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2003年03月10日(月)
古館伊知郎といえばトーキングブルースである。 この15年間おこなっているトークショーである。 今の時期にBSTVで放映しているが、毎年の楽しみになっている。 今年は「言葉」で、去年は「脳」であった。 一人で2時間、このテーマで話しまくるが、息を尽かさない中味の濃い内容だ。 会場を暗くしてスポットライトを照らし出した中で話すのだが、次から次へと話題が 出てくるものだと感心をする。 見えない相手に対して、独り言をいっている姿がこの「随想日記」に似ている。 ミニトーキングブルースというところか。 ホームページからこの紹介文をコピーしてみたー
[TalkingBluesは、「嘆きや悲しみ」を音楽として綴った黒人達に倣い、楽器をマイクに、 詩をトークに換え、人間が普遍的に持っている悲しみ、嘆き、苦しみを、古舘伊知郎が鋭い 感性で表現すると言う目論みで1988年に始まった。古舘伊知郎が、自分自身の生活や生き方を ネタとし、世の中を自分の鏡とし、また、自分を世の中の鏡として、不浄な煩悩の奴隷として 生きるしかない自分を含めた人々の嘆きの真意に問いかけてゆく。 そのために、古舘はTalkingBluesの舞台に立ち続ける。]
さらに今回の「言葉」もほとんど忠実に紹介されていた。 詳細は「随想日記の引き出し」コーナーにコピーしてある。 こういうのも情報化社会の一片なのだろう。 以下はやはりインターネットで調べたインタビューをコピーしておきます。
――世の中に情報があふれ返ってます。 「受け手の側が自主性を取り戻すには、情報のラマダン(断食月)か安息日をやるしかない。 たとえば、天気予報の音声を消してモザイクをかければ、だれもが降水確率のあいまいさに 気づくでしょう。窓を開け、湿気やにおい、草いきれを感じて、『よし、傘なしだ』となる。 自分が予報士になれるんです」
――テレビをどう位置づけていますか? 「テレビは受け身で垂れ流し、完全看護じゃないと視聴者に受け入れられないダメな メディアになって います。テロップ(文字説明)の多用もそう。画面に新聞記事が映って、 赤線引いてくれるなら初めて新聞を読む。そんな層がいる」 「映画や本なら、投資して自発的に選ぶ。たとえ錯覚でも、人生観が変わったという思いで 感慨を得たいのです。映画や本が本格医療マッサージなら、無料のテレビは15分間クイック マッサージ。視聴者は目先の刺激を追い求めるインパクト難民だよ。 気持ちが良ければ治療しなくてもいい。それを、いやしとか和みという言葉に差し替えて いるだけです」 ――そこでやりとりされる情報も軽く、空疎になっているようです。 「テレビの視聴率は内閣支持率と似ています。どちらも中身は問われない。 国民は怒ったふりはするけど、小泉さんの支持率が80%でしょ。耳当たりの良い情報だけが 流通している。テレビより石器ねつ造の考古学者のほうが偉いよ。掘って、埋めて、見つけて。 テレビはそういう地道な作業さえしてないもの」 ――インターネットや携帯電話でのコミュニケーションについては? 「パソコンでも携帯の画面でも、あやしく無機質に光るものに文字が踊っているのがOK、 という感覚が若者などにありますね。携帯のカバーがはやってるでしょ。 無機質の上に別の無機質をツルとかぶせるわけです。人とつながりたいといっても、 それは近所づきあいじゃない」 ――若者は人づきあいが苦手なんでしょうか。 「グルメだったりブランドだったり、自分に情報をまとわせ、武装しないと自己表現が できない人が増えている。人間関係が空洞化し、心のすき間にインターネットという 勝手口から御用聞きが入ってくる。出会い系サイトなんか典型じゃないですか」
――情報社会はこの先どうなるのでしょう。 「手をかえ品をかえ、情報のインフレ状態が続くでしょう。ただ、もっと長いスパンで考えれば、 情報は要らないという所まで行き着くかもしれない。本当のいやしとか和みとかを希求して やまない時代になれば、半径5メートルで家族が仲良く暮らせればいい。新聞もテレビも消え、 実感を伴った周囲との意思疎通に回帰していくわけです」 ――テレビ人として何を極めたいですか。 「NHKがお茶会の干菓子なら、民放は完全看護のお客様にソフトプリンを出している。 その客が『これから感動モードに入るぞ』と、はるばるプロジェクトX(NHKの人気硬派番組) へと渡っている状態です。おれも骨のある番組をやりたいと思うよ」 「たとえば、無名の人が無名のまま生き、何も起こらないという番組。地方の農家の平和な 生活をカメラで5年追い、普通に放映してみせる。『CMの後、予想外の展開が!』の反対です。 スポンサーはつかないでしょうが、どこかの民放がやるならノーギャラで引き受けますよ」
(朝日新聞/2002.1.12)
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