
戯 言ノ源
―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
回帰
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| 2008年07月22日(火) ■ |
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| 晴れ舞台での夢を魅せてやる。 |
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ある程度誰かや何かとの対話を望んでいる気もするけれど、不意にそのチャンスが巡ってきても手に出来ない及び腰だとも知っている。 全く思いもしなかった時に、妙に話を聞いて貰って、それに対して、あくまでも自分はお客様という立場ではありながらも、それなりに真摯に答えてくれているのかなと。それとも或いは、適当に聞き心地のいい言葉を並べてはぐらかされているのやも知れないけれど、所詮小娘の戯言ですから。 それでも自分は少なくとも、大して互い知りもしないのに、懸命に答えようとしている姿が、同士のようにも取れて、つまりある程度近しい考え方をしているようにとれて、でもその、酷似といわずとも近似の言葉は、なんだか、心を打つというよりも、同族嫌悪を呼び込んで。 そういうところが故に天邪鬼と呼ばざるを得ないのか、筋道の立て方が似通うなら、繰り出される言葉が思考に近いものがあるなら、寄り添い易い気もするのに、他人の口から出る声なのにまるで自分が喋っているような、遠回しでいい加減で、否定をしない代わり肯定もしないという、結局何処にも主体をおかないような、全てを最終的に誰かの手に任せているような、責任を負いたくないと逃れているような、言葉を、聞いていると、つまり自分はなんていい加減に映るのだろうと打ちのめされるのだ。 悪いと思った事は無い。何かに染まってしまうのは空恐ろしい事だ。それでもどうしても何かに対しての嫌悪とかは生まれてしまって、それくらいは生理現象なんて言い訳を駆使して、立場をはっきりさせまいと、自分が何者であるのか隠そうと、いや隠しはしない。ただ主張も肯定もしないから、とても、己にさえ見えづらいだけ。 似た考えを言った誰かがそうだとは思わない。ただ似た考えの誰かの言葉を聞いて自分を投影した際、己がそう見えたと、それだけ。
それは何かにつけ妙に人様をおそれてしまう答えそのものでもあると思う。こわいのは、知らないからで、知らないが故に、己で決め付けて、きっときらわれているだろう、何故なら好かれる理由がないからだと詭弁を用いてまで、そう断定して。 例えばいじめっ子なんかを諭す際に屡出る、「君がいやな事は相手もいやだ」というのは、必ずしもそうだと淘汰してしまうのは気に食わなくて、尤も自分が何かをする際の基準として己がいやな事はしないというのもあるから何言ってんだこいつ状態ですが、でも「君がきらわないなら相手もそうさ」なんて信じられなくて、ただ、失礼な決め付けだとは思う。 自分は勝手にこわがっている。きらわれる乃至きらわれていると思うから。だけどそうやって簡単に、誰かが誰かに対して懐く好悪を、何故自分が答えられるのか? 何もしていない状態の人間をきらう程狭量な器なのだと、大して知りもしない誰かの事を、どうして自分が決め付けられよう。 それでもこわいものは、こわい。条件反射に近いもので、その辺が自分の猫被りに通じるし、大凡の人が初対面で行儀のいい理由だとも思う。好印象を与えたいと思うからで、それは素のままではきらわれるという反語だと。
だから、似ているというのも甚だ失礼な思い込みだけれど、似ていても同じじゃないんだ。相手は似ているなんてこれっぽちも思わなかった可能性、似ていると思っても同族嫌悪を懐かなかった可能性、そういうのもあるとは思う。ただ、自分によい答えはどうしても受け入れ難いけれど。 つまりなんだ、精神的Mって事なのか? さもなくば己を落とし入れ倒錯的な悲劇のヒロインを味わいたいという自己愛表現なのか? それだったらあまりにも馬鹿馬鹿しくて反吐が出るが、案外真実ってそんなもん。 結局、深く語らう事は、自分にとってタブーだったのか。何処までも、そうして逃げ回り、好意見を遠ざけ、ネガティブに相手の尊厳を目減りさせるしか出来ないのなら。高嶺の花とでもしておいた方が賢明だろうか。 それでも語りたいと思う心も、本当なのに。言葉を交わして、世界を知りたい、己を知って貰いたいと、思う心もきっと、本当なのに。
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