原案帳#20(since 1973-) by会津里花
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2002年12月25日(水) 私の音楽履歴っていうか遍歴

★1・私の音楽遍歴



★1・(っていうか、まだくよくよしてます)

昨日、過去の音源のうち、東京の時代の一部のものを除いて20年分にわたるものを
MD1本に編集してみて、
またブルーになってしもうた……(鬱

まあいいや。
こういう「くよくよするオトコモード」っていうのも、なんだか久しぶりだし。

で、なんとなく、私の音楽に関する「履歴」のようなものを
ここに書こうと思う。
いやー、他人から見ればどうでもいいものだということは
重々承知の介なんですけれど。

では、以下のとおり:

幼少時:父・兄・姉の蒐集していたレコード(SPも含みかなり多数)を聞きまくる。
   (レンジがめちゃ広かった! だって、世代がすごく離れてるから、
   明治生まれでなおかつジャズラテンシャンソン好きの父のセンス、
   賛美歌を台所で歌う母のセンス、
   映画音楽好きの長兄のセンス、
   ジャスト「ビートルズ世代」の姉のセンス、
   みぃんなもらっちゃったもーん!
   (しかも「子守唄がわりのクラシック」まで!)
   但し「演歌」はこの家では流れたためしがなかった……なんでやねん?
   だから、私は生育環境の中に演歌がほとんどないのです(;_;)
   っていうか「洋楽中心」、それも渋めのものばかり(^^;)

1970頃から:(小4?)縦笛大好き♪

   実は、このあたりのことって「変声期」と関係あるのかもしれない。
   私は女性アイドルの歌を歌うのが好きだったけど、
   ふと気が付いたら声変わりしていて、
   女の子の歌をぜんぜん歌えなくなってしまっていたのだった!!
   だから、私の代わりに高い音の出るソプラノ・リコーダー(←小学校で教わるふつうのやつ)に
   歌わせるのだった。

1972:(小6)鼓隊(笛は入ってない;太鼓だけ)に入る。小太鼓担当。
   リズム感養成ぢゃぁ〜!!
   (あと、女の子が中心になってるのも気に入った。
   「私も一緒」って思えたから)

1973:中学入学と同時に吹奏楽部に入部。アルトサックス担当。
   全体練習していて、自分が身も心も「音に囲まれる」のが、物凄く気持ちよかった。
   なんか、音に囲まれてる時だけは「幸せ」だと思えるのだった。

   この頃「文学」にも目覚める。
   かわいい男の子が好きだ、ということを誰にも言えず、
   でも何とかして表現したくて、詩とか戯曲とか小説とかに気持ちをこめるようになった。
   (会津里花・文芸編参照)

1976:高校部進学前に合宿に出られず、親を恨みながら吹奏楽部退部。
   でも、なぜかバリトンサックスで「助っ人」やってた。
   せめてもの「抵抗」だった……(でも「中途半端」だった)

1977:バンド結成。ベース担当。このとき、初めて本物のベースを入手、ハマる。
   (それまではギターの下4弦をオクターブ下げてチューニング、という
   今思うとかなり無謀なことをしてビートルズポール・モーリア(^^;をコピーしてた)

1979:大学入学と同時に「合唱団いぶき」という「うたごえ」系の合唱団に入団。
   「合唱とバンド」という形態、「青空うたう会」というパフォーマンスに
   とても新鮮なものを感じた。(まさか20年もたってから普及するとは思わなかった)

   毎年各1回、県内のどこかの地域に入って夏合宿〜演奏会開催、それと定期演奏会を開催。
   毎週「うたう会」、時々「団内コンサート」、「集団創作」と、活動内容は豊富。
   担当は、バンドのドラム(初めはベースじゃなかった;ていうか当時ベース担当の先輩、女装趣味?だったらしい;
   なお念のため、この先輩はちゃんと男としての人生を無理なく送っています)

1980:才能を買われ(?)「指揮者」「バンドリーダー(兼ベーシスト)」「市学生うたごえ協議会担当」の3役を
   ダブルどころかトリプルブッキング。「どれを選ぶんだ」とみんなに迫られ、怖かった。
   (ていうか、自分でそのくらい調整しろよ、と今は思う;結果は↑の色のとおり「バンドリーダー」に)

1982:隣りの市(来年4月に消滅予定)を中心に活動するバンド「Love Cats」に加入。
   なんと、サックス(アルト、テナー)担当。実はベースの座を虎視眈々と狙っていたが、
   そのベーシストに誘われて入ったのでそんなことはおくびにも出せなかった。
   ライブ活動、多数。
   中でも「船上ライブ」は面白かった。清水港から大島〜新島を通って式根島まで行く予定が、
   海が荒れて新島までしか行けず。ドラムの人がシンバル一式忘れてきたり、とか
   なんかわけのわからないエピソードもあったけど、楽しかった。
   テレビ出演もした(もちろん地元民放よ(^^;)

1983:合唱団いぶき「'79(年度入学生)卒団コンサート」開催。
   前年に参加した「Love Cats」に夢中で、82年中は「いぶき」は疎かにしていたのだった。
   (実はもう一つ理由があった;学部に移行して入った「経済法ゼミ」のテーマが「清水市」だったので
   バンド活動と微妙にリンクして、それも楽しかったため、すっかり夢中になっていたのだった)

1984:大学卒業後、東京へ行って「センター・レコーディング・スクール」入学。
   これはレコーディング・エンジニアになるための専門学校。
   (ただし1年制で学校法人じゃなかった。それでも就職率はバツグンで、
   卒業してからその方面に就職できなかったのは私1人だったらしい(鬱)

1985中央合唱団第118期研究生に入門。
   ここもうたごえ系(だから入った)で、うたう会、コンサートなど、活動豊富。
   もちろん政治絡みで、音楽的な力量にはやや疎いところも。

1986:研究生終了後、なぜか合唱団員にはならず、東京都小平市中心に活動する
   「ハミング・チューチュー」といううたごえサークルに参加。
   理由は、「ここなら『うたごえ+バンド』ができる」と思ったから。
   うたう会、コンサートなど活動多数。
   政治絡みでも質の良い音楽が作れる、という感覚も、ほんの少しだけど得ることができた。

1987:「ハミング・チューチュー」内部のアンサンブルユニット「回転木馬」に参加。
   どちらかといえばフォーク系。
   目指すものが高い割に音楽的力量が低いのが辛かった……
   上手な人もいたけれど、下手な人を「排除」することができなかった。
   「排除」していいのか悪いか、今でもわからないけれど、
   「下手でも一生懸命やってればいいじゃん」というのが嫌だった。
   それは自分たちが言う言葉じゃなく、人に言われて初めて許せる言葉なのだ。

1988:確かこの頃に「ハミング・チューチュー」脱退。ていうか行けなくなっちゃった。
   (女絡み)←今思うと、はっきり言って「バカ」としか思えない。
   (お付き合いした人たちには申し訳ないです……だってその人たちのせいじゃないもん)
   で、恨みがましく「人間性悪説」とか書いてた。

1989:完全な抑鬱状態で帰郷。
   実言うと、半年くらいぼけーっとしていたかったんだけれど、
   (それこそ「どっかの劇団に入って女役をやってみたい」とか思っていた)
   「結婚のために退職」したんだから「専業主婦」になれると思ったらそんなことはなくて、
   あくまで(相手の家に入るのであっても)「主な収入源は夫が稼ぐ」というのが常識(?)だったらしく、
   元パの強い圧力で「まともな会社に就職」しちゃったので、音楽活動する余裕なし。
   (たぶん、このあたりから人格のゆがみが修復できないほどに大きくなっていったんだと思う)
   何一つ考える余裕なし。
   (↑ていうか、書いてる私は意味わかって書いてるつもりだけど、
   読んでる人、意味わかります?)

1990:それでもしつこく音楽活動再開。
   確か、宇崎竜童が作った清水みなとまつりのテーマソング「カッポレファンク」を
   「地元バンドで」ということで、寄せ集められたのでした
   (by Love Catsのベースだった親友……故人(;_;))
   そこから少しずつ、地元のミュージシャンの輪の中に入っていった。

1991ビートルズバンドをやる、ということで2つのユニットに参加。
   そのうちの片方が「Get Backs」とか「Lucy」とかいう名前で活動を継続するようになる。
   私にとって「レベルの高いバンドへの参加」ができて、嬉しかったので、しがみついた。

1992:妻(=元パ)、妊娠、出産。
   だけど私は「自分が父親であるためには、しっかり音楽活動やっていなければだめだ」と
   強く感じていた。
   そんな中で、超どアホウの私は、なんととある女の子にモーションかけられて、
   「浮気」してしまった。
   元パ、大ショック!! きっと「音楽活動=モテる→浮気」という図式が
   彼女の中に定着したのだろう。

   でも、言い訳させて。
   私だって「大ショック!!」だったんだから。
   「男をやってるとこういう目に遭うのか!?」って。
   ていうか、実は私「カッコイイ男」でモテてたらしいんだけど、
   私は自己評価が極端に低いので、そんなことまるっきり信じてなんかいなかったのだった。
   今思い返すと「ああ、あれって『モテてた』のか」と思い当たることがいろいろある。
   気が付けば予防もできたんでしょうけどね……
   ほんと、ばかだねー、私。

1993:そんな中、会社から「タイに駐在しろ」と命じられ、ライブの予定が気になっていた私は
   「考えさせてください」と返事して、クビになる。アホもいいとこ。

1994:今思うとねじくれまくった理屈だけど
   「音楽活動しないで仕事に専念するため」に、
   音楽活動と時間帯が重なる「塾講師」として某地元大手予備校に就職。
   でも、「楽器をチョークに持ち替えた」と考えると、
   生徒たちの前でパフォーマンスすることにもなるし、
   「ある面では」音楽活動と似たところもあって、それなりに充実し始めた。
   それに、会社も質の良いところだったし、生徒との関わりから教えられることも多かった。

   以後、1998年くらいまで、目立った音楽活動は一切できなくなった。
   (1日16時間働いたら音楽やってるヒマなんて、あるわけないでしょう!?
   大した業績もあげられず、うだつの上がらない立場だったけれど、
   それでも一生懸命「生徒のため、会社のため、そして自分のため、家族のため」と思ってがんばった。
   実は方向が間違っていたところもあるけれど、
   無駄があっても精一杯努力した当時の自分を、私は誉めてやりたいです)

   予備校就職、っていうか第一子出産+第二子流産、というあたりから
   (っていうことは96年前後? それとも92年頃? それすらまともに覚えてない)
   「これ以上男を続けるのは無理みたい」と思い始める。
   でも、97年暮頃からインターネットにつながるまで、
   自分が考えていること(=性転換)が実現可能なことだとは、夢にも思っていなかった。

1997:予備校で「小中学部」から「大学受験部(高校部)」へ異動。
   それまで以上に難しい内容の仕事になり、もうマジ、本当に仕事以外のことは考えられなくなった。
   音楽どころか家族に対してもまともなケアをしてやれなくなった。

   (それに、恐るべき「共依存関係(?)」にずぶずぶとハマってしまい、
   浮気でもないのにまるで浮気しているかの如く元パに非難されるし、
   どーすりゃいいのよ、私!? って感じぃー)

1999:「音楽礼拝」をする教会を紹介され、そこに行ってベースを弾くようになる。
   「これで生きていける」と思った。
   (でも、96年頃から抱えていた「共依存関係」のせいで、私の心は病んだままだったし、
   教会の音楽活動だけではたぶん解決しきれなかったのだろう)
   更に、私が牧師に「トランスセクシャル」をカムアウトしたら、
   牧師は私に「じゃああなたはベースを弾いてはいけない」と禁じられてしまった。
   「悪夢の年越し」を体験。

2000:トランス(性転換への道)で忙しく、音楽活動どころじゃなかった。
   離婚もしてしまったし。
   あ、でも離婚前後のエピソード:
   1人きりでだだっ広いマンションの生活をする私は、寂しさを紛らわすために
   「まだ」マンションの方に「おきっぱなし」になっていた元パのピアノを弾きまくり、
   ご近所から苦情を持ち込まれたのだった。
   これもおばかな話だけど、あの頃僅かでも生のピアノに心置きなく触れたのは、
   小中学校の頃に父が買ってくれたエレピ(←といってもちゃちなものだったけど)、
   中高校の「カトリック研究会室」に置いてあったピアノ
   大学に入ってから「ピアノボックス」にあったピアノ
   それ以来だったのだ。
   実は私の周りにピアノは必需品だった!?
   
2001:どうにかSRSまでこぎつける。これで私は自分が生きていくことを許せるようになった。
   でも、精神の抑鬱状態は極限まで達していたし、
   それを少しずつほぐしていくだけで、少なくとも年の前半はすっかり費やしてしまったと思う。
   後半から、少しずつ「ゲイジュツ全般」を再開。
   (小説……といっても整理するくらいが関の山だったけど;
   演劇……ちょこちょこ物色し始める;
   でも、音楽活動は始められなかった。
   だって、それで「男に戻る!?」かもしれない気がしていたから)

2002:「伽藍博物堂」にて、演劇活動スタート!!
   その中で、「リッキー」こと松永力くんが、音楽活動も並行してやっていて、
   私をベースで誘ってくれた。
   で、半ばなし崩し的に音楽活動再開♪
   これでいいのだ。

これからの私は「芸術系表現者」として、やりたいことは全てやっていこうと思う。

小説(詩はもうちょっと無理かなあ……でも、気が向いたらいつでも)、

演劇(相変わらず練習サボってばっかりだけど……ていうか体力が落ちすぎでなかなか全面的には関われない)、

音楽(これからが楽しみ♪)、

もしかしたら踊りも?(「お店」でやってるけど、はっきり言って「今さら」って感じ。
若いうちからの蓄積がないので、他のジャンルのようにしっかりとはできない。
それに、やっぱり体力落ちすぎ(鬱)

そうそう、「お店のショウタイム」もやっぱり、「芸術」だと思う!
っていうか「ゲイジュツ」かな。

ただし、私はそういう「芸術系」の何かを「まとめる」存在にはなれないと思います。
だって、私をよく見ている人はわかると思うけれど、
私って何やっても「やりっぱなし」じゃない。
だんだん直すようにしたいけれど、

今は表現することに夢中なの。

これからも、っていうか来年はもう「2003年」だよ!!、よろしくお願いいたします!!!

って、あらあら、とりとめもなく書いてたら、年末総決算+来年への抱負、みたいになっちゃった(^^;

ま、いいか。
(ここまで書いたら、さすがに鬱々状態も少しは解消してきたしね(^_-)~☆)

長文にお付き合いくださった方々に、心からお礼申し上げます。m(^_^)m

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