|
2002年12月02日(月)
少年期までは今考えても、かなり刺激的な環境で育った。 生後3ヵ月後に、長岡の東神田から大手通に帰ってきた記憶が ある。もしかしたら父親の話の刷り込みかもしれないが。 子宮の中の記憶のある人もいるとか。
お手伝いの背中におぶさっていたのも這い這いも憶えている。 歩かされた時に面倒くさいと思った事も。
商売の真っ只中で育ったせいか、今も人ごみが好きである。 スーパーや飲食店に行くのが異常に好きなのは、三つ子の魂百までだ。 競合店がオープンすると偵察に行った、5歳の頃である。 家族全員が毎日の売り上げに一喜一憂をしていた。 もう50年以上も昔のことだ。
今考えると当時は金色に輝いていたように思える。 生きるのに必至の両親の姿がそのまま伝わってきていた。 素晴らしい時を両親と共有できたのだ。
兄二人の死とその5〜10年後の母の心筋梗塞の死線があった。 これで母は死ぬんだと思った、しかし生き延びた!
2歳の頃に実家で更に新しい事業を始めた。 その記憶が生々しい。 ビル建設の完成まで住んでいた木造の家の下に丸太を入れ、 近くの公会堂の前の広場まで移動した。 完成するまでそこで店を開いていた。
建物の完成した引越しの日々が生々しい。 コンクリトーと生壁の匂いと混乱の凄みを。 あの時代は皆が必死であった。
1階は店,2階が倉庫兼事務所、三階が自宅兼店の食堂と風呂、 4階が従業員の宿舎兼後方であった。 毎日が戦争のような日々であった。
|
|
|