう。 説明すれば、肺や血液中の酸素が減少すると、代わりに二酸化炭素の濃度が高まり、結果 、 大脳が影響を受け幻覚が生じる。深い瞑想状態でも極端に呼吸の回数が少なくなる。 このことから禅やヨーガでの呼吸法の重要性が理解できよう。 また同様な状態は、長時間続けて歌ったり踊り続けたりしても起こり得る。 たとえば、シャーマンの祈りや魔術などには舞踏が付き物で、イスラム教のスーフィーズムの 回転舞踏、密教のマントラ、読経、キリスト教の賛美歌などが挙げられよう。 これらは皆、恍惚へと至るためのひとつの手法である可能性を秘めている。 ランニングハイや、武道家の一心集中、断食や苦行もまたしかり。恍惚感や幻覚の要因として、 栄養失調やビタミン不足に依るペラグラ症や、苦行に於ける苦痛ではヒスタミンや アドレナリンの分泌、また、膿んだ傷からはあらゆる毒物の体内への侵入、などが挙げられよう。 性的なオルガスムなどでも至高感や幻覚は起こり得る。 ましてや聖女の法悦には甚だエロティックなものが多く、聖テレサの幻視の描写 には、 神の光る失で何度も突き刺され、内臓を引きずり出されて恍惚となったとある。 性的エクスタシーは“小さな死”と言われる。 まさに死へまでも突き動かされる性のエネルギーの解放は、 ニーチェの言う“ディオニュソス的”なものにも内包されている。 以上のように、至高体験、変容意識は身体感覚とも密接なようである。
そもそも脳内には快楽物質エンドルフィンや、想像力や幻覚をも感知し得るA10神経なるものが 存在している。神秘体験やヴィジョンすら、脳内の神経反応という大脳生理学からの 見地もあるのだ。上記のA10神経と言われるものは、何でも愛情にも大いに開係しているらしい。 もしそうなら幻想やエロティシズムが、文学、芸術に於いて大きな役割を果 たしている 理由が頷けるような気がする。そもそも幻覚剤などの効果とは、元来人間の裡に潜在している 能カを一時的に賦活させるだけなのであろう。 次に至高体験の裏の面とも言える《ヴァステイション》(壊敗)についても少々触れなくて なるまい。このヴァステイションという言葉は、小説家ヘンリー・ジェイムスが自らの体験を 称したもので、今まで挙げ連ねてきた新鮮で美しい幻覚や、素晴らしい至高感とは打って変わる。 それは、幻覚への畏怖とその不可解な違和感など、ただひたすらその現象に対しての 戦慄に捉われてしまうことを指している。 異端の作家や天才的な人物は、その希有なる才能からか、至高体験やヴァステイションを 経験したという記録が数多く残されている。 画家エゴン・シーレは、「芸術は自然を目標とし、が、そこには“神”がいて、 私はそれをもっとも強く、もっとも激しく感じる。」と言い、舞踏家のニジンスキーは 「私は神だ。神なのだ!」と言って発狂し、ドストエフスキーは癲癇を起こして “時間を越えた瞬間”を経験した。ゴッホやニーチェもまたしかりであろう。 至高感には、世界へのまったき肯定が喚起され、通常に悪徳とされるものでさえも、 ひとつの“あるがまま”な存在として眺めているような状態が起こる。 ニーチェの思想の内にも、世界の悲劇さえもがひとつの美として、 生命の内に躍動する一点〈巨大な希望〉や、〈知識に災いされぬ 純粋意志〉など、 至高感の示唆らしきものがある。一方、破壊的なまでの生の過剰、生命の根源的エネルギー であるディオニュソス的なものも、それはすなわちヴァステイションのことではないだろうか。 作家コリン・ウィルソンは、〈知識に災いされぬ純粋意志〉を、力(生のエネルギー) を垣間見ること、そして“全てを肯定する悟り”と同一ではなかろうかと記述していた。
しかし、極端に傾倒さえしなければ、それは人生の大いなる希望ともなる。 心理学者エイブラハム・マスローは、フロイディズムの病跡学にのみ向いた心理学ではなく、 幸福感や至高感へと目先を向け、健康人の心理学を新たに提唱した。 だがたとえそれが、 マスローの示す健康人のものであれ、薬物に因るものであれ、何にせよ、 至高体験は精神への強烈な刺激に対する内的反応に変わりはない。 それはまた、“感動”と換言しても差し支えあるまい。 −“驚異、感動”という刺激は、“快楽、恍惚”であり、ともすると人は虜になり、 何度も繰り返したいと願うことも少くなくないだろう。 それはしかし、人を小羊のように従わせはするものの、知的判断を鈍らせる要因ともなる。 そこへ更に罪、罰、恐怖、禁忌などを付加すれば、信仰、そして宗教の原始的形態が できあがるだろう。元来、宗教とは、人間の本能が高度に美化されたものであり、 社会的動物の所産でもあろう。 端的に言うと、人間の普段の意識は、物事との関係上に成り立つ認識と、その繰り返しに よる経験則に終始しているが、至高体験の場合、それは通 常の意識を越えた、 “精神エネルギーの過度の流出”であり、変容意識での幻覚や達観などは、 認識のオートマティズムとでも言おうか・・・。 “精神の過度の流出”とは、 すなわち並外れた自我への洞察であるとも言えよう。
ヤーコブ・ベーメは、ヴィジョンを再び得るためには、洞察、内識が必須であるとし、 クリシュナムルティも、深い洞察からこそ真理はやってくると言っている。 それゆえ彼は決して至高体験の恍惚には囚われなかった。 禅のように、至高点すらも冷静に眺める姿勢を忘れなかったのである。彼はまたこうも言う。 「真理や至高は語れない。それは静謐であることだから」と。そこには主観を放棄する、 無への意志がある. 至高体験という、そもそも不可解な事象は、まさにそれを言語化しようとする失先、 もはや“至高”ではなくなり、残された表層的なもののみが辛うじて語り得ることとなる。 それはさながら、近づこうにも到達できない展気楼のようである。 全てのあらゆる存在は、“普遍的な何か”の氷山の一角で、恐らくその一角を通 して “普遍的な何か”の真相を垣間見ること、これこそが至高体験に於ける世界との 一体感なのであろう。
ノヴァーリスは、『青い花』の中で、登場人物のジルヴェスターに次のように言わせている。 「すべての感覚は、結局はひとつの感覚なのだ.」と・・・。 また、「この世の生を眺める超越的視点が、われわれを待っている。」 というノヴァーリス自身の箴言もある“精神の一点”“ひとつの感覚”“超越的視点” そしてニーチェの〈知識に災いされぬ 純粋意志〉−これらの言葉はすべて、 同じものを指しているのであろう。
「至高とは進むことにして、進むとは遠くへ行くこと、遠くへ行くは還ることなり」 これは老子の章句の一部である。 まさに至高点は、ウロボロスのごとく自我へと帰結する。 我々は、常にデカルト的自我から逃れらないのであろうか。ロラン・バルトもまた、 「自分が主体であること、そうならざる得ないのだ。」と言っていた。 どうにもならない《自我》という視座・・・それは、ブルトンの言う“精神の一点” すなわち《驚異なる意識》の通 過点に他ならない。 至高体験ではなくとも、 日常的な出来事の感動、そして《驚異》を外在化させていくことが芸術の始まりで、 その行為へと誘う“意志”と、結果 としての“意味性”が《神》なるものの認識の 始まりだったのではと私には思える・・・。 −しかして《神》の顔とは如何なるものなのであろうか。
「一切を疑い、かくして懐疑の苦悶から確信が芽生えなければならない。 恍惚の瞬間にこそ懐疑を招き寄せよ。なぜならその時残るものの中に、 真実と虚偽とを見いだすだろうから。」 J・クリシュナムルティ
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