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―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
回帰

2008年12月17日(水)
常に持論と自論に阻まれ。


いつだってそうなんですが、書いている文章も口にしている言葉も全ては身勝手の産物で、そもそも他人様に理解をして貰おうなんて時点で烏滸がましいのだと思う。
例えば、すき、というワードがあって、それだけを口にした時、何がすきなのか思い描いた自分には当然判っているけれど、突然言われた或いは聞いてしまった相手は己がすきだと言われたのかなんかその辺にある物体にすきだと言ったのかはたまた耳が腐っていたのか判らない訳だ。本当は漂ってきたタンドリーチキンをすきだと言ったかもしれないのに。
当たり前ですが、そういう事。
創作も、そしてこうした感情やらいまいち覚束ない心象を綴るならば日記も、自慰行為に等しいのだと感じる。エヴァなんか度々、ストリップショーが始まって勝手に一人で果てられましたとかなんかそんな風に言われますね。中々奥深い例えです。
違う違う話がずれた。その言葉の隙というか巧みを操り弄ぶのがまたきっとあらゆる創作の醍醐味なのだろうけれど、どストレートなものもまたこれらの偶像の中にばかりだ。にしかない、とは敢て言わないが。

結局何が言いたいかというと、近頃自分は客観視に欠ける事ばかり綴っている気がするという自戒なのでした。ふーんへーえそれ全く生かされていないと思っていい?
それはそうです。須く己だけが理解出来るもの、或いは時が経てば劣化し遍く理解不能となるもまたよし、基本的にはそういうスタンス。
頭カラッポにしての萌え語りであるとか手探りの考察であるとかは適当なノリで煽って欲しかったり若しくは助力を仰ぎたかったりという意味でも、独走しつつたまには振り返る事が必要ですが、そうでないもの、回顧録であったり途切れた断片であったり夢に悖るもののイメージであったり、そうしたものは誰かに説明する為には存在していない。強いて言うなれば、我が為だけに。
その内また長々と乗せたいんですが、某所で拝見した日記というものの価値を、一理か二理くらいは汲み取れた気がしたので、その勘違いを意訳すると、やっぱり日記とは己の深層を探る為だけの、カウンセリングにも似たオーガズムの為のものかな、と。


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