メロ


2010年08月11日(水) とりとめ茄子

17歳のとき、恵比寿のZ会に向かう坂を歩いてて突如雷に打たれたように「わたしの人生はなんだかんだうまいこといく。いきつづける。」と強く確信したことを思い出す。なにごとにも確信を持たずに曖昧に生きているわたしだけど、それに支えられて今に至ってる。支えられてというか、その根拠なき自信に引っ張られて、たしかになんとなくなんだかんだうまくいっている。

そういうスピリチュアルな事象にはまるで関心もないしハナからバカにしているんだけども、あのとき夏期講習に通うコギャル(当時の用語)を直撃した脳髄を貫くような確信の強さは忘れられない。なんだったんだろうあれ。

ちょうど今くらいの時期だったな。Z会通っても全然勉強しないで結局彼氏ができただけで大学もアホ大を軒並み落ちて、浪人してから受かったのは名前だけハデな中途半端な大学だったけど、そこで初めて同性の友達ができて、やっと女の子らしい青春が送れて、というか送りすぎて留年して就職も決まらなくてバイトから入って、ひどい社会人のスタートだったけど同時に結婚して、幸せーと思ったら裏切られて死にたくなったけど紆余曲折あって許すことを知って、夫もまた未完の人間であったということを受け入れて楽になった。仕事も結局バイトから契約になって社員になって、それから独立してどうにかやってるし、子供を作ってもいいかなというくらいの気持ちになって、自分で好きなように産休取れる環境は整ってた。

どうこの結果オーライっぷり。

さきのことは何も楽観してないし、どうせ嫌なことはたくさんあるし生きることが嫌になるだろうとも思う。でもきっと全部その先でどうにかなって、死ぬときはやっぱり「結果オーライだった」って思うって今でも強く思う。思うというか自分の人生の大前提としてその言葉が存在している。

不思議なもんだなあと思う。


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