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泥沼 DiaryINDEX|past|will
今日の恋愛小説を読むの講義では宮沢賢治のびでおみたー。手抜きだー。 明日は和歌文学会だー。 「土曜は何時に来ればいいんですか?」 と聞いてしまったばかりに、自由参加なのに手伝うことになってしまった。 「え?手伝ってくれるの?」と言う嬉しそうなセンセの顔にね。 ええよええよ…。 金髪ポニテールの学生の兄ちゃんが発表するらしい。 もう一人学生と、あとうちのセンセが発表。 学生2人は堅実な内容って言ってたな。つまらないかな。 センセはいつも話聞いてるからなー明恵法人とか言ってたな確か。 ま、面白そうじゃないの。 生でデス種みれないけどねー。 どうせあの時間帯うるさくて何も聞こえないからな、画像わるくてもがまんがまん。 あーバイトないと気が楽だあー。癖になりそう。もう働けない。 「キリスト教」に出会ったために自らの卑小さ、卑怯さと向き合わなければならなかった「私」、その「私」は40歳になるきょうまで自分がそのような人間であるという自己嫌悪に耐え、変わることのできない自分をあきらめているのである。 「遠藤/周/作『死/海の/ほとり』論」槌賀七代より から主人公に関する考察。 私のことかと思ったぜ。 誰しも何かをあきらめて生きてるんだけど。 私は特別諦めがいいからなあ。 あきらめがいいってのは決して格好良いことじゃないよ。 執着しないっていうと格好良く聞こえるけどね。 ぼくらにとって人生とは、苦痛ではない。しかし、明るいものでもない。 何故だか知らぬが、今のぼくの人生を支えているものは、人間の不思議と無限の暗黒へ対する執拗な興味である。 遠藤/周/作『作家の日記』より そう、そうだね、そうだよね。 この「ぼくら」というのは日本人のことかな。 私が信仰を捨てたいというのはつまり。 罪悪感を感じずに自分の欲望のまま生きたいということなんかな? こんなもんに縛られてなければもっとフツウっぽく楽に生きられたんちゃうかと。 まさにエゴイズム。きたねえー。 でもそれは信仰だけの問題じゃない。 社会で生きている、一人では生きられない。 信仰がなければ楽なんてことはありえない。 むしろない方がとりあえずの支えもなく辛いはず。 そういうことを忘れてるだけだ。 誰だって、自分の欲望のままには生きられない。 でも時々今の生活は夢だな、と思うことがある。 毎日食うに困らず、遠い国の戦争、遠いところでの悲劇がテレビや新聞で報道される。 でもそれはブラウン管の向こうの話。 かわいそうねえ、ひどいわねえ。 時に怒り時に泣いて、そしてそれっきり。 ドラマを見て泣いたり怒ったりするのと何が違う? こうして日本に生まれてのうのうと生きていることが既に辛い。 夢から覚めて生きなければ、本当に生きなければ。 カトリックの教えでは、富む者は財産と持っているものすべてを捨てて神のの国を探さなければいけない。 神の国とはすなわち愛。愛とは隣人愛。敵を愛せよ。許すこと。 今のままじゃ天国にいけない…とかいう不安は無い。 神に裁かれる…という恐れもない。 でも自分が富める者であるという罪悪感から逃げられない。 いつもいつも思うこと、世界はなんて不平等なんだろうってこと。 あー、やっぱり。信仰関係ないべ?そうね、そうかもね。 カッコワルイから捨てようとか思っちゃダメだよね。 ズルズルでいいじゃない。引き摺ってけばいいじゃない。 教会いかなくったっていいじゃない。 どうせどこに捨てればいいのかもわからないモンだし。 現代の隠れキリシタンだぜ?かっこいいじゃん?(そうでもない) ただ染み付いた習慣や価値観が厄介といえば厄介だけど。 私が私なのは私だからで、キリストさんのせいでもおっかさんのせいでもない。 なにも、凡人なんだからいきなり全て捨てて貧しい人のために生きねばなんて考えることないよ。 みんなが全部捨てたらみんなが全部持てるのにとか、思わないこともないけど不可能だから。 急進鷹派は結局うまくいかないんだ、穏便鳩派でゆっくりいこうや。 ただ、そういう自分を責め苛むことはやめられないだろうな。 常に頭の隅にあり、たまに出てきては私をイライラと悩ませるだろう。 きっとこれからも時々辛いだろう。一生辛いかもしれない。 辛くても辛くなくても結局は辛いんだ。 つらしうしと平安の時代からみんなグチグチ言うとるけど、本当やねえ。 でもさーそうして辛い思いをしながら、やりたいことの中から、 いつか、できることを探せばいいんじゃなーい。 やりたいことがないなら、今できることをやればいいし。 何もしないのもいいかもしれない。 嫌いなことをして後悔するなら好きなことして反省した方が特だよ。 どんな時になっても遅すぎるということは決してないはず。 こういう問答を何度も繰り返している気もするんだけど。 良くなってるのかな。
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