泥沼
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2004年11月24日(水)

今日は死者ミサ。
というとこう、黒いのとか想像されそうだな。
今年の死者を追悼するミサですな。
11月は死者の月、死者を想う月だそうで。

神父さんがいつもと違った。
いつもはサレ○オ会なんだけど今日は知らないイエ○ス会の人だった。
どう違うんだろう、サ○ジオがイタリー系でイ○ズスがフレンチ系かね?
なかなか元気のいいフレッシュな神父さんで新鮮。

お説教はあんまり覚えてないけど少しだけ。
私達が忘れてはいけないこと、とかで。

ひとつ、私達はみないつか死ぬということ
ふたつ、すべてはおくりものだということ

ひとつめはそのままね。
ふたつめは、私達は望んで生まれたわけじゃない。選んで生まれたわけじゃない。
性別も名前も場所も時代もなにもかも、すべて。
この命も、私達が持っているものも、すべては贈り物であるということ。
人からもらうプレゼントを、自分で選ぶ人がいるでしょうか?(いるけど)
プレゼントはそれを選んだ人、与えてくれた人への絶対の信頼があるから嬉しいのです。
知らない人から与えられた知らない菓子を怪しんで食べないとしても、
それが自分の信頼している母から与えられたなら、子供は何も不安に思わずに食べるでしょう。
私達はそういうふうに生まれたのです。とかそんなんだっけ。
寝ながら聴いてたからウロー。

別に神父さんはプレゼントは喜んで受け入れろ、と言いたいわけじゃあなくてね。
なんていうかなぁ。
プレゼントしてくれた人がいるからあなたがいるんだよ、と言いたいんかな?
それを神としてもいいし、宇宙、世界としてもいい。

そして、死者。
死んでいったもの、失ったもの。
それをどう扱えばいいのか私達はわからない。
ただ忘れられないだけだ。
生きているものも忘れてしまう私だけれど、
目の前で生きた姿、苦しんだ姿が忘れられない。
思い出すたびに痛むとしても。

死は昔も今もこれからも永遠に、永遠の謎であり続けるだろう。
それを知るすべはない。
しかし人はそれの謎を求めることをやめることはできない。
誰も知らないけれど、誰もが知っている、知ることになるからだ。
死なくして生はないし、いつか死ぬからこそ今生きられるからだ。
それは、不思議な魅力で人間を惹きつけてやまない。

しかしね、あまり死の魅力に取り付かれてしまうと。
しまうと、どうなるんだろう。
生きるのが面倒になるかも。
うまく均等を保つこと。バランス感覚が大切。



一回読んだきりほおりだしてあったヤスヒコせんせの「イエス」読んだ。

ネタばらすけど

マグダラのマリアがイエスの愛人?でさ。
そんなあー嫌だー!とおもた。(前に読んだのにな)
おもた後で。
何をいまさらー。とおもた。

にんげんだもの。
遠藤さんの弱いイエースが好きだといっておきながらそういう弱さを認めないと?
いや、もはやそれは弱さですらないかもしれない。
じゃあなんだろう。
人として女性を愛することがあったかどうかなんて考えても見なかったなー。
別に興味なかったしな。
いや、興味なかったといえば嘘になるか。
興味を持つ必要がない程度には身近な存在だったずらね。
一種のファザコンやブラコンに似たものだろうね。
世の中の男性がみんなクズでもイェス様がいるもの〜とか?
やばいやばい、それやばい。
でもシスターになるってのはィエスのお嫁さんになるってことなのよーって聞いてさ。
それは楽でいいなあと思った記憶も無きにしも非ず。
十かそこらの年齢だったと思うんだが。すでに現実逃避。超現実主義?
どこから歯車が狂ってしまったのか。

他人を否定するということはそのまま自分を否定するということ。
イエスに聖性をもとめ禁欲を強いるなら。
自分にもそれを強いているということだわな。
生きとし生けるもの全てを平等に想ってくれるというイメージを抱いていたけど。
それは理想だけれど幻想だもの。

しかし、ヤスヒコせんせのプライベートにツッコムつもりはないけどあるんだけど。
先生の描く母親像が気になる。
えっと、言い辛いけど夫婦関係が崩壊していることが多い。
「イエス」の主人公ヨシュアの父はもしかしてヤスヒコせんせの父がモデルなんじゃないかしら。
自称クリスチャン。子供達を教会に行かせたりした。
しかし先生自身は教会にも連れて行かれなかったし聖書を手に取ることもなかったそうです。
ヤスヒコ先生だけが連れて行かれなかったという事実が非常にひっかかる。
そして母親。姦淫の罪で母が石打ちにされるところを見たヨシュア。
幼いながらもヨシュアは罪を犯した母へ軽蔑や憎しみのようなものを感じている。
しかし同じような状況において、イエスは罪を犯したことがないものから石を投げなさいと言う。
石を投げられるものはいなかった。
ヨシュアは恐ろしさのあまり泣きながら、それを見ることができなかったが、
イエスに声をかけられて、女が裁かれていないことを知る。
そして自分がおろかだったことを知るのだ。
母を憎んだこと、軽蔑したことを後悔するヨシュアに、イエスはその涙でお前は許されたのだよ、と言いやさしく支えてくれるのだった。
私がヤスヒコせんせの「イエス」のなかでもっとも好きな箇所だ。
ヤスヒコ先生にも同じような経験があるんじゃないかというのは下世話な想像だろうか。
しかしこの「イエス」を描く意味がそこにあったのではないかと思う。
文学者と比べて漫画家の生涯などはあまり知ることができないのは残念。
まぁ、生きてる人にはプライベートを守る権利があるから仕方ないけどね。
私はやっぱり作品と作家は切っても切れないものだと思うから、両方あわせて本当に理解できるのもだと思うんだよねー。


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