Opportunity knocks
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今朝、新日曜美術館を見ていたら、京都の建仁寺の天井画のことが特集としてとりあげられていた。 この天井画のことは去年の秋から知っていた。去年の秋にNHKのETVかトップランナーで特集されているのを見たのだ。そのときからこの天井画と、それを描いた小泉淳作という画家に非常にひかれている。 小泉淳作という人は、画家を志してから77歳になる現在まで、どんな美術団体にも属さず画壇とは一線をひいてきたという珍しい方である。そしてほかではちょっと見られないくらい素敵な人でもある。 普通、年のいった人は年がいったなりの雰囲気というものを身にまとっていて、たいていの場合それは居丈高な態度であったり、慇懃な物言いであったりするわけだけど、小泉淳作さんにはそれがまったくない。(わたしは常々おもうのだけど、どうして年をとっているというだけで人はあんなに偉そうにするのだろうか?)体は年老いていても、中身は何というかすごくニュートラルなのだ。それは目を見るとよくわかる。小泉さんが対象をみるときの目というのは、とても透明なのだ。すごく透明な目で対象を見る。そして、その透明な目で対象の持つ本来の姿を鮮やかに写し取る。
小泉さんが番組の中で言っていたことで、すごく印象に残っている言葉がある。 「どこかで自分を許す境界線みたいなものがある。どこで自分を許すか、それをどこに定めるか、そんなことを考えながら描いている」 はっきりとは覚えていないけど、こういうような意味の事を言われたと記憶している。 小泉さんは、創作の過程の中でどこまで手を入れていいのか、どこで終わりにするのかどこまでが自分のものなのか、いつそれを手放すかということを常に自問自答している、という意味でいわれたと思うのだけど、わたしにもその言葉は結構重く響いた。 例えば自分が到達したいと思っている場所があるとする。 でもその場所ははっきりとは見えない。どれくらいその場所に近づいたか、あとどれくらいで手が届くのかわからない。それでも自分は持てるだけの力をふりしぼって、それに近づこうとする。そのうち、どこまでいっても終わりというものがないということを悟る。どこかで自分を許すというのは、そういうことじゃないかと思う。
書いてて自分でも訳がわからなくなってしまったけど、そんなようなことを番組が終わってからもぼんやりと考えていた。
今度京都へいくときは、建仁寺の双龍図、ぜひ見に行こうと思っている。
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