Opportunity knocks
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漱石の「道草」読了。 この小説は、遙か昔(わたし的に第一次漱石ブームだった)高校生のときに読んだことがあるのだけど、おしりの青い学生時代ということもあってあまり肝心なところを理解していなかった。で、今はどうかというと、多少なりとも人生経験を積んだおかげで、学生時代に読んだときよりはいろんな感慨があった気がする。 しかし、こうやってあらためて読んで見ると、漱石という人は孤高の人だったんだなあとあらためて思う。
去年、学校の共通科目のレポートで漱石の「こころ」についての小論文を書いた。テーマはなににしようと迷ったあげく、「先生とわたしにおける淋しさの視点について」というようなものにした。そこで「先生」と「わたし」が持っていたそれぞれの淋しさを検証し、それがそれぞれの人生にどのような影響を与えていたかというようなことを中心に書いたのだけど、考えれば考えるほど、漱石はいろんな意味の孤独を抱えていたんだなあということを思った。まず優れた頭脳を持っていたということ、そして、普遍的な考えを持っていたこと(時代というものに囚われない自由な発想)などなど、そんな誰もが持ちえなかったものを持っていたからこそ漱石は誰よりも孤独だったのかもしれない。漱石の小説にはそんな孤独の精神が随所にみられる。
しかし、なんでわたしはこのような小説にひかれてしまうんだろう。淋しいものが好きなんだろうなあ、きっと。たぶん(訳の分からない自分勝手な表現だけど)淋しさには受動的な淋しさと能動的な淋しさみたいなものがあって、わたしは能動的な淋しさというものが好きなのかもしれない。つまり自分から淋しさを求めていくその行為、または淋しさそのものを少し離れた場所から傍観すること。
以下、「道草」からの抜粋。 自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなる程、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気にその淋しさを感ずる場合さえあった。けれども一方ではまた心の底に異様な熱塊があるという自信を持っていた。だから索漠たる曠野の方角へ向けて生活の路を歩いて行きながら、それが却って本来だと心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。
漱石の抱えていた淋しさは、底が見えないくらい深いものだったと思う。漱石は彼の言う熱の塊みたいなものとひきかえにそれを享受した。でもそれは本人が思うよりもずっと過酷なものだったのだろう。 漱石は結局それを自覚しないままこの世を去ったけど、彼がその熱の塊みたいなものを追い求めた結果生まれたもの、つまり彼の多くの小説はこれからもずっとずっとこの世の中に存在して、多くの人の心に残っていく。 それはほんとうに素晴らしいことだと心から思う。 本を読み終わったあと、そんなことを考えていた。
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