Opportunity knocks
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2005年08月30日(火) 創作

 何も感じない男がいた。
男は物心がついたときから感情というものがよくわからなかった。
笑ったり、怒ったり、悲しんだり、という普通の人間が当たり前に感じる気持ちがよく理解できなかった。
男の周囲の人間はよく笑い、よく怒り、よく悲しんでいるようだった。男は自分が他の人々と違うことはわかっていたが、そのことについても格別の思いはなかった。

 男は大きくなるにつれ、模倣することを覚えた。楽しいふり、悲しいふり、怒ったふり、悔しいふり、そんなふりさえしていれば誰も男のことを不審には思わなかった。無口を心配していた男の両親もほっと胸をなでおろした。なんだ、この子はこんなにも喜怒哀楽を表現できる子供ではないか、心配することはないのだ、と。

 男は常に模倣しながら生活していたため、いつしか模倣することが習慣になってしまった。男は普通に学校へ行き、大学に入り、恋人を作り、そして社会人となった。一見、男の人生は華やかで明るさに満ちているように見えた。生活は順調で何の問題もない。しかし相変わらず、男に感情というべきものはなかった。そして男には何の葛藤もなかった。

 社会人になって6年目に男はある大病に罹った。
最初は体調が悪いと思う程度だったが、日を追うごとに男の具合は悪くなっていった。次第に体の自由が奪われていき、そのうち話すことも満足にできなくなった。それでも男はそんな自分の境遇を悲しんだりしたりはしなかった。もちろん体の痛みはしなやかな鞭のように彼を打った。空気を切り裂き、鋭い音をたてて幾度も打った。それでも彼はつらいとは思わなかった。
男は体力が衰えるにつれ、次第に模倣することをやめ、無感情であることを隠さなくなった。男は一日中、半覚醒のままぼんやりすることが多くなった。
胎児が母親の胎内で夢見るように、男は入れ代わり立ち代り現れるイメージに身を委ねた。
あらゆる音はひとつのやわらかな壁にへだてられ、間接的に響いた。
すべての意味は失われ、心地良い安心とどこまでも続く白い世界があった。
そうした状態を男ははじめて心地良い、と思うようになった。

 男の意識は次第に小さくなっていき、最後には大地に吸い取られる雨水のように、消えてなくなった。


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