近所に小さな子供がいる。 小学校に上がる前の年頃なのだが、見ていると、本当によく転ぶ。 荒れたアスファルトの上で転ぶ姿は、見てしまった人間の膝の当たりを、皮がめくれ返るような寒気を覚えさせてくれる。 盛大に転んで、それでも懲りずに走り出し、また転ぶのが痛々しい。 「もっと、気を配って歩けばいいのに」と、大人の視線で考えるのだが、私たちは近頃、転ぶようなことがあったのだろうか?
よくよく考えてみると、転ぶというのは大変なことだ。 歩いて進むエネルギーを、重力に任せてしまうのだ。 仮に時速4�劼琶發い討い燭蕁△修谿幣紊離好圈璽匹如△靴�もブレーキをかけることなく壁にぶつかるようなものだ。 60�圓瞭�塊が、躊躇無くぶつかる様を想像していただきたい。 結構な惨事だ。 それを頭の片隅で考えると、大人は転べなくなってしまう。 じゃあ、問答無用に転ばなくてはいけない環境はどんなときなのだろう。
スキーやスケートを習ってみる。 そうすれば、転ぶことなど、日常茶飯事だ。いつだって転べるだろう。 しかし、習熟して行く内に転ばなくなってしまう。 「やっぱ、転ばないのがうまいんだよ」と、転べないことを誇るようになってしまう。 これではだめだ。
じゃあ、走ってみよう。 それも、普通の走り方じゃなく、まっすぐ走れなくなるほど長距離だったり、目隠しや後ろ向きだったり。 これなら、どんな大人であろうとも、転ばざるを得ない。 思う存分転べるのである。 まあ、そこまで長い距離だったら車を使って移動するとか、目隠しや後ろ向きで走る人間を、まともな大人と見ていいのかは別として、転ぶ方法は確かにあるのだ。
そして、実行できない。 大人は転ぶ怖さを知っているからだ。 膝の皮がすりむける痛さを、支えた手のひらが痺れる怖さを知ってしまっているから。もう、転ぶことはできない。自分の意志では、なおさらだ。 いつまでも、大人は転ばないように我慢し続ける。そうして、耐えきれなくなって転ぶので、取り返しのつかないほど痛い目に遭ってしまう。
転ばないのでなく、転べない大人。 案外、生きていくほど不器用になるものだ。
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