
戯 言ノ源
―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
回帰
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| 2008年06月27日(金) ■ |
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| ほら、あの子が鳴いている。 |
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不愉快になるのは容易くて、不愉快にさせるのも容易くて、自分の身に起きた事なら避けてゆけるのに、誰かにそうした場合気が付けないってのは、なんか不条理だって、我儘。
他人には当たり前を望むのに、自分に当たり前が課せられると息苦しくてたまらない。 いや、矛盾と傲慢は判った上で、先ずは己への当たり前は、これはもうどうしようもなく受け入れ難くて、かと言って他人への当たり前は、これまた崩す事のなんと難しい事か。 きっとだとかどうせだとかだろうだとかですらなく、やってくれる、そういうものだと? 役割なんて、望んでも望まれても何れ足枷にしかならない。例えば始めは好意や気遣いでやっていた事も、次第に当たり前になって、やらない普通に戻ったらマイナスポイントを与えるなんて、だったら何もやりたくなんてない。不良が優しいと好感度上がるってあれです。普通や優等生なら加算されないポイント。 なのに、やってくれる姿に、始めは感謝を懐き、徐々に、だから自分でやらなくとも、流れていく、甘え。 それに反発を懐くのは当然と、思うのは自分がそうだからで、それでも反乱というのは不満がたまった結果だから、口調の険悪さについつい対戦してしまえば、いつしか非があると判っていながら認められないのは、人によっては頑固だからとか大人になったからとか自分にしてみれば天邪鬼だからとか? 逃げ道にするなら返上してやるそんなもん。 だけど無意識に当たり前と認識してしまったら、リズムを壊して自分の当たり前に入られたら荒が目立ち、他人の当たり前に入るのはやたらと疲れを感じる。 作らないでいたいと願ったって、だから無意識なのだからして、嗚呼もうなんなんだ当たり前。生きるってのが傲慢って、事だろ。
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